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岩手県 二戸_1.jpg
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
一戸から九戸までの地名の謎
 
二戸を空中から眺めてみよう
 
戦国時代最後の決戦、「九戸政実の乱」とは?
 
秀吉の大軍でも落とせなかった「九戸城」を歩く
 
座敷わらしって何? それは実在の子どものことだった:金田一温泉
 

一戸から九戸までの地名の謎

 

 

マナブ:今日は岩手県の二戸(にのへ)に行きます。

 

歴史先生:「戸(へ)」が付く地名の2番目、です。

 

マナブ:前から不思議に思っていたんですが、「戸(へ)」が付く地名がこの地域には並んでいますよね?

 

歴史先生:上の地図を見てください。

 

マナブ:なるほど、一戸からずっと北へ向かって七戸まで並んでいる。有名なのは八戸ですが、これは海沿い。そして九戸、というのもあるんですね。

 

歴史先生:はい、一から九まで市町村名としてはっきりと残っています、と言いたいところなんですが、四だけがはっきりしていません。

 

マナブ:四戸、というのはどうなったんでしょう?

 

歴史先生:八戸市の西にある地区、櫛引八幡宮があるあたりが、おそらくはかつての四戸だと思われます。櫛引八幡宮はかつて四戸八幡宮と呼ばれていました。

 

櫛引八幡宮(八戸市)

 

マナブ:「四戸」はなぜ消えたのかな? 「死」につながる縁起が悪い数字だから?

 

歴史先生:四戸を治めていた櫛引氏が滅亡したからかもしれませんが、そうであれば他のいくつかの戸でも同様なので、なぜ四戸だけなくなったのか、理由はよくわかりません。

 

マナブ:ところで、そもそも何でこの地域には「数字+戸」という地名が付いたんでしょう?

 

歴史先生:いくつか説があるようですが、有力な説としては古くからこのあたりは馬の産地で、「戸」というのは馬の牧場という意味で、その牧場を9つの区域に分けて管理していたから、というものです。

 

マナブ:このあたりは馬の生産地だったんですね。

 

二戸を空中から眺めてみよう

 

二戸駅

 

マナブ:東北新幹線で二戸駅に着きました。

 

歴史先生:朝9時過ぎ東京発の「はやぶさ9号」で来たのですが、東京からは2時間42分。盛岡からは24分で着きました。

 

マナブ:東京から大阪に行くくらいの感じで来られますね。

 

二戸駅

 

 

マナブ:二戸駅というのは、きれいなモダンな駅ですね。

 

歴史先生:ここには展望台があるので、エレベーターで昇ってみましょう。

 

なにゃーと展望室 (地図 ❶)

〒028-6103 岩手県二戸市石切所森合54−16

9:00~21:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://nanyato-sisetu.com/ 


なにゃーと展望室

 

マナブ:おぉ。四方がガラスになっていて、全方向が見られます。

 

二戸駅を見下ろす

 

マナブ:まず、眼下には今新幹線を下りた二戸駅が見えています。

 

歴史先生:全体の地形を見てみましょう。二戸は馬淵川が南から北へ流れる、その谷沿いにできた町です。

 

マナブ:この川は北へ向かって流れているんですね。

 

歴史先生:はい、八戸の市内を突っ切って太平洋に注いでいます。ところで、遠くにある絶壁、見えますか?

 

大崩崖

 

マナブ:はい、あそこはすごいことになっていますね。

 

歴史先生:「大崩崖(おおほうがけ)」と言われています。元々は海の底で、砂や礫が堆積してできた地層なんですが、これが馬淵川(まべちがわ)によって削られ、その後、崩落を繰り返しています。

 

マナブ:すごい名前だ。今にも崩れそう。

 

歴史先生:最近では2009年の豪雨によって、大きな崩落が起きました。

 

マナブ:かなり最近ですね。

 

歴史先生:そのため崖下は危険なため立ち入りが禁止されています。

 

九戸城方向を見る

 

歴史先生:二戸の市街地はここから北へ広がっています。これから行く九戸城もこちらの方向です。

 

マナブ:さっそく行ってみましょう。

 

戦国時代最後の決戦、「九戸政実の乱」とは?

 

二戸駅にある九戸政実の人形

 

マナブ:さて、二戸駅から九戸城へ向かっていますが、2つ、基本的な疑問があります。

 

歴史先生:何でしょう?

 

マナブ:まず、ここは二戸なのに、お城の名前がなぜ九戸城なのか?

 

歴史先生:たしかに。

 

マナブ:そして、九戸政実(くのへ まさざね)というのは誰なのか?

 

歴史先生:当然の疑問ですね。では、できるだけ簡潔にお話ししましょう。

 

マナブ:お願いします。

 

歴史先生:時は1300年代の後半、南北朝時代です。奥州は南朝の北畠家が抑えていた地域で、南朝はそこへ甲斐国の南部という場所を拠点としていた南部氏を移住させます。南部氏は甲斐源氏の流れをくむ士族です。

 

マナブ:ふむふむ。

 

歴史先生:南部氏の一族は分かれて領地を治め、それぞれ一戸氏~九戸氏と名乗りました。

 

マナブ:九戸政実は九戸を治めたお殿様の子孫。

 

歴史先生:はい、そうです。南部氏のグループはそれぞれの殿さまたちが平等な立場で、互いに協力し合って国を治めていました。そして時代は戦国時代へ。このころには三戸を治める南部晴政がリーダー的な存在になっていました。そして秋田県の鹿角が安東氏に奪われた時(1569年)、その奪回で手柄を立てた九戸政実は、南部晴政から二戸の地を褒賞として与えられました(諸説あり。九戸政実の4代前の九戸光政の時代に与えられたという可能性もある。)。

 

マナブ:それで二戸は九戸氏の土地になった。

 

歴史先生:そういうことです。南部晴政は戦国時代の混乱の中、南部氏の領地を大きく広げた英雄でした。しかし男子に恵まれず、生まれる子は娘ばかり。そこで、甥の信直、そして九戸政実の実弟である実親をそれぞれ婿養子に入れていました。中でも甥の信直は次代の後継者として認められていましたが、何と南部晴政についに男子が生まれてしまったんです。

 

マナブ:あらら、秀吉もそうだったけど、そうなると婿養子の信直はどうなるんでしょう?

 

歴史先生:南部晴政は自分の子を後継者にしようとします。南部氏の中は晴政派、信直派に分裂し、争いが起きました。ところがそんな中の1582年1月(この年の6月には本能寺の変が起きますが)、南部晴政は不審な死に方をします。

 

マナブ:毒殺かな?

 

歴史先生:はっきりはわかりませんが、その可能性はあるでしょう。そしてその葬儀の日、喪主を務めた南部晴政の子(晴継)が、葬儀の帰り道に何者かに待ち伏せされ、惨殺されたんです。まだ13歳でした。

 

マナブ:ひどい。

 

歴史先生:2代続けて当主を失った南部家。大混乱の中、激しい政争の末に信直が南部氏の後継者として擁立されました。

 

マナブ:九戸政実はどういう立場だったんでしょう?

 

歴史先生:彼は晴政を支援していましたから、この政変に納得せず、南部信直とここから長い対立が始まります。

 

広大な九戸城

 

歴史先生:さて、全国に目を移すと、本能寺の変以降、天下取りへ向かって邁進している秀吉。1590年には小田原を攻略し、伊達政宗を力で押さえつけ、次は奥州を手に入れようとしていました。そんな状況を見ていた南部信直は、すかさず秀吉に恭順の意を示し、所領を安堵されるよう水面下で交渉を続けていました。

 

マナブ:秀吉が相手では、南部信直には秀吉に歯向かうという選択肢は無かったんでしょうね。

 

歴史先生:しかしこれには2つの大きな問題がありました。まず1つ目。南部氏というのはそれぞれのお殿様が共同で統治してきたという話をしましたが、秀吉が求めたのは南部信直を当主とし、他の各家はその家来となること。これは各家にとって到底受け入れられない条件でした。

 

マナブ:南部氏のこれまでの歴史や経緯を無視した要求だったんですね。

 

歴史先生:そして2つ目。こちらのほうが大きな問題かもしれません。秀吉は全国を統一したら大陸の明へ攻め込む、ということを本気で考え、準備を始めていました。

 

マナブ:佐賀県の名護屋城に行ったときに、その暴挙の話を詳しく伺いました。

 

歴史先生:朝鮮半島を足掛かりに明を攻めるとして、それには現地に送り込む人の数が必要です。しかも朝鮮半島の厳しい冬に対応できる人数が。

 

マナブ:あ、それは東北地方の人たち。

 

歴史先生:はい、秀吉はここ奥州で人をたくさん集めて、朝鮮へ送ろうとしていたのだろうと考えられます。「人狩り」ですね。

 

マナブ:それはあまりにもひどい。

 

歴史先生:そんな秀吉の要求をどうしても受け入れられない九戸政実は1591年、南部氏の中で彼に同調する勢力に加えて秀吉に対して一揆を起こした東北の他の勢力を取り込んで、九戸城に籠城します。これが「九戸政実の乱」です。

 

マナブ:ん? でも相手は秀吉ですよね? 大軍で囲まれたら小田原と同じことになるのでは?

 

実線:車ルート

点線:徒歩ルート


歴史先生:まずは蒲生氏郷を大将とする6万5千の軍勢が二戸に到着。上の図のように城を包囲します。さらに豊臣秀長が率いる第2陣を合わせると合計15万というとてつもない大軍を秀吉は送り込みました。

 

マナブ:対する九戸政実軍はどれくらいいたんでしょう?

 

歴史先生:5,000、あるいは3,500などと言われていますが、はっきりしたことはわかりません。いつの時代も負けた方の資料はほとんど残らないんです。でも、いずれにせよ大差があったことは間違いないでしょう。

 

マナブ:ところで、「籠城」というのは、相手の包囲に耐えていれば援軍がどこからか来てくれて、その時に相手を挟み撃ちにする戦法ですよね。援軍のあてのない九戸政実の戦法は間違っているのでは?

 

歴史先生:いえ、実はものすごい援軍がやってくる予定があったのです。

 

マナブ:ん? それは誰ですか?

 

歴史先生:「冬」です。

 

マナブ:あ、そういうことか。

 

歴史先生:蒲生氏郷の大軍が城を包囲したのが、旧暦の9月2日ごろ(諸説あり)。現在の暦では10月中旬。これから冬へ向かうところです。そこで籠城側が1か月持ちこたえたとすると、包囲軍は野営では寒さに耐えられなくなります。宿舎の建設、暖を取る薪や炭などが必要になりますが、その調達も雪で阻まれます。

 

マナブ:そうか、冬まで待てば敵軍は撤退するしかなくなる。そういうことですね。で、その作戦は成功したんでしょうか?

 

歴史先生:蒲生氏郷の大軍は数を頼んで九戸城に攻めかかりましたが、九戸政実が作り上げた緻密で堅牢な守り、そして兵士たちの高い士気に阻まれ、一向に攻略できず、多大な犠牲を出してしまいます。

 

マナブ:九戸政実、やりますね。

 

歴史先生:蒲生氏郷も長引いて冬になるリスクは理解していました。しかしそれ以上に、秀次の第2陣が来る前に城を落としておかないと「こんな大差があるのに何やってるんだ!」とお叱りを受けそう。早期決着が何としても必要でした。

 

マナブ:そうなると、九戸政実の冬を待つ作戦には引っかかりそうにないですね。

 

歴史先生:そうなんです。そこで蒲生氏郷と浅野長政は一計を案じ、九戸政実が幼いころから師事していた長興寺の薩天和尚を和議の使者に立てます。

 

マナブ:力で落とすのをあきらめた?

 

歴史先生:はい。和議の条件は、九戸政実と数名のリーダーたちの首と引き換えに、籠城している兵士たちや女子供を助けるというものでした。自分たちの首で済むならと、九戸政実はその条件をのみ、降伏しました。9月4日のことでした。

 

マナブ:せっかくの冬待ち作戦でしたが、わずか3日ほどで終わった?

 

歴史先生:そういうことになりました。しかし蒲生氏郷はその約束を守らず、軍を城内に入れて、中にいた人々を「なで斬り」にしたと伝わります。

 

マナブ:そんな。ひどい。

 

秀吉の大軍でも落とせなかった「九戸城」を歩く

 

 

実線:車ルート

点線:徒歩ルート

 

マナブ:車は馬淵川(まべちがわ)を渡ります。意外と大きい川ですね。

 

歴史先生:しかも高低差があって、深い谷を作っています。

 

マナブ:続いて白鳥川を渡ります。ここも深い谷になっています。

 

歴史先生:それぞれの川は、三の丸の西側、北側の守りになっています。東側には猫淵川というのがあって、そこも谷になっています。

 

マナブ:駐車場に着きました。ここは「三の丸跡」と書かれています。

 

歴史先生:このあたり、広大な三の丸がありました。

 

三の丸にあるガイドハウス

 

歴史先生:無料駐車場の隣に「ガイドハウス」があります。ここには九戸城の資料展示、パンフレット、それから無料のボランティアガイドさんがいます。今日はガイドさんをお願いしています。

 

マナブ:あ、そうなんですか。予約したんですか?

 

歴史先生:はい。予約は1週間前までに以下の番号へ電話で申し込みます。ガイドさんが手配されると、申込者の携帯に電話があって、ガイドさんのお名前と携帯番号が伝えられますので、メモを取っておくとよいでしょう。

 

二戸市観光ツーリズム協会:0195-23-3641

 

九戸城(地図 ❶)

〒028-6101 岩手県二戸市福岡城ノ内

入場自由。ガイドは4月6日から11月末までの10:00~15:00の間。

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.edu.city.ninohe.iwate.jp/~maibun/kunohejo/kj-1-2.html 


三の丸から堀を渡る

 

歴史先生:ではガイドさん、今日はよろしくお願いします。

 

ガイド:よろしくお願いします。まずはこの橋を渡ります。ここは本丸と三の丸の間にあった堀の跡。向こう側は崖になっているのですが、その脇の道をたどって右へ進みます。

 

マナブ:堀の向こう側は結構な高低差のある崖のようですね。

 

ガイド:そうなんです。これが本丸の防御の壁です。でも夏は木が茂って見えづらくなりますね。市としてはこの木を切って、かつての九戸城の時代のように裸にすることを検討しています。

 

実線:車ルート

点線:徒歩ルート

 

マナブ:城の南側に出てきました。ここは車道になっています。

 

ガイド:ここは二の丸と松ノ丸の間の堀だったところ。史跡になる前は民家が並んでいたんです。ところで、あの崖を見てください。

 

崖には白い地層が見える

 

ガイド:ここは人工的に掘り下げた「深田堀」。高さ10mもあるんです。

 

マナブ:白い地層が見えていますね。

 

ガイド:あれは十和田湖の火山が大噴火した時の火山灰が積もったもの。

 

マナブ:うわぁ、すごい厚みで積もっていますね。

 

ガイド:このあたりは十和田湖の噴火による地層がよく見られるんです。

 

 

二の丸 大手門の枡形虎口

 

ガイド:さぁ、お城の南側にきました。ここは二の丸の大手門があります。この南に在府小路という武家屋敷群があって、そこから土橋で堀を越えて二の丸へとつながっていました。土橋の跡が今も残っています。

 

マナブ:なるほど。南側は川がないので堀で守っているんですね。ここの大手はやはり守りが堅いんでしょうか。

 

ガイド:見てください。今は整備中で土嚢が置かれていますが、ここは東西48mという大変な長さを持つ枡形虎口になっているんです。

 

マナブ:あぁ、これはすごく堅そうな守りですね。

 

ガイド:ところで、本日見ていただく二の丸、本丸ですが、これは九戸政実の乱の後、蒲生氏郷が改変した「福岡城」の遺構なんです。

 

マナブ:あ、そういうことですか。

 

ガイド:しかも伝承ではわずか1週間で改変したのだとか。枡形虎口を作り、本丸の周りに新たな内堀を掘り、さらに近江から連れてきた石工たちによって土の城を石垣の城に作り変えました。

 

マナブ:いやいや、さすがに1週間では無理でしょう。

 

ガイド:でも上司の秀吉は「一夜城」が好きな人でしたから、本当に1週間で作ったのかもしれませんよ。

 

マナブ:そうか。ところで「福岡城」と言われましたが、それが江戸時代のここのお城の名前ですか?

 

ガイド:はい。でも九戸政実は地元の人たちからよほど愛されていたのでしょう、落城後もずっと地元の人たちからここは九戸城と呼ばれていて、史跡に指定された時も「九戸城」という名称で登録されました。

 

広大な二の丸

 

マナブ:二の丸へ入ってきました。いやー、これは広い。

 

ガイド:皆さんそうおっしゃいます。この広さがあれば数千人が籠城することもできますね。

 

二の丸にある模型

 

二の丸と本丸の間の堀

 

マナブ:二の丸と本丸の間には内堀がありますが、先ほどの話だと、これは蒲生氏郷が後から掘ったものですか?

 

ガイド:そうです。ここは東北で最古の石垣だと言われています。ところで、右側(本丸側)と左側(二の丸側)の石垣の積み方の違い、わかりますか?

 

マナブ:うーん、よくわかりません。

 

ガイド:草が伸びて見えづらいですよね。実は右側は近江から連れてきた集団(穴太衆:あのうしゅう)によるプロが作った野面積み。左は恐らくは地元の素人たちが積んだもの。

 

マナブ:早く作るために地元の人たちも動員したのかな?

 

ガイド:明との戦争に備えて、石垣を作れる職人を増やすためにここで練習させたのかもしれません。

 

本丸虎口

 

マナブ:ここからは本丸ですね。

 

ガイド:ここにも枡形がしっかりと作られています。ここにある石垣は会津若松城に残る蒲生時代の石垣とよく似ていることから、蒲生氏郷によるものと考えられます。

 

本丸

 

マナブ:本丸も相当広いですね。

 

ガイド:ここには蒲生氏郷が建てた建物跡がたくさん残っています。本丸の中には段差があり、上に御殿があったものと思われます。

 

本丸大手門

 

ガイド:本丸の大手門には木橋が架かっていました。ここから二の丸へ戻りましょう。

 

土井晩翠の「荒城の月」の歌碑

 

ガイド:ここにあるのが「荒城の月」の歌碑です。土井晩翠がここを訪れたとき、九戸政実の最期の話を聞いて感銘を受けたのだとか。それが荒城の月の作詞の元になったかもしれません。

 

マナブ:先日大分県の竹田にある岡城で、その話を歴史先生から聞いていました。

 

ガイド:ところで、二の丸にトイレを設置する工事の際、土中から十数体の人骨が出てきました。それらは首がなく、刀による傷がついていて、乱雑に埋められていたそうです。

 

マナブ:それが「なで斬り」の犠牲者なんでしょうか?

 

ガイド:実際になで斬りがあったという物証だとも言われていますが、それにしては数が少ないです。もっとあちこちを掘ればもっと出てくるのかもしれませんが、このお城はまだあまり発掘されていませんので、今後の調査が待たれます。今日は石沢館のあたりを発掘作業していて、立ち入りができませんでした。

 

マナブ:今後の発見が楽しみです。

 

 

ガイド:ではあらためて包囲図を見てください。

 

マナブ:西と北は谷が深くてとても攻められそうにありません。

 

ガイド:そうですね。攻撃は主に南から行われたようですが、私が注目したいのは東北勢の位置です。

 

マナブ:馬淵川の川向うに並んでいますが。

 

ガイド:この位置からは手出しはできませんが、城が攻められている様子は手に取るようにわかる、いわば「観覧席」ではないかと思うんです。「秀吉様に逆らうとお前たちもこういう目に遭うんだぞ」、ということを見せつけられていたんではないでしょうか。

 

マナブ:なるほど、そういう配置だったのかもしれませんね。

 

歴史先生:私からも質問していいですか?

 

ガイド:はい、どうぞ。

 

歴史先生:どう考えてもこの勝負、九戸政実には勝ち目がありません。領民や家来を大事にしてきた彼が、なぜこんな勝てない戦をしたのか、不思議でなりません。

 

ガイド:九戸政実の乱は1591年9月ですが、その年の2月に豊臣秀長が亡くなっています。そしてその後すぐ、千利休が切腹させられます。翌年1952年からは文禄の役、慶長の役が始まり、秀吉は朝鮮へ出兵しました。

 

歴史先生:秀吉がまさに狂い始めた時期ですか。

 

ガイド:はい、そんな時期ですから、秀吉の危険性を九戸政実はよくわかっていたのかもしれません。絶対に秀吉にだけは服従できないと。

 

歴史先生:そうですね、なるほど。今日はどうもありがとうございました。

 

ガイド:ありがとうございました。

 

マナブ:今日九戸城を歩いてみて、九戸政実についてもっと知りたくなりました。

 

歴史先生:2種類の歴史小説がありますよ。史料が少ないので登場人物の立ち位置などは2人の作家ごとにかなり違いますが、それぞれ楽しめると思います。

 

マナブ:読んでみます。

 

<読んでおきたい本>

高橋克彦

天を衝く

 


 


高橋克彦氏のみちのく三部作の1つ。中央の軍勢に何度も蹂躙されてきた東北の人たちの悲しみを描く。九戸政実の視点で南部晴政の時代からの長期間の南部氏内部の抗争の顛末を丁寧に追いかけている。全3巻。

 

<読んでおきたい本>

安部龍太郎

冬を待つ城

 


 


安部龍太郎氏ならではの丁寧な取材に基づいた作品。九戸政実の一番下の弟、政則の視点で九戸政実の乱の直前から落城までの流れを追う。全1巻。


座敷わらしって何? それは実在の子どものことだった:金田一温泉

 

緑風荘

 

緑風荘の裏手にある亀麿神社の駐車場

 

金田一温泉 亀麿神社

〒028-5711 岩手県二戸市金田一長川46−5

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.zashiki-warashi.co.jp/kamemaro.html 


マナブ:九戸城から北へ車で10分ほど。金田一(きんたいち)温泉に来ています。金田一といえば、名探偵金田一耕助。

 

歴史先生:横溝正史さんのシリーズですね。他にも有名な方がいますね。

 

マナブ:はい、金田一京助さん、春彦さん親子。国語辞典を作った人、だったかな?

 

歴史先生:そうですね、お二人とも国語辞典の編纂にも関わった、言語学者です。金田一京助さんですが、盛岡市の生まれで、先祖は盛岡で成功した商家で、南部藩の士分に取り立てられた家柄なんだそうです。このあたりとも関係しているかもしれません。

 

マナブ:のどかな場所ですね。田園風景の中に温泉旅館が点在している温泉地です。

 

歴史先生:でも金田一温泉といえば「座敷わらし」。

 

マナブ:えっ、そうなんですか?

 

歴史先生:老舗旅館の「緑風荘」は座敷わらしの宿と言われています。

 

マナブ:どういうことなんでしょう?

 

亀麿神社

 

歴史先生:後醍醐天皇の側近で万里小路藤房(までのこうじ ふじふさ)という人がいました。

 

マナブ:名前を見たことがあります。

 

歴史先生:南北朝の争いの中、彼は足利軍に追われて京都から関東、そして東北へと逃れてきました。しかし二戸に着いた際、一緒に逃げてきていた6歳になる息子の亀麿(かめまろ)君が重い病にかかりました。彼は息を引き取る直前に「末代まで僕が家を守り続けるよ」と言って亡くなったそうです。

 

マナブ:できた子だ。

 

歴史先生:そしてその後、子供の姿をした妖怪が出るようになります。人々は彼を「座敷わらし」と呼ぶようになりました。

 

マナブ:座敷わらしというのは亀麿くん、だったんだ。

 

亀麿神社

 

歴史先生:座敷わらしは幸運をもたらす存在として、出会うと必ず良いことが起こります。緑風荘は万里小路藤房の子孫が経営する旅館。ここには座敷わらしが出たという目撃談がたくさん残っています。

 

マナブ:そうなんですか。宿泊すると、ひょっとしたら会えるかもしれませんね。

 

歴史先生:そうですね。緑風荘の隣には亀麿神社が建てられ、亀麿くんが祀られています。

 

マナブ:ぜひ、お参りしていきましょう。

 

亀麿神社

 

歴史先生:ということで今日は二戸を回りました。いかがでしたか?

 

マナブ:いやー、まだまだ知らないことが多いんだな、ということを感じました。二戸という場所も知りませんでしたし、ここで九戸政実の乱という大事件が起きたことさえも全く知りませんでした。ボランティアガイドさんにも大変お世話になりました。それから座敷わらしというのは単なる想像上の妖怪ではなかったんですね。いろいろと知識の増えた一日でした。

 

​歴史好きのための観光ガイド
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