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三重県_1.jpg
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
信長の天下統一に貢献した「九鬼水軍」
 
日本水軍の総大将になった「九鬼嘉隆」の栄華と最期
 
九鬼水軍の拠点「鳥羽城」を歩く
 
「ミキモト真珠島」で真珠について学ぼう
 
真珠王「御木本幸吉」はどんな人だった?
 
志摩の「海女さん」はいつごろからいるの?

 

信長の天下統一に貢献した「九鬼水軍」

 

鳥羽駅

 

 

マナブ:今日は鳥羽に来ています。鳥羽、というと、「鳥羽・伏見の戦い」だとか「鳥羽天皇」がいたりとか、京都と縁の深い土地なんでしょうか?

 

歴史先生:いえ、ここは昔からの天然の良港ですので、恐らくは船の「泊り場」というのが語源で、京都の鳥羽とは関係なさそうです。

 

鳥羽駅の北口には鳥羽マルシェや公園などが整備されている

 

歴史先生:ところでここ、三重県の鳥羽と言えばどんなイメージがありますか?

 

マナブ:やっぱり水族館、かな? あ、それからミキモトの真珠島。

 

歴史先生:そうですね。戦国時代のイメージはどうでしょう?

 

マナブ:うーん、戦国時代のイメージは特にありません。

 

歴史先生:戦国時代の日本を大きく動かした「九鬼水軍」。その本拠地がここ、鳥羽です。

 

マナブ:九鬼水軍って?

 

歴史先生:では、そのあたりからお話をしていきましょうね。鳥羽駅の南口から外へ出ます。

 

マナブ:駅前には小規模な飲食店が並んでいます。サザエのつぼ焼き。アワビ。どこもおいしそう。

 

海鮮の飲食店が並ぶ駅前商店街

 

 

歴史先生:駅の南口から歩いて3分ほど。「鳥羽市歴史文化ガイドセンター」というところに来ました。ここの2階に展示室があるんです。

 

鳥羽市歴史文化ガイドセンター

〒517-0011 三重県鳥羽市鳥羽1丁目10−48

9:00~16:00、火曜休


「門野幾之進記念館」と書かれている玄関から入って2階に登ると九鬼水軍の資料展示室がある

 

歴史先生:さて、室町時代のお話。志摩の国は伊勢の国司、北畠氏が力を持っていて、その麾下に13人の地頭がいました。彼らは主に海沿いの港を拠点に、沖合を通行する船を警護する代わりに通行料を徴収する海賊として利益を得ていました。九鬼氏はその1つ。

 

マナブ:九鬼氏は地頭、そして海賊だったんですね。

 

歴史先生:九鬼氏は大王埼灯台近くの「波切(なきり)」という集落を拠点にしていましたが、第4代当主の九鬼泰隆の時に、鳥羽を流れる加茂川の上流で、田んぼの広がる「田城」を奪い取り、そこから上がる米と、波切の港からあがる海賊としての収入の両方を得るようになりました。

 

マナブ:ふむふむ。

 

歴史先生:ところが1560年、周囲の地頭から攻められ、第6代当主の九鬼浄隆が亡くなります(戦死、病死両方の説あり)。浄隆の弟である九鬼嘉隆(よしたか)は、田城からほど近い朝熊山に逃げ込みました。

 

マナブ:九鬼嘉隆という名前は聞いたことがあるような気がします。

 

歴史先生:はい、彼こそが九鬼水軍を作り、のちに志摩国を治める3万5000石の戦国大名となる人です。九鬼嘉隆は1542年の生まれ。朝熊山に逃げ込んだ時は1560年、彼はまだ18歳の若者でした。

 

マナブ:そこから彼はどうしたんでしょう?

 

歴史先生:詳細ないきさつは不明ですが、織田信長の有力家臣の一人である滝川一益と出会い、その配下になります。

 

マナブ:その頃の信長といえば?

 

歴史先生:桶狭間の戦いで今川義元を破った風雲児、という頃でしょうか。伊勢や美濃の攻略はこれから、という時期です。さて、1570年に長島一向一揆が起きます。

 

マナブ:たしか信長が大苦戦した?

 

歴史先生:はい。大軍を動員しても長島城を落とせず、戦いは長引きました。しかし1574年に九鬼嘉隆が安宅船(軍艦)で川をさかのぼり、一向一揆勢に打撃を加えたことで戦況が一変。その功績から水軍大将として信長の家中での地位を確立します。

 

マナブ:そのとき九鬼嘉隆は32歳、ですね。

 

歴史先生:次に信長が苦戦した相手と言えば、大坂の石山本願寺。信長は海上封鎖して兵糧攻めを狙いましたが、1576年、瀬戸内から毛利の村上水軍が押し寄せ、信長の水軍は大敗しました(第1次木津川口の戦い)。海からの補給路を確保した石山本願寺はまったく降伏しようとしません。

 

マナブ:村上水軍はとても強かったんですね。

 

歴史先生:はい、焙烙玉(ほうろくだま)とか焙烙火矢(ほうろくひや)といった、火薬を詰め込んだ手りゅう弾のようなものを相手の船に投げ込んで爆発させる、といった新兵器を持っていて、信長の船はことごとく焼かれてしまいました。

 

マナブ:信長はそれに対抗できる新兵器が必要だった。

 

歴史先生:はい、そこで信長は九鬼嘉隆に命じて7艘の大船の建造を命じます。そして何と、その船体に当時は貴重だった鉄板を貼りつけて相手の焙烙玉をはね返すことができるようにしました。しかも大砲3門を搭載。「鉄甲船」と呼ばれたこの船を石山本願寺へ向かわせ、信長自ら出向いて「観艦式」を行いました。1578年のことでした。

 

鉄甲船の模型。実際にどのような船だったのかについては諸説あり。

 

マナブ:新兵器は村上水軍に通用したんでしょうか?

 

歴史先生:はい、鉄甲船は見事に村上水軍の攻撃を耐え抜き、逆にこれを撃破してしまいます(第2次木津川口の戦い)。これによって補給路を断たれた石山本願寺は降伏。信長は天下統一へ大きく近づきました。

 

マナブ:九鬼嘉隆はうれしかったでしょうね。

 

歴史先生:1579年には安土城に呼ばれて信長から賞賛され、志摩国を与えられました。彼の人生の最良の時期と言えるでしょう。

 

マナブ:でもたしか、本能寺の変は1582年でしたよね。それが迫ってきている。

 

歴史先生:そうなんです。では秀吉の時代になって彼がどうしたか、続きを見ていきましょう。

 

日本水軍の総大将になった「九鬼嘉隆」の栄華と最期

 

歴史先生:自分を気に入ってくれていた信長の突然の死は、九鬼嘉隆にとって相当なショックだったに違いありません。しかし彼はその後秀吉に付いて、小牧・長久手の戦い、そして島津征伐、小田原征伐と、秀吉の水軍の大将格として活躍します。

 

マナブ:秀吉に付いたのは結果的に正しい判断でしたね。

 

歴史先生:そして今度は秀吉の朝鮮出兵。第一次の出兵であった「文禄の役(1592年)」において、秀吉の子飼いである加藤嘉明や脇坂安治らを抑えて九鬼嘉隆は日本水軍の大将格に指名されます。

 

マナブ:それはすごい出世ですね。

 

歴史先生:そして九鬼嘉隆は秀吉が後に「日本丸」と名付けた巨艦に乗って名護屋城へ乗り込むという、他の大名も驚く堂々の参戦を果たしました。

 

マナブ:どんな船だったんでしょう?

 

歴史先生:詳細は不明ですが、長さ25m、幅9mほどで、大砲三門を搭載。甲板には司令官用の御殿が建っていたそうです。

 

日本丸の模型

 

マナブ:朝鮮水軍も驚いたでしょうね。

 

歴史先生:そうなんですが、朝鮮水軍にも骨のある武将がいました。今でも韓国で英雄視される「李舜臣」。彼が率いる水軍に苦しめられて日本軍は海上の補給路確保が難しくなったため、半島からの撤退を余儀なくされています。

 

マナブ:李舜臣、という名前、聞いたことがあります。

 

歴史先生:で、第二次の朝鮮出兵である「慶長の役(1597年)」。ここではなぜか九鬼嘉隆は呼ばれませんでした。

 

マナブ:どうしてでしょう?

 

歴史先生:この時彼は57歳。高齢だったためなのか、あるいは加藤嘉明や脇坂安治らによって讒言されてはずされたのか、そのあたりは想像するしかありません。

 

展示室内部の様子

 

マナブ:そして秀吉が亡くなる。次は関ヶ原ですね。

 

歴史先生:さすがにこの時は九鬼嘉隆もどちらに付いてよいかわからなかったのでしょう。家督を譲った息子の守隆は東軍に、九鬼嘉隆は西軍に付くという形をとって、どちらが勝っても生き残れるようにしました。

 

マナブ:当時はそれが一番賢い選択だったんでしょうね。

 

歴史先生:さて、息子の守隆が兵を率いて家康の元へ参陣すると、九鬼嘉隆は手薄になった鳥羽城を奪い取ります。それを知った守隆は、東軍の重臣池田輝政の指示で志摩へ引き返し、父の説得に当たります。しかし九鬼嘉隆はそれに応じず、親子の間で戦闘が発生しました。

 

鳥羽城の模型

 

マナブ:辛い状況です。

 

歴史先生:さて、関ヶ原の戦いは1日で勝負がつき、その結果を聞いた九鬼嘉隆は鳥羽城を明け渡し、鳥羽のすぐ沖にある答志島へ渡ります。守隆はすぐに家康に父の命乞いを懇願して許しを得ますが、その報告が届く前に九鬼嘉隆は自害していました。

 

マナブ:そうでしたか。で、守隆は志摩を治める大名として継続できたんですよね?

 

歴史先生:はい、そうなのですが、今度はその後継者問題が起きます。

 

マナブ:大名家あるある、ですね。

 

歴史先生:守隆には5人の男子がありました。2番目の子が後継者だったのですが、病気で早世してしまいます。そこで3番目と5番目が候補になり、それぞれを支援する家臣たちが真っ二つに割れてしまいます。

 

マナブ:危険な状態ですね。

 

歴史先生:守隆の死後、これがお家騒動に発展。幕府が調停に入り、3男と5男をそれぞれ丹波国綾部、摂津国三田へと移封しました。この2藩はどちらの明治維新まで続きました。

 

マナブ:待ってください、どちらも内陸で海がない。

 

歴史先生:その通りですね。太平の世を目指した江戸幕府は水軍に強い元海賊の大名たちをことごとく内陸を移動させ、その力を削いでいったんです。

 

マナブ:あぁ、なるほど、そういうことだったのか。

 

<読んでおきたい本>

二宮隆雄

覇王の海

 


 

九鬼嘉隆が志摩を追われたのち、信長との出会いを通して日本最強の九鬼水軍を作り、朝鮮での苦戦の後、関ヶ原の後で亡くなるまでの一生を描く歴史小説。戦国末期の激動の世の中で、伊勢志摩の海の男たちの生き方がすがすがしい。九鬼水軍とは何かを知る上でとても参考になる小説だ。



九鬼水軍の拠点「鳥羽城」を歩く

 

三ノ丸広場

 

 

鳥羽城跡(地図 ❶)

〒517-0011 三重県鳥羽市鳥羽3丁目1−1

見学自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.iseshima-kanko.jp/spot/1354 


マナブ:鳥羽駅の南口から歩いて5分ほど。鳥羽城の三ノ丸広場に来ています。

 

歴史先生:目の前を近鉄の線路が走っていて、その向こうは国道42号線。そして鳥羽水族館があります。

 

マナブ:昔はどうだったんですか?

 

歴史先生:昔は鳥羽水族館のあたりに大手門が海を向いて建っていました。

 

マナブ:まさに海の城。

 

歴史先生:そうですね。目の前にある国道や鳥羽水族館のあたりに二ノ丸御殿。そして山の上に本丸がありました。

 

鳥羽水族館

 

歴史先生:では三ノ丸広場から本丸へと登りましょう。

 

マナブ:結構な石段ですね。どれくらい高さがあるんでしょう?

 

歴史先生:約40mほどです。ビルの14階まで登る感じですね。

 

三ノ丸広場から本丸へ登る石段

 

TOBAのモニュメント

 

歴史先生:本丸へ登る途中、城山公園の広場があって、TOBAのモニュメントがあります。ここは撮影スポットですね。

 

九鬼嘉隆時代の石垣

 

歴史先生:さて、TOBAのモニュメントがある広場をV字に折り返して逆方向に登り始めると、古い石垣があります。以前は鳥羽城は江戸時代になってから作られたものと考えられていましたが、調査の結果、この石垣は九鬼嘉隆がいた戦国時代のものだということがわかりました。

 

マナブ:それによってここは九鬼嘉隆の城だと言えるようになったんですね。

 

歴史先生:その通りです。

  

本丸に続く坂

 

歴史先生:ここからは緩やかな坂道を登っていきます。

 

坂の途中から見えるミキモト真珠島

 

歴史先生:左側にミキモト真珠島が見えていますよ。

 

マナブ:あ、あれですね。

 

本丸

 

歴史先生:本丸にやってきました。

 

マナブ:いやぁー、広い。

 

歴史先生:南側にあった鳥羽小学校が以前グラウンドとして使っていたため、ここはまっ平になっていますが、かつてはもう少し段差があったことでしょう。ここの一番奥、海を臨む角には三層の天守が立っていて、大狭間(おおさま)、すなわち大きな鉄砲穴が三方の海を睨んでいたとか。天守の中には大砲が備えてあったようです。

 

マナブ:それはすごい。

 

本丸からは鳥羽の海が見渡せる

 

マナブ:ここから海を遠くまで見渡して、敵船が来襲すれば天守から大砲で撃退する。そんなお城なんですね。

 

歴史先生:そうなんです。まさに海賊あがりの戦国大名が作った海の城。

 

本丸から鳥羽駅方向を見る。右に見えるのが答志島。

 

歴史先生:右に見える大きな島影が答志島です。

 

マナブ:九鬼嘉隆は関ヶ原で西軍が負けたという報告をこの鳥羽城で聞いて、そのあとあの島へ渡ったんですね。

 

歴史先生:はい。

 

妙慶川

 

マナブ:城跡から平地に下りて、お城の周りを歩いています。

 

歴史先生:これは妙慶川。城の北側を流れていて、お堀の役割をしています。

 

相橋

 

歴史先生:妙慶川に架かる相橋はこのお城の陸側の玄関口。川の外側には武家屋敷が並んでいました。

 

マナブ:今ではこのあたりには飲食店が並んでいますね。

 

飲食店が並ぶ岩崎通り

 

「ミキモト真珠島」で真珠について学ぼう

 

ミキモト真珠島

 

歴史先生:さて、ここまで九鬼嘉隆を見てきましたが、鳥羽のもう1人の有名人と言えば?

 

マナブ:やっぱり演歌歌手の鳥羽一郎でしょう。兄弟船、とかヒットしましたね。

 

歴史先生:そうきましたか(笑)。たしかに鳥羽一郎は鳥羽市の出身ですが。

 

マナブ:ウソです、わかってますよ。真珠のミキモトさん、ですよね。

 

歴史先生:はい。では彼はどんな人物だったか、お話ししましょう。

 

マナブ:お願いします。

 

橋で真珠島へ渡る

 

 

ミキモト真珠島(地図 ❷)

〒517-8511 三重県鳥羽市鳥羽1丁目7−1

入場料1650円(高校生以下、団体割引あり)

9:00~17:00(季節によって変動有り)、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.mikimoto-pearl-island.jp/ 


歴史先生:さて、ミキモト真珠島にやってきました。

 

マナブ:ここはどういう場所なんですか?

 

歴史先生:元々は相島(おじま)と呼ばれていて、御木本幸吉が真珠の養殖を始めた記念の場所なんです。今では真珠のことがわかる「真珠博物館」、御木本幸吉のことがわかる「御木本記念館」、そして海女さんの作業が見られる「海女スタンド」などから成っています。

 

マナブ:真珠のテーマパークなんて、世界中ここだけでしょうね。

 

歴史先生:そうだと思います。さて、まずは「真珠博物館」へ行ってみましょう。

 

真珠博物館

 

歴史先生:ところで真珠って、何だか知っていますか?

 

マナブ:えーっと、貝の中にできるんですよね?

 

歴史先生:そうです。アコヤ貝がその代表ですが、二枚貝の中に偶然何らかの異物(砂粒、寄生虫など)が入り込んだとしましょう。貝はその異物から体を守ろうとします。

 

マナブ:ふむふむ。

 

歴史先生:貝殻の内側に「外套膜」という器官があるのですが、ここから炭酸カルシウムとタンパク質を分泌して、異物を包み込もうとします。その層がいくつも重なって真珠になるんです。その偶然の結果、できたのが天然真珠。

 

マナブ:天然と養殖とがあるんですよね?

 

歴史先生:はい。養殖真珠は人の手で異物を貝の中に入れます。

 

マナブ:何を入れるんですか?

 

歴史先生:様々な試行錯誤がされて、今は貝殻で作った「核」と、他の貝の外套膜のかけら(ピース)を入れています。それを海中に吊るしておくと貝の中に真珠ができます。

 

マナブ:へぇー、そうなんですね。

 

真珠博物館の内部

 

マナブ:展示室はすごく広いですね。真珠ができるまで、そして真珠の種類など、真珠のことならなんでもここでわかりそう。

 

歴史先生:そして非常に高価な真珠や、豪華な工芸作品が並びます。見ごたえのある博物館ですね。

 

ミキモト真珠島からは鳥羽港を発着する伊勢湾フェリーがよく見える

 

真珠王「御木本幸吉」はどんな人だった?

 

御木本幸吉像

 

歴史先生:では次に御木本幸吉記念館に行きましょう。ここでは彼の生涯を学ぶことができます。

 

御木本幸吉記念館

 

歴史先生: 御木本幸吉は幕末の1858年、鳥羽の錦町通りにあるうどん屋「阿波幸」の長男として生まれました。9歳で祖父が亡くなり、お父さんも病弱だったことから、12歳から家業を手伝い始めます。

 

マナブ:ごく普通の庶民のおうちですね。

 

鳥羽城の西側を走る錦町通り。この先に阿波幸があった。

 

御木本幸吉記念館にある阿波幸の復元

 

歴史先生:うどん屋では生活できないと考えた御木本幸吉は13歳から青物の行商を始めます。17歳の時、鳥羽沖にイギリスの測量船「シルバー号」が停泊。他の行商人が無視される中、得意の足芸を披露した御木本幸吉は船員たちに面白がられて商売ができたそうです。

 

マナブ:少年時代からちょっと人とは違っていたんですね。

 

歴史先生:1878年、彼が20歳のときに東京・横浜を見に行きました。そこで真珠や海産物が外国人たちに高値で取引されているのを見て、「これだ」と思ったようです。その後海産物商人へ転身。志摩の天然真珠や貝類、海藻類の商売で成功し、地元の名士になっていきました。

 

マナブ:若いうちに東京・横浜を見て、彼の人生が決まったんですね。今でも大学時代に海外留学をして視野を広める学生も多いですが、そういったことは必要ですね。

 

歴史先生:そうですよね。さて、御木本幸吉は海産物の中でも特に高価な真珠に注目していましたが、そのころ天然真珠を作るアコヤ貝が乱獲によって減少。天然真珠の生産量が落ちていきました。

 

マナブ:困りましたね。

 

歴史先生:そこで御木本幸吉は大日本水産会の幹事長、柳楢悦を訪ね、アコヤ貝の養殖への支援を依頼。1890年、アコヤ貝の養殖実験がようやく始まりました。しかしそれは苦難の連続。

 

マナブ:誰もやったことがなかったんですか?

 

歴史先生:はい、アコヤ貝を養殖する、そしてその中で真珠を作るというのは、「本当に出来るの?」と疑いの目で見られていました。しかしさまざまな試行錯誤の結果、1893年、ようやくアコヤ貝の中に半円真珠ができているのを発見。1896年に特許を取得し、真珠の養殖という世界で初めてのビジネスが始まりました。

 

マナブ:時間がかかりましたね。1896年だと彼は38歳。

 

歴史先生:そして1899年には東京に御木本真珠店を開業。その後、国内はもちろんアメリカやヨーロッパにも店舗を拡大し、現在のミキモトにつながっています。


志摩の「海女さん」はいつごろからいるの?


海女スタンド


歴史先生:さて、ミキモト真珠島には「海女スタンド」という施設があって、海女さんの作業の様子を見ることができます。


マナブ:時間が決まっていますね。今日は9:30から16:30まで毎時30分(12:30を除く)から、見られるようです。


歴史先生:そろそろ次の回の時間ですね。すでに人が集まってきていますよ。


マナブ:私たちも行きましょう。


海女さんたちは船で来て、ここで海に潜る


マナブ:3人の海女さんが船で来ました。ここで海に潜るんですね。


歴史先生:潜ってしばらくすると浮き上がってきて、ほら、今のはアワビかサザエでしょうか、たらいに入れていますね。


マナブ:結構長く潜っていますが・・・。


歴史先生:潜っている時間は一般に50秒、と言われています。その短い時間の中で効率よく採集を行います。


マナブ:潜って、採集して、浮き上がって、となると実際の採集の時間はとても短いんでしょうね。ところでどれくらいの深さを潜っているんでしょう?


歴史先生:経験の浅い海女さんや高齢の海女さんは5m程度。熟練者の海女さんだと10mくらいまで潜ります。夫婦海女と言って、奥さんが命綱をつけて重りを持って潜り、舟の上で旦那さんが綱を持って引き上げるという方法だと、20mくらいまで潜れるそうです。


マナブ:すごい技術なんでしょうね。


歴史先生:呼吸法、そして採集する技術。そうそう、水の上に顔を出した時に一気に呼吸をすると肺を痛めるので、ヒューという口笛のような呼吸で息を整えます。これは「磯笛」と呼ばれて、その哀愁ある音はここでも聞けますよ。


マナブ:あ、ほんとだ、海女さんが水面に顔を出すと、ヒューという口笛のような音が聞こえる。


海に潜って、浮き上がると獲ったアワビなどをたらいに入れる


歴史先生:持続可能な採集をおこなうため、例えば10.6㎝以下のアワビは採取禁止にするなど、厳格なルールが守り続けられてきました。これらの技術や文化は国の重要無形民俗文化財に登録されています。


マナブ:歴史がありそうですが、いったいいつ頃から行われているんでしょう?


歴史先生:いつだと思いますか?


マナブ:えーっと、伊勢神宮ができたころから?


歴史先生:いい推察ですね。倭姫命が志摩を訪れた際に、海女さんからアワビをもらい、そのおいしさに感動したという話があります。それ以来、アワビは伊勢神宮に奉納され続けています。でも、海女さんはそれ以前からいたようです。


マナブ:いつ頃だろう?


歴史先生:鳥羽にある約3,000年前の白浜遺跡。大量のアワビの貝殻と、それを採集する鹿の角でできた道具が発見されています。アワビは深く潜らなければ採集できませんから、海女のような潜る人がその頃からいた証拠と言えるでしょう。


マナブ:ということは、正解は縄文時代。


歴史先生:はい、そうなります。


マナブ:でもその頃は海女さんは女性だったんですかね?


歴史先生:わかっていることとしては、少なくとも奈良時代以降は海女さんは女性の仕事でした。それ以前は男女で行われていたかもしれません。


マナブ:それがどうして女性の仕事に? 結構危険で体力のいる仕事に見えますが。


歴史先生:身体的には女性の方が皮下脂肪が多くて寒い海にも強い、筋肉量の少ない女性の方が酸素消費量が少ない、などの理由が考えられます。また男性は海賊や捕鯨、遠洋漁業などで遠くへ行ってしまうのに対して、残された女性が沿岸でできる仕事として海女がありました。


マナブ:なるほど、そういう合理性があったんですね。


歴史先生:さて、鳥羽の旅はいかがでしたか?


マナブ:九鬼水軍の話、おもしろかった。戦国時代は陸地の奪い合いばかりに注目してしまいますが、海の上での戦いもあったんですね。九鬼水軍がなければ信長、秀吉の天下もなかったかも。それからミキモト真珠島。真珠って何なのか、どうして鳥羽の名産になったのかなどがよくわかって勉強になりました。鳥羽は水族館が定番ですが、歴史がわかると他にも何倍も楽しめる場所ですね。


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