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登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
「会津」、「若松」、そして「鶴ヶ城」の名前に秘められた歴史とは?
 
日本でここだけ。鶴ヶ城の瓦はなぜ赤い?
 
千利休の茶道が後世に伝わったのは蒲生氏郷のおかげ?
 
鶴ヶ城の地形的な弱点とは?
 
江戸時代の建物が残る松平家の名園「御薬園」
 
家老の一族21人が自刃。悲劇を後世に伝える会津武家屋敷


「会津」、「若松」、そして「鶴ヶ城」の名前に秘められた歴史とは?


会津若松城(鶴ヶ城)



マナブ:会津若松市の中心部にある会津若松城に来ました。ここは「鶴ヶ城」と呼ばれているんですね。


歴史先生:はい。なぜ鶴ヶ城と呼ばれるかの話をする前に、会津若松という町の歴史、そして名前の由来からお話したほうがよいでしょう。


マナブ:いいですね。


歴史先生:まず「会津」。この地名の由来は日本書紀までさかのぼります。


マナブ:おっと、ずいぶん古い話になりました。


歴史先生:「四道将軍」をご存じですか?


マナブ:いいえ。


歴史先生:第10代祟神天皇の時代といいますから、日本書紀の通りに解釈すると紀元前になってしまうのですが・・・


マナブ:古すぎる。神話の世界ですね。


歴史先生:でもこのお話はその後の何らかの史実に基づいていると考えられます。祟神天皇は大和王権に対抗している地方の「まつろわぬ者たち」を服従させるために、皇族から将軍を4人選んで、大和から見て4つの方向へ軍隊を派遣しました。これが四道将軍。


マナブ:4つの方向というと?


歴史先生:(1)「北陸道」、これは今の福井県から石川県、富山県、新潟県、そして東北へというルート。(2)「東海道」、これは愛知県、静岡県、そして関東から東北へというルート。(3)「山陽道」、これは兵庫県南部、岡山県、広島県。(4)「丹波道」、これは兵庫県北部から山陰へ。


マナブ:それらの伝承はそれらの各地に残っているんでしょうか?


歴史先生:もっとも有名な伝承は山陽道を進んだ将軍「吉備津彦命(きびつひこのみこと)」のお話。


マナブ:あ、それは桃太郎ですね!


歴史先生:そうです。岡山には吉備津彦命が鬼退治をした話があって、吉備津彦命を祀る大きな神社もあります。


吉備津神社(岡山県)


マナブ:で、会津の方にも誰か来たんですか?


歴史先生:北陸道を進んできた大彦命(おおひこのみこと)、そして東海道を進んできた武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)。この2人が出会ったのがこの会津盆地だと言われています。その場所は「相津(あいづ)」と名付けられ、現在の会津になっています。


マナブ:へぇー、とても古い時代からの由来がある地名なんですね。


広々とした会津盆地


歴史先生:で、次は「若松」という名前のお話。1200年前後に源頼朝の御家人であった三浦一族の中の蘆名氏がその軍功によって会津盆地の北部に領地を得ます。そして約200年後の1384年、南北朝時代にここに初めて城を造って拠点としたのは蘆名氏7代当主・蘆名直盛(あしな なおもり)。当時ここは「黒川城」と呼ばれていました。そのまま歴史が進んでいれば、この街は「会津黒川」という名前だったでしょう。


マナブ:それが若松に変わった。何があったんでしょう?


歴史先生:会津の地は蘆名氏によって鎌倉時代、室町時代を通して実に400年もの間治められていましたが、戦国時代になると会津の北にある同じような盆地地形の米沢を拠点としていた伊達政宗が会津への領土拡張の野望を抱くようになります。しかしその当時、天下を掌握しつつあった秀吉は大名同士の勝手な争いを禁じていました。



マナブ:でも伊達政宗はそれに従わなかった?


歴史先生:はい。東北の雄を自認する伊達政宗は、秀吉に対抗すべく、領土をどんどん拡大していきます。そして会津黒川城の蘆名氏を攻め、ここを支配下に置きました。


鶴ヶ城 追手門


マナブ:秀吉は怒りますよね。


歴史先生:はい、そのころ小田原城を包囲していた秀吉は伊達政宗を小田原に呼び出します。あまりにも双方に戦力差の開きがあるため、伊達政宗は仕方なく秀吉に服従する姿勢を示し、せっかく奪ったばかりの会津の地を秀吉に返還しました。


マナブ:でも伊達政宗のことですから、常に取り返す機会をうかがっていたのではないでしょうか?


歴史先生:その通りです。そこで秀吉は家臣の中でも飛びぬけた才能を発揮していた蒲生氏郷を会津に置き、伊達政宗をけん制させます。


マナブ:なるほど、信頼できる有能な武将をここに配置した。


歴史先生:と言えば聞こえがいいのですが、実際には蒲生氏郷の能力の高さを警戒して、僻地に追いやったという意味合いも強かったのではないかと思われます。


マナブ:あ、そうか。近くに置いておくと今度は自分が蒲生氏郷によって天下を奪われるかもしれない。そういう理由もあるんですね。


<読んでおきたい本>

童門冬二「蒲生氏郷」




近江の日野という小さな町の領主であった蒲生家の嫡男、氏郷が信長の人質となることで信長にその才能を見込まれ、戦国を代表する有能な武将に育つ物語。本能寺の変の後、そのあまりにも高い能力を秀吉に警戒されて近江から遠い会津に移された蒲生氏郷。彼は会津の街をどう作ったのか。



歴史先生:さて、1592年のこと、会津黒川城に入った蒲生氏郷は、伊達政宗の襲来に備えて城の大改築をおこないます。そして家臣団の住む武家屋敷群と、近江から連れてきた商人たちの街を作り、今の会津若松市の骨格を作り上げました。


マナブ:近江商人というのは商売上手で有名ですが、彼らも連れてきたんですか?


歴史先生:はい、それによって街は大いに発展しました。そこでこれまでの「黒川」という名前を「若松」と改めます。これは故郷である日野にあった馬見岡綿向神社の森が「若松の森」と呼ばれていたことにちなんだと考えられています。


マナブ:それで若松になったんだ。


歴史先生:さらにお城を「鶴ヶ城」と呼ばせるようにしました。蒲生氏郷の幼名が「鶴千代」だったこと、そして蒲生家の家紋が「対い鶴(むかいつる)」という2羽の鶴が向かい合っているデザインに由来するようです。蒲生氏の祖先が戦場で鶴の導きによって死地を脱出できたことに感謝してこの家紋になったのだとか。


蒲生氏の家紋


マナブ:なるほど、それで蒲生氏郷のお城だから鶴ヶ城。名前の由来がこれで全部出揃いましたね。鶴ヶ城があったら、「亀ヶ城」もあったりして(笑)。


歴史先生:実はあるんです。


マナブ:え? あるんですか?


歴史先生:猪苗代にあります。鎌倉時代からある古いお城で、会津若松の東側の守りとして蒲生氏郷も改築・整備をおこないました。江戸時代初期の一国一城令で多くの城は壊されましたが、ここは例外として残り、会津藩の防衛拠点として戊辰戦争まで使われていたんです。


会津の地は江戸時代には松平氏が治めた


マナブ:あれ、そういえば幕末の会津藩というと松平容保(かたもり)がお殿様ですよね? 蒲生氏はその後どうなったんでしょう?


歴史先生:蒲生氏郷は1595年、40歳で亡くなってしまいます。その子である蒲生秀行がその跡を継ぐのですが、家中での内紛が絶えず、秀吉から領地を没収されてしまいます。


マナブ:で、秀吉がその後に指名したのは?


歴史先生:上杉景勝、でした。しかしこれが関ケ原の合戦の引き金になります。


マナブ:え? それはなぜ?


歴史先生:会津若松という守りの堅い、東北の重要拠点を抑えた上杉景勝は、秀吉の死後、石田三成ら西軍と呼応して、対家康包囲網を作ろうと画策します。家康は再三上杉景勝に上洛を命じますが、そのたびに上洛命令をあえて拒否。それだけではなく、督促に来た家康の使者に対して挑発的な書状を手渡します。これが「直江状」と言われるものです。


マナブ:直江状?


歴史先生:上杉景勝の家老の直江兼続が書いたもの、とされていて、以下のような内容でした。


「徳川家康殿、家康が疑い深く、我々上杉に謀反の疑いをかけているが、我々はそんなことを企んでいない。会津や越後で道路を整備し橋をかけるのは当然のことだ。それを指摘される筋合いはない。家康が勝手に約束を破って大名たちに圧力をかけ、権力拡大をはかっていることは皆が知っている。もし我らが謀反を企てているなら、関所を固め兵を多く動かしているはずだが、そんなことはしていない。秀吉公の遺言も守ろうとしている。家康に頭を下げるつもりもないし、不当な疑いは晴らしてほしい。誠実な対応をお願いしたい。」


マナブ:うわ、かなり挑発的というか、失礼な感じですね。で、家康はどうしたんですか?


歴史先生:家康はこれをみて激怒。「会津征伐」の軍を起こします。ですが、直江状の実物は残っておらず、後世になって書き写したものが残っているだけ。そのため直江状は偽物で会津征伐を正当化するために家康側が創作で書いたものではないか、というような疑いもぬぐえません。


マナブ:うーん、そうかもしれませんね。


歴史先生:それはともかく、家康は会津征伐と号して諸大名を率いて関東へと進みました。ところがその機会を狙っていた石田三成らは留守宅を守る諸大名の家族を人質に取り、毛利・宇喜多らをはじめとする西軍を組織して、家康に従った諸大名に降伏を迫りました。


マナブ:家康の軍にとっては、前面には難攻不落の会津の上杉。背後には西軍がいて、しかも家族は人質に取られている。これは相当まずい状況です。


歴史先生:まずい状況の中でしたが、福島正則らの強硬派の強い意見で怒りの感情に火が付いた諸大名は、石田三成への憎しみを倍加させ、西へ向かって引き返すのでした。そして関ケ原で衝突します。


マナブ:そのときの家康の怒りを考えると、関ケ原の後、上杉景勝は切腹させられたんでしょうか?


歴史先生:それがですね、上杉景勝は上洛して家康に謝罪することで命は助けられ、会津92万石から米沢30万石に減封されました。


マナブ:会津は92万石もあったんですか! 加賀百万石とか言うけど、それに匹敵する大藩だったんですね。


歴史先生:そうなんです。江戸時代には領地もかなり削られて、幕末の会津藩は23万石と言われていますが。


マナブ:それにしても、上杉景勝に対してはとても寛大な処置だったんですね。うーん、やっぱり直江状は家康の創作だったかもしれない?


歴史先生:上杉景勝はその後、大坂の陣に徳川方として参戦。69歳の長寿を全うするまで米沢にて藩の運営に尽力して暮らしたんだそうです。ちなみに上杉景勝というのは非常に構想力と実行力のあるリーダーでした。


マナブ:というと?


歴史先生:彼が会津若松に入った時、この城は山に近いのが弱点だ、とすぐに見抜きます。そこで阿賀川沿いの土地を取得して、そこに鶴ヶ城の約2倍の面積を持つ巨大な平城と、東北随一の近代都市を作ろうとしたんです。「神指城(こうざしじょう)」と呼ばれ、大河である阿賀川に面して防御に堅く、日本海と直接つながる水運にも恵まれた場所でした。


マナブ:でもすぐに関ケ原の戦いが起きて、それどころではなくなった。


歴史先生:はい、未完成のままで終わってしまいました。


マナブ:完成した姿を見て見たかった気がします。


歴史先生:そうですね。完成していれば会津若松は今以上の発展を遂げていたかもしれません。そして、覚えていますか、戊辰戦争での鶴ヶ城の最期。


マナブ:近くの小田山を占領されて、そこから大砲を打ち込まれた。


歴史先生:そうです。山に近い欠点を見事に突かれました。神指城だったとしたら、もっともっと抵抗が続けられたかもしれません。


マナブ:上杉景勝の先見の明が光りますね。


鶴ヶ城会館はお城の入口にあり、お土産店や食堂が充実


マナブ:上杉景勝が出て行ったあと、会津若松城に入ったのは?


歴史先生:加藤嘉明がそこに入りました。


マナブ:ん? 聞いたことがあるような、ないような。


歴史先生:秀吉の腹心の部下の一人で、「賤ヶ岳の七本槍」の一人に数えられる武将です。


マナブ:「賤ヶ岳の七本槍」には誰と誰が入っているんでしたっけ?


歴史先生:信長の後継者争いの中で、秀吉が柴田勝家と戦った賤ヶ岳の戦い。ここで活躍した7人の武将として挙げられているのは以下の通りです。


加藤清正(かとう きよまさ)

福島正則(ふくしま まさのり)

加藤嘉明(かとう よしあき)

平野長泰(ひらの ながやす)

脇坂安治(わきさか やすはる)

片桐且元(かたぎり かつもと)

糟屋武則(かすや たけのり)


マナブ:なるほど。で、その加藤嘉明が会津に入った。


歴史先生:はい。1627年のことでした。加藤嘉明はその前にあった地震から街の復興に務め、また鶴ヶ城の天守の再建、西出丸、北出丸の拡張をおこなって城の近代化を成し遂げました。加藤嘉明は城作りの名人とも言われていたので、今の鶴ヶ城が名城と言われる理由の一つは彼の作品であることも大いに影響しています。


マナブ:でも江戸時代の間にまた代わったんですね。


歴史先生:実は会津に入ってからわずか4年後の1631年に加藤嘉明は病死してしまいます。跡を継いだのは子の加藤明成でしたが、これが評判が悪かった。(注:近年の研究で評価の見直しも進んでいます。)


マナブ:どんな殿様だったんでしょう?


歴史先生:私欲に走って領民から厳しい税の取り立てをおこなったようです。その姿勢に反対したのが、父の代から家老を務める堀主水。加藤明成を厳しく諫め、ついには家老を罷免されます。その後江戸で処刑までされてしまいました。「会津騒動」として知られています。


マナブ:2代目の若社長と、先代からの番頭さんの争い。今でもよくありますね。


歴史先生:この会津騒動の結果、加藤明成は改易され、会津はまた新しい藩主を迎えることになりました。


マナブ:それが松平。


歴史先生:そうです。ところで「松平」という名前ですが、徳川将軍に関係する人たちがよくそれを名乗っていませんか?


マナブ:はい、なんとなく徳川と親戚、という感じで捉えていましたが。


歴史先生:元々は今の愛知県豊田市の松平町の地名で、そこの豪族、松平氏から出たのが松平家康、のちに改名して徳川家康です。そこで松平氏というのは徳川の元になった本家でもあり、大切にされていた名前なんですね。


マナブ:では会津には徳川将軍家の親戚を入れた?


歴史先生:そうなんです。加藤家の後、会津に入ってきたのは保科正之。


マナブ:ん? 松平、ではなくて?


歴史先生:保科正之は2代将軍徳川秀忠の子。3代将軍家光の異母弟になります。幼いころに信濃の保科家に養子に出されたので保科という姓を名乗っています。


マナブ:将軍家から見るととても血縁の濃い人だったんですね。


歴史先生:1643年、保科正之は会津に入り、会津松平家の祖となります。そこから幕末までは松平家が会津を治めました。


マナブ:なるほど。ようやく松平家までつながりました。


日本でここだけ。鶴ヶ城の瓦はなぜ赤い?


北出丸入口から鶴ヶ城へ入る



マナブ:では、いよいよ鶴ヶ城へ入っていきましょう。


山本八重ゆかりの場所を中心とした城内の案内板


マナブ:案内板がありますね。見ていきましょう。山本八重ゆかりの場所となっていますが、そうか、大河ドラマの「八重の桜」って、前半は会津での戦いが舞台で、後半は新島譲との結婚のお話になるんでしたっけ?


歴史先生:そうですね。そういったわけで、山本八重さん、そして主演だった綾瀬はるかさんはここ会津では大人気です。


マナブ:なるほど。


歴史先生:この案内図は南北逆になっているのでそのつもりで。追手門を抜けて北出丸、そして本丸へ入ります。


武者走り


歴史先生:本丸に入ってすぐ、石垣の内側を見てください。


マナブ:V字型の階段がついています。


歴史先生:これは「武者走り」と呼ばれていて、石垣の上に登る人、降りる人がぶつからないようにスムーズに入れ替えられる工夫です。


マナブ:なるほど、これはおもしろい。


天守閣入口


鶴ヶ城(地図 ❶)

〒965-0873 福島県会津若松市追手町1−1

入場料410円(茶室麟閣との共通券は520円、茶室麟閣・御薬園との共通券は730円)

8:30~17:00(最終入場16:30)、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.tsurugajo.com/turugajo/shiro-top.html


歴史先生:鶴ヶ城と言えば大きくて立派な天守閣がシンボル。きれいに見える場所はあとで行きますので、まずはその中に入りましょう。


塩蔵


マナブ:天守台の石垣から中に入りました。すぐにあるのが、「塩蔵」。


歴史先生:海から離れている会津では塩の調達が重要課題でした。どこから持ってきていたと思います?


マナブ:福島県の海岸から猪苗代湖のところを通ってきてたんでしょうか?


歴史先生:いいえ。反対側、日本海で採取した塩を、阿賀野川をさかのぼるようにしてここまで運んでいたんです。ちなみに、会津盆地から日本海へ注ぐこの大きな川のことを会津では「阿賀川(または大川)」、新潟県に入った下流地域では「阿賀野川」と呼んでいます。


マナブ:あ、そうか、塩という重たい物を運ぶ水運を考えると、太平洋側ではなくて日本海側から、になりますね。


天守閣の内部は会津の歴史の史料館になっている


天守閣の最上階からは会津盆地が見渡せる


マナブ:さて、最上階まで来ました。


歴史先生:会津若松にはあまり高いビルがないので、ここから会津盆地を一望できますよ。


天守閣から南西方向を見る


武者走り


マナブ:あ、さっき見た武者走りが見えます。なるほど、石垣の上は割と広くて、あそこに守備兵がたくさん待ち構えていたんですね。


茶室麟閣


歴史先生:あそこに見えているのが茶室麟閣です。のちほど行きましょう。


南側には向羽黒山城跡のある山が見える


歴史先生:南側を見てください。街の向こうに山並みが見えますが、その手前にある濃い色をした山影、わかりますか?


マナブ:はい、見えます。


歴史先生:あの山は「向羽黒山城(むかいはぐろやまじょう)」があった場所です。


マナブ:聞いたことがないお城ですが?


歴史先生:なぜかあまり有名でないのですが、東北随一の規模を持つ山城で、巨大な縄張りで有名な春日山城よりもさらに規模が大きかったと言われています。


マナブ:へぇー。いつの時代のものなんでしょう?


歴史先生:会津の開祖、蘆名氏が築いた巨大要塞です。関東から峠道を抜けて会津盆地へ入ってくる入口にある戦略的な要地でもあり、会津の守りの要として重要な城でした。そのため伊達政宗、蒲生氏郷なども城の改修をおこなったようです。続日本100名城にも選ばれていますが、見学するにはハードな山道で、観光の場所としてはあまり人気がないのも仕方ないかもしれません。


飯盛山


歴史先生:こちら(北側)には飯盛山が見えています。


マナブ:どれが飯盛山ですか?


歴史先生:白いアンテナのようなものがありますね。そのすぐ右側、ポコンと三角の形をした山があるかと思いますが、あれが飯盛山です。そのふもと、ちょうどアンテナと重なるような場所に墓地が見えますか?


マナブ:それらしきものは見えます。


歴史先生:あのあたりに後で行きますので覚えておいてくださいね。


マナブ:天守閣を下まで降りると売店があります。


歴史先生:ここに「出口」という看板が下がっていて、多くの人がそこから出ているのですが、おっとあぶない、まだ大事な見どころが残っています。売店の奥に進み、靴を脱いで袋に入れ、「干飯櫓」まで行ってみましょう。


マナブ:まだ展示が続くんですね。


歴史先生:そうです。干飯櫓は城内に11か所あったとされる二重櫓の中で最大のもので、2001年に再建されました。干飯櫓の向こう側の端が出口になります。


干飯櫓の中にも会津の歴史の展示が続く


干飯櫓の出口から見た天守閣


マナブ:干飯櫓の出口で靴を履いて、外へ出ました。おー、ここからも天守閣が良く見える。


歴史先生:手前に見えるのは表門(鉄門)と呼ばれている、お城の正門です。本丸に入るにはここを突破しなければなりません。


本丸から見た天守閣


マナブ:広い芝生の広場に下りてきました。


歴史先生:ここにはかつて本丸御殿がありました。「表」「中奥」「大奥」に分けられていて、巨大な建物群が広場を埋め尽くしていました。今は御殿がないので、ここからは天守閣が良く見えますね。


マナブ:天守閣、すごいですね。まずはその大きさ。これは確かに大きい。しかも下の層にいくと広がっていて、どっしりした姿が印象的です。


歴史先生:建物の高さ25m、これが11mの石垣の土台に乗っています。建物だけでいえば24mの松本城とほぼ肩を並べます。ちなみに姫路城は建物31.5m、土台15mと非常に大きいですが、マナブさんが言われるように、このどっしりした姿が高さ以上にさらに大きさを感じさせますね。


マナブ:特に印象的なのが瓦の色。これはなぜこんな色なんですか?


歴史先生:鶴ヶ城の瓦には鉄分を多く含んだ薬が塗られていて、赤く見えるんです。これは積雪や低温にも耐えるための工夫で、保科正之の時代に会津で開発されたものだそうです。当初復元されたときには一般的な瓦が使われていたんですが、2011年(平成23年)の大規模修繕に際に赤瓦に葺き替えられました。


マナブ:この色のお城って、珍しいですよね?


歴史先生:全国でもここだけ、と言われています。


会津若松市民の強い思いでよみがえった鶴ヶ城


マナブ:天守閣の建物自体は新しそうでしたが。


歴史先生:最初の天守閣は1593年、蒲生氏郷が7層の立派な望楼を建てました。しかしそれは地震で被害を受け、江戸時代の初期、加藤嘉明の時代にあらためて5層の天守閣が再建されました。


マナブ:その天守閣が残っていればよかったのでしょうけど、空襲で焼けたんですか?


歴史先生:いえ。会津若松は戦争中の空襲を受けていません。そのため古い町並みが残っているのが魅力です。しかし幕末の戊辰戦争で町の2/3は灰燼に帰してしまい、江戸時代以前のものがほとんど失われてしまいました。


マナブ:そうか、空襲ではなくて、戊辰戦争の被害が大きい。


歴史先生:天守閣は幕末の戊辰戦争で官軍の砲撃に晒され、壁のあちこちが崩れて無残な姿となりました。さらに会津藩の人たちは斗南藩へ移され、お城はまさに廃墟同然の状態に。そこで1874年(明治7年)になってお城の取り壊しが決定され、石垣を残してすべての建物が廃棄されました。


マナブ:人もいなくなり、お城もなくなった、悲しい結末ですね。


歴史先生:しかし会津の誇りであった鶴ヶ城を取り戻そうとの市民の声が高まり、1965年(昭和40年)に天守閣が再建され、2011年(平成23年)にはかつての赤瓦の屋根に葺き替えが行われて、現在に至ります。


マナブ:そう思うと、今こうして天守閣の雄姿を見られるのはとても重みを感じます。


東側から見た天守閣


御三階跡


歴史先生:ここは「御三階(おさんがい)跡」。本丸御殿の藩主の休息の場のすぐ裏に当たり、限られた人しか入れなかったエリアです。


マナブ:ここに3階建ての建物があったんですね。


歴史先生:3階建てに見えて、実は内部は4層になっています。最上階へははしごで登るんですが、上の階からはしごを引き上げると、下からは登れないようになっています。そのため、ここは密談をするための場所だったのではないかと言われています。


マナブ:写真を見ると、洒落たデザインの建物ですが、これも失ったのは残念ですね。


歴史先生:いえ、実はこれは残っているんです。


マナブ:ん?


歴史先生:御三階は戊辰戦争でも焼けずに残りました。一方、市内の阿弥陀寺では本堂が焼けてしまい、この御三階を新しい本堂として移築したんです。


マナブ:いくら本堂が焼けたからと言って、お城の重要な建物を移築するなんて、阿弥陀寺ってそれほど有力なお寺なんですか?


歴史先生:その謎はあとで阿弥陀寺で解明しましょう。


千利休の茶道が後世に伝わったのは蒲生氏郷のおかげ?


麟閣の入口



茶室麟閣

入場料210円(天守閣との共通券は520円、茶室麟閣・御薬園との共通券は730円)

8:30~17:00(最終入場16:30、抹茶の注文は16:00まで)、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.tsurugajo.com/tsurugajo/rinkaku/


マナブ:「麟閣」の前に来ました。ここは茶室なんですか?


歴史先生:はい。ここがなかったら日本の茶道はどうなっていたかわかりません。それほど重要な場所なんです。


マナブ:ん? 京都とかであればそれもわかりますが、ここは会津ですよ?


歴史先生:そうですよね。ところで茶道といって真っ先に思い浮かべる歴史上の人物は?


マナブ:やっぱり千利休でしょうか。


歴史先生:その千利休はどういう最後だったか、ご存じですか?


マナブ:たしか秀吉の不興を買って殺されたんだったかな?


歴史先生:そうなんです。


茶室


歴史先生:そこで千利休の茶道が失われるのを惜しんだのが、例の蒲生氏郷。彼は茶道でもその才能を発揮して、千利休の弟子の筆頭に挙げられるほどの評価を得ていたんです。


マナブ:へぇー、マルチな才能を持った人だったんですね。


歴史先生:そういったこともありましたから、1591年に師匠の千利休が秀吉に死を命じられた時には相当なショックだったはずです。千家が断絶するのを何としても防ごうと、蒲生氏郷は千利休の子である千少庵(せんのしょうあん)を京都から会津に連れてきて、鶴ヶ城内に匿いました。そしてここに茶室を建て、「麟閣」と名付けます。少庵はここで父である千利休から伝わる茶道を継承しました。


マナブ:ずっと会津にいたんですか?


歴史先生:いえ。蒲生氏郷は家康の協力を得て、3年後の1594年、秀吉に千家の再興を願い出ます。そして許されて少庵は京都へ戻りました。そののち、千家の茶道は少庵からその子の宗旦(そうたん)に受け継がれ、さらに宗左、宗室、宗守の3人の兄弟に分かれてそれぞれ表・裏・武者小路の三千家となり、現在もその伝統が引き継がれています。


マナブ:そうだったんですか。蒲生氏郷がいなければ千家の茶道はそこで途絶えていたかもしれないんですね。


天守閣を眺めながらお抹茶をいだたこう


お抹茶と薯藷饅頭(じょうよまんじゅう):一席600円        


歴史先生:せっかくここに来たんですから、お抹茶をいただいていきませんか?


マナブ:いいですね。蒲生氏郷に感謝しつつ、いただきましょう。


鶴ヶ城の地形的な弱点とは?


高石垣



歴史先生:次は本丸の東側の入口を見に行きましょう。


マナブ:立派な石垣ですね、相当な高さがありそう。


歴史先生:ここは茶室麟閣の裏手にあたるところなんですが、「高石垣」と呼ばれていて、19mも高さがあるんです。


廊下橋


歴史先生:そしてそこには「廊下橋」という橋が架かっていて、東側の二の丸につながっています。


マナブ:どうしてこんな高い石垣がここに必要だったんでしょう?


歴史先生:いいポイントに気が付きましたね。このあたりの地形図を見てください。会津若松は標高200~250m程度。この図は10mおきに色を変えて微妙な高低差を表しています。



歴史先生:何か気づきますか?


マナブ:会津若松の市街地は平たんだと思っていたんですが、東に行くにつれて徐々に高くなっているんですね。


歴史先生:これはどんな地形でしょう?


マナブ:あ、扇状地だ。東山温泉がある谷から川が流れ出ていて、それが扇状の斜面を作っていますね。


歴史先生:そのとおり。で、鶴ヶ城があるのは?


マナブ:その扇状地の端っこあたり。そうか、東側は高くなっているから守りが弱い。そこで濠を深くして高い石垣が必要だったんですね。


歴史先生:大正解です。昔の人は測量技術なんて無かったのに、地形をよく見て城づくりをしているんですよね。


北出丸入口


マナブ:再び北出丸の入口に戻ってきました。


歴史先生:ここからまっすぐ北に延びているのが北出丸通り。よく整備された気持ちの良い散歩道です。


北出丸通り


歴史先生:ところで、ここには戊辰戦争当時の家老、西郷頼母の屋敷がありました。その屋敷は今は「会津武家屋敷」として東山温泉の入口に移築されていますので、後で行ってみましょう。



歴史先生:そしてこの北出丸の入口は、会津藩が籠城の末、降伏した場所。「会津戊辰戦争終結の地」という看板が立てられています。


「会津戊辰戦争終結の地」の看板


マナブ:屈辱的な思いだったんでしょうね。


歴史先生:絵を見ていただくと、右側の椅子に座っている黒い軍服姿が桐野利秋(「人斬り半次郎」こと、中村半次郎)。その隣のグレーの服が板垣退助。2人とも洋装ですね。


マナブ:そうですね。


歴史先生:対する、赤い毛氈(もうせん)の上に足袋で乗って立っているのが松平容保。降伏の嘆願書を渡す儀式をおこなった場面です。


マナブ:看板の説明によると、会津藩士たちはこの赤い毛氈を切り取って、この日の無念を忘れなかったとか。でも、この毛氈を薩長はわざわざ持ってきたんですかね? そうだとしたら準備が良すぎる。


歴史先生:この毛氈は長崎の商人、足達仁十郎がこの儀式のために献上したものと言われています。江戸時代、会津藩は朝鮮人参の栽培で藩の財政を支えていましたが、足達仁十郎は長崎でそれを輸出し、莫大な富を会津藩にもたらした富商です。足達仁十郎は会津藩の財政を支援し、西洋文化をもたらす役割も持っていたようです。


マナブ:この儀式に当たって、藩主のお殿様が土の上で頭を下げるのが見ていられなくて、こんな毛氈を用意したんでしょうかね? それによって何とか面目を保ったのかな?


歴史先生:そうかもしれません。


自刃白虎隊士 生家案内図


歴史先生:そしてその隣には「自刃白虎隊士 生家案内図」という看板も立っています。


マナブ:そこまでくると、ちょっとマニアックですね。


歴史先生:そして白虎隊をはじめとする会津の子供たちを厳しく育てた藩校「日新館」があったのは、お城のすぐ西隣。


マナブ:今はもうないんですよね。


歴史先生:日新館は郊外の土地に復元されています。会津でどういう教育がされていたのか、ここもぜひ行ってみましょう。


マナブ:それも楽しみです。



江戸時代の建物が残る松平家の名園「御薬園」


御薬園の入口


御薬園(地図 ❷)

〒965-0804 福島県会津若松市花春町8−1

入場料330円(天守閣、茶室麟閣との共通券は730円)

8:30~17:00(最終入場16:30)、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.tsurugajo.com/oyakuen/


マナブ:鶴ヶ城の北東にある、「御薬園(おやくえん)」に来ました。私たちは町なか周遊バスを利用して「御薬園西口」で降りましたが、ここに寄る便が非常に少ないので、バスの時刻をよく確認してから、おいでくださいね。またはここだけはタクシー利用が良いかもしれません。


歴史先生:さて、国の名勝庭園である御薬園ですが、古い歴史を持っています。1400年頃のお話、そのころは蘆名直盛がのちの鶴ヶ城の元となる東黒川館を築いた頃ですが、このあたりに一軒の農家があり、そこに住む男が病気で苦しんでいました。


マナブ:ふむふむ。


歴史先生:ある日、そこへ朝日保方と名乗る白髪の老人が現れ、泉の水でその男を介抱すると病気が治りましたが、代わりにそれを見届けた老人は亡くなってしまいました。男はその老人を手厚く葬り、「朝日神社」を建て、霊泉と共に祀りました。


マナブ:最初は泉のある神社だったんですね。


歴史先生:その話を聞いた蘆名家の10代目、蘆名盛久が初めにここに別荘を建て、16代目の蘆名盛氏がそれを復興して整備したのが御薬園の始まりです。


マナブ:蘆名氏から続く古い庭園でしたか。


園内の案内図


心字池


歴史先生:しばらくは戦国の世が続いて庭園は荒廃しますが、江戸になって保科正之が会津に入ると、ここを由緒ある土地として再整備。会津松平家3代目の松平正容(まさかた)が本格的な作庭を行って、今のような池泉回遊式庭園が出来上がりました。


マナブ:大名屋敷の庭園によくある形ですね。


歴史先生:また、園内にて朝鮮人参を栽培し、それを奨励したことから、「御薬園」と呼ばれるようになりました。ここで栽培・研究された朝鮮人参は薬として、また付加価値の高い農作物として、領民の健康や産業の発展に寄与しました。


マナブ:先ほど、鶴ヶ城降伏の儀式の場所で、朝鮮人参を輸出して藩財政を助けた商人の話がありましたね。


女滝(手前)から見た楽寿亭(左)と御茶屋御殿(右奥)


マナブ:池の周りを一周しながら見ていきましょう。


歴史先生:御薬園には「男滝」「女滝」があります。いずれも滝というよりは、少しだけ流れが速い場所、という感じ。ほら、ここの石組みが女滝です。


マナブ:たしかに、滝という感じではないですね。


男滝


マナブ:男滝もチョロチョロとした流れです。豪快さというよりも、繊細さが出ているお庭のように感じられました。


楽寿亭


歴史先生:池の中の島に建っている「楽寿亭」。藩主や重役たちの茶席の場、そして時には密談の場として使われたようです。


御茶屋御殿


歴史先生:池のほとりに建つ「御茶屋御殿」。ここは藩主のための休息の場ですが、上ノ間・次ノ間・控ノ間となっていることから、功績のあった家臣がここに呼ばれて藩主からお褒めの言葉やお酒を賜る場所でもあったようです。


マナブ:会津若松の市街地は戊辰戦争で焼けてしまったという話がありましたが、ここは江戸時代の建物が残っているんですね。


歴史先生:はい。というのも、会津攻めの間、ここは「西軍」がけが人の治療のために使っていたので、攻撃を受けていないんです。


マナブ:西軍というのは薩長を中心とした官軍のことですね。


歴史先生:ここ会津では「官軍」とは呼ばずに「西軍」と呼びます。なぜだかわかりますか?


マナブ:そうか、「官軍」と言ってしまうと、その敵は「賊軍」。でも「西軍」の敵は「東軍」、になりますよね。


歴史先生:そのとおりです。恩ある江戸幕府に暴力で歯向かっている薩長の連中が正しいわけがない。江戸幕府に忠誠を尽くしている我々こそが正しい軍なんだ、という思いで戦っているわけですから。実際、会津側の軍は自分たちを「東軍」と呼んでいます。


マナブ:なるほど。


御茶屋御殿から心字池を眺める


松平容保公 肖像写真


歴史先生:この御茶屋御殿ですが、1882年(明治15年)に松平容保の住まいとして増築されています。


マナブ:えっ? 明治になって松平容保はここに住んでいたんですか?


歴史先生:はい。戊辰戦争の敗戦後、1871年(明治4年)に会津藩は青森県の斗南藩に国替えとなって、松平容保も当然のことながらそこへ行かされます。しかし1か月ほどして許され、東京へ移り住みました。


マナブ:松平容保はその後どうなったんですか?


歴史先生:1880年(明治13年)には日光東照宮の宮司に任命され、その後1883年(明治16年)に会津に戻って、増築された御薬園の御茶屋御殿に住まわれます。


マナブ:ここは晩年を過ごした場所でもあるんですね。


歴史先生:松平容保は1893年(明治26年)、東京小石川の自宅で亡くなりました。59歳でした。


マナブ:それにしても大変な人生を過ごされた方でしたね。晩年は少し穏やかな日々だったのかなと思うと、救われる気がします。


家老の一族21人が自刃。悲劇を後世に伝える会津武家屋敷



会津武家屋敷


マナブ:まちなか周遊バスを使って「会津武家屋敷」に来ました。東山温泉につながる幹線道路沿いに広い駐車場があって、観光バスも来ていてまさに観光地、という感じですね。


歴史先生:ここは鶴ヶ城北出丸の入口にあった家老の西郷頼母の邸宅(戊辰戦争で焼失)を、綿密な時代考証を伴って忠実に再現した、歴史的な価値の高い建物です。会津若松に来たら見逃せないスポットの1つでしょう。


会津武家屋敷(地図 ❸)

〒965-0813 福島県会津若松市東山町大字石山院内1

950円(中高生以下、障がい者、団体割引あり)、駐車場無料

8:00~17:00(4~11月)、9:00~16:30(12~3月)、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://bukeyashiki.com/ 


四脚表門


マナブ:入口でチケットを買って、武家屋敷の敷地の中を歩いています。立派な門がありますね。


歴史先生:これが西郷頼母邸の入口、四脚表門です。


マナブ:幕についている家紋は西郷家のものですね?


歴史先生:はい。これは「並九曜紋(なみくようもん)」と言って9つの星で宇宙全体を表しています。この家紋は会津の初代藩主保科正之の家紋でもあるんです。


マナブ:保科正之の家紋は徳川の葵の家紋ではないんですか?


歴史先生:保科正之は幕府より松平姓や葵の家紋の使用を勧められていたのですが、育ててくれた保科家への恩義から、保科姓や並九曜紋を使い続けたんだそうです。


マナブ:義理堅い人だったんですね。で、なぜそれが西郷家の家紋になっているんでしょう?


歴史先生:西郷家の初代は保科正之の兄弟なんです。筆頭家老として保科正之を支え、西郷姓を名乗りました。そこから代々、西郷家は筆頭家老として藩主を支えています。


マナブ:なるほど、それで保科正之の家紋が西郷家の家紋として使われているわけですか。それにしても昔は家柄で代々同じ職務を続けるのが当たり前だったんですね。


歴史先生:実力よりも血筋のほうが大事でした。


表玄関


マナブ:では表玄関から中へ上がらせていただきましょう。家老の家だけあって、さすがに立派な玄関です。


歴史先生:表玄関を入ってすぐのあたりには家臣の執務室や番所などが並んでいます。その奥は西郷頼母の家族が暮らすエリア。女中部屋や台所などがあります。


執務室などが並ぶ


御成り御殿


歴史先生:この邸宅で一番贅沢に作られているのは「御成り御殿」と呼ばれているエリア。ここは藩主が訪れた際に接見する場所です。


マナブ:今では人形が置かれていて、藩主が来られた時の様子が想像できますね。


歴史先生:周囲の庭も見事です。秋の紅葉もすばらしい。


秋には紅葉が美しい


マナブ:広くて見事なお屋敷ですが、西郷頼母という人はどのような人だったんですか? 代々、筆頭家老として藩主を支えたというところまでは聞きましたが。


歴史先生:西郷頼母は1830年の生まれ。明治維新・戊辰戦争を経て、1903年(明治36年)まで生きました。


マナブ:73歳ということは当時としては長生きですね。


西郷頼母


歴史先生:はい、しかし大変な激動の時代を家老として過ごされた方です。1862年に33歳という若さで家老になるとすぐ、藩主の松平容保に「京都守護職に就任せよ」という話が来ます。西郷頼母は「薪を負うて火を救うにひとし」と言って再三反対しますが、それが消極姿勢とみられて家老を一旦解任されます。


マナブ:え、そうだったんですか。結末を知っている私たちからすると、せっかくの正しい判断だったのに、残念ですね。


歴史先生:その結果、松平容保は薩長からの恨みを買いました。江戸城が無血開城した後も、薩長は会津征伐を止めません。存亡の危機に陥った会津藩は再び西郷頼母を家老に復帰させ、白河口での戦いを指揮させますが、ここで手痛い敗戦を喫します。


マナブ:すべてがうまく行っていませんね。


歴史先生:白河口の大敗の後、西郷頼母は責任を取って謹慎していました。鶴ヶ城の籠城したのちも西郷頼母は和議恭順を主張していましたが、軟弱者として城内で激しい反発を受けていました。


西郷頼母の家族21人が自刃


歴史先生:そして運命の1868年8月23日。西軍が会津若松の城下に攻め入りました。西郷頼母の留守を預かっていた妻の千重子は「敵の辱めを受けず」として一族21人もろとも自刃して果てました。


マナブ:ここにある展示がそのシーンですね。


歴史先生:はい。後ろにある屏風が上下逆さまになっているの、気が付きましたか?


マナブ:あ、ほんとだ。


歴史先生:これは仏事の世界で故意に普段と違うことをする「さかさごと」で、今でもご遺体の服の襟を逆さまに着せたりしますが、それと同様のものです。


マナブ:ここまで平和な日常の暮らしの展示を見てきたので、このシーンの展示はとてもショッキングです。それにしても一族21人が自刃したというのを聞いた西郷頼母の心の内を想像するだけでも辛いですね。


歴史先生:西郷頼母は謹慎していたという話をしましたが、薩長軍が城下に攻め込んだことを知るや、婦女子21人に自刃するよう命じ、自分は息子1人を連れて鶴ヶ城へ入りました。謹慎の身でしたから、婦女子も連れて城内に入ることをためらったのかもしれません。


マナブ:えっ、自分が命じたんですか? 逃げるという選択肢はなかったんでしょうか?


歴史先生:逃げられた可能性はあったかと思います。しかし、その場になってみないと、どうしてそう判断したのかを後から推測することは困難ですね。


マナブ:となると、西郷頼母は悲惨な思いで城へ入ってきたんでしょうね。


歴史先生:ものすごく興奮し、怒っていたと記録にあります。そして居並ぶ重臣にも「切腹せよ」と主張し、「もう城は持たない」「主君も切腹すべき」とまで主張したそうです。


マナブ:もう普通の判断力がなくなっていたのかも。


歴史先生:そして1か月の籠城を経て、降伏の日を迎えます。西郷頼母は会津には残らず、その後函館で榎本武明と合流し、函館戦争にも加わるのですが、戦後は神社の神官となりました。そして何と、日光東照宮で宮司になっていたかつての主君、松平容保と運命的な再会を果たすんです。


マナブ:うわー、それはドラマチックですね。


西郷四郎の像


マナブ:西郷頼母邸の脇に「西郷四郎」という人の銅像がありますね。これは柔道をしているのかな? 有名な人なんですか?


歴史先生:「姿三四郎」はご存じでしょうか?


マナブ:はい、名前は聞いたことがあります。


歴史先生:姿三四郎は昭和の時代に書かれた小説の名前なのですが、そのモデルとなったのが西郷四郎と言われています。


マナブ:柔道が強かった。


歴史先生:嘉納治五郎が開いた講道館という道場で、四天王の1人に数えられた柔道家です。なんと身長151㎝、体重53㎏という小さな体。でも「山嵐」と呼ばれる大技を持ち、大きな相手をいとも簡単に投げ飛ばしていたんだとか。


マナブ:それを見るのは痛快ですね。柔道の醍醐味です。


歴史先生:四郎は会津藩士の子でしたが、明治維新の後、四郎は西郷頼母から西郷家の跡取りとして養子に迎えられ、西郷の姓を名乗るようになりました。


マナブ:なるほど、それでここに銅像があるんですね。


旧中畑陣屋


マナブ:こちらも古そうな建物ですね。


歴史先生:これは「旧中畑陣屋」。復元ではなく、オリジナルのもの。福島県の重要文化財です。江戸時代の代官所の建物で、会津武家屋敷が譲り受けて移築したものです。


マナブ:入口の破風がいいですね。


歴史先生:いいところに目をつけるようになりましたね。玄関に唐破風のある茅葺き、書院造の建物。江戸時代は代官所でしたが明治以降は住宅として使われてきました。


マナブ:さて、一通り武家屋敷の中を見てきました。家老の邸宅がどんなものだったのか、よくわかりましたし、会津の歴史に関するさまざまな展示も見ごたえがありました。そして戊辰戦争で起きた悲劇。これはショッキングでしたね。でもおかげで会津で起こったことをよくイメージできるようになりました。


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