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登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
鼓門が迎えてくれる金沢駅から市民の台所・近江町市場へ

城下町の風情を最も感じられる、欧米観光客に大人気の武家屋敷

これはいったい何? 唯一無二の形をした神門のある尾山神社

金沢城の地形に見る巨大土木工事の痕跡と変わったデザインの石垣

度重なる火災で失われた金沢城の過去と、二の丸御殿復元による近未来

鼓門が迎えてくれる金沢駅から市民の台所・近江町市場へ


金沢駅を出ると「もてなしドーム」の大屋根が広がる


実線:バスルート

点線:徒歩ルート


マナブ:私たちは金沢駅に来ています(地図 ❶)。大きなガラスの大屋根が広がっています。


歴史先生:「もてなしドーム」と名付けられたこの施設は北陸新幹線が金沢まで伸びた2005年(平成17年)にできたもので、雨や雪の多い金沢を訪れた人にそっと傘を差しだすようなイメージで設けられたそうです。


マナブ:そして向こうに見えるのが「鼓門」ですね?


金沢駅東口にそびえる鼓門


歴史先生:はい。もてなしドームと同じ時期に出来たもので、高さ13.7m。金沢の伝統芸能である能楽に使われる鼓をモチーフに作られました。


マナブ:柱をねじって組み合わせているのが面白い。建築物として構造の計算が難しそう。


歴史先生:ほんとですね。


マナブ:他で見ないデザインなので、とても印象的な町の玄関口になっていますね。これだけで観光気分が上がります。


金沢駅前にはたくさんのホテルが建ち並ぶ


歴史先生:年間で1,000万人を優に超える観光客が訪れている、日本でも有数の観光都市です。


マナブ:周りを見てると外国人が多い。特に欧米系の人が多いような印象があります。


歴史先生:そうなんです。オーバーツーリズムが指摘される混雑した京都を避けて、「京都以上に日本を感じられる都市」として、日本文化を体験しに来る欧米豪の人が多いらしいです。各種統計を見ても、これまで中心だった台湾・中国からの観光客に代わって、欧米豪からの観光客の伸びが顕著だそうです。


金沢市内の移動はバスが中心


マナブ:さて、ここからどう動きますか?


歴史先生:金沢には地下鉄や路面電車などはないので、移動はバスと徒歩を組み合わせます。


マナブ:バスって、乗りこなすのが難しそう。


歴史先生:一番観光客にわかりやすいのは「城下まち金沢周遊バス」でしょう。市内の主な見どころを右回り、左回りの2ルートですべてカバーし、おおむね15~20分間隔で出ています。


城下まち金沢周遊バス

https://www.hokutetsu.co.jp/tourism-bus/castle-town/


マナブ:バスって、前後どちらから乗るの? 料金の支払いは乗るとき・降りる時? 整理券はあるの? 交通系ICで払えるの? 乗るときタッチが必要なの? など、たくさんの不明点があるので、地元民ばかりが乗るバスだと、もたもたして迷惑かけないかと心配になります。


歴史先生:その点、観光客向けのバスだと、ちょっと気が楽ですよね。城下まち金沢周遊バスでは、後ろから乗って、前から降ります。料金は均一なので整理券はありません。支払いは降りる時。SuicaやICOCA等、全国の交通系ICが使えます。またクレジットカードのタッチ決済も可能です。初めての人が多いので、運転手さんも丁寧に教えてくれます。


マナブ:観光客にやさしいですね。


歴史先生:運賃は1回210円(小人100円)。観光案内所などで売られている1日フリー乗車券は800円(小人400円)。


マナブ:ということは、4回以上乗ればお得。


歴史先生:でも今回の計画では3回しか乗らないので、都度支払しましょう。また、時間によっては最大20分待ちになるので、その場合は普通の地元のバスを使うことがあるかもしれません。ちなみに地元のバスの北陸鉄道バスではSuicaやICOCAなどは使えません。(北陸鉄道発行の「ICa」、現金、クレジットカードが使えます。)


マナブ:えーっと、城下まち金沢周遊バスは7番乗り場、ですね。案内所のすぐ目の前です。


城下まち金沢周遊バスの車内


歴史先生:まずは近江町市場に行きましょう。金沢駅東口から乗って最初の停留所です。そこまでは右回り、左回り、どちらでも行けます。


金沢にちなんだ模様のシート


マナブ:シートの絵柄、おもしろいですね。


歴史先生:それぞれ何だかわかります?


マナブ:えーっと、まずはさっき見た鼓門。日本海のカニ。この着物のようなのは加賀友禅かな? で、この塔みたいなのは何だろう?


歴史先生:あとでここに行きますから、その時に思い出してくださいね。


近江町市場の入口



近江町市場(地図 ❷)

〒920-0905 石川県金沢市上近江町50

入場無料

9:00~17:00(店舗により異なる)

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://ohmicho-ichiba.com/ 


マナブ:金沢駅東口からバスに乗って6分ほど。近江町市場(おうみちょういちば)へ着きました。


歴史先生:ここは実は歴史ある市場なんですよ。


マナブ:いつ頃からあるんですか?


歴史先生:江戸時代、1690~1721年にかけて市内で火災が相次いだため、市場をここに集約したんだとか。


マナブ:古いと言っても昭和の初めとかかと思っていました。300年も前からあるんですね。それはすごい。


近江町市場の内部


歴史先生:狭い通りがアーケードになっていて、180店舗が密集しています。一部の建物には2階や地下もあります。


近江町市場の内部


マナブ:何となく水産品の市場のイメージだったんですが、それだけではなくて野菜や肉、加工食品などもたくさんありますね。


歴史先生:観光客だけでなく、地元の人もけっこうたくさん来ています。まさに金沢市民の台所、ですね。


もりもり寿し


マナブ:せっかくですから何か食べて行きたいのですが。


歴史先生:やっぱり海鮮ですよね。市場の中には海鮮丼の店やお寿司屋さんがたくさんあります。


マナブ:迷うなぁ。ここ、「もりもり寿し」さんに入ってみましょうか。


もりもり寿し 近江町店

〒920-0907 石川県金沢市青草町88(近江町市場内)

8:00~16:20、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://ohmicho-ichiba.com/gourmet/shop73401/


北陸5点盛


マナブ:カウンターでタッチパネルからオーダーします。全部おいしそうだけど、何にしよう?


歴史先生:やっぱり金沢にいますから地元の物がいいんじゃないでしょうか。


マナブ:そうですね。おいしくても北海道の物とかをわざわざここで食べる必要ないし。あ、これ、どうでしょう? 「北陸5点盛」。お値段は1,820円(税込み)ということで、少し贅沢ですが。


歴史先生:「のどぐろ、活梅貝、がすえび、白えび軍艦、ほたるいか黒造り軍艦」か。いいですね。


マナブ:のどぐろはわかるとして、梅貝(ばいがい)って、何ですか?


歴史先生:日本海の深いところで取れる貝です。ほんのり甘くてコリコリして、おいしいですよ。


マナブ:それから「がすえび」? 初めて聞きました。


歴史先生:これは私は海老の中で一番おいしいと個人的に思っています。甘くて歯ごたえがあって。でも鮮度がすぐ落ちるのでなかなか地元でないと食べられません。


マナブ:それから富山名産の白えび、ですね。それにホタルイカ。完璧です。


歴史先生:さぁ、来ました。


マナブ:おいしそう。


歴史先生:食べてみて、どうです?


マナブ:一番びっくりしたのは「がすえび」。名前も見た目もあまりおいしそうにない(失礼!)のですが、これがおいしいこと、おいしいこと。大発見でした。梅貝もコリコリした食感が良くて絶品。のどぐろは期待通りのおいしさ。白えびはあっさり、ホタルイカは濃厚で、それぞれの特徴を楽しめました。


城下町の風情を最も感じられる、欧米観光客に大人気の武家屋敷


金沢市のメインストリートを南へ



歴史先生:ではお腹も満足したところで、次へ行きましょう。


マナブ:次はどこですか?


歴史先生:長町というところに多くの武家屋敷が残っています。


マナブ:というわけで私たちも長町を目指して歩きましたが、途中、欧米系の観光の人たちが数組、同じ方向へ歩いていました。彼らについて行くと・・・。


長町武家屋敷にある野村家


野村家(地図 ❸)

〒920-0865 石川県金沢市長町1丁目3−32

入場550円(高校生以下、団体割引あり)

8:30~17:30(4~9月)、8:30~16:30(10~3月)、

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.nomurake.com/


歴史先生:さぁ、長町の武家屋敷を代表する家である、野村家に着きました。


マナブ:さっきの人たちもみんなここを目指していたんですね。続々と中に入って行かれます。


野村家の玄関


マナブ:玄関前に大きな傘立てがありますが、傘が満杯になっています。そして中に入るとさらにびっくり。屋敷はそんなに広くないのですが、中は欧米からの人たちで溢れていました。ここはそんなに有名なんですか?


歴史先生:日本人の間ではさほど有名ではないかもしれません。でもミシュランのガイド(ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン)で2つ星を得ていて、欧米の方の間では金沢ではマストで行く場所になっているようです。


マナブ:ここはミシュラン2つ星でしたか。


歴史先生:また、米国のジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング誌では島根県の足立美術館、京都の桂離宮に次いで、野村家の庭が日本で第3位にライクインしています。広さではなく、庭と建物の調和が評価されたようです。


野村家の庭園


縁側に座って庭園を眺めるのが人気


マナブ:あー、たしかに。みなさん縁側に座って庭園を眺めています。こじんまりとしていますが立体的で、美しい日本の家の庭です。


歴史先生:樹齢400年の山桃、椎の古木などの緑が濃い。特に今日のように木々や庭石が雨で濡れていると、さらに素敵だと思いませんか?


マナブ:そうですね。今日は雨でちょっと残念に思っていましたが、そういう見方もありますね。


庭の池には立派な鯉たちが泳ぐ


二階から下りて来る階段正面には坪庭がある


歴史先生:2階にも登れます。階段を下りた正面には坪庭があり、日本の美を随所に感じられるような屋敷になっています。


マナブ:これは人気が出そうですね。しかも庭はもちろん、室内や展示物もすべて写真撮影OK。日本だと「なぜ?」「もったいない」と思うほど撮影禁止をうたっている場所が多いんですが、ここは親切。


歴史先生:これは皆さんSNSに上げますね。それによってさらに「行きたい!」と思う人が出てくる好循環を生んでいるんでしょう。


マナブ:ところで野村さんって、誰ですか?


野村伝兵衛信貞が着用していた鎧兜


歴史先生:野村家の主人であった野村伝兵衛信貞は、前田利家が金沢城へ入った時に一緒に従っていた直臣で、その後11代にわたって前田家を支えた中堅クラスの家来です。禄高は1,000石ほどで、この屋敷は当時は1,000坪以上あったそうです。


マナブ:その野村伝兵衛信貞が着ていたという鎧兜がありますね。本物かな?


歴史先生:そのようですね。これはとても貴重なものですよ。実際に末森城の戦いで着用されていたと書かれています。


マナブ:末森城の戦い?


歴史先生:佐々成政(さっさなりまさ)をご存じですか?


マナブ:名前だけ。「ささ」ではなくて「さっさ」なんですよね。それが面白いと思って、知っていました。


歴史先生:富山を旅する上で佐々成政の話は欠かせませんが、それはまた富山城で詳しくしましょう。ここでは末森城のお話を。末森城は能登半島の付け根あたりの山中にあって、加賀と越中の国境に近い、前田家の前線基地のような城でした。ここを1584年、越中の佐々成政が8,000人の大兵力で攻めます。


マナブ:それはかなり多い。1584年というと・・・


歴史先生:本能寺の変(1582年)から2年後。後継者争いはリードする秀吉か、それにストップをかけようとする家康か、に絞られてきました。1584年、両者は小牧・長久手の戦いで激突します。


マナブ:末森城の戦いも同じ年ですが、それと関係があるんですか?


歴史先生:小牧・長久手の戦いというと愛知県あたりで起きた地域戦のように理解されるかもしれませんが、北陸では秀吉側の前田と家康側の佐々が激突する等、全国で二手に分かれて争いが起きたんです。


マナブ:そうだったんですか。


歴史先生:さて、佐々成政軍8,000人に襲われた末森城。城兵はわずか300人しかいませんでした。包囲軍に攻められて城代も命を落とし、もはや落城寸前。そこへ前田利家率いる2,500人の救援部隊が駆けつけます。


マナブ:それでも数の上ではまだ3倍の開きがあります。


歴史先生:そこで前田利家は佐々成政軍の背後から近づいてこれを急襲。何と大軍を打ち破ることに成功し、手痛い敗北を喫した佐々成政は越中へ引き上げました。


マナブ:見事な作戦勝ちだったんですね。


歴史先生:この戦いは「末森合戦図絵巻」「末森記」などに詳細に記録があり、背後から挟み撃ちで急襲して大勝利を得た合戦事例として有名です。なおこの時に一番槍の手柄を立てたのが野村伝兵衛信貞。恩賞として1,000石が加増されたようです。


マナブ:その時に来ていたのがこの鎧ですか。へぇー、それは貴重なものですね。


野村家の前を流れる大野庄用水


マナブ:野村家を出ると、家の前は早い流れの川になっています。


歴史先生:これは川ではなくて、人工的に築いた大野庄用水、です。


マナブ:飲み水用? それとも農業用?


歴史先生:これは金沢城をはじめとする城下町作りに必要な資材を運搬するための水運のための運河でした。さっき野村家の庭に池があったと思いますが、あの池もこの用水から水を引き込んでいるんです。


マナブ:ということは、前田利家が築いた、とても古い遺跡ということになりますね。


歴史先生:はい、そうなんです。ところで今いる橋は「二の橋」と呼ばれていますが、ここから伸びる「二の橋の通り」は長町で最も美しい通りと言われています。


二の橋の通り


マナブ:この通りは素晴らしい。静かで、しかも近くにある近代的なビルも見えないので、タイムスリップ感が強いです。雨の日は石畳が光って、これもいい。


歴史先生:ここは絵になりますよね。ガイドブックなどでもよく見る景色です。


二の橋の通りにある兼六園の絵柄のマンホール蓋


これはいったい何? 唯一無二の形をした神門のある尾山神社


せせらぎ通りにはおしゃれな店が並ぶ



マナブ:さて、長町武家屋敷から金沢一の繁華街、香林坊へ行きます。


歴史先生:先ほどの大野庄用水の近くには「鞍月用水」があるのですが、ここのほとりにおしゃれな店がたくさんできていて、「せせらぎ通り」と呼ばれています。長町から香林坊はすぐ近くです。


香林坊の中心的存在の大和百貨店


歴史先生:大和(だいわ)百貨店が見えてきました。ここが香林坊です。


マナブ:こういう地方の百貨店は閉鎖が相次いでいて、ちょっと寂しいです。私たち昭和生まれ世代は子供の時、デパートに行くのが最大の娯楽でしたから。


歴史先生:そうですよね。大和百貨店は金沢にある会社で、ここ香林坊店と、富山の総曲輪にある富山店の2店のみで営業しています。2019年には高岡店が閉店になっています。


尾山神社へ続く道


尾山神社(地図 ❹)

〒920-0918 石川県金沢市尾山町11−1

境内自由

9:00~17:00

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.oyama-jinja.or.jp/ 


歴史先生:さて、ここの角を右へ曲がって、尾山神社へ行きましょう。


マナブ:ん? 鳥居の奥に何か変わった建物が見えますが?


歴史先生:もう少し近づいてみましょう。


尾山神社


マナブ:あ、これって、さっきバスのシートの模様になってたもの?


歴史先生:そうです、これです。


マナブ:これはいったい何ですか?


尾山神社の神門(国指定重要文化財)


歴史先生:これは尾山神社の神門なんです。よーく観察してみてください。まずは一番下の層。


マナブ:石造りですね。文明開化の明治の洋風建物みたいな感じ。でもそこに神社のしめ縄みたいなのが掛かってる。


歴史先生:第2、第3層は?


マナブ:丸っこい形とか、手すりや窓の感じとか、どことなく中華風。緑の色が印象的。一番上の窓にはまっているのはひょっとしてステンドグラスかな?


尾山神社の神門(国指定重要文化財)


歴史先生:この変わった門、1875年(明治8年)に出来たもので、国指定重要文化財になっています。和・漢・洋の折衷で、オランダ人による設計。一番下のアーチの内部は日本の古来の技術を使った木造になっていて、その上から地元で採れた戸室石を貼ったもの。金沢の戸室地区で採れる石で、金沢城の石垣や兼六園の庭石などにも使われています。


マナブ:こんなデザインの神社の門なんて、他では見たことない。


歴史先生:全国的にもほぼ類を見ない建築です。昼間はあまり目立ちませんが、夜になると3層目のギヤマン、すなわちステンドグラスが色とりどりに光ります。それもとても美しいんですよ。かつては灯台の役割を兼ねていたんだとか。


マナブ:屋根の上、一番先がすーっと長く尖っているのもおもしろいですね。


歴史先生:あれは日本最古の避雷針なんですよ。


マナブ:へぇー、変わったデザインだけじゃなくて、最新技術も使われていたんだ。


神門をくぐって境内へ入ろう


尾山神社の本殿


マナブ:大きな本殿が見えます。


歴史先生:本殿は和風の建物に中華風の屋根が乗った和漢折衷様式。


マナブ:ずいぶん変わった神社ですが、これは何を祀った神社なんでしょう?


歴史先生:祭神は前田利家公と、その正妻であるお松の方、です。1873年(明治6年)に元加賀藩士たちによって建てられました。


マナブ:ん? ずいぶん後の話なんですね。前田利家が亡くなったのはいつですか?


歴史先生:1599年、関ケ原の前年です。


マナブ:だとしたら、その子たちがすぐにも神社を建てても良さそうなんですが。


歴史先生:もちろんそうしたかったんでしょうけど、当時前田家は徳川家康からかなり警戒され、睨まれていました。藩祖前田利家公を神様として祀るようなことがあれば、徳川家からどんな疑念を持たれるかわかりません。


マナブ:なるほど。


歴史先生:そこで地元にあった既存の八幡宮を使ってそこに前田利家公の御霊を合祀することで、江戸時代を通してあまり目立たずに藩祖を祀っていました。しかし明治維新になってからはそんな気遣いは無用になりましたので、金沢城のすぐ隣の一等地に大きな神社を建て、大々的に前田利家とお松を祭神として祀ることができるようになりました。


マナブ:そういうことだったんですね。


境内には前田利家公の像がある


マナブ:これが前田利家公ですね。馬に乗って、長い槍を持っています。


歴史先生:前田利家は若いころは信長の家来の中でも有数の槍の名手だったそうです。180㎝を超える長身で6.5mもの長い槍を振り回し、「槍の又左(やりのまたざ)」と呼ばれたとか。


マナブ:何か背中に大きなものを背負っていますが、あれは何でしょう?


歴史先生:あれは「母衣(ほろ)」といいます。


マナブ:ほろ?


歴史先生:元々は戦場で流れ矢が当たっても負傷しないように背中に付けていたものですが、織田信長の時代には、母衣を付けた連絡係が戦場で各部隊の間を駆け回り、戦略遂行の上で重要な役割を果たしました。


マナブ:昔は通信手段が全くないから、連絡係は重要だったでしょうね。


歴史先生:そうなんです。信長の家来としては、佐々成政を筆頭とする10人の黒母衣衆と、前田利家と筆頭とする9人の赤母衣衆がいて、それぞれ活躍していたそうです。


マナブ:さっきの野村家での話では、末森城で戦った2人ですね。両者には因縁がありそうですね。


尾山神社の神苑


マナブ:神社の中にあるお庭も立派です。


歴史先生:実はここの場所は、尾山神社ができる前は金谷出丸と言われる城の防御施設の一部。その後、この場所は隠居した藩主が暮らす場所となり、「金谷御殿」と呼ばれました。


マナブ:お城の隣に広い一等地が残っていたというのは、そういう理由だったんですね。


歴史先生:その金谷御殿の江戸末期に作られたとされる池泉回遊式庭園が、この神苑です。


マナブ:どうりで、素晴らしい庭園なわけです。一瞬、これが兼六園かな、と思いました。


歴史先生:(笑)燈篭の形とか、ちょっと風景的に似たところがありますね。


金沢城の地形に見る巨大土木工事の痕跡と変わったデザインの石垣


鼠多門橋と鼠多門



マナブ:尾山神社から鼠多門橋を渡って、金沢城へ行きます。ここは谷になっていて、下に道路が走っていますね。


歴史先生:「お堀通り」という道です。


マナブ:ということは、ここはお堀だった。


歴史先生:はい、そうです。かなり幅の広い、大きなお堀に囲まれていたんです。


マナブ:地図で見ると、町のど真ん中にある平らなお城かと思っていましたが、実際に来てみるとかなり小高い丘になっていますね。


歴史先生:ここで地形図を見てみましょう。


マナブ:なるほど。他の都市のお城もたいていそうですが、だいたいは台地の端っこにお城は建てられていますね。


歴史先生:はい、犀川と浅野川に挟まれて南から長く伸びる小立野(おだつの)台地の先っぽのところに金沢城は建っています。


歴史先生:今度は金沢城内の地形を詳しく見てみましょう。城内でも庭園はちょっと低いところにあり、一番高いところが本丸、2番目に高いところが二の丸になっています。


マナブ:なるほど。自然の地形とは思えませんから、かなり山を削って地形を大改造した跡が見られますね。


歴史先生:そうなんです。中でもすごいのが、金沢城と兼六園の間の1㎞弱にも及ぶ鋭い谷。不自然な地形ですよね?


マナブ:あ、これはまさか?


歴史先生:そう。人手で掘った人工の谷なんです。金沢城は丘の上にありますから防御に堅いのですが、唯一の弱点は台地の上を南からずーっと北上してきて攻められること。南側の防御を固めるために、台地をスパーっと断ち切って深い谷を造り、そこに広いお堀を作ったんです。


マナブ:すごいな。江戸城を作るときに掘ったという、東京・御茶ノ水駅あたりの地形の話を思い出しました。


歴史先生:それとよく似ていますよね。これらの地形図を見ただけでも金沢城がタダモノではないことが想像できると思います。では鼠多門から金沢城に入りましょう。


金沢城公園 (地図 ❺)

入場無料

菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・橋爪門のみ有料、320円(小人・団体割引あり)

9:00~16:30

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.pref.ishikawa.jp/siro-niwa/kanazawajou/


マナブ:「鼠多門(ねずみたもん)」って、ちょっと変わった名前の門ですね。


歴史先生:門の壁が青黒いように見えると思いますが、あれは海鼠(なまこ)壁。鼠という字はそこから来ていると思われます。


マナブ:なるほど、ネズミじゃなくてナマコ。


歴史先生:そして漆喰はよくある白ではなくて黒を使っているのも珍しく、金沢城内でもこの門だけです。1884年(明治17年)に惜しくも焼失してしまい、今の門は2020年に再建されたものです。


マナブ:明治になってから焼けてしまうなんて、残念ですね。


歴史先生:ではお城に掲示されている案内図を見ながら、金沢城の中を散策しましょう。



展望所から見る玉泉院丸庭園


マナブ:素敵な庭園が見えてきました。


歴史先生:ここは玉泉院丸庭園(案内図 ❶)、と呼ばれています。展望できるテラスがありますので、そこから眺めましょう。ここにはボランティアガイドさんもいらっしゃって、詳しい説明を聞くこともできます。


マナブ:地形図で見ると、城内では一段低い場所ですね。


歴史先生:元々は三の丸、でした。そこに玉泉院こと、永姫が居を構えたことが、名前の由来です。


マナブ:玉泉院・永姫というのは?


歴史先生:よく前田3代、という話がこれからも出てきますので、初代の前田利家、その子の2代目利長、弟の3代目利常、という名前を覚えておいてください。玉泉院というのは2代目の利長の正室。この人は織田信長の四女でもあります。


マナブ:信長の娘は前田に嫁いでいたのですか。


歴史先生:はい。そして1614年に利長が高岡城で亡くなると、玉泉院は金沢に戻り、この場所に屋敷を建てて住むようになりました。玉泉院は1623年に49歳で亡くなっていますから、ここで晩年の10年弱を過ごしたことになります。


マナブ:これは彼女が自宅に作った庭園、ですか?


歴史先生:いいえ。この庭園は玉泉院の死後、1634年に第3代利常が京都から庭師を招いて大規模に造園したものなんです。その後、代々の加賀藩主たちが手を加え、素晴らしい庭になりました。


マナブ:なるほど。今見てもほんとに素敵なお庭ですね。


城の石垣が庭園の借景になっている


歴史先生:ところが、ですよ、信じられないかもしれませんが、2008年以前にここを訪れた人は、ここに石川県体育館が建っていたのを見たことでしょう。


マナブ:え? 県の体育館がここに?


歴史先生:その前、戦後まもなくは金沢大学の薬草園でした。そして明治時代は陸軍がここをつぶして軍の施設にしていたんです。


マナブ:何ということでしょう。


歴史先生:貴重な庭園を復元すべく、体育館が取り壊しになった2008年(平成20年)から発掘調査が行われ、2013年(平成25年)から2年間にわたっての工事を経て、庭園がみごとに復元されました。実際には史跡としての庭園はここの地下に埋まっていて、その上に約2mの盛り土をした上に、当時の庭園と同様のものを作ったんだそうです。


マナブ:この美しい眺めの陰には大変な努力があったんですね。これだけの庭園を復元してくださった皆さんに感謝です。


庭園のはるか上には「三十間長屋」が見える


城内の模型


歴史先生:ところで、この手の庭園にはよく付近の山を借景に使いますよね。


マナブ:はい、そんな庭園をよく見ます。


歴史先生:ここはお城の中でも一段低い場所にあるので、お城の山や石垣自体が借景となって、立体的な閉じた空間を作っています。


マナブ:なるほど。そうですね。


玉泉院丸庭園を見ながら脇の坂道を二の丸方面へ登っていく


歴史先生:では、二の丸のほうへ登っていきましょう。ところで、金沢城の魅力の1つは、バラエティに富んだ石垣、です。ここは石垣の博物館とも言われています。


マナブ:いろんなタイプの石垣があると?


歴史先生:はい、そうです。中でも最も有名なのは「色紙短冊積み石垣」。


マナブ:ん? およそ戦いには関係なさそうな名前ですね。


歴史先生:まずはそこへ行ってみましょう。


複雑な形状をした、いろいろな種類の石垣が見られる


2024年の能登地震で金沢城の石垣にも被害が出た


マナブ:坂道をどんどん登っていきます。


歴史先生:金網や柵で囲ってある場所は能登地震で被害に遭った場所です。100%復旧するには相当の年月がかかるようです。


マナブ:震源地からは遠い金沢でもかなりの被害があったんですね。


二の丸へ登る坂から見下ろす玉泉院丸庭園


違う角度から見てもやはり美しい


歴史先生:さて、着きました。これが「色紙短冊積み石垣」(案内図 ❷)です。ブラタモリでもタモリさんがここの石垣の前まで来ていましたよ。



色紙短冊積み石垣


マナブ:ここはさっき庭園を見渡すテラスから見えていたところ。ちょうど庭の借景になっていた石垣ですね。


歴史先生:そうです、そうです。さて、「色紙」というのはきれいな正方形に切られた石を指します。そして「短冊」というのは縦長の長方形の石。


マナブ:あー、それぞれいくつかずつ、ありますね。


歴史先生:縦に長い短冊は、倒れやすいので石垣として組むには不適切ですよね。でも何とこの石垣、強度よりもデザイン性を重視して造られた、遊び心満載の石垣なんです。


マナブ:えー、そうなんですか。誰が何のために作ったんでしょう?


V字型のところから滝が落ちる仕掛けになっていた


歴史先生:誰が作ったのかは記録がなく不明ですが、この石垣には滝がありました。あのV字型のところ、見えますか?


マナブ:あ、たしかにありますね。


歴史先生:あれが樋(とい)になっていて、あそこから水が落ちて滝になっていました。そしてそれが庭園からも見えたはずです。よって石垣は滝の流れを表現するために縦長の石を組んだのではないかと言われています。


マナブ:へぇー、庭園からの眺めのためにそんな工夫がされてるなんて、何と風流な。美意識の高さに驚かされます。


二の丸と本丸をつなぐ極楽橋


極楽橋の下は堅固な堀切になっている(右側が二の丸、左側の高い方が本丸)


歴史先生:色紙短冊積み石垣のすぐ上は二の丸です。そして、二の丸から本丸へは「極楽橋」という橋でつながっています。


マナブ:この橋の下、深い堀切になっていますね。石垣も堅固な感じ。ここは防御力が高そうです。


三十間長屋(国指定重要文化財)



歴史先生:本丸に上がってきました。すぐに右側にあるのが「三十間長屋」(案内図 ❸)です。


マナブ:さっき庭園からはるか上のほうに見えていた建物ですね?


歴史先生:はい。ちょうど石垣の上をふさぐように建てられた倉庫です。いざという時はここから敵を攻撃できます。このような建物を一般的なお城では「多聞櫓」と呼びますが、ここでは三十間長屋と呼ばれています。惜しくも江戸時代の中頃に大火で焼けてしまいましたが、幕末に再建された建物が今も残っており、国指定重要文化財になっています。


マナブ:そうなんですか。


歴史先生:ところで、よーく見るとこの建物にはとても変わった特徴があるんですが、わかりますか? ちょっと難しいかな?


マナブ:えっ、何だろう? なまこ壁はさっきから他の建物でも使われていたし。


歴史先生:実は屋根に特徴があるんです。屋根には焼き物の瓦がのせられているのではなく、木で作った屋根に鉛の板が貼ってあります。「鉛瓦(なまりがわら)」という建築技法です。


マナブ:鉛をのせたら重くないですか?


歴史先生:この鉛の板は厚さがわずか1.8㎜という薄いもの。それに銅をまぜて腐食しにくくしています。これによって美しい屋根の輝きが、城の壮麗さをますます高めていると言えるでしょう。


マナブ:鉛瓦って初めて聞きましたが、よそのお城でも使われているんですか?


歴史先生:鉛瓦で屋根を葺いている文化財の建物は金沢城の三十間長屋と石川門、そして高岡市の瑞龍寺仏殿だけと言われている、とても珍しいものなんですよ。


マナブ:へぇー、そうなんですね。これまで屋根に注目することなんてあまりなかったなぁ。


度重なる火災で失われた金沢城の過去と、二の丸御殿復元による近未来


二の丸から見た本丸。正面の石垣の上が展望所。



歴史先生:さて、本丸は城内で一番高いところにあります。ここから二の丸を見てみましょう。


菱櫓(左)と五十間長屋(中央)


マナブ:長い建物が見えます。


歴史先生:あれが菱櫓と五十間長屋です。


二の丸御殿の工事現場


マナブ:で、何か大きな工事をやっていますね。


歴史先生:ここにはかつて二の丸御殿があったんです。これを復元しようと石川県が動いていて、2025年から復元工事が始まりました。まずは玄関付近を第1期として復元し、その後公共の場であった「表向」、藩主の日常生活の場である「御居間廻り」、そして女性たちが暮らす「奥向」と、復元箇所を拡張していきます。


マナブ:そういえば名古屋城の本丸御殿が復元されて人気ですよね?


歴史先生:はい、昔は天守閣の復元ばかりが注目されていましたが、昨今では御殿の価値が見直され、ここ金沢城や佐賀城などで復元プロジェクトが動いているようです。


マナブ:楽しみだなぁ。金沢城の二の丸御殿はいつできるんですか?


歴史先生:とりあえず今進んでいる工事は2030年までで、玄関付近の屋根や壁の骨組みだけだそうです。全体の復元はいつになるのかわかりませんが、相当な年数がかかることは間違いありません。


マナブ:うわ。それは気が長い話ですね。ところで、先ほどからちょっと違和感があるのが二の丸御殿、という名前です。二の丸御殿があるなら、本丸御殿はどうなったんでしょう?


歴史先生:当然の疑問ですよね。私たちが今立っている本丸は、当初は城の中心でしたが、1631年に大火で焼失してしまい、その機能は二の丸に移されました。以来、二の丸が城の中心となり、ここに御殿が建てられます。


鶴丸倉庫の前から見た橋爪門続櫓・橋爪門(手前)、五十間長屋(中央)、菱櫓(奥)


五十間長屋(中央)と橋爪門続櫓・橋爪門(右)。この道から建物内部に入る。


歴史先生:では、金沢城唯一の有料施設である「菱櫓・五十間長屋・橋爪門続櫓・橋爪門」(案内図 ❹)へ入ってみましょう。



マナブ:ここも復元ですか?


歴史先生:はい、ここは2001年(平成13年)に完成しました。ちゃんと鉛瓦、海鼠壁でできてるんですよ。


マナブ:昔の建築技法を忠実に再現したんですね。すばらしい。


建物の内部


マナブ:靴を脱いで、建物の中を見学します。まだ新しい感じで、床もツルツルしてきれいです。


歴史先生:建築を楽しみながら、たくさんのパネルがありますので、ここでは金沢城の歴史について見ていきましょう。先ほど地形図を見ていただきましたが、ここは台地の先っぽ。城を建てるには良いところです。


マナブ:そうですね。


歴史先生:戦国時代、加賀といえば何を思い出しますか?


マナブ:加賀の一向一揆、かな?


歴史先生:そうです。ここは一向宗(浄土真宗)の門徒が非常に強かった土地。1546年、彼らはこの場所に「金沢御堂」というお寺を建てました。石山本願寺の別院のような位置づけで、周囲には寺内町ができて多くの人が集まるようになりました。これが金沢の街の始まりです。金沢御堂は今の極楽橋の近くがその跡と言われています。


マナブ:最初はここはお寺だった。


歴史先生:はい、とは言っても、石山本願寺がそうであったように、要塞的な作りだったと思われます。そして織田信長の勢力が増し、全国で一向一揆と戦っていた1580年、信長の配下の柴田勝家がここを攻略します。


マナブ:本能寺の変はたしか1582年だったかな? だからその2年前。


歴史先生:そうです、そうです。ということで金沢は信長の支配下に入ったわけですが、すぐに本能寺の変が起きます。後継者として有力だったのが柴田勝家と羽柴秀吉。彼らは1583年の賤ヶ岳の戦いで衝突し、柴田勝家は敗れます。その時、金沢には柴田勝家の甥である佐久間盛政が入っていたのですが、彼もいっしょに敗れ、代わって金沢には秀吉に味方した前田利家が入ることになりました。ここから本格的な城作りが始まったわけです。


マナブ:ここからが、金沢における前田利家の足跡ですね。


歴史先生:はい。1587年には本丸に天守を建てるなど大改修を行いましたが、史料が少なく詳細はわかっていません。また利家自身は重臣として秀吉のそばにいることが多く、京都や大坂にいることがほとんどで、金沢にいることは稀でした。


窓から見える景色もいい


歴史先生:しかし利家が亡くなって3年後の1602年に落雷で天守を焼失。さらに1631年の大火で本丸を焼失してしまいます。それによって二の丸に機能が移ったのは先ほどお話しした通りです。


マナブ:災害が続きますね。


歴史先生:それだけではありません。1759年には金沢の街が大火に見舞われ、1万戸以上の家屋を焼失、金沢城もほぼすべての施設が全焼しました。1808年には二の丸で火災が発生し、二の丸御殿や五十間長屋、菱櫓、橋爪門などを失っています。この時は深刻な財政難であったものの、領民からの寄付などによっておよそ3年間でそれらの建物群を再建しています。


マナブ:そうやってせっかく再建したのに、また失ってしまった。


歴史先生:はい、1881年(明治14年)に再び火災が起き、これらの建物は焼失してしまいました。あとから行く「石川門」(国指定重要文化財)はこの時の火災の難を逃れ、1788年に再建されたままの姿を保っています。


マナブ:そして今、五十間長屋などが復元され、今度は二の丸御殿、を復元しようというわけですね。あ、そういえば、日本のお城の多くは空襲で焼失していますよね。金沢城も大きな都市の中心地なので空襲の被害も大きかったのでは?


歴史先生:実は金沢は空襲を受けていない、数少ない主要都市なんです。


マナブ:そうなんですか。だからお城があって、武家屋敷も残っている。他にはどんな都市が空襲を免れたんでしょう?


歴史先生:貴重な文化財があるということで京都・奈良が空襲を受けなかったのは有名な話ですが、そのほか主なところでは長野市。それから浦和(現さいたま市)、あたりでしょうか。


マナブ:会津若松もたしかそうでしたよね。でも数が少ない。今こうして金沢が観光地になっているのは空襲を受けなかった非常に稀な都市だから、ということでもあるんですね。


窓から橋爪門の方向を見る


金沢城模型(二の丸付近)


歴史先生:模型を見ておきましょう。かつてはこんなふうにぎっしりと建物がありました。


マナブ:なるほど、今いるあたりの様子がよく理解できます。


鶴丸倉庫(国指定重要文化財)



歴史先生:では次に行くのは鶴丸倉庫(案内図 ❺)です。


マナブ:倉庫、ですか?


歴史先生:幕末の1848年にできた、武具を保管するための倉庫です。現存するお城の倉庫としては国内最大級のもので、国指定重要文化財になっています。ここは海鼠壁ではなく石張りの壁になっていて、他の城内の建物とは意匠が違っていますね。


本丸は深い森に覆われている


マナブ:鶴丸倉庫の坂を上ると再び本丸です。このあたり、城というよりは森、ですね。


歴史先生:開けている二の丸と比べて、本丸は今は深い森に覆われています。では本丸の角っこ、かつては櫓が建っていた場所に行ってみましょう。


丑寅櫓跡から兼六園方向を見る


マナブ:展望台のようになっていますね。


歴史先生:かつてはここに丑寅櫓が建っていました。お城の丑寅の方角にあたる櫓で、築城当時からあったようですが、1759年の大火で焼失し、その後は再建されませんでした。


マナブ:見えているのは兼六園、ですか?


歴史先生:はい、そうです。


マナブ:ちょっと印象が違いました。もっと開放的な芝生と池のある庭園のように思っていましたが、意外と山で、かつ森、なんですね。


歴史先生:そうなんです。このあと実際に行ってみましょう。


石川門(国指定重要文化財)


石川門の枡形



歴史先生:では、「石川門」(案内図 ❼)を通って兼六園へ行きましょう。石川門は1788年に再建された国指定重要文化財だという話は先ほどしました。


マナブ:ここはきれいな枡形になっていますね。


歴史先生:いいポイントですね。防御に優れた形で、ここに兵がなだれ込むと、上の三方向から鉄砲やら矢やらが飛んできて、全滅させられてしまいます。ところで、この枡形、何かおかしい点はないですか?


マナブ:ん? 何だろう?


歴史先生:ヒント、石垣。


マナブ:石垣? あれ、左の面と正面では石垣の種類が違う。


左側の石垣


正面の石垣


歴史先生:左側は「粗加工石積み」、正面は「切石積み」になっています。同じ枡形の中で違う石垣なのはとても珍しいんじゃないかと思いますよ。


マナブ:金沢城はまさに「石垣の博物館」ですね。


金沢城と兼六園を結ぶ橋


マナブ:石川門を出て、広い橋を渡ると兼六園です。


歴史先生:さて、もう一度地形図を見てみましょう。


マナブ:そうでした、金沢城と兼六園の間の鋭い谷は、人手で掘ったものだったんですよね?


金沢城と兼六園の間の谷


歴史先生:そうです。あらためて実物を見て、どうですか?


マナブ:今は広い道路になっています。山を大型の重機で切り通して道路を作ったのかな、という感じに見えますが、昔の人たちがこの規模を人力で掘ったなんて信じられない。


歴史先生:では先ほどの模型の写真で、ここがどうなっていたか見てみましょう。


金沢城と兼六園の間には大きな堀があった


マナブ:あ、これですね。すごい、谷じゃなくて、堀になっています。しかも幅が広い。


歴史先生:幅は68.4mもあったそうで、「百間堀」と呼ばれていました。ここは台地から城を切り離す重要な防御施設で、最初の物は佐久間盛政の時代に作られ、その後前田利長が改修したと伝えられています。そしてその後、明治時代にここを埋め立てて道路にしたようです。たしかにここに道路を通せば、台地の東西の交通は便利になりますけど。


マナブ:うーん、それも理解できますが、文化財としてのお堀を残してほしかったな、という気もしますね。


歴史先生:金沢城、どうでしたか?


マナブ:実はあまり期待していなかったんですが、非常に良かったです。庭園、石垣、復元された建物群。そして大土木工事の跡。思ったより広くて規模の大きなお城でした。さすが加賀百万石。その実力を感じることができました。


<読んでおきたい本>

加賀百万石

津本 陽



物語は前田利家の死から始まる。ライバル徳川家康の暗殺を考えていた利家の跡を継ぐ第2代前田利長。そして弟の利政。第3代利常へと続く前田3代の波乱に満ちた生き残り戦略を追う。




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