登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
総大将が討ち死に。江戸幕府を震撼させた「島原・天草一揆」とは?
知恵伊豆の投入で戦況逆転。原城はついに落城。
松倉重政の子、松倉勝家はさらに悪名高い大名 だったという悲劇
キリストのような奇跡を起こしたと言われる総大将:天草四郎
とても広い世界遺産「原城跡」を歩く
原城の中に湧き水? それは阿蘇山の大噴火が起こした奇跡
天草四郎とみそ五郎:南島原市が作る動画が面白い
総大将が討ち死に。江戸幕府を震撼させた「島原・天草一揆」とは?

原城跡にある天草四郎像

マナブ:さぁ、今日は島原半島を南に下って、南島原市にある「原城跡」に行きます。
歴史先生:「島原・天草一揆」の舞台ですね。
マナブ:ところでさっきから気になっていたんですが、たしか学校では「島原の乱」という名前で習ったような・・・
歴史先生:そうなんです。昔は島原の乱という呼び方が一般的でしたが、今では島原・天草一揆と言うようになっています。
マナブ:そうでしたか。
歴史先生:では、島原・天草一揆について簡単に まとめておきますね。一揆が起きたのは1637年10月末。翌1638年2月末に原城が落城しています。
マナブ:冬の間の4か月ほどの戦いだったんですね。
歴史先生:はい。徳川家康が征夷大将軍になって江戸幕府が始まったのが1603年ですから、江戸幕府ができて35年、将軍は3代徳川家光の時代です。島原・天草一揆のあと、明治維新まで約230年もの間、日本国内では大きな戦乱が起きていません。まさに戦国最期の戦乱、と言えます。
マナブ:そうなりますね。
歴史先生:当初、一揆軍の勢いは激しく、一時は島原城にも迫りました。しかし幕府軍の投入によって徐々に退却を余儀なくされ、現在の南島原市にある原城に立てこもることになります。原城は有馬氏が築いた巨大かつ堅牢な城でしたが、松倉重政の代にな って新たに島原城を築城することに伴って廃城となりました。原城に立てこもった一揆軍は3万7千人とも言われています。
マナブ:いかに巨大な城だと言ってもかなりの人数ですね。
歴史先生:そうですよね。しかし当初は幕府側はこの反乱をそれほど大きなものと考えておらず、板倉重昌を大将として送り込みました。
マナブ:あっ、島原の江東寺にお墓のあった人。
歴史先生:そうです。板倉重昌は徳川家康に仕え、1万5000石の小藩主になった人。その軽い役職の板倉重昌が大将として名だたる九州の大大名たちを率いるという構図には元々無理がありました。幕府軍は1637年12月10日に第一回目、20日に第二回目の総攻撃を行いましたが、一揆軍の抵抗は激しく、いずれも失敗に終わりました。
マナブ:九州の大名たちの軍勢の士気も高くなかったんでしょうね。
歴史先生:そう言われています。そこで幕府は老中松平信綱を派遣します。これは大物です。
マナブ:「老中」ですものね。
歴史先生:それだけでなく、松平信綱はちょっと特別な存在。「知恵伊豆」って聞いたことありませんか?
マナブ:あ、なんか聞いたことがあります。
歴史先生:松平(伊豆守)信綱は非常に知恵に優れた人として徳川家光のころの江戸幕府の難題を次々に解決し、幕府の基礎を固めた人として有名です。松平信綱について詳しく書かれた本は少ないのですが、以下などは面白く読んでいただけるかと思いますよ。
<読んでおきたい本>
知恵伊豆に聞け
中村彰彦

歴史先生:さて、その知恵伊豆が派遣され、すでに小倉に到着したと知って焦ったのは板倉重昌。
マナブ:そうか。「ご老中が到着される前に何とか私の手で落城させないとどんな叱責を受けることか」、と。
歴史先生:そこで周囲の反対を押し切り、12月30日に第三回目の総攻撃をかけます。
マナブ:結果は?
歴史先生:結果は大惨敗。4,000人の戦死者を出し、しかも板倉重昌自身も流れ玉に当たって死んでしまいます。
マナブ:なんと総大将が討ち死に、ですか。幕府軍の士気はますます下がりそう。
知恵伊豆の投入で戦況逆転。原城はついに落城。

原城跡に立つ世界遺産の碑
歴史先生:そこへ到着したのは幕府の切り札、松平信綱。「知恵伊豆」、と呼ばれた男です。
マナブ:この状況にどう対処したのでしょう?
歴史先生:知恵伊豆こと松平信綱は、まずは城内にどれくらい食料が残っているのかを知りたいと思いました。どうやって調べたと思いますか?
マナブ:うーん、むずかしいなぁ。
歴史先生:原城は海岸にあります。食料がなくなったら、岩場に下りて海藻をとって飢えをしのぐはず。
マナブ:そうですね。
歴史先生:ということで兵士が米をまだ食べているのか。あるいは海藻を食べているのか。これを知りたかったんです。
マナブ:ということは?
歴史先生:ということで城外での戦闘で亡くなった一揆軍の兵士を解剖し、海藻しか食べていないことを確かめたんです。
マナブ:なるほど、さすが知恵伊豆。
歴史先生:食糧の蓄えが乏しいことを確信した知恵伊豆は無益な突撃をやめさせ、兵糧攻めに入りました。12万人にも及ぶ大軍勢で原城を陸から海から包囲し、食料を持ち込めないようにしました。
マナブ:原城に籠城している一揆軍は3万7千人、でしたよね? 1日の食料だけでも相当な量ですから、これは弱点になりますね。籠城している人たちは島原の姫松屋さんで食べた「具雑煮」を食べてたのかな?
歴史先生:はい、食料が十分にある間は具雑煮を食べていたらしいです。冬の籠城ですからあったかいものが欲しいですよね。でも私達が食べたような具だくさんで出汁の利いたものではなかったことは確かでしょうけど。
マナブ:それはそうですね。
歴史先生:ところで本来、「籠城」というのは兵法的にどういう場合に用いる作戦でしょう? それは堅牢な城を敵方が攻めあぐねて時間を浪費させ、味方の援軍が駆けつける時間を稼ぎ、援軍がきた時に一気に城内から打って出て挟み撃ちにするということができる時に取るものです。だからそれまでの間、持ちこたえる食料があれば可能な作戦でした。
マナブ:でも一揆軍にはどこからも援軍なんてありませんよね? だれか援軍の当てがあったのですか?
歴史先生: そこが問題です。キリシタンの人たちは、信仰に厚かったので、きっと神様に導かれてポルトガルから南蛮船がやってきて幕府軍を追い払ってくれると信じていた人も多かったようです。
マナブ:でも、実際には来なかった。
歴史先生:いえ。でもここからが知恵伊豆のすごいところ。なんとオランダの船と契約して、原城沖に来させるのです。
マナブ:えっ?
歴史先生:一揆軍は「南蛮船が助けに来た」と歓喜します。ところが、なんとこの南蛮船、原城に対して砲撃を加えるのです。
マナブ:ひやー、それはキツイ。
歴史先生:それによって、砲撃の被害そのものよりも「南蛮船の援軍は来ない」という絶望感が一揆軍の中に広がったことが大きな効果を生んだのでしょう。
マナブ:食料がなくて体が弱り、唯一の希望であったポルトガルの援軍も来なくなった。もう戦う気力もなくなりますね。
歴史先生:1638年2月末。食料も弾薬も尽き、希望も失った一揆軍に対して、幕府軍が総攻撃を仕掛けます。一揆軍にはもう抵抗する力は残されていませんでした。
マナブ:どうなったんですか?
歴史先生:伝えられるところでは、松倉家の絵師ほか数名を除いて3万7千人全員が殺された、と言われています。これほど大勢が殺された、というのは日本史上でも他に類を見ません。
マナブ:いやー、あ まりにも凄惨な結末ですね。
歴史先生:3万7千人のうち1万4千人は天草から来た人たち、2万3千人は島原の領民ですが、これはそれぞれのほぼすべての人たちだったと言われています。
マナブ:ということは、当時島原と天草に暮らしていた人たちは老若男女を問わずほぼすべて皆殺しにされた、ということですか。
歴史先生:そうなります。ということで原城の落城後は島原も天草も、人口が極端に少ない状態になりました。そこで幕府は強制移住命令を出し、豊後、薩摩、小豆島などから移民が行われたそうです。今、島原や天草に住んでいる人たちの祖先はこういった人たちが多いのです。
マナブ:あまりにも悲惨な歴史ですね。そもそも、何でこんな絶望的な反乱が起きたのでしょう?
歴史先生:島原・天草一揆の原因はさまざまです。キリシタンへの厳しい弾圧という宗教的な原因だけでなく、過酷な年貢の取り立ても大きな原因であったでしょう。こちらの本ではその原因と実像について様々な角度から分析がされています。
<読んでおきたい本>
島原の乱
神田千里

松倉重政の子、松倉勝家はさらに悪名高い大名だったという悲劇

松倉勝家によって白く塗られた島原城天守
歴史先生:島原で松倉重政がいかに悪名高い大名だったか、という話をしましたね。
マナブ:はい、身分不相応な大規模な島原城を建てたり江戸城の普請を請け負ったり、ルソンへ侵攻するために銃をそろえたり。そのための金を得るためにインチキな検地をやって領民から重税を搾り取って、最後はおそらく暗殺されたんですよね。
歴史先生:はい。1630年に小浜温泉で松倉重政が死去すると、その嫡男の松倉勝家が跡を継ぎます。
マナブ:たしか息子はさらにひどい領主だったとか。
歴史先生:そうなんです。父に輪をかけてひどい領主でした。
マナブ:それは悲劇です。
歴史先生:松倉勝家は再度インチキな検地をおこない、実際は4万石程度なのに10万石と見積もり、領民から重税を取り立てます。さらには農作物だけでなく、人頭税、住宅税など新しい税を作り、さらなる取り立てを行いました。そのお金を使い、多額の費用をかけて島原城の天守を白く塗ったりしたそうです。さらにキリシタンへの拷問・処刑は父の時代以上に残忍を極めました。松倉勝家は島原・天草一揆の引き金を引いた張本人と言えます。
マナブ:というと?
歴史先生:1637年10月、口之津(南島原市の南部)の村が年貢を納められませんでした。そこで代官所は庄屋で あった与左衛門さんの奥さんを人質に取りました。奥さんは当時妊娠中でした。奥さんを助けようと村人で話し合いましたがどうしても納める米が捻出できません。すると役人たちは奥さんを冷たい水に浸けるという拷問を繰り返し、奥さんは6日間苦しんだ後、水中で出産した子と共に亡くなってしまいました。
マナブ:ひどすぎる・・・。
歴史先生:10月25日、耐えかねた村人たちはついに蜂起し、代官所を襲って代官を殺害したのです。これが島原・天草一揆の始まりです。そこから4か月にわたって大きな戦いに発展しました。
マナブ:翌年2月末に原城は落城するわけですが、松倉勝家はどうなったんですか?
歴史先生:戦いの間は島原藩の藩主として従軍していたわけですが、落城後の戦後処理ではその 責任を厳しく追及されました。松倉氏は改易。所領はすべて没収。身柄を拘束されて江戸へ送られました。
マナブ:罪人扱いですね。
歴史先生:そして江戸で斬首されます。これって実はすごいことで、通常、武士で不始末を犯した場合、切腹を命じられますよね? 切腹は武士の名誉でもあります。
マナブ:そうですね。時代劇とかでよく見ます。
歴史先生:しかし松倉勝家は大名という高い身分でありながら、切腹ではなく、斬首なんです。江戸時代を通じて、斬首された大名は松倉勝家ただ一人です。そのことからも松倉勝家の悪政によって島原・天草一揆が起きたことに対しての、幕府の強い怒りがわかります。
マナブ:幕府はそこまでしたんですか。他の大名への見せしめ、だったのかもしれませんね。
歴史先生:そしてこの一揆を通してキリシタンの脅威を目の当たりにした江戸幕府は、翌年の1639年、ポルトガル船の入港を禁止し、そこから長い鎖国状態に入るのです。
キリストのような奇跡を起こしたと言われる総大将:天草四郎

原城本丸跡に立つ天草四郎像
マナブ:あれ? 島原・天草一揆についてこんなに話をしてるのに、一番有名な「天草四郎」がまだ出てきていません。
歴史先生:忘れているわけではありませんよ(笑)。
マナブ:天草四郎はどんな人だったんですか? マンガとかでは不思議な力を持っている美少年として描かれますが。
歴史先生:天草四郎は1621年の生まれ(諸説あり)。原城落城が1638年ですからその時はまだ16,17歳くらいの少年でした。本名は益田時貞。肥後の裕福な家庭の子で、幼いころから父に連れられて長崎へ行き、学問に励んだことから、当時の天草地方では珍しく優れた教養を身に着けていました。キリシタンには長崎に行ったときに入信したと言われています。
マナブ:うんうん。
歴史先生:天草ではキリシタン大名だった小西行長が関ケ原の戦いに敗れた後、唐津領主の寺沢広高が来てキリシタンへの過酷な弾圧を行い、さらに重い年貢を課していました。
マナブ:島原での松倉親子の苛政の話がありましたが、天草も似たような状況だったんですね。
歴史先生:そうなんです。そしてかつて天草にいた宣教師が以下のような予言を残しています。
「天変地異がおこり人が滅亡に瀕するとき、16歳の天童があらわれ、キリストの教えを信じるものを救うであろう。」
マナブ:まさに天草四郎はそれにぴったり。
歴史先生:島原・天草一揆では実際にはかつて有馬氏・小西氏の家臣であった元武士たちが指導的な役割を担っていましたが、天草四郎に生まれ持ってのカリスマ性が感じられ、かつ優れた教養があることからこの宣教師が予言した天童だとして神格化され、一揆軍のシンボルとして祭り上げられたものと考えられます。美少年であったのかどうかはわかりませんが、人を引き付ける魅力にあふれていたことは間違いないでしょう。
マナブ:たしか、いろんな伝説も残していますね。
歴史先生:そうなんです。盲目の少女に触れたら目が見えるようになったとか、海の上を歩いて天草から島原まで渡ったとか、いくつかの奇跡が言い伝えられています。でもこれらはイエス・キリストが起こした奇跡と酷似していて、それらになぞらえた作り話であろうと思われます。
マナブ:そして一揆軍の総大将として籠城するわ けですが、落城した後、やはり殺されてしまうんですか?
歴史先生:はい、残念ですが殺されてしまうんです。その首は原城の大手門前に架けられ、その後長崎の出島の入口にも架けられて晒されたそうです。
マナブ:少年に対する仕打ちとしてはむごいです。でもそれだけ幕府の怒りもすさまじかったんでしょうね。
とても広い世界遺産「原城跡」を歩く

マナブ:国道251号線から「←原城跡」とい看板を目印に左折します。道なりに進んで「原城温泉 真砂」という建物の前に来ました。ここの無料駐車場に車を停めます。(地図 ❶)
歴史先生:原城跡はとても広いんですが、ここから徒歩で行きましょう。
マナブ:さっき車で通った時にちらっと見えましたが、建物は何も残っていないんですか?
歴史先生:島原・天草一揆のあと、原城が二度と再生できないよう、幕府軍によって建物はもちろん石垣も徹底的に破壊されました。現在はその土台だけが遺構として残っています。ところで凸版印刷さんが製作した「ストリートミュージアム」のVRアプリを見ると、当時の建物が再現されています。Webサイトには動画もあるので、それを見るだけでも在りし日の原城がどんなものだったか、よくわかると思いますよ。
凸版印刷 ストリート ミュージアム 「原城」
https://www.streetmuseum.jp/historic-site/shiro/2024/05/15/271/


原城跡 大手門跡

マナブ:歩き始めてすぐ。先ほど車でも通りましたが、まずは「大手門跡」に来ました。(地図 ❷)
歴史先生:昔の原城の正門がここに当たります。道路の向こう側の小高い部分が三の丸。落城後には天草四郎をはじめ、多くの首が晒された場所です。

原城跡 二の丸にある世界遺産の碑
マナブ:続いて広い台地に出ました。(地図 ❸)
歴史先生:ここは二の丸です。有馬氏の居城であったときにはここに御殿がありました。今では世界遺産の碑が立っています。

原城跡から見える雲仙
歴史先生:後ろを振り返ってみてください。
マナブ:おぉ。大きな山が雲を被っています。あれは雲仙ですね。
歴史先生:そうです。大きくドーンとそびえていて、しかも急斜面になっていることがよくわかりますね。右側は広い裾野になっていて、その向こうに眉山が見えています。

原城跡 本丸へ続く道
マナブ:引き続き歩いていきます。
歴史先生:前に 見えてきた台地がいよいよ本丸です。(地図 ❹)

原城跡 本丸跡にある十字架
歴史先生:本丸には有馬氏の時代には天守があったようです。複雑な枡形なども残っていて、守りが堅固だったことがうかがえます。島原・天草一揆ではここ本丸に天草四郎が本陣を構えていました。
原城の中に湧き水? それは阿蘇山の大噴火が起こした奇跡

原城本丸跡のとなりにある蓮池の跡
歴史先生:本丸跡を見たら、次にブラタモリでも紹介されたポイントに行きましょう。「蓮池」の跡です。(地図 ❺)
マナブ:おっと、またブラタモリ。どんな話だったんですか?
歴史先生:先ほど一揆軍は兵糧攻めで苦しんだ、と言いましたが、水はどうだったかというと、この場所に「蓮池」という湧き水の大きな池があったんです。
マナブ:ん? ここって海岸沿いの小高い丘ですよね。背後に山もない。そして池の向こうは海に続く断崖。とても湧き水が出そうな地形じゃないですけど。
歴史先生:そうなんです。普通ならとても湧き水の出る地形じゃない。ではなぜここに湧き水が出るのか? それにはこの丘の特殊な地層が関係しています。
マナブ:特殊な地層?
歴史先生:はい。この丘の地層ですが、二重構造になっています。このあたりは元々海の底で、丘の下半分は泥岩でできています。泥岩はとても水を通しにくい。そして上半分は何と火砕流。
マナブ:雲仙ですね。
歴史先生:と思うでしょうけど、実は違うんです。なんとこれは阿蘇山の火砕流。
マナブ:え、まさ か(笑)。阿蘇山なんてはるか遠くですよ。
歴史先生:そのはるか遠くから火砕流がここまで来たんです。Aso-4(あそよん)ってご存じですか?
マナブ:いいえ、知りません。
歴史先生:阿蘇山は過去に何度か大きな噴火をしていますが、8万9千年前の4回目の噴火はその中でも最大規模のものでした。これをAso-4と呼びます。
マナブ:どれくらい大きかったんですか?
歴史先生:次の地図を見てください。ピンクの部分がAso-4の火砕流が流れてきた地域。大分県、熊本県、宮崎県北部など、広範囲に広がっていま す。

出典:産総研地質調査総合センターウェブサイト https://www.gsj.jp/Map/JP/lvi.html
マナブ:うわー。信じられない。まさかの規模です。これが今起こったら、大分県、熊本県は数時間で全滅してしまいますよ。
歴史先生:この図の島原のところを拡大してみましょう。

出典:産総研地質調査総合センターウェブサイト https://www.gsj.jp/Map/JP/lvi.html
マナブ:あっ。海岸に一か所だけピンクのところがありますね。
歴史先生:そうなんです。ここが原城跡。
マナブ:おー。偶然にもここだけ火砕流が積もっている。
歴史先生:そう、そして火砕流は水を通しやすい。その地層を通った水はその下にある堅くて水を通さない泥岩の上に蓄えられ、それが岩の間から浸みだして蓮池を作ったんです。
マナブ:なん と。この丘はまさに阿蘇山による奇跡の場所なんですね。

蓮池から湯島を見る
歴史先生:ところで写真の中央、遠くに見えているのは「湯島」。島原と天草のほぼ中間点にポツンとある離島です。別名「談合島」と呼ばれ、島原・天草一揆の際に島原側と天草側が打ち合わせを持った場所です。現在ではたくさんの猫が住んでいて、「猫島」として観光名所にもなっています。
マナブ:行きたーい(笑)。
歴史先生:マナブさんは猫好きですものね。
マナ ブ:原城跡。400年ほど前に、ここで大変な悲劇が起きたんですね。実際の場所に足を運んでみて、改めて感じることもあります。みなさんもぜひ一度、原城跡を訪れていただきたいと思います。
天草四郎とみそ五郎:南島原市が作る動画が面白い
歴史先生:原城跡のある南島原市は観光にも力を入れていて、俳優の満島ひかりさんが天草四郎や市役所の観光担当に扮したPR動画が話題になりました。
マナブ:これ、コメディタッチでとってもおもしろかった。ぜひ皆さんも見てくださいね。

https://www.youtube.com/watch?v=pk4_jK9ScsE

南島原市役所前のみそ五郎像
© Nagasaki Prefecture Tourism Association
歴史先生:最後に、「みそ五郎」のお話を。
マナブ:みそ五郎?
歴史先生:世界中のいろんなところに「巨人伝説」がありますが、ここ島原では「みそ五郎」という大巨人が住んでいたという伝説があります。
マナブ:大巨人? どれくらい大きかったんですか?
歴史先生:朝起きて雲仙岳に腰掛け、有明海で顔を洗ったと言われています。
マナブ:それは大きすぎる(笑)。
歴史先生:みそ五郎は心優しい大男。味噌が大好きで1日に4斗(1斗は約18リットル)も食べていたそうで、畑仕事などを手伝っては村人から味噌をもらっていたそうです。あるとき大嵐が来て、船が流されそうになったのを海に入って食い止め、村人からとても感謝されました。それで味噌をたくさんもらい、幸せに暮らしたんだそうです。
マナブ:ほのぼのした話ですね。
歴史先生:南島原市の商店街では毎年「みそ五郎まつり」が開催され、地元の人たちに親しまれています。ケンドー・コバヤシさんがみそ五郎に扮する動画もあがっています。
マナブ:南島原市、面白いことしますね。

https://www.youtube.com/watch?v=A9uef4pWRxA
歴史先生:さて、マナブさん。ここまで島原・雲仙を巡ってきましたが、いかがでしたか?
マナブ:まずは雲仙・眉山という火山地形、そしてそれがもたらした大災害をみて 、自然の偉大な力を肌で感じました。そしてそこに暮らしてきた人たちの歴史。松倉重政・勝家親子の苛政と、それに耐えきれなかった人々が起こした島原・天草一揆の大きな悲劇。まさに歴史と地形の両方を満喫した旅でした。

