弘前城の鬼門を守る「弘前八幡宮」
津軽為信の墓はとんでもないところにあった:革秀寺
猿賀神社に祀られる「田道命」って誰?
征服された側の東北の人たちが坂上田村麻呂らを英雄視するのは、いったいなぜ?
田舎館(いなかだて)というインパクトある地名はどうしてできた?
弘前市はなぜ日本一のリンゴ産地になったのか?
津軽為信による津軽切り取りの拠点:大浦城跡
弘前城になり損ねた津軽為信の新拠点:堀越城跡
高照神社に祀られる第4代藩主津軽信政とは?
江戸時代初期 の建物が多数残る、重文だらけの「岩木山神社」
TVCMで話題沸騰した絶景:鶴の舞橋
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つがる富士見荘
弘前城の鬼門を守る「弘前八幡宮」

弘前八幡宮

弘前八幡宮(地図 ❺)
〒036-8057 青森県弘前市八幡町1丁目1−1
9:00~16:30、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://hirosaki-hachimangu.com/
マナブ:弘前市内から北へ車で5分ほどの市街地の中にある「弘前八幡宮」に来ています。地図で見ると、ここは弘前城から見てちょうど北東になりますね。ということは弘前城の鬼門の守りとして置かれたのかな?
歴史先生:最近、いい見方をされるようになりましたね。そのとおりで、ここは弘前城を作った2代藩主津軽信枚(のぶひら)が、鬼門の守りとして1612年に移築した神社なんです。元々は1502年に大浦光信が大浦城の鬼門の守りとして大浦に建てた神社でした。
マナブ:代々、大浦家を守ってくれた八幡宮を、弘前城を作る際にここに持ってきたわけですね。
歴史先生:はい、そうです。

弘前八幡宮前から見る岩木山

車は鳥居をくぐって境内の中に停められる

拝殿
歴史先生:ここで見ていただきたいのは本殿と唐門。正面にあるのは拝殿ですが、拝殿に向かって左側から本殿が見え る位置まで入ることができます。
マナブ:行ってみましょう。

本殿(奥)と唐門(手前)(いずれも国指定重要文化財)
マナブ:あ、これですね。
歴史先生:はい、本殿と唐門。いずれも国指定重要文化財です。
マナブ:これらは移転の時に建てられたもの?
歴史先生:はい、八幡宮が大浦から弘 前に移転する際に新たに建てられました。江戸初期のもの、ということになります。

唐門(国指定重要文化財)
マナブ:唐門が特に印象的ですね。
歴史先生:そうですね。これは桃山時代の様式をもつ神社建築として貴重なものなんです。
津軽為信の墓はとんでもないところにあった:革秀寺

革秀寺

革秀寺(地図 ❻)
〒036-8373 青森県弘前市藤代1丁目4−1
境内自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyou/bunkazai/kuni/kuni13.html
マナブ:弘前市内から岩木川を渡った対岸にある「革秀寺(かくしゅうじ)」に来ました。ここはさっき「長勝寺」に行ったときに「津軽為信のお墓はとんでもないところにある」という話の中ででてきましたね。でもここは川沿いの何でもない場所。どういうことなんでしょう?
歴史先生:そのお話の前に、このお寺の成り立ちを説明しておきましょう。

本堂(国指定重要文化財)
歴史先生:ここ革秀寺は津軽為信が開基で彼の菩提寺とされていますが、実際には息子の2代藩主津軽信枚(のぶひら)が1608年に創建したお寺です。
マナブ:津軽為信が亡くなったのは・・・
歴史先生:1608年です。このお寺はそのすぐ後に建てられました。
マナブ:ということは藩祖津軽為信を弔うためのお寺。
歴史先生:そうなりますね。国指定重要文化財の本堂は一度焼失し再建されたようで、再建年はわかっていません。しかし江戸初期のものだと推定されています。

本堂は江戸初期に再建されたもの
歴史先生:ということで、津軽為信の霊屋はここにあります。近くから見ることはできませんが、境内向かって左側の林の中に見えています。
マナブ:あ、あれですね。でもここがとんでもないところ、というのはなぜですか?

津軽為信 霊屋(たまや)(国指定重要文化財)
歴史先生:現在、ここの地名は弘前市藤代というのですが、津軽為信が生きていた時代、ここに藤代御前という、それはそれは美しい女性が住んでいました。その美貌が評判となり、それは津軽為信の耳にも入ります。
マナブ:いやな予感。
歴史先生:津軽為信にはとても賢くて評判の高い正室の奥さんがいました。彼は婿養子ですので、正室というのは前の藩主の娘。それにもかかわらずこの藤代御前に興味をそそられ、何度も使者を送って口説きます。しかし藤代御前はそれをにべもなく突っぱねました。というのも、彼女の夫は津軽為信の津軽平定の戦いの中で殺されたからでした。
マナブ:それは断るのが当然でしょうね。
歴史先生:そんなことを繰り返していましたが、ついに津軽為信は我慢できなくなり、武力を用いてここの館を囲んで実力行使に出ます。しかし藤代御前は最後まで抵抗し、「末代まで祟ってやる」と言い残して亡くなりました。そして、その亡骸はここに埋められました。
マナブ:えっ、まさか・・・・。
歴史先生:それからしばらくして、津軽為信の跡継ぎの嫡男が病にかかり亡くなりました。そして同じ年、津軽為信も病で亡くなったんです。亡くなる直前、津軽為信は言い残しました。「私を藤代御前の墓の上に埋葬しろ。」
マナブ:うわ、怖い。
歴史先生:そのようにすることで、藤代御前の祟りを封じ込めることができると考えたのでしょう。家来たちは遺言通り、藤代御前の墓を覆うようにして津軽為信の墓を作りました。それがここ、革秀寺です。
マナブ:よく見ると、霊屋のあるところはかなり盛り土がされたようになってる。でもまさかそんな場所に墓を作るなんて。
歴史先生:とんでもない場所、と言った意味が分かりましたか?
マナブ:はい、よくわかりました。
猿賀神社に祀られる「田道命」って誰?

猿賀神社

猿賀神社(地図 ❼)
〒036-0242 青森県平川市猿賀石林175
境内自由
9:00~16:00、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
マナブ:さて、私たちは弘前市の東の郊外、平川市にある「猿賀神社」に来ています。
歴史先生:ここはかなり古い伝承を持つ神社です。
マナブ:いつ頃のことでしょう?

大鳥居と猿賀山長命院神宮寺
歴史先生:仁徳天皇の時代、367年に蝦夷征伐が行われました。その際、崇神天皇の五世孫(=5代目の子孫というわけではなく、少し遠い関係の子孫のことをこう呼ぶ)であった上毛野君田道命(かみつけぬきみ たみちのみこと)という人が総大将になりましたが、蝦夷の抵抗を受けて戦死してしまいます。
マナブ:そんな昔から蝦夷征伐なんてことをやっていたんですね。
歴史先生:はい。田道命は伊峙水門(いしのみと)というところで亡くなったと日本書紀には書かれていますが、それがどこなのかははっきりしません。千葉県の夷隅 (いすみ)郡、宮城県の石巻市などの説があります。
マナブ:古い時代のことですからね。
歴史先生:田道命はそこに埋葬されるわけですが、後日、蝦夷の人たちが墓を暴くと、彼の遺体は大蛇に変わり、毒気を吐きました。蝦夷の人たちは大いに恐れ、田道命を猿賀野というところに手厚く葬りました。
マナブ:それがここ?
歴史先生:いえ、こことは少し離れたところのようです。そして彼が亡くなってちょうど200年後の567年にこのあたりで洪水があり、その時に田道命の神霊は白馬にまたがってこの地へ流れて来たそうです。さて、平安時代になり、今度は坂上田村麻呂が総大将となって蝦夷征伐を行います。彼は苦戦しますが、田道命の霊に導かれて勝利を収めたことから、793年、坂上田村麻呂はここに田道命を祀りました。

拝殿
マナブ:田道命というのは大蛇になって毒を吐くくらいですから、とてもパワーのある神様と考えられたんでしょうね。
歴史先生:境内の案内図を見てもらうと、ここには大きな池が2つあります。地形的に見て、水と関係しそうな場所ですよね? そこで仏教が広まってくると、深沙(じんじゃ)大王の信仰と結びついていったようです。
マナブ:あ、それは東京・調布の深大寺で勉強した、水の神様ですね。

猿賀神社 の境内は2つの大きな池を持つ公園になっている
歴史先生:また、猿賀神社は蝦夷討伐をした田道命を祀る神社として東北の武家から広く崇拝されました。その中には奥州藤原氏の藤原秀衡や、南朝の忠臣として名高い北畠顕家らが含まれているそうです。
征服された側の東北の人たちが坂上田村麻呂らを英雄視するのは、いったいなぜ?

青森のねぶた祭りでも坂上田村麻呂が題材にされることが多かった
マナブ:こちらにきて不思議に思っていることがあります。
歴史先生:何でしょう?
マナブ:田道命とか坂上田村麻呂って、東北の人たちからみて、祀るべき英雄なんでしょうか? 京都の人から見れば、得体の知れない恐ろしい蝦夷を退治して、都に富をもたらした英雄なんでしょうけど、東北の人から見れば、自分たちの故郷に武力で侵入してきて、略奪・殺戮を繰り返した敵のはず。
歴史先生:ふむふむ。
マナブ:似たような例として、韓国の人たちは、いまだに秀吉の朝鮮出兵の恨みを忘れません。東北は何度も京都からの侵略を受け、人を殺され富を奪われています。ここに祀られている田道命は、憎むべきそのさきがけで、それをなぜ大切にするのか、理解できません。

猿 賀神社の中にある日吉神社
歴史先生:たしかにそうですよね。これという定説はないのですが、私はとても複雑な歴史が絡んでいると思っています。
マナブ:というと?
歴史先生:縄文時代、東北地方には多くのアイヌ民族が住んでいました。そこに稲作文化が持ち込まれ、大和民族が入り込んで共生していたようです。そんな平和な地域でしたが、言葉も違い、見た目も違う人たちが陸続きに住んでいることに対して、奈良や京都の人たちが恐怖感を持ったのでしょう。
マナブ:さらには東北には資源もあった。
歴史先生:そうですね、名馬の産地であり、金も出た。そこで京 都の政権は「征夷大将軍」というポストを作って、東北を侵略する軍を何度も派遣します。ただし武力だけではその後の統治が難しいので、比叡山のトップであった慈覚大師(円仁)が多くの寺を開いて、仏教による統治を試みます。中尊寺(平泉)、瑞巌寺(松島)、立石寺(山形)、そして恐山などもそう。
マナブ:広い範囲で、現在でもメジャーなお寺を開いていますね。
歴史先生:さらにあちこちに神社を開いて、坂上田村麻呂らを祀り、その英雄譚を神社の伝承として残していきました。ところで「蝦夷」ということばですが、中世では「えみし」と読んで東北の人たちを指していましたが、近代では「えぞ」と読んで北海道やアイヌ民族のことを指すようになりました。
マナブ:その読み方の違いも不思議に思っていました。
歴史先生:江戸時代にここがす り替わったのではないかと思っています。
マナブ:すり替わった?
歴史先生:東北を支配していたのは南部氏や津軽氏。彼らは甲斐の国にルーツをもつ大和民族です。彼らが東北を支配するにあたって、「自分たちは蝦夷を討ってここにやってきた大和民族なんだ」というアイデンティティを領民たちに付したのではないかと。
マナブ:ということは、領民の人たちは本当は討伐された側だったのに、討伐した側だと思わされた?
歴史先生:はい、でも全員が討伐した側だとおかしいので、実際に盛岡藩や津軽藩ではアイヌ民族を「えぞ」と呼んで、1つ低い身分に置いて差別していました。それによって領民たちは「自分たちが討伐した側だ。田道命や坂上田村麻呂は私たちの英雄だ」という意識を持ったのではないかと思います。東北の安定統治のために江戸幕府も それを指導、または支持していたかもしれません。
マナブ:問題は江戸時代にあったんですね。
歴史先生:それだけではありません。明治新政府になると、天皇制による中央集権国家ができます。そうなると必要なのは・・・・
マナブ:自分たちは天皇陛下をトップとする民族の一員であるという自覚。
歴史先生:そのとおりです。明治・大正、そして昭和の戦前まで、ヤマトタケルの話に始まり、坂上田村麻呂など、征服側の英雄譚が日本中で徹底的に教育されるようになりました。そして東北の人たちは、「自分たちは大和民族であり、征服者の子孫である」と錯覚させられて、天皇制に組み込まれていったのではないかと思います。
マナブ:それは現代まで続いているんでしょうか?
歴史先生:戦後、少しずつ見直しが進んでいます。坂上田村麻呂に対抗して兵を上げた阿弖流為(アテルイ)が、暴虐非道の鬼ではなくて、東北の英雄であったと見直され、東北の人たちは「自分たちは征服された側の蝦夷(えみし)だ」という自覚が徐々に芽生えてきました。
マナブ:みんなが自己矛盾に気づき始めた。
歴史先生:はい。たとえば青森ねぶた祭りでは、山車の最優秀賞を「田村麿賞」と呼んでいたのですが、1995年に「ねぶた大賞」と名称変更しました。坂上田村麻呂は自分たちを征服した敵だという理解が広まってきた証拠です。

鏡ヶ池に浮かぶ日吉神社と神橋
マナブ:そんな東北の悲しい歴史を持つ神社なんですね。池の景色がとてもきれいなのが、なんだか物悲しい。
歴史先生:ここ鏡ヶ池には蓮の花が咲き乱れます。蓮の群生地としてはここが日本最北端なんだそうですよ。
田舎館(いなかだて)というインパクトある地名はどうしてできた?

田舎館 田んぼアート(写真は2014年の作品)

マナブ:猿賀神社のすぐ近く、「田舎館(いなかだて)」という村に来ています。インパクトのある地名ですね。吉幾三を思い出します。
歴史先生:吉幾三さんの代表曲と言えば「俺ら東京さ行ぐだ」、でしょうか。
マナブ:「はぁー、テレビも無エ、ラジオも無エ、車もそれほど走って無エ・・・・♪」
歴史先生:歌えてますね(笑)。吉幾三さんはこの近くの青森県五所川原市の出身。
マナブ:他にも「俺は田舎のプレスリー」というのもありましたね。歌詞の中に「生まれ青森五所川原~♪」というのもありました。
歴史先生: それらの歌で「津軽・青森イコール田舎」というイメージが全国に浸透しました。
マナブ:それなのに村の名前に堂々と「田舎」と付けるのは開き直りがすごいですね。
歴史先生:そうではないと思いますよ。
マナブ:えっ?

田舎館村の村役場の屋上には天守閣が建っている
田舎館村役場
〒038-1113 青森県南津軽郡田舎館村田舎舘中辻123−1
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
http://www.vill.inakadate.lg.jp/docs/2022050600021/
歴史先生:「田舎(いなか)」って元々どういう語源だかご存じですか?
マナブ:田んぼに関係しそうですが・ ・・。そういえば変な読み方ですね。
歴史先生:一説には田んぼがあるところという意味の「田舎中(たいなか)」、あるいは稲(いね)から来ているとか。
マナブ:やはり田んぼ関係。
歴史先生:そうでない説としては蝦夷(えみし)がいるところという意味の「夷中(いなか)」。ここ田舎館に限って言えばこれも有力な説だと思います。
マナブ:あ、そういうのもあるんだ。
歴史先生:全国に「田」がつく地名なんて、いくらでもありますよね。高田、吉田、太田、などなど。そう考えると田舎館という地名はおかしくないんです。ここ田舎館という名前も中世からあって、田 舎館城というのもありました。
マナブ:なるほど。
歴史先生:ここ田舎館は弥生時代からしばらくは稲作の北限地でしたから、ここで稲作ができるぞというのは、この地の人々の誇りであったに違いありません。
マナブ:そうか、田んぼがあることを誇りにしていた地名なんですね。失礼しました。

田舎館村役場 4F展望デッキから見る岩木山
歴史先生:では田舎館村役場に行ってみましょう。ここの4階は展望デッキになっています。
マナブ:あ、天守閣がある。遊び心のある村ですね。4階と聞くと低そうですが、周りに高い建物がないので、展望がいいですね。岩木山は大きいなぁ。ここからとても雄大で神々しい姿がよく見えます。
歴史先生:岩木山の反対側(東側)には田んぼアートが見下ろせます。

田んぼアートの6月初旬の様子
マナブ:ん? これ?
歴史先生:まだ6月初旬ですから田植えをしたばかり。ここから色の違う稲が育ってきて、7月後半から8月にかけては立派なアート作品が見られますよ。
マナブ:それもいつか見てみたいですね。
弘前市はなぜ日本一のリンゴ産地になったのか?

弘前市りんご公園

弘 前市リンゴ公園(地図 ❽)
〒036-8262 青森県弘前市清水富田寺沢125
入園無料
9:00~17:00、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.hirosaki-kanko.or.jp/edit.html?id=ringopark
マナブ:弘前市の南西の丘の上にある、「弘前市りんご公園」に来ています。広い駐車場のある、とても整備された公園です。今日も幼稚園児や小学生がたくさん遠足に来ています。
歴史先生:ここには大型のお土産店、カフェ、シードル工場などがあって、周囲にはりんご畑が広がります。季節によって収穫体験や摘果体験などができます。
マナブ:青森と言えばやっぱり「りんご」ですね。
歴史先生:青森県は全国のリンゴ生産量の約6割を占めています。
マナブ:そんなに? 圧倒的なんだ。
歴史先生:市町村別では弘前市が日本一。全国の20~25%のりんごは弘前市産です。このあたり、岩木山のなだらかなすそ野が広がっていますが、見渡す限り、リンゴ畑。
マナブ:なるほど、青森のリンゴと言いますが、弘前あたりが中心だったんだ。

りんごの解説コーナー
歴史先生:ところで、リンゴって世界ではいつ頃から食べられていたと思いますか?
マナブ:ん? 考えたこともなかったけど、少なくともニュートンの時代にはあった。あ、ウイリアムテルの時代にもあった。どちらが先か知らないけど。
歴史先生:たしかに(笑)。ちなみにニュートンは17世紀の人、ウイリアムテルは実在の人物ではありませんが14世紀の物語。さて、リンゴの歴史は実際にはもっともっと古くて、4,000年前の遺跡からも炭化したリンゴが発掘されているそうで、大陸では古代から食べら れていました。では日本はどうだと思いますか?
マナブ:うーん、いつだろう。南蛮貿易をしていた室町時代とか?
歴史先生:実は日本史の中でリンゴというのは非常に新しいものなんです。はっきり記録があるのは1871年(明治4年)、当時北海道開拓使次官だった黒田清隆がアメリカから苗木を輸入したもの。
マナブ:えーっと、黒田清隆というと・・・。
歴史先生:薩摩藩士として戊辰戦争を戦い抜き、明治になってからは陸軍で活躍。伊藤博文暗殺のあと、2代目の内閣総理大臣になった人です。
マナブ:リンゴが初めて輸入されたのは明治になってからですか。かなり新しいで すね。
歴史先生:政府の関係者はこのリンゴという果物に驚き、目を付けました。栄養価も高く、とてもおいしい。これは栽培を奨励しよう、ということになります。

園内には品種ごとにりんご畑が広がる
歴史先生:ところで明治時代の初め頃、政府が抱えていた大問題は何だったでしょう?
マナブ:武士の身分を失った不平士族をどう扱うか。
歴史先生:そのとおり。武士から急に平民になっても、彼らにはお金を稼ぐ手段がなかったんです。そこで政府が目を付けたのがリンゴ。 仕事が無くなった士族たちにリンゴの栽培を奨励したんです。
マナブ:といってもリンゴが良く育つ場所は限られていますね。
歴史先生:長野県や青森県の津軽地方などが最適な土地であることがわかりました。津軽地方は夏涼しく、冬は雪が非常に多い。昼夜の寒暖差も大きい。こういった条件は甘くて大きなリンゴを栽培するのに適していたんです。
マナブ:仕事を失った津軽藩の士族たちにリンゴ栽培をさせたんですね。
歴史先生:しかしそれには大変な時間がかかりました。まず、青森県庁にリンゴの苗木3本が試験的に植えられたのが1875年(明治8年)。実はこの年、弘前のジョン・イングが開いた自宅でのクリスマスパーティで、リンゴをお客さんたちに出します。
マナブ:ジョン・イングというのは東奥義塾に招かれた教師でしたね。
歴史先生:はい。ところで、パーティに集まった塾生の中に、旧津軽藩士の菊池楯衛(きくち たてえ)という人がいました。彼は初めて見るリンゴのおいしさに感動。これを弘前で栽培することを決意し、旧津軽藩の士族の仲間たちに苗木を配布します。
マナブ:弘前のリンゴはそこから始まった。
歴史先生:そうです。菊池楯衛は1877年(明治10年)には北海道に渡って、開拓の指導をしていたアメリカ人からリンゴの栽培方法を習得。弘前に持ち帰ってその技術を指導しました。毎年品評会を開いて品質の向上に務め、さまざまな栽培技術を開発して弘前のリンゴ栽培の基礎を作りました。後に彼は「青森りんごの始祖」と呼ばれるようになります。
マナブ:そういう昔の人のリーダーシップがあったからこそ、今があるんですね。

園内は岩木山の絶好の展望地
歴史先生:その後も苦労の連続でした。1900年(明治33年)には病気でリンゴがほぼ全滅。しかし菊池楯衛から栽培技術を学んだ外崎嘉七(とのさき かひち)は、今ではおなじみとなった袋かけ、ボルドー液散布など、新しい技術を開発して、病害虫の被害からリンゴ栽培を復活させました。
マナブ:いろんな人の苦労があるんですね。
歴史先生:その後大正・昭和、そして現在に至るまで、たびたび病気の発生や台風被害などを受けますが、そのたびにリンゴ農家さんたちは復活を期して苦労を重ねています。
マナブ:たしか「リンゴ台風」というのがあったような・・・。
歴史先生:1991年(平成3年)の台風19号の別名です。長崎に上陸してその後日本海沿岸を進み、北海道に再上陸したんですが、強い風によって津軽地方のリンゴの多くが収穫前に木から落ち、商品にならなくなったんです。被害額は741億円にも及び、翌年以降の収穫量にも影響しました。
マナブ:おいしいリンゴが食べられるのも、農家さんたちの苦労のおかげですね。大事に食べなきゃ。
津軽為信による津軽切り取りの拠点:大浦城跡

大浦城跡

大浦城跡(地図 ❾)
〒036-1331 青森県弘前市五代早稲田495
マナブ:弘前市の西の郊外にある、大浦城跡にやってきました。石碑が立っていて、案内板がありますが・・・ それだけで他に は何もありません。
歴史先生:そうなんです、今は本丸も二の丸も住宅地や学校になっていて、城跡らしいものは見当たりません。かすかにその地形に名残をとどめてはいますが。
マナブ:大浦城はこれまで何度も話題に出てきましたね。大浦氏はここを拠点にしていた。
歴史先生:はい。この大浦城を築いたのは大浦光信。1502年のことです。
マナブ:弘前の長勝寺でその人の話がありましたね。たしか大浦光信というのは、南部一族で、安東氏への抑えとして鯵ヶ沢(青森県西部)に配置された武将だったかな?
歴史先生:そうです、そうです。彼が大浦にも城を築き、その後ここを拠点にして「大浦氏」と名乗るようになりました。大浦光信はいわば大浦氏・津軽氏の始祖。

案内板
歴史先生:そして時代は下って1567年、久慈の南部一族から為信が婿養子として大浦城にやってきます。大浦為信と名乗るようになった彼は、1571年に南部氏の石川城を攻略。その後、次々と津軽地域、外ヶ浜地域の城を落として南部氏から領土を切り取りました。
マナブ:そして武力で切り取った領土を自分のものだと秀吉に認めさせたんでしたよね。
歴史先生:そうです。
マナブ:そして津軽為信と名乗るようになり、津軽藩の藩祖となった。
歴史先生:はい、そのとおり。秀吉の小田原攻めから4年後の1594年、津軽為信は拠点を大浦城から堀越城へと移します。津軽為信の一生について、簡単にここでまとめておきましょう。
1550年:久慈(岩手県)生まれ
1567年:大浦城に婿養子として入り、大浦為信と名乗るようになる
1571年:支城であった堀越城から、南部氏の石川城の修繕工事を行うと見せかけて急襲。城主の南部高信を自害に追い込む。
1578年:南部一族の主君筋である北畠氏の浪岡城を攻め落とす。
1585年:油川 城を攻め落とし、外ヶ浜一帯を領土に加える。
1590年:秀吉の小田原攻めに南部信直より一足先に参陣し、津軽を領土として認めてもらう。その後、上洛し、秀吉の聚楽第に招かれる。大浦為信から津軽為信と名前を変える。
1591年:九戸政実の乱に秀吉方として参陣する。
1592~1593年:秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に動員され、肥前名護屋城に滞在する。
1594年:大浦城から堀越城へ本拠を移す。
1600年:関ケ原の戦いで東軍に参陣する。
1603年:弘前城(当時の名前は高岡城)の築城を始める。
1607年:嫡男の津軽信建に続き、為信も死去する。
マナブ:なるほど、頭が整理できました。
歴史先生:では、その堀越城跡へ行ってみましょう。
マナブ:行きましょう。
弘前城になり損ねた津軽為信の新拠点:堀越城跡

史跡 堀越城跡

堀越城跡(地図 ❿)
〒036-8114 青森県弘前市川合岡本160−1
入場無料
9:00~16:00、開館は4/17~11/23
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
http://horikoshi.hirosaki-bunkazai.com/
マナブ:弘前市の南東に位置する堀越城跡に来ました。大きな古民家が建っていて、そこがガイダンス施設なんだそうです。施設前の無料駐車場に車を停めました。
歴史先生:この古民家なんですが、旧石戸谷家住宅(きゅういしどやけじゅうたく)という江戸時代後期の豪農の家です。

旧石戸谷家住宅。遠くに岩木山が見える。

旧石戸谷家住宅の内部
マナブ:大きな家ですね。
歴史先生:100坪以上の面積があります。後世の改築がほとんどされておらず、江戸末期の豪農の家として貴重な建物ですね。農家なんですが、書院造りなど武家の様式も取り入れられています。
マナブ:なるほど。
歴史先生:さて、この住宅の半分くらいのスペースが、堀越城跡のガイダンス施設となっていて、わかりやすい展示がなされていますので、城跡を見る前に予習しておきましょう。

津軽藩の旗指物(はたさしもの)

三ノ丸の入口
歴史先生:では、城跡を歩きましょう。ガイダンス施設は三ノ丸のすぐ脇。ここから城跡へ入るわけですが、何と三ノ丸の真ん中を国道7号線バイパスがドドーンと突っ切っているんです。
マナブ:えー、そんな。

国道7号線バイパスをくぐる
歴史先生:しかしその工事をきっかけとして、1976~1977年に大規模な発掘調査がなされました。それによって多数の遺構と遺物が見つかり、堀越城跡は1985年に史跡として指定されました。
マナブ:今は公園としてきれいに整備されていますね。
歴史先生:はい、史跡指定以降さらに詳しい調査がされて、二の丸、三の丸の範囲の確定や、土塁、堀などの復元がなされました。

二の丸と本丸の間の土塁と堀
マナブ:さて、堀越城は津軽為信が大浦城から本拠を移した城、ということでしたね。
歴史先生:はい、1594年、家来たちはもちろん、寺社仏閣や商人たちまでを引き連れた大規模な引っ越しになりました。
マナブ:城だけでなく町ごと引っ越したんですね。
歴史先生:堀越城は当時としては最新の構造・技法を用いた城でした。というのも、津軽為信は1590年に京都で秀吉の聚楽第に呼ばれてその建築に目を見張り、さらに1592~1593年には大規模な築城が行われた肥前名護屋城に滞在しています。
マナブ:なるほど、そこで最新技術を学んだんだ。

二の丸から本丸へ架かる橋

本丸
マナブ:本丸に入ってきました。ここにも建物跡がありますね。
歴史先生:これは本丸御殿の跡、と考えられています。城主が謁見する広間、城主の生活の場や大奥などの建物群の跡が発掘されています。
マナブ:せっかく城と城下町を作ったのに、また弘前城に引っ越したんですよね。
歴史先生:はい、弘前城でもお話ししたように、津軽為信が関ヶ原に参陣している間に堀越城は反乱軍に占拠されてしまいます。堀越城では守りが不十分であることがわかり、抜本的に新しい城づくりが必要になりました。
マナブ:戦国時代は大変ですね。
高照神社に祀られる第4代藩主津軽信政とは?

高照神社 一の鳥居

高照神社(地図 ⓫)
〒036-1344 青森県弘前市高岡神馬野87
境内自由
(高岡の森弘前藩歴史館は入館料300円、9:30~16:30、第3月曜日休)
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
http://www.city.hirosaki.aomori.jp/gaiyou/bunkazai/kuni/kuni20.html
マナブ:弘前市の西部、岩木山のふもとにある、高照(たかてる)神社に来ています。鳥居を入ると中に車を停められます。ここはどういう神社なんですか?
歴史先生:高照神社は第4代津軽藩主の津軽信政の廟所があるところで、1711年に第5代津軽信寿がその廟所の前に社殿を建てて神社としたものです。

神橋と三の鳥居
歴史先生:ここの特徴は、一番奥の廟所を起点として、本殿、拝殿、随神門、鳥居などが一直線に並んでいる配置。こちらの境内の案内図を見てください。

境内案内図
マナブ:あ、ほんとだ。一直線に並んでいますね。
歴史先生:しかもそれらが国指定重要文化財に指定されています。
マナブ:創建当時のものですか?
歴史先生:そうですね、廟所は1710~1711年、本殿と中門は1712年ですので創建当時のもの。拝殿は1755年ですので少し後になります。

随神門(国指定重要文化財)
マナブ:これだけの廟所を自分のためだけに作らせた津軽信政というのはかなり力があったんでしょうか。
歴史先生:彼の治世の間、治水事業や新田開発を行い、さらには養蚕・織物・製紙業などの産業を興すことで、津軽藩の中興の祖と言われた人物です。
マナブ:優秀な人だった。
歴史先生:はい。山鹿素行(やまが そこう)という人をご存じですか?
マナブ:名前だけ聞いたことがあるような・・・。
歴史先生:江戸時代前期の儒学者である軍学者でもある彼は、「山鹿流兵法」で有名です。
マナブ:あ、それは聞いたことがあります。
歴史先生:津軽信政は15歳で山鹿素行に師事し、兵学を身に付けました。

拝殿(国指定重要文化財)
歴史先生:26歳の時、吉川惟足(よしかわ これたり)に師事しますが、ご存じですか?
マナブ:いいえ。
歴史先生:吉川惟足は吉川神道の創始者。
マナブ:吉川神道?
歴史先生:はい。道徳的な教えを持った神道の一種で、朱子学の思想なども取り入れています。津軽信政は吉川神道を信奉し続けました。高照神社もその教えに基づいて建てられています。
マナブ:ふうーん、津軽藩の発展を率いたリーダーなんでしょうけど、自身のこだわりも強かったのでしょうね。普通は死後は先祖と同じところに並んで葬られるんでしょうけど。
歴史先生:津軽藩の歴代藩主の中でも、特別な存在であったと言えます。

中門と本殿(いずれも国指定重要文化財)

弘前藩歴史館
歴史先生:境内には「弘前藩歴史館」があるのですが、今週いっぱいは 展示替えのため休館。残念ですが、またの機会といたしましょう。
マナブ:あら、残念。
江戸時代初期の建物が多数残る、重文だらけの「岩木山神社」

鳥居前に広い駐車場がある

岩木山神社(地図 ⓬)
〒036-1343 青森県弘前市百沢寺沢27
境内自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
マナブ:高照神社から車ですぐ、岩木山神社(いわきやま じんじゃ)に来ました。
歴史先生:昔の人たちは岩木山を神様のように見ていました。
マナブ:はい、私も弘前に来てその思いを感じることができました。
歴史先生:農業、漁業の神様として古代から崇拝されていたようです。そして奈良時代の780年には山頂に社殿が建てられ、それが岩木山神社の始まりです。
マナブ:でも山頂に社殿があるのは大変だから、その麓にも社殿を作った。
歴史先生:はい、そうなんです。麓に最初の社殿を建てたのは坂上田村麻呂。800年のことでした。その後平安時代の後期、1091年に今の場所に移されたそうです。その時は「百沢寺」、という名前の寺院でした。
マナブ:あ、そうだ。弘前市内で行った長勝寺にあった五百羅漢は元々「百沢寺(ひゃくたくじ)」のもので、その寺は今は岩木山神社になっているという話でしたね。
歴史先生:そうです、そうです。ところで、その百沢寺は戦国時代の1589年に岩木山の噴火によって焼失してしまいました。その後1603年に津軽為信が再建を開始し、その後の津軽藩主たちによって建てられたものが今の岩木山神社です。

鳥居からまっすぐな参道が続く
マナブ:長くてまっすぐな参道が続いていますね。
歴史先生:冬の空気の澄んだ日などは、背後に雄大で真っ白な岩木山がそびえています。今日はガスがかかっていて見えない のが残念ですが。

楼門(国指定重要文化財)

中門(国指定重要文化財)
歴史先生:境内は国指定重要文化財だらけ、です。拝殿は1603年に津軽為信が再建したもので、楼門、中門、奥門、本殿、瑞垣は1694年に第4代藩主津軽信政が建立しました。
マナブ:どれも江戸時代初期の建物が残っているんですね。

拝殿(国指定重要文化財)

奥門と本殿(いずれも国指定重要文化財)
マナブ:第4代津軽信政は隣に高照神社を作ったから、先祖代々大切にしていた岩木山神社とは一線を画しているのかと思ったのですが、そうではなかったのですね。
歴史先生:はい、信政の時代は津軽藩の黄金期。藩の財政も豊かになり、岩木山神社の再興にも力を入れることができたのでしょう。
マナブ:岩木山の山麓に広がる静かな森の中。とても神聖な空気が流れる場所でした。とても見ごたえのある神社でしたね。
TVCMで話題沸騰した絶景:鶴の舞橋

鶴の舞橋

鶴の舞橋(地図 ⓭)
〒038-3542 青森県北津軽郡鶴田町廻堰大沢
駐車場は8:00~18:00、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.medetai-tsuruta.jp/spot/sightseeing/tsurunomaibridge.html
マナブ:岩木山の北麓、「鶴の舞橋」に来ました。ここ、前から気になっていたんですよ。
歴史先生:というと?
マナブ:CMがあったのを覚えていますか?
歴史先生:あ、やはりそれでしたか。2016年、JR東日本の「大人の休日倶楽部」のCM。吉永小百合さんが出ていたものですね。
マナブ:あ、それです。こんな素敵な場所があるのか、と印象的でした。

当時のポスターが「つがる富士見荘」のロビーに貼られている
歴史先生:今日は私たちは「つがる富士見荘」に泊まるので、そこに車を停めましたが、観光だけであれば橋の反対側(南側)にある駐車場を利用します。

橋の入口

橋は板張りで歩きやすい
歴史先生:では、歩いて橋を渡りましょう。
マナブ:岩木山がきれい。頂上が雲で隠れているのがちょっとだけ残念ですが。
歴史先生:1991年に着工し1994年に完成した、日本最長の木造橋です。100mの太鼓橋が3つ連なっている、全長300mの橋。木材には青森ヒバが使われています。
マナブ:何のための橋でしょう?
歴史先生:これは純粋に観光のためのもの。鶴田町のシンボルとして造られました。周囲も公園として整備されています。

橋の途中にある「ステージ」
歴史先生:橋の途中2か所に「ステージ」と呼ばれる休憩所があります。ここに、この池にまつわる伝説が書かれているので読んでみてください。
マナブ:どれどれ。えーっと、今から400年前、室町時代の半ばかな、清水城に間山之守という若い城主がいて、狩りの途中でこのあたりの民家に寄った時に白土姫というそこの娘一目惚れ、2人は恋に落ちた。その後も間山之守は毎日のように1人で狩りに出かけ、白土姫と会っていた。
歴史先生:うんうん。
マナブ:ところがそのうち、間山之守には縁談が舞い込んで、近所の有力者の娘と結婚することになった。そうとも知らない白土姫は、彼と約束した正月用の晴れ着をせっせと縫っていて、雪の中、それを清水城へ持って行った。ところがその日は間山之守の婚礼の日だということを聞いて白土姫は絶望。この池に身を投げた。その後、池から清水城に白竜が飛ぶのが目撃された。
歴史先生:まだ続きがありますね。
マナブ:間山之守は白竜の噂を一笑に付したが、その後おかしな行動をとるようになり、ついには毎晩藩士を呼びつけては惨殺するようになった。ついには奥さんも殺して、この池に吸われるように来て、自らも池に身を投げた・・・ということですか。
歴史先生:史実としては確認できませんが、大きな池だけにその神秘的な姿からそのような伝説ができたのかもしれません。

廻堰大溜池(まわりぜきおおためいけ)
マナブ:それにしても大きな池ですね。これは湖ですか?
歴史先生:いえ、これは1660年に第4代藩主津軽信政が造られた農業用のため池です。
マナブ:ん? だとすると伝説にあったような時代にはこの池はなかった?
歴史先生:元々自然の湧水の池があったようですが、室町時代は今よりははるかに小さな池だったでしょう。 今では「津軽富士見湖」という別称がついていますが、正式には「廻堰大溜池(まわりぜきおおためいけ)」という名前です。
マナブ:いかにも人工的なため池の名前ですね。
歴史先生:周囲11㎞という日本での有数のスケールを持つ、人工的なため池です。
マナブ:第4代藩主津軽信政はいろいろな事業を行ったんですね。財政的な豊かさが想像できます。

橋から見た「つがる富士見荘」
歴史先生:橋からは今晩泊まる「つがる富士見荘」が良く見えています。
マナブ:ということはホテルからも橋がよく見える?
歴史先生:そういうことです。
マナブ:楽しみですね。ではホテルに入りましょうか。
歴史先生:そうしましょう。
<おすすめのホテル>
つがる富士見荘
つがる富士見荘は鶴の舞橋のたもとにある絶景ホテル、一度は泊まってみたい。

ホテル外観
選んだ理由:
・立地:鶴の舞橋のたもと。ホテルの部屋からも橋が見られる。普段は見ることが難しい早朝や夕景・夜景も楽しめそう。
・価格:リーズナブルな設定になっている
実際に泊まった感想:
・立地:ホテルの玄関を出て1分も歩かないうちに橋のたもとに着く。夕方や早朝の散歩に最適なロケーションだった。
・眺望:ロビーに入った瞬間、前方に鶴の舞橋の景色が広がる。感動的。部屋からも橋が見える。
・施設:きれいに清掃されており、問題なし。大浴場も温泉で気持ちがいい。
・食事:付近にレストランなどはないので2食付きのプランを選択。温泉宿として標準的な満足いく食事が提供された。

ロビーに入ると鶴の舞橋の眺めに驚かされる

部屋からも橋が見える

夕食の例

