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関ケ原_1.jpg
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
活発な火山活動でできた奇岩:湊の立神岩

圧倒的な柱状節理の「七ツ釜」。呼子から船で見に行こう。

古代の日本の玄関口:加部島

<コラム> 松浦佐用姫の悲しい恋の物語

実はとんでもない歴史を持つ古社? 謎に包まれた田島神社

<コラム>元寇(文永の役・弘安の役)

秀吉の朝鮮出兵によって突如出現した人口20万人の大都市:名護屋城

呼子・名護屋城近辺でのおすすめホテル
草原の岬に立つ公共の宿:「国民宿舎 波戸岬」


活発な火山活動でできた奇岩:湊の立神岩



マナブ:伊万里市の大川内山(おおかわちやま)から、呼子に向かってドライブしています。


歴史先生:伊万里から唐津へは高速道路ができています。唐津から呼子へはカーナビでは山の中の道を推奨されるのですが、せっかくなので海沿いの道を通りましょう。


マナブ:途中、2か所ほど、目が覚めるようなきれいなビーチがありました。


歴史先生:最初のが「幸多里ヶ浜」、2番目のが「相賀の浜」です。いずれもとてもきれいなビーチでしたね。でもこの道を通る目的がもう1つあります。「湊の立神岩」というのがそれです。


マナブ:岩、ですか。



歴史先生:そろそろ湊の集落です。「湊の立神岩」の標識のところの細い道を右に曲がって、1分ほどいくと駐車場がありますので、行ってみましょう。(地図 ❶)


湊の立神岩の説明板


マナブ:3台ほどの小さな駐車場ですが、今日は平日の昼間。先客はなく私たちだけですね。休憩できる東屋や公衆トイレも整備されています。海風が気持ちいい。


歴史先生:駐車場から湊の立神岩へは1分もかかりません。さて、見えてきましたよ。


湊の立神岩


マナブ:まずはその大きさに感動です。にょきにょきと岩が生えているみたいな形をしています。


歴史先生:高さ40m、と看板に書かれていましたね。


マナブ:看板には男岩、女岩、とありましたが、どれですか?


歴史先生:真ん中に見える赤茶色の岩。これがそうなんですが、実は裏側にもう1つ同じような岩が立っているんです。


真ん中の赤茶色の岩が男岩・女岩


マナブ:ここからは重なっていて、1つしか見えないんですね。


歴史先生:今は大きな火山がないのでピンと来ないかもしれませんが、このあたりの地形は典型的な火山地形。立神岩は玄武岩(げんぶがん)でできていて、柱状節理も発達しているんです。


マナブ:玄武岩ってよく聞くんですが、どんな岩なんですか?


歴史先生:玄武岩は地球上で広く一般的に見られる溶岩です。これらが急激に冷えると六角形の柱のようになり、これを柱状節理と呼んでいます。日本で玄武岩が見られる代表的な所として、兵庫県豊岡市にある「玄武洞」と呼ばれる洞窟があります。「玄武岩」という名前はこの玄武洞で見られる岩石、ということで付けられました。


柱状節理がみごとな兵庫県豊岡市の玄武洞


マナブ:あ、そこは城崎温泉に行ったときに、途中で立ち寄った覚えがあります。


歴史先生:ところで通常玄武岩は黒っぽいのですが、ここの立神岩はかなり赤茶色をしますね。これらはたぶん、岩の中の鉄分が酸化しているのではないかと思われます。


マナブ:なるほど。さて、湊の立神岩を後にして、呼子へ向かいます。車で10分ほどのドライブです。


圧倒的な柱状節理の「七ツ釜」。呼子から船で見に行こう。


呼子は入り江の奥の小さな港町



歴史先生:呼子に着きました。(地図 ❷)


マナブ:呼子といえば、何といってもイカ、ですね?


歴史先生:そうなんです。名物のイカは今晩の楽しみにしておいてくださいね。お土産の定番は「いかしゅうまい」でしょう。


呼子は朝市で有名。朝はにぎわう通りも昼過ぎにはご覧の通り閑散としている


名物「いかしゅうまい」の有名店の1つ:萬坊


歴史先生:今日はまずは地形を楽しみます。 遊覧船「イカ丸」に乗って「七ツ釜」を見に行きましょう!


七ツ釜遊覧船 イカ丸


マリンパル呼子(地図 ❷)「イカ丸」

〒847-0303 佐賀県唐津市呼子町呼子4185−27

大人2,000円、小人1,000円、無休

所要40分

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.marinepal-yobuko.co.jp/ikamaru.html


マナブ:イカ丸に乗船しました。船は呼子の港を出て、左手に呼子大橋を見ながら、外洋へと出ていきます。


呼子港には大きなイカの絵が描かれている


歴史先生:外洋へ出ると、波が高くなりますね。さぁ、右側にすごい柱状節理が見えていますよ。


はげしくうねっている柱状節理が見られる


マナブ:これはすごい。六角形の形もはっきりと見て取れます。


歴史先生:そしてこの岬を越えたところがいよいよ七ツ釜です。


七ツ釜


マナブ:おー。たくさん洞窟があります。7つ以上、ありそうです。そして柱状節理も見える。


歴史先生:船はその中の一番大きな洞窟に半分頭を突っ込むようにして止まります。


船は洞窟に半分突っ込んだ形で止まる。洞窟内の見事な柱状節理が観察できる。


マナブ:間近で見るとすごい迫力です。


歴史先生:ここの大地は火山地形だということを感じていただけたかと思います。


マナブ:ところで、今日はテレビ取材が入っているとのことで、この船と並行してもう1隻、イカ丸が運行されています。ということで、普段は撮れない、他の船が七ツ釜に突っ込んでいる珍しい写真も撮れました。船長さんもこの風景は年に1~2回くらいしか見たことがないんだそうです。


取材クルーを乗せたもう1隻のイカ丸


歴史先生:七ツ釜、いかがでした?


マナブ:いやー、おもしろかった。この地域で火山活動が活発に起きていたんだということが良くわかりました。


古代の日本の玄関口:加部島



マナブ:呼子から西へ坂道を登って、呼子大橋を渡ります。


歴史先生:呼子大橋を渡ると加部島(かべしま)です(地図 ❸)。眺めのいい展望台があるので行ってみましょう。



マナブ:呼子大橋を渡ります。橋の上からは絶景が左右に見えました。


歴史先生:橋を渡ったらすぐに坂道をくねくねと登り、「風の見える丘公園」というところに着きました。(地図 ❶)


マナブ:看板や駐車場も整備されていてわかりやすいです。


風の見える丘公園から見た呼子大橋


マナブ:ここからは呼子大橋がきれいに見えますね。そして呼子の港も一望できます。


風の見える丘公園から見た呼子港


歴史先生:反対側にも注目です。ここからは加部島の様子が見えるのですが、こんな小さい島なのに上がまっ平で、島の大部分は農地になっているんです。島の北端には牧場もあるんですよ。


マナブ:このあたりの島って、上が平らなのが多くないですか?


歴史先生:そうなんです。これも火山地形。このあたりの溶岩はトロトロで粘性が低く、そのため流れ出した溶岩で平らな地形ができたんだそうです。


加部島には平らな土地が多く、農地になっている


マナブ:ここに像がありますね。「松浦佐用姫」と書かれています。これは誰ですか?


歴史先生:少し長い説明が必要なので、こちらのコラムにまとめますね。


<コラム> 松浦佐用姫の悲しい恋の物語


松浦佐用姫の像


松浦佐用姫(単に佐用姫、と記されることも多い)の話をする前に、その恋人である大伴狭手彦(おおとものさてひこ)、そして大伴狭手彦の父の大伴金村(おおとものかなむら)について説明しよう。


大伴金村は古墳時代の豪族で天皇家に対する忠臣として知られる。仁賢天皇の崩御された際、同じく有力な豪族であった平群氏は大臣としてその権勢の全盛期を迎えており、平群真鳥(へぐりのまとり)は自ら大王になろうとした。大伴金村はこれに断固反対。ついには平群氏を滅ぼし(498年)、武烈天皇を即位させ、自らは天皇を支える大連の地位についた。


しかし506年に武烈天皇が崩御すると皇統が途絶えてしまい、天皇家は大変な危機を迎える。その時大伴金村は越前から継体天皇を迎えることでこのピンチを乗り越え、天皇家を救った人物として知られる。また、527年には九州で勃発した磐井の乱を鎮圧し、その権力をゆるぎないものとした。しかしその後、新興勢力として蘇我稲目が台頭し、大伴氏の力は徐々に衰退していく。


さて、大伴狭手彦は大伴金村の三男である。537年に新羅が任那に侵攻するという事件が起きた際に大伴狭手彦はその討伐の将軍に任命され、新羅に対抗すべく朝鮮半島へ大軍を率いて出征した。


松浦佐用姫は、大伴狭手彦が松浦に滞在した時に彼の世話をした長者の娘で、大伴狭手彦とはすっかり恋仲になってしまった。佐用姫は狭手彦をとても慕っており、狭手彦が朝鮮半島へ出征する際、現在の唐津市の鏡山に登って、いつまでも領巾(スカーフのようなもの)を振り続けたと言われている。


さらに佐用姫は狭手彦の船団を追いかけ、小船で加部島に渡った。そこで7日7晩泣き続け、その深い悲しみのあまり、石になってしまったという伝説がある。その石は「望夫石」と呼ばれ、現在田島神社の末社である佐用姫神社の床下に安置されている。


松浦佐用姫の願いが通じたのか、大伴狭手彦は新羅を鎮め、無事帰国する。しかし562年には大将軍として再び朝鮮半島に侵攻し、今度は高句麗を征伐した。大伴氏が中央政界での力を失いつつある中で、大伴狭手彦は朝鮮半島への武力進出に繰り返し駆り出されたのである。


松浦佐用姫の話は肥前風土記に書かれており、それにまつわる歌が万葉集にも多数集められている。この話は室町時代以降、能や浄瑠璃としても広まった。


「望夫石」は長い間雨ざらしの状態であったが、朝鮮出兵時に豊臣秀吉が田島神社に寄進し、その時に佐用姫神社の社殿が建てられた。


田島神社の本殿前にある佐用姫神社



マナブ:せつないお話ですね・・・。


歴史先生:いろんな伝承が混じっているので、どの部分までが真実なのかはつかみかねますが、それにしても朝鮮への出兵が古墳時代から行われ、それによって夫や恋人との別れを悲しむ女性がたくさんいたのは事実でしょう。


マナブ:歴史がはっきりと残っていないような時代から、このあたりからは繰り返し朝鮮へ出兵していたんですね。豊臣秀吉が初めてそんなことをしたわけではなさそうですね。


歴史先生:はい。大和政権の時代までは、その後の時代よりももっと朝鮮との付き合いが深かった、と言えるでしょう。今ではここに国境があるので行き来するには少しハードルを感じますが、その頃はまだ日本、という国の意識が希薄でしたから、むしろ日本の他の地域とよりも百済など朝鮮との交流や影響のほうが大きかったものと思われます。


マナブ:たしか魏志倭人伝では、朝鮮半島から邪馬台国への道筋が書かれていましたね。


歴史先生:お、いいことを言ってくれました。朝鮮半島を立った一行はまずは「対馬国」に着きます。そして「一支国」、これは現在の壱岐、ですね。


マナブ:ここまではわかりやすい。


歴史先生:魏志倭人伝では次は「末蘆国」(まつろこく)に上陸します。


マナブ:まつろ?


歴史先生:これは何かに似ていませんか?


マナブ:あ。松浦!


歴史先生:そうです。末蘆国は今の松浦、だと考えられています。一行はここから陸路で伊都国、これは現在の糸島半島あたりではないかと言われていますが、ここへ進んでいきます。



歴史先生:この地図を見ていただきたいのですが、大陸から九州へのルートとして、対馬、壱岐、そして現在の呼子あたりに達するルートが、当時の航海技術から考えて最も効率的で安全なルートであったと思われます。


マナブ:なるほど、確かにそうですね。ここ呼子のあたりは壱岐にとても近い。


実はとんでもない歴史を持つ古社? 謎に包まれた田島神社


田島神社の入口



歴史先生:さて、風の見える丘公園から北東へ車で3分ほど。坂を下りきったところに田島神社があります(地図 ❷)。駐車場の表示がなくてわかりづらいのですが、海沿いを回るメイン道路と風の見える丘公園から下りてきた道が交わるところの空き地に止めても良さそうです。


田島神社の入口。この写真の右手前のスペースに駐車してよいと思われる。


マナブ:海に近い神社ですね。ここから海へ出ていく航海安全の守り神?


歴史先生:はい。でもここは謎に包まれている、すごく古い歴史のある神社なんですよ。


マナブ:というと?


歴史先生:創建はいつかよくわかりませんが、恐らくは弥生時代からあったと思われる、全国的にも最も古い神社の1つです。その後、肥前の中でも高い格式の神社として崇敬され、多くの武将などから寄進を受けています。祭神は田島三神と呼ばれる田心姫尊、市杵島姫尊、湍津姫命、という3人の女神。


マナブ:ん? どこかで聞いたことがあるような。


歴史先生:一般には「宗像三女神」として知られています。


マナブ:あ、宗像大社の。


歴史先生:そうです。ここ田島神社は宗像大社のルーツ、元宮と言われています。今でも宗像大社(辺津宮)があるところの地名は「宗像市田島」なんですよ。


マナブ:へぇー。宗像大社って世界遺産ですよね。それ自体がとても古い歴史のある神社で謎が多いと思うのですが、その元々がこの田島神社なんですね。


歴史先生:古事記によると3人の女神はアマテラスがスサノオの剣を3つに砕いて口に含み、その吐く息から生まれた、とされます。


マナブ:うーん、何かの比喩なんでしょうけど、よくわからないな。アマテラスとスサノオの間にできた娘3人なのかな?


歴史先生:でもアマテラスとスサノオは姉と弟という関係ですからそれはどうかと・・・(汗)。ま、とにかく3女神は宗像大社のそれぞれ辺津宮、中津宮、奥津宮に祀られています。



歴史先生:それからのちになって稚武王(わかたけのみこと)も祭神に加えられました。


マナブ:稚武王?


歴史先生:稚武王のお父さんはヤマトタケル。お兄さんは仲哀天皇で、仲哀天皇の奥さんは神功皇后です。


マナブ:有名エリート一族だ・・・。


歴史先生:稚武王は神功皇后の三韓征伐に同行して戦果を挙げたとされ、その帰りにここ加部島にて田島神社を守るように言いつけられ、ここで暮らしたそうです。


マナブ:神功皇后、あちこちに伝承を残していますが、ここにもありましたか。


歴史先生:でも、神功皇后が戦果を挙げた義理の弟を都への帰還を許さずにこのような地方に置いて帰るというのも不思議です。それほど田島神社が重要な場所だったのか、それとも稚武王に何か失態があったのか。そのあたりはよくわかりません。


マナブ:たしかにそうですね。


歴史先生:田島神社はさらに遣隋使(600~614年)、遣唐使(630~838年)の安全を祈る場所としても重要だったようです。


源頼光が寄進した鳥居


マナブ:古い鳥居がありますね。


歴史先生:これは源頼光(みなもとのよりみつ(らいこう))が寄進したとされる鳥居です。


マナブ:源頼光って?


歴史先生:平安時代の人です。清和源氏の3代目。948年の生まれで1021年まで生きました。平安貴族の中でも公卿と呼ばれるトップレベルの人たちもいれば、軍事貴族と呼ばれる初期の武士の人たちもいました。源頼光はその軍事貴族です。貴族の中ではあまり地位が高くない人たちでした。


マナブ:平安貴族というと詩歌や恋愛にふけってる優雅な人たちのイメージですが。


歴史先生:たしかに。源頼光が生きていた時代はちょうど紫式部が源氏物語を書いたころ。源氏といえば光源氏を想像されるかもしれませんね。


マナブ:でも軍事貴族、と呼ばれる人たちがいた・・・・。


歴史先生:はい。武芸を磨く貴族もいたわけです。ところで平安時代、源氏の有名な武人といえば誰を思い出しますか?


マナブ:えーっと、源義家(八幡太郎義家)、かな?


歴史先生:そうですよね。前九年の役・後三年の役で東北を攻めた源頼義とその子の源義家(八幡太郎義家)、あたりが歴史の教科書によく出てきます。


マナブ:東北を2度にわたって攻め込んだ親子ですね。


歴史先生:その源頼義のお父さんが源頼信。 頼信のお兄さんが源頼光です。源頼光・頼信の兄弟は当時の武人の代表格であり、その後の武士の台頭の基礎を作った人物です。


マナブ:知りませんでした。


歴史先生:源頼光を有名にしたのは丹波の国の大江山において、鬼の頭領である「酒呑童子」を退治した話なんですが・・・。


マナブ:あ、それなら聞いたことがあります。


歴史先生:そのほか、源頼光は「土蜘蛛」と呼ばれた怪物を退治したという話もあります。


マナブ:本当のことなんですかね?


歴史先生:どうでしょう、実際のところ、源頼光はそれほど武勇に優れた武士、というわけではなくて、源氏の祖と言われるお父さんの源満仲から受け継いだ財産を、当時の絶対権力者、藤原道長にどんどんつぎ込んで、経済力で出世した、と言われています。


マナブ:それって賄賂、ですよね?


歴史先生:当時はこれは賄賂という意識ではなく、どれだけ忠誠を誓っているかのバロメーターであり、それによって出世するのは当然、というのが常識でした。


マナブ:当時と今ではコンプライアンスの考え方がずいぶん違うんですね。


歴史先生:一方、弟の源頼信はまさに武人。当時、東国で起こった平忠常(たいらのただつね)の乱を平定したことで、出世を果たしました。


マナブ:平将門の乱、ではなくて?


歴史先生:平将門の乱は935~940年、平忠常の乱は1028~1031年ですので、およそ90年くらい後の話です。平忠常の乱も規模が大きく、下総の国衙が焼かれて占拠されるなど、一時は大混乱になりました。2年以上、反乱は続きましたが、源頼信が新たに追討使になり、平忠常を説得したことで平忠常は降伏、血を流さずに乱は収束したんです。


マナブ:なんでそんなに簡単に降伏したんでしょう?


歴史先生:以前、源頼信が以前東国に赴任していた際にも平忠常が反乱を起こしたことがあり、その時に一度降伏させて家来にしています。その頃から2人の間には信頼関係ができていたものと考えられます。


マナブ:なるほど。


歴史先生:そして源頼信は、平忠常の2人の子の処罰を免除するよう朝廷内で働きかけ、よってその子たちは引き続き下総で生き延びました。


マナブ:で、その後は?


歴史先生:さて、それから約160年。時代は下がって源頼朝の話になります。伊豆で挙兵するも石橋山の戦いに敗れ、源頼朝は船で房総半島へ逃げます。そこで駆けつけたのは平忠常の2人の子の子孫である千葉氏と上総介。彼らが中心となって源頼朝は軍団を再編し、平家打倒を果たすのです。彼らは源頼信への恩を忘れず、その子孫である源頼朝を助けたのかもしれませんね。


マナブ:へぇー、歴史の話って、ずっと後までストーリーが続くんですね。


歴史先生:さてさて、話がそれましたが、鳥居の話に戻りましょう。源頼光が肥前守に任じられてこの地に赴任してきたときに寄進したのがこの鳥居。ただし元の鳥居は風や波で崩れてしまい、今の鳥居はその後松浦党によるものなんだそうです。


マナブ:源頼光がわざわざ寄進する、ということは、平安時代もここ田島神社は重要な場所として認識されていたんですね。


(右)田島神社の本殿、(左)佐用姫神社


本殿前の門から海が見える


歴史先生:鳥居をくぐって階段を上ったところに本殿があります。本殿前の門からは海が見下ろせます。


マナブ:ここに「力石」というのが置かれていますね。看板を見ると、これは秀吉が名護屋城にいる時に配下の武将が力比べをしたものだとか。この大きな石を頭上まで持ち上げる回数を競った、とありますね。


力石


歴史先生:階段を下りたところには「元寇の碇石」があります。元寇の際に元軍の船が碇として使った石を引き上げたものだとか。


マナブ:今度は鎌倉時代だ・・・。


歴史先生:この地は神功皇后や秀吉らが朝鮮半島に攻め入った歴史の舞台ですが、逆に朝鮮半島から元軍、そしてその手先になった高麗軍が逆に攻めてきた場所でもあるんです。まさに大陸との玄関ですね。


マナブ:弥生時代の創建に始まって、たくさんの歴史が重なって目が回りそうです。


<コラム>元寇(文永の役・弘安の役)


元寇の碇石


アジア大陸からヨーロッパにかけて世界帝国を築いたモンゴルは中国の宋(南宋)を倒して元を建国、さらに朝鮮半島の高麗を傘下に収め、次のターゲットを日本に定めた。モンゴルの皇帝であるクビライは再三日本へ使者を送り降伏を迫ったが、執権北条時宗をリーダーとする鎌倉幕府はこれを拒否し続けた。


そして1274年(文永8年)、第1回目の遠征として「文永の役」が勃発。10月5日に対馬に侵攻。続いて10月14日には壱岐に侵攻し、抵抗する日本の武士たちを殺害。島民も虐殺した。その勢いで10月16日には松浦、鷹島、平戸などに襲来。佐志房(さし ふさし)をリーダーとする松浦党は激しく抵抗するも壊滅。住民も虐殺され、対馬・壱岐のような惨状となった。


10月20日には元軍は船で博多湾へ移動し上陸。迎え撃った日本の武士団は火薬を使った「てつはう」などの見慣れぬ元軍の新兵器によって劣勢となり、大宰府付近まで退却。ここでも虐殺が繰り返された。しかし10月21日朝に元軍は突然退却。博多湾から姿を消した。神風、とも言われるが、その撤退の理由については諸説ある。


それから7年後の1281年(弘安4年)、元軍が再び日本へ侵攻するという「弘安の役」が起こる。今度は朝鮮半島から高麗軍を中心とする東路軍と、中国から元軍を中心とする江南軍の二手に分かれて出発。合わせて約40万人におよぶ大艦隊が壱岐に集結するはずだった。しかし江南軍の出発が大幅に遅れ、東路軍が独自に攻撃を開始。5月21日に対馬、5月26日に壱岐に侵攻。博多湾から上陸を試みるも日本軍が新たに築いた防塁に阻まれ、代わりに志賀島へ上陸して陣地を構築する。そこで日本軍は志賀島を襲撃し、これによって東路軍は壱岐へ退却した。壱岐に退却した東路軍は船内で疫病が発生するなどして窮地に至った。弱った東路軍に対して6月29日から7月中旬にかけて日本軍は総攻撃をかけ、東路軍は壱岐からも撤退を余儀なくされた。


一方の江南軍は予定より大幅に遅れて7月になってから平戸に到着し、その後鷹島に移動。東路軍は江南軍と合流すべく、鷹島へと移動した。


7月27日に鷹島沖に停泊する江南軍・東路軍の大艦隊に対して日本軍が海戦を挑む。一進一退の攻防が続いたが、7月31日の朝、江南軍・東路軍の大艦隊はあとかたもなく消えていた。前夜に台風のような嵐があり、それによって船が沈んだものと考えられた。鷹島には10万人とも言われる元軍の兵士が上陸しており、取り残された彼らに対して日本軍が掃討戦を展開。今度は元軍が多数の死者を出す凄惨な殺戮戦が行われた。


ところで、2011年になって鷹島沖の海底で沈没した元軍の船が見つかった。その後も調査が進み、弘安の役がここで実際に起きたという証拠となっている。


文永の役、弘安の役とも、その勝因は「神風」であったと言われている。日本は神に選ばれた国としての伝承が広まり、それは昭和の時代になっても太平洋戦争へと国民を導くための教育にも使われたことは周知のとおりである。



<読んでおきたい本>

高橋克彦

「時宗」



全4巻。北条時宗とその父、時頼という鎌倉幕府の2人の名執権の物語。鎌倉幕府内での御家人同士の争いや朝廷との確執に始まり、それらを収めたと思いきや今度は元寇という日本史上最大の危機に直面する。この未曽有の事態に際してリーダーたちはどう準備し、どう対処したのか? 松浦党の活躍なども生き生きと描かれ、その時代に一緒に生きたような没入感のある歴史小説だ。2001年NHK大河ドラマの原作でもある。



秀吉の朝鮮出兵によって突如出現した人口20万人の大都市:名護屋城


名護屋城博物館にある大型のジオラマ



マナブ:呼子から車で3分ほど、名護屋城跡に来ています。広い駐車場があり、整備された公園になっています。(地図 ❹)


歴史先生: 名護屋城は豊臣秀吉が朝鮮出兵する際の基地として築いたもの。秀吉の軍師、黒田官兵衛(黒田如水)が縄張りを担当しました。急ごしらえの城でしたが、そのスケールは想像を絶するものでした。


マナブ:どれくらい大きかったんですか?


歴史先生:当時としては大坂城に次ぐ、全国2位の大きさ。一番高いところに6層の天守が建ち、遠くからもその威容が眺められました。その周囲半径3㎞ほどの地区には戦国大名たちが陣屋を築きました。さらにその周囲には博多、京、大坂などから商人や職人が集まって城下町が作られ、なんと人口20万人を超える世界的な大都市が突如ここに出現したんです。


名護屋城図屏風の複製


マナブ:すごい。今は何が残っているんでしょう?


歴史先生:朝鮮出兵が終了すると人々も去り、この城は不要となりました。さらに島原・天草一揆の後、一揆勢がたてこもる恐れがあるとして全国の不要な城は破却され、この名護屋城の石垣なども多くが破壊されました。今では破壊しきれなかった石垣などが残るだけです。


戦国武将が勢ぞろいの陣屋の分布


マナブ:このあたりをドライブしていると交差点の名前がおもしろい。伊達政宗陣跡、とか、加藤清正陣跡とか、戦国武将オールスターズ、という感じです。


歴史先生:そうですよね。当時彼らがこの地に一堂にそろっていた、というのは圧巻です。ではまずは名護屋城博物館に行きましょう。


名護屋城博物館


佐賀県立 名護屋城博物館

〒847-0401 佐賀県唐津市鎮西町名護屋1931−3

入場無料

9:00~17:00、月曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://saga-museum.jp/nagoya/ 

パンフレットはこちらからダウンロードできます。

https://saga-museum.jp/nagoya/docs/e208ec86d65449a9c9eb95d286274c9a.pdf


マナブ:とても大きくて立派な博物館です。これで入場無料とは、すばらしい。


歴史先生:ここで名護屋城と朝鮮出兵について学んでいきましょう。


マナブ:入るとすぐに巨大なジオラマが迎えてくれました。昔の名護屋城とその周囲の城下町の様子がとてもよくわかります。天守が一番高いところにあって、とても目立っていますね。町のあちこちから見えたことでしょう。


名護屋城の大型ジオラマ


左奥にあるのが6層の天守。その付近が本丸。右側が三ノ丸。のちほどこのあたりを散策する。


歴史先生:展示のハイライトの1つが秀吉の黄金の茶室です。見てみましょう。


マナブ:カーテンをくぐって真っ暗な部屋に入ります。中に警備員の人が立っているので驚かないように、と書いてありました。


歴史先生:たしかに真っ暗な中にいきなり人が立ってたら怖いですよね。ここはフラッシュ撮影は禁止ですが通常の撮影はOKです。


秀吉の黄金の茶室(復元)


マナブ:ため息が出るような美しさ。


歴史先生:そうですね。ここに要人を招いて、秀吉の力を見せつけたのでしょう。


マナブ:えーっと、ところでちょっと違和感があるのですが、ここ名護屋城は朝鮮出兵の前線基地、すなわち軍事施設ですよね?


歴史先生:そうなんです。でも秀吉はここ名護屋城に来ると、その翌月には大坂城から黄金の茶室を移設させ、茶会を盛んに開きます。城内に新たに茶室を建てたり、能を盛んに上演したりと、桃山文化がここ名護屋城で花開きました。


マナブ:武士たちは命がけで朝鮮で戦って、そこで地獄を見て、血まみれでやっと日本に戻ってくるとリーダーは何とお茶とか能とかに夢中で・・・。


歴史先生:それって、士気が下がっちゃいますよね。でも当時の秀吉に反対することができる人はいなかった。


マナブ:うーん、そもそも秀吉はなぜ朝鮮出兵したんですか?


歴史先生:秀吉は全国を統一しました。そして配下の大名に恩賞を与えてきたわけです。でも全国統一すると、もう与える土地がない。そこで秀吉は明を征服することにしたんです。


マナブ:つまりは中国を征服する、っていうことですよね。狂ってるとしか思えない。


歴史先生:はい。そのため朝鮮に対して、日本の先兵となって明国を攻めるように依頼します。明の傘下にあった朝鮮はもちろん拒否。そこで秀吉は朝鮮に攻め込みました。これが文禄の役(1592年~1593年)です。


当時の戦艦である安宅船の模型。瓦屋根の建物が船に乗っているところがユニーク。


文禄の役の日本軍の侵略ルート


マナブ:ここに文禄の役の地図がありますね。


歴史先生:見てください。小西行長、加藤清正といった秀吉配下の猛将たちが、壱岐・対馬を経て釜山あたりに上陸。そこから首都の漢城(現在のソウル)を目指して進軍し、これを陥落させ、今の北朝鮮の首都である平壌まで侵攻しました。加藤清正は北朝鮮の日本海側をロシア国境近くまで攻め込んでいます。


マナブ:何と現在の北朝鮮の奥深くまで、当時の朝鮮のほとんど全土に侵攻したんですね。


歴史先生:こうなるとさすがに明も脅威を感じ、援軍を出します。そのため戦況は膠着状態になり、日本軍は徐々に撤退。明と日本の間で和睦が成立し、文禄の役は終わります。


マナブ:でもそれでは終わらなかった・・・。


歴史先生:そうなんです。明はその後、秀吉を日本国王に封じる、という上から目線の提案をしてきます。一方秀吉は、「いやいや、明こそ日本に服従しろ」とこちらも上から目線の回答。これでは両者の話がまとまるはずもなく、ついに再び開戦となります。これが慶長の役(1597年~1598年)です。


慶長の役の日本軍の侵略ルート


歴史先生:日本軍は再び釜山に上陸。そこから漢城を目指しますが、今回は朝鮮・明の連合軍の激しい抵抗に会ってなかなか進軍ができません。


マナブ:文禄の役の地図と比べると、今のソウルまでくらいしか進軍できていません。


歴史先生:日本軍の弱みは補給路。海を越えての遠征ですので、食料の補給などに常に苦心していました。さらには前回不意を突かれた朝鮮も今回はかなりの経験値を持って防戦します。


マナブ:戦いは膠着状態になったんですか?だとしたら、どう終結したんでしょう?


歴史先生:朝鮮半島南部の各地で激しい戦闘が行われていた1598年、なんと秀吉が死去します。これによってリーダーを失った日本軍は退却。慶長の役はその幕を閉じました。一連の朝鮮出兵は、この時代の世界での最大級の紛争だったと言われています。


マナブ:やっぱりこの戦争をやりたかったのは秀吉だけ。彼個人の妄想だというのはみんなわかっていたんでしょうね。で、その後どうなったんですか?


歴史先生:ご存じのように秀吉の死後、その子の秀頼にスムーズに権力が移行したわけではなく、豊臣家と徳川家康との間で関ケ原の戦いが起き、徳川政権へと権力が移っていくわけです。徳川政権になってからは対馬の宗氏を仲介として朝鮮と日本の間では外交交渉が続き、ついに1607年には両国の間で正式に和解がなされました。


マナブ:あ、ちょっとだけ安心しました。


歴史先生:一方で明についてですが、中国の東北地方から清が攻め寄せ、日本との外交どころの状況ではなくなっていました。結局明は清によって滅ぼされてしまいます。朝鮮での戦乱に明が多大な援軍を派遣したことによって明は著しくその国力を衰えさせ、それが清による征服につながった大きな一因とされているんです。


マナブ:結果的に明を滅ぼしたのは秀吉、になっちゃいましたね。


歴史先生:そうとも言えるかもしれません。日本が明に対して国を傾けるほどの負担をかけさせたわけです。でも朝鮮に対してはそれどころではありません。2度にわたって直接攻め入って多数の罪のない人たちを殺し、国土をめちゃくちゃにしてしまった、というとんでもないことをしてしまいました。


マナブ:うーん、そういうことでしたか。鎌倉時代、元が攻めてきて対馬、壱岐、そして松浦当たりの沿岸を無茶苦茶にしていきましたが、戦国時代にはその何倍もの規模で日本が朝鮮を蹂躙してしまったんですね。


歴史先生:秀吉の朝鮮出兵について、名護屋城博物館の案内パンフレットには「それまでの日本列島と朝鮮半島との長い交流を一時断絶させた不幸な出来事でした」、「過去の史実に対する反省の上に立って、日本列島と朝鮮半島との交流の歴史を調査・研究・展示紹介し」、などと書かれています。


マナブ:韓国の友達が何人かいるのですが、秀吉の朝鮮出兵というのは未だに韓国の人たちからの恨みを買っているような気がしました。


歴史先生:どのように言っていましたか?


マナブ:友達が大阪に来た時に案内したんですが、道頓堀のネオンとか鶴橋の焼肉とかで楽しく過ごした後、大阪城に連れて行ったんです。大阪のメジャーな観光地として。


歴史先生:どんな反応でした?


マナブ:最初は「わぁ、大きなお城だ」、という単純な感動だったんですが、それが秀吉が建てた城だとわかると、顔色が変わりました。「あの秀吉の城なのか・・・」ということで、複雑な心境を口に出さずにぐっと我慢していたように見えました。


歴史先生:そうでしたか。秀吉の朝鮮出兵は韓国では歴史上の大きな事件として学校でとても詳しく教えます。韓国の各地には日本軍に抵抗した英雄たちが祀られていて観光地になっていますから、逆に日本からそんなことを知らずに気安く観光に行くと、ドキッとすることも多いです。


マナブ:それに対して日本の歴史の授業では一言触れるだけ、だったような気がします。K-POPや韓流ドラマなど、今の若者は韓国の文化にとても親しみを持っています。それはとてもいいことなのですが、それにしても過去に起きたことを全く知らない、というのはどうなんでしょう。両国の間で何があったのか正しく知っておくことも大事ですし、今後より良い関係を築くにはどうしたらいいか考えさせることも必要かなと思っています。



入場時に協力金100円を支払う。ガイドさんは40分で200円(安い!)


公園の入口付近にある三ノ丸の石垣


歴史先生:では実際に名護屋城跡を歩いてみましょう。入口でガイドさんをお願いすることもできますよ。入口からすぐに大手門だった場所があります。ここから見えるのは三ノ丸の石垣です。


マナブ:ここが記念写真のスポットになっているみたいですね。


うっそうと木が茂る三ノ丸


三ノ丸にある井戸の跡


歴史先生:スロープを登って三ノ丸へ行きましょう。


マナブ:三ノ丸は今はうっそうと木が茂って森のようになっています。昔の井戸の跡などがありますね。


本丸跡は広い芝生広場になっている。左奥の一段高くなっているところが天守台。


歴史先生:三ノ丸から石段を登ったところが本丸です。


マナブ:ここは芝生の広場になっていて、開放的です。中央に名護屋城の石碑が立っています。


歴史先生:そして本丸のはしっこ、左奥のところが天守台です。


天守台からは海側の景色が広がる。朝鮮へ向けて出港していく船団もよく見えたに違いない。


天守台から見た呼子大橋


マナブ:わぁー。天守台からは海が見える。いや、この町全体が見下ろせる。


歴史先生:はい、そうなんです。このあたりで一番標高が高いところがこの天守台。ここに6層の天守閣が建っていたわけですから、最上階からの眺めはとても良かったはずですよ。


マナブ:今はまったく何もないからこそ、当時の様子が自由に想像できて楽しいですね。


歴史先生:さて、呼子、名護屋城と見てきましたが、いかがでしたか?


マナブ:最初は七ツ釜でここの火山地形を見ました。でもそのあとは加部島の田島神社、そして名護屋城と、大陸と日本との長い関わり合いの歴史が、ぐさりと心に刺さった感じです。あぁ、ここが日本の玄関だったんだ。ここを通して大陸との友好の歴史、戦いの歴史を刻んで、そして今があるんですね。歴史を学ぶにあたってここはとっても大事な場所なんだというのがよくわかりました。


歴史先生:そう言っていただけると、お連れした甲斐があります。


マナブ:でもそろそろお腹が空いてきました。イカはまだですか?


歴史先生:そうでしたね。さっそく宿に行きましょう、今日の夕飯はイカの活き造です。


マナブ:待ってました!


<読んでおきたい本>

「黒南風(くろはえ)の海」  「文禄・慶長の役」異聞

伊東 潤


 


全1巻。朝鮮に奥深くまで攻め込んだ加藤清正の家臣の目を通して、この戦争がいかなるものであったのかが描かれている秀作。主人公と現地の朝鮮人との友情を通して朝鮮人の視点も物語に組み込まれている。日本ではこの戦争について書かれた小説が非常に少ない中、 貴重な作品と言えよう。



呼子・名護屋城近辺でのおすすめホテル

草原の岬に立つ公共の宿:「国民宿舎 波戸岬」



名護屋城から車で5分ほど。美しい草原が映える波戸岬(はどみさき)に立つ公共の宿。コテージタイプトホテルタイプの部屋があり、大浴場からのオーシャンビューが美しい。夕食には呼子名物のイカの活造りを堪能できる。


正面玄関


選んだ理由:

・立地:眺めのいい波戸岬に隣接するロケーション

・温泉:オーシャンビューの大浴場(ただし露天ではない)

・食事:呼子名物の「イカの活造り」が食べられる

・料金:公共の宿としてはやや高い気もするが、近隣のホテルと比較すれば若干リーズナブル


実際に泊まってみた感想:

・波戸岬からすぐ。波戸岬は海を見下ろす草原になっていて、散歩には最高のロケーション。

・公共の宿ということもあって、サービスはシンプルで最小限のもの。高級旅館やホテルと同じことを期待してはいけない。部屋もシンプル。

・レストランは海が見えて眺めが最高。「イカの活造り」はとても新鮮で美味。一度は経験しておきたい。

・海や島を見ながらの大浴場での入浴は気持ちいい。


じゃらんのサイト

https://www.jalan.net/yad322633/ 


ホテルタイプの部屋からの眺め。遠くに海中展望塔が見える。手前にあるのはコテージタイプの部屋。


波戸岬に隣接した丘の上に建つ


波戸岬は一面の草原に覆われており、海風に吹かれての散歩も気持ちいい。


波戸岬の海中展望塔


波戸岬にある「恋人の聖地」モニュメント


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