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長崎市_2.jpg
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
風頭山の上の坂本龍馬像を見に行く

若宮稲荷神社:幕末の志士たちはなぜお稲荷さんを崇拝したのか?

龍馬が作った日本初の商社、亀山社中:その名前の由来は?

インゲン豆の「隠元さん」ゆかりの唐風のお寺:興福寺

風頭山の上の坂本龍馬像を見に行く



マナブ:長崎市内からタクシーに乗って「風頭(かざがしら)公園の龍馬像の近くでおろしてください」とお願いしました。


歴史先生:近くまでバスで来ることもできますが、今日は時間の節約のためタクシーを使いました。浜町、観光通りあたりからだとタクシーで10分ほどで着きます。


小川ハタ店


マナブ:タクシーで来れるのはここまで。小川ハタ店というお店の前にいます(地図 ❶)。「旗」を売っているお店かな?


歴史先生: 「ハタ」というのは凧(たこ)のことです。「凧」は中国から入ってきた文化ですが、この凧という漢字、中国人にはわかりません。これは風の中に布という字を入れこんだ、あとから日本で作られた字(「国字」という)なんですよ。


マナブ:へー、ちょっと変わった字だな、と思ってました。


小川ハタ店(地図 ❶)

〒850-0803 長崎県長崎市風頭町11−2

9:00~17:00、金曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.at-nagasaki.jp/spot/61008


歴史先生:ところで凧あげをする時期はいつですか?


マナブ:お正月、ですよね?


歴史先生:そうですね。でも長崎では年中凧あげ、いや「ハタあげ」が行われるんです。特に風の強い春の時期は盛んです。


マナブ:年中ハタあげを楽しむなんて、なんか優雅な遊びですね。


歴史先生:実は長崎でのハタあげは優雅な感じではないんです。「ハタ合戦」と言うのですが、ハタを相手に絡ませて、ガラス粉(ビードロ)をつけた特殊な糸(ヨマと呼ぶ)で相手の糸を切る、という喧嘩ハタが中心なんです。


マナブ:ハタ揚げで勝負、ということですか。


歴史先生:はい。毎年4月から5月初めにかけて、長崎ハタ揚げ大会というのが開催されて、長崎三大行事の1つになっています。ここ風頭公園にも「ハタ揚げ広場」というのがありますし、もう少し南の「唐八景」という素敵な名前の山での大会が有名です。


マナブ:長崎三大行事あとの2つは?


歴史先生:10月の長崎くんち、そして8月の精霊流し、です。余談ですが、さだまさしさんの「精霊流し」という曲はこの長崎のお盆の精霊流しを歌ったものです。


マナブ:あ、それ好きな曲です。長崎の伝統行事って、異国情緒があっていいですね。ところでお店の壁にオランダ国旗が描かれていますが、それはなぜ?


壁にあるのはオランダ国旗?


歴史先生:これがおもしろいところなんですが、左の看板にいくつか代表的な模様があるように、ハタは赤・紺・白の組合せで模様を染め上げています。この三色旗のような模様は「丹後縞」と呼ばれる模様で、これがオランダ国旗と同じなのは偶然なのか、あるいは国旗が元になっているのか、よくわからないんです。


マナブ:ハタ揚げの1つだけをとっても、興味深い歴史がたくさんありそうですね。


風頭公園案内図


歴史先生:さて、では風頭公園に入っていきましょう。


風頭大権現


マナブ:しばらく歩くと白い鳥居が並んだところに来ました。


歴史先生:ここは風頭大権現(地図 ❷)。奥に大きなクスノキが見えます。鳥居をくぐっていくとすぐにつくので時間があれば立ち寄ってみてください。


遊歩道を通って龍馬像のある展望台へ


マナブ:あ、向こうに龍馬像が見える。


歴史先生:はい、風頭大権現の鳥居の所から左へ折れると龍馬像です。


龍馬像までもうすぐ


マナブ:龍馬像の前は展望台になっているみたい。あれ、後ろの紅白の旗は何ですか?


歴史先生:はい、あれは海援隊の隊旗、です。


マナブ:おお、そうでしたか。


龍馬像


歴史先生:さぁ、龍馬像を正面から見ましょう。高さ3.2mのブロンズ像。1989年建立というまだ比較的新しい像です。


マナブ:堂々とした立ち姿。見ていて惚れ惚れします・・・。


龍馬像前の展望台と石碑


歴史先生:展望台には石碑があります。


マナブ:何が書いてあるんだろう?


歴史先生:これは司馬遼太郎氏の文学碑。「竜馬がゆく」の中で、坂本龍馬が薩摩から船で長崎港へ入ってくる際、陸奥宗光らに語った、「(長崎は)やがては日本回天の足場になる。」といった場面の一節が彫られています。


マナブ:おぉ。「竜馬がゆく」は若い頃に読んで、とても私の人生に影響を与えてくれた本でした。また、読み返してみたいなぁ。


<読んでおきたい本>

司馬遼太郎 「竜馬がゆく」



言わずと知れた司馬遼太郎の名作の1つ。NHK大河ドラマの原作にもなった。坂本龍馬の幼少期から悲劇的な最期までをドラマチックに描いた長編小説。歴史好きなら少なくとも一度は読んでみたい名作だが、人生の中で若い頃に読むのと年を取ってから読むのとではまだ感じ方が違うだろう。スケールの大きな夢を追いかける龍馬の人生を、年を経てからまた読み返してみたい。



展望台から大浦天主堂方向を見る


マナブ:ここからの眺めは抜群ですね。造船所に女神大橋。


歴史先生:赤い屋根が見えますか? あれが活水女子大。あのあたりが東山手です。そしてその左上に見える白亜の建物が大浦天主堂。その後ろの丘の上に旧グラバー住宅も見えています。


展望台から長崎駅方向を見る


歴史先生:右手を見ると長崎の中心部。バックに稲佐山が見えています。


歴史先生:さて、実は展望台はここの隣にもあります。そっちも行ってみましょう。



もう1つの展望台へ


マナブ:あ、こちらは階段で少し高いところに上がれるんですね。


龍馬像と長崎


歴史先生:こちらの展望台(地図 ❹)も眺めが素晴らしいでしょう。


マナブ:しかも隣の坂本龍馬像と景色とを一緒に写真に収められますね。ここは素晴らしい!


若宮稲荷神社:幕末の志士たちはなぜお稲荷さんを崇拝したのか?


風頭公園内の標識



歴史先生:さて、ここからどんどん山を下りていきます。標識や手作りのような看板がたくさん出ていますので、それらに沿って行きましょう。


マナブ: ちょっと道がわかりづらいので、みなさんは地図と標識をよく見て歩いてくださいね。


案内に沿って坂道を下りて行く


手作りの看板がいたるところに


龍馬通り入口


マナブ:あっ、「龍馬通り」。ここの左の階段を下りていくんですね。(地図 ❺)


歴史先生:えーっと、この龍馬通りもとても魅力的な道なんですが、今日はそこへは入らず、右へ道なりに進みましょう。


マナブ:というと?


歴史先生:龍馬通りの階段を下りていくと、亀山社中記念館への近道なのですが、今日は若宮稲荷神社に立ち寄りたいので、右へ行きますね。


龍馬通りの看板


歴史先生:ちなみに龍馬通りには手作りの看板や標識もたくさんあって、これらを見ているだけでも地元の皆さんの坂本龍馬愛を感じてしまいます。


若宮稲荷神社


マナブ:くねくねした坂道を下りて、若宮稲荷神社へ来ました。(地図 ❻)


若宮稲荷神社(地図 ❻)

〒850-0802 長崎県長崎市伊良林2丁目10−2

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.at-nagasaki.jp/spot/61013


歴史先生:ここは坂本龍馬を初め、幕末の志士たちが崇拝していたので「勤王稲荷」とも言われています。


マナブ:坂本龍馬たちがお稲荷さんを? どんな関係があるんですか?


歴史先生:実はお稲荷さんは楠木正成の守護神、とされていました。彼は神戸の湊川の戦いで亡くなったのですが、明治にはその近くに楠木正成を祭神とする湊川神社が建てられ、その中には稲荷神社も併設されています。


マナブ:それで?


歴史先生:尊王攘夷を掲げる志士たちにとって、正統な天皇家である(と考えられていた)南朝を命がけで守った楠木正成を崇拝するのは自然な流れです。というつながりで、ここの稲荷神社が彼らの崇拝を受けていたのでしょう。


マナブ:なるほど、それで坂本龍馬らがここをお参りしていたわけですね。


歴史先生:小さな神社ですが、ここは10月の例大祭で披露される「竹ン芸」が有名なんです。高さ10mの2本の青竹の上で白装束に男狐・女狐のお面をつけた2人の若者がアクロバティックな空中芸を奉納するものです。その時は多くの見物人が訪れます。


マナブ:それはユニークですね。


歴史先生:それでは本殿の左側を見てください。


坂本龍馬神社


マナブ:ん? 坂本龍馬神社??


歴史先生:はい、そうなんです。2022年(令和4年)に建立された、とっても新しい神社です。風頭公園でみた龍馬像の原型がここに立っています。


マナブ:うーん、たしかにこの地域は坂本龍馬の聖地、と言われていますが、これはちょっとやりすぎかと(苦笑)。


歴史先生:そうかもしれませんね(笑)。でも考えてみてください、先ほど楠木正成の話をしましたよね? 1300年代に活躍した武将を祀る神社がそのゆかりの地である湊川に明治になってできたわけです。幕末に活躍した坂本龍馬を祀る神社が令和にできてもおかしくないのでは?


マナブ:そうか・・・言われてみればそうかもしれませんね。100年も経てば、ここも歴史スポットになるのかなぁ。


龍馬が作った日本初の商社、亀山社中:その名前の由来は?


亀山社中記念館近くの道から市役所がよく見える



歴史先生:さて、ここから細い道を歩くと、亀山社中記念館につきます。


マナブ:道の右側は視界が開けています。あの高いビルは何ですか?


歴史先生:あれは2023年1月にできたばかりの新しい市役所です。最上階(19階)の無料の展望台からは長崎市内が見渡せる、新しい名所です。


龍馬のぶーつ像


歴史先生:さぁ、ここに「龍馬のぶーつ像」というのがありますよ。


マナブ:ぶーつ、だけ?


歴史先生:はい、龍馬は日本で最初にぶーつを履いた人、と言われています。それにちなみ、この像の中に足を入れて、船の梶を握る、という体験ができるスポットです。1995年にできたものです。


マナブ:なるほど、面白い発想のモニュメントですね。


歴史先生:さて、ぶーつ像からすぐのところにあるのが、亀山社中記念館です。


マナブ:おぉ、亀山社中はここにあったんですね。



亀山社中記念館(地図 ❼)

〒850-0802 長崎県長崎市伊良林2丁目7−24

入館300円(小中高生、団体割引あり)

9:00-17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.at-nagasaki.jp/spot/1047


歴史先生:亀山社中は日本初の商社であり、一方で私設海軍という側面も持っていました。1865年に、長崎の豪商、小曽根家の支援で設立され、当初20名ほどの社員がいました。


マナブ:小曽根家?


歴史先生:はい。小曽根さんは江戸から明治にかけて長崎を代表する豪商でした。元は平戸の貿易商で、その後長崎へ移転し、出島の造営、眼鏡橋の修復なども行ったようです。市内にあった小曽根家の屋敷には坂本龍馬、勝海舟などといった志士たちが頻繁に出入りしていました。


マナブ:亀山社中にはそんなパトロンがいたから、商売をはじめられたんですね。では、中に入ってみましょうか。


歴史先生:はい。ここは亀山社中の建物をできるだけ忠実に復元したものなんです。名誉館長は武田鉄矢さん。中には龍馬のピストルや志士たちの写真など、龍馬ゆかりの資料がたくさん展示されています。


龍馬のピストル


武田鉄矢さん寄贈の龍馬像


マナブ:でもなんでこんな山の上に会社を作ったんでしょう? グラバーさんとかと取引するなら、もっと市内の良いところもあっただろうに。


歴史先生:理由はよくわかっていないのですが、支援をしてくれていた小曽根家が持っていた家を借りた、という説もあったりします。なお、この建物はこの地区で盛んだった亀山焼の職人の住居だったとも言われています。そこから「亀山」という名前をもらい、仲間という意味の「社中」と名付けたようです。


マナブ:「海援隊」、との関係は?


歴史先生:亀山社中を作った2年後、龍馬は土佐藩に許されて「海援隊」と名乗るようになります。


マナブ:なるほど。


歴史先生:それでは次に、龍馬通りといわれる坂道、いや、ほとんど階段を下りて、寺町へ行きましょう。


龍馬通り


マナブ:そういえば坂本龍馬は丸山の遊郭によく出入りしていたんですよね? それって、このすごい坂道と階段を下りて、そしてそこからもかなり距離がありますよね。


歴史先生:はい、行くのは簡単ではありませんね。


マナブ:行きはよいよい、としても、飲んだ帰りにこの階段を上るのはキツイな~。


インゲン豆の「隠元さん」ゆかりの唐風のお寺:興福寺


深崇寺



マナブ:長い坂道と階段の龍馬通りを一番下まで下りてきました。


歴史先生:ここからは寺町通りを南に下がっていきます。ここからは風頭山のふもとに沿って、ずらりと大きなお寺が続きます。


マナブ:ほんとだ。深崇寺、三宝寺、浄安寺・・・。どれも立派ですね。


歴史先生:しかもそれが崇福寺のあたりまで、ずーっと続きます。


三宝寺


浄安寺


歴史先生:さぁ、次に見えてきたのが目的地、興福寺です。(地図 ❽ )


マナブ:おぉ。赤くて立派な門構え。


興福寺 山門


興福寺(地図 ❽ )

〒850-0872 長崎県長崎市寺町 4番32号

拝観300円(小中高生、団体割引あり)

9:00-17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://kofukuji.com/


歴史先生:門の右側に隠元和尚の絵がかかっています。隠元、ってご存じですか?


マナブ:インゲン豆の人?


歴史先生:そうです(笑)、隠元隆琦は元々中国福建省の黄檗山萬福寺にいた、とても徳の高い偉いお坊さんで、福建省などから長崎に移り住んでいた中国人たちに繰り返し招かれていました。当初隠元は自分の代わりにその弟子を送ったのですが、途中で船が座礁して弟子は亡くなってしまいました。


マナブ:当時の航海ってとても危険だったんですよね。


歴史先生:そうなんです。しかしその後も長崎の人たちから繰り返し招請があり、ついに1654年、3年間だけという約束で20人以上の弟子とともに来日が実現しました。 その時すでに63歳。当時としては相当な高齢です。


マナブ:その年で長い航海はさぞ辛かったことでしょう。よく来てくれましたね。


歴史先生:長崎につくと、隠元は興福寺に入りました。そうなると隠元の徳の高さをしたって、興福寺には千客万来。翌年には崇福寺に移りました。


マナブ:ほう、隠元は長崎でその後どんな活躍をしたんですか?


歴史先生:実は崇福寺に移った年に、今後は摂津(現在の大阪府高槻市)の普門寺に移りました。今では重要文化財になっているお寺です。ということで、隠元が長崎にいたのはわずか1年ほどだったんです。


マナブ:あらら、大阪へ行ってしまったんですか。


歴史先生:都へ近く、より日本全体へ影響を与えられるところに行ったわけです。ところが隠元のあまりの人気に江戸幕府が警戒心をもち、摂津の普門寺では寺外に出ることを禁止してしまいます。


マナブ:えっ、せっかく日本に来たのに、それはひどい。3年の約束だけど、私だったらすぐに中国へ帰っちゃいます。


歴史先生:隠元も中国へ帰ろうとしたのですが、周囲が必死に引き留め工作に奔走し、ついには4代将軍 徳川家綱との面会が実現。京都・宇治に土地をもらい、そこに寺を建ててよい、ということになったんです。


マナブ:それで、寺を建てたんですか?


歴史先生:はい。中国にいたときと同じ名前の黄檗山萬福寺。そこは今でも黄檗宗の大本山となっていて、大伽藍を誇るとても大きなお寺になっています。主要なお堂や門などはすべて重要文化財です。


黄檗山萬福寺

https://www.obakusan.or.jp/


マナブ:黄檗宗の大本山・・・


歴史先生:はい、日本の禅宗は臨済宗、曹洞宗、そして黄檗宗の3つの宗派から成っています。隠元は日本における黄檗宗の開祖、となりました。萬福寺は大本山なので、ここ興福寺や崇福寺は今では萬福寺の末寺、という扱いになっています。


マナブ:できたのは興福寺や崇福寺のほうが先なのに、ね。ところでさっきのインゲン豆って、隠元が持ってきたんですか?


歴史先生:はい、隠元はその他にもスイカ、レンコン、タケノコ、なども持ち込んだと言われています。食べ物だけでなく、文化や学問でも多くの知識を日本に持ち込みました。その後隠元は82歳で亡くなっています。


マナブ:そうでしたか、当時としてはかなりのご長寿、ですよね。


歴史先生:そうですよね。では中へ入りましょう。


大雄宝殿(国指定重要文化財)


三江会所門越しに見る鐘鼓楼


鐘鼓楼


マナブ:日本のお寺とはずいぶん違いますね。


歴史先生:はい。まずは赤い彩色が目を引きますよね。それから建物の随所に見られる唐風の飾りなど、黄檗宗寺院の特長が出ている建築です。


魚板


マナブ:この魚のようなものは何ですか?


歴史先生:これは隠元が持ち込んだものの1つで、「木魚」の原型です。


マナブ:えっと、木魚って、もっと丸っこくて仏壇の前でポコポコと叩くもの、という印象がありますが?


歴史先生:そうですよね。木魚は最初はこの板のような形で、魚板(ぎょばん)と呼ばれていました。僧侶たちに食事などの時刻を知らせる合図として叩いたそうです。


マナブ:何か意味が込められているんでしょうか?


歴史先生:はい。魚はずっと目を開けている。そのように日夜修行に励むべし、ということを僧侶たちに伝えているのだそうです。これがいずれ現在の木魚のような形に変わり、お経に合わせてリズムをとるものになったようです。


マナブ:これも黄檗宗のお寺にはよくあるものなんですか?


歴史先生:はい。黄檗宗のお寺でよくみられるものです。


市役所展望フロアから見た興福寺


歴史先生:風頭山から興福寺、いかがでした?


マナブ:あの山の上から地上まで、すごい坂を下りましたね(笑)。あちこちに手作りの看板などがあって、地元の人たちの坂本龍馬愛が強く感じられました。興福寺も普通のお寺と違っていて、長崎ならではの楽しみ方ができました。


歴史先生:興福寺からは、新しくできた市役所や眼鏡橋も歩いてすぐ、です。ここを起点に市内中心部の散策へも出かけられますよ。

​歴史好きのための観光ガイド
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