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三重県_1.jpg
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
伊勢神宮と中央構造線の不思議な関係
 
「宇治山田駅」と「伊勢市駅」
 
二見浦の「夫婦岩」は何のためのもの?
 
伊勢の人々が一年中「注連縄(しめなわ)」をかけているのはなぜ?
 
「斎宮」そして「斎王」とは何か?
 
「斎宮」はなぜこんな遠くに造られたのか?
 
斎宮・斎王のすべてがわかる「斎宮歴史博物館」

 

伊勢神宮と中央構造線の不思議な関係

 

 

歴史先生:さて、ここで伊勢の地形について考えてみましょう。

 

マナブ:そういえば今回はここまで伊勢神宮の歴史の話ばかりで、地形の話が出てきていませんでしたね。

 

歴史先生:上の地形図を見てください。四国から続く中央構造線。これが和歌山県では紀の川の谷をまっすぐに作って、三重県に入ると山脈となり、伊勢のところでは平野と山の境目としてはっきりと線になっています。

 

マナブ:ということは伊勢神宮は中央構造線の真上にある?

 

歴史先生:ほぼそう言えるでしょう。外宮は中央構造線のすぐ北、内宮は中央構造線のやや南にあります。

 

伊勢市歴史博物館にあるのジオラマ。黄色い線が中央構造線。

 

マナブ:ジオラマを見ても、たしかに中央構造線の南と北とでは地形の印象が全く異なります。

 

歴史先生:この中央構造線の南北では地質が異なっています。北側は花崗岩、南側は変成岩。花崗岩はマグマが地下深くで固まった岩で、とても固いのが特徴。一方、変成岩は圧力や熱で既存の岩石が変化したもので、パイ生地のようにうすく層が重なっています。

 

マナブ:北側の花崗岩は固いということですが、それが平野のようになっている??

 

歴史先生:北側の花崗岩は本来は固くて浸食に強いはずなのですが、ここでは中央構造線の巨大断層によって引き裂かれ、組織がズタズタになってしまっているんです。それが雨によって化学変化(深層風化という)して、ボロボロの砂(マサ土)になって川によって下流へ流れ、平野を作った、というわけです。

 

マナブ:へぇー、条件によって花崗岩もぼろぼろの砂になるんですね。

 

歴史先生:南側の変成岩は浸食にもろく、海水によって容易に削られます。そのため南側では複雑に入り組んだリアス海岸が形成されました。

 

二見浦の夫婦岩は変成岩の一種である緑色片岩でできている

 

マナブ:外宮の周りは平野が広がっていて、畑や田んぼも多いですね。一方で内宮の方は山地が広がっていて、五十鈴川が谷を削っている。

 

歴史先生:はい、その様子は実は外宮、内宮の参道を歩くだけでわかります。参道の玉砂利の違いに気づきましたか?

 

マナブ:えっ、まったく気にしてなかった。

 

歴史先生:参道の敷き詰められていた白い石、あれは「お白石」と呼ばれているんですが、外宮は宮川で採れた丸みを帯びた真っ白な花崗岩、内宮は五十鈴川で採れた白っぽいチャートを使っています。

 

マナブ:チャートって?

 

歴史先生:海底にプランクトンの死骸などが積もってできた堆積岩で、薄い層になっています。ところで、内宮の話の中で奈良の大仏を作るのに水銀が必要だったという話をしましたね。

 

マナブ:はい、伊勢神宮の西の方で水銀が取れたと。

 

歴史先生:実際、中央構造線の近くには古代から水銀の鉱脈が集中しているんです。

 

マナブ:それはなぜでしょう?

 

歴史先生:私たちが言っている水銀と言っているのは硫化水銀(辰砂(しんしゃ))で、これは地中深くで熱水が加熱され、それが地表近くまで上昇して冷えたものです。なぜ上昇したかというと、それは中央構造線の大きな割れ目があるからなんです。

 

マナブ:あ、似たような話を別府で聞いたことがあります。別府の温泉は断層に沿って湧いていて、それは断層のすき間から地下水が上昇してくるのだと。

 

歴史先生:はい、それと同じ原理です。ところで、古代より水銀は貴重な産物でした。昔は支配者の権威の象徴として宮殿などを朱色に塗っていましたが、その朱色の塗料を作るのに水銀が必要でした。また、木材に塗ると防腐剤としての効果もあったので、寺院、神社、木棺などで大量に使われました。

 

マナブ:なるほど。そして金メッキに使われるので、奈良の大仏の建立時には大量に必要となり、行基や重源が伊勢神宮を訪れた、ということでしたね。

 

歴史先生:はい、そのとおりです。さらには「伊勢白粉」の原料として、化粧品や皮膚の薬としても珍重されたんです。

 

マナブ:水銀ってとても有用な資源だったんですね。今でも採掘されているんですか?

 

歴史先生:いいえ。水銀は人体にとってとても有毒だというのはご存じですね? 水銀鉱山というのは重大な環境汚染、健康被害を起こしやすいので、伊勢神宮の西にある丹生鉱山を始め、1970年代までに国内すべての水銀鉱山が廃坑となりました。現在、先進国では採掘はほとんどされておらず、中国、メキシコ、インドネシアなどが主な産地です。

 

「宇治山田駅」と「伊勢市駅」

 

宇治山田駅

 

 

歴史先生:ところで伊勢神宮の玄関口として、宇治山田駅、伊勢市駅という2つの駅があります。両者は鉄道でわずか600mほどの距離です。

 

マナブ:なんだかそれも不思議ですね。

 

歴史先生:まずは両者の名前の話から。「伊勢市」ができたのは1955年(昭和30年)。それまでの「宇治山田市」から名前が変わりました。

 

マナブ:それまではこのあたりは宇治山田、だったんですね。

 

歴史先生:正しく言うと、外宮のある辺りが「山田」、内宮のある辺りが「宇治」。その2つを並べて宇治山田という市になっていたんです。

 

マナブ:なるほど。ところでこの宇治山田駅。レトロな感じでとても素敵じゃないですか?

 

歴史先生:テレビ番組「新・美の巨人たち」でもこの駅舎が取り上げられていました。1931年(昭和6年)に出来た、国の登録有形文化財です。

 

マナブ:でもまだ現役。

 

歴史先生:はい。皇族方や総理大臣が伊勢神宮を参拝される際にここに降り立たれますので、ニュースでよく見たりもします。2階には貴賓室も設けられています。

 

マナブ:この駅ですが、高架式ですよね?

 

歴史先生:そうなんです、当時としてはとても珍しい、高架式の駅。「伊勢では電車も高天原に着く」なんて言われていたそうです。

 

高い吹き抜けになったロビー

 

美しいテラコッタで装飾された外観

 

歴史先生:さて、この駅のそばで生まれ育った有名人といえば、沢村栄治投手。

 

マナブ:今でもプロ野球でピッチャーの最高の栄誉といえば「沢村賞」ですよね。

 

宇治山田駅前に立つ沢村栄治像

 

歴史先生:沢村栄治はここの駅前の商店街近くで生まれ育ちました。1917年(大正6年)の生まれで、1934年(昭和9年)にメジャーリーグの選手が来日して日米野球が行われた際、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックといったスーパースターを抑え込んだ、速球投手でした。

 

マナブ:えっ、その時まだ17歳?

 

歴史先生:そうですね。その後巨人に入団して巨人の初代エースになりましたが、生まれた時代が悪かった。兵役に取られ、そこで肩を痛めます。巨人に戻っても投げられずに解雇され、再び兵役に取られ、1944年(昭和19年)、フィリピンにて戦死しました。

 

マナブ:あぁ、そうだったんだ。

 

歴史先生:巨人の背番号14は今でも永久欠番になっています。駅前に銅像がありますので見ていきましょう。

 

尾崎行雄 胸像

 

歴史先生:駅前にはもう1つ銅像があります。尾崎行雄ってご存じですか?

 

マナブ:はい、知っていますよ。彼もまた伝説の投手ですよね。ものすごく速い球を投げていたとか。たしか東映フライヤーズでしたっけ? 沢村といい尾崎といい、伊勢はすごいピッチャーが育つ場所なんですね。

 

歴史先生:えーっと(苦笑)、その尾崎行雄じゃないんです。

 

マナブ:えっ、違いましたか?

 

歴史先生:同姓同名のもう1人の尾崎行雄ですが、彼は政治家で、「憲政の神様」と呼ばれました。実際、尾崎行雄投手は政治家の尾崎行雄にちなんで名づけられたんだそうです。

 

マナブ:知りませんでした。

 

歴史先生:雅号は「尾崎咢堂」。あとで彼の記念館にも行きますので、その時に詳しくお話ししましょう。実はすごい政治家です。

 

箕曲中松原神社

 

歴史先生:宇治山田駅前には「箕曲中松原神社(みのなかまつばらじんじゃ)」の杜が茂っています。

 

マナブ:森の中に入るとここだけ空気感が違いますね。

 

箕曲中松原神社の楠

 

歴史先生:境内の中心にあるのが樹齢800年の楠の御神木。この木が普通と違う空気感を醸し出しているのかもしれません。

 

マナブ:ここは古くからある神社なんですか?

 

歴史先生:創建はよくわかっていませんが、997年の文書の中にも記載がありますので、少なくともそれ以前からあったようです。スサノオノミコトの子である大歳神を祀っています。

 

伊勢市駅

 

 

マナブ:さて、今度はもう1つの駅、「伊勢市駅」です。

 

歴史先生:ここは外宮まで約500m。駅からまっすぐに参道が続いています。

 

マナブ:駅周辺にはホテルや飲食店が多いようですね。

 

歴史先生:はい、外宮の参道沿いにもお店がたくさんあります。

 

世木神社

 

マナブ:そしてここでも駅前に神社の杜が。

 

歴史先生:世木神社、です。ここは外宮の神官を代々務める度会氏の祖先を祀った神社。

 

マナブ:駅前なのに、一歩中に入ると深い森に入ったような雰囲気があります。

 

歴史先生:この神社も少なくとも鎌倉時代より前からある古いお社です。

 

二見浦の「夫婦岩」は何のためのもの?

 

夫婦岩

 

 

マナブ:次は伊勢市の東部にある「二見浦」に行きます。

 

歴史先生:二見浦に行くことを「浜参宮」と言います。昔の人は伊勢神宮に参拝する前にここへ来て、海水に浸かって心身を清めていました。

 

マナブ:今はさすがに海には入らないですよね?

 

歴史先生:その代わりに二見興玉神社に参拝してお祓いをしてもらう、ということになっています。

 

 

二見興玉神社(地図 ❼)

〒519-0602 三重県伊勢市二見町江575

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://futamiokitamajinja.or.jp/ 


伊勢夫婦岩めおと横丁

 

歴史先生:二見浦に行くには基本的に車ですが、西側、東側、両方に駐車場があります。今回は東側の「伊勢夫婦岩めおと横丁」にある駐車場に停めましょう。

 

マナブ:大きな施設ですね。

 

歴史先生:ここにはお土産店、飲食店、そして水族館などが入っています。

 

マナブ:反対の西側には何があるんでしょう?

 

歴史先生:西側は旅館街になっていて、公園の駐車場に停める形です。

 

東側からの参道

 

龍宮社

 

歴史先生:東側からアプローチすると、まずは龍宮社があります。

 

マナブ:ここはどういう神社ですか?

 

歴史先生:江戸時代の後期、1792年に大水害があり、ここから東側の河口に広がる「江」という集落が大水害に見舞われ、ほとんどの民家が流出してしまいました。二度とそのようなことが起きないよう、龍神様が勧請され、その後は被害が無くなりました。

 

マナブ:龍神様というのは水の神様。

 

歴史先生:はい、そうです。

 

海沿いの参道を進む

 

マナブ:さて、ここ「二見興玉(ふたみおきたま)神社」という名前はどういう意味なんでしょう?

 

歴史先生:二見浦はここの地名で、「興玉」というのは海の沖にある魂、という意味。ここの700mほど沖合に「興玉神石(おきたましんせき)」という、約200mx100mほどの大きな岩礁があって、それがご神体になっています。

 

マナブ:ん? 海中の岩礁がご神体?

 

歴史先生:平たい巨岩で、昔は海の上に顔を出していました。これを昔の人は神様が作った巨大な鏡だ、と見ていました。

 

マナブ:その岩はもう見られないんでしょうか?

 

歴史先生:江戸時代中期の地震の時に海中に沈んでしまいました。その後、1960年のチリ地震の時に津波があり、その引き波の時に一時的に見えたんだそうです。

 

Google Mapではうっすらと興玉神石らしき影が見える ©Google

 

マナブ:海沿いの参道を歩いています。あ、見えてきました。これが夫婦岩ですね?

 

歴史先生:はい、参道のすぐそばにあって、近くでよく見えます。

 

夫婦岩

 

マナブ:これは有名ですね。

 

歴史先生:夫婦岩は何のためにあるかご存じですか?

 

マナブ:えーっと、名前からしてここは夫婦円満を祈る場所? いや、違うな。ここから日の出を拝んで、太陽の神様を祀る場所?

 

歴史先生:いいえ、一般的にそう誤解されているようなのですが、ここで注目すべきものは興玉神石であって、この2本の岩は興玉神石を陸地から遥拝するための左右の門にすぎません。岩の間に注連縄を張って、ここから先は神聖な場所であることを示す結界を作っています。いわば興玉神石への海の鳥居のようなものです。

 

夫婦岩の向こうの海中にある興玉神石を遥拝する

 

マナブ:そうなんだ。それほど興玉神石は大事なんですね。

 

歴史先生:興玉神石ははるか東にあるとされる常世(=理想郷)からの波が一番初めに打ち寄せる岩。天上界から神々が降臨する岩。そして倭姫命が天照大神の鎮座地を探し回っている時、興玉の神が姿を現して五十鈴川の川上の場所をお勧めした場所です。

 

マナブ:おっと、また新しい説ですね。これまで天照大神が自分で「ここがいい」と言った、猿田彦の子孫が「ここがいいと土地を差し出した」という2つの話がありましたが、今度は興玉の神ですか。

 

歴史先生:そうなんですが、興玉の神は猿田彦の神と考えられていますので、2つ目の話と同じだと思われます。

 

マナブ:あ、なるほど。

 

二見興玉神社

 

マナブ:ここの神社は歴史が古そうですね。

 

歴史先生:奈良時代、行基がここを訪れた際に「江寺」というお寺を創建し、境内に興玉社を建てたのが始まりです。祭神は興玉大神、猿田彦大神。伊勢神宮のご鎮座に貢献した神々を祀ります。

 

西側参道の鳥居

 

歴史先生:さて、龍宮社の近くに岩が露出しているところがありますので、ぜひ見てください。

 

龍宮社近くの岩が露出している場所

 

マナブ:どれどれ。緑色で、線がいっぱい入っている。

 

緑色片岩

 

歴史先生:中央構造線の南側は緑色片岩でできているという話がありましたが、これがそうだと思います。

 

マナブ:なるほど。きれいな緑色ですね。

 

伊勢の人々が一年中「注連縄(しめなわ)」をかけているのはなぜ?

 

伊勢地方で見られる注連縄(しめなわ)

 

歴史先生:さて、伊勢の街を歩いていて、注連縄に気が付きませんでしたか?

 

マナブ:あ、それ、気が付いていました。正月の注連飾りみたいなのが、よく玄関や店先にかかっていますね。あれは何ですか?

 

歴史先生:あれは1年中、飾られています。この地域には「蘇民将来」の話、というのが伝わっていて、その厄除けの印なんです。

 

マナブ:どういうお話なんでしょう?

 

歴史先生:いくつかのバリエーションがありますので、その1つをお話ししますね。牛頭天王(ごずてんのう)、この神様はスサノオノミコトと同一とも考えられていて、疫病を防ぐ神様として知られています。この牛頭天王が旅をしている時、夜になり、その日泊まる宿を探していました。

 

マナブ:ふむふむ。

 

歴史先生:すると一軒の大きくて立派な屋敷が目の前に現れます。ここは巨旦、という富豪の家でした。「疲れ果てて困っています。今晩だけでも泊めてもらえませんか?」と頼むと、巨旦は牛頭天王のみすぼらしい格好を一瞥して「うちには泊められない」と断りました。

 

マナブ:それで?

 

歴史先生:牛頭天王がしかたなく歩いていると、近くに貧相な家があるのを見つけました。そこは巨旦の弟である蘇民将来の家でした。扉を叩いて頼んでみると、蘇民将来は快く牛頭天王を迎え入れ、残り少ない食料を分け与えてくれました。翌朝、牛頭天王はお礼に玉を置いて帰りました。実はその玉は持っている人を金持ちにするものでした。

 

マナブ:で、蘇民将来はお金持ちになった?

 

歴史先生:はい。蘇民将来は幸せになり、巨旦には災いばかりが降りかかりました。後になってこの旅人が牛頭天王で、疫病や災いを除ける力のある神様だとわかり、人々はその御利益にあずかろうと「うちは蘇民将来の子孫です」と書いた札を掲げるようになったんだそうです。

 

マナブ:直接の子孫でなくても?(笑)

 

歴史先生:そのようです。注連縄をよく見ると、中央に板があって、そこに「蘇民将来子孫家之門」と書かれています。

 

マナブ:なるほど。

 

注連縄には「蘇民将来子孫家之門」と書かれている

 

「斎宮」そして「斎王」とは何か?

 

広大な斎宮跡

 

 

マナブ:外宮から西へ車で20分。約10kmのところに「斎宮跡」があります。ところで斎宮というのは何ですか?

 

歴史先生:斎宮(さいくう)は斎王(さいおう)の拠点となる宮殿と政庁のことですが、まずは「斎王」についての説明が必要ですね。

 

マナブ:はい。

 

歴史先生:天照大神が大和にいたころは天皇自らがさまざまな儀式をおこなっていましたが、遠い伊勢に移ってからはなかなかそうはいきません。そこで伊勢に常駐して、天皇の代わりに天照大神に対する儀式を執り行うのが「斎王」です。

 

マナブ:どんな人が斎王になったんでしょう?

 

歴史先生:基本的には天皇の未婚の娘(=内親王)が選ばれていました。新しい天皇が即位すると、それにともなって斎王も新しくなります。候補者の中で誰が選ばれるかは占いによって決められました。

 

マナブ:選ばれた人は嬉しかったんでしょうか、それとも悲しかったんでしょうか?

 

歴史先生:斎王に選ばれると、天皇が交替するまたは身内の不幸がない限り都へは戻れません。そのため天皇の娘が斎王に選ばれ、父が亡くなるまで都に戻れず、二度と父に会えなかった、というようなことも頻繁に起きていました。

 

マナブ:斎王に選ばれるということは名誉でもあるけれど、父と娘の今生の別れになるかもしれない、という悲しいことでもあったんですね。

 

歴史先生:はい。そのため、当初は天皇の娘ばかりだった斎王も、徐々に天皇の姪っ子さんとか、叔母さんとかが選ばれるようになっていきました。

 

マナブ:女性でなければいけないんですか?

 

歴史先生:はい。斎王はすべて女性で、男性の斎王というのはいません。それから女性天皇の場合、斎王を出していません。

 

マナブ:えっ、なぜだろう?

 

歴史先生:そのあたりは理由がよくわからないんです。

 

マナブ:神聖な女性の天照大神に奉仕するのが男性ではまずいから? いや、実は天照大神は男性ではないか、という説を教えてもらいましたね。だからその妻になるべく、女性が指名された?

 

歴史先生:どうでしょうね。

 

マナブ:謎が多そうです。ところで斎王という制度はいつごろまであったんでしょう?

 

歴史先生:飛鳥時代の天武天皇のころ(7世紀後半)から始まって、14世紀前半の後醍醐天皇による建武の新政の時に廃止されました。660年間も続き、その間に60人の斎王が務めています。

 

マナブ:あれ、それは意外です。後醍醐天皇は鎌倉幕府を倒して、再び天皇中心の政治を始めた人ですよね? だとすれば斎王の儀式をむしろ派手におこなって、これからは天皇中心の国になるんだと宣言しても良さそうなんですが。

 

歴史先生:実際そうなんです。後醍醐天皇は実の娘の祥子内親王を斎王に立てて、大々的に伊勢へ送り込もうとしていたのですが、足利尊氏の反乱によって道中の危険が増し、軍費もかさむようになって、ついに斎王を送り出すタイミングを失ってしまったんです。

 

マナブ:そうでしたか。

 

さいくう平安の杜

 

 

マナブ:さて、まずは「さいくう平安の杜」というところに来ました。

 

歴史先生:ここはかつての斎宮の一部。西脇殿と正殿と東脇殿の3つの建物が復元されています。

 

マナブ:屋根は瓦ぶきではないんですね。

 

歴史先生:いいポイントに気が付いていただきました。当時、瓦というのは大陸の文化、もっと言えば仏教寺院に使われた建築技法であって、神道の宮である斎宮では檜皮(ひわだ)葺きが採用されていました。そのほか、仏教に由来する言葉は「忌み言葉」とされ、斎宮ではすべて言い換えられていました。

 

マナブ:例えば?

 

歴史先生:「仏」は本堂の中央にいるから「中子」。「お経」は色付きの紙に書かれていたから「染紙」。「お寺」はどれも瓦ぶきだったので「瓦葺」。おもしろいのは「お坊さん」。髪を剃っていたのですが、あえて反対の「髪長」と呼んでいました。

 

マナブ:へぇー。日本の戦争中に英語が「敵製語」として日本語に置き換えられていたことと似ていますね。

 

歴史先生:そうですよね。

 

「斎宮」はなぜこんな遠くに造られたのか?

 

斎宮跡

 

 

斎宮跡(地図 ❽)

〒515-0321 三重県多気郡明和町斎宮3207

入場自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.kankomie.or.jp/spot/1886 


マナブ:さて、次はそのお隣にある「斎宮跡」に来ました。

 

歴史先生:ここは国史跡に登録されていて、発掘が進んでいます。

 

近鉄電車からも見える「斎宮」の看板

 

マナブ:名古屋から伊勢にいく途中、近鉄特急の車窓から見えていましたよ。「斎宮」という大きな看板が立っていて、すぐにわかりました。

 

歴史先生:すぐ脇を線路が通っていて、斎宮跡の目の前には斎宮駅がありますので、電車でのアクセスも容易です。

 

マナブ:広いですね。斎宮はどれくらいの広さがあったんですか?

 

歴史先生:東西2㎞、南北700mほどありました、東京ドーム29個分。

 

マナブ:すごいなぁ。

 

歴史先生:その敷地にミニ平城京とも言えるような碁盤の目の街区があって、多くのお役所があり、およそ500人の人たちが勤務していました。奈良時代には全国に「国府」が置かれていましたが、それらを大きく上回る、まさに都に次ぐ大都市でした。

 

マナブ:そんなにたくさんの人が何をしていたんでしょう?

 

歴史先生:まずは斎王とその身の回りのお世話をする女性たち。着付けや髪の手入れ、そして斎王が退屈しないように歌を詠んだり、物語を読んだり、楽器を演奏したりといった文化的サポートをしていました。これらの女性は都から付いて来た貴族の娘さんたちで、さらに斎宮には貴族がしばしば訪れ、都のお話などもしていたようです。

 

マナブ:至れり尽くせりですね。他には?

 

歴史先生:食事の用意や神事で使うさまざまな着物・道具の製作、お風呂や灯の用意、建物管理、そして警備など、さまざまな仕事がありました。

 

マナブ:結局は天照大神のために斎王が儀式をする。その斎王を支える人たちが500人もいる、ということですね。すごい。

 

斎宮の1/10模型が作られている

 

歴史先生:斎宮跡の中心地には、全体の1/10の模型が作られています。

 

マナブ:たくさんの建物が立ち並んでいて、当時は壮観だったことでしょう。ところで、さっきからずっと疑問に思っていることがあるのですが。

 

歴史先生:何でしょう?

 

マナブ:ここに来るまで20分もドライブしました。ここは外宮から10㎞も離れているんですよね? 斎王は天照大神に奉仕するのが仕事なんですから、もっと職場に近い場所に住んだ方が便利じゃないですか? これでは長距離通勤になってしまいます。当時は近鉄電車もありませんし。

 

歴史先生:たしかに不思議ですよね。1つの回答は、「斎王は伊勢神宮に年3回しか行かなかった」ということが言えます。

 

マナブ:えっ? わずか年3回?

 

歴史先生:最大の儀式ある9月の神嘗祭、そして6月と12月の月次祭。この3回のみ、伊勢神宮にお参りをしていました。日々の儀式は斎宮の中で行われていたんです。

 

マナブ:在宅勤務だ(笑)。

 

歴史先生:そうですね(笑)。さて、もう1つの回答としては、この斎宮のある場所が古代の伊勢街道を通ってきたときに、神宮の領地の入口にあたる場所だ、というものです。

 

マナブ:つまり、伊勢神宮へ行く人は、しばらく手前にある斎宮を通らなければならない。ここが警備の拠点にもなりえますね。

 

歴史先生:はい、そうなんです。さて、かつては威容を誇った斎宮ですが、後醍醐天皇の時代に斎王が途絶えてしまうと、廃れる一方になってしまいます。長い戦乱の室町時代の間に建物は朽ち果て、領地は戦国大名に切り取られて、畑や田んぼになりました。

 

マナブ:伊勢神宮でさえも室町時代は存続の危機にあったようですから、主のいない斎宮は当然そうなりますね。

 

歴史先生:その後、長らくその場所さえわからなくなっていたのですが、この付近に「斎王の杜」と呼ばれて地元の人から大切にされていた森があり、ここに斎宮があったのではないかと言われていました。そして1970年(昭和45年)、住宅地の開発でこの辺りを掘り起こしたところ、貴重な土器や建物跡が見つかり、史跡として保存されることになったんです。

 

マナブ:再び、斎宮が見つかったんですね。

 

歴史先生:はい。斎宮跡からの発掘品などは「斎宮歴史博物館」に展示されていますので、見に行きましょう。

 

斎宮・斎王のすべてがわかる「斎宮歴史博物館」

 

斎宮歴史博物館

 

 

斎宮歴史博物館(地図 ❾)

〒515-0325 三重県多気郡明和町竹川503

入館料340円(大学生以下、団体割引あり)

9:30~17:00(最終入場16:30)、月曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/ 


マナブ:斎宮跡から車で2分ほど。斎宮歴史博物館にやってきました。ここは想像していたよりはるかに大きい建物ですね。びっくりしました。

 

歴史先生:それには理由があります。1970年から続く発掘作業で得られた出土品は数十万点にも及び、この大きな建物はそれらの保管、研究のための一大センターなんです。

 

マナブ:展示だけじゃないんだ。

 

歴史先生:はい。そのうち実に3,000点以上が国指定重要文化財になっているんですよ。

 

マナブ:3,000点! すごいですね。

 

歴史先生:さらに建物は2階建てまたは平屋になっているのですが、これは地中の遺跡を傷つけないよう、地面に盛り土をしてその上にふわっと建物を乗せる工法を取っているからなんです。

 

マナブ:それで平べったい、大きな建物になっているんだ。素晴らしいことですね。

 

博物館の周囲には古墳群があり、その玄関前には「塚山2号墳」がある

 

マナブ:中に入って見ましょう。

 

歴史先生:展示室は「展示室Ⅰ 文字(文献資料)からわかる斎宮」と「展示室Ⅱ もの(発掘された品々)からわかる斎宮」の2つに分かれています。

 

展示室Ⅰ 文字からわかる斎宮

 

歴史先生:展示室Ⅰにはいくつかの物語で登場する斎王、斎宮にちなんだ展示がされています。代表的なのは「伊勢物語」。

 

マナブ:名前は聞いたことがありますが、どんなお話なんでしょう?

 

歴史先生:伊勢物語は平安時代初期の文学で、歌人として有名な在原業平(ありわらのなりひら)を主人公とした物語です。

 

マナブ:その中で斎宮の話が出てくる?

 

歴史先生:はい。第69段というところなんですが、在原業平だと思われる「ある男」が伊勢へ来て、斎王と密通してしまいます。

 

マナブ:えっ?!

 

歴史先生:天皇の娘さんだった恬子内親王(やすこないしんのう)と一夜を共にし、翌朝別れを惜しむという話です。

 

マナブ:それ、まずくないですか?

 

歴史先生:もちろん、まずいですよね。それから源氏物語にも斎王が出てきます。

 

マナブ:今度は光源氏との密通、ではないでしょうね?

 

歴史先生:今度は違います(笑)。光源氏との恋に破れた六条御息所(ろくじょうのみやすんどころ)は都を去り、娘の斎王とここ斎宮で暮らしたという話です。ほかにも更級日記、大鏡など、多くの文学作品に斎王、斎宮が登場します。

 

斎王の居室の様子が復元されている

 

展示室Ⅱ ものからわかる斎宮

 

歴史先生:展示室Ⅱには発掘の成果を展示しています。

 

マナブ:大きな斎宮のジオラマがあります。

 

歴史先生:そのほか、出土したさくさんの国指定重要文化財も展示されています。

 

羊形硯

 

マナブ:これは何かな?

 

歴史先生:羊形硯(ようけいけん)。羊の形をした硯(すずり)、ですね。斎宮跡ではたくさんの硯が見つかっていて、それだけたくさんの文書が作成されていたことを示しています。硯は地方の遺跡ではあまり発掘されません。

 

マナブ:それに形がユニーク。

 

歴史先生:当時、日本で羊は飼われていませんでした。中国では縁起の良い動物とされていて、その文化を取り入れたものでしょう。日本でも平城京跡など数か所で、数点見つかっているだけの貴重なものです。

 

映像展示室の案内

 

マナブ:館内にはシアターもあります。私たちは「斎王群行」という18分間の映像を見ました。

 

歴史先生:1038年に斎王として京都から伊勢に旅立った当時わずか8歳の良子(ながこ)内親王の5泊6日の旅を再現したものです。

 

マナブ:とてもよくできた映像で、斎王というものがよくわかりました。おススメです。

 

​歴史好きのための観光ガイド
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