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三重県_1.jpg
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
内宮(皇大神宮)をお参りしよう
 
20年に一度の式年遷宮はなぜ行われるのか?
 
珍しい足の神様「足神さん」
 
300年を超える「赤福」の歴史
 
おはらい町が今のように人気となったのには理由があった
 
伊勢神宮と奈良の大仏の知られざる関係
 
伊勢神宮のピンチを救ったのは「慶光院」というお寺だった
 
「猿田彦神社」が内宮のすぐそばにあるのは偶然か?
 
別宮を訪ねて(月読宮、倭姫宮)
 
<おすすめレストラン>
松阪まるよし

 

内宮(皇大神宮)をお参りしよう

 

宇治橋

 

 

 

マナブ:宇治橋の手前の鳥居の所へ来ました。宇治橋を渡って内宮へと入っていきます。

 

歴史先生:全長約100mの美しいヒノキ造りの橋。この橋も式年遷宮で20年ごとに架け替えられるので、いつも新しい感じがしています。

 

宇治橋

 

宇治橋から見る五十鈴川

 

内宮(皇大神宮)(地図 ❷)

〒516-0023 三重県伊勢市宇治館町1

5:00~18:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.isejingu.or.jp/about/naiku/ 


 

マナブ:宇治橋をすぎて右折すると、神苑です。とってもきれいに整備されていて、松の木もよく手入れされています。

 

神苑

 

御手洗(みたらし)場

 

歴史先生:神苑を抜けた先には御手洗(みたらし)場があります。ここは倭姫命が裾を注いだ場所と言われています。

 

マナブ:「お手洗い」と書いて「みたらし」と読むんですか? さっき「みたらし団子」を売っていましたが、ひょっとしてここが発祥の地?

 

歴史先生:いいえ、みたらし団子の発祥の地は京都の下鴨神社と言われています。そこの境内にある御手洗池から名付けられました。

 

五十鈴川

 

歴史先生:ここでは五十鈴川まで下りて、手をすすぐことができます。

 

マナブ:おぉ、水が冷たい。ここは急に流れが速くなっていて、気持ちのいいところですね。

 

瀧祭神

 

歴史先生:御手洗場のすぐそばには「瀧祭神」があります。

 

マナブ:他の神社とは形が違いますね。

 

歴史先生:ここは社殿はなく、地面の石に直接祀られているという原始的な形態をとっています。

 

風日祈宮へ続く橋

 

 

橋の上から見た島路川

 

歴史先生:では、少し参道をはずれて「風日祈宮(かざひのみのみや)」へ行きましょう。内宮の境内ではこの風日祈宮と荒祭宮の2つが別宮です。

 

マナブ:ここは風と日だから天候に関係あるのかな?

 

歴史先生:外宮に「風宮」がありましたね。それと同様、元寇で神風を吹かせて日本を救った神様が祀られています。奈良時代から続く風日祈祭も毎年2回、行われています。

 

マナブ:なるほど。

 

歴史先生:ところで、島路川を渡ったこの場所は境内から少し外れた場所になりますね。江戸時代までは一般的に仏教の僧侶は内宮をお参りできませんでした。そこで少し外れたこの場所に遥拝所を設け、「ここから正宮を遠くに拝んでください」という場所だったんです。

 

マナブ:仏教と神道って、仲がいいのか悪いのか、何とも言えませんね。

 

風日祈宮

 

歴史先生:さぁ、参道に戻って、いよいよ正宮です。

 

マナブ:ここはよく写真で見ますね。

 

歴史先生:写真を撮ってもいいのはこの石段の下まで。ここより先は写真撮影ができません。

 

正宮

 

マナブ:あぁ、ここが日本で一番の神社なんだと思いながら参拝すると、格別の想いがありますね。拝殿の横の方から御正殿がちらりと見えました。外宮とは違って、外からは一切見えません。

 

 

御稲御倉(手前左)と外幣殿(奥)

 

歴史先生:正宮から荒祭宮(あらまつりのみや)へと続く道沿いに、御稲御倉(みしねのみくら)があります。伊勢神宮直轄の田んぼである神田で採れた稲をここに納めます。そのとなりにある外幣殿(げへいでん)は、天皇以外の人から納められた品々を保管する建物です。

 

荒祭宮

 

マナブ:階段を下って、再び登ったところに荒祭宮がありました。

 

歴史先生:ここは天照大神の荒御魂(あらみたま)を祀る別宮です。

 

マナブ:外宮にも多賀宮というのがありましたが、あれと同じですね。

 

歴史先生:はい、そうです。とてもパワーがある神社で、大切に祀られています。

 

荒祭宮は別宮の中でも特に大切にされてきた


20年に一度の式年遷宮はなぜ行われるのか?

 

式年遷宮のため2倍の敷地が常に隣に確保されている(写真は風日祈宮)

 

マナブ:式年遷宮という話が何度かありましたが、次回はいつなんでしょう?

 

歴史先生:次は2033年です。

 

マナブ:木材を切り出して、建物を建て替えて、いろんな儀式を行って・・・相当な費用が掛かりそうですね。

 

歴史先生:前回2013年の時は550億円かかったそうです。人件費や資材の高騰から次回はもっとかかりそうです。

 

マナブ:550億円とはすごい。そんな費用、どこから出てくるんでしょう?

 

歴史先生:伊勢神宮がほとんどを負担し、参拝者からの寄付も1/3くらいあるそうです。

 

マナブ:でも伊勢神宮って入場無料ですよね? どこでそんなお金を稼げるんだろう?

 

歴史先生:全国の神社で配布されるお札や、普段からの寄付金で成り立っています。

 

マナブ:そこまでお金をかけて、何のためにやるんでしょう?

 

歴史先生:いくつか理由があると言われています。まずは「常若(とこわか)」の思想。これは20年に一度、社殿や神宝、装束などを新調して、常に若々しい神社であり続けることによってその神威を維持しようとする考え方です。

 

マナブ:なるほど、常に20歳以下。それは若々しい。

 

歴史先生:次に言われているのが技術の継承。神明造りの社殿建築から、工芸品の製作など、伝統的な技術を継承できるよう、20年に一度実際に作ってみるものです。

 

マナブ:なるほどねぇ。

 

歴史先生:そのようにして、持統天皇以来、1,300年以上も続いています。

 

マナブ:その間、ずっと続いていたんでしょうか?

 

歴史先生:実は室町時代の15世紀半ば、応仁の乱などの世の中の乱れから費用を集めることができず、129年間にわたって中断されました。その後、織田信長、豊臣秀吉の寄進によって再開されました。

 

マナブ:太平洋戦争ではどうだったんでしょう?

 

歴史先生:1945年(昭和20年)がその年だったんです。

 

マナブ:ちょうど最悪の年だ。

 

歴史先生:さすがにこの年は中止に。1953年(昭和28年)にようやく行うことができました。そこから20年ごとに行われています。

 

珍しい足の神様「足神さん」

 

宇治神社に登る石段(右ののぼりには有森さん、野口さんといった陸上アスリートの名前も見える)

 

 

宇治神社(足神さん)

〒516-0024 三重県伊勢市宇治今在家町172

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://ujijinja.com/ 


歴史先生:宇治橋の前には広い駐車場がありますが、その奥にある「宇治神社」に行きましょう。

 

マナブ:何があるんでしょう?

 

歴史先生:ここは別名「足神さん」と呼ばれていて、足のけがや病気の平癒を祈って参拝する人が多いようです。

 

マナブ:ちょうど私も捻挫からの回復途中(笑)。ぜひ行きましょう。

 

絵馬ではなく草鞋(わらじ)に願い事を書いて奉納する

 

社殿

 

マナブ:ここはどうして足の神様になったんですか?

 

歴史先生:ここの地域は昔から「宇治」と呼ばれていて、宇治神社はこの土地の守り神でした。さて、江戸時代の中頃、近くの茶屋の亭主が足を悪くした老いたキツネを介抱し、治療に務めましたがその甲斐なくキツネは死んでしまいました。亭主はキツネをここに手厚く祀ったそうです。その話から足の疲労平癒に効くという話が広がって、いつしか「足神さん」と呼ばれるようになりました。

 

マナブ:さっきの石段のところにはアスリートの名前もありましたね。

 

歴史先生:伊勢市出身でマラソン選手の野口みずきさんがアテネ五輪の前にここで参拝し、金メダルを取ったんだそうですよ。

 

マナブ:たしかに野口さんの名前もありました。宇治橋からすぐなのに、あまり知られていない場所ですね。いいところをお参りできました。

 

300年を超える「赤福」の歴史

 

赤福本店

 


 

赤福本店

〒516-0025 三重県伊勢市宇治中之切町26

5:00~17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.akafuku.co.jp/store/2992/ 


マナブ:宇治橋から北へ、「おはらい町」を歩いています。人も多くて、とっても賑わっていますね。

 

歴史先生:ここには伊勢の名物がいっぱい。ランチも行列ができています。伊勢と言えば伊勢うどん、てこね寿司、それから松阪牛。

 

伊勢うどんのお店

 

松阪牛のお店

 

マナブ:その中でも一番賑わっているのが赤福。ここが本店、なんですね。

 

赤福本店の内部

 

座敷の端に腰かけて赤福とお茶をいただける

 

マナブ:これ、いいですねぇ。やっぱりおいしい。

 

歴史先生:本店では店内で職人さんが手作りしているんだそうです。

 

マナブ:伊勢といえば赤福。定番のお土産ですが、いつ頃からあるものなんでしょう?

 

歴史先生:赤福の歴史は古く、江戸時代の前期、1707年の創業ですから、もう300年以上も昔の話ですね。「赤心慶福」、すなわち赤ちゃんのような純粋な気持ちで人の幸福を喜ぶ、という言葉から来ているそうです。

 

マナブ:伊勢神宮へ参拝するときの気持ちとぴったりの名前ですね。

 

歴史先生:でも当初は今とは味が違っていて、最初は白あんだったそうです。その後黒砂糖のあんに変わりました。

 

マナブ:今は黒砂糖ではない、ですよね?

 

歴史先生:はい。1911年(明治44年)に昭憲皇太后(明治天皇の奥さん)が参拝された際に、そのお口に合うよう、当時高価だった白砂糖を使いました。皇太后さまはそれを大変気に入られ、それから今の味になったのだとか。

 

赤福

 

マナブ:形も独特ですね。

 

歴史先生:3本の流れるような線が特徴的ですが、五十鈴川の清流をかたどったものなんだそうです。この形は創業以来、変わっていません。

 

おはらい町が今のように人気となったのには理由があった

 

おはらい町

 


 

マナブ:今日は平日なのでそうでもなさそうですが、休日や旅行シーズンになると、おはらい町は人であふれかえるそうですね。

 

歴史先生:江戸時代は外宮が賑わって内宮が閑散としていたという話を前にしましたが、今ではその反対。内宮とおはらい町が大変な賑わいになっています。

 

マナブ:なぜそんなことが起きたんでしょう?

 

歴史先生:江戸時代には年間数百万人が訪れる日本一の観光地だった伊勢神宮。しかし明治・大正・昭和と時代が移り変わり、他の観光地が開発されるにつれて相対的に伊勢神宮の地位が下がりました。

 

マナブ:それはそうでしょうね。

 

歴史先生:そして昭和50年代には参拝者は年間20万人台にまで落ち込みました。しかもその多くは車で来訪されますから、宇治橋近くの駐車場に停めて、内宮をお参りして、そのまま帰る。そんな行動パターンでしたから、ここおはらい町は閑散としていたんです。

 

マナブ:20万人? 今はどれくらいですか?

 

歴史先生:今は年間500万人がここを訪れます。

 

マナブ:うわ、25倍。どうしてそんな急回復が起きたんでしょう?

 

歴史先生:閑散としたおはらい町を見て、危機感を募らせたのが赤福の10代目、濱田益嗣さん。江戸の賑わいを取り戻したいという想いから、思い切った投資をおこないます。付近の用地4,000坪を買収し、江戸時代の街並みを再現。電柱を地中化し、石畳を整備。景観に合わない自社ビルは取り壊しました。これが今の「おかげ横丁」です。

 

おかげ横丁

 

マナブ:1つの企業がそこまでの再開発をしたなんて、すごい。

 

歴史先生:おかげ横丁は1993年にオープン。伊勢神宮に参拝すれば江戸情緒が楽しめるとして話題になり、一躍人気観光地になったんです。

 

マナブ:伊勢神宮にお参りしたら、駐車場との往復だけでなく、せっかくならおかげ横丁にも足を延ばしたくなりますね。

 

歴史先生:今ではおかげ横丁、そしておはらい町に次々と人気店が誕生。テレビ等の取材も多く、話題の発信基地としてさらに発展を続けています。

 

マナブ:おかげ横丁を作るのにいくらくらい、かかったんだろう?

 

歴史先生:約140億円と言われています。

 

マナブ:そうか、たしかにすごい金額ですね。でも式年遷宮のコスト(=前回は約550億円)の約1/4にすぎないんだ。もしも式年遷宮をやめて、そのコストをさらなる街づくりにかけたらどんな街ができるんだろう、なんて考えてしまいます。

 

歴史先生:式年遷宮って、それだけの莫大なコストがかかるのに、それを1,300年前から続けているなんて、すごいことだと思いません?

 

マナブ:そうですよね。それだけ大切な意味があること、と昔から人々が強く思ってきたからこそ、今でも続いているんですね。

 

伊勢神宮と奈良の大仏の知られざる関係

 

東大寺の大仏(奈良市)は顔の部分に金メッキが施されていた

 

歴史先生:さて、奈良の東大寺の大仏と、伊勢神宮との間には不思議なご縁がありそうなのですが、何だか想像できますか?

 

マナブ:うーん、何だろう? 場所も結構離れているし、できた時代も違うし、もちろん宗教も違う。

 

歴史先生:はい。聖武天皇が大仏建立を宣言したのが奈良時代の743年です。そのころ伊勢神宮はすでに現在の位置にありました。ところが不思議なことに、聖武天皇は当時の高僧であった行基に一片の仏舎利を与えて、「伊勢神宮に奉納せよ」と命じます。

 

マナブ:仏舎利というと、お釈迦様の骨、ですよね? それを伊勢神宮に奉納する? 仏教では大切な宝物ですが、神社からすると奉納された方も迷惑というか、何というか。

 

歴史先生:ですよね。でも鎌倉時代に書かれた史書「元亨釈書(げんこうしゃくしょ)」によると、行基が伊勢神宮の神前で祈っていると7日目の夜になって、天照大神の大声が聞こえたそうです。

 

マナブ:何と言っていたんでしょう?

 

歴史先生:「これ以上ない大願に接して渡りに船を得た気持である」とたいそう喜ばれたそうです。

 

マナブ:ん? 何で?

 

歴史先生:ですよね。で、その後無事、東大寺の大仏は完成するわけです。さて時は下って平安時代。1180年のこと、平家の平重衡(しげひら)によって東大寺は焼き討ちされ、大仏は焼けて大変な損傷を受けます。源平合戦の後、源頼朝の命によって東大寺再建を任されたのが重源(ちょうげん)というお坊さん。

 

マナブ:まさか、また伊勢神宮へ行けと言われた?

 

歴史先生:はい。重源は何と700人ものスタッフを引き連れて、伊勢神宮を訪ねます。

 

マナブ:何のために? お金を出してもらうため?

 

歴史先生:いえ、どうやら目的はお金ではなかったようです。

 

マナブ:では何でしょう?

 

歴史先生:伊勢神宮の西に「丹生(にゅう)」という場所があります。丹生(にゅう)という地名は「丹(に)」すなわち水銀を生産するところ、の意味です。三重県や奈良県の山中にいくつかこの地名が現在でも見受けられます。

 

マナブ:ふむふむ。

 

歴史先生:大仏を作るには金メッキが必要になりますが、そのためには大量の水銀が必要になるんです。水銀アマルガム法というらしいのですが、水銀と金を混ぜて溶かしたものを青銅仏の表面に塗って、それを高温にさらすと水銀だけが蒸発して、金の薄い膜だけが残る。これが金メッキです。

 

マナブ:ということは行基や重源が伊勢神宮に来たのは、「おたくの水銀を売ってください」という交渉をしに来たということ?

 

歴史先生:推測の域を出ませんが、恐らくそう言うことではないかと思います。

 

マナブ:そうか、伊勢神宮からお金を出させるんではなくて、逆にお金を払いに来た。もし伊勢神宮が経済的に困っていたとしたら、それは「渡りに船」と喜んだでしょうね。

 

伊勢神宮のピンチを救ったのは「慶光院」というお寺だった

 

おはらい町の通りにある旧慶光院(国指定重要文化財)

 

 

歴史先生:さて、式年遷宮の話の中で、室町時代に129年間中断したという話がありました。ではそれがどうやって復活したのか、というお話をしましょう。

 

マナブ:はい。

 

歴史先生:当初、伊勢神宮には神宮領という領地が与えられていて、そこから治められる租税が神宮の収入になっていました。式年遷宮の費用はここから賄われ、もし足りない場合は朝廷が補填していたんです。

 

マナブ:労力の方はどうでしょう?

 

歴史先生:神宮領は伊勢・尾張・美濃・三河・遠江にまで広がっていて、そこの国司が人夫を引き連れてやってきます。

 

マナブ:それがうまく機能していた?

 

歴史先生:平安時代の中頃まではうまく機能していたようなのですが、公地公民の原則が崩れて荘園が増えて来るに従い、それも難しくなりました。そこで「役夫工米(やくぶくまい)」という制度がスタートし、全国の国司に負担を割り当てて、そこから租税を徴収したんです。

 

マナブ:現代でいえば、東日本大震災の復興費用を捻出するために所得税に上乗せして特別徴収しているようなイメージかな?

 

歴史先生:そうかもしれませんね。この制度によって、税逃れをしていた荘園からもしっかりと式年遷宮の費用を徴収できるようになりました。

 

マナブ:しかし室町時代になるとそれもうまくいかなくなった?

 

歴史先生:はい。徴税は鎌倉幕府、室町幕府と継続して行われていましたが、室町時代中頃になると幕府の力が急激に弱まり、地方はその言うことを聞かなくなります。伊勢神宮としては国から与えられる収入が減っただけでなく、神宮領が戦国大名たちに占領されて自前での収入も激減しました。

 

マナブ:困りましたね。

 

歴史先生:そこで伊勢神宮は明との貿易に手を出すのですが、それも明の政情不安からうまくいかず、八方ふさがりになりました。それでも1462年の式年遷宮はなんとか実行できましたが、1467年には応仁の乱が勃発。幕府からの支援は無くなり、それ以来、式年遷宮は長い中断に入ります。

 

旧慶光院は現在「神宮祭主職舎」として使われている

 

歴史先生:さて、おはらい町を歩いていると、どっしりした重厚なお寺のような建物があります。知らずに歩いていると見逃してしまいそうですが、ここはかつて慶光院と呼ばれたお寺でした。

 

マナブ:立派な建物です。そして古そう。

 

歴史先生:かつては豊臣秀吉が建てた桃山様式の華麗な寺院だったようですが、現在の建物は江戸時代前期のもの。国指定重要文化財になっています。

 

マナブ:今はお寺ではないんですか?

 

歴史先生:1869年(明治2年)に廃止され、今では伊勢神宮の祭主(=祭祀の最高責任者)の宿舎となっています。

 

マナブ:このお寺と式年遷宮はどう関係するんでしょう?

 

歴史先生:室町時代の中頃に宇治橋が流され、参拝する人たちは大変困っていました。戦乱でその再建はままらななかった時、慶光院の守悦(しゅえつ)という院主が全国を回って浄財を集め、ついに1505年に宇治橋をかけ直しました。

 

マナブ:お寺が神社を救った。

 

歴史先生:それだけではありません。守悦の跡を継いだ尼僧の清順(せいじゅん)。この人が伊勢神宮を救った人として有名になるのですが、彼女は朝廷から直々に「国家安全のために祈祷せよ」という指示を受けます。すなわち朝廷お墨付きのお坊さんになりました。彼女はその肩書を使って、朝廷に「朝廷の名の下で慶光院が全国から費用を集める」提案をおこない、その実施許可を得ます。

 

マナブ:1500年代といえば戦国時代。室町幕府は応仁の乱でボロボロになっていて、ましてや朝廷なんて権力も財力もどん底の状態ですよね。もはやダメ元で清順の提案に乗るしかなかった?

 

歴史先生:そうですね。朝廷は伊勢の国司である北畠具教(とものり)に「清順に協力せよ」と命令します。

 

マナブ:北畠氏というと、太平記で活躍した北畠顕家を想像しますが、その流れ?

 

歴史先生:はい、北畠氏は南北朝合一の後、伊勢の国司となります。北畠具教はその子孫です。

 

マナブ:で、清順の活動はうまく行ったんでしょうか?

 

歴史先生:はい、清順は何とか費用を集め、1563年に外宮の式年遷宮を成し遂げ、その3年後に亡くなります。

 

マナブ:相当な苦労があったんでしょうね。

 

歴史先生:その活動は周養(しゅうよう)によって継続され、その頃伊勢に勢力を伸ばしていた信長、そしてその跡を継いだ秀吉からも大きな寄進を得ることができました。それにより、1585年には129年ぶりに内宮の式年遷宮が行われました。この年、外宮の式年遷宮も行われ、これ以降両者の式年遷宮が同じ年に行われるようになりました。

 

マナブ:それまでは違ったんですか?

 

歴史先生:それまでは内宮が先で、外宮はその2年後だったんです。

 

マナブ:それまでは差があったのに、外宮の地位がそれで上がったのかも。

 

シャチホコの「ひげ」がまるで伊勢エビみたい

 

歴史先生:この功績により、慶光院は朝廷から格式高い寺として認められるようになります。しかし神道の関係者からすれば、伊勢神宮の目の前にある仏教の寺に式年遷宮のお金を出してもらっているというのはどうにも気持ちがよくありません。そこで江戸時代前期の1666年、伊勢神宮が正式に幕府に訴えて、「慶光院は今後一切式年遷宮に関わらない」ということを決めさせました。

 

マナブ:うーん、慶光院のおかげでまた式年遷宮ができるようになったのに、その恩を忘れて訴えるなんて少し違和感を感じますが?

 

歴史先生:そう思われますよね。でも大事なのはその訴えを徳川幕府が認めた、という事実です。その後、本来は朝廷が出すべき式年遷宮の費用を徳川幕府が担うようになり、「徳川幕府こそが日本の統治者である」ことを伊勢神宮を通して全国民に示す結果になりました。その状況を作り出すには、伊勢神宮からの訴えは徳川幕府のとって歓迎すべきものだったのではないでしょうか。

 

マナブ:そうか。だとすると徳川幕府側から裏で何らかの働きかけがあったかも? 政治というのはそういう見方をしないといけないんですね。勉強になります。

 

「猿田彦神社」が内宮のすぐそばにあるのは偶然か?

 

猿田彦神社の隣にはTimesの広い駐車場があり、最初の30分は無料なので、短時間の参拝には便利。

 

 

猿田彦神社(地図 ❸)

〒516-0026 三重県伊勢市宇治浦田2丁目1−10

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.sarutahikojinja.or.jp/


マナブ:さて、次に内宮からおはらい町を抜けたあたりにある、猿田彦神社へやってきました。

 

歴史先生:猿田彦はご存じですか?

 

マナブ:たしか、誰かを道案内した神様・・・。

 

歴史先生:はい。天孫降臨の時に、ニニギノミコトを高千穂まで無事に道案内したのが猿田彦です。そのため、「みちひらき」の神様として、良い方向へ導いてくださる、と参拝者が後を絶ちません。

 

マナブ:今ではコーヒーのチェーンとしてのほうが有名かも(笑)?

 

歴史先生:そうですね(笑)。そして猿田彦の奥さんが芸能の神様、アマノウズメ(天宇受売命)。天照大神の指示によって、地上に降りて猿田彦を故郷まで送り届け、その後2人は結婚しました。

 

マナブ:あ、それは天照大神が天の岩戸に隠れたときに、裸踊りをしたダンサー。

 

歴史先生:はい、そうです(笑)。さて、ニニギノミコトを無事に高天原へ送り届けた後、猿田彦はアマノウズメと共に、自分の故郷である伊勢に戻ります。それがこの場所です。

 

猿田彦神社


マナブ:でも待ってください。ここが猿田彦の故郷だとしたら、それって天照大神が「ここがいい」と気に入った内宮の場所とあまりにも近すぎませんか? これって偶然でしょうか?


歴史先生:いえ、どうやら偶然ではなさそうです。「倭姫命世記」(度会氏による伊勢神道の根本経典の1つ)によると、倭姫命が場所を探して巡行されている時に、猿田彦の子孫である大田命という人が五十鈴川の一帯の土地を献上して、鎮座をお勧めしたようです。


マナブ:だとしたら、やっぱり天照大神の神託でここの場所が決まったのではないかも?


歴史先生:そうかもしれません。猿田彦神社も非常に古く、いつ創建されたのかわかりません。そしてその大田命の子孫である宇治土公(うじのつちぎみ)の家系は代々この猿田彦神社の宮司をされているそうです。


拝殿


方位石


歴史先生:拝殿の前には「方位石」が置かれています。ここは1936年(昭和11年)まで御神座があった場所として、今でも大切にされています。


マナブ:方位が書かれているのは、「正しい方向へ導く」という意味でしょうね。


別宮を訪ねて(月読宮・倭姫宮)

 

月読宮の駐車場

 


 

月読宮(地図 ❺)

〒516-0028 三重県伊勢市中村町742−1

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.isejingu.or.jp/about/outerbetsugu/#tsukiyomi 


マナブ:猿田彦神社から国道23号線を北へ2分ほど。月読宮(つきよみのみや)へ来ました。国道沿いに整備された駐車場があります。

 

歴史先生:ここは壮観ですよ。中へ入って見ましょう。

 

月読宮の入口

 

マナブ:わぁ、これは何ですか。お宮が4つ、並んでいます。

 

歴史先生:はい。ここには4つの別宮が並んで建てられているんです。右から2番目が月読宮。一番右がその荒御魂を祀る月読荒御魂宮、です。

 

中央:月読宮、右:月読荒御魂宮

 

歴史先生:そして右から3番目が伊邪奈岐(イザナギ)の宮、一番左が伊邪奈彌(イザナミ)の宮。

 

左:伊邪奈彌宮、右:伊邪奈岐宮

 

マナブ:えーっと、イザナギ、イザナミは天照大神のご両親ですよね。そして外宮の月夜見宮に行ったときに聞いた話では、ツキヨミというのは天照大神の弟だという話でした。ということは、ここには天照大神の弟と両親が祀られているということですね。

 

歴史先生:はい、そのとおりです。ここは一度に4つの別宮にお参りできるという、特別な場所なんです。

 

 

倭姫宮(地図 ❻)

〒516-0014 三重県伊勢市楠部町5

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.isejingu.or.jp/about/outerbetsugu/#yamatohime 


倭姫宮の脇にある駐車場

 

マナブ:次の別宮、倭姫宮(やまとひめのみや)に来ました。境内の東の入口の鳥居のそばに4台ほど車を停めるスペースがあります。

 

歴史先生:天照大神を連れてその鎮座地を探した倭姫命。彼女は場所を探しただけではなく、神嘗祭をはじめとする年中行事、禰宜(ねぎ)をはじめとする奉仕者の職掌、斎戒などの方法など、現代の神道儀式の基本を定めました。

 

マナブ:神道にとっては開祖、みたいな人ですね。

 

歴史先生:はい。それだけの功績を残した倭姫命ですが、それをお祀りする社がありませんでした。そこで大正時代になって、倭姫命を祀る別宮の造営機運が高まり、1923年(大正12年)にようやくできたのが倭姫宮です。

 

マナブ:ということは、他の別宮に比べて飛びぬけて新しい。

 

歴史先生:そうなりますね。

 

倭姫宮

 

式年遷宮での建て替えに備えて2倍の敷地が確保されている

 

歴史先生:さて、倭姫宮の周囲には3つの博物館が整備されています。まずは神宮徴古館。

 

マナブ:とても立派な建物ですね。

 

神宮徴古館

 

歴史先生:これは建築家の片山東熊の作品。

 

マナブ:名前を聞いたことがあります。

 

歴史先生:赤坂離宮(迎賓館)を建てた建築家としても有名ですね。この中には伊勢神宮に関する多数の展示がされていて、中でも前回の式年遷宮で取り下げられた御饌殿(みけでん)の正面部分が移設展示されているのは感動的です。

 

マナブ:それは外宮の中にあって、毎日神様へのお食事が供えられる場所、でしたよね。

 

歴史先生:そうです、そうです。普段は絶対に見ることができない建物を身近に見ることができます。

 

神宮美術館

 

神宮農業館

 

歴史先生:そのほかにも、伊勢神宮に奉納された美術品が集められている「神宮美術館」や、伊勢神宮と農業との関係を展示した「神宮農業館」がありますので、合わせて見ていきましょう。

 

<おすすめレストラン>

松阪まるよし(伊勢おはらい町店)

 

内宮前で松阪牛を堪能するならここ。

 


松阪市が本店の「まるよし」は1945年(昭和20年)の創業。おはらい町店では1階で松阪牛の加工品のお土産を販売し、2階はレストランになっている。


松阪牛のステーキ、ひつまぶし、ハンバーグなど魅力的なメニューが並ぶが、伝統的に松阪牛の一番おいしい食べ方と言われている「牛鍋」をここでは注文したい。


松阪まるよし 伊勢おはらい町店

〒516-0024 三重県伊勢市宇治今在家町26

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://matsusakaushi.com/ 


実際に行ってみた


・平日の開店時間と同時に入店。おはらい町の通りを見下ろす窓側の席になった。お昼時には行列ができる店なので、早めの入店をお勧めしたい。



「松阪牛 牛鍋御膳」をオーダー。肉の量によって値段が異なるが、写真は100gのもの。



・牛鍋のおいしさは文句なしに格別。松阪牛はなぜおいしいのか? 有名ブランドだから美味しく感じるというだけでなく、それには科学的な根拠があるらしい。よく「脂(あぶら)が甘い、とろけるようだ」というが、これは脂肪が溶けたときのもの。松阪牛の脂肪の融点は17.4度ほどで、他の和牛の25.9度に比べて低い。このことが独特の脂の甘さと香りを生んでいるそうだ。

・観光客でにぎわうおはらい町の喧騒の中、落ち着いた席でゆっくりと、本物の松阪牛のうまさを堪能するにはベストな選択ではないだろうか。ぜひお勧めしたい。


​歴史好きのための観光ガイド
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