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埼玉県 大宮_1.jpg
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
大分の歴史旅ではどこに行く?
 
【大分で見逃せない歴史スポット 5選】
 
【大分で見逃せない地形スポット 3選】
 
「おんせん県 大分」を生んだ特殊な地形とは?
 
九州の北半分を治めていた戦国の大大名、大友宗麟とは?

 

 

大分の歴史旅ではどこに行く?

 

宇佐神宮

 

 

マナブ:今回は大分を旅します。

 

歴史先生:マナブさんは大分出身でしたよね?

 

マナブ:はい。大分生まれで、高校卒業するまで大分市にいました。

 

歴史先生:ということは大分は詳しい?

 

マナブ:それがそうでもないんです。父の転勤で実家が移ったこともあって、高校卒業以来、大分に来る機会が少なくて。観光地は学校の遠足などで行ったきりで、大人になってから行っていないんです。だから今回、とても楽しみにしています。

 

歴史先生:そうでしたか。では、今回は一緒に勉強しながら回りましょう。

 

マナブ:普通の観光ツアーであれば、別府の地獄めぐりをして、由布院の名旅館に泊まる、といったところが中心になりますよね。

 

歴史先生:はい。でも私たちはもう少し歴史と、それを育んだ地形について見ていくことにしましょう。以下のような場所を中心として、そのほかの少しマイナーな歴史スポットも合わせて回りたいと思います。

 

【大分で見逃せない歴史スポット 5選】

 

1.宇佐神宮

 

 

全国の八幡社の総本社。途方もない古い歴史と伊勢神宮に次ぐ高い格式。神聖な空気の流れる広大な境内は一生に一度は訪れたい場所だ。

 

2.臼杵石仏と臼杵市内

 

 

国宝に指定されている日本一の石仏群。その精緻な技術、規模の大きさと誕生の不思議を考えながら歩きたい。臼杵はキリシタンを保護し、南蛮貿易で栄えた古き港町の風情を残す大友宗麟の城下町。

 

3.国東半島

 

 

中世、神仏習合の文化が花開いた地域。奇岩と険しい山並みから修験道の道場としても栄えた往時の面影を残す。

 

4.岡城址(竹田市)

 

 

名曲「荒城の月」のモデルとも言われる古城。実際に登ってみると、険しい丘の上に築かれた高い石垣はまさに難攻不落の城を実感させる。城からのくじゅう連山、阿蘇山、祖母山の眺めも見事。

 

5.中津城

 

 

中津市の中心部にそびえる中津城は黒田官兵衛の城として有名。また中津は福沢諭吉の故郷でもあり、その旧居が保存されている。

 

【大分で見逃せない地形スポット 3選】

 

1.別府の火山と温泉、地獄

 

 

世界一の湧出量と源泉数を誇る温泉都市、別府。その街の背後に迫る火山群。まさに火山国ニッポンを象徴するような地形と言えよう。

 

2.耶馬渓

 

 

大分県北部には奇岩の景勝地が多数点在し、それらは「耶馬渓」と呼ばれる。中でも青の洞門で有名な本耶馬渓は見逃せない。

 

3.原尻の滝

 

 

大分は実は知られざる滝天国。原尻の滝、宇佐三瀑、龍門の滝など、滝好きにはたまらない場所。ではなぜ大分に滝が多いのか? その誕生には阿蘇山をはじめとする太古の火山活動が関わっていた。

 

 

「おんせん県 大分」を生んだ特殊な地形とは?

 

海地獄

 

歴史先生:ところで大分県人として、大分県と言えば何、と答えますか?

 

マナブ:やっぱり「温泉」かな? 最近は「おんせん県」として宣伝していますよね?

 

歴史先生:そうですね。源泉数、湧出量とも大分県は全国一です。

 

マナブ:2番目はどこですか?

 

歴史先生:環境省の令和4年度のまとめによると、源泉数では大分県が5,090カ所。2番目は鹿児島県で2,738カ所。そのあとは北海道の2,229カ所と静岡県の2,209カ所が続きます。

 

マナブ:鹿児島、静岡も温泉地がたくさんありますが、大分はそれらを2倍近く引き離しているんですね。では湧出量では?

 

歴史先生:湧出量では大分県が毎分298kリットル。2番目は北海道で毎分196kリットル。3番目は鹿児島県で毎分175kリットルです。

 

マナブ:北海道は九州全部よりもさらに広いから、ちょっとずるいな。

 

歴史先生:そうですね(笑)。ところで、源泉数、湧出量の他に、泉質という意味でも大分は特別です。

 

マナブ:というと?

 

歴史先生:温泉の泉質はおよそ10種類に分けられるのですが、大分にはそのうち8種類が存在しています。ということは、大分で温泉巡りをすれば、世界中の温泉を回っているのとほぼ同じ、と言えるでしょう。

 

マナブ:なるほど。

 

歴史先生:これらの数字から、大分が突出した「おんせん県」だということがわかると思います。

 

マナブ:納得です。

 

志高湖(別府市)から見た鶴見岳(右)と由布岳(左)

 

歴史先生:では大分県にはなぜ温泉が多いんでしょう?

 

マナブ:火山がたくさんあるから、かな。

 

歴史先生:はい、ではなぜ火山がたくさんあるんでしょう?

 

マナブ:ん? ちょっと難しくなってきた。

 

歴史先生:ではいい機会なのでプレートの話からしておきましょう。

 

 

マナブ:これ、伊豆半島の時に説明をして頂きましたね。

 

歴史先生:はい。では大分はどうなっているかというと、大分はユーラシアプレートの上に乗っているのですが、その下にフィリピン海プレートが潜り込んでいます。

 

マナブ:基本的な疑問があります。プレートが潜り込んだところに火山ができる、ということでしたが、それはなぜなんでしょう?

 

歴史先生:いい質問ですね。プレートがもう1つのプレートの下に潜りこんで、エベレスト山の約6倍、地下50㎞くらいの場所までくると、途方もない圧力でギューッと絞られて、その中の水分がしみ出します。

 

マナブ:想像しただけでも苦しい(苦笑)。

 

歴史先生:高温と高圧、そしてしみ出た水によって岩盤が溶け、それがマグマになるんです。

 

マナブ:なんとなくマグマというのは地球の中心近くにどろどろと大量にあって、そこから上がってくるものだと思ってました。

 

歴史先生:地殻の下にあるのはマントルですが、これは固体です。それが溶けて液体になったものがマグマ。

 

マナブ:そうだったんだ。

 

歴史先生:そして液体であるマグマは比重が軽いので、少しずつ上へ移動します。そして地下数㎞から15㎞くらいの場所に溜まってくるのがマグマ溜まり。

 

マナブ:それが火山の素になるんですね。

 

歴史先生:はい、そこに溜まったマグマが何らかの割れ目などを通して地表に噴出するのが火山です。



歴史先生:さて、九州に目を向けると、ここには中部地方から近畿、四国を抜ける中央構造線が来ています。九州の中では地形的にはっきりとしていませんが、南の「臼杵-八代構造線」と北の「松山-伊万里構造線」の2つに分岐しているものと思われます。

 

マナブ:中央構造線は九州も貫いているんですね。

 

歴史先生:そしてこの2つの断層に挟まれた地域は、断層の活動によって少しずつ沈んでいます。

 

マナブ:たしか島原に行ったとき、この話を聞きました。

 

歴史先生:そうですね。この沈んでいる地域を「別府-島原地溝帯」と呼びます。地表が沈んでいる部分が薄くなって、地下のマグマが地表へ上がってくる。そのためここに一列に大きな火山ができたんです。

 

マナブ:たしかに、地図で見ると地溝帯の中に主な火山が並んでいますね。これだけ火山があるから温泉もたくさんあるんですね。

 

歴史先生:でも火山があるだけでは温泉は湧きません。それにはもう2つの条件が必要です。

 

マナブ:というと?

 

歴史先生:大分を代表する温泉地といえば別府ですが、別府市の源泉数は2,856カ所、湧出量は毎分103kリットルということで、大分県の源泉数の半分以上、湧出量の1/3を占めています。ではなぜ別府に温泉が多いんでしょう?

 

マナブ:うーん、なぜだろう? たしかに大分市には温泉はあまりなかった。

 

鉄輪温泉(別府市)の湯けむり

 

歴史先生:1つ目の条件。温泉というのは地下水ですから、それが豊富でないといけません。別府や由布院の地形を見ると、高い山と扇状地が発達していて、豊富な地下水があるんです。それがマグマ溜まりによって温められます。

 

マナブ:で、2番目の条件は?

 

歴史先生:その地下水が地表に出るには、その通り道が必要です。考えられるのは何でしょう?

 

マナブ:断層、かな?

 

歴史先生:大正解! こちらの別府の地形図を見てください。

 

 

マナブ:2本、断層が走っていますね。

 

歴史先生:別府には「別府八湯」と呼ばれる8か所の主な温泉がありますが、それらをマップしてみるとどうでしょう?

 

マナブ:あ、すべて断層の近くに湧いています。

 

歴史先生:はい。火山、地下水、そして断層。これらが揃って初めて温泉が湧くんです。

 

マナブ:なるほど、別府や由布院にはそれらの条件がすべて揃っているんですね。


九州の北半分を治めていた戦国の大大名、大友宗麟とは?

 

大分駅前の大友宗麟像

 

歴史先生:ではここからは歴史のお話。大分の戦国大名と言えば?

 

マナブ:大友宗麟。

 

歴史先生:では大友宗麟は何をした人でしょう?

 

マナブ:えーっと、ザビエルに会って、キリスト教の布教を府内(今の大分市)で許可して、南蛮貿易をした人。最後はたしか島津に負けたのかな? うーん、それ以上は知りません。

 

歴史先生:大分の人に聞くと名前は皆さんご存じですが、何をした人かはほとんど知られていないように思います。いい機会なので、ここで大友宗麟についてまとめておきましょう。

 

マナブ:ぜひ、お願いします。

 

歴史先生:大友家というのは歴史の古い士族で、初代は源頼朝に側近として仕えた大友能直(よしなお)とされています。相模の国(神奈川県)の小田原にある大友荘に領地を持っていたので大友姓を名乗るようになりました。

 

マナブ:大分の人じゃないんだ。

 

歴史先生:その後、大友能直が豊後守護職に任じられたのが、大分との縁の始まりです。当時、豊後は頼朝にとって重要な戦略拠点でした。豊後には緒方惟栄(これよし)を中心とする強力な騎馬軍団が存在し、一旦太宰府に逃れた平家を襲撃して屋島へ追いやるなどの実績を上げていました。

 

マナブ:平家打倒に貢献したんですね。

 

歴史先生:しかし平家打倒の後、豊後武士団は後白河法皇の命により源義経を九州に迎えて、東国の頼朝を打倒しようという動きに出ます。しかし義経の船は豊後に行く途中で難破し、結局東北へ落ち延びることになったため、この計画は頓挫しました。そんな豊後でしたから、頼朝としては信頼できる優秀な部下によって統治しなければならない危険な国だったんです。

 

マナブ:なるほど、それで側近の大友能直を守護職にした。

 

歴史先生:しかも豊後を鎌倉幕府の直轄地としました。鎌倉近辺以外では唯一だったそうです。

 

マナブ:それだけ豊後武士団というのは強かったんですね。外から来た大友氏は地元の人たちをうまく統率できたんでしょうか?

 

歴史先生:実はそれが大友家の長年の課題となります。古くから豊後に住む「国衆」による反乱が続き、大友宗麟の時代になっても領国経営は絶えず不安定でした。

 

マナブ:そうでしょうね。

 

歴史先生:ところで、豊後武士団の力を脅威に感じた頼朝は、緒方惟栄が平家打倒の後に宇佐神宮を焼き討ちした罪を咎めて流罪とし、豊後武士団の弱体化を図っていきました。しかし第3代大友頼泰(よりやす)の時代になると蒙古襲来という大事件が発生します。この時大友頼泰は豊後武士団を率いて蒙古軍と戦い、そのことを通して豊後の国衆たちを何とかまとめていけるようになりました。

 

マナブ:源平合戦、そして元寇の時に大分の人たちが活躍したという話、初めて聞きました。

 

 

大友氏の時代の府内の町は大分川沿いの地域にあり、上野の丘の上には上原館(うえのはるやかた)があった。(南蛮BVNGO交流館の展示パネルより)

 

歴史先生:さて時代は下って戦国時代。第20代大友義鑑(よしあき)、この人は大友宗麟のお父さんですが、この人が豊後を統治していました。その当時、北は中国地方を抑えていた大大名の大内氏がいて、北部九州までも領土として抑えていました。そこで義鑑は北方向への進出は難しいとみて、肥後の菊池家が弱体化していたところを狙って実弟の大友重治を養子として送り込み、肥後への領地拡大を狙いますが、逆に弟から反乱を起こされ、兄弟で戦うという結果になりました。

 

マナブ:戦国時代って、兄弟仲があまり良くないことが多いんですよね?

 

歴史先生:そういう意味で、NHK大河ドラマの豊臣兄弟のような関係は珍しいことでした。武士の出ではなく、家族で協力することが当たり前の農家出身だったことがその理由の一つではないかとも言われています。他にも武田信玄の兄弟も仲が良かったのだとか。

 

マナブ:なるほど。

 

歴史先生:さて、大友義鑑には嫡男の大友義鎮(よししげ、後の宗麟)、大友晴英(はるひで、後の大内義長)、塩市丸といった息子たちがいました。

 

マナブ:いよいよ大友宗麟の話になってきましたね。

 

歴史先生:ところが大友宗麟の父、義鑑は側室の子で三男の塩市丸を後継者にしようと企み、義鎮(宗麟)を支持していた重臣2人を殺害します。

 

マナブ:何と・・・。

 

歴史先生:そうなると他の義鎮(宗麟)の支持者たちは「次は自分か?」と恐怖におびえます。そしてそのうちの2名が、今度は大友館の2階で寝ていた義鑑、側室、そして塩市丸を襲い、殺害してしまうんです。その2名はかけつけた武士たちによってその場で切り捨てられました。これが1550年に起きた「二階崩れの変」と呼ばれる事件です。

 

マナブ:血なまぐさい事件ですが、元々は義鑑の後継者を誰にするかの兄弟間の争いですよね?

 

歴史先生:史料に乏しく、誰が黒幕で、どういう目的だったのかについては諸説あるようです。とにかく、この事件によって義鎮(宗麟)は第21代として豊後を治めていくことになりました。まだ21歳の若者です。そして翌年1551年、フランシスコ・ザビエルが豊後を訪れ、大友義鎮(宗麟)と運命的な対面をします。

 

マナブ:やっとザビエルが出てきました。大分の人はみんな知っていますよ。今でも大分のお土産といえば「ざびえる」です(笑)。

 

大分のお土産の定番「ざびえる」

 

歴史先生:この面会によって、義鎮(宗麟)はキリスト教に深く興味を持つようになります。イエズス会はこの功績を欧州の本国に大きく宣伝するため、義鎮(宗麟)のことを「BVNGOの王」として紹介しました。実際、このころ作られた日本地図には九州をBVNGO、本州をIAPONIAと表記しています。ポルトガル王はその成果をたいそう喜び、義鎮(宗麟)との間で手紙のやり取りも行われました。

 

当時欧州で作成された日本地図

 

マナブ:大友義鎮(宗麟)の名前は遠くヨーロッパでも知られるようになったんですね。なんだか大分県人として誇らしい。

 

歴史先生:実際、ザビエルと義鎮(宗麟)の面会のシーンを描いた絵が複数残されています。極東の未知の国、日本との出会いとして欧州の人々の関心を集めたことでしょう。さて、義鎮(宗麟)は領内でキリスト教の布教を許す代わりに貿易を通して財政を豊かにするとともに、最新の武器すなわち鉄砲や鉛、硝石などを輸入して戦力の強化を図っていきます。

 

マナブ:敵は大内氏、ですか?

 

歴史先生:いえ。1551年には大内氏側でも大きな動きがありました。陶晴賢(すえのはるかた)がクーデターを起こし、大内義隆が自害。その後継者として義鎮(宗麟)の弟、晴英を迎え、大内義長と名乗らせました。義鎮(宗麟)は大内氏を中国地方に留めることで北部九州、特に博多の港での貿易の権益を独占するようになり、さらには間接的に大内氏にも力を及ぼせるようになっていたんです。

 

マナブ:でも陶晴賢というと、たしか毛利元就に滅ぼされた?

 

歴史先生:はい、1555年、厳島の戦いで毛利元就が陶晴賢を破り、義鎮(宗麟)の弟である大内義長も追い詰められて自害。中国地方は毛利元就が支配するようになります。これは義鎮(宗麟)とって悪夢でしかありません。積極的な領土拡大路線を取る毛利元就は東は尼子氏、西は大友氏の領土にどんどん攻め込んできます。

 

マナブ:敵は毛利元就、でしたか。

 

歴史先生:はい。義鎮(宗麟)は戦争に勝つための切り札として、それまで日本の大名が誰も持っていなかった大砲をポルトガルから購入します。当時の最高機密の兵器でしたから、それだけポルトガルからの信頼が厚かった証と言えるでしょう。

 

ポルトガルから購入した大砲は「国崩し」と呼ばれた。(写真は臼杵城)

 

歴史先生:その後、義鎮(宗麟)は信長と手を結び、秀吉を大将とする軍が東から毛利領を攻め、毛利氏は九州から撤退します。これにより、義鎮(宗麟)は豊後、豊前、肥後、肥前、筑前、筑後の6か国を治める大大名となりました。

 

マナブ:九州の北部全部だ。

 

歴史先生:ところで、四国というのは今でも4つの県なのでわかりやすいのですが、九州はなぜ「9」なのか考えたことありますか?

 

マナブ:そういえばそうですね。県でいうと7つしかありません。でも昔の国名なら今あげた6か国と、日向、大隅、薩摩。これで9か国だから九州。

 

歴史先生:はい、そうなんです。九州のうち実に六州を支配したのが大友宗麟なんです。でも、すべてが順風満帆とはいきません。キリスト教の布教を許したことで、領内では古くからの神仏を信仰する人たちとキリシタンとの間での抗争が起きてしまいました。

 

マナブ:それもそうですね。

 

歴史先生:義鎮(宗麟)はキリスト教にかぶれている、という評判がもっぱらでしたから、その評判を覆そうと1562年、義鎮(宗麟)は出家し「宗麟」と名乗るようになりました。

 

マナブ:なるほど、宗麟というのは出家したあとの名前でしたか。

 

歴史先生:しかしキリスト教への想いはずっと持ち続けていたようで、息子の義統(よしむね)に家督を譲ったのち、1578年には洗礼を受け、ドン・フランシスコという名前をもらいました。これはザビエルにちなんで付けられたんだそうです。

 

マナブ:やっぱり。

 

歴史先生:出家して宗麟と名乗っても、やはり領内、家中での対立は収まりませんでした。洗礼を受けた同じ1578年、今度は南から島津が日向に侵攻します。一旦は耳川を境として和睦しますが、再び両軍が激突したのが「耳川の戦い」。ここでは大友軍の中での対立によって統制が取れず、島津軍に大敗を喫してしまいます。その後大友氏は求心力を失い、1586年には九州平定に来た秀吉軍の傘下に家臣として入ることになりました。

 

マナブ:そうでしたか。

 

歴史先生:そして1587年、大友宗麟は津久見にて病気で亡くなります。58歳でした。

 

マナブ:大友宗麟、すごい人生でしたね。で、その後の大友家はどうなったんですか?

 

歴史先生:秀吉の九州平定に従軍した大友義統は豊後一国の所領を安堵されます。そしてその後、他の九州の大名と同じく、朝鮮出兵に行かされました。

 

マナブ:呼子・名護屋城の回で詳しく見ましたね。あの中に大友義統もいたんだ。

 

歴史先生:ところが、小西行長が平壌で包囲された時、大友軍は誤報を信じて撤退し、結果的に小西軍を見捨てたことが報告されると秀吉は激怒。大友家は改易となってしまいます。

 

マナブ:えー、そんな。

 

歴史先生:江戸時代になると豊後はいずれも10万石に満たない小藩に分割され、大きな中核都市がないまま明治維新を迎えました。

 

マナブ:そういう歴史だったんですか。初めて知りました。大友宗麟、もう少し詳しく知りたいな。

 

歴史先生:大友宗麟に関する歴史小説はいくつかありますが、私としては以下のものが一番お勧めです。

 

<読んでおきたい本>

宗麟の海

安部龍太郎

 


 

二階崩れの大事件から家督を継いだ大友宗麟。ザビエルとの出会いからキリスト教に興味を持ち、南蛮貿易で富を蓄える。大内、毛利との闘いの結果、領国を拡大し北部九州を支配する大大名になるも、島津との戦いに敗れる。時代を先取りした国際派戦国武将の生き様の物語。


 

 

 

​歴史好きのための観光ガイド
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