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埼玉県 大宮_1.jpg
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
極狭の盆地にひしめく竹田城下町を歩く
 
ファン多し? 日本初の軍神になった竹田の英雄「廣瀬武夫」
 
岡城は誰が造って、誰が治めていたのか?
 
まさに難攻不落の「岡城跡」を歩こう
 
「荒城の月」のモデルのお城はどこなのか?
 
三階建てのやぐらがあった「本丸」と御殿のあった「西の丸」を歩く
 
岡城跡は阿蘇山巨大カルデラ噴火跡の絶景展望台

 

 

極狭の盆地にひしめく竹田城下町を歩く

 

 

実線:自動車ルート

点線:徒歩ルート

 

廣瀬神社から見た竹田市街地。極狭の盆地に家が密集しているのがわかる。

 

マナブ:大分市内から車で1時間強。竹田(たけた)市に来ています。

 

歴史先生:地形図を見てください。ここはとっても小さな盆地です。

 

マナブ:ほんとだ、周りをすべて山に囲まれてる。

 

歴史先生:盆地はほぼ円形で、その直径は400mほど。野球場のグラウンドにすると、およそ4面程度しか取れません。

 

マナブ:市街地としては極狭ですね。

 

歴史先生:さて、そんな盆地にある竹田市。有名な岡城の城下町です。まずは趣のある城下町を歩いてみましょう。

 

マナブ:ということで、市内の中心部にある「竹田市城下町交流プラザ」に車を停めることにしました。

 

竹田市城下町交流プラザ

〒878-0012 大分県竹田市竹田町487番地 1

24時間駐車可能

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://jokamachikoryuplaza.com/ 

 

愛染堂への坂

 

マナブ:竹田市城下町交流プラザの裏側(西側)へ行ってみます。すてきな感じの坂道が現れました。映画のロケとかに使われそう。

 

歴史先生:ここは絵になりますよね。この坂の上にある愛染堂へ行きましょう。その前に、右側の斜面を見てください。

 

観音寺 十六羅漢

 

マナブ:ん? 石仏がいくつもありますね。

 

歴史先生:これは「観音寺 十六羅漢」と呼ばれています。十六羅漢とは、お釈迦様が入滅される際に後を託した16人の高弟のこと。禅宗や天台宗のお寺でよく見られます。

 

マナブ:古いものなんでしょうか?

 

歴史先生:江戸時代後期に犬飼町の石工が彫ったとも言われていますが、はっきりしたことはわかっていないんです。

 

願成院本堂(愛染堂)(国指定重要文化財)

 

マナブ:坂道を登ると、立派なお堂がありました。

 

歴史先生:これは願成院本堂(愛染堂)。国指定重要文化財なんです。

 

マナブ:どういう建物なんですか?

 

歴史先生:江戸時代の初めごろ、1635年に建てられました。古い建物の残る竹田市の中でも最も古いものです。

 

マナブ:愛染堂、という名前からして、愛染明王が安置されている?

 

歴史先生:はい、そのとおりです。堂内には天女などの壁画が極彩色で描かれています。

 

マナブ:中を見れますか?

 

歴史先生:いえ、ご開帳は年2回ほどで、通常は扉が閉まったままです。

 

マナブ:そうですか、残念。

 

円通閣

 

歴史先生:愛染堂のすぐ近くにある円通閣をくぐって外へ出ましょう。

 

マナブ:これもまた趣のある建物ですね。

 

歴史先生:元々は大勝院というお寺の門で、江戸時代に中国蘇州寒山寺の楼門を模して造ったものだそうです。

 

実線:自動車ルート

点線:徒歩ルート

 

豊音寺 二重門

 

マナブ:坂を下りると大きなお寺があります。門がとても立派ですね。

 

歴史先生:ここは豊音寺(ほうおんじ)。入口にあるのは「二重門」です。二重門というのは主に禅宗のお寺で見られる型式ですが、2階建ての1階部分にも屋根が付いているのが特徴。江戸時代末期の1850年に建てられたものです。

 

滝廉太郎 記念館

 

滝廉太郎 記念館

〒878-0013 大分県竹田市竹田2120−1

入館料300円(中学生以下、団体割引あり)

9:00~17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.visit-oita.jp/spots/detail/4380 


マナブ:豊音寺からすぐの場所に、滝廉太郎記念館があります。

 

歴史先生:滝廉太郎はご存じですか?

 

マナブ:はい。大分の人はみんな知っているのではないでしょうか。「荒城の月」を作曲した人です。

 

歴史先生:他で有名な曲は?

 

マナブ:えーっと、なんだっけ?

 

歴史先生:これはきっとご存じですよね。「♪はーるの、うらーらーの、すーみーだーがーわー」

 

マナブ:あ、もちろん。それも滝廉太郎でしたっけ?

 

歴史先生:はい。「花」というタイトルの曲です。

 

マナブ:えっ、そんな名前なんだ。

 

歴史先生:他には「鳩ぽっぽ」。

 

マナブ:「♪ぽっ、ぽっ、ぽー。はとぽっぽー。豆が欲しいかそらやるぞー。」

 

歴史先生:「ブー」。残念。それは「鳩」という歌。

 

マナブ:あれ、違った?

 

歴史先生:こういうの聞いたことがないですか? 「♪はとぽっぽー、はとぽっぽー。ぽーぽぽっぽと飛んで来いー。お寺の屋根から下りてこいー。」

 

マナブ:あ、あります、あります。

 

12歳から14歳までを過ごした家

 

歴史先生:さて、滝廉太郎ですが、彼の家は代々大分県の日出藩の家老を務めた名家でした。最後の家老となった滝廉太郎のお父さん(滝 吉弘)は明治維新後は東京へ移り、大久保利通や伊藤博文に仕えて活躍した人でした。廉太郎は1879年(明治12年)、東京で生まれています。

 

マナブ:大分生まれだとばかり思ってました。

 

歴史先生:その12年後の1891年(明治24年)にお父さんは大分県の直入郡の郡長になり、ここ竹田へ一家で赴任することになりました。その郡長の官舎となったのがこの家。元々は岡藩の家臣の武家屋敷でした。

 

マナブ:竹田とはそういう縁でしたか。

 

歴史先生:それから2年半。廉太郎は12歳から14歳という多感な時期をここで過ごします。当時の竹田は小京都の風情のある街で、謡曲、仕舞、三味線、琴などを多くの人がたしなむ、遊芸の町でした。

 

マナブ:そんな文化的な街で滝廉太郎は育ったんですね。

 

 

廉太郎トンネル

 

歴史先生:滝廉太郎が育った家のすぐ前に隧道があるのですが、ここは「廉太郎トンネル」と呼ばれています。通ってみましょう。

 

マナブ:あ、センサーが反応して音楽が流れ始めました。「荒城の月」ですね。

 

歴史先生:これらの曲はYoutubeなどでも聞けますのでよかったら聞いてみてください。

 

荒城の月

https://www.youtube.com/watch?v=n8AZJ0ooYIw

 

https://www.youtube.com/watch?v=sLjMi1UEOqc

 

鳩ぽっぽ

https://www.youtube.com/watch?v=hlZdpLe6YtQ


どこへ行っても古い街並みが続く

 

マナブ:細い路地も、メインの道路も、どこへ行っても古い街並みが続きますね。

 

歴史先生:はい、隔絶された盆地だからかもしれませんが、昔の城下町の風情をとてもよく残している町だと思います。

 

竹田市歴史文化館

 

竹田市歴史文化館

〒878-0013 大分県竹田市竹田2083

入館無料

9:00~17:00、木曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://okajou.jp/culturalhall/ 


マナブ:ここは岡城のガイダンスセンターと書かれていますね。

 

歴史先生:はい、岡城の歴史やジオラマなどが展示されています。岡城に行く前に予習として訪れるのもよいでしょう。

 

マナブ:無料なのはうれしいです。

 

歴史先生:では城下町交流プラザの駐車場に戻って、次は車で廣瀬神社へ行きましょう。

 

ファン多し? 日本初の軍神になった竹田の英雄「廣瀬武夫」

 

廣瀬中佐像と廣瀬神社の鳥居

 

実線:自動車ルート

点線:徒歩ルート

 

廣瀬神社

〒878-0013 大分県竹田市竹田2020

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://taketa.guide/spots/detail/a2edabda-741a-4a13-b363-d459df84c322 


マナブ:竹田市の盆地の西側から東側へやってきました。わずか400mほどのドライブです。トンネルの手前に銅像と鳥居があって、その手前右側に数台分の駐車場があります。

 

歴史先生:ここが廣瀬神社。廣瀬中佐を祀った神社です。廣瀬中佐のことはご存じですか?

 

マナブ:NHKのドラマ「坂の上の雲」(原作:司馬遼太郎)で見て知っています。俳優の藤本隆宏さんが演じていました。あれはかっこよくて、印象に残っています。

 

歴史先生:そうですね。坂の上の雲の登場人物の中でも非常に印象的な1人と言えるでしょう。

 

マナブ:竹田にゆかりのある人なんですか?

 

歴史先生:廣瀬武夫は明治維新の年である1868年に竹田で生まれました。お父さんは岡藩士で、竹田に住んでいました。しかし1877年(明治10年)に竹田市は西南戦争の戦場となり、彼の家も被災。それを機に、お父さんは飛騨高山へと引越しします。

 

マナブ:9歳までの幼年期を過ごしたのが竹田、ということですね。

 

廣瀬神社の階段上より振り返る

 

歴史先生:はい。その後廣瀬武夫は海軍の江田島兵学校(広島県)を出て海軍の軍人になります。柔道が得意で、講道館の嘉納治五郎からもかなり目をかけられていたとか。

 

マナブ:体力がある人だったんですね。それに知力もあった。

 

歴史先生:そうですね。1897年にはロシアに留学し、ロシア海軍の軍人の娘さんと恋仲になるほど、現地に溶け込み、語学も習得していたようです。1900年には少佐に昇進しました。

 

マナブ:でも不幸なことに、そんな大好きなロシアと戦争が始まった。

 

歴史先生:はい、1904年日露戦争が勃発します。日本海軍の戦略は、ロシアの極東の拠点となっていた旅順港の入口に船を沈め、港を使えないようにすること。その作戦を最前線で指揮したのが廣瀬武夫少佐。彼が乗り込んだ福井丸を自爆させるため、船倉に点火に下りた杉野上等兵が戻ってこないのを心配して何度も船内を探し、とうとう見つけられず船から脱出しようとしたときに頭を撃たれて亡くなりました。まだ35歳の若さでした。

 

マナブ:「すぎのーはいーずーこー。すぎのーはいーずーやー。」という歌のフレーズ、なんとなく聞き覚えがあります。

 

歴史先生:1912年になって文部省唱歌になった「廣瀬中佐」ですね。Youtubeなどで聞くことができます。

 

(一例)

https://www.youtube.com/watch?v=YG2e7tmZFnk 

 

廣瀬神社

 

マナブ:廣瀬少佐、廣瀬中佐。先ほどから両方の言い方が聞かれましたが、どちらが正しいんですか?

 

歴史先生:亡くなった時は廣瀬少佐でした。しかし戦死したことで即時に中佐に昇進しました。

 

マナブ:あ、そうか、当時の軍ではそういうことがあったんですね。

 

歴史先生:現代の自衛隊でもそういうことはあるらしいですよ。ところで、廣瀬武夫の場合は中佐に昇進したどころではありませんでした。部下想いの行動で命を落としたというエピソードが美談として広まり、日本で初めて「軍神」と呼ばれるようになったんです。

 

マナブ:軍神というのは、またすごい地位ですね。いきなり神様、ですから。

 

歴史先生:軍神というのは明治から昭和の戦前・戦中に至る軍国主義的な過程の中で、国民の「戦意高揚」、悪く言えば「同調圧力」によって国民の生活や命を国家のために犠牲にさせる、ということを煽る格好の素材でした。

 

マナブ:その第1号が廣瀬武夫だったと。

 

歴史先生:はい。しかし彼自身、そのようなプロパガンダに使われることを喜んだかどうか、わかりません。

 

マナブ:で、軍神のために国は神社を建てた。それが廣瀬神社。

 

歴史先生:廣瀬神社が建てられたのは1935年(昭和10年)のことです。日本では軍部の力が強くなり、軍国主義が勢いを増していた時代。廣瀬武夫の生まれ故郷である竹田を見下ろす丘の上に建てられました。

 

マナブ:亡くなってから30年以上も経っていたんですね。

 

廣瀬神社の拝殿

 

戦没者名碑

 

歴史先生:境内にある戦没者名碑の台座に四角い石がいくつも使われていますが、これらは福井丸がきちんと沈むように積まれていた重りの石なんだそうです。日露戦争の後で日本海軍によって引き上げられ、のちに廣瀬神社に奉納されました。

 

<読んでおきたい本>

坂の上の雲

司馬遼太郎

 

 

伊予の国、松山で育った3人の偉人たち。日露戦争を勝利に導いた秋山好古・真之兄弟、そして俳句改革に命をかけた正岡子規の成長と活躍を描く長編。一般的な読者は3人の主人公たちへの予備知識が少なく、特に序盤は比較的ゆっくりした展開が続くので、途中で断念したという話もよく聞く、司馬遼太郎の小説の中では評価の分かれる作品。しかし彼らの成長・活躍を通して明治日本がどのように作られていったのかがよくわかる、歴史好きのための一作と言ってもよいだろう。



 

阿南惟幾 顕彰碑

 

マナブ:あ、こちらはまた別の人の胸像ですね。

 

歴史先生:阿南惟幾(あなみ これちか)の像ですね。彼のことはご存じですか?

 

マナブ:名前を見たことがあるような、ないような。

 

歴史先生:この人もお父さんが岡藩士で竹田の生まれ。1887年の生まれですから廣瀬中佐より19歳下。日露戦争というよりも太平洋戦争の時代の人です。

 

マナブ:彼も海軍の偉い人?

 

歴史先生:いえ。陸軍の人なんですが、その後「侍従武官」という昭和天皇に奉仕するスタッフになり、昭和天皇とも親しい関係になります。そして1945年(昭和20年)の4月から陸軍大臣に。敗色濃厚の戦況の中、あくまでも最後まで本土決戦を主張し、降伏には反対をしていました。

 

マナブ:国民の命よりも天皇や国家を守ることが第一、という考え方の人だったんですね。

 

歴史先生:しかし結局、昭和天皇は降伏を受け入れるご聖断を下されます。そして終戦の日、阿南惟幾は陸軍内部の強硬派を抑え込み、自らは自殺しました。陸軍トップである彼の自殺によって、その後の陸軍の暴発が少しでも抑えられたという評価がされています。

 

岡城は誰が造って、誰が治めていたのか?

 

岡城跡

 

実線:自動車ルート

点線:徒歩ルート

 

岡城跡(地図 ❸)

〒878-0013 大分県竹田市竹田2889

入城料 300円(中学生以下、団体割引あり)

9:00~17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://okajou.jp/ 


マナブ:廣瀬神社の下をトンネルで抜けて、5分ほど山を登るドライブで岡城跡の駐車場に着きました。


歴史先生:ここで入城料を払って、ここからは徒歩で巡ります。


岡城跡 駐車場


マナブ:岡城というのは誰のお城ですか?


歴史先生:伝承によると、最初の岡城は1185年、緒方三郎惟栄(これよし)が建てたと言われています。


マナブ:えーっと、その人はたしか源平合戦のころの豊後武士団のリーダー格。


歴史先生:そうです、そうです。平安時代末期の人で、北部九州における平家の討伐で功績を上げました。その後、源義経が頼朝から疎まれた際に、義経は京都から九州へ落ち延びて再起を図るはずでした。その義経を迎えるために築いた難攻不落の城がここ岡城だという伝承です。


マナブ:歴史に「もし」は無い、と言われますが、もし義経が九州に落ち延びることができて、豊後武士団とこの難攻不落の城を拠点に実力を蓄えたとしたら? そしてそこから東へ上って京都を落とし、鎌倉を落として天下を取り、義経幕府ができたかも。そして緒方三郎惟栄は義経に次ぐ天下のNo.2として腕を振るったかもしれません。


歴史先生:その可能性はあったでしょう。まさに歴史のロマンですね。


マナブ:伝承はそれくらいにして、史料が残っている話としては誰の城なんでしょう?


歴史先生:1334年、建武の新政が行われているさなか、後醍醐天皇の命により志賀貞朝がこの城を拡張し、「岡城」と名付けたと言われています。史料としてはっきりしているのは「豊後国志」で、1369年に志賀貞朝がこの城に入ったことが書かれています。


マナブ:志賀さん、ですか。


歴史先生:あまりなじみがなさそうですね。志賀氏は大友氏の支族にあたる家柄です。志賀氏は大友吉統(よしむね)が朝鮮出兵で判断ミスを犯し秀吉によって改易された1593年まで、200数十年もの長い間、ここ岡城の主でした。


マナブ:そうでしたか。で、大友氏が改易になると岡城はどうなったんでしょう?


歴史先生:志賀氏も岡城を明け渡さなければならなくなりました。そのあとに岡藩の初代藩主である中川秀成(ひでしげ)が岡城に入ります。


マナブ:今度は中川さん?


歴史先生:こちらもそれほど有名でないかもしれません。お父さんは中川清秀。こちらはご存じかもしれませんが、信長や秀吉に仕えた武将で、賤ヶ岳の戦いで戦死しました。中川秀成はその後継として播磨国三木6万6千石を治めていましたが、1594年に国替えで7万4千石の竹田に入りました。


登城口


マナブ:秀吉の家臣だったわけですが、その後の関ヶ原はどうだったんでしょう?


歴史先生:結果的に中川秀成は東軍に従ったということで、家康から所領を安堵されました。でもそれは紙一重の綱渡りでした。


マナブ:というと?


歴史先生:別府の回で、「石垣原の戦い」の話をしましたね。


マナブ:はい。豊後に戻ってきた大友義統(よしむね)が旧臣たちを集めて、豊前から来た黒田如水と対峙した戦いでした。


歴史先生:田原親賢、宗像鎮続といった中川秀成の重臣たちが、大友義統の呼びかけに応じて竹田を出奔し、大友軍に加わったんです。その時、中川秀成の旗印を盗んでいき、大友軍の陣に立てました。


マナブ:黒田如水から見れば、大友軍には中川勢が加わっているように見えた。


歴史先生:そういうことです。中川秀成は自分は知らなかったと必死に弁解しますが、家康からは疑いを持たれていました。その疑いを晴らすため、中川秀成は西軍の太田一吉が治める臼杵城を攻略すべく軍を東に向けます。


マナブ:あ、臼杵城に行ったときにその名前が出ましたね。


歴史先生:太田一吉の軍も強く、10月3日、佐賀関で両者がまみえた「佐賀関の戦い」では中川勢に200名を超える死者が出るなど、大変な犠牲を出しました。しかしそれによってようやく家康からの疑いが晴れ、結果的に中川秀成は所領を安堵されることになったんです。


マナブ:危なかったですね。


歴史先生:中川家による統治は江戸の終わりまでおよそ280年間も続きました。1874年(明治7年)の廃藩置県によって岡藩は廃止になり、藩主一家は東京へ引っ越すことになります。


マナブ:志賀氏、中川氏、が竹田を治めてきたということがわかりました。


まさに難攻不落の「岡城跡」を歩こう


坂を上ると大手門が見えてくる


実線:自動車ルート

点線:徒歩ルート


マナブ:駐車場まで車で坂道を登りましたが、遊歩道もかなり坂を上ってきています。右側の谷がどんどん深くなってきてる。これは攻めるのが大変そう。


歴史先生:岡城ですが、一度だけ本格的な攻撃に晒されたことがありました。


マナブ:いつの話でしょう?


歴史先生:戦国真っただ中の1586年、耳川の戦いに勝った島津軍は豊後のあちこちに侵攻します。竹田の岡城もその1つ。その時の岡城城主は18歳の志賀親次。3度にわたる島津軍の攻撃を撃退しました。


マナブ:それはやはりこの地形のせいでしょうか?


歴史先生:そうですね。もちろん兵士たちの踏ん張りもあった上のことですが、谷から約100mの高さにある断崖絶壁の上にあり、さらに高石垣で覆われたまさに「難攻不落」の城と言えるでしょう。


大手門


マナブ:大手門の所へ来ました。右を見ると深い谷になっています。あの谷底から重い鎧を着てここまで登ってくるだけでヘトヘトです。とてもこれから戦えそうにない(笑)。


歴史先生:岡城の難攻不落さ、今日はたっぷりと味わってください。


大手門を城内から見る


マナブ:大手門を内側から見ています。これは枡形、かな?


歴史先生:はい、そうですね。大手門自体には上に櫓(やぐら)が渡されていて、そこからも攻撃できるようになっていたと思われます。そしてそれを突破すると今度は枡形。四方から攻撃できるようになっています。


マナブ:ここはとても破れそうにないですね。


城の南側


マナブ:大手門から城内に入ると、平らな土地が広がります。


歴史先生:この台地の右端(南側)を通って本丸へ行きましょう。


転落に注意しながら見学しよう


マナブ:右側は深い谷です。下を覗き込みたくなりますが、柵もないので転落注意、ですね。


歴史先生:さぁ、台地の平らなところがだんだん細く、狭くなってきました。今度は左側の崖を見てみましょう。


城の北側、三の丸の高石垣


マナブ:おぉ、こちらも眺めがいい。


歴史先生:そして、見てください、この石垣。立派な石垣が延々と続き、しかもその下は断崖絶壁。


マナブ:こちらからはとても攻め上れそうにありません。


実線:自動車ルート

点線:徒歩ルート


西中仕切


歴史先生:一番狭いところに来ました。ここは西中仕切、と呼ばれます。


マナブ:つまり、本丸の西側の仕切り?


歴史先生:はい。ここに石垣と門を作って、敵の本丸への侵入を防ぎます。同様に東側には東中仕切、がありました。


マナブ:立派な石垣。ここに門があったんですね。そして両側は断崖絶壁。実に堅い守りです。


西中仕切から見る三の丸


三の丸


歴史先生:西中仕切を入ると、三の丸になります。三の丸には藩主との対面所がありました。


マナブ:家臣とか、他藩からのお客さんなどはここで藩主に面会できたんですね。逆に言えばその先へは入れない。


歴史先生:いえ、二の丸には来客をもてなす施設(月見櫓や御風呂屋)がありましたので、大切なお客様は二の丸まで入れたようです。しかし本丸へは入れなかったでしょう。


空井戸


歴史先生:二の丸に来ました。ここに井戸らしきものがありますね。


マナブ:はい。こんな台地の上のお城ですから、弱点は水、でしょうね。でもお城の中心部にこんな井戸があるなんて、やっぱり守りの堅いお城ですね。


歴史先生:そう思われるかもしれませんが、どうやらこれは空井戸のようなんです。


マナブ:えっ? 水が出ないなら、これは何のために?


歴史先生:江戸時代の調査では深さが60mもあることが記録されています。では何のためのものだったのかというと、万が一の時の抜け道であったとか、財宝が隠されていたとか、さまざまな推測がされています。


マナブ:これも岡城の謎の1つ、なんですね。


二の丸からはくじゅう連山がよく見える


「荒城の月」のモデルのお城はどこなのか?


二の丸にある滝廉太郎像


二の丸


実線:自動車ルート

点線:徒歩ルート


歴史先生:さて、二の丸には滝廉太郎の像があります。


マナブ:「荒城の月」ですね。


歴史先生:ところで、我が町のお城こそが「荒城の月」のモデルだ、とアピールしているお城が全国にはいくつかあります。


マナブ:はい、そんな論争があるというのを聞いたことがあります。


歴史先生:まずは歌詞を見てみましょう。とりあえず1番だけ。


春高楼の 花の宴 めぐる盃 かげさして

千代の松が枝 わけいでし むかしの光 いまいずこ


マナブ:どんな意味でしょう?


歴史先生:穏やかな日が注ぐ、桜咲く中の宴会の情景がまずは前半で歌われています。後半の「千代」という部分は「仙台」なのか、それとも徳川家康の幼名「竹千代」から来ているのかわかりませんが、松の枝が分かれて伸びるように跡継ぎや分家がどんどん育っていたことを示しているようです。しかし最後に、「そんな昔の栄光は一体どこへ行ってしまったんだろう?」とつづられます。


マナブ:ということは明治になって、「武士の世の中が終わって城も荒れ果てた」、という情景を表しているんでしょうかね。


歴史先生:恐らくそんなところでしょう。さて、次に考えたいのが、「荒城の月」という楽曲がどのように誕生したのかという点。明治の初め、文部省は児童のための唱歌を作っていましたが、それらは海外の歌を翻訳したものばかりでした。そこで、東京音楽学校(現在の東京芸大)では「西洋音楽でありながら日本人の心に通じる日本オリジナルの唱歌が欲しい」、と考え、懸賞付きで作品を公募することになりました。


マナブ:そうだったんですか。


歴史先生:それにあたり、著名な詩人であった土井晩翠(どい ばんすい)に作詞を依頼します。そこで出てきたのが「荒城の月」。


マナブ:あ、そうか。滝廉太郎はあくまでも作曲で、作詞は土井晩翠だった。ということは、荒城の月のモデルは岡城ではない?


歴史先生:結論を急がないでください(笑)。さて、土井晩翠の「荒城の月」という詞に対して応募された作品の中から、当時東京音楽学校(現在の東京芸大)の生徒だった滝廉太郎の楽曲が選ばれました。これが日本で初めての本格的な西洋音楽として歴史的な楽曲になります。


マナブ:そういう位置づけの曲だったんですか。


歴史先生:はい。ところで、荒城の月のモデルはどこか、ということで有力候補とされているのは仙台市の青葉城。というのも、土井晩翠は仙台で生まれ育ったので、青葉城が常にその心の中にあったと考えられるからです。


青葉城(仙台市)


マナブ:歌詞の「千代」はやっぱり「仙台」なのかな。青葉城は有力候補になりますね。でも青葉城はそれほど荒れていないし、あまりもの悲しさが感じられないな。


歴史先生:他に候補とされているのは会津若松城。戊辰戦争がまだ記憶に新しい時代。一時は仙台藩も支援していた会津藩が、悲惨な滅ぼされ方をしたことに土井晩翠も強烈な印象を持っているに違いないと考えられるからです。


マナブ:なるほど、会津若松城であれば、大砲で崩されて荒れていたことと、会津藩の栄光と悲劇という悲しい記憶が残っていそうです。


会津若松城(会津若松市)


歴史先生:もう1つは九戸城。こちらは豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして残虐な形で攻め滅ぼした岩手県の城。土井晩翠がリンゴ狩りの際に立ち寄って強い印象を受けたようです。


九戸城(岩手県二戸市)


マナブ:岡城がモデル、という話は滝廉太郎がここ竹田で育ったから、ですよね?


歴史先生:はい、12歳から14歳を竹田で過ごし、その間に岡城跡を遊び場にしていたようです。そのころの岡城ですが、最後の藩主中川久成が東京へ移ったのちは誰もいない廃墟となり、雑草が生い茂ってイノシシが出るような荒れ果てた場所となっていました。


マナブ:まさに「荒城」。


歴史先生:土井晩翠の歌詞をみて、滝廉太郎はここ岡城の風景を思い浮かべながらメロディを考えたのではないでしょうか。


マナブ:岡城の場合、滅ぼされたというような悲しい話はありませんが、石垣しか残っていない、荒れ果てた感じはします。歌詞ではなく、そのメロディのモデルが岡城ではないかと言うことですか。


歴史先生:はい、そう思われます。



三階建てのやぐらがあった「本丸」と御殿のあった「西の丸」を歩く


実線:自動車ルート

点線:徒歩ルート


本丸


マナブ:二の丸から石段を上がったところが本丸です。広い敷地になっています。


歴史先生:本丸の中に天満神社があります。


岡城天満神社


歴史先生:この神社は1593年、初代藩主の中川秀成が岡城に入る際に移築したもの。以来、岡藩歴代藩主から岡城の守り神として崇拝されてきました。


マナブ:しかしその中川氏がいなくなって、この神社は寂しくなったでしょうね。


歴史先生:はい、明治になると岡城跡は荒れ果てたという話をしましたが、神社も同様でした。そこで由緒ある神社を守ろうと、1910年(明治43年)には竹田市内へ遷座されることになりました。


マナブ:でもまたここへ戻ってこられた?


歴史先生:国指定史跡になり、観光客が増えてきた1955年(昭和30年)、神社は元の場所、すなわち現在の位置へ再び戻されました。


マナブ:いまでは岡城見学のついでにお参りできますね。


歴史先生:ここはとてもご利益(ごりやく)があると言われています。


マナブ:何でしょう?


歴史先生:岡城は島津軍の攻撃にも耐え、最後まで落ちなかった難攻不落の城。そしてここは菅原道真を祀る天満神社。


マナブ:決して落ちない!


歴史先生:そうです、受験生にはありがたい神社ですね。


本丸から南側の谷を見下ろす


歴史先生:本丸の南側は高石垣で囲まれ、その下は直接断崖絶壁になっています。


マナブ:こちら側には曲輪がないので、攻められたら直接本丸に入られてしまいますね。でもこの断崖絶壁なら攻め上ることは不可能でしょう。


御三階櫓跡


歴史先生:本丸の南側の端っこ、眺望の利く場所に「御三階櫓」という3階建ての建物が立っていました。これがいわゆる天守に相当します。


マナブ:谷底から見上げると、とても素晴らしかったでしょうね。


歴史先生:さらに本丸には藩主の住まいである本丸御殿がありました。そのほか、多聞櫓、角櫓などが建っていたようです。


実線:自動車ルート

点線:徒歩ルート


西の丸御殿跡


マナブ:本丸から戻り、今度は西の丸を歩きます。


歴史先生:西の丸は竹田の町から一番近く、しかも一番敷地の広い場所です。そのため、戦争の心配がほぼ無くなった江戸時代には西の丸に御殿が建てられ、守りの堅い本丸から西の丸へと政務の中心が移りました。馬場や庭園も造られていたようです。


マナブ:なるほど、時代と共にお城の形も変化したんですね。


近戸門


マナブ:西の丸の一番端っこにある近戸門まで来ました。


歴史先生:この門はお城の通用口。家臣や領民の日常的な出入りの門でした。ここから七曲りと呼ばれる坂道を下りて竹田の町へとつながっています。


岡城跡は阿蘇山巨大カルデラ噴火跡の絶景展望台

 

西の丸から阿蘇方面を見る

 

歴史先生:西の丸の端っこ、近戸門にいるわけですが、どうですか、この景色?

 

マナブ:すごい・・・というか、違和感しかありません。ずーっと山なのに、まったいら、なんです。こんな景色、日本で見たことない。まるでどこかの大陸の大平原みたい。

 

阿蘇山

 

歴史先生:そして真正面遠くに見えているのが阿蘇山、です。

 

マナブ:よく見えています。距離はどれくらいありますか?

 

歴史先生:ざっと30㎞くらいかと思います。

 

マナブ:30㎞もの間に山らしい山が全くない。不思議ですね。いったいどうなっているんですか?

 

歴史先生:では地形図を見てみましょう。

 

 

マナブ:あ、こうなっているのか。阿蘇カルデラからここ岡城まで、まったいらですね。これは阿蘇のカルデラ噴火の跡?

 

歴史先生:そうです、そうです。現在、まったいらになっている地域ですが、元々は他の地域と変わらない、山と谷がある地形でした。しかし阿蘇山の巨大カルデラ噴火によって大量の火砕流がここを覆い、谷を埋め尽くしてまったいらな大平原を造ったんです。

 

マナブ:それも一瞬のできごとですよね?

 

歴史先生:そう思われます。ところで長崎県の島原に行ったとき、原城での会話を覚えていますか?

 

マナブ:そうだ、原城が建っている丘で水が出るのは、水を通しにくい地層の上に、Aso-4の巨大噴火の火砕流でできた地層が乗っているから、という話でした。阿蘇山から島原まで火砕流が来たんだとビックリでしたが。

 

歴史先生:ではあらためて、Aso-4の火砕流の分布図を見てみましょう。

 

出典:産総研地質調査総合センターウェブサイト https://www.gsj.jp/Map/JP/lvi.html 

 

マナブ:おぉ、こうしてみると、阿蘇山の火砕流は東側の大分県に流れ込んでいますね。竹田市は近いから直撃。となりの豊後大野市もほとんどが火砕流で埋まっている。

 

岡城跡の駐車場から大手門へ行く間の絶壁にはむき出しの溶結凝灰岩が見られる

 

歴史先生:そして火砕流はさらに東にも広がっていますね。

 

マナブ:はい。臼杵のほうまで流れています。あ、そうか、臼杵石仏は阿蘇山の火砕流でできた溶結凝灰岩に彫られたということでしたよね。

 

歴史先生:そうなんです。そして豊後大野にも石仏がたくさんありますので、あとで行ってみましょう。

 

マナブ:楽しみです。

 

歴史先生:ところで、阿蘇山は少なくとも4回、大規模なカルデラ噴火を起こしています。27万年前のAso-1、14万年前のAso-2、12~13万年前のAso-3、そして最も規模が大きかったのが9万年前のAso-4です。そのときは長崎県(島原)から山口県まで火砕流が到達するほどの規模で、九州北部の生き物はすべて死滅し、日本中にも甚大な被害を与えたはずです。

 

マナブ:27万年で4回ということは、平均で7万年間隔ですね。ということは次回Aso-5がもうすぐ起きるかもしれない?

 

歴史先生:考えると恐ろしいですが、私たち日本人はそういう土地の上に暮らしているんだということを知っておく必要がありますね。

 

 

岡城跡から見える「くじゅう連山」

 

歴史先生:岡城跡から北側を見ると、くじゅう連山が見えます。

 

マナブ:はい、こちらもくっきりと見えています。

 


歴史先生:くじゅう連山は比較的若い火山。主に2つの火山群から成っています。左側(西側)にある久住山、中岳、星生山、三俣山などは「久住山系」と呼ばれますが、ここでは約20万年前から火山活動が始まりました。5万4000年前には火砕流が発生して、今の飯田高原、久住高原などのなだらかな草原地帯ができました。

 

マナブ:阿蘇山が活発に活動している時と同じですね。

 

歴史先生:はい。そして1万5000年前ごろから活動は東に移り、大船山、平治岳、黒岳といった「大船山系」と呼ばれる山々が形成されます。その2つの山系に挟まれた盆地が「坊がつる」。それを題材にした歌もヒットしましたが、かつては湖だった盆地で、今では高山植物や温泉地としてハイカーに人気です。

 

岡城跡から見える祖母山(右端)と傾山(左端)

 

歴史先生:岡城跡から南を見ると、こちらには祖母山と傾山が見えます。

 

マナブ:祖母山はきれいな円錐形で尖っていますね。傾山は名前の通り、少し傾いたような変わった形。

 

歴史先生:ちなみに先ほどのくじゅう連山の中岳が九州「本島」最高峰で、祖母山が第2位。

 

マナブ:「本島」と強調されたのは意味がありますか?

 

歴史先生:はい、九州最高峰は屋久島の宮之浦岳、です。

 

マナブ:あ、そうなんですね。

 

歴史先生:さて、祖母山や傾山は活火山ではなく、火山独特の地形(火口や溶岩流など)が見られないので火山と思われていなかったのですが、実は1,500万年~1,400万年ほどの太古の時代に形成された火山であることがわかってきました。

 

マナブ:火山だったんですか。

 

歴史先生:しかも大規模なカルデラを持っていたと考えられ、そのカルデラ内には厚さ1,000mにもわたる火山堆積物がぎゅっと詰まっています。1,000万年前ごろには火山活動が終息し、その後は浸食と隆起によって今の山容が造られました。

 

マナブ:長い年月をかけた、スケールの大きな話ですね。

 

歴史先生:ところで祖母山という名前ですが、おばあちゃんの山、という意味ですね。誰のおばあちゃんのことだかご存じですか?

 

マナブ:いいえ。

 

歴史先生:祖母山には神武天皇のおばあちゃんである豊玉姫(とよたまひめ)が祀られています。豊玉姫は無くなった後この山に住んでいて、そこから神武東征を助けた、と言われています。

 

マナブ:そんな由来だったんですね。

 

歴史先生:さて、ここまで竹田を見てきましたが、いかがでしたか?

 

マナブ:竹田というと岡城。「石垣しか残っていない」、くらいの印象しかありませんでしたが、こうして歴史や自然を理解してから見るとずいぶんと印象が違いました。まさに難攻不落の城、だったんですね。阿蘇山から続く大平原のような地形。あれには感動しました。それから竹田市内の散策もよかった。盆地だからでしょうか、とても昔の風情の残る街歩きでしたよ。

 

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