top of page
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
白虎隊の悲劇:飯盛山でいったい何があったのか?
 
世界でただ1つ。世にも不思議な「会津さざえ堂」
 
まだまだある、白虎隊ゆかりの場所
 
完全復元された会津藩の藩校:日新館
 
七日町通りを歩く(1):野口英世ゆかりの場所や会津漆器の老舗を訪ねる
 
七日町通りを歩く(2):歴史ある味噌蔵、酒蔵。そして海産物問屋は二・二六事件と意外なつながりがあった
 
戊辰戦争の悲惨さを今に語り継ぐ阿弥陀寺と新選組の若きエース・斎藤一の物語


白虎隊の悲劇:飯盛山でいったい何があったのか?


ree

会津若松駅から飯盛山へは町なか周遊バス「あかべぇ」が便利


ree

マナブ:会津若松駅から「あかべぇ」に乗って、飯盛山(地図 ❶)まで来ました。わずか4分ほど、すぐ着きました。


ree

歴史先生:バス停「飯森山下」の前には観光案内所があり、パンフレットなど置いています。お手洗いもあります。


マナブ:隣にある観光用の市営駐車場は無料のようですよ。観光地なのに、太っ腹。レンタカーの方にはうれしいですね。


ree

飯盛山の参道にはお土産店が並ぶ


マナブ:飯盛山の参道に入っていきます。両側にお土産店や、おまんじゅうを食べさせるお店など並んでいて、楽しいですね。


ree

飯盛山の階段と「動く坂道」


マナブ:えっ? この階段、すごいですよね?


歴史先生:ここからはすごい階段で山を登っていきます。でもその脇に「飯盛山動く坂道」がありますので、ここで体力を使いたくない方はこちらがお勧めです。


マナブ:下りはこの階段を下りて来るんですか?


歴史先生:いいえ、下りは向かって左側のほうへ回り道して、ゆるやかな坂を観光しながら降りてきます。行きも帰りもそちらを通ることも可能です。


マナブ:私たちは「動く坂道」にしましょう(笑)。


歴史先生:旅行時には現地の施設にお金を落としていくことも大事ですよね?


飯盛山 動く坂道(スロープコンベア)(地図 ❷)

〒965-0007 福島県会津若松市飯盛1丁目5−1

250円(小人、団体割引あり)

8:00~17:00(3/21~11/20)、9:00~16:00(11/21~3/20)、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.aizukanko.com/spot/535


ree

階段上からの眺め


マナブ:「動く坂道」を使って、階段上まで来ました。いやー、いい眺めですね。


歴史先生:会津若松の街が一望できます。さて、実はここからさらに少し階段があるのですが(笑)、それを上ると白虎隊士のお墓があります。


マナブ:行ってみましょう。


ree

階段を上ったところは木々に囲まれた広場になっている


ree

マナブ:広場のようなところに着きました。


歴史先生:ここの左手にあるのが、「白虎隊十九士の墓」(地図 ❸)です。


マナブ:ここですか。神聖な感じのする空間です。静かにお参りをしていきましょう。


ree

白虎隊十九士の墓


マナブ:白虎隊という名前は超有名ですが・・・。


歴史先生:どういう人たちで何があったのか、知っておいた方がいいですね。


マナブ:お願いします。


歴史先生:1868年の3月になって、会津藩は薩長との戦いに備えて兵制を西洋式に転換します。その時、部隊を年齢別に再編しました。


朱雀隊 (18~35歳)1,200人

青龍隊 (36~49歳)900人

玄武隊 (50歳以上)400人

白虎隊 (16~17歳)300人


マナブ:なるほど。でも全体の数は意外と少ないですね。


歴史先生:そのほか、農兵隊などもありましたが、会津藩の総兵力はトータルでも7,000人程度でした。薩長を主力とする西軍は数万人という規模で攻めてきますから、元々仙台藩、米沢藩など奥羽越列藩同盟の諸藩と共に戦う以外、まともに戦える状況ではなかったんです。


マナブ:で、白虎隊というのは16歳、17歳、今でいえば高校生たち。


歴史先生:「数え」なので1年ずれて満15歳、16歳になりますが、ほぼそうなりますね。


ree

会津若松駅前の白虎隊隊士像


歴史先生:白虎隊300人は士中2隊、寄合2隊、足軽2隊の6つに分かれていました。それぞれ約50人ずつです。世にいう白虎隊の悲劇の話は、二番士中隊の話です。


マナブ:この隊はどう戦いに参加したんでしょう?


歴史先生:8月22日の朝、(前日に母成峠が破られ、猪苗代城も突破されたという)厳しい状況の中、松平容保は白虎隊二番士中隊の護衛の下、鶴ヶ城から滝沢本陣(地図 ❼)まで出陣しました。そこで兵士たちを激励。前線からの応援要請に基づいて、滝沢本陣から白虎隊二番士中隊は猪苗代湖の方面へと出陣していきました。


マナブ:勝ち目はあったんでしょうか?


歴史先生:まず、装備が貧弱でした。白虎隊が持っていたのは先込めの鉄砲。しかも中古が多くて、すぐに銃身が熱を持ってダメになったとか。対する西軍は元込めの最新鋭の銃で撃ってきます。しかも会津の兵は実戦経験がなく、連戦連勝してきている西軍とまともに当たれる状態ではありませんでした。


マナブ:そんな中、白虎隊二番士中隊の若者たちは、無謀にも最前線へ突っ込んでいったんですね。


歴史先生:そういう時はリーダーの的確な判断と指示だけが頼りですが、なんと隊長の日向内記は「食料を調達してくる」と言ったきり帰って来ませんでした。


マナブ:リーダー不在。


歴史先生:そこへ敵が攻めてきたのですから、少年兵たちはもう逃げるしかありません。篠田犠三郎という人が残った19名を率いて、会津若松方面へとにかく逃げます。途中、(後から行きますが)戸ノ口堰洞穴というところを通って、何とか飯盛山まで戻ってきました。


マナブ:そこからはテレビドラマ(だったかな?)で見て覚えていますよ。遠くに鶴ヶ城が燃えているのが見えて、「あぁ、お城が燃えている」とみんながっくりと膝を落として、次々に自刃していった、というようなクライマックスシーンでした。


歴史先生:それが有名なシーンですよね。その場所、行ってみましょう。


ree

白虎隊 自刃の地


ree

歴史先生:ここが自刃の地(地図 ❹)とされている場所です。鶴ヶ城がここから見えるはずです。


マナブ:そういえば鶴ヶ城のてっぺんに登った時、墓地みたいなところが見えていましたけど、ここのことだったんですね。


歴史先生:はい、そうです。鶴ヶ城、見つかりましたか?


マナブ:えーっと、どこだろう。鶴ヶ城からこちらを見たときに確か白いアンテナを目印にしたなぁ。あ、あのアンテナかな? あ、ありました、鶴ヶ城。


ree

白いアンテナを目印にすると鶴ヶ城を見つけやすい


マナブ:ずいぶん遠くに小さく見えていますね。あ、お城の向こうが燃えている(笑)?


歴史先生:ほんとだ(笑)。あれは野焼きでしょうか。ちょうどこんな感じで煙が見えていたことと思います。


マナブ:実際には鶴ヶ城は燃えていなくて、その後さらに1か月も籠城戦があるわけですが、その時はお城が燃えているように見えたんでしょうね。


歴史先生:白虎隊がここまで逃れてきたとき、あちこちで火の手が上がっていました。それを見て、「お城が燃えている」と錯覚し、藩主に殉ずる形でみんなで自刃した、というストーリーが有名になっていますが、どうもそうではないらしいです。


マナブ:えっ、本当は違うんですか?


歴史先生:錯覚したわけではなく、敗戦を覚悟した隊士たちが敵と戦うか自刃するかを話し合って、武士らしくここで自刃することに決めた、というのが正しい話のようです。


マナブ: そうだったんですか。でもみんな自刃したのに何でそんなことがわかるんでしょう?


歴史先生:実は1人だけ、息を引き取る前に命を助けられた隊士がいました。飯沼貞吉という人ですが、彼の証言によって白虎隊の話が後世まで伝わることになりました。ところで、19人の死体はそのままに晒され、埋葬は許されませんでした。


マナブ:どうして?


歴史先生:会津若松に攻め込んだ西軍は、会津兵の埋葬を一切許さなかったんです。


マナブ:ひどい。すでに戦いには勝っているのに。


歴史先生:そのため死体は腐乱し、鳥獣のエサとなって、会津若松の街はまさに地獄絵図と化しました。会津の人たちの薩長への恨みの根深さの1つはこの埋葬禁止の処分だったと言われています。


ree

白虎隊 自刃の地にある隊士像。鶴ヶ城の方を眺めている。


マナブ:おそろしい話です。戦争になると、その中にいる人間はおかしくなってしまうんですね。戊辰戦争の話を聞いていても、いったいこれは何のためにみんな戦っているのか、よく理解ができません。


歴史先生:それ、とても重要なポイントだと思います。江戸幕府は鳥羽・伏見の戦いのすぐ後には降伏、恭順の意向を示していたんです。江戸幕府は瓦解し、薩長が中心の新政府ができた。会津も恭順の意思をしていて、あらためて会津を討伐する必要なんてないんです。


マナブ:薩長の人たちの会津藩への個人的な恨みから、そんなことをしたんでしょうか。いったい何のためにたくさんの人が死んでいったのでしょう?


歴史先生:戊辰戦争は実に無意味な殺戮だったと私も考えます。そのあたり、半藤一利さんの「幕末史」にもいろいろと考察がありますので、一度読んでみるといいかもしれません。


<読んでおきたい本>

幕末史

半藤一利


ree


黒船来航から西南戦争まで、幕末から明治初期の大変革を、著者らしいわかりやすい語り口でまとめた一冊。尊王攘夷と言っていたのに開国するし、薩長を中心とした下級武士による暴力革命の結果、大名たちが地位を失い、さらには武士たちが失業するという、なんとも理解しがたい革命の姿を明らかにしてくれる。


世界でただ1つ。世にも不思議な「会津さざえ堂」


ree

階段上から右の道を下りよう


ree

歴史先生:先ほど「動く坂道」で登ってきた階段を下りずに、右側の道を下りていきます。


マナブ:「さざえ堂」って書いてありますね。何だろう?


歴史先生:行ってみたらその名前に納得しますよ。


ree

会津さざえ堂(円通三匝堂)(国指定重要文化財)


会津さざえ堂(円通三匝堂)(地図 ❺)

〒965-0003 福島県会津若松市一箕町大字八幡弁天下1404

入場料400円(高校生以下割引あり)

8:15~日没(4~11月)、9:00~16:00(12~3月)、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://sazaedo.jp/ 


歴史先生:さぁ、これがさざえ堂です。


マナブ:ん? これは何だろう? 塔のような形で、斜めに入っている線はらせん階段のようなものがあるからかな?


歴史先生:この建物、国指定重要文化財なんです。


マナブ:いつ頃建てられたものなんでしょう?


歴史先生:1796年といいますから、江戸中期から後期。高さ16.5m、六角形のタワーです。


ree

さざえ堂入口


歴史先生:とにかく中へ入って見ましょう。


マナブ:入口の彫り物も、凝っていますね。


歴史先生:竜の彫り物が枠を飛び出して建物に絡みついている。これは江戸時代になって流行した形なんです。


ree

右回りに登っていく


歴史先生:ここはスリッパに履き替えることなく、靴のままでOKです。


マナブ:ん? 中へ入るとらせん状の廊下があって、ぐんぐん上へ登っていきます。


ree

帰りは左回りで下りる


マナブ:頂上まで行くと太鼓橋のような形になっていて、そこを渡ると今度は下り。


歴史先生:上りの時は右回りでしたが、下りは左回りですね。


マナブ:そうですね。


歴史先生:しかも、あとから入ってくる人とすれ違いません。


マナブ:たしかに。


歴史先生:下まで降りてきました。


マナブ:何かわからないけどすごい。これ、いったい何なんですか?


歴史先生:江戸時代には、ここに飯盛山 正宗寺(しょうそうじ)というお寺がありました。そこのお寺にあったお堂の1つで、正式名称を「円通三匝堂」(えんつうさんそうどう)と言います。


マナブ:お寺のお堂?


歴史先生:正宗寺はとなりにある厳島神社の別当寺でしたが、明治の神仏分離で廃寺となりました。今はさざえ堂が残るのみです。


マナブ:お堂だとすると、中に仏像があったのかな?


歴史先生:階段の内側に棚があったのを覚えていますか? 当時はその中に西国三十三観音の像が安置されていて、1周すると西国の三十三カ所をお参りしたのと同じご利益がある、とされた有難いお堂だったんです。


マナブ:うーん、実際に西国を回るのは大変ですが、ここだと実にお手軽で簡単ですね。ところで、これを作った天才は誰なんですか? 江戸時代ですよね? 実にみごとな「二重らせん」構造でした。コンピューターもなしに、どうやってこんな三次元的な設計ができたんだろう? どうやって図面を引いたんだろう? まさに天才としか考えられません。


歴史先生:マナブさんは理系だから、やはりそこに感心されましたか。たしかにこの建築そして設計の技術は信じられないですよね。これを作ったのは正宗寺の僧侶、郁堂(いくどう)という人です。


マナブ:世界的にもあまり類を見ない建築なのでは?


歴史先生:木造の二重らせん建築はこのさざえ堂が世界でも唯一だと言われています。近代の建築例はあるとしても、江戸時代のような昔ではまったく例を見ません。


マナブ:私たちはすごいものを見ているわけですね。そういえば、まるで貝のさざえの中に入ってぐるぐると回っているようでしたね。


歴史先生:はい、それで通称「さざえ堂」と言われています。


ree

石段の下から見上げるさざえ堂も美しい


まだまだある、白虎隊ゆかりの場所


ree

飯盛山 宇賀神堂


ree

マナブ:さざえ堂のすぐそばにある宇賀神堂の前に来ました。


歴史先生:宇賀神というのは頭は人間で、体は蛇という、ちょっと恐ろしげな見た目を持った福の神です。厳島神社の傍社として建てられたものですが、戊辰戦争以降、ここに白虎隊十九士の霊も合祀されるようになりました。


マナブ:隊士たちの人形が飾られていますね。


ree

厳島神社


マナブ:さざえ堂の前の石段(またはスロープ)を下りたところが厳島神社です。森と大きな木々に囲まれた素敵な場所ですね。


歴史先生:1つだけ違和感があるのは、水がごうごうという音を立てて流れていること、じゃないですか?


マナブ:あ、たしかにそうだ。神社の境内の溝のようなところを、すごい勢いで水が流れています。


歴史先生:地形的にこれは川じゃないことは明らかですよね。ほら、水はあそこの洞穴から流れ出ていますよ。


ree

戸ノ口堰洞穴


マナブ:あ、これがさっき言われていた洞穴ですか。


歴史先生:はい。信じられないかもしれませんが、白虎隊はこのトンネルの中を泳いで、山の向こう側からここへ逃げてきたんです。


マナブ:8月とはいえ、びしょびしょになったら寒さで体力を奪われます。1日であまりにもいろんなことがありすぎて、体力も考える力も気力も失っていたかもしれませんね。


歴史先生:このトンネルですが、戊辰戦争の33年前、1835年に完成した水路です。猪苗代湖から会津若松へ水を引いてくるという、とんでもない大工事で、トンネルの長さは約150mです。1832年に着工して、55,000人の人夫が工事に関わったそうです。


マナブ:そのころはまだ会津藩が財政的にも余裕があったんですかね。


歴史先生:平和で豊かな藩だったのかもしれません。京都守護職さえ受けていなければ、と悔やまれます。


ree

滝沢本陣


ree

滝沢本陣(地図 ❻)

〒965-0003 福島県会津若松市一箕町大字八幡滝沢122

入館料400円(高校生以下割引あり)

9:00~17:00(4~9月)、9:00~16:00(10~11月)、12~3月は予約のみ

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.aizukanko.com/spot/139/


マナブ:坂を下りて少し歩いたところに「滝沢本陣」(地図 ❻)があります。ここは先ほど話がありましたね。


歴史先生:はい。松平容保がここまで出てきて、白虎隊はここから最前線へ出陣していきました。茅葺屋根の立派な書院造の建物です。


ree

白虎隊記念館


白虎隊記念館(地図 ❼)

〒965-0003 福島県会津若松市一箕町大字八幡弁天下33

入館料400円(高校生以下、団体割引あり)

9:00~16:00(最終入館15:30)、月・火曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.byakkokinen.com/ 


マナブ:さきほどの長い階段のところへ戻ってきました。階段のとなりに「白虎隊記念館」があります。


歴史先生:ここには白虎隊に関する貴重な資料を展示する記念館があります。今までのお話のおさらいをしながら、展示品を見に入りましょう。


完全復元された会津藩の藩校:日新館


ree

日新館の入口


ree

マナブ:会津若松駅から北へタクシーで20分ほど。日新館(地図 ❽)の前に来ています。


歴史先生:ここは、かつて鶴ヶ城の西隣にあった会津の藩校、日新館を完全復元した施設です。


マナブ:かつての場所にそのまま復元出来たらベストだったんでしょうけど、それは難しかったんでしょうね。でもこうして郊外でもいいから藩校が復元されているのはとても楽しみです。


歴史先生:日新館は戊辰戦争で焼失してしまいましたが、この場所に1987年(昭和62年)に再建されました。では早速、中へ入りましょう。


日新館(地図 ❽)

〒969-3441 福島県会津若松市河東町南高野高塚山10

入館料1,200円(高校生以下、団体割引あり)

9:00~17:00(最終受付16:00)、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.nisshinkan.jp/ 

ree

日新館の入口付近は会津盆地の眺めがいい


歴史先生:入口を入る前に、後ろを振り返ってみてください。


マナブ:うわー、眺めのいいところですね。


歴史先生:ここは会津盆地の東にある丘の上。広々とした会津盆地を見渡せます。


ree

戟門(げきもん)


歴史先生:入口を入ってすぐに目の前にあるのが戟門(げきもん)です。ここには太鼓があって、それを鳴らして時を知らせたのだとか。


マナブ:今の学校のチャイムみたいなものですね。それにしてもとても立派な門です。藩校の格式の高さを感じさせてくれます。


歴史先生:日新館は江戸時代の後期、1803年に開校した会津藩士の子弟のための学校です。


マナブ:ということは一般の庶民の子供は入れなかった?


歴史先生:はい、そうです。


ree

素読所(そどくじょ)の様子


歴史先生:戟門のところから右側に入ってすぐのところに素読所(そどくじょ)があります。会津藩士の子弟は10歳になると、ここへ通い始めます。


マナブ:どんな勉強をしていたんでしょう?


歴史先生:論語をはじめとする中国の古典を読むのが主な授業でした。


マナブ:会津というと、子供たちを厳しく教育したというイメージがあるのですが。


ree

会津の子供たちの教育に使われた「什の掟」


歴史先生:「什の掟」というのが有名ですね。


マナブ:什の掟?


歴史先生:写真にあるようなルールです。


マナブ:どれどれ。最初の2つは年長者に対するもの。3つ目はウソをついてはいけない。4つ目は卑怯な行いの禁止。5つ目は弱い者へのいじめの禁止。6つ目は外でものを食べてはいけない。そして最後は外で女子としゃべってはいけない??


歴史先生:そして一番有名なフレーズはそのあとに書かれています。「ならぬことはならぬものです。」


マナブ:あ、それは聞いたことがあります。


歴史先生:この「什の掟」は日新館に入学する前、すなわち9歳までの子供に対するもの。日新館に入学する前から会津藩士の家では厳しい教育がされてきたんですね。


ree

大学(右)と大成殿(中央奥)


歴史先生:素読所で成績が優秀だった生徒は、大学(講釈所)に進学します。そこでさらに専門科目を勉強できるんです。講釈所で優秀な成績を収めると、今度は江戸に留学させてもらうこともあったようです。


マナブ:会津藩士の家に生まれると、しっかりと勉強させられて、なかなか大変ですね。


ree

大成殿の中には孔子像が祀られている


ree

弓道場


ree

日本で初めて作られたプールと言われる「水練場」


マナブ:プールがありますね。


歴史先生:ここは日本で初めて作られたプール、と言われています。鎧兜(よろいかぶと)を着たまま、水に入って泳ぐ訓練などをしていたようです。


マナブ:それは大変そう。今でも溺れないように衣服を着たまま泳ぐという訓練があったりしますが、重い鎧兜を着たまま泳ぐなんて、大変な体力が要りそうです。


ree

天文台


マナブ:このピラミッドみたいなのは?


歴史先生:これは天文台。西洋から輸入した天球儀を用いて、天体観測を行っていました。


マナブ:まさに文武両道。武道も学問もしっかりと教育したんですね。


ree

日新館から広田駅への道


ree

広田駅


歴史先生:日新館に行くバスは便が少ないので、帰りは広田駅までのんびり歩いて、電車で戻るのもいいかもしれません。


マナブ:会津盆地の景観が広がる、気持ちのいい道ですね。


七日町通りを歩く(1):野口英世ゆかりの場所や会津漆器の老舗を訪ねる


ree

レトロな雰囲気の会津若松市中心部(大町通り)


ree

マナブ:鶴ヶ城から会津若松の中心部へと歩いていきます。


ree

宮泉銘醸


マナブ:右側に雰囲気のある建物がありますね。


歴史先生:こちらは1955年(昭和30年)創業の宮泉銘醸。寒冷な気候、扇状地の湧き水などに恵まれた会津盆地は昔から日本酒の醸造が盛んにおこなわれている土地なんです。


ree

会津若松市役所


ree

マナブ:会津若松の市役所の前を通り過ぎます。ここも古そうな建物ですね。


歴史先生:この市庁舎は1937年(昭和12年)に竣工したもの。入口にある「赤べこ」もかわいいですね。


ree

福西本店


マナブ:さて、中心街に入ってきました。レトロな建物がたくさんありますね。


歴史先生:その代表的な建物の1つが、ここ大町通りにある「福西本店」(地図 ❾)です。


福西本店(地図 ❾)

〒965-0878 福島県会津若松市中町4−16

入館料500円

10:00~17:00、水曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.fukunishi-honten.jp/ 


マナブ:これは重厚な、立派な蔵のような建物ですね。


歴史先生:立派に見える理由の1つは「黒漆喰」でしょう。通常の白い漆喰に比べると非常に手間がかかり、かつ高度な技術を必要とする工法です。


マナブ:たしかに黒光りしていて、重厚感があります。これを建てた福西さんは相当な財力があったんでしょうね。


歴史先生:はい。福西家は江戸時代の中頃、堺からここ会津に移った初代福西伊兵衛から始まります。様々な商品を扱う問屋として成功し、味噌、醤油、漆器の販売など手広く商売を行いました。今の建物は明治の終わりから大正の初めにかけて、九代目福西伊兵衛が建てたもの。


マナブ:そんな古い建物が残っているんですか。


歴史先生:会津は戦争中の空襲を免れたのが大きいです。その代わり、戊辰戦争にて江戸時代以前の物はほぼすべて失われてしまいましたが。


マナブ:内部にも入れるんですね。


歴史先生:はい。建物内部の様子を見ることができ、福西家が保有する文化財なども展示されています。


ree

福西本店


ree

福西本店(右)と野口英世青春館(左)


歴史先生:福西本店のすぐ隣にも古い建物があります。こちらは「野口英世青春館」と呼ばれています。


野口英世青春館(地図 ❿)

〒965-0878 福島県会津若松市中町4−18

入館料200円(小人割引あり)

8:00~20:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.tif.ne.jp/jp/entry/article.html?spot=5072


マナブ:野口英世は会津の人なんですか?


歴史先生:はい、猪苗代の生まれで、のちほどその生家にも行きますので野口英世の生涯についてはそこで詳しくお話ししますが、彼は幼いころに左手に大やけどを負ってしまい、5本の指がくっついてしまっていたんです。1892年、15歳の時、それを切り離す外科手術をおこなったのがこの建物にあった會陽医院という病院でした。


マナブ:ここは病院だったんだ。


歴史先生:はい。野口英世は医学のすばらしさに感動し、翌年、會陽医院に薬学生として入門。16歳から19歳の3年間をここで過ごします。


マナブ:だから「青春館」。


歴史先生:はい、そうです。この建物自体は1884年(明治17年)に建てられた蔵造りの洋館。今ではカフェと展示室が併設されていますので見ていきましょう。


ree

大町四ツ角


歴史先生:ここから北へ歩くとすぐに大町通りと七日町通りの交差点「大町四ツ角」があります。ここがかつての会津若松の中心地。会津から始まるいくつかの街道の起点になっています。


マナブ:ちょっとだけ、ずれていますね。


歴史先生:10mほどずれていますが、これは城下町ならでは、のものです。


マナブ:というと?


歴史先生:通りを直線にしてしまうと見通しが利きます。敵からすると攻めやすい。でもちょっとずらすことによって先が見えず、守備兵が隠れていてもわかりません。また、鉄砲、大砲の時代になると、道が曲がっていると遠くの相手を撃つことができませんよね。


マナブ:なるほど。


ree

鈴善


マナブ:大町四ツ角から大通りを北へ少しだけ歩いて、「鈴善」というお店の前に来ました。


歴史先生:さて、会津の名産と言えば「漆器」。ここ鈴善はその代表的なお店の1つです。


マナブ:たしかに会津漆器とか会津塗、というのは聞いたことがあります。


歴史先生:会津盆地はもともと気候的に漆の栽培に適した土地でした。蒲生氏郷が会津に入った時、日野(滋賀県)から技術者を連れてきて、ここ会津で漆器の産業を立ち上げたんです。


マナブ:なるほど。


歴史先生:さらに江戸時代になって保科正之は漆器産業を奨励。漆の木の栽培を増やし、技術者を育成して、江戸時代を通じて漆器を江戸や海外に販売し、藩の財政に大いに寄与させました。


マナブ:会津の漆器は自然と歴史のたまもの、なんですね。


歴史先生:鈴善は江戸時代末期の1832年に、初代鈴木善九郎が創業した漆器店。漆器を担いで行商に出て、漆器産業の発展に務めました。


マナブ:広い敷地にいくつかの建物がありますね。


歴史先生:6つの蔵がそれぞれのテーマで会津漆器の技術、歴史などの展示や体験ができる場所になっていますよ。


鈴善(地図 ⓫)

〒965-0037 福島県会津若松市中央1丁目3−28

入場無料

10:00~17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://suzuzen.com/ 

ree

白木屋漆器店


歴史先生:さて、では七日町通りに入ってもう1件、漆器屋さんを見学しましょう。


白木屋漆器店(地図 ⓬)

〒965-0042 福島県会津若松市大町1丁目2−10

入館無料

9:30~17:30(日曜日は18:00まで)、水曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.shirokiyashikkiten.com


マナブ:ここも洋風な、立派な建物ですね。


歴史先生:建物自体は1914年(大正3年)、ちょうど第一次世界大戦が勃発した年ですが、この年に建てられたルネッサンス風の土蔵造りです。その奥にも古い建物群が並んでいます。


マナブ:商売を始めたのもその時?


歴史先生:いえ、白木屋は会津でも最も早くから漆器を扱っていたお店の1つ。慶安年間創業といいますから、1648~1652年、江戸時代の初期ですね。


マナブ:えーっと、保科正之が会津に入ったのが・・・


歴史先生:いい質問ですね。1643年です。慶安年間というと、保科正之の奨励によって会津での漆器産業が発展しはじめたころです。白木屋はその後、享保年間(1716~1736年)に現在の場所に移転し、漆器の製造および販売を現在までずっと続けています。


マナブ:なるほど。長い歴史のあるお店なんですね。


ree

2階には貴重な漆器が展示されている


歴史先生:1階にもたくさんの漆器が展示販売されていますが、2階にもぜひ上がってみてください。


七日町通りを歩く(2):歴史ある味噌蔵、酒蔵。そして海産物問屋は二・二六事件と意外なつながりがあった


ree

満田屋


ree

マナブ:七日町通りを西へ向かって歩いています。


歴史先生:ここ、桂林寺通りを少し入ったところに「満田屋(みつたや)(地図 ⓭)」がありますので、のぞいてみましょう。


満田屋(地図 ⓭)

〒965-0042 福島県会津若松市大町1丁目1−25

店舗:10:00~17:00、みそ田楽:10:30~16:30(ラストオーダー16:20)、水曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.mitsutaya.jp/ 


マナブ:ここも立派な蔵のような造りですね。


歴史先生:1834年、江戸後期創業の味噌専門店です。この建物は元々は味噌蔵でした。


マナブ:みそ田楽、と表示されていますね。


歴史先生:会津の名物の1つです。こんにゃく、揚げ豆腐、餅、里芋などに柚子や山椒を加えた味噌だれを塗って、囲炉裏の炭火で一本ずつ焼き上げます。お米を半分つぶした「しんごろう」というのもここでしか味わえないユニークな名物です。


マナブ:おいしそうですね~。


歴史先生:味噌を始め、会津の特産品も販売しています。


ree

末廣酒造 嘉永蔵


末廣酒造 嘉永蔵(地図 ⓮)

〒965-0861 福島県会津若松市日新町12−38

入館無料

9:30~16:30、第2水曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://sake-suehiro.co.jp/museum/


歴史先生:さて、続いては大和町通りにある末廣酒造 嘉永蔵。


マナブ:造り酒屋、と書かれていますね。


歴史先生:はい。嘉永3年にできた蔵なので嘉永蔵、なのですが、嘉永3年というのは1850年、ペリー来航の3年前。


マナブ:まさに幕末の動乱が始まろうとしている時。


歴史先生:ここで初代が酒造りを始めるのですが、戊辰戦争ですべては灰になってしまいます。1869年(明治2年)に酒造りは再開され、山形や丹波から酒造りの専門家である杜氏を招き、質の高い日本酒を醸造するようになります。当時はそういった専門家を他から招くというのは大変珍しかったのだそうです。


ree

嘉永蔵の内部


マナブ:建物の内部も素敵です。


歴史先生:春から秋は1日6回、冬は1日3回、約30分での見学コースもあります。予約不要で参加できますので、時間が合う場合は参加してみるといいでしょう。見学の時間はWebサイトでご確認ください。


ree

会津新選組記念館


マナブ:次の大きな交差点の角にある建物には「会津新選組記念館」と書かれていますね。


歴史先生:はい、最後まで西軍に抵抗していた侍たちの中には新撰組の隊士も多くいました。会津での戦いにも多く参加していて、ここ会津では土方歳三を始め、新選組に関する話がいくつも残っています。ここは個人で開いている資料館のようです。


ree

七日町通りにはレトロなデザインの建物が並ぶ


マナブ:会津に着いてからずっと思っていたのですが、修学旅行生がとても多いですね。


歴史先生:そうですよね。東北地方で歴史を学べる貴重な場所の1つとして、修学旅行先としての人気が高いようです。


マナブ:レトロな感じのお土産屋さんもたくさんあって、修学旅行生がたくさん立ち寄っていますね。


ree

渋川問屋


マナブ:さて、とても間口が広くて、格子が印象的な建物がありますよ。


歴史先生:こちらは「渋川問屋(地図 ⓯)」です。


渋川問屋(地図 ⓯)

〒965-0044 福島県会津若松市七日町3−28

11:00~15:00、17:00~21:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://shibukawadonya.com/ 


マナブ:問屋さん?


歴史先生:今は郷土料理を出す料亭になっていますが、元々は1882年(明治15年)創業の海産物問屋でした。


マナブ:こんな山の中の盆地なのに、海産物、ですか?


歴史先生:海産物といえば北海道のものが思い浮かびますが、江戸時代のメインの交易ルートは北前船、すなわち日本海を通るルートでした。その中で新潟港は主な寄港地の1つであり、そこから会津へ通じる阿賀野川をさかのぼって、海産物はたくさん会津にも入ってきていたんです。


マナブ:どんなものがあったんでしょう?


歴史先生:身欠きニシンや棒タラ、などの干物が多かったようです。渋川問屋は会津一の海産物問屋として繁栄していました。


マナブ:今では海産物は卸売市場で取引されますよね。


歴史先生:はい。会津若松市にも1975年(昭和50年)に卸売市場が開設されて、渋川問屋はその役割を終えました。その後、渋川さんの末裔の方々はその建物を利用して会津郷土料理店を始められたんです。


マナブ:いつごろの建物なんでしょう?


歴史先生:母屋は大正時代、蔵は明治時代のものだそうです。ところで、渋川家には別の意味で歴史に名を残した人がいます。3代目の長男に渋川善助という人がいましたが、この人は幼いころから神童と言われ、4代目になる資格がありながら店を継がず、東京に出て勉学に励みました。


マナブ:ふむふむ。そして東京で出世した?


歴史先生:いえ。世の中を変えなければならないという義憤にかられるようになり、何と二・二六事件で暴発した将校たちの後方支援をしていたのです。


マナブ:後方支援というと?


歴史先生:例えば昭和天皇の側近として信頼の厚かった牧野伸顕という人がいるのですが、この人の動向を調査して、襲撃につなげます。幸い、牧野伸顕は襲撃時に周囲の人々の機転によって逃げることができましたが。そのほか、拳銃5丁を調達する等もしていたようです。


マナブ:それで事件後、どうなったんでしょう?


歴史先生:二・二六事件に加わったとして、民間人で唯一、死刑執行されました。


マナブ:あぁ、そうだったんだ。


歴史先生:その後、渋川問屋には松本清張や三島由紀夫なども取材に訪れたんだそうです。


マナブ:海産物問屋を継ぐという人生とはまったく違う人生になってしまいましたね。


戊辰戦争の悲惨さを今に語り継ぐ阿弥陀寺と新選組の若きエース・斎藤一の物語


ree

阿弥陀寺


ree

マナブ:さて、七日町駅まではもうすぐ。左手にお寺が見えてきました。


歴史先生:ここは阿弥陀寺(地図 ⓰)。1603年、江戸時代の始まりとほぼ同時期に開かれたお寺で、その後130名の学僧を抱えるほど繁栄しました。この場所は会津城下の西の入口ですから、ここには木戸が設けられていました。


阿弥陀寺(地図 ⓰)

〒965-0044 福島県会津若松市七日町4−20

境内自由

9:00~17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.nanukamachi.com/shop/amidaji.html


マナブ:門には右側に「阿弥陀寺」、左側に「会津東軍墓地」と書かれていますね。


歴史先生:はい。ここには会津藩士など1281体の遺体が埋葬されています。


ree

会津東軍墓地


マナブ:でも、たしか会津側の死者には埋葬が許されなかったとか。


歴史先生:そういう話をしましたよね。薩長を中心とする西軍側の死者は会津城下の融通寺に墓地が設けられ、手厚い法要が営まれましたが、その一方で会津側の兵士の遺体は町中に放置されたまま。鳥獣のエサになることを見かねた町の人たちが埋葬したりしましたが、それらは密告されて、埋葬した人は処罰を受け、埋葬された遺体は掘り起こされて再び放置されました。


マナブ:ひどい話ですね。


ree

門には徳川家(松平家)の三つ葵の紋章が付く


歴史先生:あまりにも悲惨な地獄の状態がしばらくは続きましたが、会津が落城した翌年、1869年(明治2年)の2月、ようやく東軍側は埋葬を許可します。


マナブ:落城がたしか9月でしたから、半年近くも放置されたんですね。


歴史先生:しかしその埋葬許可は、会津の罪人が埋葬されていた2か所の墓地に対しての許可でした。会津のために戦って死んでいった人々が罪人扱いされることに憤慨した会津の人たちはさらに交渉を重ね、ようやく阿弥陀寺と長命寺にあらたに墓地を設ける許可を得ます。飯盛山で自刃した白虎隊は特別に飯盛山での埋葬が許可されました。


マナブ:当然、ですよね。


歴史先生:しかし実際に遺体を収容するにしても、もはや誰が誰かもわからない悲惨な状態。とんでもない悪臭と気持ち悪さで、作業をさせられた近郊の被差別部落の人たちにも大変な苦労があったはずです。


マナブ:ひどい。想像するのも怖い話です。会津の人たちの薩長への恨みの深さは相当なものだったのでしょう。


歴史先生:そして阿弥陀寺にも何千体もの遺体を丁寧に埋葬できる場所などあるはずもなく、大きな穴を掘ってそこにどんどん埋めていくしかありませんでした。


マナブ:そうか、普通の墓地のように1人1人の墓を建てることなんてできなかったんですね。


ree

御三階(おさんがい)


歴史先生:さて、鶴ヶ城で「御三階(おさんがい)」の跡を見ましたが、そこにあった建物はほら、今、私たちの目の前に建っています。


マナブ:あ、鶴ヶ城で写真で見た建物だ。あのとき、なぜ阿弥陀寺に移築されたんだろうと疑問に思いましたが、今はよく理解できます。


歴史先生:謎は解けましたか?


マナブ:はい。ここは会津のために戦って亡くなった方々が埋葬された特別な場所。戊辰戦争で寺の本堂も焼けてしまいましたが、せめてそこには立派な本堂を早く建てたいという会津の人々の思いが痛いほど伝わってきます。


ree

唐破風部分の瓦には見事な造形が施されている


歴史先生:玄関になっている部分、アーチ型の唐破風が見事ですよね。これは元々御三階にあったものではなく、本丸御殿の入口だった部分をここにくっつけたようです。


マナブ:なるほど、不自然なほどに優雅で優美な入口だなと思いましたが、そういうことでしたか。


歴史先生:鶴ヶ城の建物は戊辰戦争後にすべて取り壊されましたから、これらは唯一現存する貴重な鶴ヶ城の遺構なんです。


ree

新選組 斎藤一の墓


マナブ:ん? こちらは新選組の斎藤一のお墓? なぜここにあるんでしょう?


歴史先生:斎藤一はご存じですか?


マナブ:はい。新撰組の隊士の中でも人気のある人ですよね。たしか剣がとても強かった。


歴史先生:そうですね。斎藤一がどういう人だったか、お話しておきましょう。


マナブ:お願いします。


歴史先生:出生は諸説ありますが、おそらくは1844年の生まれ。青年期に江戸の道場で近藤勇や土方歳三と知り合いました。本名は山口一、です。しかし18歳の時、とある侍といざこざがあって、切り殺してしまいます。


マナブ:それはまずいですね。


歴史先生:江戸にいたら捕縛されてしまいますから京都へ逃げて、斎藤一と名前を変えて潜伏していました。ちょうどその頃、幕府が浪士隊を募集。近藤、土方らはそれに参加して京都へやって来たんです。


マナブ:そこで再会したんですね?


歴史先生:はい。1863年に斎藤一も浪士隊に参加。剣の腕が非常に優れていて、1864年の池田屋事件で長州藩士たちを襲撃。新選組の若きエースとして期待され、若年ながら三番隊の組長にまで抜擢されました。


マナブ:なるほど。


歴史先生:その3年後の1867年、新選組から分かれた伊東甲子太郎が立ち上げた「御陵衛士(ごりょうえじ)」に参加。しかしこれは潜入スパイだったと言われています。


マナブ:それは近藤、土方から相当な信頼を得ていた証拠ですね。


歴史先生:そうですね。伊東甲子太郎らが近藤勇を暗殺しようとしていることを密告し、逆に暗殺してしまいます。


マナブ:暗殺後、新選組に戻ったと思いますが、スパイであったことは公表したんでしょうか?


歴史先生:いいえ。その代わり、山口次郎とまた名前を変えて、別人のような顔をして新選組に入ります。


マナブ:周囲はわかっていたんでしょうけどね。ということは斎藤一と名乗っていたのは人生の中でほんの3年間ほど?


歴史先生:そうなんです。


マナブ:でも新選組の幹部として名前が売れたのがこの時期だから、斎藤一として今でも知られているんですね。


歴史先生:そして運命の1868年。正月早々から鳥羽・伏見の戦いに参加しますが敗走。自分を侍として扱ってくれた会津藩への恩から、会津へ行き、そこで西軍と対峙します。


マナブ:義に厚かった人なんでしょうか。


歴史先生:そのように言われています。白河口の戦いでは、「小峰城に籠城するのでは守り切れない、前線へ兵を進めて西軍を叩くべきだ」、ということを強く進言しますが、総大将の西郷頼母は籠城を決定。結果的に白河口での大惨敗を喫します。


マナブ:斎藤一の意見を取り入れていれば、その後の歴史は変わったかもしれませんね。


歴史先生:はい。その後会津の中で抗戦しますが、一時期行方知れずとなります。


マナブ:会津戦争で亡くなったのでしょうか?


歴史先生:いえ、実は生存していて、戊辰戦争後、会津の人たちが強制的に移住させられた斗南藩へ現れます。


マナブ:斗南藩というのはどこだったんですか?


ree

歴史先生:大きく2つに分かれていて、1つは青森県の下北半島の大部分。もう1つは岩手県北部から青森県にかけての二戸、三戸、五戸あたり。


マナブ:うわぁ、これは厳しい場所だ。寒さも尋常じゃない。その当時、お米なんか取れなかったのでは?


歴史先生:そのとおりで、開拓地としか言いようのない場所でした。石高はわずか7,000石。ここに会津藩士とその家族17,000人がいきなり移住してきたのですから、食料不足になるのは当たり前。


マナブ:それってどれくらいの数字?


歴史先生:「1石=成人1人を養える食糧」、というのが元々の考え方なので、単純にいけば7,000人分です。でも考えてみてください、ここにはすでに領民が住んでいて、その人たちが食料を作っているわけです。


マナブ:おそらくその人たちの食料も不足していて、新しく移住してきた人に分け与えられる食料なんて無かった。


歴史先生:痩せた土地ですので、おそらくはそうだったでしょう。


マナブ:そこに17,000人が追加で来たら、それはもう、厳しすぎます。戦争が終わってからの薩長の会津の人たちへの仕打ちはあまりにもひどい、ですね。


歴史先生:飢餓と疫病の流行で多くの人たちが命を落としました。


マナブ:でもそんなところに斎藤一は現れた。


歴史先生:はい、戦後も会津の人たちと一緒にいたかったのでしょう。そこで妻をめとります。その後斎藤一は新政府で警察の職を得ます。警察では妻の母方の「藤田」という姓を使って「藤田五郎」と名乗りました。さすがに新選組時代の名前は使えなかったのでしょう。


マナブ:あ、お墓には「藤田」の名前がありますね。


歴史先生:その後、警察官として藤田五郎こと斎藤一は西南戦争に参加します。


マナブ:あ、それって、今度は薩摩に対して復讐することになりませんか?


歴史先生:そうですね。他にも元会津藩家老で斎藤一とも親しかった「鬼官兵衛」こと、佐川官兵衛。同じく元会津藩家老の山川浩。こういった人たちが西南戦争に参加していました。この機会に薩摩への復讐を果たそうと、志願して従軍した元会津藩士も多かったそうです。


マナブ:やはりそうでしたか。


歴史先生:その戦争の中で、斎藤一は戦闘で負傷するも戦果を挙げ、勲七等と賞金を授与されました。その後、博物館の看守や学校の庶務など地味な仕事に務めますが、1915年、71歳で亡くなりました。


マナブ:意外と長生きだったんですね。


歴史先生:老後は新選組のことについては一切語らなかったんだそうです。したがって彼がどういう考えで動いていたのかは謎のまま。そして彼の遺言では会津の亡くなった戦士たちの隣で眠りたいとのことでしたので、ここ阿弥陀寺の東軍墓地のとなりに埋葬された、というわけです。


マナブ:あぁ、ものすごい人生を送った人だったんですね。そして最後まで会津の人たちへの思いを忘れなかった。会津の人から愛されているヒーローですね。


ree

レトロな七日町駅の駅舎


マナブ:阿弥陀寺のすぐ向かい側は七日町駅です。レトロな駅舎がいいですね。


歴史先生:ここから電車に乗って、すぐお隣の会津若松駅へ戻りましょう。さて、鶴ヶ城、飯盛山をはじめとする会津若松市内を見てきましたが、いかがでしたか?


マナブ:いやー、実に歴史の深い、そして重い歴史を抱えた町ですね。戊辰戦争のことは今までよく知らなかったんですが、ここへ来て実際に見て、とんでもないことが起きたのだということを実感しました。でもなぜこんな戦争が必要だったのかは大いに疑問です。西軍が武力で幕府を倒した後、これまでの恨みを晴らすために会津を攻めたのだとしたら・・・。それは新政府として本当にすべきことだったのでしょうか。


​歴史好きのための観光ガイド
記事の内容は取材当時のものであり、最新の情報についてはWebサイト等で必ずご確認ください。

なお、本サイトは個人が運営しています。筆者の勉強不足による歴史認識の誤りや情報のアップデートの必要性など多々あろうかと存じますが、何卒温かくお見守りください。

なお、本サイトの内容について無断転載はご遠慮ください​。

© rekishizuki 
bottom of page