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埼玉県 大宮_1.jpg
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
黒田官兵衛が築いた日本三大水城の1つ、中津城
 
西南の役で薩摩に味方した「中津隊」の悲劇
 
福沢諭吉が少年時代を過ごした旧居が残っている
 
池がご神体? 宇佐神宮の祖宮とも言われる神秘的な薦(こも)神社
 
本耶馬渓:絶景の奇岩と青の洞門で有名な景勝地
 
日本一長い8連アーチの石橋を見逃すな:耶馬渓橋
 

黒田官兵衛が築いた日本三大水城の1つ、中津城

 

 

 

中津城(地図 ❶)

〒871-0050 大分県中津市二ノ丁1278−1

入城料1,000円

9:00~17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.nakatsujyo.jp/ 


マナブ:大分県の一番北の端、福岡県との県境にある中津市にやってきました。

 

歴史先生:中津のシンボルと言えば「中津城」。車を城内に停めて、観光しましょう。

 

中津城の城内は広い駐車場になっている

 

マナブ:お城の入口に大きな鳥居が立っていますが?

 

歴史先生:あの鳥居は中津城内にある中津大神宮のもの。1881年(明治14年)に伊勢神宮から勧請して建てられました。豊前の国のお伊勢さん、として親しまれています。

 

中津大神宮

 

中津城天守閣と黒田官兵衛資料館(右手前)

 

マナブ:中津城の有料ゾーンに入ってきました。入ってすぐ右側に黒田官兵衛資料館があります。中津城と黒田官兵衛って、どういう関係でしたっけ?

 

歴史先生:黒田官兵衛という人の一生を簡単にまとめてみましょう。

 

マナブ:お願いします。

 

歴史先生:黒田官兵衛(黒田如水)は1546年、播磨(兵庫県)の生まれ。秀吉の軍師として抜擢されて優れた戦略・戦術を駆使して活躍しますが、32歳の時、謀反を起こした荒木村重の説得に行って逆に捉えられ、狭い穴に1年間も閉じ込めれらたことで、足腰を悪くします。

 

マナブ:大河ドラマで見たのを少しずつ思い出しました。

 

歴史先生:秀吉の中国攻めに同行し、備中高松城の水攻めを立案。本能寺の変では中国大返しを勧めます。そして1587年、秀吉の九州平定の後、豊前を与えられ、山国川の河口に城を築きました。これが中津城です。

 

中津は山国川の河口に開けた街(中津城天守閣 最上階からの眺め)

 

マナブ:そうか、黒田官兵衛は最初は豊前の領主になって、中津に城を築いたのも彼、なんですね。たしか黒田官兵衛というのはお城の縄張りの名手。ここ中津城も優れた城なんでしょうね?

 

歴史先生:はい。海と川を巧みに生かした日本三大水城、とも言われています。

 

マナブ:ただ、黒田家というと中津ではなくて福岡のイメージがありますが?

 

歴史先生:その後、黒田家は1600年の関ケ原の戦いの後、福岡に加増転封となりました。そして中津は細川家が継ぐことになりました。

 

中津城天守閣

 

マナブ:細川家というと熊本の?

 

歴史先生:はい。その細川家は1632年に熊本に転封。小笠原家が中津城に入り、1717年からは奥平家が入って、その体制は江戸幕府の終わりまで続きました。

 

天守閣内部は奥平家の資料館になっている

 

歴史先生:では中津城公園から一旦外に出て、お堀の外からお城を眺めてみましょう。

 

マナブ:あぁ、この角度もいい。ガイドブックなんかの写真は外から撮ったものだったんですね。

 

中津城公園の外から天守閣を見る

 

中津城天守閣

 

歴史先生:外から見る時に、石垣に注目してください。ほらあそこ、何となく斜めに継ぎ目があるように見えませんか?

 

マナブ:あ、ほんとだ。

 

右側が黒田時代、左側が細川時代の石垣

 

歴史先生:元々は右側しかなかったんです。右側は黒田官兵衛の城。そして左側に増築したように見えるのが細川家の城。

 

マナブ:でも右側の古い方が石がきちんときれいに積まれていますけど。

 

歴史先生:右側のきれいにカットされた石ですが、川の上流にある古代遺跡から切り出してきたものなんだそうです。早く城を築くために黒田官兵衛はそんなところにも目を付けていたんですね。

 

マナブ:へぇー、そうだったんだ。

 

西南の役で薩摩に味方した「中津隊」の悲劇

 

西南役中津隊之碑

 

歴史先生:ところで、中津城の駐車場にある石碑を見てください。

 

マナブ:これですね。ずいぶん大きな石碑が立っています。

 

歴史先生:これは西南の役で薩摩側について戦った中津隊の顕彰のため、1925年(大正14年)に建てられたものです。

 

マナブ:中津隊、というのは初めて聞きましたが。

 

歴史先生:1877年(明治10年)、明治政府に不満をいだく不平士族たちが西郷隆盛をかついで反乱を起こします。明治になってから最大の内乱はこの年の2月から9月まで続きました。反乱を起こしたのは薩摩の人たちだけでなく、九州各地からも参加し、中津からは増田宋太郎をリーダーとする64名がこれに加わりました。これが「中津隊」です。

 

マナブ:増田さんという人が中津の不平士族をまとめたんですね。

 

歴史先生:はい。増田宋太郎は実は中津が生んだ偉人、福沢諭吉の「またいとこ」でした。

 

マナブ:ということはひいおじいちゃん、またはひいおばあちゃんが一緒。

 

歴史先生:そういうことになりますね。でも増田宋太郎はガチガチの尊王攘夷思想の持ち主で、開明的な福沢諭吉が許せず、暗殺しようと家に乗り込んだところ、逆に説得されてしまい、福澤諭吉に勧められて慶應義塾に入って西洋のことを勉強したんだそうです。

 

マナブ:勝海舟と坂本龍馬の出会い、みたいな話ですね。

 

歴史先生:増田宋太郎はその後、中津に戻って英語を教えていたのですが、明治政府の旧士族に対するあまりにも冷たい仕打ちに我慢ならなくなって、反乱に加わることになりました。3月31日、増田宋太郎は同志たちと共に挙兵し、中津城を焼き払います。

 

マナブ:えっ? ここ中津城を焼き払った犯人なんですか? その人の顕彰碑がここにあるなんて、後世の人たちは寛容というか、なんだか複雑ですね。

 

歴史先生:そうですね。さて、増田宋太郎が挙兵した時、すでに西郷の軍は不利な戦況となっていました。その時点から反乱に加わるということは敗死を覚悟しての挙兵と思われます。そして8月15日、延岡市の北にある和田峠で西郷の軍は明治政府軍に大敗を喫します。

 

マナブ:延岡でも大きな戦いがあったんですか。熊本ばかりだと思っていました。

 

歴史先生:和田峠の戦いでは西郷隆盛自らが前線で指揮を執りましたが、西郷軍3,500人に対して山縣有朋率いる政府軍は5万。装備でも数でも劣る西郷軍に勝ち目はありませんでした。

 

マナブ:それはどうしようもない差ですね。

 

歴史先生:その時、増田宋太郎は仲間たちに「中津隊は解散する。みんなは中津へ帰れ。俺は残る。」と言ったそうです。そのわけを聞いてみると「俺は西郷という人に何度も接した。あの人と生死を共にしたい。みんなはまだ幸いにして西郷という人を知らない。知らないうちに帰れ。」というような意味の説明をしたそうです。

 

マナブ:なるほど。それほど西郷という人は、男が惚れる魅力的な人だった、ということですね。

 

歴史先生:そうなんです。

 

福沢諭吉が少年時代を過ごした旧居が残っている

 

福沢諭吉旧居

 

 

マナブ:中津城からすぐ近くの福沢諭吉旧居にやってきました。前に広い無料駐車場があります。

 

福沢諭吉旧居(地図 ❷)

〒871-0088 大分県中津市留守居町586

入館料400円(中学生以下、団体、障がい者等割引あり)

9:00~17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://fukuzawakyukyo.com/ 


歴史先生:ここは福沢諭吉が少年時代を過ごした家。お父さんが中津藩の人で大阪にいて、諭吉は大阪で生まれました。しかし諭吉が1歳の時、お父さんが亡くなったので家族で中津へ戻ってきました。そんなこともあって少年時代の生活はあまり裕福ではなかったようです。

 

福沢諭吉旧居

 

マナブ:福沢諭吉はいつまで中津にいたんですか?

 

歴史先生:1854年、19歳の時に勉強のため長崎に移りました。

 

マナブ:1854年というと・・・

 

歴史先生:黒船来航が1853年。再訪して日米和親条約が結ばれたのが1854年です。日本がまさに変わろうとしていた変化の時代ですね。

 

長崎に行くまで勉強をしていた土蔵

 

マナブ:その後の福沢諭吉は?

 

歴史先生:長崎のあと、大坂に行って緒方洪庵の塾で学びます。その後江戸に移り、1858年に蘭学塾を開きました。これが後の慶應義塾となります。

 

マナブ:なるほど。

 

旧居の内部

 

歴史先生:1860年には咸臨丸に乗ってアメリカへ。遣欧使節の一員としてヨーロッパを訪問したり、アメリカへ再訪したりと国際的な見聞を広めます。

 

マナブ:当時としては貴重な人材ですね。

 

歴史先生:1868年には自らの塾をその時の年号を取って慶應義塾と改めます。そして明治維新を迎えました。

 

マナブ:福沢諭吉といえば「学問ノススメ」。

 

歴史先生:そうですね。1872年(明治5年)に出版しました。もう1つ有名なのは1866年の「西洋事情」。欧米の技術や文化、制度などを日本に紹介し、大きな影響を与えました。晩年の1898年(明治31年)にはこれまでをふりかえる「福翁自伝」を出版。1901年(明治34年)に亡くなりました。

 

マナブ:旧居のとなりに記念館があります。

 

歴史先生:こちらでは諭吉の一生を詳しく展示。ゆかりの品々も展示されていますので、見ていきましょう。

 

シラミ取りの話が残る石

 

マナブ:家の裏側に回り込むと「しらみ取りの話」という札が立っていますね。

 

歴史先生:ぼろぼろの格好の女性を諭吉のお母さんが毎回家に招き入れて、シラミを取ってあげていたんだそうです。諭吉は取ったシラミをこの石の上でつぶしていたんだとか。赤ちゃんの時にお父さんを亡くした諭吉はそんな優しいお母さんに育てられたんですね。

 

池がご神体? 宇佐神宮の祖宮とも言われる神秘的な薦(こも)神社


神門(国指定重要文化財)

 

 

薦神社(大貞八幡宮)(地図 ❸)

〒871-0153 大分県中津市大貞209

境内自由

9:00~16:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://komojinja.jp/ 


マナブ:中津市街地から車で20分ほどのところにある薦(こも)神社、というところに来ています。神社の前に広い空き地があって、ここを駐車場として自由に停めてよさそうです。

 

歴史先生:ここ、ご存じでしたか?

 

マナブ:いいえ、まったく初めて聞きました。もちろん来たのも初めてです。

 

 

東側の鳥居から入る。正面の橋の向こうは三角池。左に行くと神門がある。

 

歴史先生:では鳥居から入っていきましょう。境内は内宮・外宮に分かれています。

 

マナブ:社殿が2か所あるんですね?

 

歴史先生:いえ。内宮は三角池(みすみいけ。御澄池とも書く)という池で、これ自体がご神体。外宮には神社らしい社殿があります。

 

マナブ:うーん、なんだかこの時点で他の神社とは違う。

 

歴史先生:ここ薦神社ですが、実は宇佐神宮の祖宮、とも言われているんです。

 

マナブ:へぇー、ということは相当に古い。

 

歴史先生:いつからあるのかはっきりわかっていません。古文書でわかっているのは720年、奈良時代の初めですが、反乱を起こした薩摩・大隅の隼人を討伐するために大和朝廷軍がここを通り、宇佐神宮の軍と合流します。その際、三角池に自生している真薦(まこも)という植物を枕状にしたものを八幡神のご神体として神輿に乗せ、それで鎮圧に向かったそうです。


マナブ:すでにそのころには八幡神を祀る神社としての地位を確立していたわけですね。

 

神門(国指定重要文化財)

 

歴史先生:では外宮である社殿の方から見てみましょう。まず目に飛び込んでくるのは神門。国指定重要文化財です。

 

マナブ:これは立派というか、いえ、見たことがない形です。

 

歴史先生:江戸時代初期の1622年、中津藩主だった細川忠興によって建てられました。2階建ての門ですが、間に庇状の裳階がついているという、とても珍しい形をしています。

 

マナブ:下が狭いわりに上が大きい、頭でっかちな感じもしますね。

 

歴史先生:それも特徴の一つです。

 

拝殿・本殿

 

歴史先生:神門から左に回り込むと、拝殿・本殿があります。これらは江戸末期の再建です。

 

マナブ:ご祭神は?

 

歴史先生:宇佐神宮と全く同じで、応神天皇(八幡大神)、比咩大神(宗像三女神)、息長帯比売命(神功皇后)となっています。

 

池と本殿の間にある鳥居

 

歴史先生:では社殿のある外宮から左に抜けて、池の方へいきましょう。

 

マナブ:こちらが内宮、ですね。

 

八幡神の足あと?

 

歴史先生:これ、みてください。大きな石がありますが、ここに八幡神の足あとがあります。

 

マナブ:えっ、どういうことでしょう?

 

歴史先生:これは宇佐神宮にも同様の言い伝えがあるのですが、三角池のほとりに八幡神が3歳の童子の姿をして降臨したのだそうです。そのため、三角池をご神体として祀るようになりました。その降臨した時の足あとがこの石にある窪み(コインが投げられているあたり)だということです。

 

マナブ:たしかに3歳児の足あとのような窪みがはっきりとありますね。なんだかほほえましい。

 

三角池

 

歴史先生:三角池に沿って歩きましょう。向こうに鳥居が見えています。

 

三角池の鳥居

 

歴史先生:内宮の中心地、三角池の鳥居に来ました。

 

マナブ:この鳥居、なんだか形がシンプルですね。

 

歴史先生:そうなんです。これは宇佐神宮特有の形で「宇佐鳥居」と呼ばれています。上の真ん中に額束(がくづか)と呼ばれる部分がありません。

 

マナブ:あ、それでシンプルに感じるんですね。

 

三角池の周りには巨木が多い

 

歴史先生:三角池のほとりにはたくさんの巨木があります。古代より神聖な場所として保護されてきましたから、昔の自然がそのまま残されているんですね。

 

マナブ:これらの巨木を見て歩くだけでも、この池の神秘さが感じられます。いやー、薦神社、とても雰囲気のある、他の神社とは違った場所でした。

 

本耶馬渓:絶景の奇岩と青の洞門で有名な景勝地

 

本耶馬渓

 

 

本耶馬渓(地図 ❹)

〒871-0202 大分県中津市本耶馬渓町曽木206

6−7

散策自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://nakatsuyaba.com/ 


マナブ:中津市街地から車で南へ約30分。本耶馬渓に来ました。むかしここに来たときは単に「耶馬渓」と言っていたように記憶しているのですが、どういうことでしょう?

 

歴史先生:「耶馬渓」という名前は江戸時代後期の思想家、頼山陽がここを訪れて「耶馬渓山天下無」と詠ったことから来ています。彼がそう詠ったのはここよりもう少し上流の擲筆峰(てきひっぽう)という山のあたり。

 

マナブ:ここじゃないんだ。

 

歴史先生:その後、中津市から玖珠町にまたがる山国川中流・上流域の奇岩がむき出しになった景勝地を総称して「耶馬渓」と呼ぶようになりました。ここ「本耶馬渓」の他に、一目八景(ひとめはっけい)として有名な景勝地を「深耶馬渓」と呼び、その他「裏耶馬渓」、「奥耶馬渓」などがあります。

 

マナブ:でもなぜこのあたりにそんな地形が続いているんですか?

 

歴史先生:なぜだと思います?

 

マナブ:今回大分の旅で国東半島にも行きましたが、そこでも同じような奇岩を見ました。それは両子山の火山活動によってできていましたね。ここもそうですか?

 

歴史先生:そのとおり。約300万年前にこのあたりにあった火山から噴出した火山灰や溶岩、岩石などによって凝灰角礫岩の層ができました。


マナブ:このあたりは火山地帯だったんだ。


歴史先生:さらに、かつて九重町あたりに猪牟田カルデラという巨大な火山があり、それが100万年前に大噴火。火砕流がこのあたりを埋め尽くし、ぶ厚い堆積物の層を作っています。房総半島や新潟でもそのときの火山灰が見つかっているほどの大規模噴火だったようです。

 

マナブ:大分県人でさえまったく知らない火山。まったく知らない噴火。でもそれは当時の地球規模での気候変動を起こすような大事件だったんでしょうね。地球ってすごい。

 

歴史先生:ところで火砕流はその後冷えて固まり始めますが、そのときに地面と空気に触れる上下の面だ先に冷えて、中は熱いまま。そうすると収縮する途中で縦方向に割れ目が入ります。これが柱状節理。

 

マナブ:それ、よく出てきますね。

 

歴史先生:柱状節理は縦に割れやすく、川によって浸食されると垂直に切り立った崖を作ります。これが耶馬渓の成り立ちです。ここ本耶馬渓にある岩山は「競秀峰」と呼ばれます。

 

マナブ:今日のような雨の日、まるで水墨画のような世界になりますね。むしろ雨の日こそ、ここ耶馬渓は素敵です。

 

本耶馬渓の切り立った崖(競秀峰)

 

 

歴史先生:国道から左に折れて、崖沿いを行くと切り立った岩を貫通するトンネルを通ります。これが「青の洞門」と呼ばれているもの。

 

マナブ:ちょっとややこしいのが、比較的新しい車のトンネルと、昔の手掘りのトンネルがあったように記憶しています。

 

歴史先生:そうなんです。では駐車場に車を止めて、そのあたりを見に行きましょう。

 

手掘りの洞門の入口

 

マナブ:駐車場からすこし道を戻ると、あ、ありますね、手掘りの洞門。

 

歴史先生:下りてみましょう。

 

手掘りの洞門

 

マナブ:トンネルの中は結構広いですね。これなら人だけでなく馬も通れそう。

 

歴史先生:でもこれ、人が手で掘ったなんて信じられますか?

 

マナブ:長さはどれくらいあるんですか?

 

歴史先生:禅海和尚が整備した道は342mで、そのうち144mがトンネルです。

 

マナブ:うわぁー、ずいぶん年月がかかったのでは?

 

歴史先生:1763年の完成まで、およそ30年も掘り続けたんだそうです。

 

マナブ:気が遠くなります。禅海和尚という人はなぜそんなことをしたんでしょう?

 

歴史先生:禅海和尚は江戸時代の人で越後生まれ。諸国行脚の旅に出て、この近くの羅漢寺を参拝した際、ここ山国川の難所で人や馬がたびたび滑落する話を聞いて、ここに隧道を掘る決心をしました。

 

岩の中腹に鎖場がみえる

 

マナブ:その話、覚えています。岩の中ほどに鎖場が見えますね。あれを見て、子供ながらにぞっとしたのを思い出しました。

 

歴史先生:今見ても怖いですね。

 

マナブ:そうそう、思い出してきました。この物語は何度か聞いたことがあります。たしか禅海和尚は人殺しをして、出家して逃げていたんですよね。そして殺された方の子供が父の仇(かたき)を探して、ようやくここで禅海を見つけた。でも必死にトンネルを掘る姿を見て、開通するまで仇討ちを延ばすことにし、ついには一緒にトンネルを掘り始めた。そしていよいよ貫通して、禅海が「さぁ、約束通り仇を討ちなさい」というと、それまでの仇討ちの復讐心は消えていて、ただただ禅海と手を取り合って涙を流した・・・そんな話でしたよね?

 

歴史先生:それは1919年(大正8年)に発刊された菊池寛の「恩讐の彼方に」という小説ですね。禅海和尚がモデルになっていますが、彼は人殺しなどしていません。

 

マナブ:えっ?

 

歴史先生:人殺しとか仇討ちというのは小説用の創作部分なんです。ちなみに小説の中では了海、という名前で出ています。

 

マナブ:えーっ! そうなんですか? 今までずっとそう思っていました。禅海和尚に対してとんだ名誉棄損でしたね。失礼しました。


歴史先生:「恩讐の彼方に」があまりにも売れたので、史実とごちゃまぜになっている人が多いと思います。

 

禅海和尚の像

 

歴史先生:ところで、禅海和尚が掘ったトンネルは日本で初めての何かだと言われているのですが、わかりますか?

 

マナブ:日本初の・・・なんだろう?

 

歴史先生:トンネルができると、禅海和尚は通行料を取ったんだそうです。人は4文、牛馬は8文。

 

マナブ:ということは日本初の有料道路?

 

歴史先生:そのとおりです。

 

マナブ:なんだかイメージ変わりました(笑)。

 

日本一長い8連アーチの石橋を見逃すな:耶馬渓橋

 

 

マナブ:先ほどの国道まで戻って、橋のたもとにある駐車場に車を止めました。

 

歴史先生:ここでは「耶馬渓橋」を見ていきましょう。

 

マナブ:ここは昔も通ったはずですが、橋を見た記憶がありません。

 

歴史先生:観光地とはなっていないので、おそらく素通りしたのでしょうね。駐車場からすぐそばです。まずは見てみましょう。

 

耶馬渓橋(国指定重要文化財)

 

マナブ:わぁ、これは素敵な橋ですね。長い、そして古そう。

 

歴史先生:国指定重要文化財の耶馬渓橋です。石橋としては日本最長の116m。そして8連アーチの石橋というのも日本一。

 

マナブ:それはすごい。そして姿が優雅で美しいですね。これはいつごろできたんですか?

 

歴史先生:1923年(大正12年)。ちょうど関東大震災が起きた年でもあります。

 

マナブ:とても立派な橋ですが、何のために架けたんでしょう?

 

歴史先生:ここは耶馬渓の観光用の橋と言われていますが、この奥にある日出生台演習場への道路としての役割も大きかったようです。

 

耶馬渓橋は対岸の集落への現役の生活道路でもある(大型車は通行禁止)

 

マナブ:なんとなくですが、デザインが長崎の眼鏡橋に似ているような気がします。

 

歴史先生:いいところに気づいていただきました! ここの石積みの方法は、大分県内にたくさんある石橋とは少し違っていて、長崎でよく使われる工法をとっているんです。

 

マナブ:そうでしたか。道理で。

 

歴史先生:そのため耶馬渓橋は別名「オランダ橋」とも呼ばれてるんですよ。

 

耶馬渓橋

 

マナブ:しばらくボーっと見ていたいような、美しい橋です。今までこの橋についてまったく知らなかったのが不思議です。

 

歴史先生:本耶馬渓を観光するには必ず通る場所です。

 

マナブ:広めの駐車場もすぐ脇にあって、あまり歩かず観光もできますので、ぜひ立ち寄っていただきたいですね。

 

歴史先生:さて、ここまで中津、耶馬渓を見てきましたがいかがでしたか?

 

マナブ:子供の頃に行った中津城とか福沢諭吉旧居とか、今になって歴史を知ると非常によく理解できます。それから薦神社。あそこは感動的でした。とても神秘的な場所で、ぜひ皆さんにも行っていただきたいですね。そして耶馬渓。禅海和尚のことはずーっと勘違いしてました(笑)。それから耶馬渓橋もきれいだったな。みどころたくさんの旅でした。

 

中津でおすすめのホテル

スーパーホテル 大分・中津駅前

 

 中津で気軽にリーズナブルな価格で泊まれる宿を探し、ここを選んだ。



選んだ理由:


・立地:中津駅の南口からすぐ。車移動なので駅に近いということのメリットはあまりないが、今回は「からあげ織田」で夕食を食べようと考えたので、その近くが適していた。

・大浴場:リーズナブルな価格のビジネスホテルでありながら、大浴場があるのはうれしい。

・朝食ビュッフェは無料。やせうまなど、大分名産もある。

 

実際に泊まってみた:


・立地:中津駅の場合、北口は繁華街になっていてスペースが狭いが、南側は比較的スペースがある。そのためホテルの周りは平面駐車場になっていて、車を停めやすかった。

・部屋はシンプルで最低限のものはすべてそろっていて快適。

・徹底したコスト削減で低料金を実現している。チェックインは対面だが最小限。チェックアウトは不要で、ドアの外に「チェックアウトしました」というマグネットを貼るだけ。部屋のキーがなく、暗証番号で開け閉めする。初めてだと少し不安に感じるかもしれないが、カードキー等を持ち歩かなくてよい。

・コスト削減で大浴場は1つしかなく、時間で男女入れ替え。

平日男性     15:00~18:50/22:00~6:50

平日女性     19:00~21:50/7:00~9:30

土日祝日男性 15:00~17:50/22:00~6:50

土日祝日女性 18:00~21:50/7:00~9:30

・水のペットボトルはないが、その代わり、水道は飲料にも適した健康イオン水。

・歯磨きセットをフロントに返却するとお菓子をくれる。

 

コンパクトながら機能的な部屋

 

ホテルから見た中津駅

 

バスルームのアメニティ

 

じゃらんのサイト

https://www.jalan.net/yad301684/?screenId=UWW1402&distCd=01&rootCd=04&stayYear=&stayMonth=&stayDay=&stayCount=1&roomCount=1&dateUndecided=1&adultNum=2&roomCrack=200000&pageListNumArea=1_3&pageListNumYad=48_1_3&yadNo=301684&callbackHistFlg=1

 

中津でおすすめのレストラン

からあげ織田

 


「中津に来たら中津からあげを食べたい!」。実はそう思ってもほとんどのお店はテイクアウト専門。イートインできるお店は限られている。その中で駅前の立地でイートインが可能な「からあげ織田」は貴重な存在だ。

 

からあげ織田

https://karaageoda.com/ 

 

実際に行ってみた

 

・平日18時ごろの入店。地元の人たちで半分以上の席は埋まっている。

・居酒屋のようなメニューは一通りそろっているが、ここは別紙のメニューにある「からあげ」をいただきたい。

・ムネ、モモ、それぞれあるが、両方の違いを楽しみたいのでミックスでオーダーした。

・さくさくの衣に包まれたジューシーなモモ肉とあっさりめのムネ肉。からあげのおいしさを十分に堪能できた。


ホテルの向かい側のビルの1階


中津からあげ(ムネ、モモのミックス)

 

​歴史好きのための観光ガイド
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