登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
山下公園はどうやってできた?
めずらしい船の重要文化財:氷川丸
横浜になぜ巨大な中華街ができたのか?
豪華絢爛!横浜中華街のシンボル、関帝廟の歴史
ペリーが上陸し、日米和親条約が結ばれた横浜港
横浜開港資料館の庭にあった歴史の目撃者
横浜三塔 King、Queen、Jackは誰が名付けた?
山下公園はどうやってできた?

港の見える丘公園から歩行者デッキを通って山下公園へ

マナブ:港の見える丘公園から山下公園までは歩行者デッキを通っていきます。横浜マリンタワーの眺めが見事です。

海岸 通りを渡って山下公園へ

山下公園入口
マナブ:山下公園に着きました。
歴史先生:ここでのメインは氷川丸。でもそれ以外の見どころもありますので散策しましょう。
山下公園(地図 ❶)
〒231-0023 神奈川県横浜市中区山下町279
入園自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.welcome.city.yokohama.jp/spot/details.php?bbid=190

水の階段

氷川丸が見えてきた
歴史先生:さて、ここ山下公園はとても広い公園ですが、明治の古地図でどうだったのか、見てみましょう。
外人墓地資料館にあった18

88年(明治21年)末の横浜市内の地図
マナブ:あれ、ここはなかった?
歴史先生:はい。海岸通りが名前の通り、海岸線となっています。
マナブ:ということは、ここは埋め立てて新しく土地を作ったんですね。
歴史先生:はい、そうなんですが、ここは関東大震災と関係があります。
マナブ:というと?
歴史先生:1932年(大正12年)の関東大震災で横浜市内の建物の多くが倒壊しました。そうするとどうなります?
マナブ:大量のがれきが発生する。
歴史先生:そうですよね。とすると、がれきの処分をどうしようか、という話になります。その時、横浜市の助役だった楢岡徹はがれきで海岸を埋め立てて、そこに公園を作る提案をします。
マナブ:名案ですね。
歴史先生:市街地のすぐそばで運搬も容易。横浜は大都市の中で公園面積が少ないことが課題になっていましたので、市民の憩いの場の創出や観光にも寄与するということで、一石二鳥の名案でした。
マナブ:ということは、私たちは今、関東大震災のがれきの上に立っている。
歴史先生:そういうことになります。数年間に及ぶ工事の後、山下公園は1930年(昭和5年)に日本初の臨海公園としてオープン。1935年(昭和10年)には震災からの復興を記念する横浜大博覧会の会場になり、1961年(昭和36年)には氷川丸が係留され、観光名所としても発展を遂げました。

ホテルニューグランド
歴史先生:さて、山下公園に隣接するホテルといえば「ホテルニューグランド」。
マナブ:ここは歴史のありそうなホテルですね。
歴史先生:開業は1927年(昭和2年)。
マナブ:ということは震災からわずか4年後?
歴史先生:はい。震災からの復興のシンボルとして政財界や市民の強い要望で建てられた、横浜を代表するクラシックホテルです。
マナブ:設計者はやはり居留地に来ていた外国人の建築家、でしょうか。
歴史先生:いえ、こちらは日本人の設計。渡辺仁(わたなべ じん)という建築家なんですが、ご存じですか?
マナブ:いいえ、聞いたことがないと思います。
歴史先生:渡辺仁は1887年(明治20年)生まれ。東京帝国大学で建築を学びます。ホテルニューグランドの他にも銀座和光(1932年)、東京国立博物館本館(1937年)などの代表作が残っています。
マナブ:おぉ、いずれも東京を代表する建築ですね。それなのにお名前を知りませんでした。

ホテルニューグランドの玄関前
歴史先生:ホテルニューグランドは横浜における迎賓館的な存在として、チャーリー・チャップリンや、ベーブ・ルースなどが宿泊しました。
マナブ:すごい。
歴史先生:そして戦後はGHQのマッカーサー元帥が宿舎にするなど、昭和に至るまで歴史に深く名前を刻みます。
マナブ:なるほど。
歴史先生:それだけではなくて、このホテルは日本で初めての本格的フレンチを出したり、シーフードドリア、ナポリタン、プリンアラモード発祥の地、とも言われているんですよ。
マナブ:へぇー、そうだったんですね。

山下公園中央の噴水

「かもめの水兵さん」の歌碑
マナブ:さて、山下公園に再び入ります。
歴史先生:ここに「かもめの水兵さん」の歌碑がありますが、歌えますか?
カモメの水兵さん
ならんだ水兵さん
白い帽子 白いシャツ 白い服
波にチャップ チャップ
うかんでる
マナブ:はい、もちろん。
歴史先生:この歌は1937年(昭和12年)に発表されました。作詞の武内俊子が横浜港からハワイに旅立つ叔父を見送りに来た際に、飛び交うカモメを見て思いついた歌だとされています。
マナブ:うーん、今だとカモメを見ても、海上自衛官を連想しませんよね? カモメを見て海軍の兵隊さんを連想するというのは、やはり軍国的な風潮が高まっていた時期なんでしょうか。
歴史先生:そうですね、たしかに当時の世相がここから垣間見えますね。ただし、この歌が教科書に載るようになったのは戦後のこと。だから私たちの世代でも歌えるんです。

赤い靴はいてた女の子像

「赤い靴」歌碑
歴史先生:山下公園にはもう1つ、歌碑があります。童謡「赤い靴」。
赤い靴 はいてた 女の子
異人さんに つれられて 行っちゃった
マナブ:この歌、かわいらしいというよりも、何だかダークで怖いイメージがあります。この女の子は異人さんに売られたんでしょうか?
歴史先生:この女の子ですが、モデルは「岩崎きみ」、という子だと言われています。きみちゃんは1902年(明治35年)静岡生まれ。お母さんが未婚の母だったこともあって社会的偏見にさらされ、貧しい暮らしを強いられました。お母さんはきみちゃんを連れて函館に移住しますが、きみちゃんは結核を患い、9歳で亡くなります。
マナブ:あれ、異人さんに外国に連れていかれたのでは ない?
歴史先生:この歌詞は有名な野口雨情の作詞なのですが、彼は病気で亡くなったきみちゃんを「異人さんに連れて行かれた」と表現したもの、とされています。
マナブ:それじゃまるで異人さんは死神のようですが、実際のところ、当時の異人さんのイメージはどういうものだったんでしょう?
歴史先生:横浜で実際に外国人とビジネスをしている人たちは別として、ほとんどの人は直接外国人と接する機会がなかったでしょう。そういう人たちにとっては、異人さんというのは未知の怖い存在だったはずです。子供たちのしつけの中で、「そんな悪い子は異人さんに連れて行かれるよ」、というようなことも言われていたとか。
マナブ:そうでしたか。
歴史先生:この歌は「怖い歌」ということではなくて、実は「悲しい歌」、だったんですね。
めずらしい船の重要文化財:氷川丸

国指定重要文化財 氷川丸

氷川丸(地図 ❷)
〒231-0023 神奈川県横浜市中区山下町山下公園地先
入館料300円(シニア、高校生以下割引あり)
10:00~17:00(最終入館16:30)、月曜休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
マナブ:さぁ、いよいよ氷川丸にやってきました。中に入れるんですよね?
歴史先生:はい。見学コースの順路に沿って、中を一通り見ることができます。
マナブ:いいですね。何だか遠くへ旅する気分です。

氷川丸への乗船口

船内の案内図。受付でもらえる案内図を手に船内を歩こう。
歴史先生:遠くへの旅と言えば、この氷川丸はシアトル航路として長く運行されました。
マ ナブ:いつごろの話ですか?
歴史先生:1930年(昭和5年)にできた船です。太平洋戦争で運行できなくなる1941年(昭和16年)まで、シアトル航路を往復していた豪華客船です。ホテルニューグランドに宿泊していたチャーリー・チャップリンもこの船で米国へ帰りました。
マナブ:シアトルまでどれくらいの日数がかかったんでしょう?
歴史先生:通常12日間、だそうです。
マナブ:結構長くて退屈しますね。
歴史先生:そのため船員たちが工夫して乗客を飽きさせないようにしていたそうなのですが、何しろ航海する のは波の荒い太平洋の北端。揺れも激しく、船酔いも大変だったそうです。
マナブ:でも当時は飛行機がないから、太平洋を渡ってアメリカに行くには船を使うしかなかったんですよね?
歴史先生:そうなんです。秩父宮親王ご夫妻、IOC総会で柔道の普及を目指した嘉納治五郎などのVIPも乗った記録が残っています。

曲線の手摺が美しい階段

特別一等室

一等室
マナブ:豪華客船といえばやはりお部屋を見たいです。
歴史先生:特別一等室はスイートになっていて、ステンドグラスがはまっていたり、調度品はさすがに豪華なものがあります。一等室はコンパクトに必要なものが揃っている、という感じでしょうか。

三等客室
マナブ:こちらは庶民向け、三等客室ですね。
歴史先生:2段ベッドの相部屋です。三等の乗客は一等のデッキには入れなかったんです。また食事も西洋料理とかではなくて、焼き魚などの一般的な家庭料理だったそうです。
マナブ:プライバシーはないけど、暇だからたくさん話したりしたのでは?
歴史先生:三等はその分、乗客同士が仲良くなったんだそうですよ。

一等食堂

一等社交室

一等喫煙室
マナブ:一等に乗る人の楽しみはセレブ同志の交流でしょうかね?
歴史先生:はい。ぜいたくな造りの一等食堂、そして主に女性たちが集った一等社交室、男性たちが集った一等喫煙室と、一等のデッキには社交の場がたくさん設けられていました。

表示も昔のまま
マナブ:楽しそうなシアトル航路ですが、戦争が始まってから、氷川丸はどうなったんでしょう?
歴史先生:戦争がはじまると氷川丸は「引揚船」として使われます。
マナブ:引揚船?
歴史先生:はい。海外にいる日本人を日本に連れて帰る船。逆に日本にいる外国人を母国に送り届ける役割も持ちました。そして引揚がある程度終わると、今度は「病院船」に改修されます。赤十字の印をつけて、南方戦線から3万人の傷病兵を内地へ輸送しました。
マナブ:撃沈されたりはしなかったんですね?
歴史先生:3回ほど機雷に触れて破損したことがありますが、厚い鋼板で作られていたことから沈没を免れました。

操舵室

操舵室から前方を見る
マナブ:そして終戦を迎えるわけですが。
歴史先生:終戦後は復員兵や大陸からの日本人の引揚に従事します。そして1947年(昭和22年)、ようやく元の客船に戻されました。
マナブ:また楽しい航海ができるようになった。
歴史先生:はい、でも最初は外国へ行く許可は得られず、北海道航路に就航しました。1951年(昭和26年)、ようやくGHQの許可が出て、氷川丸は外国航路に復帰します。ニューヨーク、欧州、そしてシアトルへと、世界を旅する客船として戻ってきたわけです。
マナブ:よかった。

風が気持ちいいデッキ

機関室

当時の機械がそのまま残る
歴史先生:そして1960年(昭和35年)、船体の老朽化から引退することになりました。1961年(昭和36年)、神奈川県と横浜市の招致によってここ山下公園に係留されることになり、横浜の新しい観光名所になったんです。
マナブ:それが今の姿なんですね。
歴史先生:いえ、実はその時に船内を改造し、ユースホステル、水族館、レストラン、ビアガーデンなどとして使われたんです。修学旅行生の宿泊先の定番ともなっていました。
マナブ:ん? 今とは全然違いますね。
歴史先生:2006年(平成18年)から昔の客船の姿に復元すべく工事を行って、2008年(平成20年)に再オープン。それによって昔の客船の様子を学ぶことができるようになったんです。その後、戦前に建造された客船のうち唯一現存するものとして、重要文化財に指定されることになりました。
マナブ:今の姿になったのは、わりと最近のことなんですね。でも船で重要文化財というのは珍しくないですか?
歴史先生:とても珍しいです。氷川丸の他には「帆船 日本丸」。これはあとで行きますが、桜木町の駅前に保存されていますね。
マナブ:あ、ランドマークタワーに行く途中に見える帆船ですね。何度か横を通ったことがあります。
歴史先生:もう1つは「明治丸」。1874年(明治7年)に造られた古い船で、日本で現存する唯一の鉄船です。現在は東京海洋大学の越中島キャンパスに保存されていて、不定期で公開されています。
マナブ:へぇー、それは聞いたことがありませんでした。

氷川丸の横には昔の灯台が立っている
横浜になぜ巨大な中華街ができたのか?

中華街東門

マナブ:中華街の入口にやって来ました。
歴史先生:ここは何度か来られたと思いますが、中華街の歴史について考えたことはありますか?
マナブ:いいえ。今日はどこで何を食べようか。そればっかりいつも考えてます(笑)。
歴史先生:普通はそうですよね(笑)。では今日はまずは地図を見ながら考えてみましょう。地図を見て、中華街をどう思いますか?
マナブ:まず感じるのは、とっても広いこと。先日、長崎の中華街に行きましたが、あそこに比べると何倍も広い。なぜこんなに大きな中華街がここにあるんだろう?
歴史先生:そうですよね。他に疑問に思うことは?
マナブ:それから地図を見て思うのは、横浜の市街地の中でなぜ中華街だけ45度、傾いているんだろう、という疑問です。
歴史先生:面白いですよね。まずは2つ目の疑問にお答えしましょう。
マナブ:お願いします。
歴史先生:中華街のあるこの場所、以前は「横浜新田」と呼ばれていました。吉田新田に続いてここも埋め立てがされ、その時に引いた水路、あぜ道が、今の道路の基礎になっています。
マナブ:なるほど。たしかに川から水路を引っ張ってくると、こんな感じになりそうですね。

中華街はいつも人でいっぱい
歴史先生:ということで、次は最初の疑問。なぜこんなに大きな中華街が横浜にできたのか? どうしてだと思います?
マナブ:中国からたくさんの人が来たから。でも何をしに来たんだろう?
歴史先生:そう、そこがポイントです。
マナブ:長崎の中華街で習ったことを覚えていますよ。中国の人は3つの刃物の仕事が得意。料理、散髪、それから裁縫。それらの商売のチャンスが横浜にあった?
歴史先生:でもその商売なら他の街でも需要がありそうですよね。
マナブ:そうか、うーん。わかりません。

中華料理店や占い、中国雑貨のお店が並ぶ
歴史先生:横浜が開港した後、イギリス人をはじめとする多くの西洋人がやって来ました。その中には多くの商人がいて、彼らは輸入品を日本で売ったり、日本の物を海外に輸出したりしようとしました。そこで障害になることは何でしょう?
マナブ:まず、日本人は英語がわからない。
歴史先生:そうですね。
マナブ:仮に言葉ができたとしても、西洋の商習慣と日本の商習慣は違っていて、話がかみ合わない。
歴史先生:そのとおり。
マナブ:で、それと中国人とはどういうつながりがあるんでしょう?
歴史先生:その当時、中国の広東、上海、香港といった港町は欧州の列強(中でもイギリス)とすでにいろいろな商売をしていました。それを通して彼らは英語を学び、イギリスの商習慣も理解をしていたんです。
マナブ:なるほど。
歴史先生:彼らは日本語が話せませんでしたが、それでも漢字を通して筆談ができることが強みでした。今でもそうですが、中国の人は語学の習得が速い。すぐに通訳のような役割をする人たちが現れ、横浜では中国人なしに西洋とのビジネスが進められない状態になりました。
マナブ:へぇー、それで多くの中国人が横浜へやってきた。
歴史先生:そうなんです。
マナブ:今まで失礼な誤解をしていました。中国人は貧しい生活から抜け出すために日本に夢を抱いて、料理人として横浜へ来たんだと。でも実はそうではなくて、西洋とのビジネスをおこなった経験を生かして、西洋とのビジネスを円滑に進めるための総合コンサルタントとして来日した、ということだったんですね。
歴史先生:はい、開港当時はそう言っても過言ではないと思います。


橫濱媽祖廟
マナブ:まずは橫濱媽祖廟(まそびょう)にやってきました。この「媽祖廟」というのはどういうものなんでしょう?
歴史先生:「媽祖(まそ)」を祀る廟堂ということですが、媽祖というのは宋の時代に実在した巫女さんで、海の安全の守り神として信仰されています。
マナブ:たしか香港でもみたような気がします。
歴史先生:はい。香港、台湾、マカオなど、華僑が活躍している地域で特に信仰が盛んです。日本では沖縄でいち早く信仰されていたようです。
マナブ:そうだったんですか。
歴史先生:ちなみにこの場所は元は清国領事館だったところ。橫濱媽祖廟は開国150周年を記念して2006年(平成18年)にここに建てられました。
マナブ:えっ? そんなに新しいものだとは知りませんでした。
豪華絢爛!横浜中華街のシンボル、関帝廟の歴史

関帝廟道
マナブ:では関帝廟の通りに入っていきます。
歴史先生:この通りもいつも人でいっぱいです。

関帝廟
マナブ:きらびやかな関帝廟が見えてきました。何度見てもその豪華さに驚いてしまいます。
関帝廟(地図 ❸)
〒231-0023 神奈川県横浜市中区山下町140
入場自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
http://www.yokohama-kanteibyo.com/


門の装飾も非常に細かい

門の手前の石段の左右にある龍を彫った石は中国から輸入した重さ4.5tもある雲龍石の一枚岩
マナブ:関帝廟の祭神は知っていますよ。
歴史先生:マナブさんは三国志が好きでしたよね?
マナブ:はい。その中でもやはり関羽は武勇と英知の両方に優れているだけでなく、義を重んじて人柄もすばらしい完璧なリーダー だと思います。
歴史先生:関羽は古代の武将ですが、その後仏教の守護神になり、皇帝にとっての武神にもなりました。さらに商人たちの間ではなぜか関羽を商売の神様として祀るようになり、華僑が活躍する外国の街では関帝廟が町のコミュニティの中心的な存在として造られるようになったんです。
マナブ:それでここ横浜にも建てられたんですね。

関帝廟
歴史先生:最初の関帝廟は関帝の木像を祀る小さな祠でした。1862年に出来たと言いますから、1859年の横浜開港からわずか3年のことです。1871年には華僑たちの寄付によって本格的な関帝廟が建てられました。
マナブ:ここも関東大震災で被害に遭ったんですか?
歴史先生:はい。最初の関帝廟は1923年(大正12年)の震災で倒壊。震災で横浜の街はほぼすべて焼失してしまいましたから、中国の人たちは母国へ帰ったり関西へ移り住んだりしました。しかしその後横浜の復興と共に徐々に彼らが戻ってきたときに、やはりここには関帝廟が必要だということで、1925年(大正14年)に2代目を建築。
マナブ:震災から2年で再建されたんですね。でも今度は太平洋戦争?
歴史先生:そうなんです。1945年(昭和20年)の横浜大空襲で焼失。その2年後、1947年(昭和22年)に3代目が再建されました。

屋根の端にある龍の装飾
マナブ:それが今の関帝廟。
歴史先生:いえ、3代目は1986年(昭和61年)に火災で焼失してしまいます。
マナブ:えっ、そうだったんですか。記憶にないなぁ。
歴史先生:そして1990年(平成2年)、今の関帝廟が完成します。ほとんどすべての部材を中国本土から取り寄せ、中国出身の建築士の設計、中国出身の大工職人によって建てられました。それまでは裏通りにあったものを表通りに移し、誰でも気軽に訪れることのできる寺にしたんです。
マナブ:なるほど。本格的な中国建築を見られるところは日本ではあまりないですね。長崎で見た孔子廟を思い出しました。

屋根の上の装飾が見事

横浜中華学院
マナブ:関帝廟のとなりにあるのは、学校ですか? 「横浜中華学院」と書かれていますね。
歴史先生:はい、ここはユニークな歴史のある学校です。はじまりは1898年(明治31年)に孫文が来日したときまでさかのぼります。
マナブ:孫文、というのはよく聞きますが、何をした人でしたっけ?
歴史先生:近代中国の父、とも言われている人で、1911年に辛亥革命を起こして清を倒し、中華民国を建国しました。
マナブ:その人が横浜に来ていた?
歴史先生:はい。清国の圧力を受けて孫文は日本に亡命していたんです。そこで1898年、彼は横浜に「大同学校」という学校を開いて華僑の子供たちに広東語で教育を施しました。
マナブ:それがこの学校の始まりですか。
歴史先生:その後震災、そして戦争による一時閉鎖を経て、1946年(昭和21年)に再開されます。戦後は中華人民共和国と中華民国のどちらに属すかで争いがおきましたが、学校としては中華民国を支持する形で統一し、「横浜中華学院」として認可を得ています。
マナブ:いろいろと複雑な経緯があるんですね。
歴史先生:はい。そして今も華僑や在日中国人の子弟に中国語での教育を行っているのがこの学校なんです。
ペリーが上陸し、日米和親条約が結ばれた横浜港

旧ライジングサン石油本社ビルの回転ドア

マナブ:中華街から大さん橋へと向かっています。右に古そうな回転ドアがありますね。
歴史先生:この場所は旧ライジングサン石油本社ビルだったところ。ライジングサン石油というのは1900年(明治33年)に設立された石油会社で、英国のサミュエル商会の石油部門が独立した会社です。
マナブ:サミュエル商会?
歴史先生:イギリス人のサミュエル兄弟が横浜で創業した貿易商社です。石油の輸入を主におこなっていました。
マナブ:ライジングサン石油という会社は聞いたことがないのですが。
歴史先生:太平洋戦争中に休業し、戦後1948年(昭和23年)にシェル石油と名前を変えました。
マナブ:あ、その会社ならよく知っています。
歴史先生:1985年(昭和60年)には昭和石油と合併して、今は昭和シェル石油、という名前になっていますね。
マナブ:そうですね。そうか、石油の輸入販売も横浜から、だったんですね。
歴史先生:ライジングサン石油の本社ビルは関東大震災後の1929年(昭和4年)に建てられた、当時としては日本で最も近代的なビルの1つでした。その玄関に設けられたのが、当時は極めて珍しかった回転扉。
マナブ:それがここに保存されている。
歴史先生:はい。元のビルは1990年(平成2年)に取り壊されましたが、この回転扉は保管され、2001年(平成13年)にこの場所に再び据え付けられました。

大さん橋の入口
マナブ:大さん橋の入口に来ました。
歴史先生:いよいよこのあたりが昔の横浜港です。「開港広場」という公園がありますよ。

開港広場
歴史先生:ここは港の真正面。ペリーと幕府の間で「日米和親条約」が締結された場所、でもあるんです。
マナブ:近代日本の歴史の扉を開いた、重要な出来事でしたよね。
歴史先生:ペリー一行が横浜に上陸している絵が有名ですが、あれはまさにこのあたり。
マナブ:なるほど。当時の横浜の様子を想像しながら歩くようにします。
歴史先生:ところでこのころに結ばれた条約には「日米和親条約」と「日米修好通商条約」の2つがありました。
マナブ:あ、そうか。ごっちゃになっていました。どう違うんでしたっけ?
歴史先生:日米和親条約は1854年、黒船来航(1853年)の翌年にペリーが再び戻ってきて結んだ条約でしたね。当時は捕鯨が盛んで、アメリカとしては捕鯨船の補給基地を必要としていました。またアメリカから見て、日本は中国への航路の中継地点としても地理的に必要な場所でした。
マナブ:ということは貿易の相手としてではなく?
歴史先生:そうですね。貿易相 手というよりは、船のための食料や燃料の補給基地として、あるいは船の修理や病人の救護といったような目的で日本の港を必要としていたんです。
マナブ:でも、なぜオランダやイギリスとかではなくてアメリカだったんだろう?
歴史先生:アメリカはその当時、イギリス、フランス、オランダなどに比べて東アジアの開拓で大きな後れを取っていました。それを取り返すために、鎖国の日本をいち早く開国させる戦略を取ったものと思われます。そのため日米和親条約の目玉は2つの港を開港させることでした。どこだかわかりますか?
マナブ:え? どこだろう。長崎と横浜、とか? いや、神戸かな?
歴史先生:いいえ、下田と函館(当時は箱館という字を当てた)、です。ではなぜこの2か所が選ばれたんだと 思いますか?
マナブ:うーん。そうか、長い鎖国の後で、多くの反対を押し切って開港するんだから、江戸のすぐ近くや京都大阪の近くは反対派を刺激しすぎるからだめですね。
歴史先生:そうなんです。まず下田についてですが、江戸から見ると東京湾(当時は江戸湾)の中は絶対NG。その入口から少し離れて、しかも東海道から距離の離れた伊豆半島の先の方であれば何とか国内を説得できると考えたんでしょう。
マナブ:そうか、たしかに下田なら地理的に隔離されている感じがしますね。
歴史先生:函館は江戸からみてはるかかなたの地。しかしアメリカから見ると太平洋から日本海へ続く津軽海峡の真ん中ということで、捕鯨船には便利な位置だったようです。
マナブ:で、日本の国内はそれで説得できたんですか?
歴史先生:簡単にはいかないですよね。その当時、攘夷思想は水戸藩が震源地。水戸藩のリーダー徳川斉昭(彼は一橋慶喜のお父さんですが)が幕府内で大きな影響力を持っていました。徳川斉昭は当初は「黒船などさっさと打払ってしまえ」と言っていたのですが、アメリカの軍艦の圧倒的な火力など詳細な報告を受けて、「打払うというわけにもいかんなあ」と態度を軟化させました。
マナブ:その時の老中はたしか阿部正弘。
歴史先生:はい、そのとおり。ペリーの黒船来航時、まだ34歳でした。
マナブ:若い。
歴史先生:非常に理論的で開明的な優秀な若きリーダーでしたが、何しろ抱えた問題が大きすぎました。黒船来航という未曽有の国難にあたり、彼は多くの人たちから意見を求めます。幕府の役人はもちろん、一般の町人も意見を提出することができました。中でも勝麟太郎(勝海舟)の意見書が非常に優秀で、それによって彼の才能が見いだされるきっかけにもなりました。
マナブ:それって、それまでの幕府ではなかったことですよね?
歴史先生:はい。それまでは「政治向きのことはすべて幕府の中枢がやるから、お前たちはそんなことを考えずにただひたすら奉公に励め」、という感じでしたから、「日本はこれからこうあるべき」なんて意見をみんなが言い出すなどは初めてだったんです。
マナブ :それって民主主義ではいいことのように言われますが。
歴史先生:どうでしょう。眠っていた獅子を起こしたかもしれない出来事です。ここから「攘夷だ」「開国だ」といってさまざまな人たちが主張を始め、血なまぐさい抗争につながっていきます。国内は大混乱し、幕府の統制が利かなくなり、江戸幕府の崩壊へとつながりました。
マナブ:なるほど、そういった面があるんですね。

「日米和親条約調印の地」の記念碑
歴史先生:話が長くなりましたが、続いて日米修好通商条約。
マナブ:たしかこれはペリーではなくてハリス。
歴史先生:そうです、そうです。日米和親条約に基づいて下田には領事館が置かれ、その初代の領事として来ていたのがハリス、です。
マナブ:ハリスは下田にいたんですか? 江戸と交渉するには不便ですよね?
歴史先生:はい。下田から江戸は遠いので、江戸にも施設を置かせろとハリスは何度も交渉したようでしたが、江戸幕府はかたくなに拒否したそうです。そしてついに、日米和親条約から4年後の1858年、日米の貿易を本格的に開始するという内容で条約が結ばれました。条約の批准には日本側も使節団がワシントンDCへ行って調印する必要があったので、アメリカ船と並んで咸臨丸が太平洋を越えたのもこの時です。
マナブ:そうでしたか。
歴史先生:そして今回は下田、箱館に加えて横浜、長崎、神戸、新潟も開港されました。
マナブ:一気に増えましたね。今度は横浜や神戸が含まれている。
歴史先生:そのとおりです。日米和親条約では「捕鯨船がただ補給に立ち寄るだけだから」ということで何とか国内を抑えることができましたが、今度はそうはいきません。本格的に開国して、外国と貿易をしようというのですから、その衝撃は日米和親条約の比ではなかったんです。
マナブ:そうか。えーっと、これは大老の井伊直弼がリードしたんでしたっけ?
歴史先生:その「大老」というのがポイントです。大老と老中というのは同じようで実は全然権限が違います。老中は4~5人いて合議で決めていきますが、大老は1人だけ。将軍と1:1で面談でき、自分のやりたいことを「将軍のご意思だ」ということにできますから、ほぼ独断で事を進められました。
マナブ:当時の将軍というと?
歴史先生:井伊直弼が大老になった1858年の将軍は第13代徳川家定でした。しかし家定はちょっと発達障害的なものを抱えていたのではないかと言われていて、リーダーシップを取れる状態にはありませんでした。そしてその年のうちに若くして亡くなってしまいます。
マナブ:となると次の将軍選び、になりますね。
歴史先生 :ここで大きな争いがありました。水戸藩の徳川斉昭は息子の一橋慶喜(21歳)を強力に推します。英才の誉れ高い一橋慶喜でしたが、それまで水戸藩は御三家の中でも少し違っていて、将軍を出す家としては認められていませんでした。
マナブ:一橋慶喜はまだ21歳ですか。若いですね。でも彼は第15代だから、その間に第14代の将軍がいたんですね。
歴史先生:はい。井伊直弼は次の将軍として紀州徳川家の徳川慶福(のちの家茂)を推します。そのときまだ13歳。
マナブ:えー、それはさすがに若すぎる。
歴史先生:さぁ、次の将軍は人物か、それとも家柄か。究極の選択になりました。結局井伊直弼が大老の権限を最大限に発揮して、徳川慶福を第14代将軍にしてしまいます。
マナブ:新しい将軍が13歳だから、もう井伊直弼はやりたい放題になりますね。
歴史先生:そのとおりです。彼は徳川斉昭や一橋慶喜を推したメンバーを追放し、日米修好通商条約の締結に邁進します。
マナブ:それだけ強力なリーダーシップがないと進められない案件だったんですね。
歴史先生:はい。当然反対派が騒ぎ、テロの危険性も出てきましたので、井伊直弼は安政の大獄で彼らを投獄します。その2年後の1860年、とうとう水戸藩士たちが桜田門外で襲撃して井伊直弼は暗殺されるわけですが。
マナブ:なるほど。
歴史先生:ということで、横浜は日米和親条約が結ばれたペリーゆかりの地であると同時に、その後の日米修好通商条約の開港地の1つになり、江戸に近いという利点を生かして外国とのビジネスが最も活発になった場所だったんです。
横浜開港資料館の庭にあった歴史の目撃者

開港広場の隣にある横浜開港資料館
横浜開港資料館(地図 ❹)
〒231-0021 神奈川県横浜市中区日本大通3
入館料200円(団体、シニア、中学生以下割引あり)
9:30~17:00(最終入場16:30)、月曜休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
http://www.kaikou.city.yokohama.jp/index.htm

歴史先生:開港広場の隣には「横浜開港資料館」がありますので、行ってみましょう。
マナブ:ぜひぜひ。

中庭が美しい
マナブ:素敵な中庭のある建物ですね。
歴史先生:ここは元々は英国総領事館の建物です。1931年(昭和6年)に建てられた鉄筋コンクリート造の3階建て。1972年(昭和47年)までは英国総領事館として使われていましたが、その後横浜市が購入しました。
マナブ:資料館の内容だけでなく、建物自体も見ごたえがありますね。中庭の大きな木も涼しげな木陰を作っていて、いい感じですね。
歴史先生:あの「たまくすの木」は日米和親条約が結ばれた時からここにあったという記録があるようですよ。ペリーの上陸もこの木は見ていたのかもしれません。
マナブ:歴史の証人、だ。

1階展示室
歴史先生:1階には開港の歴史パネルや黒船の模型、各種史料が展示されています。横浜は震災そして空襲によって、その歴史的資料の多くが失われました。ここではそれらの資料を国内外から収集して、横浜の開港の歴史を整理・公開しています。

2階は古写真が展示されている
歴史先生:2階には多くの古写真が展示されています。横浜の震災前、空襲前の姿を見ておきましょう。
マナブ:1,2階一部屋ずつで、それほど広くない資料館ですが、それぞれの展示物には見ごたえがありました。

外人墓地資料館の古地図
歴史先生:さて、また明治の古地図を思い出してください。横浜港はどこにありましたか?
マナブ:ちょうど開港資料館や開港広場の目の前、ですね。
歴史先生:今の大さん橋になっているところには、くるんと曲線を描いた防波堤がありました。この防波堤、今でも見ることができます。
マナブ:行ってみましょう。

象の鼻
歴史先生:今は「象の鼻」と呼ばれているのが、その当時からある防波堤です。
マナブ:あ、ここですか。たしかに地図通りの防波堤があります。この内側が当時の 港だったんですね。

象の鼻パークからは大さん橋に停泊している船が良く見える
歴史先生:今日も豪華客船が入港していますね。
マナブ:あ、ダイヤモンド・プリンセスって書いてある。コロナの時に最初に大騒ぎになった船だ。
歴史先生:そうでしたね。
マナブ:この船もこれからの日本史に名を残すかもしれない。でもこんなに大きくて立派な船だったんだ。いいなぁ、一度乗ってみたい。
歴史先生:横浜発のクルーズもいくつか出ているようですよ。
マナブ:いいですね。今度、考えてみよう。
横浜三塔 King、Queen、Jackは誰が名付けた?

神奈川県庁(King)(国指定重要文化財)

歴史先生:さて、このあたりで横浜らしい建物と言えば、「横浜三塔」があります。
マナブ:King、Queen、Jack、ですよね?
歴史先生:はい、そうです。まずはKingの神奈川県庁(地図 ❺)。1928年(昭和3年)竣工で、帝冠様式のものです。
マナブ:帝冠様式?
歴史先生:はい。基本構造は鉄筋コンクリート造の西洋建築ですが、屋上に和風の塔や和風の屋根を乗せた、和洋折衷の様式です。特に昭和の初め頃にたくさん作られ、国威発揚にも一役買ったと言われています。

横浜税関(Queen)
マナブ:次は港に一番近い横浜税関(地図 ❼)。これがQueen、ですね。
歴史先生:はい。こちらは1934年(昭和9年)竣工。中東風のエキゾチックなドームがついた塔が印象的です。

開港記念会館 (Jack)(国指定重要文化財)
マナブ:そしてこちらがJack。開港記念会館(地図 ❻)です。
歴史先生:はい。こちらは1917年(大正6年)と、他の2つより少し古め。
マナブ:今は開港記念会館となっていますが、元々、何の建物ですか?
歴史先生:これは1917年に開港50周年を記念して主に市民の寄付で建てられた、市民のための公会堂です。建築当初から開港記念会館なんですよ。
マナブ:すごいな、横浜。大正時代にこんな立派な市民ホールを建てるなんて、進んでいますね。あれ、関東大震災は1923年だから、Jackが建てられたのは震災前ですか? 震災で倒壊しなかったんでしょうか?
歴史先生:頑丈な造りであったため、建物自体は倒壊を免れました。しかし内部は火災で焼失。当初あったドーム型の屋根も焼けてしまいました。しばらくは廃墟としてそのまま放置されていましたが、1927年(昭和2年)にようやく復旧。建築当初よりは簡素な内装で復元されました。
マナブ:そうだったんですか。震災の被害、横浜では本当に大きかったんですね。それにしても、King、Queen、Jackという愛称はぴったりですね。
歴史先生:昭和の初めごろに、外国の船員たちが船から見える景色をトランプのカードに例えてこう呼んだというのが由来なんだそうです。
マナブ:KingとJackは国指定重要文化財になっているんですね。少しだけ新しいQueenもぜひ指定されるようになってほしい。貴重な文化財としてこれからもずっと大切にしていきたいものです。

