登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
あの時ここで、何が起きたのかを知る。長崎原爆資料館
原爆はここに落とされた:爆心地公園
平和公園で世界平和の実現とこれからの日本について考える
浦上天主堂で「被爆のマリアに対面する
コラム:浦上四番崩れ
あの時ここで、何が起きたのかを知る。長崎原爆資料館

長崎西洋館

マナブ:路面電車に乗って、原爆資料館前の電停で降りました。ここ、電車がビルの中を貫通しているんですね。
歴史先生:そうなんです。「長崎西洋館」という商業施設で、路面電車と同じ長崎電気軌道が経営していました。1990年から営業していたんですが、2023年に閉業しました。JR九州がこれを取得し、解体・再開発を行うようですので、もうすぐ見れなくなってしまいます。
マナブ:坂を登って原爆資料館の入口に来ました。ここから中へ入ります。

長崎原爆資料館
長崎原爆資料館(地図 ❶)
〒852-8117 長崎県長崎市平野町7−8
入館200円(小中高生、団体割引あり)
8:00-18:30(5~9月)、8:30-17:30(10~4月)、8:30-20:00(8/7~8/9)、最終入場は閉館30分前まで。12/29~12/31休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
マナブ:円形のエントランスホールのらせん状の通路を下って、地下の展示室へ来ています。
歴史先生:まずは入口に、大切なメッセージ、「長崎を最後の被爆地に」が各国語で書かれています。
マナブ:本当にそうでないといけません。現代に生きる者として、長崎を最後にする、という強い決意をあらためて感じるべき場所ですね。

長崎を最後の被爆地に
歴史先生:最初の展示コーナーは「1945年8月9日」。その時、ここで何が起きたのか。
マナブ:壊れた時計があります。原爆がさく裂した午前11時2分、で止まっています。そして被爆前の長崎の様子が写真やビデオで展示されています。


「1945年8月9日」
歴史先生:次はメインのコーナー。「原爆による被害」、です。当時の長崎市の人口は24万人。その約1/3にあたる7万3千人以上が亡くなり、7万4千人以上が負傷を負いました。想像を絶するとてつもない惨事です。特に爆心地になった浦上地区での被害が大きく、キリスト教信者1万2千人のうち8,500人が亡くなった、とのことです。
マナブ:ここに浦上天主堂の惨状、という展示がありますね。
歴史先生:浦上天主堂は1914年(大正3年)に建てられた、当時「東洋一」と言われた大聖堂でした。しかしほぼ爆心地に近い位置にあり、一部の壁を残して一瞬で吹き飛ばされてしまいました。中にいた2人の神父と数十人の信徒が命を落としました。その時に落下した鐘楼は今も残っていますので、あとで見に行きましょう。
マナブ:今はまた大聖堂が再建されていますね。
歴史先生:はい、しかしこれには大変難しい問題がありました。広島を考えてみてください。爆心地には「原爆ドーム」が今も残り、被爆のシンボルとして今もその惨状を伝えています。長崎の場合、浦上天主堂がまさにその役割を担うことができたわけですが、一方で浦上天主堂は大切な信仰の場所。信徒の皆さんにとっては一日も早く取り戻したい場所であったわけです。
マナブ:広島とは少し事情が違いますね。
歴史先生:はい。そこで多くの議論がなされました。実際、市議会では浦上天主堂の「保存」を決議していましたが、その後の議論で解体・再建されることになりました。もし保存されていれば、広島の原爆ドームと共に世界遺産になっていたことでしょう。
マナブ:被災した浦上天主堂は、今はここ原爆資料館でレプリカを見られる、というわけですね。

被災した浦上天主堂のレプリカ
マナブ:ここに溶けたロザリオ、が展示されています。欧米からの観光客の人たちにはキリスト教の人が多いでしょう。戦争当時、日本というと遠い東洋の国の異教徒というイメージで、原爆投下へのためらいが少なかったのかもしれません。しかしそこには同じキリスト教の信徒がたくさん住んでいて、大きな教会が破壊さ れた、というのは、彼らの心により強く響く事実なのではないでしょうか。

溶けたロザリオ
歴史先生:こちらは長崎に投下された原爆「ファットマン」の模型です。グアムの近くにあるテニアン島で組み立てられ、B29ボックスカーに搭載されて長崎に投下されました。
マナブ:たしか当初は小倉に落とす計画だったとか。
歴史先生:そうなんです。しかし当日小倉の上空に行ってみると視界が悪く、急遽長崎に変更されたようです。視界が悪くなっていた原因は前日の八幡への空襲による煙ともやが残っていたため、と考えられています。

ファットマンの模型
マナブ:そしてこちらは長崎の3D地形模型と原爆の広がり、ですね。えーっと、実はちょっと前から気になっていて、でも言いにくいことがあるですが・・・
歴史先生:はい、何でしょう?
マナブ:長崎は軍港でしたよね。もし米軍が攻撃目標として狙うとしたら港の軍事施設の方だと思うのですが、なぜ港のほうではなく、キリスト教信徒がたくさん住んでいる浦上に投下したのかと・・・。
歴史先生:たしかにそうですよね・・・。実は投下目標は長崎港だったようなのですが、当日 は長崎上空には雲があって視界が悪く、大きく北にずれて浦上に落としてしまったようです。
マナブ:そうでしたか。何だかいたたまれない思いがします。

長崎・浦上のジオラマ
歴史先生:最後に「核兵器のない世界」のコーナーです。世界における核兵器の現状などがパネル展示され、これからの平和について考えさせられます。
マナブ: ここはやはり、来ておくべき場所ですね。原爆投下はまだ最近の話ですし、現代の世界情勢にもつながっています。ここは昔の歴史を知る場所ではなく、まだこれからの歴史を作っていく私たち、全人類が訪れて、これからの世界の進む道を考えるべき場所だと強く思います。
<読んでおきたい本>
遠藤周作「女の一生 二部・サチコの場合」

太平洋戦争のさなか、キリスト教徒である修平は聖書の教えと戦争で人を殺すことの矛盾に苦しみつつ、特攻隊として出撃。そして修平に心を寄せるサチコは長崎で原爆にみまわれる。昭和の激動の中で、戦争によって引き裂かれた恋と信仰。当時の長崎の人々がどう考え、どう生きたのか。浦上地区を訪問する前にはぜひ読みたい一冊である。
原爆はここに落とされた:爆心地公園

平和の母子像

歴史先生:原爆資料館を出て、正面の階段を下っていきましょう。ここ、標識がないので、初めて来られたらちょっと迷うかもしれません。
マナブ:階段を下りると公園になっていて、左側に碑のようなものがありますね。
歴史先生:こちらは「平和の母子像」です。あの惨禍を繰り返さない、という思いから建てられました。このようなモニュメントが公園内にはたくさんあります。
マナブ:「平和の~」とありますが、内容は悲惨な地獄絵。このようなことが二 度と起きてほしくない、起こしてはならない、という思いを新たにします。
歴史先生:こちらは「誓いの火」。オリンピックの時にギリシャで聖火をもらう、という儀式がありますよね?
マナブ:はい、テレビで見たことがあります。
歴史先生:こちらの火もギリシャで採火されたもの。オリンピック以外の目的で採火されることって、とても異例なんです。
マナブ:なぜ聖火がここにあるのですか?
歴史先生:オリンピックの聖火は平和の象徴です。長崎を人類最後の被爆地にする、という思いからギリシャ政府の協力で実現しました。この火は世界から核兵器がなくなる日まで灯(とも)されることになっています。

誓いの火
マナブ:爆心地公園に入ってきました。(地図 ❷ )広い空間になっていますね。

爆心地公園
爆心地公園(地図 ❷)
〒852-8118 長崎県長崎市松山町5
入園自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.city.nagasaki.lg.jp/page/6806.html
歴史先生:その奥に立っているのは「原子爆弾落下中心地碑」です。まさにここの上空、500mで原子爆弾が破裂しました。

原子爆弾落下中心地碑
歴史先生:その近くには「浦上天主堂遺壁」、があります。これは実際の浦上天主堂の壁の一部を移築したもの。被爆の実相を伝える貴重な遺構です。浦上天主堂は原爆で正面の壁と南側の壁の一部のみが残りました。その南側の一部が今、ここにあります。看板と合わせて見てください。


浦上天主堂遺壁
平和公園で世界平和の実現とこれからの日本について考える

平和公園に登るエスカレーター

平和公園(地図 ❸)
〒852-8118 長崎県長崎市松山町9
入園自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
http://www.city.nagasaki.lg.jp/heiwa/3030000/3030100/p005151.html
マナブ:爆心地公園の北側のとなりに平和公園(地図 ❸)が続いています。ここは小高い丘になっているんですね。
歴史先生:はい。原爆の前までは、この丘の上は刑務所だったんです。当時ここに収容されていた人たち、職員を含めて134名が即死しました。
マナブ:このあたり、今は広い公園になっていますが、原爆の前はいろんな建物があったんですか?
歴史先生:はい、こちらの看板に昔の地図が描かれています。丘の上は刑務所、そしてその周囲には民家がたくさんありました。しかし、ほとんどすべては原爆によって一瞬にして破壊されてしまいました。

平和公園付近の昔の地図
マナブ:エスカレーターを上がったところに「平和の泉」があります。
歴史先生:原爆投下直後、水を求めながら多くの方が亡くなりました。その方々の冥福を祈る噴水です。

平和の泉
マナブ:いよいよ、有名な平和祈念像です。
歴史先生:長崎出身の彫刻家、北村西望氏による作品で、原爆から10年後の昭和30年(1955年)に完成した青銅製の像です。「右手は原爆を示し、左手は平和を、顔は戦争犠牲者の冥福を祈る」という作者の言葉が刻まれています。
マナブ:毎年8月9日の記念式典はここの前の広場で行われますよね。

平和祈念像
歴史先生:今を生きる私たちには、難しい課題が課せられています。
マナブ:それは?
歴史先生:核なき世界の実現、という課題です。
マナブ:ヒロシマ・ナガサキの原爆のことを知れば、「こんな非人道的な兵器を決して使ってはいけない」、ということを誰もが感じます。しかし一方で、核による抑止力、ということを主張する意見もあります。第三次世界大戦がいまだ起きていないのは、主要国が核兵器を大量に持っているから、なのでしょうか?
歴史先生:とはいえ、通常兵器による戦争は絶えず世界のあちこちで起きています。核兵器のように一瞬で大量の殺戮をおこなうようなことはまだ起きていませんが、多くの方が亡くなっているのも確かです。
マナブ:自国ファーストを当たり前に主張する国が増えてきました。
歴史先生:自国ファーストという考え方にナショナリズムが結びついて、孤立を深めていくと非常に危険です。
マナブ:それなのに、日本でもそういった主張をする政治家、政党が出てきています。
歴史先生:日本人が困窮すると、すぐ攘夷思想が出てきます。幕末もそうでしたし、太平洋戦争の前もそうでした。最初は庶民が熱狂的に支持した、そして後から「あれは違ってた」と反省したもののもう手遅れだった、というのも共通しています。幕末は奇跡的にソフトランディングできましたが、太平洋戦争では日本史上最悪の壊滅的な結果をもたらしました。
マナブ:鬼畜米英。今では中国に対して偏見が増えています。中国に対して強い発言をする政治家が人気となり、SNSなどで盛んにほめたたえられているのは非常に危険に感じます。
歴史先生:今を生きる私たちからすると日本人は平和を愛する民族のように思われがちですが、過去の歴史を見ると決してそうではありま せん。
マナブ:日本人も自分たちの中にある、排外的な怖い攘夷的な考え方に気づかなければいけませんね。また、世界を見ると指導者の中には核兵器の使用をちらつかせて脅す者もいますし、アメリカをはじめとして各国のリーダーが常識的でなくなってきています。私には世界の秩序が少しずつ壊れ始めている気がしてなりません。

祈念像の視線の先には稲佐山がある
歴史先生:さて、祈念像のとなりには「折鶴の塔」があります。平和への願いを込めた千羽鶴がたくさん吊り下げられています。
マナブ:亡くなった方々のご冥福を祈ることも大事ですが、これから同じようなあやまちを繰り返さないということがもっと 大切かと。
歴史先生:その通りですね。そのために私たちはどうしたらよいのでしょう。
マナブ:難しい課題ですね。せっかく長崎に来たのであれば、単に「平和だといいな~」「核兵器はダメだな~」という単純な話ではなく、なぜこんな悲劇が起きたのか、どこで私たちは間違えたのか、昭和の歴史をきちんと学びなおそうと思えることが大切だと思います。
歴史先生:そのあたり、日本の学校ではあまり教えてくれません。大人になって、あらためて学習する必要があるでしょう。

折鶴の塔
歴史先生:では次に浦上天主堂が見える場所に行きましょう。祈念像に向かって右の道を進みます。
マナブ:あ、浦上天主堂が見えてきました。

平和公園から見た浦上天主堂
歴史先生:ここから急な階段を下りていきます。では、浦上天主堂まで行ってみましょう。

平和公園から浦上天主堂へ続く道
浦上天主堂で「被爆のマリアに対面する

天主堂通り

歴史先生:階段を下りたら右へ折れます。少しすると川沿いの道に「浦上天主堂は左」という標識が出てきますが、ここはそれを無視して「天主堂通り」まで行きましょう。それほど遠回りにはなりませんので。
マナブ:ここが天主堂通り、ですね。
歴史先生:はい。にぎやかな通りです。奥に浦上天主堂が見える、とても雰囲気ある通りなので、あえ てこちらからのルートをお勧めしてみました。

浦上天主堂
浦上天主堂(地図 ❹)
〒852-8112 長崎県長崎市本尾町1−79
入館無料
9:00-17:00、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://uracathe.sakura.ne.jp/
マナブ:さて、浦上天主堂(地図 ❹)の前にやって来ました。
歴史先生:天主堂に入る前に、左側をみてください。石像がいくつか立っています。

被爆した聖人像
マナブ:かなり古い感じですね。これらは何ですか?
歴史先生:これらは被爆し た聖人像。古いんではなくて、被爆で傷んでいるのです。首が落ちたものも何体かあります。
マナブ:浦上天主堂はなくなっても被爆の証人はここに立っていましたか。
歴史先生:被爆の証人はまだいますよ。天主堂に入る前に向かって左側(北側)に立ち寄りましょう。

崩落した鐘楼
マナブ:大きな崩れた壁のようなものが・・・。これは何ですか?
歴史先生:これは当時の鐘楼です。原爆で倒され、北側の谷に崩落し たものを、被爆の証人としてそのまま保存しています。
マナブ:こんな大きいものが、丘の上からここまで落ちるなんて・・・。爆風のすさまじさを肌で感じました。
歴史先生:では天主堂の中に入りましょう。教会内部は撮影禁止、です。

浦上天主堂
マナブ:内部も広い。大きな聖堂なんですね。
歴史先生:ここでぜひ見逃さないでいただきたいのは、「被爆のマリア」。浦上天主堂ができたとき、中央祭壇の最上部に はイタリアから送られた高さ2mの木製マリア像がありました。目には青いガラス玉、水色の衣をまとった美しい像でした。
マナブ:原爆にあったのですか?
歴史先生:はい、マリア像も被爆しました。浦上天主堂のひどい壊れ方から、マリア像も焼失してしまったと考えられていたのですが、焼け跡を探していた神父により、無残な姿となったマリア像の頭部のみが見つかりました。その後、この像は「被爆のマリア」として大切に保存され、バチカンなど海外でも展示されるなど、原爆の恐ろしさを世界に伝える役割を担っています。堂内の左後ろ側、出口の脇に今でも飾られていますので、見逃さないように。

浦上天主堂
マナブ:それにしても大きな教会でしたね。なぜ浦上にこんな大きな教会があるんですか?
歴史先生:長崎はキリシタンの街、でしたよね。それが禁教令によって弾圧されるようになり、それによって一部の信徒は「潜伏キリシタン」となりました。この潜伏キリシタンが多く住んでいたのは「外海」(そとめ:長崎の西北の海岸地帯)、「五島」、そして長崎のすぐ北隣に位置する「浦上」、だったんです。
マナブ:そういえば、大浦天主堂での「信徒発見」は浦上の信者の人たちが告白したんでしたよね。
歴史先生:そうです。信徒発見のあと、プチジャン神父らがこっそりと浦上を訪れて、浦上に作られた4か所の秘密の場所(秘密礼拝堂)にてミサや洗礼を行っていたわけです。開国に揺れる幕末から明治にかけての世の中でしたが、明治の新政府も禁教令を継続していました。
マナブ:こっそりと、と言いますが、ばれなかったんですか?
歴史先生:いえ、結局それらがばれてしまい、浦上四番崩れ、という大変な悲劇が起こりました。
マナブ:「崩れ」?
歴史先生:崩れ、というのは潜伏キリシタンの人たちが摘発されること。一番から三番まで、3回にわたって摘発がされましたが、4回目は非常に大規模なものになりました。以下のコラムにまとめてみますね。
コラム:浦上四番崩れ
幕末から明治の初めに起きた、浦上における潜伏キリシタンの摘発事件。発端は1867年(明治維新の前年)に信徒が起こした自葬事件、すなわち信徒たちが仏式の葬式を拒否し、キリスト教式にて葬儀を行ったことによる。このことは庄屋から長崎奉行に報告されたが、欧米列強との摩擦を恐れた長崎奉行は処分を保留。これに味を占めた信徒は堂々と信仰を表明するようになる。
しかしそれを知った幕府はひそかに密偵を使って調べ上げ、首謀者68人を捕縛。これに対しては当時日本にいた欧米各国の領事らは「人道に外れる行い」として強く幕府に抗議した。しかし幕府は禁教令を盾に釈放を拒否し、当初決めていた斬首という処分こそは撤回したものの、全員の流配を決行。明治維新の混乱の中、1868年にはあらたに中心人物114人を捕縛。そして明治になった1870年には浦上のほとんどの住民、なんと3,394名が連行された。浦上の民は20のグループに分けられて萩、津和野、福山など日本各地に流され、そこで苦役、拷問を受けた。それにより実に662人が亡くなったと言われる。
一方、そのころ欧米を訪れていた岩倉使節団は、浦上でのキリシタン迫害に対して各国で強い抗議に直面。それを受けてついに明治政府も方針を転換し、1873年、禁教令の高札を撤去した。浦上の人たちはようやく3年ぶりに故郷へ戻されることとなったが、故郷の田畑は荒れ果て、不在の間に新たな住民が入り込むなど、その後も大変な苦労を背負うことになる。
帰郷した住民たちは配流された3年間を「旅」と呼び、結束と信仰を一層強くした。そして1879年に小聖堂を建設、これが浦上天主堂に発展していく。1889年には明治憲法で信教の自由が保証され、1914年(大正3年)3月17日に東洋一と言われた大聖堂、浦上天主堂が完成した。この「3月17日」は、大浦天主堂での「信徒発見」の記念日であった。
<読んでおきたい本>
遠藤周作「女の一生 一部・キクの場合」

信徒発見の時代、浦上の潜伏キリシタンの青年に恋した少女の人生を描く。大浦天主堂のプチジャン神父の布教への葛藤、信者たちの苦悩。そして「浦上四番崩れ」という大きな悲劇が彼らに襲い掛かる。いったい浦上に何が起きたのか? 浦上地区を訪問する前にはぜひ読みたい一冊である。
マナブ:・・・。絶句してしまいます。ここ浦上にはかつてそんな悲劇があったのですか。村の人たちがみんな連れていかれるなんて、想像すらできない。3年後に戻ってきた人たちが建てた浦上天主堂は単なる普通の教会ではなかったんですね。それがいかに重要なものであったのか、今初めて知りました。
歴史先生:そんな悲劇があった浦上ですが、ここにさらに原爆が投下されました。この地には二度にわたって想像を絶する悲劇が訪れたわけです。これからは浦上の街にずっと 平和が続いてほしい。そう祈らずにはいられません。

