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岩手県 二戸_1.jpg
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
廃藩置県当初は青森県ではなく弘前県だった?
 
弘前の街を作った津軽氏とは?
 
現存12天守の1つ、弘前城を歩く
 
弘前のねぷたは青森とどう違う? 「津軽藩ねぷた村」
 
弘前にはなぜ明治・大正期の古い洋館がたくさんあるのか?
 
曹洞宗のお寺を集めて造られた防御施設:「禅林街・長勝寺」
 
美しい五重塔に魅了される「最勝院」
 
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廃藩置県当初は青森県ではなく弘前県だった?


弘前駅前のモニュメント



マナブ:今日は弘前に来ています。


歴史先生:弘前は津軽地方の中心都市。周辺を含めて30万人の都市圏を構成しています。ここは日本で最初に市制を敷いた都市の1つ。


マナブ:それって?


歴史先生:1889年(明治22年)に、全国31の都市で市制が敷かれました。東北地方では弘前市、盛岡市、仙台市、秋田市、山形市、米沢市が選ばれました。


マナブ:ということは弘前は青森県を代表する都市であった、と。


歴史先生:そのとおりです。


マナブ:そういえば青森県の国立大学と言えば、弘前大学ですよね?


歴史先生:はい、そうですね。


マナブ:この街はどのようにできたんでしょう?


弘前駅


弘前市の中心街の1つ、下土手町


歴史先生:弘前は弘前城の城下町。明治になると陸軍第八師団が弘前に置かれ、軍都として発展します。また旧制弘前高校も置かれ、学都としての性格も持っていました。


マナブ:ここは青森県の中心だったんですね。


歴史先生:というより、1871年(明治4年)の廃藩置県当初は「弘前県」だったんです。


マナブ:ではなぜ青森県になったんですか?


歴史先生:当時は箱館戦争などが起き、青森の港が北海道への入口として重要な役割を持っていました。そういったこともあって同じ年のうちに県庁が青森へ移ったんです。1891年(明治24年)には東北本線の上野~青森間が開通。1908年(明治41年)には青函連絡船が就航し、青森の重要性が増していきました。


弘前の街を作った津軽氏とは?


津軽為信像


マナブ:津軽藩を作ったのは南部氏の中で反乱を起こした人、ということでしたよね?


歴史先生:はい、大浦為信。立派な髭がトレードマークの戦国武将です。彼は現在の弘前市の西部にある大浦城を拠点としていた南部氏の一族だったんですが、戦国末期に南部氏内部の混乱に乗じて周辺の城を次々に攻略します。


マナブ:まさに戦国時代。


歴史先生:1571年、最初に攻めたのが津軽平野の南にある石川城。ここは南部氏の津軽平野を治める重要拠点であり、南部家の重臣であった南部高信という人が城主でしたが、この戦いで亡くなります。この人、実は南部信直のお父さん。


マナブ:えーっと、南部信直というと、九戸政実と争って勝ち、南部氏のトップになった人。


歴史先生:そうです。


マナブ:そうか、その後の南部氏からすれば、大浦為信というのは藩主のお父さんを殺した憎き相手ということになるんですね。


歴史先生:そうなんです。大浦為信は1578年には津軽平野の青森寄りのところにある浪岡城を攻略。ここは元々の主君筋であった北畠氏の城。南北朝時代に南部氏を連れて陸奥の国へ来た主君で、南部氏が代々大切に敬っていた北畠氏にも刃を向けたんです。


マナブ:タブーを破った。


津軽家の家紋の「卍」。市内のあちこちでデザインとして使われている。


歴史先生:津軽為信はさらに、津軽平野だけでなく1585年には外ヶ浜(現在の青森市など)の城も力で征服。どんどん領土を広げていきました。ところが全国的には秀吉が全国統一を進めていた時代。大名同士が勝手に争うことは固く禁じてられていました。


マナブ:それはまずくないですか?


歴史先生:大浦為信は秀吉へいち早く接近しようと1585年から上洛を何度も試みますが、天候や南部氏、秋田氏らの妨害で失敗。1589年にようやく使者を送ることができました。そして1590年3月、秀吉が小田原城を包囲に向かう途中の沼津でついに大浦為信本人が秀吉に面会します。わずか18騎で駆けつけたとのこと。


マナブ:そのころ、南部信直は何をしていたんでしょう?


歴史先生:彼もまた、秀吉へのアプローチの重要性がわかっていて、前田利家を仲介役に使いを送っていました。そして小田原攻めには1,000人の軍を率いて参陣します。1590年4月、ついに小田原で秀吉に面会することができました。


マナブ:大浦為信が面会した翌月だ。


歴史先生:秀吉に面会すると、南部信直は大浦為信が勝手に領土を切り取っていることを訴えます。明らかに秀吉の命令違反です。


マナブ:大浦為信最大のピンチ、ですね。


歴史先生:そうなんです。でも彼は秀吉や秀次が大好きな鷹狩り用に、津軽の優れた鷹と名馬を贈り物として届けていました。秀吉はそれを大喜びし、「大浦為信は人の心がわかるやつだ」とお気に入りになっていたんですね。そういったことがありましたから、秀吉は結局南部氏からの訴えを退けました。


マナブ:うわぁ、うまいことやりましたね。戦いに強いだけじゃなくて、そういった裏工作もできる。


歴史先生:そうですね、彼の能力からすれば、もし辺境ではなくて近畿あたりにいたら天下を争う戦国武将になっていたかもしれません。秀吉に領土を安堵してもらった大浦為信は、津軽為信と名乗るようになります。


マナブ:そしてそのまま江戸時代の津軽藩になった。


歴史先生:でもその前に、関ヶ原という関門があります。ここをうまくやり過ごさないと、江戸時代まで生き残れません。


マナブ:あ、そうでした。



堀越城


歴史先生:さて、津軽為信は当初拠点としていた大浦城から新たに堀越城を築き、1594年に本拠を移します。これらの城跡は後で行きますね。


マナブ:楽しみにしておきます。


歴史先生:さて、関ヶ原。津軽為信は東軍として参陣しました。しかし、嫡男である津軽信建(のぶたけ)を豊臣秀頼の小姓として大坂城に入れていました。


マナブ:ということは、親子で東軍、西軍に分かれていた?


歴史先生:そう考えられます。真田氏のように、両方どちらが勝っても生き残れるようにしていたのでしょう。


マナブ:なるほど、どこまでも策士ですね。


歴史先生:ところが、津軽為信が関ヶ原に参陣している間に領内で謀反が起き、堀越城が占拠されてしまいます。結局、東軍勝利を聞いた反乱軍は解散して事無きを得たのですが、堀越城では敵の攻撃を十分に守り切れないことがわかりました。そこで、新たに弘前城の築城を計画し、1603年、築城を開始しました。


マナブ:またまた、すごいお金がかかりそう。


歴史先生:そのせいなのか築城はなかなか進まず、津軽為信はその完成を見ることなく、1607年に亡くなりました。実はその2か月前、嫡男の信建も亡くなっているんです。


マナブ:えっ、後継ぎも亡くなって、お家は大丈夫だったんでしょうか?


歴史先生:三男の津軽信枚(のぶひら)が後を継ぎます。しかし信建の子を後継者に推す勢力もあって、お家騒動が起きます。結局、江戸幕府の調停によって津軽信枚が跡継ぎとして認められました。


マナブ:いろいろと大変ですね。


歴史先生:津軽信枚は築城を継続し、1611年に弘前城を完成させました。堀越城から本拠を移すことになり、ここから弘前の城下町としての発展が始まります。ではその弘前城を歩いてみましょう。


弘前城


現存12天守の1つ、弘前城を歩く


追手門(国指定重要文化財)



弘前城(地図 ❶)

〒036-8356 青森県弘前市下白銀町1−1

弘前城本丸・北の郭 入場料320円(子供、団体割引あり)

9:00~17:00 (11/24~3/31は休み)

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.hirosakipark.jp/ 


マナブ:追手門の前にある「タイムズ弘前市立観光館駐車場(〒036-8356 青森県弘前市下白銀町2)」に車を停めました。ここは広場の地下にある大型の駐車場。弘前の観光にはとても便利な場所です。

 

歴史先生:では外濠を渡って「追手門」から入っていきましょう。広い城内には5つの門が現存していて、すべてが国指定重要文化財です。

 

マナブ:すごいですね。

 

弘前城の桜

 

歴史先生:ところで、弘前城で有名なのは桜。東北随一の桜の名所と言われています。

 

マナブ:青森だと開花はいつ頃ですか?

 

歴史先生:ちょうどゴールデンウイークが見ごろになります。

 

マナブ:その時期はすごい人出になりそうですね。

 

 

杉の大橋

 

歴史先生:さて、追手門を入ってしばらく歩くと中濠があります。ここには杉の大橋という橋が架かっていて、二の丸へと入っていきます。

 

マナブ:赤い欄干が新緑に映えて、とても美しい。

 

未申(ひるじさる)櫓(国指定重要文化財)

 

歴史先生:中濠沿いに少し左方向へ歩くと、未申(ひるじさる)櫓が見えます。これを含めて3つの隅櫓が残っており、すべて国指定重要文化財です。

 

マナブ:それもすごい。

 

二の丸南門(国指定重要文化財)

 

歴史先生:杉の大橋を渡ると二の丸南門です。

 

マナブ:これも大きくて、立派だなぁ。

 

辰巳櫓(国指定重要文化財)

 

歴史先生:二の丸に入って右へ行くと、今度は辰巳櫓があります。

 

弘前城情報館

 

歴史先生:そして弘前城情報館。ここに寄っていきましょう。

 

マナブ:新しい、きれいな施設です。

 

歴史先生:中には弘前城の築城の物語をハイテクな装置で見られます。

 

下乗橋

 

歴史先生:では下乗橋を渡って本丸へ行きましょう。この先、有料エリアです。

 

石垣工事現場

 

マナブ:右側は工事現場ですね。

 

歴史先生:そうなんです。本丸へ入る前に、この工事の話をしておきましょう。

 

工事前の天守はここの角にあった(以前の写真)

 

歴史先生:以前、弘前城の天守は今の工事現場の上にそびえていました。しかし1983年(昭和58年)の日本海中部地震の後、天守の下の石垣が1mも膨らみ、天守は30㎝沈下していることがわかったんです。

 

マナブ:危険な状態ですね。

 

歴史先生:はい、このままだと次の地震で天守もろとも石垣が崩壊するかもしれないという状態でした。

 

天守の移動(案内板の写真より)

 

歴史先生:そこで2014年、天守の下の石垣を一旦分解して、きれいに積み直す工事が始まったんです。石垣に乗っている天守は本丸の真ん中あたりに曳いて移動をしました。

 

マナブ:すごい工事だ。

 

2015年に行われた天守の曳屋(案内板の写真より)


歴史先生:2020年には石垣の積み直しが始まり、2026年中に天守を元の位置に曳き戻す予定です。

 

マナブ:では今の状態を見れるのはあと少しの間だけですね。

 

石垣の積み直し作業が進む

 

弘前城 天守(国指定重要文化財)

 

マナブ:本丸へと入ってきました。

 

歴史先生:2026年6月現在、ここに天守が移動してきています。この天守も国指定重要文化財。江戸時代以前の姿を残す、現存12天守の1つです。

 

マナブ:現存12天守というのはどことどこでしたっけ?

 

歴史先生:以下の通りです。*印は「国宝五城」です。

 

・松本城 *

・犬山城 *

・彦根城 *

・姫路城 *

・松江城 *

・弘前城

・丸岡城

・備中松山城

・丸亀城

・松山城

・宇和島城

・高知城

 

歴史先生:弘前城を作った津軽信枚は5層の天守を建てますが、築城から16年後の1627年に落雷で焼失してしまいます。現在の天守は3層で、1810年に再建されたものです。

 

弘前城から望む岩木山

 

マナブ:本丸からは岩木山が正面にドドーンと見えています。大きいですね。

 

丑寅(うしとら)櫓 (国指定重要文化財)

 

歴史先生:有料エリアを東口から出たところに丑寅櫓があります。

 

マナブ:これもまた見事ですね。いやー、すごいお城でした。

 

弘前のねぷたは青森とどう違う? 「津軽藩ねぷた村」

 

お土産店が並ぶ津軽藩ねぷた村

 

 

津軽藩ねぷた村(地図 ❷)

〒036-8332 青森県弘前市亀甲町61

入館料600円(高校生以下、団体割引あり)

9:00~17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://neputamura.com/ 


マナブ:お城の北東側にある「津軽藩ねぷた村」に来ています。施設の周囲に大きな駐車場があります。

 

歴史先生:ここでは弘前の「ねぷた」について学びましょう。

 

マナブ:「ねぶた」、じゃないんですね?

 

歴史先生:青森はねぶた、弘前はねぷた。どちらも同じですが、それぞれ特徴があるようです。中で学びましょう。

 

ねぷたの館

 

歴史先生:まず最初に通されるのが「ねぷたの館」。ねぷたの説明とお囃子の演奏が聴けます。

 

マナブ:ねぷたの語源について説明がありましたね。どんな意味なんだろうと思っていましたが、夏の農作業の時に眠気に襲われて、「ねぶてぇ(眠たい)」というのが語源だとか。

 

歴史先生:そうですね。「ねむり流し」という風習は各地にあって、夏の夜に眠気を灯籠などに託して川に流す、というものです。これが起源なのかどうかは異説もあります。坂上田村麻呂が遠征してきた時に、敵をおびき寄せるために大きな人形と笛太鼓を使ったのが元だという説。津軽為信が盂蘭盆会の行事として始めたという説。

 

マナブ:何でも坂上田村麻呂に結び付けるのはちょっと無理があるような気がします。でも津軽のお殿様が支援しないとこんな風に広まらないと思いますので、何らかの形で津軽氏は関わりがあったのかな、という感じはします。

 

歴史先生:津軽藩とねぶた、は切っても切れない関係がありそうです。

 

マナブ:そうなんですよね。ねぷた/ねぶたは青森県の各地で行われるんだとか。でも地図を見ると、それが見事に津軽藩の領地になっているところと下北半島に限られていて、盛岡藩の領地では行われていないんですね。

 

ねぶたは津軽藩の領地と重なる

 

マナブ:そして、弘前のねぷたの山車ですが、青森で見るのと少し形が違います。

 

歴史先生:そうですね。弘前のは丸っこい扇形。高さは5~6mくらいです。一方、青森のは装飾の形が自由で、高さは同じく5mくらいですが、幅が9mにもなる幅広型。

 

かわいい金魚ねぷた

 

マナブ:それ以外にも違いがあるんですか?

 

歴史先生:青森は参加型と言われていて、ハネト(跳人)と呼ばれる人たちが乱舞する活気のある熱狂的なお祭り。掛け声は「ラッセラー、ラッセラー」。弘前は基本的に見るだけで、優美なお祭り。掛け声は「ヤーヤドー」。

 

マナブ:ずいぶん違っていますね。

 

歴史先生:弘前は津軽藩の藩主お膝元。ねぷたの歴史としては最も古く、ここから各地へ広まっていったと考えられます。

 

マナブ:そうか、元は弘前なんですね。

 

来場者も太鼓を叩かせてもらえる

 

歴史先生:ねぷたの特徴はその大きな太鼓。ここでは来場者が参加して、お囃子に合わせて太鼓をたたく体験ができます。

 

マナブ:いいですね。ぜひやってみましょう。

 

50分おきに津軽三味線の演奏がある

 

マナブ:さて、津軽と言えば津軽三味線ですね。ここで聴けるのは嬉しいなぁ。

 

歴史先生:そうですね。

 

マナブ:どうして津軽で発展したんでしょう?

 

歴史先生:三味線の演奏は目の不自由な方の生活の糧として広まりました。演奏の音を遠くまで響かせて人を集めたいということから、叩くような打楽器的奏法が開発されました。

 

マナブ:たしかに叩くような奏法が特徴的ですよね。

 

歴史先生:津軽三味線の特徴の1つはそのアドリブ性です。同じ曲でも演奏者によって弾き方が違っていて、技術を競いながら即興でアドリブも入れるエンターテインメント性が聞く人を惹きつけているんでしょう。

 

ねぷた村から見える岩木山

 

マナブ:ねぷた村の2階からは庭園越しに岩木山が良く見えます。

 

歴史先生:弘前市内のあちこちから見えます。

 

マナブ:岩木山がある方が西、ということを知っていれば方角が常にわかりますね。

 

弘前にはなぜ明治・大正期の古い洋館がたくさんあるのか?

 

旧弘前市立図書館

 

 

歴史先生:さて、弘前と言えば弘前城ですが、お城の周囲にはたくさんの古い洋館があって、それらをめぐるのも面白いんですよ。

 

マナブ:いいですね。

 

歴史先生:ではまずはじめに、 私たちが観光の拠点として使った「タイムズ弘前市立観光館駐車場(〒036-8356 青森県弘前市下白銀町2)」の真上にある弘前のシンボル、「旧弘前市立図書館」に行きましょう。

 

旧弘前市立図書館

 

旧弘前市立図書館(地図 青字❶)

〒036-8356 青森県弘前市下白銀町2−1 追手門広場内

入館無料

9:00~17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyou/shisetsu/kyuutosyo.html 


マナブ:これは実にかわいい建物ですね。りんごが2つ乗っかってるみたい。

 

歴史先生:1906年(明治39年)に建てられました。和風の建築技法にルネサンス風のデザインを取り入れた木造3階建て。これは地元の実業家5人がお金を出し合って建築し、当時まだ弘前にはなかった公立図書館用の建物として弘前市に寄付したものです。

 

マナブ:へぇー、お金持ちがいるもんですねぇ。

 

歴史先生:時代は日露戦争のころ。日露戦争は1904年2月~1905年9月ですので、この図書館は終戦の翌年に建てられたということになります。ところで、ロシアに近い弘前にはそのころ第八師団が置かれました。そこでは様々な建築や物資の調達が行われ、地元の実業家たちが富を成していたんです。

 

マナブ:8角形の塔が両側に建っているのが印象的ですね。

 

歴史先生:はい、左側は階段室、右側は閲覧室などになっています。中は自由に入れますので、入って見ましょう。

 

婦人閲覧室

 

マナブ:明治建築というと、海外から来た建築家が何人も歴史に名前を残していますね。

 

歴史先生:でもこれは日本人の設計。堀江佐吉、という人です。

 

マナブ:日本人でしたか。その人はどういう人だったんでしょう?

 

歴史先生:堀江佐吉は1845年の生まれ。堀江家は江戸時代から代々弘前で大工さんをしていた家柄。彼も生まれながらにして大工として家業を継ぎます。ところが1879年(明治12年)、彼が35歳の時に函館に出稼ぎに出てみると、何とそこには近代的な洋風建築が並んでいるのを目の当たりにし、大きな衝撃を受けます。

 

マナブ:当時函館は最先端の都市だったんですね。

 

歴史先生:はい。彼は函館滞在中に西洋建築を勉強し、弘前へ戻ります。弘前での最初の大きな仕事は、火災で焼失した東奥義塾の校舎の再建でした。1886年(明治19年)、彼の手による西洋建築として校舎は完成しました。

 

マナブ:その校舎は今もあるんですか?

 

歴史先生:いえ。堀江佐吉はその生涯で1,000軒以上もの建築を手がけたと言われていますが、ほんの数軒しか現存していません。このあと、2軒ほど彼の作品を見に行きましょう。

 

マナブ:先ほど、旧弘前市立図書館ができたのは1906年(明治39年)ということでしたから、堀江佐吉は61歳。

 

歴史先生:はい。その翌年に彼は亡くなっていますので、最晩年の作品と言ってもいいでしょう。

 

旧東奥義塾外人教師館

 

旧東奥義塾外人教師館(地図 青字❶)

〒036-8356 青森県弘前市下白銀町2−1 追手門広場内

入館無料

9:00~18:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyou/bunkazai/ken/ken10.html 


歴史先生:さて、旧弘前市立図書館のすぐ裏にあるのが、「旧東奥義塾外人教師館」です。

 

マナブ:東奥義塾って、今でも高校がありますよね?

 

歴史先生:はい。弘前藩の藩校であった「稽古館」が元になっています。明治になってこれが廃校となりましたが、津軽家の支援もあって、旧津軽藩士の菊池九郎が創立者となって「弘前漢英学校」が設立されました。その後、菊池九郎が学んだ慶應義塾にちなんで「東奥義塾」と改名されました。

 

マナブ:東北における慶應義塾、みたいな感じ?

 

歴史先生:そうですね。当初から世界を見据えた質の高い教育を提供していました。アメリカ人宣教師のジョン・イングを英語講師として招き、アメリカの教科書を使って教育。1874年(明治7年)には早くも塾生5名をアメリカに留学させています。

 

マナブ:うわー、それは早いな。

 

歴史先生:しかしキリスト教布教への反感、津軽家からの支援の減少などから1910年(明治34年)には一度廃校になりますが、1922年(大正11年)に再び開校することになり、現在に至ります。

 

主寝室

 

マナブ:中はとてもオシャレですね。

 

歴史先生:この建物は東奥義塾に招かれた外国人講師が生活していた家。当時の外国人の生活を知る上で貴重な遺構です。

 

マナブ:これも堀江佐吉の作品?

 

歴史先生:はい、そうなんです。1903年(明治36年)の竣工。東奥義塾の校舎だけでなく、外国人講師の住居まで設計していたんですね。

 

合掌土偶の消毒液

 

マナブ:あ、合掌土偶の消毒液だ。さすが青森。これは笑える。

 

歴史先生:(笑)

 

旧第五十九銀行本店本館(国指定重要文化財)

 

 

旧第五十九銀行本店本館(地図 青字❷)

〒036-8198 青森県弘前市元長町26

入館料200円(中学生以下、団体割引あり)

9:30~16:30、火曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyou/shisetsu/formerthe59thbank_mainoffice_mainbuilding.html 


マナブ:歩いてすぐのところに、これまた立派な洋館がありますね。

 

歴史先生:これは「旧第五十九銀行本店本館」。第五十九銀行というのは1878年(明治11年)に青森県内で初めて設立された銀行です。のちに本店は青森市に移転しますが、当初はここ弘前が本店でした。この建物が本店の本館で、国指定重要文化財です。

 


堂々たる外観

 

マナブ:りっぱですねぇ。石造り?

 

歴史先生:のようにも見えるかもしれませんが、こちらは木造2階建て。青森のヒノキをふんだんに使った贅沢な建物ですが、外観はルネサンス風です。「擬洋風建築」と言います。

 

マナブ:これも堀江佐吉ですか?

 

歴史先生:そうなんです。1904年(明治37年)に竣工。さきほどの図書館の2年前ですね。

 

マナブ:整理すると、外人教師住宅1903年、銀行1904年、図書館1906年、そして1907年に亡くなる。この3軒はかなり晩年の作品ばかりですね。

 

歴史先生:中でもこの銀行の建物は彼の集大成と言えるもの。当時、銀行の頭取からは「あなたが気のすむようなものをこしらえて」と依頼され、非常に高額の予算を提示されたそうです。

 

マナブ:それはやりがいがあったでしょうね。

 

安寿と厨子王の像

 

歴史先生:ところで、旧第五十九銀行本店本館前の広場には「安寿と厨子王(あんじゅとずしおう)」の像があります。向かって左から安寿、厨子王、そしてお母さん。

 

マナブ:すごく聞き覚えのある名前です。小学生くらいに聞いた悲しい物語だったかと。どんなお話でしたっけ?

 

歴史先生:平安時代のお話。安寿(姉)と厨子王(弟)は津軽の岩城氏(岩城判官)という豪族の子でした。ある時、無実の罪で九州の筑紫に流されたお父さんを追って、このきょうだいはお母さんと一緒に旅に出ました。途中、直江津まできたところで親切にしてくれる人と出会います。その人は「この先は親不知・子不知という難所なので、舟で行った方がいいよ」と舟に乗せてくれるのですが、彼は実は人買いで、お母さんは佐渡島へ、きょうだいは丹後の山椒大夫(さんしょうだゆう)という豪族に売られてしまいます。

 

マナブ:山椒大夫、というのも聞き覚えがあります。

 

歴史先生:この物語を森鴎外が「山椒大夫」という題の小説にしていますので、そちらを読まれたのかもしれませんね。さて、丹後で奴隷のような暮らしをしていたきょうだいですが、ある日姉の安寿が自らの命を犠牲にして弟の厨子王を逃がします。

 

マナブ:弟想いのおねえちゃんだったんだ。

 

歴史先生:弟は京都へ逃げ、そこで出世して、長い年月の後についには丹後の国司となりました。そして憎き山椒大夫を成敗します。その後佐渡島へ行き、ついには売られていたお母さんとも再会するというお話でした。

 

マナブ:悲しいお話ですね。実話なんですか?

 

歴史先生:津軽の岩城氏の悲劇の伝承がモチーフになっているようです。それを元に、一部創作を加えて民話として長く語り続けられてきたようです。浄瑠璃や歌舞伎の演目としてもくりかえし使われました。

 

旧吉井酒造煉瓦倉庫

 

 

旧吉井酒造煉瓦倉庫(現:弘前れんが倉庫美術館)(地図 青字❸)

〒036-8188 青森県弘前市吉野町2−1

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.hirosaki-moca.jp/ 


歴史先生:さて、こんどはちょっと種類の違う遺産です。

 

マナブ:酒造工場ですか?

 

歴史先生:はい。1907年(明治40年)、福島藤助という人がこの地で酒造りを始めます。吉野というのは当時のこのあたりの地名。第八師団の弘前設置、日露戦争の勝利、そして鉄道の開通などによって事業は急拡大しました。

 

マナブ:今は美術館になっているようですが、これらのレンガ倉庫のような建物は?

 

歴史先生:1907年当時の建物は残っていませんが、これらのレンガ造りの建物は1923年(大正10年)ごろの酒造工場のものです。

 

すぐ近くにある「中央弘前駅」

 

歴史先生:この近くには中央弘前駅があります。弘南鉄道の駅です。

 

マナブ:駅というより、レトロな市場か映画館みたい。昭和の香りがぷんぷんします。

 

弘前昇天教会

 

弘前昇天教会(地図 青字❹)

〒036-8181 青森県弘前市山道町7

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://nskk-tohoku.com/church/aomori/#c05 


歴史先生:中央弘前駅のすぐ前に、古い教会があります。こちらは「弘前昇天教会」。

 

マナブ:古くて、威厳のある姿ですね。

 

歴史先生:1921年(大正10年)に建てられた教会です。ゴシック様式のレンガ造り。設計者はJ.M.ガーディナー。

 

マナブ:えーっと、待ってください、その名前は聞き覚えがあります。

 

歴史先生:横浜の山手で洋館めぐりをした時、「外交官の家」の設計者としてご紹介しました。立教学校(現在の立教大学)の学長も務めた人ですね。

 

マナブ:たしか立教学校の学長を務めた後、アメリカに帰って建築を勉強して、再来日して建築家として活躍した。

 

歴史先生:そうです、そうです。 

 

建物の上部には鐘楼が組み込まれている

 

マナブ:建物の一番上には鐘が吊り下げられていますね。

 

歴史先生:あの鐘は1920年にアメリカで製作されたものだそうです。今でも現役で美しい音を響かせています。

 

一戸時計店 時計台

 

マナブ:教会の前から北東側に伸びる通りの突き当りに、時計台みたいなものが見えますね。

 

歴史先生:あれは一戸時計店というお店(現在は営業していない)で、建物の上に時計台が乗っています。元々は1897年(明治30年)に三原堂というお店のために造られたもので、それが大正になってこちらへ移築されたそうです。

 

マナブ:古いものが残っていますねぇ。

 

弘前の中心街、土手町通り

 

日本基督教団 弘前教会

 


歴史先生:土手町通りを抜けて、今度は北へ曲がると、左手に立派な教会があります。これは「日本基督教団 弘前教会」。

 

日本基督教団 弘前教会(地図 青字❺)

〒036-8355 青森県弘前市元寺町48

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://hirosakichurch.sakura.ne.jp/ 


マナブ:立派ですね。ノートルダム寺院に似てる?

 

歴史先生:よくわかりましたね! ここのデザインはノートルダム寺院をモチーフにしたもので、双頭のフランスゴシック風建築。

 

マナブ:古いものなんですか?

 

歴史先生:現存しているのは3代目の建物ですが、それでも1906年(明治39年)のものです。弘前教会は東奥義塾の本多庸一塾長と、英語教師だったジョン・イング宣教師によって1874年(明治7年)に設立されました。

 

マナブ:あ、先ほどの外人教師の家に住んでいた人だ。この建物の設計も外国の人ですか?

 

歴史先生:いえ、設計は桜庭熊五郎という教会の長老で、施工は堀江佐吉の子である斉藤伊三郎が担当しました。

 

マナブ:堀江佐吉が図書館を建てていた最晩年には、もう息子さんが後継者としていらしたんですね。

 

カトリック弘前教会

 

カトリック弘前教会(地図 青字❻)

〒036-8351 青森県弘前市百石町小路20

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://sendai.catholic.jp/diocese/parishes/d1/hirosaki/ 


マナブ:「日本基督教団 弘前教会」からほど近い場所に「カトリック弘前教会」があります。

 

歴史先生:こちらは1910年(明治43年)に建てられたもの。ロマネスク様式を取り入れたデザインで、優美な尖塔が印象的です。こちらはオージェ神父の設計で、施工したのは堀江佐吉の弟、横山常吉です。

 

マナブ:弟さんも活躍してたんだ。

 

旧東奥義塾外人教師館の庭にはたくさんの洋館模型が並ぶ

 

マナブ:それにしても、弘前にはなぜこんなに洋館が多いんでしょう? 全国では横浜とか、神戸、長崎、函館など、早くに開港した港町でよく見かけますが。

 

歴史先生:そうですよね。1つは東奥義塾が積極的に外国人を招いて海外に向けた教育を行ったこと、2つ目には近代的な陸軍として第八師団が弘前に置かれてヨーロッパ風の建築ラッシュが起きたこと、があると思います。

 

マナブ:太平洋戦争は大丈夫だったんでしょうか?

 

歴史先生:あ、それ大事なポイントでした。弘前は空襲の被害が少なく、弘前城や洋館などがそのまま残ったのが大きいですね。

 

曹洞宗のお寺を集めて造られた防御施設:「禅林街・長勝寺」

 

禅林街の入口に建つ「黒門」は長勝寺の総門でもある。1677~87年ごろに建てられた。

 

 

歴史先生:今度は弘前城の南の地区、「禅林街」というところに行ってみましょう。

 

マナブ:ここはどういうところなんですか?

 

禅林街

 

歴史先生:1610年、江戸時代が始まってすぐのころ、2代藩主の津軽信枚(のぶひら)が弘前城の裏鬼門の守りとして、領内にあった曹洞宗33カ寺をここに集め、空堀、土塁、枡形などをもった城郭として築いた町です。

 

マナブ:津軽信枚というのは弘前城を作った人でしたね。お城だけではなくて城下町全体をデザインして造っていったのでしょうか。

 

歴史先生:はい、そのとおりですね。このように同一宗派の寺院を集めて要塞化したような町は全国でも他に例がありません。そのため禅林街は国の史跡に指定されています。

 

栄螺堂

 

歴史先生:禅林街の入口、黒門を入るとすぐ左手に「栄螺堂(さざえどう)」があります。

 

マナブ:あ、会津若松でみたような「さざえ堂」。これ、面白いんですよね。

 

歴史先生:これが建てられたのは1839年ごろ。会津若松のさざえ堂が建てられたのが1796年。その設計には高度な数学が使われていましたが、そういった技術が地方に浸透していったことを物語ります。

 

長勝寺

 

歴史先生:禅林街の通りの突き当りにある、ひときわ大きなお寺が「長勝寺」です。

 

マナブ:門の前に駐車できるスペースがありますので、ここに停めましょう。

 

長勝寺(地図 ❸)

〒036-8273 青森県弘前市西茂森1丁目23−8

境内自由

9:00~16:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://xn--phry5son2c.com/ 


長勝寺の中から禅林街を見る

 

マナブ:ここはどういうお寺なんですか?

 

歴史先生:創建は1528年。大浦盛信が父である大浦光信の菩提を弔うために建てたとされています。

 

マナブ:大浦光信、盛信という人は初めて出てきましたが、津軽を独立させた英雄の大浦為信(津軽為信)との関係は?

 

歴史先生:大浦光信は、元々南部光信という名前で、久慈(岩手県)あたりにいた南部氏の一族でしたが、秋田県の安東氏への抑えとして鯵ヶ沢(青森県西部)に配されました。その後、大浦にも城を築き、そこを拠点としたため、大浦と名乗るようになりました。

 

マナブ:ふむふむ。

 

歴史先生:大浦盛信は光信の子。大浦為信から見ると、3代前の大浦家当主です。長勝寺は元々鯵ヶ沢にに建てられ、その後大浦、堀越、そして禅林街と、大浦氏(津軽氏)の本拠に合わせて移転をしてきました。現在地に移ったのは弘前城が完成したのと同じ1611年です。

 

三門(国指定重要文化財)

 

歴史先生:では、お寺の三門から中へ入りましょう。

 

マナブ:これは大きい。

 

歴史先生:高さが16.2mもある巨大な三門で、国指定重要文化財です。長勝寺がここに移った18年後の1629年に、2代藩主の津軽信枚によって建てられました。

 

マナブ:両側にいるのは仁王様かな? そこの窓の形、よくお寺でみかける形でおしゃれです。

 

歴史先生:あの独特の形は「花頭窓(かとうまど)」というのですが、元々は鎌倉時代に禅宗寺院の様式として中国から伝わったものです。長く流行した形で、禅寺だけでなく神社や茶室、そしてお城などでも見られます。

 

マナブ:なるほど。

 

歴史先生:ただしここの三門に花頭窓がついたのは江戸時代後期、1809年の大修理の時に改築されたもののようです。

 


本堂(左)と庫裡(右)。いずれも国指定重要文化財。

 

歴史先生:山門をくぐると目の前に現れるのが本堂と庫裡。いずれも国指定重要文化財。

 

マナブ:どちらも大きくて立派ですね。

 

歴史先生:1611年に本堂が建立され、同時に庫裡が堀越城から移築されたようです。この2つは予約なしで中を見ることができます。本堂の裏には御影堂(国指定重要文化財)があって、藩祖の津軽為信公の木像が納められています。弘前観光コンベンション協会(電話0172-35-3131)に電話で予約すると、御影堂や、霊廟などの見学ができます。

 

蒼龍窟

 

歴史先生:続いては蒼龍窟。中を覗いてみましょう。

 


蒼龍窟の内部

 

マナブ:あぁ、これは見事ですね。

 

歴史先生:中央の三尊仏は1603年に津軽為信が岩木山百沢寺の本尊として作らせたもの。1638年ごろに作られた大型の厨子に入っています。これらは明治になって長勝寺に移されました。

 

マナブ:左右にあるのは五百羅漢、かな?

 

歴史先生:はい、そうです。こちらは2代藩主の津軽信枚が岩木山百沢寺に寄進したものです。

 

マナブ:岩木山百沢寺、というのはそれだけ重要なお寺だったんですね?

 

歴史先生:そうなんです。明治の神仏分離で惜しくも廃寺になりましたが、今では岩木山神社として残っています。

 

津軽家霊屋(国指定重要文化財)

 

歴史先生:さて、奥の敷地には歴代藩主の霊廟が並んでいます。全部で5つ。すべて国指定重要文化財です。

 

マナブ:それぞれ、どなたの霊廟でしょう?

 

歴史先生:向かって右から古い順に並んでいます。一番右が藩祖津軽為信の奥方。2番目が2代藩主津軽信枚、3番目がその奥方。4番目は3代藩主信義、5番目が6代藩主信著のもの。

 

マナブ:えーっと、待ってください。一番古いのが津軽為信の奥さん?

 

歴史先生:はい。

 

マナブ:津軽為信の霊廟はここにはないんですか?

 

歴史先生:それがですね、彼のお墓はとんでもないところにあるんです。

 

マナブ:とんでもないところって? 人が近づけない断崖絶壁の上とか?

 

歴史先生:いえ、平地なんですが、あとで「革秀寺」に行ったときにそのお話をしましょう。

 

忠霊塔

 

歴史先生:長勝寺の横には禅林公園という広場があって、「忠霊塔」が建っています。これは幕末の戊辰戦争以降の戦没者を供養するためのもので、太平洋戦争中の1945年(昭和20年)に完成しました。

 

マナブ:戦時中によくこのようなものができましたね。

 

歴史先生:弘前に置かれた陸軍第八師団の力が大きかったと思われます。ここ弘前は軍都、でしたから。

 

美しい五重塔に魅了される「最勝院」

 

最勝院

 

 

最勝院(地図 ❹)

〒036-8196 青森県弘前市銅屋町63

9:00~16:30、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://saisyouin.jp/jp/ 


マナブ:最勝院(さいしょういん)というお寺にやってきました。ここは駐車場がないので、近隣のコインパーキング(三井のリパーク 弘前桶屋町第2 駐車場:〒036-8197 青森県弘前市桶屋町29)などを利用されるとよいでしょう。

 

北側の参道

 

マナブ:階段を登ります。あれ、鳥居がありますけど、ここは神社?

 

歴史先生:八坂神社が隣接していて、その鳥居ですね。

 

五重塔と仁王門

 

マナブ:階段をあがると、立派な門があります。そしてその向こうに大きな五重塔が。

 

歴史先生:この五重塔、とても美しいと言われます。中に入ってじっくり見ましょう。

 

五重塔(国指定重要文化財)

 

マナブ:あぁ、たしかに美しい。けっこう高さがありますね。

 

歴史先生:高さ31.2m。法隆寺の五重塔が32.4mですからほぼ同じくらい。

 

マナブ:国指定重要文化財ということですが、いつできたものでしょう?

 

歴史先生:江戸前期、1667年の建立です。第3代藩主津軽信義、第4代藩主津軽信政の寄進で建てられました。

 

最勝院の境内

 

マナブ:境内は公園のように整備されて、とてもきれい。このお寺自体はどういう由緒なんでしょう?

 

歴史先生:実はちょっとややこしいので、混乱しないように聞いてくださいね。

 

マナブ:はい。

 

歴史先生:最勝院というお寺は、1532年に堀越城の近くに創建されました。でも堀越城ができたのは1594年ですので、お寺が先にありました。

 

マナブ:ふむふむ。

 

歴史先生:1611年、弘前城の城下町の整備の一環として、弘前城の鬼門にあたる北東側にできた弘前八幡宮の別当寺として移転させられます。

 

マナブ:今の場所と違いますね。

 

歴史先生:そうなんです。今の場所、すなわち弘前城の南側には大圓寺というお寺が建立されました。そしてそこに1667年に、立派な五重塔が建てられます。

 

マナブ:ん? ということは、今見ている五重塔は最勝院のものではなくて、大圓寺のもの?

 

歴史先生:はい、これは大圓寺の五重塔なんです。そして明治になり神仏分離が行われた際、大圓寺は今の青森県大鰐町に移転し、その跡地に最勝院が移転してきました。そしてそこにあった五重塔はそのまま引き継がれたわけです。

 

マナブ:なるほど、そういうことでしたか。

 

<おすすめのホテル>

アートホテル弘前シティ

 

 

選んだ理由

・立地:弘前駅前すぐ。列車を利用する予定はないが、買い物などに便利かと思われた。

・設備:弘前市内ではおそらくもっとも高級感あるホテル。大浴場はないが、広めの部屋、レストランなど充実。

・食事:ビュッフェレストランの評判が良い。

 

実際に泊まった感想

・アクセス:ホテルの裏に平面駐車場があり、レンタカーを停めやすい。

・立地:弘前駅のすぐ横。駅ビルなどで買い物するには便利。

・設備:高級感と清潔感もあって、快適な宿泊ができた。

・食事:2食付きで予約。ビュッフェは品数も多く、満足いく内容。

 

高級感ある室内

 

​歴史好きのための観光ガイド
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