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関ケ原_1.jpg
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
桃太郎の話のモデルになった史実とは?
 
吉備の国とはいったい何だったのか?
 
「吉備の中山」は古代の神聖な場所だった?

吉備津神社にある全国でここだけの「吉備津造」国宝本殿・拝殿
 
「温羅」は果たして鬼だったのか? 今も続く不思議な「釜」の儀式
 
ウルトラマンAにも登場した「鼻グリ塚」がある福田海本部
 
「吉備津彦神社」:なぜもう1つ同じような神社があるの?

 

桃太郎の話のモデルになった史実とは?


岡山桃太郎空港にて



マナブ:今日は羽田から飛行機で岡山に来ています。


歴史先生:ここの空港の名称、ご存じですか?


マナブ:岡山空港?


歴史先生:いえ、「岡山桃太郎空港」です。


マナブ:そうなんだ。最近、そんな空港名が増えましたね。


歴史先生:ということで、岡山と言えば桃太郎。お話はもちろんご存じですよね?


マナブ:はい、もちろん。


歴史先生:ではそのお話の元になった歴史上の出来事はご存じですか?


マナブ:ん? そういえばどこかで聞いたような。


歴史先生:第10代天皇の崇神(すじん)天皇の時代。


マナブ:それはかなり古そう。


歴史先生:在位期間は紀元前97年から紀元前30年。 かれは大和の都から4方向へ向けて「四道将軍(しどうしょうぐん)」を派遣しました。


マナブ:あ、たしか会津若松でそれを聞きました。


歴史先生:そうです、そうです。4つの方向は(1)「北陸道」、これは今の福井県から石川県、富山県、新潟県、そして東北へというルート。(2)「東海道」、これは愛知県、静岡県、そして関東から東北へというルート。(3)「山陽道」、これは兵庫県南部、岡山県、広島県。(4)「丹波道」、これは兵庫県北部から山陰へ。


マナブ:北陸道を進んだ将軍と、東海道を進んだ将軍が出会ったのが会津。そして山陽道を進んだ将軍が桃太郎のモデルになった・・・・


歴史先生:吉備津彦命(きびつひこのみこと)。


岡山桃太郎空港にある桃太郎の像


マナブ:吉備津彦命は何をしたんでしょう?


歴史先生:彼はここ吉備の治めていた鬼である温羅(うら)を討伐しました。鬼ノ城を拠点として村々を荒し回って非道を重ねていた鬼たちを退治して、吉備の国に平和をもたらしたのだとか。吉備津彦命はそれまで彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと)と呼ばれていましたが、吉備を平定したのち、吉備津彦命と名乗るようになりました。


マナブ:ふむふむ。


歴史先生:その際に活躍したのが3人の家来、犬飼健命(いぬかいたけるのみこと)・樂々森彦命(ささもりひこのみこと)・留玉臣命(とめたまおみのみこと)。


マナブ:犬飼??


歴史先生:そう。犬、猿、キジのモデルになった人たちです。そして1932年(昭和7年)の五・一五事件で暗殺された犬養毅首相は犬飼健命の末裔だとされています。


マナブ:すごい。


鬼ノ城


マナブ:でも、退治されたのはほんとに鬼だったんでしょうか?


歴史先生:そこなんです。実際、温羅は渡来人で、製鉄技術をこの地にもたらして繁栄していました。村人から信頼されていたリーダーでしたが、その技術を欲しがった中央の大和政権から派遣された軍が侵略して残酷に殺して領地ごと奪い取ったということなのかもしれません。


マナブ:そして歴史を書き換えるために桃太郎の鬼退治の物語を残した。


歴史先生:その可能性は大きそうです。


吉備の国とはいったい何だったのか?

 

造山古墳

 

マナブ:そもそも吉備の国というのはどういうところだったんでしょう?

 

歴史先生:古代の四大王権の1つに数えられます。4つというのは大和、北部九州、出雲、そしてここ吉備です。

 

マナブ:いずれも古代の先進地域。その1つになっているんですね。

 

歴史先生:はい。古くから製塩が行われていたほか、弥生時代(または古墳時代)からこの地域では製鉄が行われ、それがこの地域の繁栄を支えました。また、北部九州と大和(難波)を結ぶ海路の中間点ということもあり、貿易の中継基地としても栄えたようです。

 

マナブ:今でも広い平野がありますから、筑紫平野と同様、お米がたくさん採れたんでしょうね。

 

歴史先生:それ、いいポイントです。次の地図を見てください。

 

 

 

マナブ:ん? これは?

 

歴史先生:青い太線は古代の海岸線を示しています。何が言えますか?

 

マナブ:今は平野になっているところが、ほとんど海?

 

歴史先生:そうなんです。児島半島(当時は島だった)と本土の間に内海があって、「吉備の穴海」と呼ばれていました。良港には恵まれていましたが、平野は内陸部の、現在の総社市あたりにしかありません。

 

マナブ:ということはお米はあんまり取れない?

 

歴史先生:そうですね。むしろ製鉄や貿易で栄えた地域と言えます。現在の平野の多くはその後の干拓で人工的に作られたものなんです。

 

造山古墳は全国第4位、立ち入りが可能な古墳の中では日本最大

 

歴史先生:さて、吉備津彦命の子孫が治めていたであろう吉備の国ですが、古墳時代の繁栄を象徴するように、ここには巨大な前方後円墳があります。その中で最大なのは造山(つくりやま)古墳。全長360m、と全国第4位。その近くにある作山(つくりやま)古墳は282mで全国第10位。

 

マナブ:トップ3は?

 

歴史先生:第1位の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)が486m、第2位の応神天皇陵が420m、第3位の李中天皇陵が365m。いずれも大阪平野にあります。

 

マナブ:できたのは同じころ?

 

歴史先生:はい、いずれも5世紀の巨大古墳がたくさん造営された時代。そのころ、大和(難波)の王権に次ぐような強大な勢力が吉備にあったことを物語っています。これら4つの古墳の中では造山古墳がわずかに早い築造がされた可能性があり、その場合、完成当時日本最大だった、と言えるでしょう。

 

マナブ:トップ3はいずれも天皇陵ですから立ち入り禁止ですよね。でもここは立ち入りができる?

 

歴史先生:はい、天皇陵とは考えられておらず、吉備を治めていた地方の有力者という位置づけなので、立ち入りが可能です。

 

マナブ:誰のお墓なんでしょう?

 

歴史先生:立ち入りは可能ですが、発掘調査は近年始まったばかりで、まだ全容がよくわかっていません。今後の研究の成果が待たれます。

 

マナブ:その後、吉備はどうなったんでしょう?

 

歴史先生:日本書紀では463年の雄略天皇の時代に「吉備の反乱」が起きたと記されています。吉備上道 田狭(きびのかみつみち の たさ)が絶世の美女と言われる妻の自慢をしているとその話が雄略天皇の耳に入り、吉備上道田狭は朝鮮半島へ出征させられ、そのすきに妻を天皇に取られてしまいました。

 

マナブ:ひどい話。

 

歴史先生:怒った吉備上道田狭は新羅と同盟を結び、反乱を起こします。しかし大和王権によって鎮圧され、吉備国は徐々に大和王権の中に取り込まれていくのでした。そしていつの間にか歴史の表舞台から消えていきます。

 

マナブ:そうやって大和王権が全国を統一していくわけですね。

 

歴史先生:その通りです。

 

「吉備の中山」は古代の神聖な場所だった?

 

 

歴史先生:岡山市の西に、吉備中山と言われる山があります。ここは古代よりとても特別な場所と考えられてきました。

 

マナブ:どう特別なんでしょう?

 

歴史先生:もう一度、昔の地形図を見てみましょう。

 

 

マナブ:中山は今でこそ内陸にありますが、古代には海岸沿いだったんですね。

 

歴史先生:はい、ここが吉備の国の入口。

 

マナブ:何があるんですか?

 

歴史先生:吉備中山の山頂近くには、中山茶臼山古墳があります。これは吉備津彦命の陵墓とされていて、宮内庁が管理する立ち入り禁止の古墳です。吉備津彦命はここ中山に茅葺きの宮殿を建てて住んでいたんだそうです。

 

マナブ:そうなんですね。

 

歴史先生:吉備中山の山中を歩くと、いたるところに大きな岩がころがっています。中には鏡岩と言われるまっ平で垂直に立っている岩もあり、それらの多くが古代からの信仰の対象となっていた磐座(いわくら)だと考えられています。

 

マナブ:ずっと昔からすごい場所なんだ。

 

 

マナブ:地図を見ると、黒住教本部、というのも近くにありますね。

 

歴史先生:はい。黒住(くろずみ)教は天理教、金光(こんこう)教と並ぶ、幕末三大新宗教の1つ。

 

マナブ:あ、それらはどれも有名ですが、幕末にできたんですか?

 

歴史先生:はい。黒住教は1814年、岡山市の神社の神官を務めていた黒住宗忠という人が開いた神道系の宗教です。

 

マナブ:やはりこの山が特別な場所だということで本部として選んだのでしょうね。

 

歴史先生:はい、そうだと思います。あとで立ち寄る福田海(ふくでんかい)という仏教系の新宗教も山の北側に本部を置きました。

 

吉備津神社にある全国でここだけの「吉備津造」国宝本殿・拝殿

 

境内の入口にある土産店「桃太郎」

 

マナブ:吉備中山の西側にある吉備津神社に来ました。入口に大きな駐車場があります。

 

吉備津神社(地図 ❶)

〒701-1341 岡山県岡山市北区吉備津931

5:00~18:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://kibitujinja.com/ 

 

境内の案内図

 

歴史先生:境内案内図がありますので見ていきましょう。

 

マナブ:えーっと、ここから石段を登ると、本殿があります。そこから右へ長い廊下のようなものがつながっていますね。

 

矢置石

 

マナブ:石段を登る手前に何やら大きな石があります。

 

歴史先生:これは「矢置石」。鬼ノ城を拠点とする温羅に対して、吉備津彦命(きびつひこのみこと)はここ中山に陣取り、対決をしました。その時に吉備津彦命が矢を置いたのがこの石、とされています。

 

提灯の並ぶ石段を登ると北随神門(国指定重要文化財)がある

 

右が拝殿、左が本殿。いずれも国宝。

 

マナブ:石段を登って門をくぐり、拝殿の横から広場へ出ました。ここから拝殿、そして本殿がよく見えます。

 

歴史先生:これらはいずれも国宝。

 

マナブ:すごい。しかもとても大きい。これらはいつごろの建物なんですか?

 

歴史先生:室町時代、足利義満が再建したと言われています。

 

マナブ:神社自体はもっと前からあったんでしょうか?

 

歴史先生:創建年ははっきりしませんが、吉備津彦命の5代あとの子孫が、吉備津彦命の宮の跡に建てたものです。仁徳天皇(在位397年~427年)が建てたという説もあります。

 

マナブ:いずれにしても、相当に古い。

 

現在の社殿は足利義満が再建したもの

 

全国でここだけ、吉備津造の本殿

 

マナブ:本殿は屋根が2つ続いている感じ。

 

歴史先生:これは「吉備津造」という形式で、全国でもここが唯一の例。神の御座所と、礼拝のためのお堂の2つを前後につなげた形になっています。現存する本殿の前にあった、鎌倉時代の本殿もその形式だったようです。

 

マナブ:屋根には刀のような木がついていますね。神社でよく見るような。

 

歴史先生:あれは千木(ちぎ)、鰹木(かつおぎ)といいます。刀のようにX字に突き出ているのが千木。屋根のてっぺんに横たわっている短くて丸い木材が鰹木。これらは江戸時代になってから付け足されたものです。吉備津造について詳しくは次の図をみてください。

 

 

「温羅」は果たして鬼だったのか? 今も続く不思議な「釜」の儀式

 

境内の案内図

 

廻廊

 

マナブ:本殿の所から長い廻廊が続いています。

 

歴史先生:これは1579年に再建されたもの。長さはなんと360mもあります。

 

マナブ:緩やかな坂を下りていく形、そして向こうに見える尖った山。美しい構図ですね。

 

御竈殿(国指定重要文化財)

 

歴史先生:さて、廻廊の途中を右に曲がると、「御竈殿」(国指定重要文化財)があります。これは1612年再建されたものですが、非常に重要な役割を持った場所です。

 

マナブ:というと?

 

歴史先生:ここには吉備津彦命によって討伐された温羅の首が埋葬されているんです。

 

マナブ:少し不気味な感じがしますが。

 

歴史先生:吉備津彦命との戦いに敗れた温羅は首を刎ねられました。その首は晒し首にされたのですが、なぜか生気があり、大きな唸り声を上げ続けます。吉備津彦命は犬にそれを食わせますが、骨になっても大きな唸り声が収まりません。

 

マナブ:怖い。

 

歴史先生:そして今後は土中深くに埋めましたが、それでも唸り声が聞こえます。そんなある晩、吉備津彦命の夢に温羅が現れて「阿曽郷にいる娘である阿曽媛に神饌(=神様にお供えする食事)を炊かせれば、その音で温羅自身が吉凶を告げよう」と伝えます。言われたとおりにしてみると唸り声は収まり、逆にその釜の音で吉凶が占えるようになりました。

 

マナブ:温羅は怨霊になるのではなく、亡くなってからも土地の人々のために役に立つことを選んだんじゃないでしょうか。実はすばらしい、かけがえのないリーダーだったのかも。

 

歴史先生:そうかもしれません。この儀式は「鳴釜神事」と呼ばれ、現在でも続けられています。金曜日を除く毎日、参加の受付をおこなっていますので、一度体験されるとよいでしょう。

 

鳴釜神事

https://kibitujinja.com/prayer/narukama.php 

 

ウルトラマンAにも登場した「鼻グリ塚」がある福田海本部

 

福田海本部

 

 

福田海本部(地図 ❷)

〒701-1341 岡山県岡山市北区吉備津795

境内自由(鼻グリ塚入場料100円)


マナブ:吉備津神社から山沿いに細い道を車で進むと、右手に「福田海(ふくでんかい)本部」というお寺のような施設があります。ここは何でしょう?


歴史先生:元々はお寺だったところですが、現在は福田海の本部になっています。


マナブ:福田海って?


歴史先生:幕末から昭和にかけて生きた中山通幽(つうゆう)という人が開いた新宗教。神道、儒教、仏教からエッセンスを取り込んで、さらに老荘思想も取り込んでいる宗教で、隠徳積善、すなわち人知れず善い行いを積むことを教えとしています。信徒の人たちは各地で奉仕活動をしています。


マナブ:ここには何があるのでしょう?


歴史先生:ここで有名なのは「鼻グリ塚」。


マナブ:それは何ですか?


歴史先生:牛などが鼻にしている輪っか、あれを「鼻グリ」というのですが、肉として処理された牛などの動物の鼻グリをたくさん集めて、その供養をおこなう場所になっています。


境内には吉備中山を背景にした古代からの磐座がある


鼻グリ塚


マナブ:あ、これが鼻グリ塚。


歴史先生:はい。


マナブ:ものすごい数が積まれていますね。


歴史先生:700万個以上もあるそうです。


マナブ:気が遠くなるような数ですが、実際にはこの何倍もの牛や豚などが人間に食べられるために犠牲になっている。そういうことをあらためて思い出させてくれますね。


積み上げられている鼻グリの数は実に700万個以上とも言われる


歴史先生:他では見られない特殊な場所ですね。ところでウルトラマンA(エース)って見てました?


マナブ:はい、大好きで、小さいころ、たぶん全部見ていました。


歴史先生:その中の第16話「夏の怪奇シリーズ 怪談・牛神男」(1972年7月21日放送)に、ここが出ていたんです。


マナブ:さすがに覚えてないなぁ。どんな話だったんでしょう?


歴史先生:俳優の蟹江敬三さん演じる若者がここを訪れ、ふざけてこの鼻グリを1つ持って帰ります。腕輪にして遊んでいると、牛の怨念によってその若者は怪獣にされてしまいました。怪獣は暴れ出し、デパートでステーキを食べている人などを襲います。


マナブ:でも最後は退治されてしまう。少し悲しいお話ですね。


歴史先生:ところで、このもう少し奥に「藤原成親の墓」があります。


マナブ:それは誰でしょう?


歴史先生:平家物語などにも出てくるのですが、平安時代末の1177年、平清盛の全盛期に平家打倒の陰謀が発覚しました。「鹿ヶ谷の陰謀」と言われます。藤原成親は平家と対峙していた後白河法皇の最側近の一人。陰謀の首謀者として捕らえられ、備前国に流罪となります。


マナブ:それがこのあたり。


歴史先生:はい、そして配流先では食事もろくに与えられず、飢餓状態に。最後は崖から突き落とされて亡くなりました。


マナブ:ひどい最期ですね。

 

「吉備津彦神社」:なぜもう1つ同じような神社があるの?


吉備津彦神社


 

吉備津彦神社(地図 ❸)

〒701-1211 岡山県岡山市北区一宮1043

6:00~18:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.kibitsuhiko.or.jp/ 

 

マナブ:さて、この度は中山の北東側にある「吉備津彦神社」に来ました。先ほど「吉備津神社」に行きましたが、なんで同じような名前の神社がもう1つあるんでしょう?

 

歴史先生:先ほど行った吉備津神社は「吉備国の一の宮」でした。しかし吉備の勢力が解体される際に「備前、備中、備後」と国が3つに分割されましたので、吉備津神社はそのまま備中の一の宮として残り、備前は吉備津彦神社、備後は現在の広島県福山市にある吉備津神社がそれぞれ一の宮になっています。

 

マナブ:いつごろの話ですか?

 

歴史先生:大化の改新のころ、と考えられます。

 

マナブ:国が3つに分けられて、一の宮も3つに分割されたんですね。

 

歴史先生:はい。よって吉備津神社その大元として、「三備一宮」と名乗っています。

 

マナブ:それにしてもここは本家の吉備津神社から近すぎませんか?

 

歴史先生:国が分割された時に中山は備前と備中の国境になりました。吉備津彦神社としてもこの中山から離れたくなかったのでしょう。そこで備前ぎりぎりの中山の北東麓に神社を作ったわけです。


拝殿


マナブ:境内はそれほど広くないのですが、それぞれの建物が立派です。


歴史先生:拝殿の奥にある本殿は、江戸時代の前期、1697年に岡山藩主の池田光政・剛政親子によって再建されたものです。三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の優雅な造りです。


マナブ:三間社流造?


歴史先生:「流造(ながれづくり)」というのは日本の神社建築で一般的な形式。正面に柱が4つある(すなわち3つ間がある)のが三間社流造で、一間社流造または三間社流造が主流。まれに「五間社流造」というのもあります。


奥に見えるのが本殿


石灯籠


マナブ:境内には大きな石灯籠がありますね。


歴史先生:高さ11mで日本最大のもの、と言われています。


マナブ:やはり。いつ頃のものですか?


歴史先生:これは「安政の大石灯籠」と呼ばれていて、幕末の1857年に建てられました。この年は日米修好通商条約が結ばれる前年。ペリー来航で不安定になった世の中において、地元の有志が天下泰平を祈って奉納したものです。


マナブ:その頃の人々はいろいろと不安だったでしょうね。


歴史先生:そうでしょうね。さて、きょうはここまで吉備中山を回ってきました。いかがでしたか?


マナブ:「桃太郎」の物語って、そういうことだったんですね。そして鬼とされている温羅(うら)。ほんとはいいリーダーだったのかもしれません。吉備の国というのが日本史の中でも重要な位置づけにあることがわかって、今日はとても勉強になりました。国宝の吉備津神社も見事でした。


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