登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
かつて世界3位、東洋一を誇った美しいアーチ橋:西海橋
「ニイタカヤマノボレ」を発信した(?)針尾送信所
西海でのおすすめホテル
西海橋の見える温泉リゾート:「TAOYA西海橋」
長崎になり損ねた悲劇の港、横瀬浦。ここには丸山も思案橋もあった。
信長・秀吉らの人物像が今に伝わるのはルイス・フロイスのおかげ?
美しい大島大橋を見に行こう
かつて世界3位、東洋一を誇った美しいアーチ橋:西海橋

西海橋

マナブ:佐世保市内から30分ほどのドライブで、西海橋に来ました。(地図 ❶)
歴史先生:この橋の向こう側は西彼杵(にしそのぎ)半島ですが、以前は陸の孤島と言われていました。この狭い針尾瀬戸を越える橋ができたことで、佐世保方面との距離が一気に縮まったわけです。

展望台から見た西海橋。奥に見えるオレンジ色の建物はリゾートホテルの「TAOYA西海橋」(* 2026年2月現在、同ホテルは大江戸温泉物語Premiumとしてリブランドされている)
マナブ:いつ頃の話ですか?
歴史先生:1955年(昭和30年)に完成しました。当時は固定アーチ橋として世界3位、東洋一を誇った長大橋なんです。
マナブ:かなり昔の話なんですね。
歴史先生:実は戦前からその計画はあって、1940年(昭和15年)には長崎県議会で計画が承認されたんですが、戦争で中断してしまいます。
マナブ:なるほど。それにしても美しい姿の橋ですね。そして現在はもう一本、新しい橋が見えます。



新西海橋
歴史先生:こちらは新西海橋。2006年(平成18年)に完成しました。高速道路が通っており、西海橋あたりの渋滞解消と共に西彼杵半島を経由しての長崎方面への時間短縮を実現しています。

西海橋公園のマップ
マナブ:橋の周囲は広い公園になっています。
歴史先生:そうなんです。橋の両側が公園になっていて、展望台や遊歩道なども整備されています。新西海橋は2階建てで、下の階は遊歩道なんですよ。ここからは渦潮が見えます。
マナブ:それって鳴門みたいですね。
歴史先生:はい。鳴門海峡は瀬戸内海と紀伊水道を隔てる、淡路島と四国との間の狭いところですよね。そして瀬戸内海の逆側の出口が関門海峡。この2つにここ針尾瀬戸を加えて、日本の三大急潮、と呼ばれています。針尾瀬戸は大村湾のせまーい出口になっているんです。
マナブ:ここは「西海の丘 展望台」(地図 ❶)。2つの橋が同時に見えますね。ここから新西海橋へと下りてみましょう。

「西海の丘 展望台」からは2本の橋が同時に見える

西海の丘 展望台から新西海橋の遊歩道へ下りる道

新西海橋の下の階は遊歩道になっている
マナブ:次に「西海橋公園 ウォークデッキ」(地図 ❷)に来ました。
歴史先生:ここは2つの橋の間、渦潮を間近に見ることができます。西海橋公園の魚魚市場とお土産店の間を抜けると一番眺めのいい場所に簡単に来られますよ。

西海橋公園 ウォークデッキ

西海橋公園 ウォークデッキからは西海橋と渦潮が間近に見える

西海橋公園 ウォークデッキから見た新西海橋
マナブ:遊歩道の散歩、気持ちよかった。「西海の丘 展望台」、「西海橋公園 ウォークデッキ」、それぞれに違った角度からの眺めを楽しめました。
「ニイタカヤマノボレ」を発信した(?)針尾送信所

西海橋公園から見える針尾送信所

歴史先生:ところで、あそこにみえる3本の塔、あれ、なんだ かわかりますか?
マナブ:え。何だろう? 煙突、じゃないですよね?
歴史先生:これは昔の電波の送信所なんです。針尾送信所。
マナブ:ずいぶん高く見えますね。
歴史先生:3本のうち2本は135m、もう1本は137mもあるんです。あまりにも巨大なので、長崎空港からも見えるんですよ。帰りの飛行機は左側の窓側なので、乗ったらすぐ左側をチェックしてみてください。
マナブ:それにしても大きいですね。いつ、何のために建てられたんでしょう?
歴史先生:1922年(大正11年)に完成したものです。海軍の施設で、遠くにいる艦隊に指令を届けるためのものです。
マナブ:1922年というと・・・
歴史先生:日露戦争が1904~1905年。第一次世界大戦が1914~1918年、です。佐世保の凱旋記念館ができたのが1923年ですから、この電波塔が立ったのは凱旋記念館ができたのとほぼ同じ時期です。
マナブ:ということは、日本海軍が第一次世界大戦で活躍して、ますます海軍力の増強が必要とされていた時代ですね。
歴史先生:はい。海軍力というのは艦船の速さや大砲の強さだけではなくて、通信もとても重要だったわけです。そこで日本海軍は東京(船橋)、佐世保(針尾)、そして台湾の3か所に大規模な送信所を建設しました。
マナブ:船橋にも似たようなものがあるんですか?
歴史先生:船橋には1915年に鉄製の通信塔が建てられましたが、1972年に解体・撤去され、今では記念碑だけが残っています。その次にできた針尾は、鉄不足から鉄筋コンクリート造で建てられました。大正時代のタワー建造物としては他に茨城県日立や大分県佐賀関の精錬所の煙突がありましたがいずれも解体され、現存するのはここ針尾だけです。
マナブ:建造物としてそれだけでも価値がありそうですね。今でも使われているんですか?
歴史先生:いいえ。でも1997年(平成9年)まで、海上自衛隊、海上保安庁が使っていたんですよ。
マナブ:割と最近まで現役だったんですね。

公園内にある説明看板
歴史先生:そして針尾送信所をさらに有名にしたのは「ニイタカヤマノボレ一二〇八」を送信した、という話です。
マナブ:あ、それって真珠湾攻撃の暗号指示でしたっけ。
歴史先生:そうです、そうです。はるかかなたの太平洋にいた日本海軍の艦隊にこの暗号が送られ、12月8日に真珠湾を奇襲。太平洋戦争が勃発しました。 その後「ニイタカヤマノボレ一二〇八」という暗号はここ針尾送信所から送られた、という話が広まりましたが、最新の研究ではどうもそれは違っていたとする説が有力です。
マナブ:歴史は変わっていきますね。
歴史先生:ところでマナブさん、「ニイタカヤマ」って、どこの山かご存じですか?
マナブ:え? 考えたこともなかった。架空の山、とか?
歴史先生:いえ。実在の山です。当時、日本の最高峰でした。
マナブ:ん? 「当時」ということは今とは違う? 今なら当然富士山ですが。
歴史先生:そうなんです。あくまでも当時の、です。
マナブ:当時日本が領土にしていた朝鮮? 台湾?
歴史先生:正解は台湾です。当時、日本語で「新高山(ニイタカヤマ)」と呼ばれた山で、標高3,952mで富士山(3,776m)より高い。現在は玉山(ぎょくざん、ユイシャン)と呼ばれています。
マナブ:へぇー、台湾に富士山より高い山があるなんて、知りませんでした。
西海でのおすすめホテル
西海橋の見える温泉リゾート:「TAOYA西海橋」
(* 2026年2月現在、同ホテルは大江戸温泉物語Premiumとしてリブランドされています。同じグループのホテルですが、サービス内容等が変更になっている場合がありますので、下記じゃらんのWebサイトにてご確認ください。)
西海橋から車で2分ほど。西海橋の見えるレストランや美しい円形プールのあるリゾートホテル。現在は大江戸温泉グループの上位ブランド「TAOYA」として生まれ変わった。

ロビーラウンジ
選んだ理由:
・立地:西海橋からすぐの立地。
・温泉:海と一体化したようなインフィニティ露天風呂
・サービス:オールインクルーシブ。ロビーでのドリンクの提供、マッサージチェア、バイキング夕朝食でのアルコールなど、すべてフリー。
・料金:同様のリゾートホテルに比べて非常にリーズナブル
実際に泊まってみた感想:
・料金は安いのにとても素敵なホテルだ、というのが率直な感想。コスパは最高!
・4階のプレミアムツインの部屋は十分な広さ。漁港側の眺めはリゾート感という意味では少し違和感があるが、遠くに見える大村湾と島々は美しい。
・1階の風呂は広く、インフィニティ型式の露天風呂は海との一体感があり、とても快適。1階にあることで漁港はあまり見えず、遠くの大村湾だけが見えるため、リゾート感がアップ。
・食事は夕食、朝食ともレストランでのビュッフェ方式。アルコール類もすべてフリーで、種類も豊富。食事は和洋中バラエティに富んでおり、とても食べきれない。長崎名物の皿うどん、佐世保名物のレモンステーキなども楽しめた。 本物の佐世保レモンステーキは高額なのでビュッフェでの提供は難しいが、ここのビュッフェでは「ステーキは調味牛脂を注入した加工肉です。」とWebサイトに注意書きをしてくれているなど、そこは誠実さも感じられる。
・レストランからの西海橋の眺めは想像以上にすばらしい。入口で「料理に近いほうにしますか、それとも西海橋の見える方にしますか?」と聞かれるが、せっかくなら西海橋の見える方がおススメ。
・夕食時にはレストランでバイオリンの生演奏があり、リクエストも聞いてくれていた。
・ラウンジはプールの見えるロビーラウンジと、落ち着いた感じのコラソンラウンジの2つがあり、軽食や飲みものが無料で提供されている。到着時や就寝前のひとときを優雅に過ごすには最高。
・キッズルームや卓球コーナーなどもあった。
・とてもフォトジェニックなホテルで、たくさん写真を撮ってしまいそう。
じゃらんのサイト
https://www.jalan.net/yad330703/

ホテル前の駐車場。「EaglesのHotel Californiaのアルバムジャケットか?」と思うようなリゾート感に溢れた外観に期待感がいやでも高まる

浴衣の柄とサイズを自由に選べる

エレベーターホールから見たホテルとガーデン。針尾瀬戸は目の前。

夜になるとプール付近がライトアップされる

4階のプレミアムツインからの眺め。針尾瀬戸とは反対側がオーシャンビューの部屋で、漁港が見える。露天風呂からも同じ方角の眺め。

西海橋の見えるレストラン(夕食時の様子)

佐世保名物レモンステーキ

朝食時、レストランからは朝日に映える西海橋、新西海橋を眺めることができる
長崎になり損ねた悲劇の港、横瀬浦。ここには丸山も思案橋もあった。

横瀬浦公園から見た横瀬浦の港

マナブ:西海橋から車で15分ほど。横瀬浦、というところに来ています。(地図 ❷)
歴史先生:今では静かな入り江になっています。
マナブ:ところで、「横瀬浦」という地名自体、初めて聞きました。
歴史先生:そうですよね。ホテルもお土産屋もない、まったく観光地化されていないところなんですが、実はここは歴史好きにはぜひ来てほしい、重要な場所なんです。
マナブ:というと?
歴史先生:ポルトガルとの南蛮貿易は平戸で始まったんですよね。
マナブ:はい。
歴史先生:そのころ、平戸の領主は松浦隆信でした。彼は、1550年に鹿児島から来たフランシスコ・ザビエルを厚遇し、キリスト教の布教を許します。それを機に、1550年から1561年までの間、平戸には多くのポルトガル船が来航し、南蛮貿易が盛んにおこなわれました。
マナブ:はい。
歴史先生:それによって松浦隆信はポルトガルから武器を購入し、力を蓄えていきました。しかし彼はキリスト教を信じることはなく、キリスト教の信者が領内で徐々に増えていくことに不安を持つようになります。
マナブ:いわゆるキリシタン大名、ではないんですね。
歴史先生:そうなんです。何にもなかった島の港に突然ポルトガル人がたくさん訪れて商売をするものですから、地元との軋轢も当然あったわけです。1558年には仏教徒による教会の焼き討ちが起こり、1561年には絹製品の取引のもめごとから商人同士が乱闘となり、そこに武士が加わり、ポルトガル人は武装して抵抗。お互いに死傷者を出すという「宮の前事件」が起きました。これを機にポルトガルは平戸以外の港を求めるようになります。
マナブ:そうか、平戸がポルトガルとの貿易で潤ったのはわずか8年ほどの短い期間だったんですね。
歴史先生:そこでポルトガルは、今度こそはちゃんとポルトガルのことを理解して、しかもキリスト教を理解してくれる領主を求めます。そしてちょうどその条件に合う大名が隣国にいました。それが大村純忠(おおむら すみただ)。日本で初めてのキリシタン大名と言われる人です。
マナブ:大村純忠、ですか。
歴史先生:1562年、宮の前事件の翌年に、大村純忠は自分の領内にある、ここ、横瀬浦をポルトガル人に開港します。
マナブ:あ、そういうことでしたか。
歴史先生:翌1563年には横瀬浦で大村純忠自身が洗礼を受け、キリスト教の信者になります。これが日本初のキリシタン大名誕生の瞬間です。
マナブ:ここ横瀬浦はその記念すべき場所でもあった。
歴史先生:そうです。ポルトガル船は次々に横瀬浦に来航し、町は発展していきました。

横瀬浦の入口にある八ノ子島。上に白い十字架が見える。

「南蛮船来航の地」の碑

歴史先生:横瀬浦の入口にある八ノ子島(地図 ❺)には大きな十字架が建てられ、ポルトガル船の目印になりました。今では「海の駅 船番所」という海鮮ビュッフェで有名なレストランがあり、その店の前から八ノ子島を間近に見ることができます。そしてポルトガル船が着いた場所には「南蛮船来航の地」の碑が立っています。(地図 ❻)

© Nagasaki Prefecture Tourism Association
横瀬浦に残る思案橋跡
マナブ:街はにぎわったんでしょうね。
歴史先生:はい、町の西側の丘にある「丸山」(地図 ❼)には遊郭もできたそうです。そしてその手前にあった小川に架かっていたのが「思案橋」。この橋を渡って遊郭に行こか戻ろか、迷ったのでしょう。
マナブ:え、ちょっと待ってください。それって、長崎の話ですよね?
歴史先生:そう思うでしょ? 実は違うんです。オリジナルはここ、横瀬浦。丸山、思案橋はここ横瀬浦の地名で、その地名がその まま長崎でも再び使われて、今のような丸山、思案橋ができたんです。
マナブ:へぇー、それは驚きです。長崎は横瀬浦のコピーだったんですね。
歴史先生:そうなんです。もし横瀬浦がそのまま繫栄していれば、ここが今の長崎にようになって、ひょっとしたら県庁所在地になっていたかもしれません。
マナブ:そうか。それで横瀬浦は「長崎になり損ねた港町」、なんですね。ところで平戸は今でもそれなりに町ですよね。でもここ横瀬浦は今は町らしい町も残っていないのですが、いったい何があったんですか?
歴史先生:それには大村家の少し複雑な人間関係から説明しなければなりません。
マナブ:というと?
歴史先生:大村純忠は、実は大村家の人ではないんです。彼は戦国大名の有馬家、有馬晴純の次男です。母が大村家から来ていたのですが、その大村家では男子の跡取りがいない、という状況でした、そこで彼は大村家に養子に出されます。ところがその後、大村家に庶子(妾の子)ができました。さぁ、大変。そうなると跡継ぎをどちらにするかという大問題が起きます。
マナブ:政略結婚や養子縁組。そして跡目争い。戦国時代あるある、ですね。
歴史先生:当時、有馬家は非常に強い武力を持っていました。大村家は有馬家の顔を立てるべく、養子に来た大村純忠を跡継ぎに指名します。そして実の子については武雄あたりを治めていた後藤氏のもとに養子に出すことにしました。
マナブ:複雑ですね。
歴史先生:後藤家に養子に出された子の名前を後藤貴明(ごとう たかあき(またはたかあきら))と言います。本来、大村家の跡取りになるはずだった後藤貴明からすれば、養子に来た大村純忠にその地位を奪われたわけですから、面白いはずがありません。
マナブ:それはそうですよね。
歴史先生:そして1563年、横瀬浦の開港の翌年、悲劇が起こります。この年に横瀬浦にて大村純忠が洗礼を受け、キリスト教に入信するわけですが、実はこのことに反発する家臣が大村家の中にもいました。横瀬浦奉行を務めていた針尾伊賀守もその1人。後藤貴明は針尾伊賀守と呼応し、なんと横瀬浦を焼き討ちしてしまいます。
マナブ:うわー、そうだったのか。それで横瀬浦の町はなくなってしまった・・・。
歴史先生:そうなんです。そして1570年、大村純忠は横瀬浦の代わりの地として長崎を与えます。長い岬があるだけの寂しい寒村だった長崎は、これを機に大きく発展をしていくことになるんです。
マナブ:あ、それが長崎の始まりなんですね。
信長・秀吉らの人物像が今に伝わるのはルイス・フロイスのおかげ?

横瀬浦に立つルイス・フロイスの像
マナブ:ルイス・フロイスの像の前に来ました。(地図 ❽)
歴史先生:マナブさん、ところでルイス・フロイスという人物を知っていますよね?
マナブ:いえ、知りません(苦笑)。
歴史先生:ポルトガルの宣教師なのですが、日本での布教を目的に1563年、31歳の時に横瀬浦に上陸します。ちょうど、今のこの像が立っているあたり、彼は何度も通ったはずです。そして彼はここ横瀬浦にて大村純忠の庇護を受け、キリスト教の布教活動をおこないました。
マナブ:でも横瀬浦はすぐに破壊されてしまう・・・
歴史先生:そうなんです。そこで彼は平戸に一時的に避難します。その後日本語を学び、京都へ行きますが、京都では足利将軍が三好党によって暗殺されるなど混乱があり、堺に移ります。そして1569年、足利義昭を擁して日の出の勢いだった織田信長に京都二条城で面会。信長とは意気投合し、畿内でのキリスト教布教の許可までもらいます。
マナブ:信長は仏教界と対立していましたものね。
歴史先生:そうです。信長にはその後もたびたび面会しています。安土城での面会の詳細な記録もあります。そして1590年には聚楽第で秀吉にも会っています。しかしそのころからキリシタンへの迫害が始まり、ルイス・フロイスの活動範囲も狭まっていきました。そして1597年、長崎西坂における二十六聖人殉教が起きます。
マナブ:はい、長崎で行きました。二十六聖人の殉教の地。悲しい歴史でした。
歴史先生:ルイス・フロイスはその二十六聖人殉教の記録を最後に、長崎にて亡くなりました。しかしそれまでの間、膨大な記録を残しています。これがルイス・フロイス著作の「日本史」として現在まで残っています。当時のヨーロッパ人が実際に見た日本の歴史の最前線。当時のリーダーたちと実際に面会したときに話した内容や印象などが詳細に記録されています。どこの家中にも属さない、客観性を持った西洋人から見た当時の記録。他の日本人の残した史料とは全く視点の違う、まさに第一級の史料と言えます。

横瀬浦から横瀬浦公園を見上げる。左手の階段下にあるのがルイス・フロイスの像。
マナブ:そうか。いろんな映画やドラマで見る、信長、秀吉ら、戦国のリーダーたちがどんな性格だったのかは、ルイス・フロイスが書き残した「日本史」からわかったものも多いんでしょうね。
歴史先生:そうなんです。でもそれだけではありません。というのは、彼の「日本史」はポルトガル語で書かれていますよね。
マナブ:はい。それが?
歴史先生:ということは、人名、地名、その他日本語の部分は、その発音に沿ったアルファベットで書かれているんです。日本で残っている資料は漢字なので、実は歴史上の ものについてはその読み方がはっきりしないものの多いんです。でもルイス・フロイスの日本史によって、その読み方がわかった、ということも多いんですよ。
マナブ:へぇー、そうか。その観点は今まで考えたこともありませんでした。

横瀬浦公園 体験学習棟
マナブ:ルイス・フロイスの像の前から階段を上っていくと、公園が広がっています。
歴史先生:ここにあるのは「横瀬浦公園 体験学習棟」です。中には横瀬浦に関する資料が展示されていますので見てきましょう。

体験学習棟の内部
美しい大島大橋を見に行こう

大島大橋

マナブ:横瀬浦から車で15分ほど。大島大橋に来ました。(地図 ❸)
歴史先生:全長1,095mの斜張橋。1999年に完成しました。渡った向こう側に公園があります。
マナブ:美しいフォルムの橋ですね。

歴史先生:橋の向こうの大島ですが、大島造船の造船所があります。
マナブ:「大島造船」・・・どこかで聞いたことがあるような・・・。
歴史先生:長崎で軍艦島のクルーズに行ったとき、三菱重工の世界最大級の香焼造船所を大島造船が買収した、という話をしました。
マナブ:あ、そうでした。
歴史先生:ここ大島が大島造船の本拠地。造船所のとなりには隈研吾氏のデザインによるオリーブベイホテルがあり、人気を博していますよ。
マナブ:きれいなんでしょうね。いつか泊まってみたい。

