top of page
長崎市_2.jpg
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
歴史好き、地形好きにはたまらない島原・雲仙の旅

江戸時代にタイムスリップしたかのような島原武家屋敷通り

悪名高い戦国大名が建てた身分不相応な巨大城郭:島原城

コラム:悪名高い松倉重政も大和五條ではヒーロー扱い?

長~い商店街の中にあるねはん像と2つのお墓

さざえ堂とからゆきさんの悲しい物語

<コラム> からゆきさん

鯉の泳ぐまちで「かんざらし」を食べよう

しまばら火張山 花公園で眉山と雲仙の大きさに圧倒される

島原のおすすめレストラン
天草四郎も食べた? 島原名物の具雑煮(ぐぞうに)の名店「姫松屋」


歴史好き、地形好きにはたまらない島原・雲仙の旅


島原城


マナブ:今日は島原に来ています。このあと、雲仙にも行きます。


歴史先生:島原と言えば何を思い浮かべますか?


マナブ:歴史でいえば「島原の乱」、ですかね? そして最近では普賢岳の噴火、が記憶に新しいところです。


歴史先生:そうですね。そして雲仙と言えば?


マナブ:「温泉」、でしょうか?


歴史先生:いい答えです。島原・雲仙は歴史の宝庫であり、また火山活動によって作られた特殊な地形をもった地域です。そして時折発生する激しい噴火が歴史にも影響してきました。ここ島原・雲仙では歴史と地形、両方をたっぷりと楽しみましょう。



マナブ:長崎から島原へはレンタカーを借りてやって来ました。日曜日の朝でしたが、約1時間半で島原市内へ着きました。


歴史先生: 長崎の出島の近くから「ながさき出島道路」という長いトンネルに入って、そこから高速経由で長野インターまで、渋滞もなくスムーズでしたね。そのあと一般国道におりると少し渋滞気味なところもありましたが、雲仙グリーンロードにはいるとほとんど信号がなく、また快適なドライブになりました。


眉山の大きなシルエットは大迫力


マナブ:もうすぐ島原市街、というところで眉山の大きなシルエットが突然見えたときは驚きました。


歴史先生:眉山、そして雲仙という険しい山が街のすぐそばに高くそびえている、というのが島原の特長であり、魅力でもあります。


マナブ:鉄道もあるようですね。


歴史先生:はい、JRで長崎駅から諫早駅へ行き、そこで島原鉄道に乗り換えていくこともできます。2時間半くらいでしょうか。島原市内散策だけなら電車でもいいですが、その後の島原半島内の移動を考えると、レンタカーが便利でしょう。



歴史先生:島原半島の地図を見てみましょう。半島の中央部に雲仙がそびえています。島原市はその東側の海岸沿いにあり、それ以外に大きな町はありません。


マナブ:まさに火山でできた半島、ですね。


歴史先生:その通りです。島原・天草一揆の舞台となった原城跡は半島の南東部。半島の西側には小浜温泉が湧いており、その北側には千々石断層という大きな断層を見ることができます。


マナブ:たしかに、歴史と地形、両方が楽しめそうですね。ドライブも海岸から山へと、変化が楽しめそうです。


歴史先生:それでは島原・雲仙の旅、さっそく始めましょう!


江戸時代にタイムスリップしたかのような島原武家屋敷通り


武家屋敷周辺の案内図



マナブ:島原市内にやって来ました。


歴史先生:まずは島原城の北側、島原武家屋敷通りの近くにある観光駐車場車(地図 )に車を停めます。島原の城下町の街歩きはまずはここから始めましょう。


武家屋敷通りに通じる道から見た眉山と雲仙


マナブ:山が近いですね。


歴史先生:はい、手前が眉山、奥が雲仙です。この2つの山は市内のあちこちから見えますよ。


マナブ:実際にこの目で見てみると、その大迫力を感じます。


武家屋敷通り


歴史先生:さぁ、ここが武家屋敷通りです。


マナブ:おぉ、まるで江戸時代にタイムスリップしたかのよう。


歴史先生:そうですよね。舗装道路も電柱もなく、昔の景観をよく保存してくれています。


マナブ:「山本邸」っていう看板が出ていますね。


歴史先生:はい、現在は3軒の武家屋敷が一般公開されています。


山本邸


武家屋敷 山本邸

〒855-0052 長崎県島原市下の丁

9:00-17:00、無休

入館無料

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.shimabara.lg.jp/page6500.html


マナブ:まずは山本邸に入ってみます。山本さんはどんな立場の人だったんですか?


歴史先生:ここ、武家屋敷通りにある家は「下士」の人たち、です。もっと身分の高い「上士」は島原城の中に住んでいました。


マナブ:下級役人、ということですね? それぞれの屋敷もコンパクトな感じで、中も質素な感じがします。


山本邸内部


歴史先生:それではまた通りを歩きましょう。


どこまでも続いているかのように見える武家屋敷通り


マナブ:この通り、長いですね? どこまで続いているのか、奥がよく見えません。


歴史先生:はい、長さが約400mもあるんです。


マナブ:道の真ん中にある水路は生活用水ですか?


歴史先生:はい、そうなんです。約2㎞ほど北の水源から水が引かれていて、とても大切に管理されていました。


武家屋敷通り休憩所


マナブ:観光の人のために立派な休憩所もできていますね。トイレや自販機、そして資料なども置かれています。


武家屋敷通りのミカン


悪名高い戦国大名が建てた身分不相応な巨大城郭:島原城


大天守が美しい島原城


島原城(地図 ❷)

〒855-0036 長崎県島原市城内1丁目1183−1

9:00-17:30 (最終入場17:00)、無休

入場700円(小中高生・団体割引あり)

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://shimabarajou.com/


マナブ:島原城にやって来ました。(地図 ❷)今日は工事のため臨時休業ということで、外から眺めるだけにします。それにして想像していたよりはるかに大きな天守閣ですね。ですけど、失礼ながら島原の街の規模にしてはちょっと立派すぎるような・・・。


歴史先生:それ、いいポイントです。


マナブ:というと?


歴史先生:まず、島原城の天守閣がどれくらい大きいのかを考えてみましょう。復元を含む現存する全国の天守閣の中で、一番高さが高いのはどこでしょう?


マナブ:うーん、どこだろう。姫路城、とか?


歴史先生:正解は大阪城(41.5m)。第2位は名古屋城(36.1m)です。


マナブ:なるほど、たしかにその2つは大きいですね。


歴史先生:そして第3位。これが何と島原城(33.0m)なんです。


マナブ:えっ。大阪、名古屋という大都市に続いて第3位とは!


歴史先生:4位以下は熊本城(32.5m)、姫路城(31.5m)、と続きます。


マナブ:4位以下も日本を代表する錚々(そうそう)たるお城ですね。その中の第3位に入ってるなんて・・・。やっぱり何かおかしい。


歴史先生:そうですよね。この城を作った戦国大名は松倉重政。歴史上、悪名高い大名です。島原の民に重税を課し、身分不相応な城を建てたことが、島原・天草一揆の一因と言われています。


マナブ:うわー。こんな巨大な城を建てるくらいですから、とんでもない重税だったんでしょうね。島原・天草一揆の原因はキリシタン弾圧、だけではなかったんですね。


歴史先生:松倉重政は島原の歴史を理解する上で重要な人物なので、コラムにまとめておきますね。


コラム:悪名高い松倉重政も大和五條ではヒーロー扱い?


松倉重政は最も悪名高い戦国大名の一人として知られている。しかし、奈良県の五條市では今でもヒーロー的な扱いを受けている。一体どちらが本当の松倉重政なのか?


松倉重政は1574年生まれ。父松倉右近こと松倉重信は筒井順慶の重臣で、のちに石田三成の懐刀として活躍する島左近と並んで「右近左近」と称された名将であった。しかし松倉重政は父に似ず暗愚で、その後筒井順慶の元を離れ、豊臣家の家臣となる。


<読んでおきたい本>

筒井順慶

風野 真知雄




「洞ヶ峠を決め込む」という慣用句ができるなど日和見の武将として揶揄されている筒井順慶だが、松永久秀との激しい戦闘に勝ち、松倉右近、島左近といった名将に率いられた家臣団をもち、信長にも高く評価された意外と魅力的な戦国大名であった。筒井順慶の生涯を描いたこちらの小説をお薦めする。


さて、松倉重政だが、1600年の関ケ原の戦いでは今度は徳川方に参陣し、その功績を徳川家康から認められ、1608年に現在の奈良県五條市にある大和二見城主1万石の大名となった。交通の要所であった大和二見では、その城下に五條新町を築いて諸税を免除したことから、各地から商人たちがここに集まり、町は大いに栄えた。わずか8年ほどの短い治世ではあったが、その間に五條発展の基礎を築いたという偉業をたたえるため、2008年には松倉重政の入城400年を記念して五條新町の新町通りにある新町松倉公園に顕彰碑が建てられている。


奈良県五條市 五條新町の街並み


1615年、今度は大坂夏の陣に参陣。そこでの活躍が再び認められて、今度は肥前日之江城4万3千石(現在の長崎県南島原市)に加増され移封された。それまで肥前日之江藩は有馬晴信、有馬直純といったキリシタン大名が治めていた土地であったが、禁教令によるキリシタンへの迫害の指示に耐えかねた有馬直純は自ら転封を申し出て、日向国延岡へと移った。このことが島原の人たちの運命を変える悪夢となる。


その後、1618年の一国一城の制に従い、松倉重政は領内にあった原城、日之江城を廃城とし、あらたに島原城を築城することにした。しかし、計画された城の規模は10万石以上の大名に匹敵するものであり、そのため領内の検地を再度おこない、わざと実際の石高の倍近くを見積もった。さらには徳川幕府への忠誠を示すため、禄高に見合わない規模の江戸城の普請を請け負った。そのため領民には限界を超える税を取り立てることとなる。


松倉重政は南蛮貿易で富を得ていたためキリシタンを黙認していたが、幕府のキリシタン弾圧が始まると1621年から弾圧を開始した。当初はゆるやかだったが、1625年に徳川家光からキリシタン対策の甘さを指摘されると徹底的な弾圧を開始。過酷な年貢を納められない農民やキリシタンに対して残忍な拷問をおこなった。雲仙地獄にもその拷問をおこなった記録が残っている。


それだけではない。松倉重政は徳川家光のさらなる歓心を得るべく、日本の防衛のためにキリシタンの拠点であるフィリピンのルソン(スペインが統治)攻略を進言。松倉氏が軍隊を率いてルソンを攻略し、そこで10万石の領土を得たいと申し出。1630年にその調査隊を派遣するなどした。その準備として3,000丁の弓と火縄銃を準備し、これらの費用も領民が負担することとなる。


しかし1630年に小浜温泉で57歳で急死。原因は不明だが、暗殺されたのではないかという説がある。島原・天草一揆は1637~1638年に起きているため松倉重政はその前に亡くなっているが、一揆の大きな原因を作った張本人として歴史に名を残した。


このように奈良と島原で正反対の評価を得ている松倉重政だが、共通するのは徳川家への成果アピールと領地拡大へのあくなき野心。現代で例えると、さながら本社役員に気に入られるために本社が気に入るような行動をとり続け、一方では無理な売り上げ目標を立てて部下を酷使し、それによって良い成績を収め、自分だけがより大きな支店へ栄転した支店長、といったところか。



マナブ:うーん、今でもいますよね。本社役員の方ばっかり向いていて、本社からは気に入られているけど部下からは最悪の評価の支店長。。。。


歴史先生:そうでしょうね(苦笑)。で、実は跡を継いだ松倉重政の息子、松倉勝家もそれに輪をかけて悪名高い大名なんです。この話は原城跡のところでお話ししましょうね。


島原城と眉山


長~い商店街の中にあるねはん像と2つのお墓


島原一番街



マナブ:島原一番街というアーケード商店街に来ました。(地図 ❸)


歴史先生:ここは750mもある長ーい商店街なんです。


マナブ:今はあまり人がいませんが、以前は賑やかだったんでしょうね。


歴史先生:はい。どの都市でも問題になっていますが、郊外のショッピングモールが栄えて、その反面、中心部の商店街が衰退していることがとても残念です。ここ島原でも、鯉の泳ぐまちの近くにあるイオンショッピングセンターはとても混んでいます。


江東寺の商店街からの入口


マナブ:ん? 「江東寺」? 商店街にお寺があるんですね。


歴史先生:ここはぜひ立ち寄りましょう。


江東寺と眉山


江東寺(地図 ❹)

〒855-0806 長崎県島原市中堀町42

拝観自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.shimabara.lg.jp/page939.html


マナブ:大きなお寺ですね。本堂も大きく、墓地も広大です。


歴史先生:ここで有名なのは「ねはん像」です。


マナブ:ねはん像?


歴史先生:はい、涅槃(ねはん)像というのは、釈迦が弟子たちに看取られながら亡くなる瞬間を表したもので、お釈迦様が右を下にした寝姿で表されます。墓地の中の小さな丘にありますので行ってみましょう。


江東寺ねはん像


マナブ:あ、これですね。


歴史先生:1957年(昭和32年)に作られた全長8mの像で、鉄筋コンクリート造りとしては日本最大のものです。ねはん像はタイのワット・ポー寺院など有名なところがいくつかありますが、日本では珍しいほうかと思います。


マナブ:たしかに、タイの寺院とかで巨大な寝姿の仏様を見かける印象があります。


歴史先生:ところで、この丘の上にはあと2つ、重要なものがあります。左側を見てください。


江東寺 松倉重政の墓


江東寺 板倉重昌の墓


マナブ:お墓、ですか?


歴史先生:はい。ねはん像のすぐ左にあるのが松倉重政の墓。その左が板倉重昌の墓、です。ここ江東寺は松倉家の菩提寺ですので、当然松倉重政公のお墓がここにあるわけです。


マナブ:もう一人の板倉さんというのは?


歴史先生:板倉重昌というのは島原・天草一揆の時に幕府軍を指揮した人物。思うように制圧ができないあせりから原城への総突撃を行い、その際に流れ弾に当たって戦死したと言われています。


マナブ:幕府軍のトップが戦死したんですね。


歴史先生:はい、そうなんです。そのあたりはまた原城跡で詳しくお話ししましょう。ところで、松倉重政と板倉重昌のお墓は、1792年の大災害で一度流されているんです。


マナブ:大災害?


歴史先生:はい、「島原大変・肥後迷惑」と呼ばれる日本の有史以来最悪の火山災害によって、このあたりは土石流で流されてしまいました。この小さな丘もその時にできた流れ山の1つかもしれません。


マナブ:では本当のお墓はもう実在していないんですね。


歴史先生:それが、その後の街の復旧工事の際に半分欠けた松倉重政の墓石が見つかり、のちになって町中で井戸を掘っている際に板倉重昌の墓石も掘り出されました。今も新しい墓石の脇にそれぞれが安置されています。


江東寺から商店街へ戻るところにある案内地図

             

マナブ:江東寺、見ごたえがありました。さて、アーケード商店街へ戻ります。ここに案内地図がありますね。えーっと、現在地がここだから・・・。


歴史先生:あれっ? この地図、なんだか変です。


マナブ:ん?


歴史先生:あ、わかった。東西(この写真でいうと上下)が逆に印刷してある・・・。


マナブ:えっ、まさか(笑)。そんなことないでしょう。


案内地図の裏側


歴史先生:いえ、そうですよ。看板の裏側にも同じ地図がありますが、あっ、こっちは正しい。ほら、2枚比べてみてください。


マナブ:ほんとだ、さっきのは東西が逆になってる。


歴史先生:まさかの間違いですね(笑)。では、こちらの正しい地図を見てください。次に「大師堂」と書かれたところへ行きます。


さざえ堂とからゆきさんの悲しい物語


大師堂前のねこ



大師堂・天如塔(地図 ❺)

〒855-0831 長崎県島原市湊道1丁目7474−3

拝観自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.shimabara.lg.jp/page2919.html


マナブ:大師堂につきました。ねこがお出迎え(笑)。


歴史先生:ここも小さな丘になっていますが、ここはかつて「松島」と呼ばれた島で、弁天さんを祀っていたようです。弁天さんって、よく島に祀られていますよね。江ノ島とか、琵琶湖の竹生島とか。ここもそんな島だったんでしょう。島原大変で周囲に土砂が流れ込んで海が埋め立てられ、陸続きの小山になり、「弁天山」と呼ばれるようになりました。


マナブ:島原大変では地形が大きく変わったんですね。


歴史先生:そうなんです。ではさっそく裏へ回ってみましょう。


大師堂の脇から見上げた天如塔


マナブ:おっ、丘の上に水色の変わった感じの塔が立っていますね。


歴史先生:はい、こちらは「天如塔」、といいます。


マナブ:おしゃれですね。ニューイングランドあたりの古い灯台みたい。


天如塔


歴史先生:この塔は1890年(明治42年)に建てられたもの。空海の教えを広めていた岡山県出身の廣田言証さんという方が雲仙普賢岳で霊感を得て、ここ弁天山で開いたのが大師堂。その後インドや東南アジアにわたって仏跡を巡り、持ち帰った釈迦如来像を安置するために建てた塔です。


マナブ:明治の終わりごろのものなんですね。


歴史先生:この塔の建設には「からゆきさん」たちの寄進が多々あったとされています。


マナブ:からゆきさん?


歴史先生:はい。からゆきさんとは明治から昭和初期にかけて、東南アジアへ売られていった島原や天草の貧しい家の娘さんたちのことを言います。


マナブ:昔の日本にそんなことがあったんですか。知らなかった。


歴史先生:ほとんどのからゆきさんは日本へ戻りたいという願いもむなしく、現地で亡くなっています。廣田言証さんは東南アジアを巡り、その供養をおこないました。そういったことから、運よく日本に戻れたからゆきさんたちから感謝を込めて、多くの寄進がなされたのだそうです。


天如塔の周りを囲む仏像群


<コラム> からゆきさん


からゆき(唐行き)さんとは、九州、特に島原や天草で使われた呼び名で、明治の終わりごろから大正にかけて東南アジア等に出稼ぎに行った娼婦のことを言う。


江戸時代、長崎には丸山遊郭ができ、そこで働く遊女たちは唐人屋敷や出島へも自由に出入りできていた。さらにはその遊女たちを東南アジアへ輸出する貿易商たちも存在し、長崎から東南アジアへ女性を売るビジネスが確立していた。


明治になって、島原や天草の貧しい農村・漁村では子供たちを食べさせていくのにも苦労していた。そこに目を付けた女衒(ぜげん)と呼ばれるあっせん業者たちは、農村・漁村を回って年頃の娘をもつ親たちに外国での出稼ぎ話をもちかけ、同意した親に現金を渡していた。こうして女衒が集めた娘たちは貿易業者によって船に乗せられ、東南アジアなどへ送り出された。


女衒(ぜげん)という言葉は、今村昌平監督の作品で緒形拳さん、倍賞美津子さん主演による映画「女衒」で有名になった。Amazon PrimeやDVDなどで観ることができる。明治後期、富国強兵のスローガンのもとに若い女性たちが海外へ売られていった現実を描いている。


<見ておきたい映画>

女衒(ぜげん)




さて、東南アジアへ売られることになった娘たちへの待遇はひどいものだった。不衛生な船底で病気と船員たちの暴力におびえながら1か月も過ごした後、東南アジアの娼館に売られていった。行先はシンガポール、香港、クアラルンプールなど、欧州列強が新たに拠点として開発している都市が多かった。


さらにひどいことに東南アジアへの渡航費は娘たちへ借金として背負わせ、それを返済させるために娘たちへは過酷な性的労働が課せられた。現地での衣服費、食費、宿泊費、そして性病の検査費など、すべての費用をカバーするだけでも毎日多数の客を取らなければならなかった。


娘たちの中には客に「身受け」されていく者もあった。これは江戸時代の遊郭の遊女たちと同じく、客が多額の一時金を支払って娼館から遊女を買い取るもので、その借金もそれで清算された。身受けされれば遊郭も儲かり、遊女も過酷な労働から解放されるということでお互いにうれしいことのようにも見えるが、どんな人に買われるかでその後の遊女の人生は大きく変わったことは言うまでもない。


からゆきさんの派生語として、1980年代に流行語となった「じゃぱゆきさん」がある。これは経済発展した日本に東南アジアから出稼ぎに来て、主に夜の街などで働いた女性たちのことを指す。明治・大正の頃に比べて日本と東南アジアの立場が逆転したのだ。戦後の経済発展による日本の国際的競争力の向上がここにも顕著に表れている。



マナブ:天如塔は上に登ったりできるんですか?


歴史先生:一応、予約をすれば中に入って上まで登れるそうです。でも内部は非常に狭く、登るのも大変なようですよ。ところで、塔の内部ですが二重らせん構造になっていて、さざえ堂になっています。


マナブ:さざえ堂! 会津若松で行きましたね!


会津若松のさざえ堂


歴史先生:はい。上りのらせん階段と、下りのらせん階段が二重になっていて、上り下りで人とすれ違わない構造になっています。


マナブ:全国にほかにもさざえ堂はあるんですか?


歴史先生:主に東日本に多く分布していて、ここ島原のような西日本ではとても珍しい存在です。しかし何といっても会津若松のさざえ堂が保存状態の良さや外観の美しさではNo.1でしょう。また、新しいところでは東京の地下鉄三田線西巣鴨駅近くにある大正大学の構内にできたさざえ堂は見事です。


東京・大正大学構内にできたさざえ堂


鯉の泳ぐまちで「かんざらし」を食べよう


鯉の泳ぐまちに最も近いジャンボ駐車場



マナブ:「鯉の泳ぐまち」という素敵な名前の場所に来ました。(地図 ❻)


歴史先生:このあたりにはいくつか駐車場がありますが、鯉の泳ぐまちに一番近い「ジャンボ駐車場」というところに車を停めます。1時間150円、ということで金額もリーズナブルです。


浜の城跡の石碑


マナブ:この石碑は? 「浜の城跡」?


歴史先生:はい、今でこそ、ここは内陸ですが、島原大変の前まではここは海に突き出した岬で、ここには浜の城と呼ばれる城郭がありました。元々島原氏のもので、後年松倉重政が島原城を造るときには一時的にここを居城にしていたようです。今では小公園になっています。


マナブ:土石流で海岸線がずっと前進した、ということですね?


歴史先生:はい、これだけを見てもその被害の大きさが想像できます。


鯉の泳ぐまちの通り


マナブ:鯉の泳ぐまちの通りを歩いています。落ち着いた、趣ある通りですね。


四明荘の入口


歴史先生:こちらの「四明荘」に入ってみましょう。


四明荘

〒855-0803 長崎県島原市新町2丁目125

9:00-18:00、無休

入場400円(小中高生・障碍者割引あり)

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.shimabara.lg.jp/page943.html


四明荘


マナブ:わぁ、大きな池があって、開放的で気持ちのいい空間です。ここは何だったところですか?


歴史先生:はい、ここは伊東元三さんという医師の別邸でした。明治の終わりから大正の初めごろに造られたもので、四方に向けて眺めがいいので四明荘と名付けられました。


四明荘の鯉


マナブ:広縁に座って、足元の鯉を見ながらお茶を頂きました。


しまばら湧水館


歴史先生:四明荘の隣には「しまばら湧水館」という古民家カフェもありますが、今日は新しくできた「清流亭」で休憩しましょう。


清流亭


鯉の泳ぐまち 観光交流センター 清流亭

〒855-0803 長崎県島原市新町2丁目247−1

9:00-18:00、無休

入館無料

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.shimabara.lg.jp/kanko/page2916.html


歴史先生:こちらは2015年にオープンした施設です。島原の特産品が並びます。また敷地内の湧水を利用した大きな池にはたくさんの鯉が泳いでおり、建物はその池の上に立っています。


鯉の泳ぐまちの鯉


清流亭の床の一部はガラスになっている


マナブ:床がガラスになっていて、足の下に池が見えるところもありますね。


清流亭で食べられるかんざらし


歴史先生:ここで「かんざらし」を食べましょう。


マナブ:かんざらし?


歴史先生:はい。かんざらし、とは白玉粉で作った小さな団子を、島原の冷たい湧水で冷やし、それに甘い蜜をかけたもの。江戸時代から続く島原の名物スイーツです。


マナブ:あ、これはひんやりして、さっぱりしてていいですね。


しまばら火張山 花公園で眉山と雲仙の大きさに圧倒される


しまばら火張山 花公園から見た雲仙



マナブ:島原市の西、「しまばら火張山 花公園」というところにやって来ました。


しまばら火張山 花公園

〒855-0076 長崎県島原市上折橋町1465−2

9:00-17:00(まつり期間中)

入場300円

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.shimakanren.com/spot/detail_10098.html?id=1374


歴史先生:どうです、この景色。


マナブ:正面は雲仙ですね。荒々しい岩肌が大迫力です。


しまばら火張山 花公園から見た眉山


歴史先生:そして左側は眉山。


マナブ:こちらは距離が近いのでさらに大きく見えます。斜面が急で、山の大きさに圧倒されます。


歴史先生:ここは「花公園」というだけあって、春は芝桜や菜の花、5月のポピー、秋のコスモスなどが有名です。まつりの期間中は入場料300円がかかりますが、今は何もやっていない時期なので、無料で自由に入れました。


マナブ:山をバックにした花畑、絵になりそうですね。


歴史先生:今の時間はちょっと逆光になってしまいますが、特に花の時期の昼間は雲仙と眉山を見るベストな場所の1つです。今日はのちほど「がまだすドーム」というところに行きますが、今の時期・時間帯であればそちらからみる眉山・雲仙のほうがきれいだろうと思います。


マナブ:それは楽しみです。


歴史先生:さて、島原市内、どうでした?


マナブ:まずはとても立派なお城に驚きました。でもそれが島原・天草一揆の一因になっているなんて。城下町はコンパクトで歩きやすかったです。昔の風景の残る武家屋敷、風情ある鯉の泳ぐまち、それからねはん像やさざえ堂などの珍しい名所もあって、歴史を感じられる街歩きでした。町中のあちこちから眉山が迫って見えるのもこの街の面白さですね。


島原のおすすめレストラン

天草四郎も食べた? 島原名物の具雑煮(ぐぞうに)の名店「姫松屋」




姫松屋 新町店(地図 ❼)

10:30-18:00、木曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.himematsuya.jp/


島原の名物「具雑煮(ぐぞうに)」は、島原・天草一揆の際、原城に多くの人々が籠城したときに、餅を保存し山海のいろいろな材料を加えて煮込んだことで、飢えをしのいだという歴史的な食べ物。今でも島原地方で多く食べられている。


江戸時代後期の1813年に、姫松屋の初代がこの具雑煮の店を開業。味付けに工夫を凝らしてだしの利いたおいしい食べ物として人気を博した。


姫松屋本店は島原城の入り口前にあり、いつも混んでいて昼時は待ち時間がかかる。こちらの新町店は鯉の泳ぐまちのすぐそばにあり、本店に比べると空いているので、忙しい観光の合間に行くならねらい目。


島原城の入口のすぐ前にある姫松屋本店


実際に行ってみた


姫松屋 新町店は建物の2階。階段を上がるとレトロな雰囲気の食堂になっている。具雑煮がメインのお店。普通サイズの具雑煮は1,200円。デザートとしてかんざらしも食べられる。


シンプルに普通の具雑煮を頼んでみた。



具雑煮のスープをひとくち飲んでみる。うーん、だしがうまい。壁には「だしがいのち」という張り紙がされていて、納得。



中には餅のほか、シロナ、かまぼこ3種、アナゴ、ごぼう、卵焼き、シイタケ、凍豆腐、れんこん、鶏肉、春菊というたくさんの具が入っている。スープのしみた餅は柔らかくて食べやすい。やさしい味だがしっかりと腹にしみる、食べ応えのある一品だった。島原に来た際にはぜひお薦めの一品。


​歴史好きのための観光ガイド
記事の内容は取材当時のものであり、最新の情報についてはWebサイト等で必ずご確認ください。

本サイトは個人が運営しています。筆者の勉強不足による歴史認識の誤りや情報のアップデートの必要性など多々あろうかと存じますが、何卒温かくお見守りください。

本サイトの内容について無断転載はご遠慮ください​。

© rekishizuki 
bottom of page