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登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
「屋島」の不思議な地形はどうやってできた?
 
「屋島寺」を作った古代の仏教の2大スターとは?
 
高松市内と瀬戸内を一望。絶景の展望台
 
屋島の戦い(1):平家はなぜ屋島にいたのか?
 
屋島の戦い(2):平家を破った義経の予想外の戦術

 

「屋島」の不思議な地形はどうやってできた?

 

 

 


マナブ:今日は高松市の東側にある屋島、に来ています。

 

歴史先生:2005年までケーブルカーがあったんですが、今では車で登るしかありません。「屋島スカイウェイ」で山頂まで行きましょう。

 

屋島はその頂上がまっ平な形をしている

 

マナブ:高松市内から見ると、屋島ってとても変わった形をしています。頂上がまっ平で、とても長い。こんな山、他ではあまり見ませんよね。

 

歴史先生:そうなんです。これは「メサ」という地形。屋島は国の天然記念物に指定されています。

 

マナブ:メサ?

 

歴史先生:はい、卓状台地とかテーブルマウンテン、とも言われます。

 

マナブ:どうやってできたんでしょう?

 

歴史先生:「香川県の歩き方」の回の中で、飯野山をはじめとするミニ富士山がたくさんできた話をしましたね。

 

マナブ:はい。

 

歴史先生:それと同じころ、すなわち1,400万年前ごろ、ここ屋島でもマグマが地表に噴出しました。そのころ今の女木島、男木島、豊島までを含む地域に大きな湖があったんです。噴出した溶岩は湖に流れ込んで、湖底に堆積していた地層の上に水平に積もりました。

 

マナブ:ふむふむ。

 

歴史先生:急激に冷え固まった溶岩は讃岐岩質安山岩、すなわちとても固い岩盤になりました。さて、それから長い年月が経ち、周囲の大地がどんどん浸食されていく中で、この固い部分が傘のような働きをして、その下にある地層も含めてその部分だけが残りました。

 

マナブ:それが現在の屋島。

 

歴史先生:はい、そうなんです。

 

マナブ:メサ地形は日本の中で、他にもあるんですか?

 

歴史先生:主なところでは大分県の万年山。そして群馬・長野県境の荒船山、あたりでしょうか。

 

荒船山(群馬・長野県境)

 

マナブ:この写真、荒船山というんですか。すごい形の山ですね。

 

歴史先生:そして香川県では五色台、城山などもメサの例です。

 

マナブ:香川県にはメサがたくさんあるんだ。

 

歴史先生:ちなみに、メサの近くには「ビュート」という地形ができることが多いんです。これはメサと同様の成り立ちですが、浸食がすすんで切り株のようになったものを指します。大分県の万年山の近くにある伐株山はその典型例です。

 

伐株山(大分県)

 

マナブ:あ、これは香川県のミニ富士山たちとそっくり。あれらはビュートなんですね。

 

歴史先生:長年そう思われていたんですが、あれは溶岩が上に乗っているのではなくて、地下から鉛筆の芯みたいに伸びているということでした。ということで今では香川県のミニ富士山たちはビュートではなくて、岩頸という分類がされています。

 

マナブ:あ、そうか。香川県の地形はなかなか面白いですね。

 

「屋島寺」を作った古代の仏教の2大スターとは?

 

屋島寺 東大門

 

 

屋島寺(地図 ❶)

〒761-0111 香川県高松市屋島東町1808

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://88shikokuhenro.jp/84yashimaji/ 


マナブ:屋島スカイウェイを走って頂上へ。大きな駐車場に車を停めました。

 

歴史先生:標高293mの屋島の頂上には、屋島寺(やしまじ)があります。

 

マナブ:門の感じからして、比較的新しいお寺なのかな?

 

歴史先生:いえいえ、とんでもない。実はここ、すごく歴史のあるお寺なんです。

 

マナブ:というと?

 

屋島寺の広い境内

 

歴史先生:奈良時代の754年、鑑真和上が中国から大和に招かれた時、薩摩から難波へと瀬戸内海を航行する途中で、屋島の山頂から立ち上る瑞光を感得されました。そこで鑑真和上は船を降り、屋島(北嶺)に登り、持っていた普賢菩薩像を安置するお堂を建てて経典を納めたのだそうです。

 

マナブ:そんな古い歴史と由緒のあるお寺でしたか。

 

歴史先生:そして鑑真和上の弟子の恵雲律師が堂宇を立てて、屋島寺の初代住職になったそうです。そして次は弘法大師空海。

 

マナブ:おっと、また仏教界のスターの名前が。

 

歴史先生:815年、今度は平安時代初期です。嵯峨天皇の命を受けて空海はこの地を訪れ、北嶺にあった堂宇を現在地の南嶺に移しました。このとき空海は十一面千手観音像を彫って本尊とし、今の伽藍を作りました。空海は屋島寺の中興の祖、と言われています。

 

マナブ:すごいお寺だ。

 

本堂(国指定重要文化財)

 

マナブ:こちらの本堂は古そうですね。

 

歴史先生:はい、本堂は鎌倉時代のもので、国指定重要文化財です。中に祀られている現在のご本尊、十一面千手観音坐像は平安時代中期に作られたもので、こちらも国指定重要文化財になっています。

 

マナブ:すばらしい。

 

蓑山大明神

 

マナブ:本堂の隣、タヌキがいますね。たくさんの鳥居があって、これがキツネならお稲荷さんなんでしょうけど。

 

歴史先生:これは蓑山大明神と言われていて、太三郎狸を祀っています。

 

マナブ:狸の神様?

 

歴史先生:鑑真和上が船を降りて屋島へ登る時、タヌキが案内をしました。それが太三郎狸。空海が来た時に案内したのも太三郎狸。その功績から、彼は空海より屋島寺の守護を任されたそうです。しかし源平の合戦の最中に太三郎狸は大けがを負います。それを助けたのが平重盛。それ以来、太三郎狸は平家びいきとなりました。

 

マナブ:ふむふむ。

 

歴史先生:その後、年に一度、屋島の合戦を幻術で再現して見せたそうです。その化けっぷりが見事で、四国狸の総大将と呼ばれました。江戸時代になっても、他の狸との化け比べの話がたくさん残っています。

 

マナブ:それにしても長生きですね。いつまで生きるんだろう?

 

歴史先生:それが江戸時代の終わりごろ、太三郎狸は猟師に撃たれて命を落としてしまいます。そして屋島寺の本堂の隣にお堂を立ててもらい、縁結び、子宝、家庭円満といった御利益のある神様として祀られるようになりました。

 

マナブ:狸のためにお堂が建てられるなんて、なんだか不思議な話ですね。

 

山門

 

高松市内と瀬戸内を一望。絶景の展望台

 

屋島山上交流拠点施設「やしまーる」

 

 

マナブ:眺めのいいところに出てきました。面白いデザインの、展望台のようなものがありますね。

 

歴史先生:この施設は「やしまーる」という名前で、高松市が作った研修・交流施設です。

 

屋島から見下ろす高松港

 

マナブ:おぉ、ここからの眺めは素晴らしい!たしか標高は293mでしたね。これだけの高さがあって、都市のすぐそばにあるので、絶景になるのも当然でしょう。

 

歴史先生:高松の市街地が全部見えている感じです。中央の色濃く見えている山が紫雲山とそれに続く峰山。正面奥にうっすらと平らな山影がみえますが、あれが五色台。

 

マナブ:紫雲山は栗林公園の借景になっていた山ですね。そして五色台はここ屋島と同様のメサ地形。

 

歴史先生:はい。さらには遠くにミニ富士山がぽつぽつ見えます。

 

高松駅・高松城周辺

 

マナブ:あの一番高いビルがあるところが高松駅ですね。

 

歴史先生:はい。その手前の黒っぽいところが高松城です。

 

女木島

 

マナブ:海の方を見ると、瀬戸内の多島美が楽しめますね。

 

歴史先生:目の前にある細長い島。これを女木島(めぎじま)と言います。ここは別名「鬼ヶ島」。

 

マナブ:ん? 桃太郎の?

 

歴史先生:はい、桃太郎伝説といえば対岸の岡山県ですが、ここにも桃太郎伝説があります。高松市の西部に鬼無(きなし)という地名があって、JRの駅もあります。大正時代、大隈重信がここに立ち寄った時に「おもしろい地名だ」と言ったのがきっかけで、地元の小学校の先生で郷土史家の橋本仙太郎という人が研究を始めました。

 

マナブ:たしかに「鬼無」という地名は何らかの歴史がありそう。

 

歴史先生:橋本さんは女木島の山の中腹に大きな人工の洞窟があるのを見つけ、これを鬼の住処(すみか)だと考えます。そして桃太郎が鬼退治に行った鬼ヶ島とは、女木島のことではないか、という説を発表しました。1930年(昭和5年)のことでした。

 

マナブ:意外と新しい伝承なんですね。

 

歴史先生:それ以来、女木島は鬼ヶ島として売り出し、現在でも観光名所になっています。高松港からフェリーで20分ほどで行けますので、時間があったら立ち寄ってみるのもいいでしょう。

 

屋島の戦い(1):平家はなぜ屋島にいたのか?

 

屋島北嶺からみた南嶺

 

歴史先生:では、いよいよ源平合戦のハイライトの1つであった「屋島の戦い」について見ていきましょう。

 

マナブ:そもそもなんですが、平家はどうして屋島にいたんですか?

 

歴史先生:いい質問ですね。その頃の時代の流れを時系列でみていきましょう。まずは1180年5月。そのころは平清盛の絶頂期で、朝廷の後白河法皇は我慢を重ねていました。そんな中、後白河法皇の皇子である以仁王(もちひとおう)が全国の反平氏勢力(主として源氏)に「以仁王の令旨(りょうじ)」と呼ばれる密書を送って、平家打倒に立ち上がるよう促します。

 

マナブ:ふむふむ。

 

歴史先生:以仁王の反乱はすぐに発覚して捕らえられますが、比叡山延暦寺や奈良の興福寺などがそれに同調していたということがわかりました。だとするとそのまま平家が京都にとどまることは危険でしたので、翌6月に平清盛は突然京都から福原(現在の神戸市)に遷都します。

 

マナブ:福原は元々平家の拠点だったんですか?

 

歴史先生:はい、平家の力の源泉であった日宋貿易の拠点となっていた港で、京都からも少し離れるため敵からの攻撃を防ぐにも有効な場所でした。しかし時代は急転回を始めます。8月には伊豆で源頼朝が挙兵、10月には富士川の戦いで平家は敗れ、源氏が東国を支配し始めます。

 

マナブ:だんだん平家の天下もあやしくなってきた。

 

歴史先生:そうなると平家に不満を持つ貴族や寺社などが表立って遷都に反対するようになり、その圧力を受けた平家方は11月には遷都を撤回、京都に戻らざるをえない状況になりました。そして翌年の春、1181年3月に平清盛が亡くなります。さらに悪いことに1181年、1182年には西日本で飢饉が起きました(養和の飢饉)。

 

マナブ:カリスマ的なトップがいなくなり、食べ物も無くなると社会不安が増してきますね。

 

歴史先生:そんな中、源義仲(木曽義仲)が信濃で挙兵。北陸から京都へ攻め込む姿勢を見せます。平家方は平維盛を大将にこれを鎮圧すべく大軍を派遣しますが、1183年5月、石川県・富山県の県境の倶利伽羅峠(くりからとうげ)で大敗。1183年7月には木曽義仲の軍が京都になだれ込み、平家方は安徳天皇と三種の神器と共に九州へと落ちていきました(平家の都落ち)。

 

マナブ:あれ、一気に九州まで? 福原じゃないんだ。

 

歴史先生:はい、そうなんです。

 

マナブ:九州に逃げた平家はどうなったんでしょう?

 

歴史先生:平家は九州の太宰府に逃げて、そこで安徳天皇を中心に再起を図ろうとします。ところが現地の武士たちとうまくいかず、豊後国の武士団のリーダー格であった緒方三郎惟栄(これよし)が大宰府を急襲します。

 

マナブ:あ、その話、大分県に行った時にありましたね。

 

歴史先生:はい。1183年10月、緒方三郎惟栄が3万騎を率いて攻めて来るという知らせを受けた平家方は、あわてて逃げ出します(太宰府落ち)。普通、天皇が動くときは立派な輿(こし)に乗せられたり牛車(ぎっしゃ)だったりするのですが、まだ子供の安徳天皇は簡単な輿に乗せられて人に担がれて逃げたのだとか。建礼門院などの高貴な女性たちも雨の中泥だらけになりながら走って逃げたんだそうです。

 

マナブ:ついその少し前まで京都で雅な生活を送っていた人たちですよね。

 

歴史先生:そうなんです。彼らは宇佐神宮を頼って逃げたのですが、その宇佐神宮も緒方三郎惟栄によって焼き討ちされ、とても平家方を匿える状態にありませんでした。しかたなく平家方は安徳天皇を連れて瀬戸内を船で逃げ回ります。

 

マナブ:といっても、行くところがありませんよね?

 

歴史先生:そんな時に救いの手を差し伸べたのが阿波・讃岐の領主だった田口成良。彼の助けによって、1183年10月、平家は屋島に上陸し、ここをあらたな拠点としました。

 

マナブ:それがここ、屋島でしたか。

 

歴史先生:ところで京都に入り込んだ木曽義仲の軍ですが、統制がとれていなかったため市中で狼藉・略奪をはたらきます。初めのうちは平家を追い払ったことに感謝をしていた後白河法皇も我慢がならなくなり、ついには木曽義仲追討へと舵を切りました。そこで頼ったのが源頼朝。彼が派遣した弟たち、すなわち源範頼&義経が1184年1月、宇治川で木曽義仲を倒し、敗走した義仲も近江にて戦死しました。

 

マナブ:今度は源氏の内部での争いになった。

 

歴史先生:そのスキを突いて、平家方は福原を奪回します。平家は福原、屋島、そして彦島(下関市)を拠点に瀬戸内を再び支配するようになりました。

 

マナブ:源頼朝としてはそれを放置できませんね。

 

歴史先生:はい、そこで1184年1月、源範頼・義経の軍が福原を急襲。「一ノ谷の戦い」が起きます。正面から攻める本隊の源範頼が苦戦する中、わずか70騎を率いた別動隊の義経が「鵯越(ひよどりごえ)の逆落とし」で平家方を急襲。源氏が勝利しました。平家は屋島まで撤退して新たな防衛の最前線とします。

 

マナブ:なるほど。

 

歴史先生:一ノ谷で勝利した源範頼はそのまま山陽道を進軍します。そのまま周防の国までを制圧しますが関門海峡を平家方に抑えられているためそれ以上は進めず、今度は豊後へ渡ってそこから九州の制圧を試み、関門海峡の平家を挟み撃ちにしようとしました。1184年はそうして過ぎていきます。

 

マナブ:屋島はまだそのまま?

 

歴史先生:はい。年が明けて1185年2月、源氏はいよいよ屋島を攻めることになりました。

 

屋島の戦い(2):平家を破った義経の予想外の戦術

 

屋島古戦場展望所からの眺め


歴史先生:さて、この屋島は今は埋め立てで陸続きになっていますが、平安時代は陸から離れた島でした。


マナブ:だから「島」という名前なんだ。


歴史先生:はい。そのため、平家方としては源氏は海から船団で攻めて来るもの、と思っていました。瀬戸内を支配していた平家はもともと強力な水軍を持っています。一方、関東を地盤とする源氏は水軍がとても弱い。だからこそ屋島は安全な拠点だったんです。


マナブ:ところがそうではなかった?


歴史先生:相手の意表を突く。そこが義経らしいところですね。1185年2月16日、義経はわずか150騎を船に乗せて大阪から出港し、阿波国の勝浦(現在の小松島市)に上陸します。ところで余談ですが、その時の有名な話として、「逆艪(さかろ)論争」が起きます。これは戦奉行として従っていた有力御家人、梶原景時と義経が激しく言い争ったというもの。


マナブ:何を言い争ったんでしょう?


歴史先生:梶原景時は船が後退する時に使う逆艪をつけるよう進言しますが、義経はそのようなものはいらないと言い張ります。義経は後退できる仕組みがあれば兵が退却してしまうことを懸念したのでしょう。


マナブ:どちらも正論に聞こえます。


歴史先生:しかしこの時のことが2人の間でのしこりとなり、後日、梶原景時が頼朝に讒言して義経追討へとつながっていく、その伏線となりました。


マナブ:そういうことでしたか。


歴史先生:さて、屋島の戦いの話に戻りましょう。



歴史先生:義経の船団は阿波に上陸後、桜間城を攻め落とし、険しい讃岐山脈を大坂で越えて、讃岐へと進軍します。そして2日間、夜も寝ずに移動したあと、2月19日の早朝未明に屋島に到着します。しかし義経の軍は小部隊。そこで義経は一計を案じます。


マナブ:というと?


歴史先生:何と言っても義経軍はわずか150騎しかいません。それがわかってしまうと逆に包囲されて殲滅されてしまいます。そこで屋島の周囲のあちこちの集落に火をつけて回り、旗を立てて大軍が押し寄せてきたように見せかけたんです。


マナブ:でも屋島は島だった、ということでしたよね? であれば平家方はそんなに慌てなくて済むのでは?


歴史先生:義経はそこも抜かりがありません。島の周囲を調べさせて、干潮時に馬の背でぎりぎり渡れる場所を見つけていたんです。そこから屋島へ攻め込みましたから、「大部隊が陸側から攻めてきた」ことにおどろいた平家方は慌てて海へと逃げ出しました。


マナブ:それであっけなく屋島を落とせた?


歴史先生:一旦は海へ逃げた平家方ですが、その後調べてみると義経の部隊がわずか150騎ほどだということがわかります。怒った平家方は再度上陸を試みます。


マナブ:当然そうなるでしょうね。


歴史先生:義経の部隊は必死に応戦。一時は義経の命も危うい状態に追い込まれましたが、そのまま睨み合いが続きました。そうして2月19日が終わります。


マナブ:長い一日でしたね。


歴史先生:翌2月20日も戦闘が続きました。この日、2つの有名なエピソードが生まれます。


マナブ:というと?


歴史先生:1つは「弓流し」。敵中での戦闘の中で義経は自分の弓を海に落としてしまいます。それに気づいた義経は命の危険を顧みず、弓を拾いに戻りました。周囲の家来たちは「弓よりも義経様の命の方が大切です」と諫めますが、義経は家来たちにこう言います。「強い弓なら良いが、私の弓は弱い。敵に拾われて「源氏の総大将の弓はこんなものか」と言われるのが私が命を落とすことよりももっと重要なことになる」。


マナブ:当時の武士たちのプライドを表すエピソードですね。


歴史先生:そしてもう1つは「扇の的」。平家方から女官が乗った小舟が近づいて、竿の先に付けた扇をひらひらとさせています。「この扇を弓で射てみよ」ということだと解釈した義経は、武芸に優れた有力御家人の畠山重忠を指名しますが彼は辞退。畠山重忠は代わりに那須十郎を指名しますが彼も辞退。そして弟の那須与一が指名されます。


マナブ:那須与一は代理の代理、だったんですね。


歴史先生:なにしろこれをはずすと源氏の恥。切腹では済まない状況だったんでしょう。誰もが辞退したくなります。


マナブ:でも那須与一は一発で射抜いた。


歴史先生:はい、平家物語の名場面、ですね。敵味方関係なく、賛辞を惜しまなかったとか。さて翌日の2月21日、平家方は船団を東に回して志度から上陸を試みます。しかしそれを察知した義経は志度で防戦。平家方を撃退しました。


マナブ:義経方は人数が少ないのに大活躍ですね。


歴史先生:そのころ源氏方の本隊は大船団を率いて屋島へ向かっていました。その情報が入った平家方は屋島を捨てて西へ落ち延びます。こうして屋島の戦いは源氏方の勝利で終わりました。



五剣山


歴史先生:屋島スカイウェイの途中にある屋島古戦場展望所から、屋島の戦いの跡を見下ろしています。


マナブ:正面にある山、変わった形ですね。


歴史先生:あれは五剣山、と呼ばれる山です。「一ノ剣」〜「五ノ剣」が並ぶ独特な山容からそう名付けられましたが、江戸時代の1707年の地震で五ノ剣が崩れ落ち、いまでは4本の峰が並んでいます。切り立った岩場は空海も修業したと伝わります。


マナブ:これも火山?


歴史先生:はい、そうです。屋島やミニ富士山たちができた1,400万年前、粘り気の強い溶岩がここから噴出し、溶岩ドームを形成。その後侵食されて、固い部分だけが残ったのが今の形です。


マナブ:なるほど。香川県はおもしろい火山地形だらけだ。


歴史先生:さて、屋島はいかがでしたか?


マナブ:まずはメサの地形にびっくり。そこにできた屋島寺の歴史にも驚きました。そして源平の屋島の戦い。そこに至る背景からきちんと聞けて、より理解が深まりました。地形と歴史のおもしろさがぎっしり詰まった観光地だったんですね。おススメです。





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