一生に一度は訪れたい日本一の石仏群、国宝 臼杵石仏
臼杵石仏の謎:ここには奥州平泉の毛越寺のような大規模浄土庭園があった?
ユーモラスな仁王像があるかつての巨大寺院:満月寺
大友宗麟の城は大分ではなく臼杵にあった:臼杵城
古い町並みが残る臼杵の城下町を歩こう
一生に一度は訪れたい日本一の石仏群、国宝 臼杵石仏



臼杵石仏前の無料駐車場
臼杵石仏(地図 ❶)
〒875-0064 大分県臼杵市深田804−1
入場料550円(中学生以下、団体、障がい者割引あり)
9:00~17:00(最終入場16:30)、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
マナブ:大分市内から高速道路を経由して20~30分程度、臼杵石仏にやってきました。
歴史先生:ここは来たことがありますよね?
マナブ:小学生のころ、家族で来ました。でも、それ以降来ていないかも。
歴史先生:では割と新鮮な気分で見ていただけそうですね。ここはホントにすごい。期待してください。

入口にある案内図
マナブ:今、平日の朝9時ちょうどです。私たちが一番乗りですね。他には誰もいません。
歴史先生:観光バスも立ち寄るスポットですから、昼間は結構人がいたりします。朝はこの空間を独占できますからお薦めです。
マナブ:たしか数か所に分かれていましたよね。
歴史先生:はい、4か所に分かれています。1995年(平成7年)に59体が石仏としては日本で初めて国宝に指定され、2017年(平成29年)に2体が追加指定されました。全体で61体の国宝の磨崖仏が並びます。また、臼杵石仏は国の特別史跡でもあります。
マナブ:いつごろできたものでしょう?
歴史先生:はっきりした年 代はわからないのですが、平安時代後期から鎌倉時代に彫られたものと考えられています。
マナブ:誰が、何のために?
歴史先生:そこなんですが、これだけの大規模遺跡でありながら史料が全くなく、そのあたりが謎なんです。その時代は浄土思想が広まっていましたから、ここに浄土を現出させた場所であったのかもしれません。
マナブ:謎、ですね。
歴史先生:臼杵石仏を誰が造ったのかについては伝承があるのですが、その話はまた後ほど。

よく整備された遊歩道を進んで石仏群を回ろう

歴史先生:道を歩き始めてすぐ、右側に「ホキ石仏第二群」(案内図 ❶)があります。
マナブ:「第二」のほうが先なんですね。「ホキ」というのは?
歴史先生:「ホキ」というのは「崖(がけ)」という意味です。

ホキ石仏第二群
マナブ:おぉ、すごいですね。
歴史先生:手前側は第2龕(がん)、「九品の弥陀」と呼ばれる9体の阿弥陀仏が並びます。
マナブ:「龕(がん)」という字はあまり見かけませんが・・・。
歴史先生:この字は仏像などを納める窪みのこと、またはそれを納める厨子のこと、を指します。

ホキ石仏第二群 阿弥陀三尊像
歴史先生:奥にあるのが第一龕、ここには阿弥陀三尊像があります。
マナブ:こちらは大きいですね。
歴史先生:宇佐にある大分県立歴史博物館にレプリカがありました。
マナブ:あ、これでしたか。
歴史先生:3体ともお顔がきれいに残っていて、ふくよかで豊かな表情をされています。
マナブ:こんなにきれいに彫れるのもすごいし、それが残っているのもすごい。
歴史先生:このあたりは阿蘇山の火砕流で埋め尽くされた溶結凝灰岩の地帯。細工のしやすい地層があったこそ、このような石仏が彫られたんです。
マナブ :そうでしたか。臼杵石仏は阿蘇山の噴火の賜物なんですね。

ホキ石仏第二群


ホキ石仏第二群から第一群へ続く石段
歴史先生:次の「ホキ石仏第一群(堂ヶ迫石仏)」(案内図 ❷)へは階段を登って行きます。
マナブ:行きましょう。

ホキ石仏第一群(手前が第一龕、奥が第二龕)
マナブ:わぁ、ここは長いですね。
歴史先生:第一龕から第四龕まであり、20体以上が並びます。手前の2つにはそれぞれ3体ずつの如来像。阿弥陀如来、薬師如来、釈迦如来などです。

第二龕
歴史先生:写真の左側、第二龕の如来3体の左には小さな愛染明王が彫られています。わかりますか?
マナブ:あ、ほんとだ。

第二龕
歴史先生:第二龕の如来像も豊かな表情そのままにきれいに残されています。
マナブ:衣の模様とか、一部彩色も残っていますね。
歴史先生:そうなんです。今では色が落ちて石の色が出ていますが、完成当時はあざやかな彩色がされていたようです。

第三龕
歴史先生:つづいて第三龕。大日如来を中心に両側に如来像、外側に菩薩像が彫られています。

第四龕
歴史先生:第四龕は地蔵菩薩の周囲に十王像が配置されています。これは特に彩色が見事に残っています。
マナブ:すばらしい。細工も細かいですね。

歴史先生:では谷の奥をぐるっと回って山王山石仏(案内図 ❸)へ行きましょう。

山王山石仏
マナブ:こちらは長さがあまりありませんね。
歴史先生:その代わり、中心になる大きな仏像が彫られています。

山王山石仏の如来坐像
歴史先生:中央の大きな石仏は釈迦如来と考えられています。右に薬師如来、左に阿弥陀如来がいます。
マナブ:大きくて立派ですね。でもちょっとかわいい。
歴史先生:他の石仏は都から来た仏師によるものと考えられますが、この山王山石仏は、それを真似て地元の人が彫ったものではないかと言われています。
マナブ:ちょっと丸っこくて童顔な感じはそのせいでしょうかね。

歴史先生:では次に、もっとも有名な古園石仏(案内図 ❹)へ行きましょう。

古園石仏へ続く道

古園石仏手前にある金剛力士像
歴史先生:古園石仏の手前、右側にあるのが金剛力士像です。この2体が国宝に追加指定されたものです。
マナブ:右側ははっきりとそのお姿が認められますが、左側はかなり欠損がはげしく、はっきりとしませんね。
歴史先生:それでも国宝に指定されました。古園石仏の入口にあたる場所で、よくお寺にある仁王門のような役割だったのかもしれません。

古園石仏
歴史先生:さぁ、ここが古園石仏です。中央に大日如来坐像があって、その左右に6体ずつの如来、菩薩像などが並びます。これ全体で金剛界曼荼羅を表しているという説もあ ります。
マナブ:何と言っても中央の大日如来。これが有名ですね。
歴史先生:日本の石仏の最高傑作、とも言われています。

古園石仏
マナブ:私が小さいころは、頭の部分だけが台座に置かれていました。いつ、体の上に戻されたんでしょう?
歴史先生:1980年(昭和55年)から始まった第二期修繕工事で元に戻されました。頭だけを置いてある状態があまりにも有名になっていたので、元に戻すかどうか大いに議論があったようですが、元々の形に戻そうということになりました。

古園石仏の大日如来坐像
歴史先生:今日は左側に足場が組んであって少し見づらいのですが、これは着生生物の除去作業をしているところ。
マナブ:というと?
歴史先生:石仏の表面にはコケなどが生えてきて、彫刻を痛めてしまうことがあります。そこで植物が乾燥している12~3月の間、足場を組んで紫外線を当て、枯れた植物を手作業で丁寧に取り除くんです。
マナブ:大変な作業ですね。でもそういった人々の苦労によって、石仏がこれからも残っていくと考えると、頭が下がる思いです。
臼杵石仏の謎:ここには奥州平泉の毛越寺のような大規模浄土庭園があった?

歴史先生:では古園石仏の前の階段を下りて、案内図の左端にある満月寺(案内図❻~⓫)へ行きましょう。
マナブ:広い公園になっていますね。案内図でみると、季節ごとにお花畑になるようです。

古園石仏と満月寺の間は公園になっている
歴史先生:この 広いお花畑のエリア、昔は一体何だったのか、想像できますか?
マナブ:ん? 何だろう?
歴史先生:ここにとても興味深い案内板が立っていますので、見てください。

案内板にあるかつての様子
マナブ:あ、これですね。どれどれ、室町時代はここは大きな池だった?
歴史先生:そうなんです。発掘調査の結果から、いろいろなことがわかってきました。かつてここには大きな池があり、対岸から見ると池の向こうの丘の斜面に石仏群が見えていたんです。

左に見えるのが古園石仏、右がホキ石仏第二群。かつてはここに大きな池があった。
マナブ:今では保護のための屋根がかかっていますが、かつては石仏が直接見えていた。
歴史先生:はい。地図では北が左になっていますので、下は西になります。大きな池を作って、その西側に阿弥陀如来を配置する庭園、これを「浄土式庭園」と言います。最初に見たホキ石仏第二群、どんな仏様だったか覚えていますか?
マナブ:あ、そうか。たしか阿弥陀三尊像と九品の弥陀(9体の阿弥陀像)、でした。
歴史先生:そうなんです。それが池の西側の阿弥陀如来、というわけです。
マナブ:すごい。ところで浄土式庭園というのは極楽浄土の世界をこの世に作る、という感じでしょうか?
歴史先生:はい。まさにそうで、平安時代末期から鎌倉時代にかけて広まりました。
マナブ:ちょうど臼杵石仏が造られた時代ですね。
歴史先生:ちょうどそのころ奥州平泉では奥州藤原氏3代が栄えていましたが源頼朝によって滅ぼされましたね。平泉で中尊寺と並んで有名なのが毛越寺(もうつうじ)。
マナブ:あ、あそこにも似たような庭園がありました。

毛越寺の浄土式庭園(平泉)
歴史先生:はい、毛越寺の浄土式庭園は国の特別史跡、特別名勝に指定されています。あの庭園をイメージすると臼杵石仏がどのようであったか、想像できるように思います。
マナブ:ほかにも有名な浄土式庭園はありますか?
歴史先生:もっとも有名なのは宇治の平等院でしょう。1052年、藤原頼通による創建ですから時代としては100年以上早いのですが、大きな池があってその西側に阿弥陀堂がある、浄土思想に沿った庭園です。
マナブ:なるほど。お花畑もいいですが、ここに池を作って、臼杵石仏の浄土式庭園が復元されたらどん なに素敵なことでしょう? 今はその姿を想像してみるしかないですね。
ユーモラスな仁王像があるかつての巨大寺院:満月寺


満月寺
歴史先生:さて、かつては大きな浄土式庭園を持っていた満月寺(案内図❻~⓫)に来ました。このお寺は臼杵石仏と同時期に開かれた天台宗のお寺でしたが、江戸時代初期に一度廃寺になり、1951年(昭和26年)に日蓮宗の藤井日達聖人によって再興されたものです。
マナブ:入口にある仁王像。長い年月を経たせいでしょうか、丸っこくなっていて、なんだかかわいらしい。
歴史先生:仁王像は本来は入口を守る、怖い存在だったんですけどね。この仁王像の鼻を削って飲むと疫病に効く、という話があって、そのため鼻が削られてしまったのだとか。
マナブ:仁王さんも災難でしたね。


ユーモラスな仁王像
歴史先生:仁王像はひざから下が土に埋もれていますので、実際にはもう少し背丈があるようです。
マナブ:これらも臼杵石仏と 同年代のものですか?
歴史先生:はい。臼杵石仏と同じく平安時代末期から鎌倉時代にかけて造られたと考えられています。この2体は国宝には指定されていませんが、別名「木原石仏」と呼ばれ、特別史跡の一部です。

蓮城法師像(左)と真名野長者夫妻像(右)
歴史先生:さて、仁王像に向かって右側の斜面にも石像があります。
マナブ:3体、見えますね。
歴史先生:左が蓮城(れんじょう)法師、右は真名野長者夫妻、と伝わります。
マナブ:えっ、真名野長者というのは、豊後大野市で聞きましたよ。たしか都から来たお姫様をめとって大金持ちになった人。
歴史先生:はい、そうなんです。真名野長者ご夫妻は、娘さんである般若姫が悲劇的な亡くなりかたをして大変悲しみました。そこで娘さんの霊を弔うために中国から蓮城法師を招いて満月寺を開山し、そこに臼杵石仏と浄土式庭園を造ったという伝承があります。
マナブ:へぇー、先ほど、臼杵石仏は誰が造ったかわからないということでしたが、真名野長者だったかもしれないんですね。
歴史先生:でもその説には1点だけ致命的な欠陥があります。わかりますか?
マナブ:何だろう?
歴史先生:真名野長者の娘さんを見初めた若者は、後の用明天皇です。
マナブ:はい。
歴史先生:用明天皇は推古天皇のお兄さんであり、聖徳太子のお父さんでもあります。
マナブ:あっ、臼杵石仏ができたのは平安時代から鎌倉時代。
歴史先生:そうなんです。実に600年くらいのズレがあるんです。
マナブ:さすがに600年のズレは大きすぎますね。
歴史先生:でもその伝承は昔からあったようです。ここにある石像群は室町時代の作。特別史跡の一部であり、日本最古の肖像石像と言われています。
マナブ:ということは少なくとも室町時代には、臼杵石仏は真名野長者が造ったと信じられていたんですね。
歴史先生:恐らくそうだと思われますが、一方でこの石像群は満月寺の僧侶だという説もあります。
マナブ:そうか。まだまだ謎が多いですね。

石造五重塔

宝篋印塔(日吉塔)(国指定重要文化財)
歴史先生:真名野長者像のすぐそばには石造五重塔があり、少し奥に行ったところには宝篋印塔があります。
マナブ:宝篋印塔は大きくて立派です。
歴史先生:いずれも鎌倉時代に作られたもので、宝篋印塔は国指定重要文化財に指定されています。高さが4.44mもあり、これは国内最大の宝篋印塔なんです。

宝篋印塔の中は中空になっている
マナブ:へぇー、そうでしたか。ところで宝篋印塔って何ですか?
歴史先生:宝篋印塔は供養のための石塔で、中が中空になっていて、そこに「宝篋印陀羅尼教」というお経が納められています。鎌倉時代中頃から盛んに作られるようになりました。
大友宗麟の城は大分ではなく臼杵にあった:臼杵城

臼杵市観光交流プラザ


マナブ:臼杵石仏から車で10分ほど。臼杵市内にやってきました。
歴史先生:観光に便利な場所に「臼杵市観光交流プラザ」があります。ここに観光客用の無料駐車場がありますので、そこに車を停めましょう。
臼杵市観光交流プラザ
〒875-0041 大分県臼杵市臼杵100−2
9:00~17:00、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.city.usuki.oita.jp/docs/2014031400058/kankoukouryuplaza.html

臼杵城
歴史先生:臼杵城は臼杵市観光交流プラザから道を隔てた目の前にあります。
マナブ:さっそく行ってみましょう。
臼杵城(地図 ❷)
〒875-0041 大分県臼杵市臼杵丹生島
入場自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
http://www.city.usuki.oita.jp/docs/2014013100402/

臼杵城へ登ってみよう
マナブ:横断歩道を渡って、臼杵城へ入ります。
歴史先生:ここは初めてですか?
マナブ:はい。臼杵にお城があるということさえ、記憶にありません。誰が造ったお城ですか?
歴史先生:なんと、そうでしたか。この臼杵城こそ、大友宗麟のお城なんです。
マナブ:えっ? どういうこと?

臼杵城内の大友宗麟像

城の南西隅にはかつて「井楼櫓(せいろうやぐら)」が建っていた
歴史先生:1561年、大友宗麟は関門海峡にある門司城をめぐって中国地方の毛利氏と激しく戦っていました。しかしその戦況が思わしくなく、大友宗麟は毛利に攻められた時に府内の館では到底守り切れないということで、堅固な城を築ける場所を探していました。
マナブ:府内は川沿いの町で、城に適する場所がなかったのかな。
歴史先生:はい。そこで白羽の矢が立ったのが、臼杵湾に浮かぶ丹生島。
マナブ:島、ですか?
歴史先生:地形図を見てく ださい。

(実線は車、点線は徒歩ルート)
マナブ:あっ、ここはかつて島だったんですね?
歴史先生:はい。地形図からは昔の島の形がはっきりとわかりますね。この周りはすべて海だったんです。大友宗麟は1562年から、この丹生島に築城を始めます。そして城の西側(地図の左側)の地区を埋め立てて、そこに城下町を造りました。
マナブ:島なので守りが堅い。しかもここには良港がある。
歴史先生:いいポイントですね。臼杵湾は天然の良港。1557年ごろから既得権益のうるさい府内を離れ、大友宗麟は臼杵に滞在して、ここでの貿易のビジネスを独占していたようです。
マナブ:大友宗麟はすっかり府内の人だと思っていたのですが、実は臼杵に縁の深い人だったんですね。

臼杵城の南側の市街地。、かつてはこのあたりはすべて海だった。
歴史先生:臼杵は貿易港としてかなり繁栄していたようです。ルイス・フロイスもここに来て、記録を残しています。
マナブ:さすがルイス・フロイス。いろんなところへ行って、いろんな人にあって、貴重な記録を書き残してくれていますね。
歴史先生:それによると、城下町の中に はキリスト教の施設が建てられていて、臼杵城内には礼拝堂もあったそうです。
マナブ:まさにキリシタンの都。お寺や神社の勢力から嫌われるのもよくわかります。
歴史先生:そうですね。さて、臼杵城が造られて20数年後の1586年には島津軍がここに攻め寄せます。「丹生島の戦い」と呼ばれていて、この時は島津軍に対して城から大砲を撃って、撃退したとか。
マナブ:たしか当時、大砲はポルトガルから入手した高度な軍事機密だったという話でしたね。
歴史先生:あまりに威力のある新兵器で、「国崩し」と呼ばれていました。1576年にポルトガル副国王から贈られるという形で、大友宗麟が戦国大名で初めて大砲を輸入できたと言われています。
マナブ:それほど大友宗麟はポルトガルから信頼されて良好な関係を持っていたということですね。

「国崩し」と呼ばれた大砲のレプリカが展示されている

大門櫓をくぐって城内へ
歴史先生:大門櫓をくぐると二の丸です。広い城内は今では公園になっています。
マナブ:地元の方がたくさん集まってゲートボールなどをされています。

二ノ丸と本丸の間の空堀
歴史先生:二の丸からさらに進んで本丸へと渡ります。その間には深い空堀があります。
マナブ:石垣になっていて、高さもありますね。

天守台
歴史先生:そして本丸には天守閣がありました。3層4階の堂々たる天守だったようです。
マナブ:復元した姿を見たいなぁ。
歴史先生:大友宗麟による歴史や、石垣や縄張りが比較的良好に保存されていることもあって、ここは続100名城になっています。

築城時に大友宗麟が城内に建てたとされる卯寅稲荷神社

本丸の先端から臼杵湾を見る
マナブ:本丸の端っこまで来ました。ここからは臼杵の港と臼杵湾が見えます。
歴史先生:かつてはここの崖の下から海でした。臼杵の港に出入りする船がよく見えたことでしょう。
マナブ:沖合に尖った島があって印象的ですね。
歴史先生:あれは「津久見島」。ほぼ完ぺきな円錐形をしています。

津久見島
マナブ:ん? 津久見といえば臼杵の隣町。でも津久見には津久見湾があって、ここは臼杵湾ですから場所が違いますね。
歴史先生:不思議ですよね。そこがとても紛らわしいんですが、元々は臼杵城から見えるこの島と月の景観が素晴らしいことから「月見島」と呼ばれていたのが変化した、という説があります。
マナブ:なるほど。
歴史先生:昔の人もこの尖った島を神聖視していたようで、琵琶湖の竹生島から弁財天を勧請して祀っていたようです。ところで、昔の人が気づいていたかわかりませんが、この島の成り立ちは特別です。
マナブ:というと?
歴史先生:日本列島が大陸から分かれて移動してきたのが2,500年から1,500万年ほど前。でも津久見島ができたのは4億年前と考えられています。
マナブ:えっ?
歴史先生:津久見島は海底火山の影響でできた緑 色チャートなどでできていて、それが海底の隆起によって海上に現れました。しかもこの石は非常に硬い。ということで、その後の浸食にも耐え、昔の姿を今に留めているという貴重なものなんです。
マナブ:ということは日本列島の成り立ちとは全く別に、この島はできたんですね。
歴史先生:そういうことになります。
古い町並みが残る臼杵の城下町を歩こう

稲葉家下屋敷(右)と八坂神社の鳥居

(実線は車、点線は徒歩ルート)
マナブ:ここからは臼杵の城下町を歩きます。
歴史先生:まずは稲葉家下屋敷の前を通りましょう。
マナブ:ここ臼杵のお殿様は稲葉さん?
歴史先生:はい。大友宗麟の子、大友義統(よしむね)は朝鮮出兵の時の失敗から秀吉の逆鱗に触れて改易されたという話をしましたね。
マナブ:はい、そうでした。
歴史先生:その後、臼杵城には秀吉の家臣で石 田三成と仲の良かった太田一吉(かずよし)が入ります。
マナブ:いやな予感。
歴史先生:はい、そのとおりで、関ケ原では西軍に加わり、敗戦。家康は臼杵城に稲葉貞通を配します。この人は西美濃三人衆の1人であった稲葉良通の子。
マナブ:西美濃三人衆というのは、たしか斉藤道三に仕えていたけど、その子(斉藤義龍)とうまくいかなくて、秀吉の調略で信長に寝返った勢力。
歴史先生:そうです、そうです。それによって信長は美濃を征服し、天下布武への第一歩となりました。
マナブ:その稲葉さんでしたか。
歴史先生:その後、明治維新まで臼杵は稲葉家が治めます。この下屋敷というのは、1902年(明治35年)に、旧藩主である稲葉家が臼杵に滞在する時のために建てられたものです。

古い街並みが続く

フンドーキン醤油
マナブ:古い街並みを抜けて、川沿いに出ました。目の前にドーンと大きなフンドーキンの工場があります。臼杵と言えばフンドーキン、です。
歴史先生:フンドーキン醤油の創業は幕末の1861 年。小手川金次郎という人が、お兄さんが経営していた酒造りの工場では1年に1度しか「麹むろ」を使わないため、空いた期間を利用して醤油を作ったのが始まりでした。
マナブ:なるほど。うまいことを考えましたね。
歴史先生:その後、明治になって小手川金次郎は中州に醤油専用の自分の工場を建てました。臼杵という当時繁栄していた商業都市にあって、水運に恵まれた中州をうまく利用したわけです。
マナブ:昔からここに工場があったんですね。
歴史先生:はい。昭和に入ると日中戦争では軍からの発注もあって、事業を伸ばしました。しかし太平洋戦争後、大豆が配給制になり醤油造りが困難に。その後も台風や火災などの被害を受けて苦しい時期が続きましたが、その後の技術開発や営業努力によって今日の地位を築きました。
マナブ:今では東京のスーパーなどでもよく見かけますね。ところで「フンドーキン」という、変わったブランド名がインパクトがあるのですが。
歴史先生:「フンドー」というのは「分銅(ふんどう)」。
マナブ:あ、それは秤(はかり)の精度を調整するときに使う、重さの決まった標準の「おもり」のことですよね?
歴史先生:そうです、そうです。すなわち醤油造りの確かさ、正直さを表すものとしてここから名前を取りました。
マナブ:「キン」は?
歴史先生:小手川金次郎の「きん」。
マナブ:あ、なるほど。それで「フンドーキン」になったんですね。よくわかりました。

(実線は車、点線は徒歩ルート)

小手川酒造(左)
歴史先生:小手川金次郎のお兄さん、小手川常次郎が1855年に創業した酒造りの蔵は、今でも小手川酒造として残っています。
マナブ:ここですか。立派な蔵ですね。
歴史先生:当時のなまこ壁がよく残っていて、国の有形文化財に指定されています。ここでは現在でも手作りで麦焼酎などを作っているんですよ。試飲付きで蔵の見学もさせてくれるようなので、興味のある方はぜひ立ち寄ってみてください。

野上弥生子文学記念館
歴史先生:野上弥生子(のがみ やえこ)という作家をご存じですか?
マナブ:名前は聞いたことがあります。
歴史先生:小手川酒造さんのお隣、こちらの古い家が野上弥生子の生家です。1885年(明治18年)の生まれで1985年(昭和60年)に99歳で亡くなりました。代表作に「海神丸」「迷路」「秀吉と利休」などがあります。
マナブ:ここは記念館になっているようですね。
歴史先生:はい。野上弥生子の作品や生涯についての展示がされています。

久家の大蔵
マナブ:野上弥生子文学記念館の前の細い路地を通ります。この右側には青いタイルの壁画のようなものが続いています。
歴史先生:ここは「久家(くげ)の大蔵」と呼ばれる細長い蔵。久家本店という江戸時代創業の造り酒屋が、明治維新があった1868年に建てた蔵です。
マナブ:この壁画は?
歴史先生:これは比較的新しいもので、2000年(平成12年)にポルトガルの伝統的なタイル絵の作家、ロジェリオ・リベイロ氏によって飾られたものです。昔の臼杵の繁栄が描かれています。2000年当時、老朽化で取り壊しの話もあったようですが、タイル絵を貼って文化交流施設として残されることになりました。
マナブ:よかった。臼杵の街並みを守るためにも、古いものはできるだけ残してほしいですね。でもそのための苦労や費用など、実際には大変なことだと思います。感謝しなければいけませんね。観光客としてはできるだけ地元にお金を落としていきたいですね。

(実線は車、点線は徒歩ルート)


大橋寺
マナブ:再び川沿いを歩いて、大橋寺というところに来ました。
歴史先生:ここは西方寺という名前で1548年に開山した古刹で、江戸時代初期の1628年に臼杵藩第3代藩主の稲葉一通によってこの川沿いの島が与えられ、移転しました。参拝者のための大きな橋がかかっていたことから「大橋寺」と呼ばれるようになり、いつしかそれが正式な名前となりました。
マナブ:坂を上ると下をくぐる観音堂と中門に分かれていて、複雑な配置をしています。
歴史先生:大 友宗麟夫妻や歴代の稲葉家藩主の位牌を安置している、臼杵を代表するお寺です。本尊は阿弥陀如来像で、何とこれは白鳳時代のものだとか。
マナブ:それだけ重要なお寺なんですね。でも臼杵にはキリスト教の施設が多かった、という話でした。お寺としてはどういう立場だったのでしょう?
歴史先生:キリスト教が保護されていた大友宗麟の時代には難しい立場であったことは間違いないと思います。しかしその後禁教令が出されると、臼杵城下にたくさんいた潜伏キリシタンを助けるため、その人たちすべてが大橋寺の檀信徒であると報告して彼らを救った、という逸話が残っています。
マナブ:いいお話ですね。少しホッとしました。

龍原寺
歴史先生:次は大橋寺の目の前にある龍原寺。
マナブ:ここも古いお寺なんですか?
歴史先生:はい。1600年に創建されました。
マナブ:立派な三重塔があります。これは写真などで見た記憶がありますよ。

龍原寺 三重塔
歴史先生:はい。臼杵のシンボルとなっている三重塔。これも創建当時から残っています。臼杵の大工たちが設計して施工したもので、臼杵の人たちだけで当時これだけ素晴らしいものができた、というのは職人たちの技術力の高さを示すものです。
マナブ:臼杵というのは当時は先進的な都市だったことが伺えますね。

(実線は車、点線は徒歩ルート)


二王座歴史の道
歴史先生:ここから「二王座歴史の道」を通りましょう。
マナブ:少し坂を上って、そこから下りるようになっている、古い趣のある細い道です。
歴史先生:石垣、大きな寺院、白壁の蔵など、臼杵の中でも最も城下町らしい道です。
マナブ:絵になる場所が続いていますね。

古い蔵や商店を生かした再開発が進む
歴史先生:臼杵では古い建物を生かした再開発が始まっています。
マナブ:古い街並みがこんなに残っているとは思いませんでした。臼杵って、素敵な街ですね。大友宗麟と臼杵の歴史についても、私のような元大分県民でさえ、知りませんでした。石仏だけじゃないんですね。もっと臼杵は全国的に知られていいし、観光客にもたくさん来てほしい。そう強く感じました。

