日本一の巨大磨崖仏にビックリ:普光寺磨崖仏
東洋のナイアガラ「原尻の滝」はどうやってできた?
もう1つのナイアガラ、阿蘇山の火砕流が造った「沈堕の滝」
内山観音(蓮城寺)に伝わる真名野長者と般若姫の伝説とは
ここが日本最古の寺かも? 1,000体の観音像が立ち並ぶ九州の三十三間堂:内山観音(蓮城寺)
日本一の「虹澗橋」はなぜここに架けられた?
これほどきれいに残っている石仏は他にない? 「菅尾摩崖仏」
日本一の巨大磨崖仏にビックリ:普光寺磨崖仏



普光寺 駐車場
マナブ:今日は豊後大野市にある普光寺に来ています。ここは磨崖仏で有名なところだそうです。
歴史先生:来られたことはありますか?
マナブ:いいえ。実は普光寺の磨崖仏の存在自体、今回初めて知りました。
歴史先生:臼杵石仏、そして国東の熊野磨崖仏に比べるとまだまだ知名度が低いようですね。でもその大きさは熊野磨崖仏と並んで日本一。
マナブ:お会いするのが楽しみです。
普光寺 磨崖仏(地図 ❶)
〒879-6213 大分県豊後大野市朝地町上尾塚1225
境内自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.visit-oita.jp/spots/detail/6502

駐車場から普光寺への道は2つに分かれる
マナブ:道が2つに分かれています。
歴史先生:左は近道ですが階段。右はやや遠回りですが舗装道路。

左の階段

右の舗装道路
マナブ:結局私たちは左の階段を選びましたが、それほど急でもありませんでした。足に不安のある方は右の舗装道路のほうがいいかもしれません。

普光寺 山門
マナブ:駐車場から歩いて2分ほどで普光寺に着きました。立派な山門があるお寺ですね。
歴史先生:でもここのハ イライトは左側に見えていますよ。
マナブ:うわぁ。これはすごい。

普光寺 山門前から見る磨崖仏
マナブ:2つの大きな岩屋がありますね。そしてその左側には巨大な仏様が彫られています。

普光寺 磨崖仏
歴史先生:中央が不動明王。高さが11.3mもあり、熊野磨崖仏と並んで日本一です。
マナブ:ちなみに世界一は?
歴史先生:えーっと、おそらくは中国の楽山大仏じゃないでしょうかね。高さ71mもあるとてつもない磨崖仏です。
マナブ:あ、そこ、行ったことあります。
歴史先生:へぇー、そうなんですか?
マナブ:あれはたしかに桁違いでした。


楽山大仏(中国・四川省)
歴史先生:では、普光寺摩崖仏の近くまで行ってみましょう。

磨崖仏の近くまで行ってみよう

間近でみる磨崖仏
歴史先生:中央が不動明王。左右に5.5mの高さがある二童子を従えています。
マナブ:わりと薄く彫られていますね。
歴史先生:この岩ですが、これは阿蘇山の噴火による溶結凝灰岩。高さ20mにも及ぶ厚さで積もっています。ところで、他の多くの磨崖仏が9万年前のAso-4の火砕流による溶結凝灰岩に彫られているのに対して、ここ普光寺の磨崖仏は12万年前のAso-3の火砕流によるものです。
マナブ:1つ前の噴火なんだ。
歴史先生:そしてAso-3の溶結凝灰岩はAso-4のものに比べてもろくて崩れやすい。そのことが、彫りを浅くさせている原因なのかもしれません。
マナブ:不動明王って、憤怒の形相、ですよね。でも熊野磨崖仏もここも、どちらかというと丸っこくてかわいいお姿になっています。
歴史先生:崩れやすい地層と長年の風雨がそうさせたんですね。
マナブ:いつ彫られたものなんですか?
歴史先生:鎌倉時代と言われています。普光寺の創建も同時期です。
マナブ:たしか臼杵石仏や熊野磨崖仏は平安時代末期から鎌倉時代、ということでしたから、それより若干新しいのかもしれませんが、それでも十分古いものですね。
歴史先生:ここ普光寺摩崖仏は「豊後大野ジオパーク」の構成要素です。阿蘇山の火砕流による特殊な地形と、そこに彫られた磨崖仏群などから構成されています。

普光寺 磨崖仏
マナブ:あらためて、ここはすごい景色です。こんな景色は初めて見ました。今、ここにいる観光客は私たちだけですが、ここはぜひたくさんの人に見てほしい、大分を代表する景観の1つだというふうに思いました。
東洋のナイアガラ「原尻の滝」はどうやってできた?

道の駅 原尻の滝

道の駅 原尻の滝(地図 ❷)
〒879-6631 大分県豊後大野市緒方町原尻936
9:00~17:30(3~11月)、9:00~16:30(12~2月)、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
マナブ:豊後大野市にある有名観光地、原尻の滝へ来ました。「東洋のナイアガラ」と呼ばれている滝です。
歴史先生:ここはご存じでしたよね?
マナブ:はい、名前も知っていたし写真もたくさん見ていたのですが、実際に来るのは初めてです。

滝が良く見える吊り橋へ
歴史先生:ではまずは吊り橋へ。ここからは滝を正面から見ることができます。
マナブ:いいですね。やや狭くて揺れる、スリリングな吊り橋です。

吊り橋から見た原尻の滝

幅120m、高さ20mの馬蹄形をしている
マナブ:おぉー、原尻の滝、すごいですね。やはり本物は迫力があります。
歴史先生:原尻の滝の特徴といえば?
マナブ:そうですね、この形?
歴史先生:はい、馬蹄形をした横に長い滝。滝の上はどうなっていますか?
マナブ:平野になっていて、田んぼなどが見えます。
歴史先生:そうですね。ではこの地形はどうやってできたのか、もう少し滝に近寄って見てみましょう。

河原へ下りて滝を見よう

河原から見る原尻の滝
マナブ:下から見ると、水圧をさらに感じられますね。すごい水量だ。
歴史先生:岩の感じ、何か気が付くことがありますか?
マナブ:そうですね、縦に筋が入っています。あ、これは柱状節理かな?
歴史先生:正解です。

水落ち際から見る原尻の滝
マナブ:水落ち際からも迫力満点です。
歴史先生:この岩が柱状節理だとして、周りの地形を見渡してください。ここはどうやってできたか、推測できますか?
マナブ:うーん、柱状節理ということは、この川の部分は阿蘇山の火砕流が来て埋め尽くされた部分。そうか、元はもっと深い谷だったところに火砕流が来て埋められ、溶結凝灰岩になって、こんな広い谷になった。
歴史先生:そうです、そうです。この平らな地形の部分はすべて柱状節理でできています。
マナブ:そして柱状節理は水に浸食されると縦に割れて崩れやすい。ということは、岩の柱が縦方向にガラガラと崩れ始めて、その崩れる途中の姿が今の原尻の滝。
歴史先生:大正解です!

原尻の滝のすぐ横には用水路がある
歴史先生:さて、ついつい見逃しがちですが、滝の他で注目して欲しいものがここにあります。
マナブ:ん? これは何の変哲もない用水路に見えますが?
歴史先生:はい、この用水路を見ていただきたかったんです。
マナブ:というと?
歴史先生:想像してみてください。阿蘇山の火砕流でできた溶結凝灰岩の大地。ここに川が流れて深い谷ができていきます。そうすると取り残された台地の上は、どうなりますか?
マナブ:水が来ない。
歴史先生:はい、だとすると、せっかくの平らな土地も田畑にできません。そこで、川の上流から長い距離の用水路を掘って、わずかな高低差を使って下流にある台地の上の土地に水を供給する。そんな大規模な仕組みが必要になるわけです。
マナブ:なるほど。火砕流に埋め尽くされた豊後大野市では、そういった用水のシステムが発達したんですね。
歴史先生:はい、そうです。
マナブ:いつごろの話でしょう?
歴史先生:大規模な整備が行われたのは江戸時代の初期です。熊沢蕃山(ばんざん)という人をご存じですか?
マナブ:いえ、知りません。

原尻の滝に建つ熊沢蕃山の像
歴史先生:では中江藤樹は?
マナブ:たしか日本史の教科書で見たような・・・。いや、それは中江兆民か。
歴史先生:中江藤樹は江戸時代初期の陽明学者です。熊沢蕃山は中江藤樹の弟子です。
マナブ:陽明学ってよく聞きますが、どういうものなんでしょう?
歴史先生:江戸時代に流行した学問で、朱子学とよく比較されます。朱子学は中国の古典などの書物をたくさん読んで知識を蓄え、社会秩序を守るための保守的な学問。江戸幕府によって奨励されました。幕府の運営には朱子学の方が好都合だったからでしょう。
マナブ:陽明学は?
歴史先生:それに対して陽明学は書物よりも実際に行動してみて何かを学ぼうという学問。実践的で、現状を批判するところから始まります。江戸時代でも幕末は志士たちの間でもてはやされました。
マナブ:なるほど。でも熊沢蕃山はまだ江戸初期の人。
歴史先生:はい、このころは陽明学に対する幕府からの風当たりが強かった。しかし当時岡山藩の藩主であった池田光政は陽明学に傾倒し、熊沢蕃山を快く迎え入れます。1645年、熊沢蕃山26歳のときでした。
マナブ:理解ある雇い主を見つけたんですね。
歴史先生:岡山藩では洪水による飢饉を経験し、そこから熊沢蕃山は治水事業や農業生産の向上に取り組みます。しかし彼の陽明学的な思想は江戸幕府や岡山藩内の守旧派から攻撃を受け、1657年、岡山藩を去ることになります。1660年、その熊沢蕃山に声をかけたのが岡藩の第3代藩主、中川久清。
マナブ:そして豊後にやってきた。
歴史先生:はい。熊沢蕃山はその優れた土木知識を生かして、竹田や豊後大野で治水事業をおこないました。それが今でも残っているんです。
マナブ:そんな歴史がこの用水路にはあったんですね。
もう1つのナイアガラ、阿蘇山の火砕流が造った「沈堕の滝」

雄滝(正面)と雌滝(右手前)

沈堕の滝(地図 ❸)
〒879-6423 大分県豊後大野市大野町矢田2394
見学自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.visit-oita.jp/spots/detail/4548
マナブ:原尻の滝から車で30分ほど。沈堕(ちんだ)の滝へ来ました。
歴史先生:県道26号線 (三重野津原線)が開けた場所に展望所があります。車が数台停められますのでまずはそこから眺めましょう。
マナブ:おぉ、絶景ですね。正面に大きな滝、右手前に小さな滝があります。
歴史先生:正面は雄滝、右手前は雌滝、と呼ばれています。
マナブ:正面の滝は水量がすごいですね。
歴史先生:ここは原尻の滝(幅120m)に比べてやや小さい幅100mの滝。高さ20mは原尻の滝と同じです。
マナブ:原尻の滝はカーブしている馬蹄形でしたが、こちらはストレートな形ですね。

雄滝
歴史先生:遠目で少しわかりづらいかもしれませんが、滝のところの岩も柱状節理です。
マナブ:ということは、このあたりも阿蘇山の火砕流台地?
歴史先生:はい、そうなんです。原尻の滝と同じくAso-4の溶結凝灰岩でできていて、その柱状節理が1本ずつ崩れて、あのような滝になりました。
マナブ:ここもまたナイアガラのようですね。
歴史先生:1909年(明治42年)、ここの右側に水力発電所が造られました。滝の上流で取水し、発電していました。現在はもう稼働していませんが、その施設は近代化遺産として一部が保存されています。
マナブ:そこは行けるんでしょうか?
歴史先生:はい、発電所跡の見学、そして滝のすぐそばまで行ける遊歩道があるのですが、今日はとても残念ながら整備工事中で、入ることができません。
マナブ:うーん、残念。ここの展望所から眺めるしかないんですね。

雌滝は「滝落としの刑場」として使われた
歴史先生:さて、正面の雄滝にばかり目が行ってしまいますが、右手前の雌滝もすごいでしょ?
マナブ:はい、こちらも迫力があります。
歴史先生:ここの滝つぼはかなり深いようで、江戸時代から危険な場所として認識されていたようです。そこで岡藩ではここを「滝落としの刑場」として使っていました。
マナブ:なんだか怖そうな名前ですが。
歴史先生:犯罪の容疑者は岡藩のお白洲で裁かれるわけですが、そこで白か黒かはっきりしない場合、「沈堕落とし」という判定となり、ここ雌滝に連れてこられて突き落とされたそうです。助かれば白、亡くなれば黒、という判断になりました。
マナブ:えー、それはひどい。
歴史先生:たいていは溺れて亡くなります。生き延びて無罪放免となったのはたった一人だったそうです。

雪舟が描いた滝の絵
歴史先生:雪舟(せっしゅう)をご存じですか?
マナブ:はい、水墨画の人ですよね?
歴史先生:室町時代の中頃(1420-1506年)に活躍した水墨画の画家です。周防の大内氏の庇護のもと、遣明船で明の国へ行って中国の画法を習得しました。日本に帰ると豊後や石見、そして丹後などを回って作品を残しています。
マナブ:豊後に来た時に描いたのがこの絵ですね。雄滝と雌滝が見えます。
歴史先生:彼の作品にはおもに山水画が多く、残っている作品のうち6つが国宝に指定されているという、室町時代を代表する画家です。
マナブ:ものすごく高い評価を得ていますね。
歴史先生:作品を見ると彼は旅先の地理をよく見ていることがわかりますが、その旅は絵を描くためではなく、大内氏と敵対していた豊後などの国を偵察していたのかも、という説もあります。
マナブ:それはちょっとミステリーっぽい。
歴史先生:雪舟が描いた鎮田瀑図の原図は関東大震災で失われていますが、江戸時代前期に狩野派の狩野常信が模写したものが残っています。以下からご覧いただけます。
鎮田瀑図
https://knmdb.kyohaku.go.jp/737.html
内山観音(蓮城寺)に伝わる真名野長者と般若姫の伝説とは

手前にも駐車場があるが、奥まで進むと内山観音(蓮城寺)のすぐ前に車を停めることができる

内山観音(蓮城寺)(地図 ❹)
〒879-7124 大分県豊後大野市三重町内山527
境内自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.visit-oita.jp/spots/detail/4552
マナブ:沈堕の滝から車で25分ほど。内山観音(蓮城寺)に来ています。
歴史先生:ここはご存じでしたか?
マナブ:いいえ、名前も聞いたことがありません。
歴史先生:実はここはすごいお寺です。あまり有名でないのが不思議なくらい。
マナブ :どうすごいんですか?
歴史先生:このお寺の由来を知るとそれがわかります。まずはこのお寺に伝わる伝承についてお話ししましょう。まず前半は「真名野長者」のお話です。
【コラム】「真名野長者」の伝説
時は古墳時代。断絶しかかった天皇家を、遠い親戚にあたる継体天皇(在位507~531年)が継いで天皇家の系譜をかろうじてつないだころのお話。大和の都の貴族の家に、玉津姫という美しい娘がいました。しかし10歳のころから顔に大きなあざが現れ、そのために縁談もまとまりません。玉津姫はそれを悲しんで、毎晩大和国の大神神社(おおみわじんじゃ)に願をかけていました。
ある晩、夢枕に三輪明神が現れ、「豊後の国の深田に炭焼き小五郎という男がいる。その男がお前の伴侶となる。金亀ヶ淵で身を清めるとよい。」とのお告げがありました。
信心深い玉津姫はさっそく豊後へと旅立ちます。臼杵の港に着き、深田にたどり着きましたが誰に聞いても炭焼き小五郎の所在はわかりません。そんな姫の前に1人の老人が現れ、炭焼き小五郎が住んでいるという粗末な家まで案内してくれました。
玉津姫がそこで待っていると、炭焼き小五郎が帰ってきました。聞くとその若い娘は自分と結婚するためにはるばる大和の都から来たというので、炭焼き小五郎はびっくり。「こんな貧乏暮らしではとても妻を養えない」と、断ります。
しかし玉津姫は旅に出る時に旅費となる「金(きん)」を持っていましたから、「大丈夫です、まずはこ れを使って食べ物を買ってきてください」と金を炭焼き小五郎に渡します。炭焼き小五郎は怪訝な顔をしてそれを受け取りました。
金を持って出て行った炭焼き小五郎ですが、すぐに手ぶらで戻ってきます。玉津姫が「食べ物は?」と聞くと、「あなたからもらった石を水鳥に投げつけてみたけど、当たらなかった」と答えました。玉津姫は「この人は金の使い方を知らないの?」とあきれるばかり。
「あれは「金」と言って、食べ物と交換することができるのですよ」と教えると、「あんなもの、炭焼き小屋の近くにいくらでも落ちてるよ」と言います。そこで炭焼き小屋を見に行くと、たしかにそのまわりには金がたくさんころがっていました。玉津姫はそれらの金を拾い集めて持ち帰りました。
さらに2人が水鳥がいるという淵を通りがかると、そこには金色の亀が泳いでいました。「これはお告げのあった金亀ヶ淵に違いない」と思った玉津姫は、そこの水で身を清めます。すると顔にあったあざがみるみるうちに 消えてなくなりました。
2人は大金持ちの夫婦となり、真名野原に屋敷を建て、「真名野長者」と言われました。
歴史先生:真名野長者の伝説、いかがでした?
マナブ:おもしろい話ですね。
歴史先生:次はその続編、「般若姫」の伝説のお話です。
【コラム】「般若姫」の伝説
真名野長者夫妻に娘が生まれ、「般若姫」と名付けられました。般若姫はたいそう美しく、その美貌は遠く大和の都まで知られるようになりました。
一方その頃、大和の都では欽明天皇の後継者争いが兄弟間で起きていました。豪族たちの支援を得た兄が優勢となり、弟は暗殺の危険を感じて都を脱出します。その後、兄は敏達天皇として即位しました。
弟は絶世の美女がいるという噂がある豊後の国を目指します。そして名前を「山路」と変え、真名野長者に会いに行きます。その気品ある姿と深い教養を気に入った真名野長者は、彼を下働きとして雇うことにしました。
ところがやがて、般若姫が重い病にかかってしまいます。真名野長者が山王権現に祈願に行くと、「笠掛の的を射よ」との神託を得ました。しかし「笠掛の的」が何なのか、真名野長者にはわかりません。その困った様子をみて、山路は「私が知っています」と言い、馬に乗って笠掛の的を射てみせると、般若姫の病はすっかりよくなりました。喜んだ真名野長者は山路と般若姫を夫婦とし、2人の幸せな暮らしが始まりました。
しかしある日突然、都からの勅使が真名野長者の元を訪れます。敏達天皇が崩御されたので、都に戻って即位してほしい、ということでした。山路が天皇の弟であったということを知った真名野長者はびっくり。
山路は都へ帰ることになりましたが、般若姫はそのころ妊娠しており、共に旅することができない状態でした。山路は「生まれたのが男子なら後継者として都へ一緒に連れてきてくれ。女子ならその子を置いて1人で都へ来てくれ。」と般若姫に伝え、都へと戻っていきました。
そして生まれたのは女の子。般若姫はその子を真名野長者に預け、臼杵の港から都へと船出していきます。途中で寄った島を「姫島」(現在の大分県姫島村)、途中で立ち寄って井戸の水でのどを潤し、差した楊枝がすぐに柳の大木になった地を「柳井」(山口県柳井市)と言います。しかし般若姫の乗った船は大畠(山口県 柳井市大畠)で暴風雨によって遭難。19歳で命を落としました。
般若姫の突然の死を悲しんだ真名野長者は、黄金3万両をかけて中国から(百済という説もある)蓮城法師を招いて蓮城寺を開き、般若姫の菩提を弔いました。
都へ戻った山路は用明天皇となり、蘇我、物部が争う激動の時代を生き抜きます。彼が亡くなると弟の崇峻天皇が即位しますが蘇我氏によって暗殺され、妹の推古天皇が即位しました。
歴史先生:いかがでしたか?
マナブ:すごいお話でした。天皇家とこんなに関わり合いのある話だったなんて。
歴史先生:ということで、蓮城法師を招いて開いた蓮城寺をこれから参拝いたしましょう。
ここが日本最古の寺かも? 1,000体の観音像が立ち並ぶ九州の三十三間堂:内山観音(蓮城寺)

山門

内山観音(蓮城寺)(地図 ❹)
〒879-7124 大分県豊後大野市三重町内山527
境内自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.visit-oita.jp/spots/detail/4552
歴史先生:山門から境内へ入ります。
マナブ:般若姫伝説からすると、ここは相当に古いお寺になりますよね?
歴史先生:はい、554年に開かれたとされます。
マナブ:えーっと、仏教伝来はいつですか?
歴史先生:538年、552年の2説あります。
マナブ:ということは、仏教が伝来してからすぐですね? 日本で初めての仏教寺院、飛鳥寺の建立はいつでしたか?
歴史先生:596年です。
マナブ:えっ? だとすると、それより42年も前にこのお寺ができたことになる。ここ蓮城寺は断トツで日本最古の寺院なんじゃないでしょうか?
歴史先生:はい、その可能性はあると思います。

本堂
歴史先生:現在は真言宗のお寺で、本堂には平安時代作と思われる千手観音像が祀られています。
マナブ:拝めるんでしょうか?
歴史先生:こちらは秘仏で、17年に一度開帳されます。

境内にはたくさんの地蔵像が並ぶ

鐘楼
マナブ:立派な鐘楼ですね。
歴史先生:こちらは江戸時代後期の1797年に建てられた貴重なもの。

一寸八分観音への参道入口
マナブ:あそこの建物の下に「一寸八分観音 参道」と書かれていますが。
歴史先生:重要な仏様です。あそこをくぐって行ってみましょう。

一寸八分観音への参道

一寸八分観音が納められているお堂
マナブ:ここですか。一寸八分観音とは何でしょう?
歴史先生:真名野長者は金を見つけたことでお金持ちになりましたが、子宝には恵まれませんでした。しかし、竜伯という貿易商が持ち込んだ小さな百済の仏像を買い、それを崇拝したところ、女の子が生まれました。これが後の般若姫です。
マナブ:なるほど、それが一寸八分観音。
歴史先生:はい。蓮城寺が開かれる11年前の543年に百済から渡来したと伝わる小さな仏像です。仏教伝来の2説(538年、552年)のうち、もし552年が正しいとすれば、真名野長者はそれより先に仏像を手にして拝んでいたことになります。
マナブ:そうなりますね。
歴史先生:だとしたらここにある秘仏は日本最古の仏像、ということになります。
マナブ:そうか、そうだとしたらすごいことですね。でもその仏像は大きさが一寸八分? それってどれくらい?
歴史先生:約5.4cmです。
マナブ:うわ、それは小さい。
歴史先生:この仏像は般若姫が守り神として大切に持っていましたが、周防の国で遭難した際、海に投げ出されてこの仏像は行方不明となりました。しかし後になって、魚の腹の中から見つかるんです。般若姫の夫である用明天皇の息子、聖徳太子はそれを聞いて、仏像を蓮城寺へ返すよう命じました 。それからはここ蓮城寺に安置されています。
マナブ:こんな田舎の(失礼!)お寺なのに、出てくる人名が全国区のスターですね。ところで、この一寸八分観音もまた秘仏ですよね?
歴史先生:そうなんですが、1年に1度、毎年1月10日にご開帳となりますので、先ほどの17年に一度のご本尊、千手観音よりはハードルが低いです。

金亀ヶ淵
マナブ:お寺の境内は川に沿って細長い形状をしています。
歴史先生:次の薬師堂へ行くには一度道路に出ます。そして、この下を見てください。少し流れがよどんだ川がありますね。ここが「金亀ヶ淵」。
マナブ:あ、ここが玉津姫のあざが消えたところ。
歴史先生:そうです。そしてこのほとりに薬師堂はあります。

薬師堂
マナブ:かなり長い建物ですね。
歴史先生:さっそく中へ入りましょう。

薬師堂には998体の薬師如来が並ぶ
マナブ:うわ、これはすごい。
歴史先生:京都に似たようなところがありますよね?
マナブ:三十三間堂、ですね。

中央にあるご本尊
歴史先生:三十三間堂よりは1体ずつの大きさも間隔も小さいので建物自体が少し小ぶりですが、真ん中にご本尊、その左右に約1,000体の仏像が並ぶ姿は同様です。
マナブ:これは薬師観音ですか?
歴史先生:はい、これらはすべて薬師観音です。室町時代に制作されたものと考えられます。京都の三十三間堂は千手観音で、鎌倉時代に建立されました。

薬師堂内部

般若姫像へ続く道の入口にある石像宝塔(大分県指定重要文化財)
歴史先生:では最後に、般若姫に会いに行きましょう。この道を登りま す。
マナブ:山道ですね。
歴史先生:でも2分とかからず着きますので、ご心配なく。

般若姫像へは山道を登る

般若姫像
マナブ:着きました。わぁ、これは大きい。
歴史先生:高さ22mもあるんですよ。丘の上に建っているので遠くからも見えます。また、このあたりは桜の名所として、花の時期には賑わいます。

般若姫像(中央)と真名野長者像(手前左右)
マナブ:手前にあるのは真名野長者のご夫妻ですね。
歴史先生:はい、そうです。
マナブ:般若姫に比べてずいぶん大きさが違いますね。それだけ般若姫が人気なのかな?
歴史先生:内山観音(蓮城寺)、いかがでした?
マナブ:ここは驚きました。日本で一番古いお寺かもしれないし、一寸八分観音や1,000体の薬師観音など、すごいものがたくさんあります。真名野長者、般若姫の伝説もあるし、歴史のロマンがこれでもか、と詰まっているお寺ですね。高い拝観料をとってもよさそう。そしてたくさんの観光客が来てもいい場所ですね。今までまったく知らなかったことが不思議です。
日本一の「虹澗橋」はなぜここに架けられた?

近くにある駐車スペースに車を停めよう

虹澗橋(地図 ❺)
〒875-0224 大分県豊後大野市三重町菅生
見学自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.visit-oita.jp/spots/detail/4820
マナブ:次は「虹澗橋(こうかんきょう)」へ行きます。
歴史先生:専用の駐車場がありません。内山観音方面から行く場合、国道502号線で三重川にかかる短い橋を渡ってすぐ左折。200mほど川を下ると左側に虹澗橋へ下りる道があります。それを過ぎてすぐ、道路の左側が広くなっていますので、そこに停めるとよいでしょう。

虹澗橋へ下りる道
マナブ:内山観音(蓮城寺)から15分ほどで着きました。車から降りて歩いています。あ、これが虹澗橋ですか。こうしてみると普通の橋のように見えます。黄色のセンターラインが書かれていますが、ポールが立っていて車が入れないようになっています。
歴史先生:2003年(平成15年)までは車両が通行できていましたが、文化財保護の観点から通行禁 止にしています。

虹澗橋(国指定重要文化財)
歴史先生:橋を渡って、対岸から眺めてみましょう。
マナブ:おぉ、これは見事。美しい形の石橋です。
歴史先生:国指定重要文化財。日本百名橋にも数えられています。
マナブ:いつごろできたものなんでしょう?
歴史先生:江戸後期の1824年に完成しました。橋の長さは31mもあって、当時としては日本最大の石橋でした。
マナブ:大分県北部には耶馬渓橋とか鳥居橋といった見事な石橋がありました。あれはいつ頃できたものでしたっけ?
歴史先生:いずれも大正時代に架けられた橋です。
マナブ:ということは、虹澗橋はそれより100年近く前にできた、ずっと古いものだったんですね。

虹澗橋
マナブ:疑問があるのです が、当時日本一ともいえるすごい橋がなぜここに架けられたんでしょう?
歴史先生:江戸時代、このあたりは臼杵と三重(旧大分県三重町、現豊後大野市)を結ぶ街道が走っていました。いずれも臼杵藩の領地で、三重は1万石とも呼ばれた穀倉地帯でしたから、この街道をたくさんの年貢米が臼杵へ向けて運ばれていきました。
マナブ:そんな重要な街道だったんだ。
歴史先生:しかしここに流れている三重川は谷が切り立っていて、柳井瀬の渡しという舟で渡すしかない街道中の難所となっていました。川が増水すると年貢米を納めるのが遅れたり、多くの農民が川で命を落としたりしていました。そこで谷が狭くなっているここに橋を架けようということになったんです。
マナブ:でもそれにはお金がかかる。
歴史先生:はい、臼杵藩の豪商3名が私財を投げうって架けた橋です。あまりに出費がかさみ、その後没落したのだとか。
マナブ:ちゃんとその人たちの名前を残しておきたいですね。
歴史先生:三重の油屋富治、三重の後藤喜十郎、臼杵の甲斐源助、の3人です。
マナブ:感謝、ですね。
歴史先生:さて、実際に取り掛かってみると、それ以前には前例のない難工事だったようで、3年の月日を要しました。完成後、虹のような形から「虹澗橋」と名付けられました。そして、ここで苦労の末、獲得・蓄積された技術がこのあと豊後や肥後でたくさんの石橋を作る基礎となっていったのです。
マナブ:そういえば大分県や熊本県には石橋が多い、って聞いたことがあります。
歴史先生:そうなんです。何と日本全体の石橋の9割以上は九州にあります。大分県は全国一で500基以上。2位は鹿児島県の440基、3位は熊本県の350基、です。
マナブ:どうしてその3県には石橋が多いんですか?
歴史先生:これも阿蘇山の火砕流が関係していると思います。というのは、まず、火砕流によって平らな台地ができます。年月が経つとそこを川が侵食して深い谷を作ります。そうすると台地と台地の間を結ぶには橋を架けなければならなくなりますよね。
マナブ:鹿児島県も典型的な火山地形ですね。虹澗橋で蓄積された技術が発展して、それが近隣にも広まった。
歴史先生:そういうことだと思います。
マナブ:この石橋も阿蘇山の火砕流台地がもたらしたものだったなんて。自然と歴史は本当につながっていますね。
これほどきれいに残っている石仏は他にない? 「菅尾摩崖仏」

菅尾摩崖仏には広い駐車場が整備されている

菅尾摩崖仏(地図 ❻)
〒879-7108 大分県豊後大野市三重町浅瀬401
見学自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.visit-oita.jp/spots/detail/6489
マナブ:次は菅尾摩崖仏。虹澗橋から車で10分ほどで着きました。広い駐車場に車を停めて歩きます。
歴史先生:ここから少しだけ坂を上ります。

参道
歴史先生:ここから分かれ道。左は磨崖仏正面へ直接登る急な階段、右は迂回して登る坂道なんですが、階段はかなり急で危険なので、坂道の方がお勧めです。
マナブ:迂回の坂道を行きましょう。迂回路ではありますが、こちらもかなり急ですね。雨上がりなどには気を付けたほうが良いかもしれません。

菅尾摩崖仏(国指定重要文化財)
マナブ:1分もかからないくらいで磨崖仏へ着きました。
歴史先生:ではさっそく参拝しましょう。
マナブ:ここは誰が造ったものなんですか?
歴史先生:史料が全くなく、それは謎なんです。

左手前から千手観音、薬師如来、阿弥陀如来、十一面観音、毘沙門天
マナブ:わぁ、これはすごい。立体的で、朱色の彩色も残ってる。4体、ですね。
歴史先生:よく見てください。右端にもう1体ありますよ。
マナブ:あ、ほんとだ、全部で5体。

千手観音

薬師如来(左)と阿弥陀如来(右)

十一面観音(左)と毘沙門天(右)
マナブ:これは先ほどの普光寺摩崖仏が彫りが浅く平べったかったのに対して、臼杵石仏のような深い立体的な彫り方ですね。
歴史先生:1つの違いは阿蘇山の火砕流の違いでしょう。普光寺摩崖仏は12万年前のAso-3でできた溶結凝灰岩。臼杵石仏やここ菅尾摩崖仏は9万年前のAso-4。Aso-4のほうがきめが細かく、精緻な細工に向いています。

非常に精緻な細工までが残っている
マナブ:ほかの磨崖仏だと仏像の種類がよくわからないものが多いように思うのですが、ここははっきりとしているみたいですね。
歴史先生:髪型、服装、手の形や持っている道具など、すべてが残っていますから、特定は容易でしょうね。
マナブ:よく見ると、朱色の後背がはっきりとしていて、阿弥陀さんの螺髪(らほつ:丸く結った髪)などもよく残ってる。
歴史先生:まるで木の仏像のように、精緻な細工が残っているのが菅尾摩崖仏の特徴です。そういったことが評価され、国指定重要文化財、そして国指定史跡になっています。
マナブ:これだけ残っているということは、他の磨崖仏に比べて少し時代が新しいのかな?
歴史先生:いえ、菅尾摩崖仏は平安時代後期と考えられています。
マナブ:臼杵や普光寺はどうでしたっけ?
歴史先生:臼杵石仏は平安時代後期から鎌倉時代にかけて。普光寺摩崖仏は鎌倉時代。ということで、これらの中では菅尾摩崖仏は一番古いんです。
マナブ:それなのに一番きれいに残っている。保存状態が良かったんですね。昔の人が見ていた石仏を見れたような気がします。素晴らしいものを見せていただきました。
歴史先生:ということで、今日は豊後大野を回ってきました。いかがでしたか?
マナブ:すごかった。原尻の滝以外はこれまで知りませんでしたが、日本一の磨崖仏に始まり、2つのナイアガラ。それから内山観音(蓮城寺)の歴史には本当に驚きました。さらには日本一の石橋、きれいに残っている磨崖仏とみどころたくさん。それらが阿蘇山の火砕流という自然の驚異によってもたらされたことを思うと、豊後大野は歴史と自然を満喫できる宝石箱のようなところだった、と言えるのではないでしょうか。大分県民にさえ、あまり知られていない気もしますが、ここはぜひお薦めですね。

