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登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
ドライブウェイで比叡山の上へ

「東塔」:根本中堂などの中心的施設がある延暦寺発祥の地

「西塔」:第2代座主が開いた信仰の場

「横川」:朱色の舞台が緑に映える、山奥の信仰の場



ドライブウェイで比叡山の上へ


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マナブ:さて、大津市内から比叡山へ車で登ります。


歴史先生:大津市の西、近江神宮のあたりから山中越えという峠道を登り、途中から「比叡山ドライブウェイ」に入ります。


マナブ:かなり急な坂ですね。そしてずっとくねくね道が続いてる。


歴史先生:標高でいうと700mくらいまで一気に登ります。


マナブ:料金所です(地図 ❶)。私たちは南側から入って、最後は北側へ抜けるんですよね。延暦寺から仰木料金所まで、ということで・・・えっ? 小型車普通車2,430円?


歴史先生:有料道路としてはとっても高いですね。でも険しい山を切り開いて、その道路を維持していることを考えると、それくらい必要なのかもしれません。


マナブ:そうですね。そしてしばらく坂道を上っていくと駐車場が出てきました。


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夢見が丘展望台の駐車場


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夢見が丘展望台から見た大津市街地


歴史先生:ここは夢見が丘展望台(地図 ❷)。広い駐車場とカフェ、遊び場、トイレなどがあります。ここから見る大津市街地、なかなかの絶景ですね。


マナブ:次は少しさらに進んで、ロテルド比叡というホテルの前に来ています。また展望台がありますね。


歴史先生:ここは登仙台展望台。京都と大津、両方が見える展望台なんです。


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登仙台展望台から見た京都市街地


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登仙台展望台から見た大津・草津市街地


マナブ:そしてトンネルを抜けると、「東塔」の駐車場、と書かれています。


歴史先生:いよいよ世界遺産、比叡山延暦寺です。ここから拝観を始めましょう。


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東塔の駐車場と延暦寺への入口


延暦寺(東塔:地図 ❹)

〒520-0116 滋賀県大津市坂本本町4220

入場 大人1,000円 (東塔、西塔、横川 共通拝観券)

9:00~16:00 (12月から2月の冬季は西塔と横川は9:30から)、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.hieizan.or.jp/guide 


「東塔」:根本中堂などの中心的施設がある延暦寺発祥の地


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マナブ:さて、トンネルをくぐってすぐ右側にある、「東塔」(とうどう)の駐車場(地図 ❹)に車を停めました。


歴史先生:地図を見ていただくとわかるように、このあたりが比叡山の山頂です。山頂の北側にある狭い平地を利用して延暦寺は作られています。比叡山延暦寺は主に3つのエリアに分かれていて、「東塔」(とうどう)、「西塔」(さいとう)、そして「横川」(よかわ)です。今日はこれらすべてを訪れます。


マナブ:おぉ、それは楽しみです。まず、今いる東塔ですが、どんな場所なんですか?


歴史先生:東塔は、最澄が最初に延暦寺を開いた場所。根本中堂など、延暦寺の最重要な建物が並んでいます。


マナブ:そういえば、ここ比叡山で修業したお坊さんたちの中から、いろんな宗派の宗祖たちが出てるんですよね。


歴史先生:主な人物をあげてみると、法然・栄西・親鸞・道元・日蓮、といったところでしょうか。


マナブ:すべて聞いたことがある人たちです。まさに仏教界のオールスター!


歴史先生:そうですよね(笑)。それらの宗祖たちが活躍するのはずっと後の時代になる鎌倉時代。でも、平安時代初期にその場所を作った最澄は日本仏教の初期の発展を担った重要人物といえます。


マナブ:最澄はどんな人だったんですか?


歴史先生:最澄は767年(異説あり)に、比叡山のふもとの坂本で生まれました。非常に優秀な子だったようで、奈良の東大寺で若くして国が認めた正式な僧侶になります。僧侶になると、故郷の坂本に戻り、比叡山に登って修行生活を始めました。そこで一乗止観院(のちの根本中堂)を建立。本尊の薬師如来を刻まれました。


マナブ:山にこもって修行、ですか。


歴史先生:その後、今度は桓武天皇の援助を受けて唐の国に渡ります。


マナブ:桓武天皇、というと、平安京を作った人ですね。


歴史先生:そうです。よってこれは平安時代の初めごろのお話。桓武天皇というと、奈良の平城京から長岡京、そして平安京へと遷都をした天皇ですよね。


マナブ:はい、教科書にあったのを覚えています。


歴史先生:なぜ平城京から遷都したかという理由の1つは、当時の奈良の仏教界の力が強くなりすぎて、その力を削ぐためでした。


マナブ:それでお寺は奈良に置き去りにして、政治を新しい都でしようとした。


歴史先生:でも長岡京造営をリードしていた桓武天皇の寵臣、藤原種継が暗殺され、その首謀者として捕縛した実弟の早良親王が無実だと抗議して絶食、結局死に至りました。


マナブ:どろどろの世界ですね。


歴史先生:その後、桓武天皇の周りで不幸な出来事が続きます。これは早良親王の祟りだと、皆おびえ始めました。そうなると長岡京への遷都はうまくいくはずがありません。桓武天皇は長岡京遷都を断念します。そして次の候補地となったのが平安京。その新しい都では、桓武天皇にとって都合のいい、新しい仏教が必要だったんです。


マナブ:新しい仏教?


歴史先生:そこで紹介されたのが最澄。堕落した南都(奈良)の仏教に批判的だった最澄を桓武天皇は非常に気に入り、内供奉十禅師という高い地位を与えます。そしてその最澄が、さらなる経典や新しい知識を求めて唐の国へ渡りたいと申し出て、それを桓武天皇が認めます。


マナブ:そして最澄が唐の国へ渡った・・・。


歴史先生:はい。遣唐使一行と共に苦労しながらもなんとか渡航に成功します。しかし唐の国へは本場の天台教学を学びに行ったのですが、どうも様子が違っていました。その頃唐では天台教よりも真言密教の方が盛んになっていて、短い限られた滞在期間中、最澄はできるかぎりの密教の話を聞いてそれを日本に持ち帰った、という結果になったようです。それを基に、彼は日本で密教の要素を入れた天台宗を開きました。でも最澄が聞いた密教は傍流でありしかも不完全な内容だったようです。


マナブ:それが延暦寺。


歴史先生:実際に延暦寺と呼ばれるようになったのは最澄が亡くなった後のこと。最澄の跡を継いだ2代目の天台座主(ざす)のころです。


マナブ:天台座主というのは天台宗で一番偉い人ですか?


歴史先生:はい、天台宗総本山の延暦寺のトップ、です。有名な天台座主は3代目の円仁。のちに清和天皇より最澄は「伝教大師」、円仁は「慈覚大師」という諡号(しごう)をもらいます。これは日本で最初の大師という諡号であり、それだけこの2名の功績は大きかった、と言えるでしょう。


マナブ:~~大師、というと弘法大師、すなわち空海の方が有名ですよね?


歴史先生:はい。実は最澄と空海は同じ遣唐使船で唐に渡りました。最澄は桓武天皇じきじきの支援を受けたエリート中のエリート。空海は一介の貧乏僧侶で、当時はかなりの身分差があったようです。しかし最澄が密教に関する勉強が不十分なまま日本に帰ったのとは対照的に、空海は当時最先端の知識を持っていた青龍寺で真言密教の後継者としてすべてを伝授され、阿闍梨という最高の資格を得ます。その深い知識を持って空海は意気揚々と帰国。ついには最澄は空海に頭を下げて教えを乞う、といった状況が発生したんです。


マナブ:うーん、空海おそるべし。


歴史先生:とはいえ、第5代座主の円珍(智証大師)らによって天台宗でも密教の体系が整備され、空海の真言密教に対抗するようになりました。こうして比叡山延暦寺は日本仏教の中心地としてその後も発展を遂げていきます。


マナブ:延暦寺というと僧兵が強かった、という話が良く出ますが。


歴史先生:そうなんです、平安時代中頃から延暦寺の武装化が進みます。強力な院政を始めたことで有名な白河法皇が「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」という言葉を残しています。白河法皇の権力をもってさえ、思い通りにならないものは賀茂川の水、すごろくのさいころの目、そして山法師すなわち比叡山の僧侶たち、ということです。


マナブ:たしか奈良の興福寺も同じような感じだったのでは・・・。


歴史先生:そうなんです。当時は「南都北嶺」といって興福寺と比叡山の武力が朝廷に恐れられていました。比叡山の僧兵たちはふもとの日吉大社の神輿を担いで京都へ入り、武力を背景に強訴(無理に要求を通すこと)もしたようですよ。


マナブ:武力があり、かつ比叡山は要塞のような地形をしている・・・


歴史先生:そのため、1336年には後醍醐天皇が足利尊氏との抗争の中で一旦比叡山に逃れたりしていますね。比叡山はどうも足利家とは相性が悪いようです。足利義教は出世コースから一度外れ、比叡山に入って天台座主になっていたのですが、将軍職の後継者争いのために還俗し、第6代将軍となった人物。非常に冷酷で恐れられたこの将軍は、自分が一時期入っていた比叡山の制圧に乗り出します。


マナブ:えっ、自分がいたとことなのに。


歴史先生:足利義教のやり方に抗議し、その当時の僧侶たちは自ら根本中堂を焼き、焼身自殺をしたそうです。この時も多くの堂宇が焼けてしまいました。


マナブ:延暦寺といえば信長の焼き討ちにもあったんでしたよね?


歴史先生:はい、1571年、信長に追い詰められた朝倉・浅井(あざい)連合軍が比叡山に逃げ込み、延暦寺がこれを匿ったということで、信長が比叡山を焼き討ちにし、全山ほぼすべての堂宇が焼かれた、という事件です。


マナブ:神仏のたたりも恐れぬ信長、というイメージがここでできたんでしょうね。


歴史先生:はい、比叡山焼き討ちでは比叡山の僧侶だけでなく、坂本の住人の多くが殺され、死者は数千人にもなったとか。信長はそのほかにも一向一揆の宗徒たちを惨殺したり、堕落した(と信長が思っていた)仏教勢力へ容赦ない武力の行使がされました。


マナブ:焼き討ちの後、比叡山はどうなったんですか?


歴史先生:信長は1582年の本能寺の変で亡くなります。その後秀吉の天下となり、1584年に秀吉が山門復興の許可を出したことから、比叡山延暦寺の再興が始まりました。秀吉は約1600石を寄進し、家康はのちに3400石の寄進をおこないました。


マナブ:秀吉、家康が復興に努めたんですね。


歴史先生:ところで東京にある東叡山と呼ばれるお寺、ご存じですか?


マナブ:東の比叡山、ということですね? どこだろう・・・。


歴史先生:比叡山は京都の鬼門(北東の方角)を守っています。江戸時代に入り、家康が江戸の町を作り始めたとき、江戸の鬼門を守る必要が出てきました。そこで江戸城から北東にある山に目を付けました。


マナブ:北東にある山? そんなのあったかな?


歴史先生:比叡山に比べるととっても低いんですが・・・


マナブ:あ、わかった。上野の山。


歴史先生:そうです。今でこそ博物館とか動物園とかになっていますが、当時はこの山自体が寛永寺だったんです。家康の最側近の1人である天海は比叡山延暦寺の再興をリードし、上野に寛永寺を開きました。今、東京国立博物館の前の噴水あたりに根本中堂があったんです。


マナブ:上野ってそういう場所だったんですね。


歴史先生:今度あらためて上野に行ってみましょう。


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国宝殿


国宝殿

入場 大人500円

9:00~16:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.hieizan.or.jp/keidai/kokuhoden


マナブ:さて、では東塔を歩き始めましょうか。入ってすぐ、左手に「国宝殿」があります。入ってみましょう。


歴史先生:ここには延暦寺が所有する仏像、仏画、書跡などが展示されていて、重要文化財や、運が良ければ国宝も見ることができます。


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大講堂(国指定重要文化財)


マナブ:坂を登ったところの左手に大きなお堂が見えてきました。


歴史先生:これは「大講堂」と呼ばれる建物。国指定重要文化財です。元々は麓の坂本にあったのですが、1964年(昭和39年)にここへ移築されました。中には各宗派の宗祖たちの木像が並んでおり、最澄が開いた天台宗だけでなく、各宗派でもお参りできるようになっています。


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修復工事中の根本中堂


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修復工事の様子


マナブ:広場のようになっているところから左に長い坂を下りると、根本中堂です。


歴史先生:根本中堂は比叡山の中心であり、国宝でもあります。しかし2026年まで修復工事が行われていますので、今はその外観を見ることができません。ただし中に入ってお参りしたり、修復工事の様子を見学できたりします。


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修復工事前の根本中堂


マナブ:延暦寺は何度か焼けていると聞きましたが、いつ頃の建物なんですか?


歴史先生:今の根本中堂は1642年、天海の進言により、3代将軍徳川家光によって建てられたものです。


マナブ:今、お参りをしていますが、中は暗くてご本尊もよく見えません。


歴史先生:ここで有名なのは「不滅の法灯」。ほら、あの灯りです。あの火は1,200年間燃え続けている、と言われているんですよ。


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戒壇院


マナブ:先ほどの大講堂まで戻り、今度は根本中堂とは反対側の道へ行きます。


歴史先生:すぐ右の階段上にあるのが、「戒壇院」です。国指定重要文化財。ここは修行を終えたお坊さんたちが正式に僧侶になる儀式を行う重要な場所なんです。


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阿弥陀堂(右)と東塔(左)


マナブ:その先の階段を上ると、さらに立派な建物が見えてきました。


歴史先生:これらは阿弥陀堂と東塔。いずれも昭和期に再建されたものです。


マナブ:えっ、これが東塔、ですか?


歴史先生:818年、最澄は国土と国民の安寧を願って、日本国中に6つの塔を建てる計画を説きます。その一番目がこの東塔で、次いで西塔。さらに上野(群馬県)、下野(栃木県)、豊前(大分県)、筑前(福岡県)にも建立しました。近年の発掘で筑前(太宰府市)で礎石が見つかるなど、徐々にその姿が明らかになりつつあります。


マナブ:それが今の東塔、西塔、という地域名になったんですね。


歴史先生:その通りです。この延暦寺は都の東北、すなわち鬼門の方角に当たるため、都の守護のために建てられたと言われています。平安京を作った桓武天皇が、都の安寧を願って最澄に指示し、この比叡山の山中に大寺院を開きました。最澄はここを全国の人材を集めて教育をする道場と考え、ここから国家に寄与する人材を輩出することを夢見ていました。桓武天皇と最澄のタッグによる平安京のグランドデザインが、ここからうかがい知ることができるのです。


「西塔」:第2代座主が開いた信仰の場


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西塔駐車場


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マナブ:東塔の駐車場から車でほんの2,3分、今度は西塔の駐車場(地図 ❺)に車を停めます。


歴史先生:ここ西塔は天台宗第2代座主の円澄によって開かれた場所です。


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西塔の案内地図


マナブ:静かな山道を下っていきます。さきほどの東塔に比べると人が少ないですね。


歴史先生:さぁ、最初の建物が見えてきました。


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常行堂(左)と法華堂(右)(にない堂)


マナブ:不思議な形のお堂ですね。


歴史先生:常行堂と法華堂という2つのお堂が橋でつながっています。国指定重要文化財。比叡山にいた弁慶があの橋の下に両肩を入れて持ち上げた、との言い伝えから、別名「にない堂」とも言われています。


マナブ:そんなまさか(笑)、ですが、そうか、弁慶は比叡山にいたんだ。


歴史先生:武蔵坊弁慶。荒法師の多い比叡山の僧兵の中でもひと際力持ちで暴れ者。その彼が山から京の都に下りて「刀を1,000本奪ってみよう」と決め、次々と通行人を襲います。そして999本まで集めたところ、五条大橋に身なりの良い若者が通りがかり、良さそうな太刀を持っているのが目に入りました。そこで弁慶は襲い掛かるのですが、若者はひらひらと見事な演舞で弁慶を圧倒。弁慶が初めて敗れたことで、その若者の家来になることを誓います。これが源義経、でしたね。


マナブ:はい、有名なシーンですね。


歴史先生:弁慶が肩を入れて持ち上げたという、あの橋の下をくぐっていくと、いよいよ西塔の本堂です。


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西塔の本堂である転法輪堂へは急な石段を下る


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転法輪堂(国指定重要文化財)


マナブ:急な石段を下りると、大きなお堂がありました。


歴史先生:これが西塔の本堂、転法輪堂です。これも国指定重要文化財。


マナブ:それにしても大きくて立派なお堂ですね。


歴史先生:元は三井寺の本堂だったものを、秀吉が移築したのだとか。よって信長の焼き討ちにはあっておらず、これは比叡山で現存する最も古い建物なんです。


「横川」:朱色の舞台が緑に映える、山奥の信仰の場


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横川の駐車場


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マナブ:西塔からしばらく走って、ようやく横川(よかわ)の駐車場(地図 ❻)に来ました。ここはさらに人が少ない。


歴史先生:ここは第3代座主、円仁が開いた修行の場。駐車場からなだらかな坂を下って、横川中堂へ行きましょう。沿道には親鸞や日蓮など、横川にゆかりのある宗祖たちの物語が並んでいます。人が少なくて、清々しい山歩きができそうです。


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横川の案内地図


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駐車場から横川中堂へと続くなだらかな下り坂


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横川中堂


マナブ:おっ。横川中堂が見えてきました。大きい・・・。


歴史先生:そうですよね。まるで清水寺のような懸造り(舞台造り)の建物です。最初の建物は848年に建てられ、その後秀吉と淀君が再建したのですが、1942年(昭和17年)に惜しくも落雷で焼失してしまいました。今の建物は秀吉・淀君の再建したものに沿って建てられた昭和の建築です。


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横川中堂


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根本如法塔


歴史先生:横川中堂の向かい側の山道を少し上ると根本如法塔があります。


マナブ:ここも木々に囲まれて静かな場所。ここ比叡山は信仰の山なんだなぁ、と感じますね。


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横川中堂から鐘楼へと続く道


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左右には石仏が並ぶ


歴史先生:では、横川中堂からもう少し奥まで歩いてみましょう。鐘楼へ続く道です。


マナブ:道の両側に石仏が点在していますね。


歴史先生:山深い、静かな道。観光地化されていない、霊場としての比叡山を感じられる場所の1つだと言えるでしょう。


マナブ:ここは東塔からは少し離れていますけど、わざわざ来るべき場所、ですね。


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元三大師堂


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元三大師堂の前の石碑にある不思議な絵


歴史先生:しばらく歩いて、元三大師堂の前まで来ました。国指定重要文化財です。


マナブ:あれっ? この絵、どっかで見たことがある。どこだっけ?


歴史先生:マナブさんは東京の人だから、深大寺(じんだいじ)では?


マナブ:あ、そうです、そうです。調布の深大寺。コロナの時に厄除け、としてこの絵が盛んに使われていたような・・・。


歴史先生:この絵のお話、ご存じですか?


マナブ:いえ、知りたいです。


歴史先生:天台宗第18代座主に元三大師(がんざんだいし)という方がおられました。984年(永観2年)のこと、疫病(狂犬病だと思われる)が流行し、全国で人々が亡くなっていました。


マナブ:まるでコロナの時みたいですね。


歴史先生:それを何とかしたいと考えた元三大師は、鏡の前で静かに座禅を組みます。すると鏡に映る大師の姿がみるみる変わっていき、角の生えた鬼のような姿に。その時に一緒にいた弟子のひとりがその姿をすばやく写し取ったのがこの絵なんです。


マナブ:大師がこのようなお姿になったんですか。


歴史先生:大師はその話を聞くと、版木でその絵を刷るように弟子たちに命じ、それを人々に配布して玄関にお札として貼り出しました。するとそのお札を貼った家では疫病が寄り付かなかったんだそうです。


マナブ:なるほど。それでコロナの時この絵を貼り出す、というような話になったんですね。


歴史先生:そうなんです。このお姿は「角大師(つのだいし)」と呼ばれ、1,000年以上たった今でも厄除けのお守りとされているんです。東京調布の深大寺は天台宗の関東での拠点として元三大師を祀っていますし、栃木県の佐野厄除け大師も同様です。


マナブ:そこ、年末になると関東ではテレビCMでおなじみ、です(笑)。


歴史先生:そして元三大師は比叡山延暦寺の中興の祖、と呼ばれている人です。角大師のお札の他に、今はどこにでもある「おみくじ」を初めて行ったのも、元三大師と言われているんですよ。


マナブ:へぇー、元三大師さん、なかなかのビジネスマンですね。「お札」と「おみくじ」のビジネスで相当儲かったのでは?


歴史先生:えっーと、そこのところはどうなんでしょうか、私も勉強不足ですみません(汗)。


マナブ:あ、ほら見てください、元三大師堂の周りの建物、入口にちゃんとお札が貼られていますよ。


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入口に貼られた角大師のお札


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