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埼玉県 大宮_1.jpg
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
日本書紀にも古事記にも出てこない「宇佐神宮」とはいったい何か?
 
宇佐神宮の境内を歩く(1):大鳥居、唐橋、弥勒寺跡
 
宇佐神宮の境内を歩く(2):上宮、下宮
 
宇佐神宮の境内を歩く(3):菱形池、頓宮
 
皇室の危機を救った和気清麻呂の物語と護皇神社
 
神武天皇、和気清麻呂の上陸地:柁鼻神社
 
平安時代末期の武将、鎮西八郎こと源為朝はどんな人物だった?
 
歴史好きには垂涎の的:大分県立歴史博物館
 

 

日本書紀にも古事記にも出てこない「宇佐神宮」とはいったい何か?

 

 

宇佐駅

 

マナブ:今日は大分県の北部、宇佐市に来ています。

 

歴史先生:宇佐と言えば・・・?

 

マナブ:「USA」! (笑)

 

歴史先生:(笑)USAという表示が町中のあちこちにありますから、SNS映えしますよね。

 

マナブ:そうなんです。でもやっぱり、宇佐と言えば何と言っても「宇佐神宮」ですよね。

 

歴史先生:はい、そうですね。ではその宇佐神宮というのはどんな神社かご存じですか?

 

宇佐神宮 上宮

 

マナブ:えーっと、まず「神宮」という名前が許されるのは皇室ゆかりの限られた神社ですから、それだけの格式高い神社ですね。祭神はたしか応神天皇、すなわち神功皇后の息子さん。そして全国の八幡神社の総本宮。

 

歴史先生:はい、大正解です。ご祭神は八幡大神(はちまんおおかみ、すなわち応神天皇)、比売大神(ひめのおおかみ、すなわち宗像三女神)、そして神功皇后です。

 

マナブ:宗像三女神というのはたしかアマテラスとスサノオの姉弟の間に生まれた3人の女の子。

 

歴史先生:そういうとなんだか怪しく聞こえますね(苦笑)。ところで日本中に神社っていくつくらいあると思いますか?

 

マナブ:ものすごくたくさんありそう。数万カ所?

 

歴史先生:正確な統計はないのですが、知られているだけで11万カ所ほど。そのうちの約40,600カ所は八幡神社で、神社の種類としてはトップです。その総本宮が宇佐神宮になります。

 

マナブ:八幡さまが4割近くを占めているんですね。

 

菱形池

 

歴史先生:宇佐神宮の歴史は相当古く、第29代 欽明天皇の時代(539~571年)に現在の宇佐神宮の境内に中央にある菱形池に近くに、応神天皇のご神霊である八幡大神が3歳の童子の姿で降臨したのが始まりとされています。

 

マナブ:その話は中津の「薦(こも)神社」で聞いたのと同じですね。欽明天皇の在位中というとどんな時代でしょう?

 

歴史先生:古墳時代の後期。527年には筑紫で磐井の乱が起きました。538年には百済から仏教が伝来しています。

 

マナブ:なるほど、そういった時代ですか。ところで応神天皇はいつ頃の人?

 

歴史先生:日本書紀ですと390年から430年まで在位していました。

 

マナブ:とすると、降臨されたのが事実だとして、亡くなってから140年ほどでしょうか、その時はそれほど大昔の話ではなかったんですね。

 

歴史先生:そして588年に鷹居社という社殿が初めて建てられ、その後725年に一之御殿が建てられ八幡大神が祀られました。733年には比売大神を祀る二之御殿、少し遅れて823年に神功皇后を祀る三之御殿が建てられました。それが現在の3つの本殿として続いています。

 

大元神社の拝殿

 

歴史先生:ところで、宇佐神宮の南に御許山という山があって、そこは「大元神社」と呼ばれる宇佐神宮の奥宮で、その山頂に巨石があります。おそらくは古代の豪族、宇佐氏がこれを磐座(いわくら)として信仰していたのが宇佐神宮の始まりではないかとも考えられています。

 

マナブ:古代の人は巨石を神として信仰してたんですよね。

 

歴史先生:はい、そうです。

 

マナブ:これだけ大きな神社ですが、日本書紀とか古事記にはどのように書かれているんですか?

 

歴史先生:実は一切登場しないのです。

 

マナブ:えっ? それはなぜ?

 

歴史先生:いえ、恐らくは記紀が編纂された700年代の初めごろ(古事記は712年、日本書紀は720年に完成)にはまだ社殿も建っておらず、「八幡さま」というのは応神天皇のことであるにもかかわらず中央では知られていない地方の信仰の1つにすぎなかったのだろうと思われます。あ、1つだけ宇佐に関係しそうな記述が日本書紀にあります。

 

マナブ:それは何でしょう?

 

歴史先生:例の宗像三女神ですが、「アマテラスが三女神を葦原中国の宇佐島に降して鎮めさせた」という下りがあります。これが宇佐のことではないかと推測されていて、宇佐には宗像三女神を祀る風習が元々あったと考えられます。

 

マナブ:なるほど、でもそれだけではその後の宇佐神宮の繁栄にはつながりそうにないですね。

 

歴史先生:そうなんです。しかし、それが700年代の中ごろ、宇佐の八幡さまは一気に全国区へ名乗り出ます。

 

マナブ:ん? 何があったんでしょう?

 

薦神社のご神体である三角池(みすみいけ)

 

歴史先生:時は奈良時代の初めごろの720年、反乱を起こした薩摩・大隅の「隼人」を討伐するために大和朝廷軍が宇佐へやってきます。その際、中津市の薦神社の三角池に自生している真薦(まこも)という植物を枕状にしたものを八幡神のご神体として神輿(みこし)に乗せ、それで鎮圧に向かったそうです。

 

マナブ:薦神社でその話がありましたね。

 

歴史先生:はい。それこそが「神輿」の始まりと言われています。

 

マナブ:今もお祭りで「わっしょい、わっしょい」と担いでいる、あの「おみこし」ですか?

 

歴史先生:はい。そのルーツは宇佐神宮と言われています。隼人の討伐によって宇佐の八幡大神の名前は中央にもある程度は知られる存在になったことでしょう。ところで余談ですが、八幡社では「放生会(ほうじょうえ)」というお祭りが行われます。「生き物をいたわり、殺生をしない」というような趣旨で魚を池に放流したりする風習がありますが、これはこの戦いで隼人の人たちをたくさん殺してしまったことに対する八幡さまの反省が込められた行事なんです。

 

マナブ:放生会というのはそういう意味だったんですね。

 

歴史先生:さて、薩摩・大隅の方が安定すると、今度は聖武天皇が東大寺に大仏を建立しようとしていました。745年に建立はスタート。しかし大仏を作るには莫大な資金が必要です。

 

マナブ:そうですね。

 

歴史先生:そんな時、宇佐神宮で「応神天皇のご神霊である八幡さまが、天の神、地の神を率いてわが身をなげうって協力する」という八幡大神のご神託を得ました。「金(きん)が不足すれば必ずやそれは掘り出される」というご神託の通り、陸奥の国から金が献上されてきたのだそうです。聖武天皇はとても喜んだということなんですが。

 

マナブ:うーん、八幡大神という地方で信仰されている神様からご神託があったということが、それほど聖武天皇を喜ばせるだけの価値があったんでしょうか?

 

歴史先生:当時は朝鮮半島の新羅の脅威が恐れられていた時代ですから、太古に朝鮮半島で新羅を討伐した神功皇后、そしてその息子の応神天皇を神として崇める背景はあったかと思います。

 

マナブ:でもそれだけでしょうか?

 

歴史先生:実際にはよくわかりませんが、宇佐神宮はこの一帯でかなりの勢力を伸ばしていたのだとすると、大仏建立に対して経済的あるいは人的な援助を直接おこなったのかもしれません。

 

マナブ:そんな気がします。

 

東大寺の大仏(奈良市)

 

歴史先生:さて、ここでも再び神輿が登場します。749年に大仏の鋳造が終わると、八幡大神は神輿に乗せられて、奈良までそれを見に行きます。

 

マナブ:なんか、おもしろい言い方ですね(笑)。

 

歴史先生:東大寺では聖武上皇、孝謙天皇をはじめ文武百官勢ぞろい。実に5,000人の僧侶が読経する中で八幡さまの神輿は迎えられたのだとか。

 

マナブ:ちょっと前まで知られていなかった地方の神様が、急に超VIP待遇になってる(笑)。

 

歴史先生:そして3年後。八幡大神は752年の大仏開眼法要にも再び呼ばれました。この時も神輿で出かけます。

 

マナブ:この時はどんなふうに迎えられたんでしょう?

 

歴史先生:完成したばかりの大仏殿に最初に入ったのは聖武上皇。続いて孝謙天皇。八幡大神は3番目でした。

 

マナブ:やはり超VIP待遇。

 

歴史先生:それだけではありません。大仏建立に貢献したことへの感謝として封戸800戸、位田60町が寄贈され、さらには東大寺のすぐそばに「手向山八幡宮」という宇佐神宮の分社が建てられ、東大寺を守護する役割を持たされました。

 

手向山八幡宮(奈良市)

 

マナブ:もうこうなると平城京の都のなかで八幡さまを知らない人はいない。

 

歴史先生:そうなりますね。まさに八幡さまが全国区になった瞬間でした。

 

マナブ:その後はどうなっていったんでしょう?

 

歴史先生:奈良時代にはもう1つ、宇佐八幡宮託宣事件というのがありましたが、それは後程詳しくお話ししましょう。


マナブ:はい。


歴史先生:平安時代には延喜式で「名神大社」という高いランクに位置付けられ、宇佐神宮は九州最大の荘園領主になります。そして源平合戦では平家方につき、一時は安徳天皇を匿っていたこともありました。

 

マナブ:でも平家は負けてしまった。

 

歴史先生:はい。緒方惟義を中心とする豊後武士団は源氏方についていましたので、平家方であった宇佐神宮は焼き討ちにあいました(1184年)。戦国時代には豊後の大友氏と対立。豊前に進出していた中国地方の大内氏に庇護されていましたが、ここでも宇佐神宮は大友宗麟によって再び焼き討ちを受けています(1562年)。

 

マナブ:大分県のヒーローと言われている2人がそれぞれ宇佐神宮を焼き討ちしたなんて、大分県人もあまり知らないと思います。

 

歴史先生:江戸時代には徳川幕府から寄進を受け、そのもとで庇護され続け現在に至ります。それにしても平安京を作るときには石清水八幡宮、鎌倉幕府を開くときには鶴岡八幡宮など、八幡さまは天皇家にも武家にも深く崇拝されてきました。

 

マナブ:源義家は「八幡太郎」と言われていましたね。

 

歴史先生:歴史上、もっとも八幡さまを崇拝していた武将と言えるかもしれません。

 

マナブ:「八幡大菩薩」という言い方もよく聞きます。

 

歴史先生:それこそまさに平安時代に始まった「神仏習合」の典型です。八幡さまという「神様」に対して、仏教の思想から「大菩薩」号が与えられました。国東半島に広がる神仏習合の文化はここ宇佐神宮から出ているのです。

 

宇佐神宮の境内を歩く(1):大鳥居、唐橋、弥勒寺跡

 

国道10号線沿いの宇佐神宮の広い駐車場

 

 

宇佐神宮(地図 ❶)

〒872-0102 大分県宇佐市南宇佐2859

境内自由

6:00~18:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.usajinguu.com/ 


マナブ:ではいよいよ、宇佐神宮を歩きます。

 

歴史先生:今は平日の朝8時。24時間使える駐車場にもまだほとんど車が止まっていません。昼間は観光バスなどが来て賑わいを見せますが、今は境内にはほとんど人がいないと思いますよ。

 

マナブ:すばらしいです。早起きした甲斐がありました。雨上がりのしっとりした空気の中をこれから歩いていきます。

 

駐車場の脇にある仲見世通り。お店が開くのは10時ごろから。(店舗により異なる)

 

 

歴史先生:地形図を見てください。国道10号線沿いの駐車場に車を停めて、ここから歩いていきます。まずは川を渡り、池のあるところを過ぎるとポツンと小高い丘があります。これは小椋山(または亀山)と呼ばれる丘で、ここの上に上宮(じょうぐう)があります。

 

マナブ:モノレールがあるって看板が出ていますね。

 

歴史先生:足の悪い方はこの丘の裏手からモノレールで登ることもできます。それほどきつい石段ではないので、私たちは普通に行きましょう。また地図の右手(東側)にある山の中腹に護皇神社がありますので、ここにも行ってみましょう。

 

マナブ:宇佐神宮で石段を登った記憶がないなぁ。何となく平地にあるような印象を持っていました。

 

駐車場からすぐの場所にある「北参道大鳥居」をくぐって境内へ

 

神橋

 

マナブ:駐車場から北参道大鳥居をくぐって、次に神橋を渡ります。

 

歴史先生:この川は寄藻川と呼ばれ、宇佐神宮の奥宮がある御許山から流れてきています。

 

 

表参道 大鳥居

 

歴史先生:神橋を渡った先からはまっすぐな表参道が続きます。

 

マナブ:薦神社で習ったように、宇佐神宮の鳥居の形は独特ですね。真ん中がなくて、いたってシンプル。

 

歴史先生:はい、「宇佐鳥居」という話を薦神社でしました。

 

武内宿禰を祀る黒男神社

 

歴史先生:大鳥居をくぐるすぐ手前の右側に武内宿禰(たけうちのすくね)を祀る「黒男神社」があります。

 

マナブ:武内宿禰という名前はよく聞きますね。

 

歴史先生:伝説上の人物で実在したかどうかはっきりしませんが、第12代景行天皇から第16代仁徳天皇まで、実に240年間も天皇の側近として仕えた人。

 

マナブ:さすがにそれは長すぎる(笑)。ところで宇佐神宮との関係は?

 

歴史先生:第15代が宇佐神宮の祭神である応神天皇です。

 

マナブ:あ、そうか。

 

歴史先生:第14代の仲哀天皇が亡くなった後、残された神功皇后を良く補佐した話が有名です。ここ宇佐神宮では応神天皇を鳥居の外側で守っています。

 

初沢池

 

歴史先生:右に見えてきた池を「初沢池」と言います。奈良の猿沢の池、京都の広沢の池、と並んで「日本三沢の池」と呼ばれています。

 

 

マナブ:表参道の突き当りを右へ行きます。

 

歴史先生:こちら、すなわち西側の入口となるのが「呉橋」。西参道はここへ続いています。少なくとも鎌倉時代より前から存在していた橋です。

 

呉橋

 

マナブ:呉橋、という名前にはどういう意味があるんでしょう?

 

歴史先生:呉の国の人が架けた、という伝承もありますが、詳しくはわかりません。

 

マナブ:今は渡ることができないようですが、朱塗りで屋根付きの美しい橋ですね。並行して架けられたすぐとなりの橋から眺めることができます。

 

一柱謄宮跡

 

マナブ:呉橋のすぐ手前に「一柱謄宮 跡」という石碑が立っています。何て読むんだろう?

 

歴史先生:これは読めませんよね。 日本書紀に出てくる建物で、「あしひとつ あがりのみや」と読みます。古事記では「足一謄宮」と書かれていますから、日本書紀よりは読みやすいかと。

 

マナブ:足が1つ?

 

歴史先生:はい。柱が一本で支える建物のことだろうと推測されます。その昔、神武天皇が東征の途中で宇佐に立ち寄りました。その際、この地を支配していた宇佐都比古(うさつひこ)、宇佐都比売(うさつひめ)が神武天皇一行を大歓迎し、この宮を建てておもてなしをしました。

 

マナブ:なんでそんなに歓迎されたんでしょうね?

 

歴史先生:以前から宇佐と日向は友好的な交流があったのかもしれませんが、史料がなさ過ぎてよくわかりません。そもそも神武東征が本当かどうかも疑われている状態ですから。

 

マナブ:それはそうですね。でも、ここに一柱謄宮があった、ということなのですね?

 

歴史先生:一柱謄宮だとされる伝承地はほかにも2か所あって、そのうちの1つは後程行きます。

 

マナブ:どちらにしても宇佐は神武天皇の一行と良好な関係を築けたわけですね。

 

歴史先生:はい。先ほど名前が出た宇佐都比売(うさつひめ)は、神武天皇の家来である天種子命(あまのたねこ の みこと)と結婚します。

 

マナブ:えっ、そんなロマンスの話なんですか?

 

歴史先生:恐らくはそうではなくて、神武天皇一行が寄港地を次々に征服していく中で、宇佐とは友好的に同盟が結ばれ、関係強化のための政略結婚も行われたということなんだろうと思います。

 

弥勒寺跡

 

 

歴史先生:さて、このあたりは「弥勒寺跡」。とても広い空き地になっていますが、これらすべてが弥勒寺の境内でした。

 

マナブ:ずいぶん大きなお寺ですね。

 

室町時代の境内案内図

 

歴史先生:こちらの説明板を見てください。これは室町時代前期の応永年間(1394年~1428年)に描かれた宇佐神宮の絵図です。右側に書かれている鳥居が今日私たちが駐車場から入ってきた表参道の大鳥居。そこからまっすぐ進むと、表参道の左側が宇佐神宮、右側が弥勒寺、となっています。

 

マナブ:あ、ほんとだ。いろんな建物が描かれていますが。

 

歴史先生:弥勒寺は南側を向いていますからちょうど今の宇佐神宮と反対向き。南大門を入ると東塔、西塔が左右に並び、金堂、講堂が並びます。これは奈良の薬師寺とほぼ同じ伽藍配置。

 

大分県立歴史博物館にはわかりやすい模型が展示されている(中央に延びるのが表参道。右側の伽藍が弥勒寺。左手の丘の上にあるのが上宮。)

 

マナブ:弥勒寺はいつごろ建てられたんでしょう?

 

歴史先生:宇佐神宮が小椋山(亀山)に移ったのが725年。金堂・講堂は738年の建立となっており、割と早い段階から弥勒寺の大伽藍があったことがわかります。東西、南北とも150mくらいの規模でした。

 

マナブ:奈良の薬師寺は?

 

歴史先生:今の場所に移ったのが718年と言われていて、現存する東塔(国宝)は730年頃に建立されました。弥勒寺とはほぼ同時期、です。境内の広さも同じくらい。

 

マナブ:そうか。あの薬師寺と同じような立派なお寺がかつてはここにあった。そう想像すればいいんですね?

 

歴史先生:まさにそのとおりです。いずれかの建物がもし現存していたら、国宝になったことでしょう。

 

宇佐神宮の境内を歩く(2):上宮、下宮

 

左は上宮、右は下宮への参道

 

 

マナブ:表参道の突き当り、先ほど呉橋のほうへ曲がった地点まで戻ってきました。

 

歴史先生:ここから左の鳥居をくぐれば上宮へ、右の鳥居をくぐれば下宮へとつながる参道です。

 

上宮への参道となる石段

 

マナブ:あ、ほんとだ、石段が続いていますね。

 

歴史先生:上宮は小椋山(亀山)の上にありますから、ここを登っていきましょう。といっても低い山なので、上宮にはすぐに着きます。

 

亀山神社

 

歴史先生:上る途中、左側に菱形池へ下る道があるのですが、その道沿いに亀山神社があります。

 

マナブ:この山の名前が付いた神社。

 

歴史先生:そうです。山の神様である大山積命(おおやまづみ の みこと)を祀っています。

 

若宮神社(国指定重要文化財)

 

歴史先生:石段を登ると、右に若宮神社があります。国指定重要文化財です。

 

マナブ:こちらはどういう神社でしょう?

 

歴史先生:応神天皇のお子さんを祀っているのですが、誰かわかりますか?

 

マナブ:えーっと、先ほどお話がありましたね。応神天皇の次はたしか、仁徳天皇。

 

歴史先生:そのとおり。これは仁徳天皇を祀った神社なんです。

 

 

西大門

 

歴史先生:さぁ、では上宮に行きましょう。手前の鳥居は古くからある宇佐鳥居。中央の額束(がくづか)がなく、台輪が柱の上にあるという特徴があります。

 

マナブ:なるほど。

 

歴史先生:私たちは西側から入ることになりますので、西大門から中へ入ります。見事な装飾の門ですが、これは1592年からの文録年間に改築されたもので、当時の流行である桃山風のデザインになっています。

 

マナブ:そういえばたしかに桃山風、ですね。


南中楼門

 

マナブ:中に入ってきました。これがよくみる宇佐神宮の写真の場所ですね。これが国宝の本殿?

 

歴史先生:いえ。中央にあるのは南中楼門、別名勅使門です。この長い建物全体は拝殿のような役割で、一之御殿、二之御殿、三之御殿それぞれに対する拝殿があります。

 

マナブ:本殿はこの中にあるんですね?

 

歴史先生:はい。それぞれの拝殿から中がちらりと見えます。

 

マナブ:それにしても朝早くから来るのはいいですね。

 

歴史先生:この場所などは昼間はたくさんの参拝者がいるはずです。今は私たちがこの空間を独占している感じです。

 

マナブ:ほんと、贅沢な時間ですね。

 

南中楼門

 

参拝の仕方

 

マナブ:ここに参拝の方法が書かれています。

 

歴史先生:二礼、四拍手、一礼、という珍しいお参りの作法ですね。その起源は不詳、と書かれています。

 

宇佐神宮 本殿(国宝)

※本殿の写真撮影は禁止されています。この写真は大分県が運営する「おおいた風景写真集」にて使用が許諾されているものです。

 

マナブ:本殿はちらっとしか見えませんが、これが国宝なんですね。かなり古いものなんでしょうか?

 

歴史先生:いずれも江戸時代末期の建物です。一之御殿(1860年)、二之御殿(1859年)、三之御殿(1861年)です。

 

マナブ:それぞれが応神天皇である八幡さま、宗像三女神、そして神功皇后を祀っていたんでしたよね?

 

歴史先生:そのとおりです。

 

マナブ:結構新しいんだなと思いましたが、それ以前から本殿はもちろんあったんですよね。

 

歴史先生:先ほどお話ししたように平安時代末期1184年には緒方惟栄が、戦国時代1562年には大友宗麟が、ここを焼き討ちし、宇佐神宮も弥勒寺も灰燼に帰しています。そして江戸時代には上宮が火災で焼失しています。

 

マナブ:なるほど。

 

歴史先生:私たちは西側から入りましたが、南側の南大門からの参拝ルートもあります。ここは「百段」と呼ばれる急な階段になっています。この石段ですが、昔、このあたりに鬼が出て「人を食べていいか?」と八幡大神に聞いたところ、「我が宮に百段の石段を一夜で築いたらそれを許そう」と言ったので、鬼は必死に石段を築きました。

 

マナブ:ん? その話、国東半島の熊野磨崖仏で聞きましたが?

 

歴史先生:しかし99段まで積んだところで八幡大神がニワトリを鳴かせて朝を告げ、鬼はそれをくやしがって池に身を投げたのだとか。

 

マナブ:話のオチの部分まで一緒だ。

 

大元神社 遥拝所

 

マナブ:本殿と反対側、南が見える方向に遥拝所があります。

 

歴史先生:遠くに見える御許山には宇佐神宮の奥宮、大元神社があります。ここから拝んでおきましょう。

 

 

上宮から下宮へ下る

 

下宮

 

マナブ:坂を下って下宮へ来ました。

 

歴史先生:こちらも上宮と同じご祭神。上宮からの御分神を祀っていて、弘仁年間(810~824年)に京都の朝廷から造営使が送られて建てられました。御炊殿(おいどの)と呼ばれ、神前にお供えする食事を用意する場所でもあったようです。

 

マナブ:上宮より少し親しみやすい感じかな?

 

歴史先生:そうですね、農業、漁業などを守る役割があって、「下宮参らにゃ片参り」と言われて親しまれています。

 

宇佐神宮の境内を歩く(3):菱形池、頓宮

 

菱形池

 

 

マナブ:今度は菱形池の方へ行ってみます。

 

歴史先生:ここは宇佐神宮にとって非常に聖なる場所。八幡大神が降臨されたのがこの菱形池でした。

 

マナブ:3歳児の姿だったんですよね?

 

歴史先生:そうです、そうです。


菱形池の中にある水分神社への橋(通行不可)

 

御霊水

 

歴史先生:菱形池の奥に進んだ場所、ちょうど上宮から見て北側の崖下、に「御霊水」という場所があります。ここは八幡大神が現れた場所とされています。

 

マナブ:名前から想像すると、ここには泉が湧きだしている?

 

御霊水は3つの泉になっている

 

歴史先生:はい、地中から3つの泉が湧きだしています。

 

御霊水は自由に汲めるが飲用には適さない

 

マナブ:あ、こうやってフタを開けて、水を汲めるんだ。自由に汲んでいいように書かれていますね。

 

歴史先生:はい、そうなんですが、水質は飲用には適さないと書かれています。これは霊水として神棚にお供えしたりするだけにしたほうがよさそうです。

 

毎年夏には流鏑馬が行われる

 

マナブ:菱形池の北側には、東西に一直線の道があります。

 

歴史先生:ここは流鏑馬(やぶさめ)が行われる場所です。

 

マナブ:流鏑馬と八幡宮、というのは相性がいい?

 

歴史先生:有名なのは鎌倉の鶴岡八幡宮の流鏑馬ですよね? 流鏑馬は武芸の習熟を競うものですから、武家社会から崇敬されている八幡宮で行われるのはとても自然な組み合わせかと思います。

 

流鏑馬の的と護皇神社の鳥居

 

頓宮

 

マナブ:流鏑馬をおこなう道から少し外れたところに「頓宮(とんぐう)」という大きな建物があります。

 

歴史先生:頓宮という字、よく読めましたね?

 

マナブ:オリックスのプロ野球選手で頓宮という強打者がいるので、読むことはできましたが。

 

歴史先生:なるほど。頓宮というのは何か神事などを行う際に、一時的に神様がとどまる仮の宮、のことを指します。宇佐神宮では毎年7月末~8月初めごろの3日間、「御神幸祭(ごしんこうさい)」が開かれます。そのときにご神体はそれぞれの御殿から3基の神輿に乗って、頓宮までおいでになり、ここに滞在されます。

 

マナブ:2泊3日のお出かけ、ですね。

 

歴史先生:その際の下り(初日)、上り(3日目)の華麗な行列も見事です。宇佐市観光協会が提供している記録ビデオがありますので、ご覧ください。

 

御神幸祭の様子はこちらから:

https://www.youtube.com/watch?v=mC61PaQf_eU&t=260s

 

歴史先生:ところで「頓宮」という苗字は、岡山県にはかなりいらっしゃるそうです。

 

マナブ:そうなんですよ、頓宮選手も岡山県出身。ちなみに頓宮選手のお隣の家に住んでいて、よく一緒に遊んでいた2歳下の男の子は誰か、ご存じですか?

 

歴史先生:えっ、お隣も有名人?

 

マナブ:なんと山本由伸投手、なんです。

 

歴史先生:えーっ、そんな偶然ってあるんですか? それはすごい。

 

皇室の危機を救った和気清麻呂の物語と護皇神社

 

 

護皇神社

 

マナブ:流鏑馬のまっすぐな道の突き当り、鳥居があります。

 

歴史先生:こちらは護皇神社の入口。神社は大尾山の中腹にあります。ところでこの大尾山ですが、一時的に宇佐神宮はこの山の上にありました。

 

マナブ:ん? どういうことでしょう?

 

歴史先生:749年に奈良東大寺の大仏の鋳造が完成した時、八幡大神が神輿に乗って平城京まで旅した、という話をしましたね?

 

マナブ:はい。

 

歴史先生:この旅は実は相当長くて、ようやく伊予の国(愛媛県)に戻ったのが755年。宇佐に戻ったのはさらに10年後の765年だったんです。

 

マナブ:そんなに長く宇佐を留守にしてたんですか。

 

歴史先生:そして宇佐に戻られた時、神託によって大尾山に鎮座する、ということになったんです。そこで急いで大尾山の上に神社を建てて、そこに八幡大神は15年ほど鎮座したのち、現在の小椋山(亀山)に戻られました。

 

マナブ:なんだか実際に生きている人の話のような感じがして、とても不思議です。

 

護皇神社へは石段を登っていく

 

マナブ:おっと、これはそれなりの石段ですね。さきほどの上宮よりは少しきつそうです。

 

歴史先生:この石段は大尾山の中腹にある護皇神社へ続いています。2分程度で登れますから、がんばりましょう。

 

和気公之碑

 

マナブ:ふぅ、石段を登りきったところに「和気公之碑」があります。これは和気清麻呂、ですね?

 

歴史先生:はい、そうです。護皇神社のご祭神は和気清麻呂、です。

 

マナブ:護皇、という名前からして、皇室を守った功績をたたえる神社、ということでしょうか。

 

歴史先生:はい、そのとおりです。ところで和気清麻呂のお話、ご存じですよね?

 

マナブ:道鏡の事件ですね。小学生の時に聞いたのを何となく覚えていますが、今一度教えていただけますか?

 

護皇神社

 

歴史先生:奈良時代のこと、第48代称徳天皇(女性)に近づき、その信頼を得たお坊さんがいました。名前は道鏡。または弓削の道鏡、とも呼ばれていました。称徳天皇はその2代前にも孝謙天皇として即位していて、762年に体調を崩した際に秘法によって治癒した道鏡を信頼するようになりました。

 

マナブ:あやしい宗教にマインドコントロールされる危険がありそう。

 

歴史先生:47代淳仁天皇は道鏡を重用することに強く反対したため、764年、それに怒った孝謙上皇から廃位され、淡路島へ流されてしまいます。

 

マナブ:そんな。それは知りませんでした。

 

歴史先生:そして再び皇位について称徳天皇となった彼女はますます道鏡を重用します。道鏡は765年に太政大臣禅師、766年に法王といった高い位を与えられました。

 

マナブ:そして権力の絶頂期を迎えるんですね。

 

歴史先生:はい。そんな時は権力者に媚びる人物が必ず出てきます。769年、中臣習宜阿曾麻呂という大隅守だった貴族が、「道鏡が天皇になれば天下泰平になる、という宇佐神宮の神託を得た」と天皇に報告しました。

 

マナブ:きっとでたらめ、だったんでしょうね。

 

歴史先生:さすがに称徳天皇もそれをそのまま採用するわけにもいかず、信頼する側近の和気清麻呂に宇佐神宮に確認に行かせます。

 

マナブ:称徳天皇としては「清麻呂よ、私と道鏡にちゃんと忖度しなさいよ。わかってるよね?」ということだったんでしょうかね?

 

歴史先生:ところが和気清麻呂、当時37歳ですが、彼は正義感の強い人で、そんな曲がった忖度はできなかったんでしょう。彼の報告は以下のようなものでした。

 

「我が国は開闢(かいびゃく)以来、君臣の分定まれり。臣を以って君と為すこと未だあらざるなり。天津日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒を立てよ。無道の人は宜しく早く掃除(そうじょ)すべし。」

 

つまりは、天皇になるのはその血筋のものでなくてはならない、という結論です。

 

マナブ:これを見て、道鏡は怒ったでしょうね。

 

歴史先生:その怒りは相当なものだったでしょう。和気清麻呂を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改名させ、なんと脚の腱を切り、大隅へと流罪にしました。

 

マナブ:ひどすぎる。

 

歴史先生:しかも大隅へ行く途中に刺客を送ってひそかに殺そうとしたんです。でも突然の雷鳴や、300頭にもおよぶイノシシの群れが刺客から清麻呂を守りました。

 

マナブ:奇跡、ですね。

 

歴史先生:そして大隅への途中で宇佐神宮に立ち寄ると、脚がすっかり回復するという奇跡も起きます。

 

マナブ:すごい。

 

護皇神社

 

歴史先生:さて、翌年の770年になって、称徳天皇が崩御されました。後ろ盾を失った道鏡は力を失い、下野国に下野薬師寺の別当という地位まで落とされて左遷されます。そして2年後の772年に死去しました。

 

マナブ:和気清麻呂はどうなりました?

 

歴史先生:後任の光仁天皇から奈良の都へ呼び戻され、元の位に復帰します。また宇佐神宮のある豊前守にも就任しました。その後、平安京遷都でも活躍をします。

 

マナブ:よかった。ホッとする話ですね。

 

歴史先生:このように和気清麻呂の皇室への至誠の精神が、道鏡という悪人が天皇になることを阻んだ、ということで、今の皇室が続いているわけです。その貢献をたたえて、ここ護皇神社が建てられました。

 

マナブ:そう考えると、とても意義深い事件でしたね。

 

歴史先生:ところで和気清麻呂がここに神託を確認に来たのは769年のこと。そのとき宇佐神宮はどこにありましたか?

 

マナブ:あ、そうか。宇佐に戻って大尾山に移ったのが765年。そこから15年間は大尾山にいたということは、和気清麻呂がここへ来た769年には八幡大神は大尾山におられたはず。

 

歴史先生:そういうことです。ご神託はここで受けたことでしょう。

 

マナブ:護皇神社はだからここにあるんですね。

 

歴史先生:そうなんです。では、現代に続く皇室を護った和気清麻呂公に感謝しつつ、お参りをしていきましょう。

 

神武天皇、和気清麻呂の上陸地:柁鼻神社

 

 

柁鼻神社 (地図 ❷)

〒879-1135 大分県宇佐市和気1049−2

境内自由


歴史先生:では次に柁鼻(かじはな)神社という、あまり知られていない神社へ行きましょう。

 

マナブ: そういうの、いいですね。

 

歴史先生:宇佐神宮から国道10号線を東へ5分ほどの場所にあって、低い丘を登って、降り始めるところの左側にあります。右の丘の上に宇佐中学校があるのが目印。

 

柁鼻神社の鳥居

 

マナブ:着きました。ほんとに国道10号線沿い、です。

 

歴史先生:神社の前に車が数台停められる空き地があって、おそらくここに停めてよさそうです。

 

マナブ:ところで、ここはどういう神社なんですか?

 

歴史先生:3つの伝承のある場所です。古い順に、まずは神武天皇の東征で宇佐に立ち寄ったという話をしましたが、その時に上陸したのがここ、と言われています。

 

マナブ:ということは、ここは海岸だった?

 

歴史先生:そうなんです。ここの丘の東から北にかけて、今は一面に広がる田んぼですが、これは干拓によってできた土地。太古はここは海でした。

 

丘の東側から見た柁鼻神社(田んぼの部分が海であったことを想像して見ていただきたい)

 

マナブ:そういえば、「~鼻」というのは海に突き出た岬の名前としてよくありますね。

 

歴史先生:そうなんです。ここは「柁鼻」という岬であったと考えられます。神武天皇が訪れた記念すべき場所としてここに社殿が建てられ、神武天皇とそのお兄さんである彦五瀬尊(ひこ いつせ の みこと)が祀られています。次の伝承としては、神功皇后が三韓征伐に行くとき、ここで軍船を建造したとされています。

 

マナブ:これも宇佐神宮と縁がありそうですね。

 

歴史先生:はい、ここでも宇佐の勢力が皇室に貢献をしています。宇佐と皇室の深い関係を示唆していますね。そして最後に、和気清麻呂。彼が神託を確認するために宇佐へ来ましたが、その時の上陸地点がここ、と言われています。

 

マナブ:ということは、柁鼻という場所は宇佐神宮へお参りするときの船着き場であり、そして軍港でもあった、ということですね。

 

歴史先生:ここは地名も「宇佐市 和気」。和気清麻呂にちなんだ地名だと思われます。

 

柁鼻神社の社殿

 

歴史先生:では境内へ進みましょう。特に華麗な社殿があるわけではありませんが。

 

マナブ:木々に囲まれて静かな空間が広がっています。神聖な雰囲気を感じられる場所ですね。

 

歴史先生:しかも観光地ではないので、他には誰もいません。

 

船繋ぎ石

 

歴史先生:丘を下りたところに「船繋ぎ石」というのがあります。これは和気清麻呂がここへ上陸した時に船をつないだとされる石。

 

マナブ:まさにここが波打ち際だったんですね。目の前には田んぼが広がっています。でもこういう石に伝承が残っているということは、和気清麻呂がこの地でのヒーローだったことを感じさせます。

 

平安時代末期の武将、鎮西八郎こと源為朝はどんな人物だった?

 

為朝の弓立石

 

歴史先生:ところでもう1つ、柁鼻神社の境内にはまた違った伝承の残る石があります。社殿に向かっていくときに右側にひっそりと立っているのが「為朝(ためとも)の弓立石」。

 

マナブ:為朝?

 

歴史先生:そうですね。「鎮西八郎」とも呼ばれた人です。

 

マナブ:どんな人だったんでしょう?

 

歴史先生:源頼朝や義経のお父さんで平治の乱で敗れたのが源義朝(よしとも)。その弟が為朝。すなわち頼朝や義経のおじさん。

 

マナブ:ということは平安時代末期に武士が台頭してきた、まさにそのときの源氏の一族。

 

歴史先生:はい。 背景を理解いただくために「保元の乱、平治の乱」について説明しておきましょう。

 

マナブ:お願いします。

 

歴史先生:まずは1156年の保元(ほうげん)の乱。元々は後白河天皇と崇徳上皇の間での皇位継承争いでしたが、それぞれの側が源氏や平氏といった武士たちを味方につけて、武力での争いとなりました。このことが武士の地位を一気に高め、その後の武家社会の始まりになります。

 

マナブ:どちらが源氏、どちらが平氏だったんでしょう?

 

歴史先生:いえ、このときは源氏・平氏入り乱れて、敵味方に分かれて参加をしています。そして結果は後白河天皇の勝利。讃岐へ流された崇徳上皇は「日本国の大魔縁(大魔王)になる」と舌を噛み切った血で誓ったと、保元物語には書かれています。後の創作かもしれませんが、それだけ恨みが深かったことは事実でしょう。

 

マナブ:恐ろしい。崇徳上皇と言えば怨霊、として有名ですね。

 

歴史先生:さて、保元の乱が終わると、その勝利に貢献した源義朝と平清盛の間で主導権争いが起きます。そして、ついに両者が衝突したのが1159年の平治の乱。

 

マナブ:ここでは平清盛が勝った。

 

歴史先生:はい。源義朝は息子の頼朝を連れて東へ逃げますが、尾張で捉えられて殺されます。頼朝は平清盛の継母による助命嘆願の結果、伊豆へ流されました。このときの温情がのちに平家を滅ぼすことになるわけですが。

 

マナブ:保元の乱、平治の乱、よくわかりました。

 

歴史先生:で、源為朝ですが、彼は身長は2mを超える巨漢で、どんな強い弓でも引けて、的を外さなかったそうです。

 

マナブ:すごい。

 

歴史先生:しかし生まれつき粗暴で、父から嫌われて九州に追放されました。ところが為朝はそこで手下をたくさん集めて好き放題暴れ回り、九州を制圧したのだとか。そのころ、宇佐にもいたのでしょう。柁鼻神社にある石は、為朝が弓を立てかけた石だと伝わります。

 

マナブ:彼はその後、どうなったんですか?

 

歴史先生:そんな時、保元の乱が起きます。為朝は崇徳上皇側に味方しました。

 

マナブ:兄の義朝とは反対側についたんですね。

 

歴史先生:そして敗戦。為朝は伊豆大島に流されました。

 

マナブ:そうでしたか。無念だったでしょうね。

 

歴史先生:でも為朝のこと、それでは終わりません。なんと、流された先の伊豆大島で大暴れして、伊豆諸島を支配する一大勢力にのし上がります。

 

マナブ:すごい。

 

歴史先生:結局1170年に討伐を受け、自害したと伝わります。しかし彼は死んでいなくて、その後に八丈島へ渡ったとか、琉球国(沖縄)へ渡ったとかの伝承も残っています。

 

マナブ:義経の伝説のように、そんなヒーローは負けてもどこかで生きていてほしい。そんなロマンから出たものですかね?

 

歴史先生:おそらくそうでしょう。

 

歴史好きには垂涎の的:大分県立歴史博物館

 

 

大分県立歴史博物館 (地図 ❸)

〒872-0101 大分県宇佐市高森字京塚710

入館料310円(高校生以下、団体割引あり)

9:00~17:00(最終入館16:30)、月曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.pref.oita.jp/site/rekishihakubutsukan/


マナブ:柁鼻神社から5分ほど。大分県立歴史博物館に来ました。

 

歴史先生:ここは「宇佐 風土記の丘」の中です。この周囲には3世紀から5世紀にかけての大型の前方後円墳がいくつもあり、早い時期から大和朝廷と深い関係にあったことが伺えます。

 

博物館の展望ロビーから見た風土記の丘

 

歴史先生:では、博物館へ入りましょう。

 

マナブ:ここは昔はなかったように思います。

 

歴史先生:以前は宇佐市の歴史民俗資料館でしたが、1998年に県立の歴史博物館としてリニューアルオープンしました。ここは期待してもらっていいですよ。

 

マナブ:それは楽しみです。

 

ロビーでは熊野磨崖仏 大日如来像が迎えてくれる

 

マナブ:中へ入るとすぐ正面にドーンとあるのは、熊野磨崖仏ですね?

 

歴史先生:そうです。大日如来像の実物大レプリカです。

 

マナブ:これはインパクトありますね。

 

歴史先生:時間が来るとプロジェクションマッピングで熊野磨崖仏の説明が行われますので、あとで見ていきましょう。

 

熊野磨崖仏の曼荼羅

 

歴史先生:手前にあるのは、大日如来像の頭上に彫られている曼荼羅のレプリカです。こうすると近くで見ることができますね。左からそれぞれ金蔵界、理趣教、胎蔵界曼荼羅を梵字で表したもの。平安から鎌倉にかけての修験道の研究をするには貴重なものです。

 

マナブ:展示室は右へと続いています。お、正面に見えてきたのは、今度は富貴寺?

 

富貴寺 大堂のプロジェクションマッピング

 

歴史先生:ちょうどプロジェクションマッピングが始まったところですね。見ていきましょう。

 

富貴寺 大堂の実物大レプリカ

 

マナブ:プロジェクションマッピングが終わりました。これは富貴寺の大堂ですね。

 

歴史先生:はい。実物大のレプリカです。先日、国東へ行ったときは雨だったので、外から見るだけでしたね。今日は中をじっくり見ましょう。

 

 

富貴寺 大堂の内部

 

マナブ:おー、中はこうなっていたんですか。これはすごい。

 

歴史先生:阿弥陀堂というのは、極楽浄土の絵が内部に書かれていて、中央に阿弥陀様がいます。ここに来ることで、生きたまま極楽浄土を体験することができる。そんな施設でした。

 

 

見事な壁画を観賞しよう

 

マナブ:どうしても阿弥陀如来像ばかりをみてしまいますが、壁画にも注目、ですね。

 

歴史先生:はい。柱の絵、天井近くの壁の絵など、隅々まで鑑賞してください。

 

マナブ:本物はもうほとんど判別できないくらいに壁画が薄くなっている、と聞きましたが、できた当時はこんな極彩色だったんですね。

 

歴史先生:昔はテレビもスマホもなく、町には看板もない。人々の来ている服も茶色っぽい。色彩と言えば土と草木と空。そんな世界の中で、こういった極彩色の壁画は人々を驚かせ、信仰をさらに厚くさせたことでしょう。

 

虚空蔵寺 三重塔

 

歴史先生:こちらは現在の宇佐インターチェンジのすぐそばにあった虚空蔵寺の三重塔の模型。近年の発掘調査で三重塔の概要がわかってきました。

 

マナブ:「あった」ということは今はない?

 

歴史先生:はい。奈良時代に創建されたお寺で、弥勒寺よりももっと古いと考えられています。しかもその伽藍は法隆寺と同じ。

 

マナブ:へぇー、宇佐神宮の隣にあった弥勒寺は薬師寺と同様で、こんどは法隆寺と同様?

 

歴史先生:それだけ宇佐という土地は奈良時代に栄えていたということがわかります。


マナブ:奈良時代の宇佐には薬師寺も法隆寺もあった、と思うと、すごいですね。

 

天福寺の塑像

 

歴史先生:こちらは宇佐市の南の山中にある天福寺の奥宮とされる岩屋にあった塑像。奈良時代の作と思われます。

 

マナブ:塑像?

 

歴史先生:木で作った芯に石膏や粘土を盛りつけて形を作っていく像のことです。

 

マナブ:たしかに、中の芯になる木が見えています。

 

歴史先生:中央が何らかの座像で、左右に仏像を従えているようなのですが、特に中央の像は欠損がはげしく、元の姿はよくわかっていません。しかし残った部分だけでも、奈良時代の塑像の特徴がよくわかる、貴重な文化財です。

 

宇佐神宮・弥勒寺の境内模型

 

歴史先生:さて、こちらは宇佐神宮(左)と弥勒寺(右)の境内模型。

 

マナブ:さきほど歩きましたので、とてもよくわかります。弥勒寺、やはりすごく立派ですね。宇佐神宮も上宮の様子とか、頓宮などもよくわかります。

 

 

宇佐神宮 本殿模型

 

歴史先生:さて、上宮ではよく見えなかった国宝の本殿ですが、ここではじっくり見られますよ。これは本物の1/10の模型。細部まで精巧に作られています。

 

マナブ:あ、これはすばらしい。いろんな角度から、近づいてみることができます。

 

歴史先生:一之御殿から三之御殿まで、同じ建物を前後につなげてつくった八幡造り。その構造が良くわかりますね。

 

国宝 孔雀文磬(くじゃくもんけい)のレプリカ

 

歴史先生:こちらは弥勒寺に伝わる国宝「孔雀文磬(くじゃくもんけい)」のレプリカ。

 

マナブ:これは何をするもの?

 

歴史先生:中国から伝わった仏具で、儀式の節目で「カーン」という音を鳴らす打楽器です。鎌倉時代の初めの1209年に石清水八幡宮から弥勒寺へ奉納されたものです。

 

臼杵石仏(レプリカ)

 

歴史先生:こちらは臼杵石仏のレプリカ。

 

マナブ:一番有名な像とは少し違っているように思いますが。

 

歴史先生:一番有名なのは古園石仏ですが、これは「ホキ第2群第1龕」のレプリカです。

 

マナブ:こちらも間近で見れて迫力があります。ここまでざっと見てきましたが、パネルに頼るというよりも実物大のレプリカを作って、来場者に直接感じてもらうことをメインにした博物館のように思います。

 

歴史先生:そういった意味で歴史に詳しい人はここは感動の連続。そして歴史にあまり詳しくない人も十分に楽しめる博物館と言えそうですね。

 

マナブ:ここはすごい。宇佐に行くなら必須の場所でしょう。

 

歴史先生:ということで、ここまで宇佐をみてきましたが、いかがでしたか?

 

マナブ:子供のころに行った宇佐神宮。その正体は一体何なのか、今回きちんと理解しながら歩けてよかったです。弥勒寺のことは今まで知らなかったので驚きでしたし、神武天皇、和気清麻呂などの伝承も聞けました。それからあまり観光客が行かない柁鼻神社にも行けたり、最後は県立歴史博物館。これは素晴らしかったですね。

 

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