
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
深い「歴史」と驚異の「地形」を満喫できる会津若松・裏磐梯
会津へ行く前に戊辰戦争の流れを学んでおこう
【旅のメモ その❶】旅行スケジュールはどう組むのがいい?
【旅のメモ その❷】私たちが選んだホテルとその理由(東山温泉、会津若松駅前、裏磐梯)
【旅のメモ その❸】会津若松市内の移動は「まちなか周遊バス」が便利
【旅のメモ その❹】駅に着いたら荷物をホテルへ送ってしまおう
【旅のメモ その❺】旅行前準備:会津ファンクラブへの入会のお薦め
深い「歴史」と驚異の「地形」を満喫できる会津若松・裏磐梯

会津若松城(鶴ヶ城)
マナブ:今回は福島県、会津若松を訪れます。
歴史先生:会津若松と言えば何を連想しますか?
マナブ:「会津若松城」、そして「白虎隊」ですかね。戊辰戦争で官軍に最後まで抵抗した悲劇の会津藩、といった印象です。

五色沼(裏磐梯)
歴史先生:そうですね、歴史という観点からは今回は戊辰戦争の話が中心になると思います。ではもう1つ、会津若松で思い出す山、と言えば?
マナブ:えっ、山ですか。あ、そうだ、会津磐梯山。たしかそんな歌もありましたよね。
歴史先生:はい、この磐梯山が地形的にはとてもおもしろい。今回は磐梯山の裏側、「裏磐梯」を訪れましょう。ここでは五色沼が有名です。
マナブ:たしか猪苗代湖も近くですよね?
歴史先生:はい、そうなんです。では全体の地図を見てみましょう。

マナブ:東北新幹線がこの地域の大動脈で白河、郡山、福島という都市を結んでいて、会津若松はそこからちょっとはずれた山の中の盆地。
歴史先生:はい、福島県でテレビの天気予報などを見ていると、左(西側)から会津、中通り、浜通りという3つの地域に分かれています。人口の多い都市と言えば郡山、福島あたりで、それらが並ぶ中通りが福島県の中心です。
マナブ:それを考えると、会津というのはあまり地理的に恵まれていない場所のように見えるのですが、なぜ歴史上よく名前が出てくるようになったんでしょう?
歴史先生:いい質問です。実は江戸時代まで、メインの街道は中通りではなく、日光から山を越えて会津若松、として米沢へと続くルートだったんです。さらには新潟からの街道もあり、会津若松は交通の要所でした。
マナブ:そうだったんですか。それにしても会津は広くて平らな盆地ですね。これはどうやってできたんでしょう?
歴史先生:この会津盆地は、800万~1,000万年ほど前は、日本海に続く入江でした。しかし西側の断層が隆起することで入江はふさがり、そこへ河川からの土砂が堆積して扇状地を形成したんです。今でも川は日本海に向かって流れています。
マナブ:福島県なので何となく太平洋側だと思っていましたが、違うんですね。
歴史先生:会津は新潟とのつながりも深く、気候も日本海側に近いと言えるでしょう。
マナブ:なるほど。そして地図の中心付近にあるのが磐梯山。南に大きな猪苗代湖があって、北側にもいくつか湖が見えます。
歴史先生:そうですね、猪苗代湖は元々断層と断層の間にできた盆地だったんですが、磐梯山の噴火による山体崩壊で川が堰き止められて、湖になったんです。この地域には磐梯山をはじめとするたくさんの火山があって、活動が活発なところなんですよ。
マナブ:その証拠に地図中に「温泉」の名前も見えますね。
歴史先生:福島県にもいい温泉がたくさんあります。ぜひ入っていきましょうね。
マナブ:いいですね~。
会津へ行く前に戊辰戦争の流れを学んでおこう

会津若松駅前の白虎隊士像
歴史先生:会津若松では行く先々で戊辰戦争の話が出てくると思います。ですので、全体の流れを把握しておくと現地で理解もしやすいと思いますよ。
マナブ:そうですね。ぜひお願いします。
歴史先生:まず「戊辰」ということばですが、日本では各年を「十干」と「十二支」の組合せで表す干支(えと)が用いられてきました。
マナブ:たしかそれが60年で一周するから、「還暦」をお祝いするんですよね?
歴史先生:そうです、そうです。さて、明治維新の年とされる1868年。この年の干支が「戊辰」でしたので、「戊辰戦争」と呼ばれます。
1868年1月3~4日:鳥羽・伏見の戦い
歴史先生:1868年という年は、早くもお正月から戦争です。1月3日、4日に、京都で「鳥羽・伏見の戦い」があり、ご存じの通り薩長が幕府軍を破ります。この時、部下の兵士たちが戦いを続けているにも関わらず、第15代将軍の徳川慶喜は船に乗ってさっさと江戸に戻ってしまいました。幕府軍は薩長を上回る兵力を持ち、さらに海軍もあった。そして難攻不落の大坂城にいれば負け戦になるはずもないのに、薩長が掲げた偽物の「錦の御旗」を見て、「朝敵になりたくない」と思ったようです。慶喜が船に乗るとき、会津藩主で京都守護職の松平容保(まつだいら かたもり)、そしてその弟である桑名藩藩主の松平定敬(まつだいら さだあき)に「お前たちも一緒に来い」とばかり、強引に連れて行きます。
マナブ:それは知りませんでした。逃げたのは徳川慶喜だけかと思っていました。
歴史先生:松平容保は家来たちに相談する暇もなく、神保修理という近侍にだけ「わしは上様と一緒に船で江戸に帰る」と告げました。それを神保修理から伝え聞いた会津藩士たちはびっくりしたことでしょう。戦いの最中に将軍様が逃げ出すなんて。
マナブ:将軍だけかと思ったら、何とうちの藩主も一緒に、だなんて。
歴史先生:慶喜が乗った船は風に流されたりして、1月12日にようやく江戸に着きます。そうこうしているうち、鳥羽・伏見で傷ついた敗残兵たちも続々江戸へ戻ってきました。会津藩の兵士の中では戦死者120名、けが人150名という被害を出しています。
マナブ:みんな怒ってたんじゃないですか?
歴史先生:普通は藩主に対してはそんなことはしないんですが、我慢の限界を超えたのでしょう、先に逃げ出した松平容保に対して敗残兵たちの不満が爆発します。でも、だからといって主君を直接罰することもできない。
マナブ:で、どうしたんですか?
歴史先生:このままでは兵たちの怒りが収まらないので、主君の代わりに、主君の逃亡を知っていた神保修理が責任を取らされる形になりました。2月13日、神保修理は切腹します。
マナブ:えー? 神保さんには全く責任はありませんよね。彼に責任を押し付けて見殺しにしたトップというのは、今後うまく藩内を引っ張っていけるのかなぁ。
歴史先生:その懸念がまさに的中します。
1868年2月12日 徳川慶喜、上野寛永寺に蟄居。松平容保、会津へ帰国
1868年3月11日 江戸城無血開城
歴史先生:江戸へ戻った徳川慶喜はもうすでに戦う意欲を完全に失って、江戸城を出て上野の寛永寺に自ら蟄居します。もうこの頃は慶喜はただ、徳川家の存続と自分の命を永らえることを考えていたのではないでしょうか。会津・桑名といった、これまで幕府に近い立場で幕府を守ってきた藩はもはや必要なくなりました。
マナブ:松平容保としても無念だったでしょうね。
歴史先生:さて松平容保はどうするか。彼自身は寛永寺のトップである皇族の輪王寺宮を通じて、朝廷に恭順の嘆願書を出します。しかし、「会津憎し」の長州の手でその嘆願書は止められ、代わりに松平容保の斬首、領地没収といった過酷な処分を長州は主張しました。しかし一時は会津と手を組んでいた薩摩は「それはやりすぎだ」と思ったのでしょう。領地没収、城の明け渡しまでは同じですが、松平容保の命だけは助けようということになります。
マナブ:でも、それでは藩主の命は助かったとしても会津藩は消滅してしまいますね。
歴史先生:そうなんです。会津藩はこれに対して「受け入れられない」、と返答すると、薩長は実力行使、すなわち会津の討伐に動き始めます。薩長はイギリスが支援し、長崎のトーマス・グラバーなどを通じて武器を大量購入していました。当時、アメリカの南北戦争が集結し、大量の武器が世界市場に溢れていたんです。
マナブ:へぇー、明治維新とアメリカ南北戦争はそんな感じでつながっていたんですね。
歴史先生:一方、会津はプロシャ人のスネル兄弟を通じて武器弾薬を買い付けていました。彼らは新潟港を拠点として、東北・越後各藩へ武器弾薬を届けていました。スネル兄弟を会津藩に紹介したのは、長岡藩の家老、河井継之助です。
マナブ:あ、その方も有名な方ですね。
歴史先生:ここで薩長は致命的なミスをします。
マナブ:というと?
歴史先生:会津は実力のある藩でしたから、討伐のためにはその北側にある仙台藩の協力を得たいところでした。しかしそのための使者として長州藩の参謀、世良修蔵を選んだのが大間違い。3月23日、世良修蔵は仙台へ乗り込みますが、この世良修蔵が仙台藩に対して上から目線で失礼な態度を取り続けた。しかもその部下たちが街で乱暴を働く。伊達政宗を藩祖とする元々プライドの高い62万石の仙台藩は「長州は許せん」、ということになり、4月19日には世良修蔵を誅殺。中立的な立場から一転、反薩長へと変わってしまいました。
マナブ:会津藩と仙台藩が手を握ると、薩長にとってはかなり厄介なことになった。
歴史先生:そう、そしてそこに米沢、庄内、越後などが加わり、一大勢力となります。これが「奥羽越列藩同盟」です。
1868年5月1日 白河口の戦いで大敗北

白河小峰城

歴史先生:奥羽越列藩同盟ができ、仙台も会津も非常に戦意が高揚する中、運命を分けたのが白河口の戦いです。歴史に「もしも」は禁物かもしれませんが、もし会津藩が白河口で大勝したら、奥羽越列藩同盟は東日本を治めるもう1つの新政府になったかもしれません。
マナブ:それほどここでの戦いは重要だった。
歴史先生:はい、そう思います。奥羽越の各藩は同盟したと言ってもまだまだ不安定で、もし戦況が不利になればいつ寝返るかわからない、そんな状況でした。同盟を成功させるには各地の戦いで勝ち続けること、そうすることで各藩の結束が強まり、士気も上がることになったはずです。
マナブ:なのに大敗した。
歴史先生:勝てるはずの戦だったんです。遠路城攻めに来ている薩長は700。それを城で迎え撃つ会津・仙台の連合軍は2,000~2,500。どう考えても会津・仙台藩有利ですが、結果は会津・仙台藩は死者700人、薩長は70人。白河小峰城は奪われ、大惨敗を喫しました。
マナブ:なぜそんなことに?
歴史先生:会津軍の作戦ミス。新選組の斎藤一ら、歴戦のつわものもこの戦闘には参加しており、「小峰城に籠っては守り切れない。前線にて敵を撃つことが肝要」と強く進言しますが、会津藩の総大将を務めていた筆頭家老の西郷頼母はそれを拒否。城に立て籠って守る作戦を指示しました。
マナブ:籠城を決めたのには理由があったんでしょうか?
歴史先生:西郷頼母は実戦経験がまったくありません。単に、味方の数が多く、城に籠っていた方がリスクが少ないと思ったのでしょう。結果的に小峰城の前にあった稲荷山を奪われ、ここに大砲を設置されたため、城は落ちました。
マナブ:なぜそんな人が総大将に?
歴史先生:そしてそれはトップの人選ミス、だと思います。鳥羽・伏見から逃げ帰った松平容保のリーダーシップがここでも疑問視されます。
マナブ:なるほど、やはりリーダーシップに問題が出ましたか。
歴史先生:白河での大敗は仙台藩、そして参加していた米沢、秋田、南部、松前などの同盟各藩に大変なショックを与えました。彼ら東北諸藩はこの惨敗を見て、会津と一緒に同盟を進める意欲を一気に失ってしまったんです。
1868年5月19日 長岡城 落城
歴史先生:一方、薩長の越後方面の軍は奥羽越列藩同盟の長岡藩を攻めます。ここには阿賀野川の上流から駆けつけた会津藩の応援部隊も多数参戦していました。長岡城の手前の朝日山で両軍の激戦が行われていたころ、薩長の別働部隊が先回りして長岡城を急襲して占拠。7月に一旦長岡藩の軍勢が城を取り戻しますが、リーダーの河井継之助は重傷を負い、会津へと逃げる間に死亡。さらに物流拠点の新潟港を薩長軍に占拠されてしまうなど、越後では敗戦が続きました。
マナブ:新潟港を取られると、会津などは武器を輸入できなくなりますね。
歴史先生:そうなんです。だから本来、新潟港を海軍で守る必要があったんですが、まだ有力な軍艦が無傷で残っていたはずの幕府海軍はそれを怠り、薩長の海軍に好き放題制海権を握られてしまいました。
1868年5月28日 輪王寺宮が東北へ
歴史先生:会津藩の辛かったことは「朝敵」呼ばわりされたこと。薩長が朝廷を抱え込んでいる現状では、薩長と戦うことは結果的に朝廷に弓を引くことになりました。そこで起死回生の案として、上野寛永寺の輪王寺宮(りんのうじのみや)を東北へ招きます。それによって輪王寺宮を中心に東日本の新政権ができてもおかしくない状況を作ることができました。
マナブ:輪王寺宮ってそんなに高貴な方なんですか?
歴史先生:明治天皇の父、先代の天皇は孝明天皇なんですが、輪王寺宮は孝明天皇の義理の弟になります。日光輪王寺や比叡山延暦寺、上野寛永寺を統括した皇族でした。
マナブ:なるほど、明治天皇の義理の叔父を前に立てて、朝敵と呼ばれることを避けたんですね。
1868年6月26日 日光口の戦いでの勝利
歴史先生:江戸から会津への主要ルートの1つに、日光から田島(現在の南会津町)を経由する山道があります。ここには会津藩士の日光口総督・山川大蔵、新選組の土方歳三、そして元幕府の陸軍のトップだった大鳥圭介ら、スター選手が揃っていました。
マナブ:ここは勝ちそうな気がします。
歴史先生:彼らが守備する日光口に佐賀藩兵300名が襲撃してきました。鬼怒川の東岸を削った細い道に差し掛かった時、崖の上から鉄砲隊が銃撃。さらに山川隊が逃げ道をふさぐという戦術で、佐賀藩の兵は全滅しました。
マナブ:やはり実戦経験のある人たちの戦術は違いますね。この人たちが白河口を守ったら勝てたんじゃないかな?
歴史先生:きっと勝てたことと思います。でもその優秀な人材を見つけたり登用したりという、トップのリーダーシップが欠けていたと言わざるを得ません。
1868年7月12日 磐城平城 落城
1868年8月4日 相馬藩 無条件降伏
歴史先生:福島県の浜通りでも激しい戦闘が起きました。海路、茨城県北部に上陸した薩長軍は、磐城平城を攻めてこれを落とし、その勢いで北上。追い詰められた相馬藩は無条件降伏し、食料も財産もすべてを薩長に奪われる悲惨な末路となりました。
1868年7月29日 二本松城 落城

二本松城

歴史先生:そして中通りでは、今度は三春藩が薩長側へ寝返り、二本松城攻めの先手として攻撃を始めました。須賀川に駐屯していた仙台藩はこれに驚き、退路を塞がれることを恐れて仙台方面へ退却します。ここに奥羽越列藩同盟はほぼ瓦解します。
マナブ:仙台藩もちょっとだらしないというか、元々は長州の使者に対する怒りで参戦したんでしょうけど、「薩長に死ぬまで抵抗する」というような筋合いもないでしょうからね。
歴史先生:白河口での惨敗を見て、仙台藩の士気は地に落ちていました。その後も敗色濃厚ということで、撤退のタイミングをみていたのでしょう。仙台藩の離脱は会津藩の人たちに決定的な打撃を与えました。
マナブ:「あぁ、これで戦争に勝って奥羽越列藩同盟が東日本を治めるという夢も消えたか」、と。枝葉を次々に折られて、最後は会津藩という幹だけが残った、という感じでしょうか。
歴史先生:まさにそうですね。

二本松城報館には二本松城に関する豊富な歴史資料が展示されている
歴史先生:さて、会津藩の支藩であった二本松藩もそれほど兵力があるはずもなく、成人男子は他の地区で参戦していましたので、二本松城を守っているのは少年兵、老兵、農兵といった人々でした。武器も旧式のものが少しあるだけ。
マナブ:ここでも白虎隊のような少年兵がいたんですね。
歴史先生:はい。「少年隊」と呼ばれた彼らは数えで13~17歳。満年齢では12~16歳になります。
マナブ:小6から高1、くらいですね。
歴史先生:会津藩では15歳から従軍することになっていましたが、二本松藩では「入れ年」という慣習があって「2歳サバを読む」ということをしていました。それでさらに幼い少年兵たちが戦闘に参加していたんですね。
マナブ:そうだったんですか。
歴史先生:大檀口という場所で板垣退助率いる西軍と戦った少年隊は25名。うち14名が戦死、7名が負傷しました。
マナブ:武器もなく、訓練も受けておらず、しかも少年ということであれば、勝てるはずもない戦場に出されたわけですね。まさに悲劇としか言いようがありません。
歴史先生:7月29日の朝から始まった戦闘はわずか半日で終了。二本松城は炎上し、落城しました。それによって中通りはほぼすべて薩長のものになりましたので、もはや援軍は期待できず孤立無援となった会津藩は、ここからますます悲惨な戦いに身を投じることになっていきます。
1868年8月21日 母成峠が突破される

歴史先生:中通りから会津へ入るには、山を越えなければなりません。
マナブ:普通に考えれば、ここが最後の砦。西軍から見るとここを突破することが非常に難しそうです。
歴史先生:しかしいくつかの峠道があるとすると、どこを選ぶかが重要です。会津藩も兵士の数や大砲の数に限りがありますから、西軍がどこから攻めて来るかを正しく把握して、そこの守りを固くすれば恐らくこの戦いに勝利したことでしょう。
マナブ:トップのリーダーシップの問題という話が先ほどありましたが、軍隊の中でのそういったシステムやリーダーシップは効いていたんでしょうか?
歴史先生:そこが大問題でした。西軍はわざと「中山峠から攻め入る」など虚偽の情報を流し、会津側がそれに振り回される中、最も手薄な母成峠を突破しました。薩長軍の情報戦の巧みさに対して、会津の情報収集力の低さが招いた結果でした。
マナブ:あぁ、やはり。
歴史先生:しかも会津藩は戦術的に大きな過ちを犯します。西軍が宿を取れないよう、何と付近の村々を焼いてしまったんです。
マナブ:えっ? 本来は会津藩のために戦ってくれるかもしれない人々ですよね?
歴史先生:それによって恨みを買い、村の人たちは西軍の手引きをして山道を案内したりしていたんです。
マナブ:それは作戦ミスとしか言いようがない。
歴史先生:失態はさらに続きます。普通、峠が破られれば鶴ヶ城に向けて馬が走って、それを急報するのが当たり前ですよね?
マナブ:はい。それがなかったんですか?
歴史先生:峠を破られた時に誰がどうする、というマニュアルがなかったようです。したがって、鶴ヶ城にいる会津藩の幹部たちが母成峠がその日の朝に破られたということを知ったのは、なんと翌日の早朝5時ごろ。
マナブ:えっ? なんとのんきな。
歴史先生:そこから会津若松の街のすぐそばの滝沢峠まで、薩長軍は一気に攻め寄せました。
1868年8月22日 西軍、十六橋を渡る
歴史先生:もし峠が破られたら、猪苗代城(亀ヶ城)があり、さらにそこが落ちたら日橋川にかかる十六橋が守りのポイントになります。西軍側はそれらの守りの強固さを嫌って、母成峠のルートを選択するのをためらっていたとか。
マナブ:そうですよね。
歴史先生:ところが猪苗代城には守備兵がおらず、ここはスルー。一気に十六橋へと進みます。
マナブ:十六橋では会津藩が待ち構えていたんでしょうか?
歴史先生:峠を破られたらすぐにこの橋を壊してしまう。それが本来の戦術です。橋がなくなれば川を挟んで迎撃できるはずでしたが、そのアクションが出遅れた。会津藩が十六橋に到着して橋を壊そうとしたときに西軍も到着。簡単に橋を奪われてしまいました。
マナブ:戦況をまずは迅速に報告すべきでした。その情報に基づいて、マニュアルに従って訓練されたとおりにみんなが動けば結果は全く違っていたのでしょうね。危機管理がまったくできていなかった典型例かと。やはりトップの責任は大きいような気がします。
1868年8月23日 会津若松城下に薩長軍が殺到
歴史先生:そして運命の8月23日。西軍は会津若松城下に攻め込みます。街は燃やされ、逃げ遅れた町人たちの多くが命を落としました。戦争で傷ついた兵士たちが療養していた病院も、炎上します。
マナブ:もっと早く避難できなかったんでしょうかね?
歴史先生:ここでも薩長軍が迫っているという情報が城下にもたらされないという致命的なミスが立て続けに起きました。会津藩でのシステムの不備は目を覆いたくなる惨状でした。
1868年8月26日 薩長軍が小田山を占拠、砲台を設置
歴史先生:会津藩の兵士たちは鶴ヶ城に籠城して抵抗を始めました。一方、西軍は城を見下ろす小田山を占拠。ここに大砲を設置して、城内に雨あられと弾丸を撃ち込みます。9月には西軍は数万人に膨れ上がり、50門の大砲から昼夜砲撃をおこないます。城内にいる人たちは次々と爆死し、寝ることさえできません。
1868年9月22日 鶴ヶ城降伏
歴史先生:約1か月の籠城の末、会津藩は降伏しました。鶴ヶ城の北出丸を出たあたりで降伏の式典が行われ、藩主松平容保みずからが嘆願書を差し出し、桐野利秋(=「人斬り半次郎」で知られた薩摩藩士です)がそれを受け取りました。
マナブ:籠城していた人たちは1か月間、苦しかったでしょうし、でもこれで会津藩が消滅するとなると、ものすごい悲しみ、そして今後への不安もあったでしょう。そして家族や友人の多くをすでに亡くしている。考えただけでも辛い結末ですね。
歴史先生:以上が戊辰戦争における、会津を中心としたおさらいでした。これを踏まえて、会津若松の街を歩いてみましょう。
マナブ:歴史を知らずに行くのに比べて、うんと理解が深まりそうです。ありがとうございました。
<読んでおきたい本>
星亮一
会津落城

鳥羽・伏見の戦いから会津の落城までを丁寧に記述した史書。効果的な図版と詳細な記述で、会津にとっての戊辰戦争とは何だったのかを知ることができる。会津に行く前に読みたい。
【旅のメモ その❶】
旅行スケジュールはどう組むのがいい?

会津若松駅前の赤べこ
【首都圏または関西圏から会津若松へのアクセス】
会津若松へ行くには、首都圏からであれば東北新幹線で郡山駅で下車し、そこから磐越西線に乗り継ぐ。東京駅から会津若松駅まで3時間弱程度。(郡山駅から会津若松駅まで連絡バスもあるが、旅情のある磐越西線をお勧めしたい。)
関西圏からであれば伊丹空港から福島空港へ行く便があり、所要1時間程度。郡山駅へは空港バスで40分。そこから磐越西線で会津若松駅へ。
いずれも朝出発すれば午後の早い時間までに到着するので、その日も半日観光できる。
【必要な日数】
会津若松の市内を駆け足で観光するだけなら1泊2日でも可能だが、せっかくなのでもう少しゆっくり、じっくりと見て回れるよう、2泊3日がお勧め。さらに大内宿に行くなら1日追加して3泊4日が良いだろう。
猪苗代、裏磐梯も見どころが多い。裏磐梯の大自然の中で少なくとも1泊(可能なら2泊)するのがお勧め。
【旅のメモ その❷】
私たちが選んだホテルとその理由
(1)庄助の宿 瀧の湯(東山温泉)
東山温泉街の入口近くにある老舗温泉ホテル。渓流のすぐそば、しかも川が「伏見ヶ滝」になって落ちているすぐ脇に露天風呂を持つ、唯一無二の宿。

選んだ理由:
立地:会津若松の奥座敷と言われる「東山温泉街」の中に泊まりたい。
眺望:東山温泉街を流れる「湯川」のほとり。伏見ヶ滝と呼ばれる2段の滝のすぐ脇に露天風呂があり、ここはぜひ一度入ってみたかった。
設備:写真を見る限り、内装はとてもきれいで設備も新しそう。
価格:他の地域の同クラスの温泉ホテルと比べると非常にリーズナブル。
実際に泊まってみた感想:
・会津若松の市街地から山に入るとすぐにある。観光名所の1つである「会津武家屋敷」からは歩いても10~15分ほど。
・町なか周遊バス「あかべぇ」「ハイカラさん」のバス停はホテルの玄関の目の前。これを利用したのでとても便利だった。
・館内や部屋はしっかりとリフォームされていてとても高級感があり、快適。
・夕食は刺身、しゃぶしゃぶ、陶板焼きなど典型的な温泉ホテルの懐石だが、会津の名物である「小づゆ」がついてくるのがうれしい。朝食はセットになった和食のお弁当。
・この宿の最大の魅力と言えるのがお風呂。湯船のすぐ横を湯川が流れ、そこから数メートル下に滝になって落下している。水しぶきがかかりそうな距離で、その大迫力の滝の眺めと轟音を楽しみながら浸かる湯は他では体験できない思い出になった。
・ところで「庄助の湯」という名前は「小原庄助さん」にちなむそうだ。小原庄助さんとは民謡「会津磐梯山」の中に出てくる人物で「小原庄助さん 何で身上つぶした 朝寝朝酒朝湯が大好きで それで身上つぶした はぁ、もっともだぁ、もっとだ」と歌われている、ぐうたらで憎めないキャラクター。実際の小原庄助は保科正之公が会津に移封された際に付き従った郷頭(村の代表者)だったらしく、彼の縁戚が営んでいた瀧の湯を気に入って何度も来ていたらしい。
民謡「会津磐梯山」はこちらから聞けます。
三波春夫公式チャンネル
https://www.youtube.com/watch?v=pFj39kX4fx8
・そのほか、瀧の湯には幕末のころ、土方歳三が療養していたと伝わっている。土方は甲府で官軍に敗れ、流山で近藤勇と別れ、宇都宮での戦いで足に鉄砲玉を受けた。その後会津若松へ運ばれ、鉄砲玉を取り出す手術を受け、ここ瀧の湯でしばらく療養していたそうだ。その時から瀧の湯は伏見ヶ滝の脇にあったので、土方歳三も同じこの滝を見ながら湯に浸かっていたに違いない。
・ちなみにこの谷を下りたところにある近藤勇の墓は、近藤の死を聞いた土方歳三が療養中に建てたものと言われている。
・トータルに見ても素晴らしい温泉ホテル。この内容でこのお値段というのは非常にコストパフォーマンスが高いと感じた。

ホテルエントランス

全ての部屋から渓流の眺めを楽しめる

伏見ヶ滝

館内には眺めの良い休憩スペースがたくさんある

会津若松を代表する郷土料理「小づゆ」
一休のサイト
https://www.ikyu.com/00002214/
<東山温泉について>

湯川の谷に沿ってたくさんの温泉宿がある

東山温泉は会津若松の市街地からすぐ、山間の谷に入ったところにあるアクセス抜群の温泉地。奈良時代の天平年間(729~749年)に行基が会津を訪れた際、3本足の不思議な鳥に導かれて温泉を発見したと伝えられる。

向瀧
東山温泉の源泉そばにある明治6年創業の「向瀧(むかいたき)」。宿泊施設としては全国で初めて登録有形文化財に指定された由緒ある木造旅館だ。夜、歩き回れるような温泉街ではないので、基本的に夜はホテル内で過ごす。そのためどこの宿も食事付きが基本。
向瀧より少し奥にある「新滝」には感動的な逸話がある。戊辰戦争の後、会津の人たちは「朝敵」「逆賊」の汚名を着せられ、差別に苦しんだ。しかし1928年(昭和3年)になって、松平容保の孫にあたる節子さんと秩父宮雍仁(やすひと) 親王殿下(=昭和天皇の弟)の婚約が宮内庁から発表された。節子さんの字は大正天皇の皇后である節子(さだこ)と同じであったので、伊勢の「勢」と会津の「津」を取って勢津子と改名された。このご婚約の発表は長く差別に苦しんできた会津の人たちを歓喜させる。発表後、勢津子妃殿下が祖先の故郷である会津若松を訪問されることになり、東山温泉の新滝旅館に泊まられることとなった。その最初の夜、1,500人もの人たちが提灯行列で東山へ入り、新滝旅館の前で万歳を唱えた。勢津子妃殿下は何度も手を振ってそれに応えられたとのこと。その日は会津の人たちにとって、戊辰戦争の悪夢から抜け出す、感動的な夜となった。
なお、町なか周遊バス「あかべぇ」「ハイカラさん」を利用する場合は、バスは「東山温泉駅」バス停までしか来ないので要注意。それより奥のホテルを利用する場合はタクシーやレンタカーの利用が必要。東山温泉の道は車やバスがスピードを出して通る細い山道なので、バス停から歩くのは危険でお勧めできない。
(2)駅前フジグランドホテル(会津若松駅前)
とにかく移動に便利な場所でリーズナブルに泊まりたいならこちらで決まり。

選んだ理由:
立地:何といっても会津若松駅から一番近い。駅前ロータリーすぐそばにあって、市内の観光巡回バスや鉄道に乗るには最適な場所。
設備:やや設備は古そうだが、ビジネスホテルとしては問題ないと思われる。
価格:非常にリーズナブルに泊まれるので、連泊などに最適。
実際に泊まってみた感想:
・立地は期待通り。駅についてすぐ荷物を預けて観光に行くこともできるし、市内の循環バスにもすぐ乗れる。
・ロビーなどはビジネスホテルとして最小限の設備を持ち、何も問題なし。
・部屋は調度品などやや古さを感じる部分もあるが、狭すぎることもなく、同クラスのホテルとして十分なレベル。大画面テレビ、無料WiFi、無料駐車場、さらにはシモンズベッドと言うことなし。
・館内に大浴場はないが、近隣の「富士の湯」の無料利用券をフロントでもらえるので、これは活用しない手はない。歩いて3分ほど。
・レストランはないので素泊まりで予約。駅前の地元のお店で食べるのも楽しい。

ビジネスホテルとして十分な広さと設備のあるお部屋

お風呂は富士の湯へ行こう
じゃらんの予約サイト
https://www.jalan.net/yad350924/
<会津若松駅前でおススメの食堂2軒>
マルモ食堂
なつかしい昭和そのもの店内で名物のソースカツ丼を食べよう

駅前の横断歩道を渡ったところにある創業100年超の「マルモ食堂」
マルモ食堂
〒965-0024 福島県会津若松市白虎町229
11:45~15:30、17:00~19:00、不定休
駅から横断歩道を渡った正面に懐かしい外観のマルモ食堂がある。店内は昭和そのもの。ここは会津若松名物の「ソースカツ丼」の名店の1つ。甘辛いソースに薄めのカツ、そしてキャベツの乗ったどんぶりはいくらでも食べてしまいそう。閉店時間が19時なので、夕食をとるなら早めに訪れたい。

赤いテーブルと椅子。店内は昭和の食堂そのもの。

会津若松の名物、ソースカツ丼。
来夢 会津若松駅前店
会津若松に来たらやっぱり本場の喜多方ラーメンを食べたい!

国道に面したロードサイド店で駐車場も完備
来夢 会津若松駅前店
〒965-0041 福島県会津若松市駅前町1−45
11:00~24:00、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.umai-kitakata.co.jp/shop/
駅から北へ歩いて5分ほど。国道121号線沿いにある、ロードサイドのお店。「会津若松に来たら絶対喜多方ラーメンを食べたい」という思いに応えてくれる。喜多方が本店で、会津若松、郡山に5つの支店を持つ地元のチェーン店。全国展開している喜多方ラーメンの有名チェーン店もあるが、そことはまた一味違った本場の喜多方ラーメンを提供する。夜24時まで営業しているのもありがたい。

本場でいただく喜多方ラーメンに大満足
(3)裏磐梯レイクリゾート 五色の森(裏磐梯)
裏磐梯を代表する大型のリゾートホテル。露天風呂などの充実した設備とリーズナブルな宿泊料金で人気。

裏磐梯を代表する大規模ホテル
選んだ理由:
立地:裏磐梯の中心に位置し、五色沼の入口や檜原湖の遊覧船乗り場のすぐ近くという便利な場所。
設備:やや設備は古くなりつつあるが、元々贅沢に作られている印象。
価格:同クラスのリゾートホテルとしてはリーズナブルな価格で泊まれる。
実際に泊まってみた感想:
・立地は期待通り。五色沼や檜原湖の観光基地として最適。風呂や部屋から檜原湖が見えるのが非常に良い。
・部屋は十分広く、快適に過ごせる。部屋からは檜原湖の美しい水面が見える。
・黄金色の湯に浸かって檜原湖を望む露天風呂は最高。
・バイキングの夕食、朝食は種類も豊富で十分満足いくものであった。

広々としたロビー

部屋は広さにゆとりがある

ホテルの背後には荒々しい磐梯山の姿が見える

客室からは檜原湖が見える
一休の予約サイト
https://www.ikyu.com/00002147/
【旅のメモ その❸】
会津若松市内の移動は「まちなか周遊バス」が便利
会津若松市内は比較的コンパクトなので、バスと徒歩でゆっくり回ることも可能。その際は「まちなか周遊バス」が便利だ。1回250円。1日乗車券は700円。
まちなか周遊バス
https://www.aizubus.com/rosen/machinaka-shuyu
「あかべぇ」と「ハイカラさん」の2路線が市内を循環。主要な観光スポットをカバーし、30分おきに運行している。

まちなか周遊バス「あかべぇ」

まちなか周遊バス「ハイカラさん」

路線マップ
なお、観光スポットを急ぎで回りたい場合はレンタカーを借りる手もある。一方で猪苗代、裏磐梯方面へはレンタカーがお勧め。特に裏磐梯では爽快な山岳ドライブを楽しめる。
【旅のメモ その❹】
駅に着いたら荷物をホテルへ送ってしまおう
会津若松駅についてすぐに観光を始めたい場合、駅のコインロッカーもあるが、それだと必ず駅に戻らなければならない。そこで会津若松市では「手ぶらでまちなか観光サービス」というのを行っている。これは駅の観光案内所から東山温泉、芦ノ牧温泉の主要ホテルに荷物を回送するサービス。荷物1個400円。
ただし受付時間が10:00~14:00と短いので、それ以降はこのサービスを利用できない。また1人当たり荷物1個まで、という制限もあるので注意。
なお、帰りの際も同様のサービスを受けられる。ホテル・旅館のフロントに手荷物を10時までに預けて、会津若松駅で14:00-17:00の間に受け取ることが可能。17時を過ぎると受け取れなくなるのでくれぐれもご注意を。
対象となるホテルのリストや詳細は以下のWebサイトを参照ください。
https://www.aizukanko.com/spot/832
【旅のメモ その❺】
旅行前準備:会津ファンクラブへの入会のお薦め
旅行計画を立て始めたら、会津ファンクラブ(会費無料)への入会がお勧め。入会すると自宅に「メンバーズカード」と資料一式が郵送される。同封されている数種類のパンフレットや会報誌を見ているだけでも旅気分が盛り上がるが、なんと(1)鶴ヶ城、(2)茶室麟閣、(3)御薬園の3か所の「無料招待券」も同封されてくる。それぞれの入場料は410円、210円、330円なので、これだけで合計950円もお得。同行者1名も無料になるので、2人で行けば1,900円相当の割引になる。
さらにはメンバーズカードを見せると割引になる施設もたくさん。(対象施設の一覧表が同封されている。) 日新館、会津武家屋敷、白虎隊記念館、白虎隊伝承史学館等も割引対象にはいっている。
会津ファンクラブの詳細や入会申し込みは以下のWEBサイトより。
https://www.tsurugajo.com/aizufunclub.html
