是川縄文館で、かわいい国宝「合掌土偶」を見よう
根城を築いた八戸南部氏の歴史
江戸時代に八戸藩の城となった「八戸城」
超難読漢字「龗神社」は何と読む?
長者山新羅神社の祭神である「新羅三郎」とは?
国宝の鎧兜2点は必見:櫛引八幡宮
戦国時代の姿を留める典型的な山城:「三戸城」
<おすすめのレストラン>
禄文銭
<おすすめのホテル>
ドーミーイン本八戸
是川縄文館で、かわいい国宝「合掌土偶」を見よう

是川縄文館

是川縄文館(地図 ❻)
〒031-0023 青森県八戸市是川横山1
入館料250円(大学生以下割引あり)
9:00~17:00(最終入場16:30)、月曜休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.korekawa-jomon.jp/
マナブ:八戸市の南の郊外にある「是川(これかわ)縄文館」に来ています。
歴史先生:是川中居遺跡に隣接する資料館です。ここは見ごたえありますよ。
マナブ:さっそく入って見ましょう。

展示室「縄文の美」
マナブ:暗くてモダンな展示室ですね。
歴史先生:是川中居遺跡、風張1遺跡からの出土品を中心に、ここには約600点の国指定重要文化財があるんです。
マナブ:600点とはすごい。

木胎(もくたい)漆器 (国指定重要文 化財)

藍胎(らんたい)漆器 (国指定重要文化財)
歴史先生:ここでの1つのみどころは漆器、です。
マナブ:縄文と言えば独特の文様がある土器、というイメージですが、漆器もあったんですか?
歴史先生:そうなんです。漆の採集、精製、塗装、乾燥と漆器の製作には複雑な過程が必要ですが、縄文時代からすでにそんな技術が日本にはあったんです。漆器は土器や石器に比べて保存が難しいですが、是川中居遺跡は湿地にあったため、きれいな形で漆器が出土しています。
マナブ:これはすごい。土器のような複雑な文様がついていますね。

漆塗り櫛(国指定重要文化財)
歴史先生:漆器だけではなくて、漆塗りの製品もたくさん出土しています。その中でも美術的価値が高いと言われているのが漆塗りの櫛、です。
マナブ:縄文時代にこんなものがあったなんて、驚きです。


土偶(国指定重要文化財)
マナブ:あれ、これは有名な遮光器土偶?
歴史先生:同じようなデザインですよね。あの有名な遮光器土偶はつがる市の亀ヶ岡遺跡で発見されたもの。でも是川中居遺跡でも同じような土偶がたくさん出ているんです。
マナブ:遮光器土偶は唯一無二のデザインなのかと思ってました。あれは国宝ですよね?
歴史先生:いえ、超有名でありながら、あれは国指定重要文化財なんです。国宝土偶は5つ。長野県の尖石にある「縄文のビーナス」と「仮面の女神」。函館にある「中空土偶」、山形にある「縄文の女神」。そしてもう1つはここにあります。のちほど見ましょう。
マナブ:楽しみです。

土偶(国指定重要文化財)
マナブ:これ、かわいい。これも国指定重要文化財?
歴史先生:他の土偶と比べると技術的にどうなの、と思いますが、そのようです。
マナブ:失礼ながら、小学生が作ったものみたい。

頬杖(ほおづえ)土偶 (国指定重要文化財)
歴史先生:さて、ここに有名な土偶があります。
マナブ:頬杖(ほおづえ)土偶、ですか。なるほど。
歴史先生:このようなポーズを取っている土偶は大変珍しく、また高い製作技術が必要とされます。では、その最高傑作とも言える国宝の土偶を見に行きましょう。次の部屋、国宝展示室にただ1点のみ、展示してあります。


合掌土偶(国宝)
マナブ:あ、これですね。合掌土偶。写真で見たことがあります。
歴史先生:ユニークなポーズですね。一般的に土偶は遺跡の捨て場で壊れた状態で捨てられるのですが、この合掌土偶は左ももなどの壊れた部分をアスファルトで修理されているなど、縄文人からとても大切にされていたようなんです。そういったこともあって、当時の風俗を伝える価値の高い文化財として国宝指定がされました。

背面の模様

右横から見る
マナブ:横や背中側の写真って、あまり見たことがないですね。いやー、いいものをたっぷりと見せていただきました。
歴史先生:見るだけでなくて、触ってみたいと思いません?
マナブ:もちろんそうですが・・・。

ロビーにある合掌土偶のレプリカ
歴史先生:はい、どうぞ。
マナブ:あー、これはうれしい!
歴史先生:触感や重さなども忠実に再現しているようです。
マナブ:触って持ち上げて裏を見て・・・。これは満足度が高い(笑)。
根城を築いた八戸南部氏の歴史

根城 東門

マナブ:八戸市の「根城(ねじょう)」に来ています。ここは日本100名城の1つだそうです。
歴史先生:八戸には2つのお城があります、古い方が根城、新しい方が八戸城、です。まずは根城を 見てみましょう。
根城(地図 ❼)
〒039-1166 青森県八戸市根城根城47
本丸入場料 250円、大学生以下割引あり
9:00~17:00、月曜休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://visithachinohe.com/spot/shiseki-nejo-no-hiroba/

南部師行像
マナブ:八戸市博物館の前に駐車場があり、南部師行公という銅像があります。この方はどういう方ですか?
歴史先生:まずは南部氏と八戸の関係についてお話ししましょう。
マナブ:お願いします。
歴史先生:南部師行(なんぶもろゆき)は甲斐国の南部に領地を持っていましたが、1333年に新田義貞が鎌倉に攻 め込んだ戦いで武功を上げました。
マナブ:それによって鎌倉幕府が滅びたわけですね。
歴史先生:はい。その年の10月、後醍醐天皇が最も頼りにしていた側近の一人である北畠顕家に従って南部一族は多賀城(宮城県)に下向し、そこで糠部郡(ぬかのぶぐん)の郡代として赴任しました。糠部郡というのは岩手県北部から青森県東部にかけての地域で、馬の産地でした。
マナブ:ちょうど一戸から九戸までの地名が残っているあたりですね。
歴史先生:はい、そうです。南部家は甲斐国で馬の牧場を経営していましたから、そのノウハウを持っていたことが買われたのだろうと考えられます。

東門を入ると広大な土地が広がる
歴史先生:その際に八戸を拠点としたのが南部師行で、建武の新政が始まった建武元年、1334年に根城を築城します。この一族は根城南部氏と呼ばれます。そのほか、三戸を拠点とした三戸南部氏、九戸を拠点とした九戸氏などができました。
マナブ:ふむふむ。
歴史先生:しかしご存じのように建武の新政は長くは続かず、後醍醐天皇と足利尊氏の間で大きな戦乱が起きます。南部師行は南朝方として戦い、一時は足利尊氏を九州に追い落としましたが、その後の1338年、和泉国石津の戦いで戦死。
マナブ:南部師行はまさに南北朝の戦乱の世を生きた武将だったんですね。

本丸の模型
歴史先生:さて、根城は北側に馬淵川が流れ、城の東西に沢がありました。城内はいくつかの空堀で分割され、8つの郭(くるわ)で構成される連郭式の平城です。
マナブ:南部師行が戦死した後も根城は根城南部氏(八戸氏)の拠点だったんですか?
歴史先生:はい。室町時代を通して代々ここを拠点にしていました。根城南部氏は長らく南部一族のリーダー格として君臨していましたが、室町時代の末期になると三戸南部氏の南部晴政が時の室町幕府の将軍、足利義晴から「晴」の一字をもらい、さらに領地を次々と拡大。南部晴政は南部氏の中で根城南部氏を凌ぐ力を付けてきました。
マナブ:八戸から三戸へと、パワーバランスが変わってきた。
歴史先生:しかし南部晴政の死後、その後継者問題で三戸南部氏と九戸氏が対立します。根城南部氏は内部で問題を抱え、動けない状態。そんな中、三戸南部氏は根城南部氏の同意を得た上で秀吉に使者を送り、自分たちが南部氏のリーダーであることを認めてもらいます。その結果、根城南部氏や九戸氏は三戸南部氏の家臣という扱いになりました。
マナブ:根城南部氏はそれでよかったのかなぁ。九戸氏はそれでは嫌だったんですよね。
歴史先生:はい。しかも秀吉が全国統一の仕上げとして奥州の仕置きを始めます。厳しい検地・刀狩りを行い、反対派を虐殺しました。そして1591年、九戸政実が、東北地方の一揆勢を集めて反乱を起こします。
マナブ:二戸(岩手県)に行ったときに「九戸政実の乱」の歴史を学びました。読者の方は「二戸」の記事も合わせてごらんくださいね。で、 九戸政実が破れて、三戸の南部信直が南部家全体の当主になった。
歴史先生:その時、秀吉軍の大将だった蒲生氏郷が九戸城を改築して福岡城と改名し、南部信直を三戸城から福岡城へ移しました。他の城は破却され、1592年に根城も破却されてしまいました。
マナブ:お城を失った根城南部氏はどうなったんですか?
歴史先生:根城は破却されましたが、しばらくはそこで住み続けたそうです。そうこうしているうち、南部信直は平野の広い盛岡へ移る許可を申請しましたが、朝鮮出兵で肥前名護屋城へ行くことになり、生前に盛岡に移ることはできませんでした。その後盛岡城が築城され、南部信直の子の南部利直が盛岡へ移り、盛岡藩の初代藩主と なります。一方、八戸に残っていた根城南部氏ですが、1627年、南部利直から岩手県の遠野に領地替えを命じられ、南北朝時代から治めてきた八戸を去ることになりました。
マナブ:うーん、八戸は港もあって平野も広く、先祖代々が治めてきた土地。遠野もいいところですが、山間の狭い盆地ですよね。根城南部氏として絶対に手放したくないはずでは?
歴史先生:そうだと思います。しかし南部利直は八戸がどうしても欲しかったのかもしれません。八戸を盛岡藩の直轄地とし、自ら縄張りをして城を建てました。
マナブ:なるほど。

歩き続けるとだんだん本丸が見えてくる
歴史先生:ところで利直の後は子の重直が継ぎますが、1664年に跡継ぎを決めずに急死してしまいます。
マナブ:そうなると跡継ぎ争いが起きそう。
歴史先生:重直の弟2人の争いとなりましたが、しかしすでに江戸時代。武力による戦いではなく、将軍家の意向で物事が決まります。結局、盛岡藩10万石から八戸藩2万石を分割し、南部重信に盛岡藩8万石、南部直房に八戸藩2万石を与えるという裁定が下りました。
マナブ:その時に八戸藩というのができたんですね。
歴史先生:その後、八戸藩の南部氏は明治維新まで200年以上続きました。
マナブ:ということは、最初のころの八戸を治めた南部氏と、江戸時代の南部氏は別物、なんですね。ちょっとややこしい。
歴史先生:同じ先祖を持っていますが、かなり遠い親戚と言えるでしょう。

復元された根城本丸を歩こう

主殿
歴史先生:では、本丸へ入りましょう。ここからは有料エリアになります。
マナブ:建物が復元されていますね。
歴史先生:ここで復元された建物は、秀吉によって破却される直前のもの。安土桃山時代の建築を再現しています。
マナブ:天守閣でもないし、お城というイメージと少し違います。
歴史先生:他のお城でいうところの本丸御殿とか、そういったものに近いでしょう。しかも江戸時代の御殿ではないので、もう少し古い時代のものです。
マナブ:安土桃山時代というと、信長や秀吉の絢爛豪華な装飾のついた御殿が思い出されますが。
歴史 先生:普通の地方の武家ですから、ああいった豪奢なものであるはずがありません。ここにあるような質素で実用的な御殿が一般的だったでしょう。

主殿の広間
マナブ:主殿の中に入って見学しています。広間、と書かれた部屋には人形がありますね。
歴史先生:これは南部信直や九戸政実と同じ時代を生きた根城南部氏のトップ、八戸政栄とその家来たちによる、正月の儀式の様子を表しています。
マナブ:主殿の中には根城や南部氏に関する多くの説明パネルが展示されてあって、とても勉強になります。


鍛冶工房
歴史先生:主殿以外にもたくさんの建物が復元されました。ここ、鍛冶工房は刀や鎧の金属部品を作るところ。


板蔵
歴史先生:ここ、板蔵は普段使わない道具類を大切にしまっておく場所です。
マナブ:立派な入れ物がたくさんありますね。
江戸時代に八戸藩の城となった「八戸城」

三八城(みやぎ)公園

実線:車ルート
点線:徒歩ルート
歴史先生:ではもう1つの城、八戸城へ行ってみましょう。
マナブ:公園の名前は三八城?
歴史先生:これは三戸郡の八戸の城、という意味でつけられました。
マナブ:場所は本八戸駅のすぐ目の前。まさに町の中心部になります。
八戸城(地図 ❽)
〒031-0075 青森県八戸市内丸1丁目1−1
入場自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://aomori-tourism.com/spot/detail_8019.html
歴史先生:先ほどお話ししたように、ここは南部利直が自ら縄張りをして築城したお城。そして八戸藩ができたときには南部直房が初代藩主として、このお城に入ってきました。

南部直房の像
歴史先生:街づくりがなされた当時、南西から北東方向に二本の大通りが走っていて城下町の骨格となっていました。現在でもその2本の通りが中心街であり、かつての城下町の形がそのまま残っている都市と言えます。

本丸跡
マナブ:それほど守りが堅そうな城には見えませんが。
歴史先生:江戸時代になってからの城ですので、戦争よりも城下町を治める機関としての役割の方が大きかったのでしょう。

角御殿表門
歴史先生:八戸市役所の前 には八戸城の角御殿(すみごてん)の表門が残っていて、その重厚な佇まいを見せています。江戸時代の1797年に建てられました。
超難読漢字「龗神社」は何と読む?

龗神社

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点線:徒歩ルート
龗(おがみ)神社(地図 ❾)
〒031-0075 青森県八戸市内丸2丁目1−51
境内自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
マナブ:八戸城のお隣にある「龗(おがみ)神社」に来ました。これは教えられないと絶対に読めませんね。
歴史先生:龗という字は見たことがないですよね? これは水神、龍神など、水をつかさどる神様のことを指す漢字です。
マナブ:ということは、ここは水に関係する神社?
歴史先生:はっきりした史料がなく、その起源には諸説あるそうですが、平安時代後期に法領という修験者が雨乞いのために池に身を投げ、それによって雨が降ったため、その徳をたたえて村人が祀ったのが始まりと言われています。稲作に必要な水を確保するための治水、すなわちため池を作ったり堤を築いたりする時に祀られた神様と考えられます。
マナブ:八戸城が作られるよりも先にここにあったんですよね?
歴史先生:はい。そのため八戸城を守っ てくれる神として南部家から手厚く信仰され、八戸総鎮守となりました。

社殿
歴史先生:ところで、ここは義経伝説も残る神社です。
マナブ:源義経はここにも来たんですか?
歴史先生:平泉で死んだとされていますが、一説にはさらに北へ逃げることができたとか。頼朝の軍に追われた義経一行ですが、ここで正室である京久我大臣姫が自害し、その手鏡とされるものが奉納されています。青森県にはあちこちに義経伝説が残っています。
マナブ:義経はさら に北海道を経由してモンゴルへ逃げて、チンギス・ハーンになったとか?
歴史先生:年代がほぼ一致するだけの話で、全く根拠がありません。DNAなど現代科学の分析でこの説は否定されています。悲劇の武将が実はどこかで生きていてほしいというロマンによって、江戸時代の人々が広めた噂でしょう。
長者山新羅神社の祭神である「新羅三郎」とは?

長者山新羅神社

実線:車ルート
点線:徒歩ルート
長者山新羅神社(地図 ❿)
〒031-0021 青森県八戸市長者1丁目6−10
境内自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
マナブ:市内中心部の南側にある丘の上、長者山(ちょうじゃさん)新羅(しんら)神社に来ています。車で坂道を登ると駐車場がありました。
歴史先生:ここは八戸藩の第2代藩主、南部直政が1678年に建てた神社です。祭神はスサノオノミコトと、新羅三郎源義光。
マナブ:新羅三郎、というのは何となく聞き覚えがあるのですが、誰でしたっけ?
歴史先生:八幡太郎こと源義家の弟にあたります。源義家が後三年の役で苦戦している時、官職を捨てて救援に駆けつけ勝利に導きました。新羅三郎源義光はその後甲斐国に住み、後の武田信玄や佐竹氏の祖先となりました。実は南部家もその子孫で、新羅三郎を祖先として祀っているのです。
マナブ:八幡太郎は八幡さまを信仰していましたね。新羅三郎が信仰しているのは新羅(しらぎ)?
歴史先生:滋賀県の三井寺の守護神として祀られている新羅明神という、謎の多い渡来系の神様があるのですが、その神様を信仰していたそうです。

社殿
歴史先生:ここにもまた義経伝説があります。
マナブ:どんな話でしょう?
歴史先生:平泉で義経の家来だった板橋長治という人がいたのですが、その人が義経が北へ逃げたときの隠れ家として木 を植えたりして作ったのがここの丘で、以前は長治山、と呼ばれていました。それがいつしか長者山に変化したようです。
国宝の鎧兜2点は必見:櫛引八幡宮

櫛引八幡宮
櫛引八幡宮(地図 ⓫)
〒039-1105 青森県八戸市八幡八幡丁3
国宝館は入館料400円(高校生以下割引あり)
9:00~17:00、国宝館は水曜・木曜休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
http://www.kushihikihachimangu.com/
マナブ:八戸市の中心部から西へ車で10分ほど。櫛引八幡宮に来ています。鳥居を入ると中に駐車場があります。
歴史先生:ここは以前は四戸八幡宮と呼ばれていて、このあたりが四戸と呼ばれた地域です。
マナブ:一戸から九戸の中で唯一消えた地名、でしたね。
歴史先生:はい。このあたりは四戸氏、あるいは櫛引氏と呼ばれていた一族が治めていましたが、九戸政実の乱の際に九戸方につき、滅亡を余儀なくされました。

正門(国指定重要文化財)
マナブ:とても立派ですが、ここはどういう神社なんでしょう?
歴史先生:南部家初代の南部光行(みつゆき)の創建と伝わります。
マナブ:初代は南部光行という人ですか。
歴史先生:石橋山の戦いで源頼朝について戦い、その恩賞として後に甲斐の国の南部牧という領地が与えられました。それまで加賀美氏と名乗っていましたが、それを機に南部氏と名乗るようになります。
マナブ:だから初代。
歴史先生:はい。その後、頼朝が奥州へ進軍し、平泉の藤原氏を滅ぼした際の武功から、陸奥の国の糠部郡(ぬかのぶぐん)を与えられました。
マナブ:えーと、待ってください、確かその話ですが、根城で聞いたときは建武の新政の時に南部師行が郡代になった、ということでしたよね?
歴史先生:よく覚えていましたね。そうなんです、はっきりした史実としては、建武の新政の時に南部師行が八戸に入り、根城を築いたのが始まりです。ということで、南部氏が頼朝からこの地方を与えられたというのはあくまでも伝承で、はっきりした史実としては認められていないんです。
マナブ:大事な話だと思いますが、なぜそこがブレているんでしょう?
歴史先生:私が考えるには、後の津軽氏との争いが関わっているように思います。
マナブ:というと?
歴史先生:戦国時代に南部氏の一族であった大浦氏が津軽で反乱を起こし、勝手に独立してしまいます。そして津軽の国は自分たちの領土だということを、秀吉に認めさせてしまうんですね。そして秀吉は大浦氏に津軽氏と名乗らせました。
マナブ:南部氏からするととても受け入れられない話。
歴史先生:津軽も糠部郡(ぬかのぶぐん)の一部ですから、「この領土ははるか昔、頼朝公からいただいた由緒あるものなんだ」、という話を南部氏が作ったのではないかと思います。

拝殿
マナブ:で、この神社はいったいいつできたんでしょう?
歴史先生:伝承では、1191年に南部光行が陸奥へ来た時に、甲斐の国の八幡宮を遷座させたということのようです。そしてこの地には800年代初頭に坂上田村麻呂が建てた八幡宮があって、そこと合祀したのだとか。
マナブ:はっきりしている史実としては?
歴史先生:その後、南北朝時代に南部師行が八戸に入り、この櫛引八幡宮を「中興した」ということが伝わっています。本当は彼が創建したのですが、後の記録で辻褄を合わせるために南部光行の話を付け加えたのかもしれません。

旧拝殿(国指定重要文化財)

春日社(国指定重要文化財)
歴史先生:境内には5棟の国指定重要文化財の建物があります。一番の見どころの本殿は残念ながら今日は修復中で見ることはできませんが。
マナブ:残念。でも他の4つは見れるんですね。
歴史先生:はい。「本殿、正門、旧拝殿」は江戸時代前期、「神明宮、春日社」は江戸時代中期の建物です。

神明宮(国指定重要文化財)
歴史先生:でも櫛引八幡宮で最も有名なのは国宝館にある鎧兜(よろいかぶと)。
マナブ:そうなんですか?
歴史先生:入って見ましょう。

国宝館
マナブ:館内は写真撮影できないので、皆さんはこちらのWebページからご覧ください。
(櫛引八幡宮 国宝館)
https://www.kushihikihachimangu.com/treasure/
歴史先生:館内に入ると、一番奥に2体の国宝の鎧兜があります。
マナブ:他にも面白そうな展示がありますが、すーっと、一番奥の国宝に吸い寄せられるように引き込まれました。
歴史先生:向かって右にあるのが「国宝 赤糸威鎧 (あかいとおどしよろい)」。
マナブ:これは教科書か何かで見たことがあるような気がします。
歴史先生:はい、中世の鎧兜の代表格といえばこれでしょう。鎌倉時代末期の物とされ、南部家が櫛引八幡宮に奉納したものです。南朝の98代目長慶天皇の鎧とも言われていて、天皇家の菊の御紋などがあしらわれています。長慶天皇は北朝との戦いに敗れて南部へ落ち延びてきたという伝承もありますので、その際に南部家に渡ったものかもしれません。
マナブ:ザ・かぶと、という感じですね。五月人形にありそう。
歴史先生:日本一豪華な鎧と言われています。海外でも評価が高く、アメリカの大富豪が50億円で買うとまで言ったそうですが、もちろん売ったりはしません。
マナブ:もう1つも国宝?
歴史先生:はい、左側にあるのは「国宝 白糸威褄取鎧 (しろいとおどしつまどりよろい)」。こちらは南北朝時代のもの。根城南部氏7代当主の南部信光(のぶみつ)が、南朝の武将として活躍し、その武功の報酬として南朝97代目の後村上天皇(=後醍醐天皇の跡を継いだ南朝の天皇)から贈られたのがこの鎧兜だと言われています。
マナブ:こちらも南朝の天皇家から拝領したものでしたか。
歴史先生:工芸品としての高度な技術、そして良好な保存状態から国宝になっています。
マナブ:青森の地で思いがけず、すばらしい美術工芸品を見ることができました。
戦国時代の姿を留める典型的な山城:「三戸城」

マナブ:櫛引八幡宮がある四戸から車で南西へ35分ほど走ると、三戸(さんのへ)町に着きます。
歴史先生:ここはまだ青森県ですが、もう少し先の二戸市は岩手県になります。この県境の分け方にはとても違和感があって、一戸から九戸までの南部氏が治めた地域というのは歴史的にも密接につながっています。これらを県境で分けてしまうのはどうも納得がいきません。
マナブ:岩手県の二戸に行ったとき、三戸との切っても切れない歴史的なつながりを学びました。

三戸城(地図 ⓬)
〒039-0112 青森県三戸郡三戸町梅内城ノ下34−29
9:00~16:00、月曜休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.sannohe-castle.jp/
歴史先生:さて、地形図を見てみましょう。三戸には馬淵川によって削られた谷の中に、ひときわ険しくそびえる台地があります。三戸城はここに築かれました。
マナブ:いつ誰が築いたんでしょう?
歴史先生:二戸の時の話にでてきた南部晴政、です。それまでは三戸南部氏は聖寿寺館というところを本拠にしていたのですが、戦国時代に流行した形、すなわち険しい崖に囲まれた山城に移そうということで、三戸城を築きました。

三戸城は険しい山の上に築かれたいくつもの曲輪で構成されている
マナブ:九戸城は川と谷に守られていましたが、三戸城は険しい山の上なんですね。私たちは車で 一番上にある駐車場まで登ることができましたが、徒歩で登ると結構きつそうでした。

本丸があったあたりには三戸町歴史民俗資料館がある
歴史先生:南部晴政が亡くなった後、その子の晴継が城主となりますが・・・
マナブ:父親の葬儀の夜に、何者かによって惨殺された。
歴史先生:はい、そうなんです。その混乱の中、養子だった南部信直が後継者となって三戸城の城主になりました。彼の死後、その子の南部利直が城主となりますが、彼は本拠を盛岡に移し、盛岡藩としてさらなる発展を遂げました。
マナブ:三戸城は信長、秀吉、家康と天下が大きく動いた時代に、岩手県北部から青森県の動乱の中心地として、さまざまな事件が起きた場所、と言えそうですね。
歴史先生:まさにそのとおりです。

天守のような建物があるがこれは模擬天守であり、当時の城にはこういう建物はなかった
歴史先生:さて、ここまで八戸を見てきましたが、いかがでしたか?
マナブ:八戸についてはこれまで全く何も知りませんでした。知識ゼロで訪れる町も珍しいのですが、根城を始め、意外と歴史深いところなんだと感心しました。戦国時代における南部氏の中での抗争は、物語としても非常に興味深い。信長や秀 吉の動きの影で、東北ではこんなことが起きていたんですね。
歴史先生:よかったです。
マナブ:そして魚や名物のせんべい汁がうまい!
歴史先生:ほんと、そうでしたね。以下におすすめのレストランとホテルを載せておきましょう。
<おすすめのレストラン>
禄文銭

八戸の名物として有名なのは「せんべい汁」。そして親潮と黒潮がぶつかる日本有数の漁場でもある八戸沖ではサバなどが有名。八戸の市内中心部にはこういった郷土料理を出す店が多数あるが、その中で「禄文銭」というお店に行ってみることにした。
実際に行ってみた
・訪れたのは平日の18時過ぎ。満席ではなかったのでそのまま入ることができた。
・内部は居酒屋的な雰囲気。
・お店の看板商品でもある「せんべい汁」をオーダーしてみる。南部といえば「南部せんべい」。全国でも菓子として売られているが、菓子用の甘いものではなく、味を抑えたせんべいを鶏などの出汁に入れ、やわらかくなった食感を楽しむ。出汁が沁みて美味。

せんべい汁
・八戸の名物と言えるのがサバ。ここでは焼き鳥のように串に刺して食べる、サバ串が有名。
・脂の乗ったサバ自体のおいしさが格別だが、焼き鳥のような食べ方が斬新だった。

サバ串

禄文銭
〒031-0033 青森県八戸市六日町29
https://www.kumasan-japan.co.jp/dmgshop/roku.html
<おすすめのホテル>
ドーミーイン本八戸

八戸市中心部の「裏通り」に面しているスリムな高層ビル。写真左奥が立体駐車場。
選んだ理由
・立地:飲食店が集中している八戸市の中心部。
・施設:ドーミーインはどこも大浴場があり、八戸は天然温泉になっている。また館内がきれいで、サービスも評価が高い。
・価格:安さを売りにしているビジネスホテルに比べてやや高めだが、それだけの価値があると考えられる。
実際に泊まってみた感想
・アクセス:駐車場はホテルのすぐ脇。係りの人がいて立体駐車場を案内してくれる。
・部屋:ドーミーインの部屋はどこも同じスタンダード。新しくてきれい。必要なものがコンパクトに揃っている。
・風呂:部屋にはバスタブがついておらず、シャワーブースのみ。これは大浴場を利用することを前提としたもの。その分コストダウンにつながっていて、良いアイディアだと思う。
・サービス:湯上りのアイス(夜)と乳酸菌飲料(朝)、夜鳴きそばの無料サービスなどがある。
・周囲:ホテルの周りは八戸の中心街。 百貨店や飲食店などが並ぶエリア。コンビニも多数あり、安心。

コンパクトながら洗練された部屋

近くにある「さくらの百貨店」

屋台村「みろく横丁」も歩いて2分ほど

