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登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
秀吉と共に短命で消えた謎多き城:長浜城

貴重な伏見城の遺構が残る重要文化財だらけの名刹:大通寺

織田信長と浅井長政の死闘のあと:小谷城、姉川古戦場

秀吉が石田三成を見出した「三献の茶」の舞台:観音寺


秀吉と共に短命で消えた謎多き城:長浜城


琵琶湖に背を向けて立つ「長浜びわこ大仏」


マナブ:彦根から長浜に向かってドライブしています。琵琶湖の湖岸をずっと走っているのですが、とっても眺めがいいですね。


歴史先生:もう少し行くと大仏がありますので、寄っていきましょう。



長浜びわこ大仏 (地図 ❶)

〒526-0047 滋賀県長浜市下坂浜町86

拝観無料、境内自由、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://kitabiwako.jp/spot/spot_2306


マナブ:「長浜びわこ大仏」の駐車場に車を停めました。大きな仏様の立像があります。


歴史先生:実はこれは2代目で、初代は1937年(昭和12年)、「護国阿弥陀如来」として高さ27mほどのコンクリート製の仏像でした。しかし老朽化が激しく、1994年(平成6年)、現在の高さ28mの青銅製のものに置き換えられました。


マナブ:立っている観音様はよく見ますが、これは阿弥陀如来なんですね。


歴史先生:はい、そうです。


マナブ:ここはお寺、ですか?


歴史先生:はい、良疇寺(りょうちゅうじ)というお寺です。鎌倉時代に時の執権北条時頼がこの地をお忍びで訪れた際に、ここで小さな草庵を結んでいた僧のところで一泊し、その際に意気投合したんだそうです。


マナブ:身分を明かさずに、ですね?


歴史先生:はい、時頼は鎌倉に戻ってから自ら阿弥陀三尊を彫り、ここに寺を建てるよう指示しました。宿泊した時の僧がこの寺の開山僧となったわけです。


マナブ:いい話だ。


歴史先生:しかし良疇寺も信長の兵火で焼失。さらには天災で琵琶湖に埋没するなど、苦難の連続でしたが、今日まで法灯を守り続けています。江戸時代には松尾芭蕉も訪れたそうです。


豊公園


マナブ:長浜びわこ大仏から車で3分ほど、豊公園(ほうこうえん)という広い公園の駐車場に車を停めました。


歴史先生:この公園の中心は長浜城。さっそく行ってみましょう。


長浜城



長浜城歴史博物館 (地図 ❷)

〒526-0065 滋賀県長浜市公園町10−10

入場料 500円(中学生以下、団体割引あり)

9:00~17:00(最終入場16:30)、月曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.nagahama.lg.jp/section/rekihaku/


歴史先生:あとで浅井長政の小谷城へ行こうと思いますが、1573年に信長がその小谷城を攻めた際、秀吉は大活躍し、その戦功によって浅井の領土の大部分を与えられます。このときはじめて羽柴秀吉と名乗り、城持ちの大名に出世しました。


マナブ:浅井の領土を継承したとすると、小谷城を居城にするのが自然ですよね。


歴史先生:はい、そうなのですが、秀吉はここ長浜(当時は今浜、と言った)の地を陸運、海運の交通の要所と考え、ここに城を作って城下町を作ることを考えます。


マナブ:きっと当時としては最新の考え方だったんでしょうね。


歴史先生:そして1575年、長浜城は完成しました。その際に地名を「今浜」から「長浜」に変えたんだそうです。


マナブ:工事期間が短そうですね。


歴史先生:小谷城から資材を取ってきたこと、それから竹生島からも材木を運んでいます。


マナブ:え、まさか竹生島から?


歴史先生:はい。実は浅井長政は竹生島を深く崇拝していて、1558年の火災で焼失した宝厳寺の再建のため、信長との戦争中にもかかわらず、竹生島に材木を送っていました。それを秀吉は横取りしたんです。それによって宝厳寺の再建はできなくなりました。


マナブ:唐門のこともあって、秀吉は竹生島を大切にしていたような錯覚を持っていました。そうではなかったのですね。


長浜城想像図


歴史先生:さて、こちらは長浜城の想像図ですが、複雑なお堀に囲まれた水城で、とても攻めにくそうです。琵琶湖からは直接船の出入りができるようになっています。でも実は長浜城の絵図面などは全く残っておらず、どんな城だったのかはよくわかっていません。


マナブ:天下人の秀吉が作った記念すべき最初の城なのに、なぜ記録がそんなに無いんでしょう?


歴史先生:そこはよくわかりませんが、短命であったことも一つの理由と思われます。


マナブ:というと?


歴史先生:1582年の本能寺の変を機に秀吉の天下になり、長浜城には山内一豊が入ることになります。しかし1586年の天正地震で城は全壊し、一部は琵琶湖に水没します。


マナブ:それはひどい。


歴史先生:さらに1615年、大坂城夏の陣で豊臣家が滅びると、この長浜城は跡形もなく解体され、資材は彦根城建設のために持ち去られました。


マナブ:彦根城とはここでつながった。


歴史先生:彦根城の天秤櫓、覚えていますか? あれは長浜城の遺構だとされています。


マナブ:あ、そうだったんですね。では、今の長浜城はまったくの想像のもの?


歴史先生:はい。当時の資料がないので、推測で建てられた模擬天守、です。


長浜城 歴史博物館 最上階から見た豊公園


貴重な伏見城の遺構が残る重要文化財だらけの名刹:大通寺


大通寺 山門



大通寺 (地図 ❸)

〒526-0059 滋賀県長浜市元浜町32−9

拝観無料

8:00~17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.daitsuji.or.jp/ 


マナブ:長浜の市街地にある大通寺、というお寺に来ています。とても立派なお寺ですね。


歴史先生:ここは東本願寺の長浜別院とも呼ばれているところ。大阪の石山本願寺と信長が争っている時に、本願寺側の拠点として造られた道場が始まりと言われています。


マナブ:お寺の形になったのはいつごろですか?


歴史先生:1602年に京都で東本願寺ができ、その際にここもお寺の形をとるようになりました。当時は長浜城の中にあったのですが、1606年に今の地に移転しています。


マナブ:そこから発展していくわけですね。


歴史先生:大きく発展したのは第3代彦根藩主井伊直孝の時。


マナブ:優秀な弟、のほうだ。


歴史先生:井伊直孝の援助によって寺域は拡大。そのころ東本願寺では伏見城から御殿を移築して御影堂として使っていたのですが、その建物をここ大通寺に再移築しました。それが今の本堂(国指定重要文化財)になります。


マナブ:東本願寺の御影堂だったんですね。道理で立派なお堂だと思った。


本堂(国指定重要文化財)


玄関(国指定重要文化財)と大広間(国指定重要文化財)


歴史先生:こちらの立派な玄関は、1760年の建築で、当時大通寺住職の妻であった第9代彦根藩主の井伊直惟の娘によって作られました。


マナブ:井伊家とは深い関係にあったんですね。


歴史先生:さらに玄関の奥にある大広間はこれも伏見城の遺構とされています。境内にある含山軒、蘭亭と言った書院も国指定重要文化財になっています。


マナブ:ほんと、ここは重文だらけ、ですね。


大通寺の参道。奥に見えるのが山門。


歴史先生:せっかくですから、長浜市内を散策していきましょう。


マナブ:このあたり、古い街並みが残っていますから、散策も楽しそうです。


古い街並みを残しているアーケード商店街


黒壁スクエア 案内図。右上の端にあるのが大通寺。


黒壁ガラス館


歴史先生:黒壁ガラス館を中心に、古い街並みが保存されています。この地区は黒壁スクエアと呼ばれて、湖北地方随一の観光地になっています。


マナブ:今は朝なのでまだ開いていませんが、おしゃれなショップやレストラン、カフェもたくさんできていますね。


黒壁スクエアにある「とび太」


織田信長と浅井長政の死闘のあと:小谷城、姉川古戦場


長浜から小谷城までは20分弱ほどのドライブ



マナブ:長浜から車で小谷城へやってきました。

歴史先生:ここは典型的な山城。険しい尾根伝いに曲輪が並び、まさに難攻不落の様相を呈している、巨大な要塞なんです。


マナブ:登れるんですか?


歴史先生:マイクロバスで上の駐車場まで送迎があり、そこからは山道をハイキングですね。今日はあいにくの雨天ですので、下から見上げるだけにしておきましょう。


小谷城戦国歴史資料館。背後に見えるのが小谷城。


小谷城戦国歴史資料館 (地図 ❹)

〒529-0312 滋賀県長浜市小谷郡上町139

入館料 300円(中学生以下、団体割引あり)

9:00~17:00(最終入館16:30)、火曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.eonet.ne.jp/~odanijou-s/


マナブ:ということで、麓にある小谷城戦国歴史資料館、というところにやってきました。


歴史先生:こじんまりとした資料館ですが、見ごたえがあります。


マナブ:あ、お城のジオラマがありますね。そして各曲輪を歩いて回った動画が流れている。目の前に立体的な模型があるので、わかりやすい。


歴史先生:これを見ると、上まで登って歩いたような気になりますね。


マナブ:小谷城って、たしか浅井長政、ですよね?


歴史先生:はい。浅井は「あざい」と読むので注意してくださいね。浅井長政はこの小谷城を拠点とした戦国大名。織田信長とは同盟を結んで、その妹のお市の方を妻にします。


マナブ:すごい美人だったとか。


歴史先生:そのように言われていますね。この同盟によって近江への入口を確保した信長は、織田・徳川連合軍を編成して越前の朝倉を攻めようとします。しかし浅井は朝倉とも縁が深い。


マナブ:板挟みになった格好ですね。


歴史先生:1570年、金ケ崎の戦いで越前に攻め込んだ織田・徳川連合軍でしたが、突如として浅井が裏切り、背後から奇襲します。信長はこの時、命からがら京都へ逃げました。そして同年、体勢を立て直した織田・徳川連合軍と、朝倉・浅井連合軍は姉川で激突します。これが姉川の戦い。


マナブ:そこで浅井は敗れるんですね。


歴史先生:はい。その後、守りの堅い小谷城に籠城しますが、1573年、ついに小谷城は落城。浅井は滅亡します。浅井長政は自害。このときまだ29歳でした。


マナブ:まだ若かったんですね。


歴史先生:そしてその落城の炎の中から救い出されたのが浅井三姉妹。浅井長政とお市の方の間にできた3人の女の子たちです。茶々、初、江。


マナブ:たしか大河ドラマにもありましたね。


歴史先生:2010年に放映された「江 姫たちの戦国」ですね。さてこの三姉妹、長女の茶々は誰でしょう?


マナブ:えーっとたしか・・・・


歴史先生:のちの淀殿。秀吉の後妻として権力をふるった人です。後継者となる秀頼を生んだ生母で、最後は大阪夏の陣で秀頼とともに自害したと言われています。


マナブ:おー、超大物だ。


歴史先生:次女の初は近江の名門、京極家へ嫁ぎました。そして三女の江。2代将軍徳川秀忠に嫁ぎ、3代将軍家光を生みます。


マナブ:こちらもすごい。それぞれ波乱万丈の人生を送った姉妹たちなんですね。


姉川と野村橋


姉川古戦場跡



姉川古戦場跡 (地図 ❺)

〒526-0236 滋賀県長浜市野村町772

入場自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/1656/


マナブ:小谷城から車で10分ほど。姉川の古戦場に来ました。


歴史先生:姉川をはさんで両陣営が対峙したのですが、中でもこの野村橋あたりは織田の本体23,000人と浅井の本体8,000人が正面からぶつかった最激戦地であったと言われています。1570年6月28日、午前5時ごろに始まった戦闘は午後2時ごろに織田軍の勝利で決着しました。


マナブ:相当な犠牲者が出たんでしょうね。


古戦場には犠牲者の供養碑が立つ


歴史先生:かなりの血が流れたようです。古戦場のすぐ北を流れる小川があるのですが、「血川」という名前がついています。


マナブ:なんだか恐ろしいですね。戦国の合戦というとかっこいいイメージで語られますが、実際には地獄絵図なんでしょう。やはり戦争はいけません。


現在の血川。この季節はヒガンバナが咲き乱れ、それが血を連想させる。


秀吉が石田三成を見出した「三献の茶」の舞台:観音寺


観音寺周辺の案内図



観音寺 (地図 ❻)

〒521-0226 滋賀県米原市朝日1342

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.zb.ztv.ne.jp/maido/kannonzi.html


マナブ:姉川古戦場から車で10分ほど。観音寺へやってきました。ここは例の、秀吉と三成の出会いの場所ですね。


歴史先生:そうです。来る途中、石田町という集落を通過しましたが、三成はそこで生まれ育ち、ここ観音寺で小姓を務めていました。


観音寺の参道


マナブ:参道に入ってすぐの駐車場に車を停めます。


歴史先生:今日は雨のせいか、誰もいませんね。


マナブ:ところで、秀吉と三成の出会いについて、もう一度聞かせてください。


歴史先生:はい。1576年、秀吉が長浜城の城主であったころ、このあたりの野で鷹狩をおこなっていました。その途中、のどが渇いてここ観音寺に立ち寄り、「茶をくれ」と命じます。その時、当時16歳の三成が持ってきたのは大きな茶碗に入ったぬるめのお茶。のどが渇いていた秀吉は一気に飲み干し、「もう一杯」と言います。今度は三成は中くらいの茶碗に少し熱めのお茶を持ってきます。秀吉がさらに「もう一杯」というと、最後は高価な小ぶりの茶碗に熱々のお茶を持ってきました。


マナブ:その気配りに秀吉は感心した。


歴史先生:はい。秀吉は「この小姓を俺にくれ」ということで、長浜城へ連れ帰り、その後三成を自分の寵臣として育てます。これが「三献の茶」の物語。


マナブ:本当にあった話なんですかね?


歴史先生:記録に残っているのは江戸時代の文献なので、後世の創作ではないかという説もありますが、たとえそれが後世にできた話だとしてもそれの元となったエピソードがあることも多いので、ここでは本当にあったことだという想定で見学いたしましょう。


三成が秀吉に献上したお茶の水を汲んだと言われる井戸


歴史先生:参道から左側へ少し外れたところに、三献の茶の使われたという古い井戸があります。


マナブ:そんなものも残っているんですね。


観音寺 惣門(国指定重要文化財)


観音寺 本堂(国指定重要文化財)


マナブ:古い惣門をくぐって、長い参道を登ります。突き当りにあるのは立派な本堂ですね。


歴史先生:観音寺は770~781年ごろの開基で、鎌倉時代の1259~1260年頃に今の場所に移ってきたとされる古刹。戦国時代には佐々木氏、浅井氏から庇護されていましたが、姉川の戦いで焼失してしまいました。


マナブ:それは残念。


歴史先生:しがしその後、秀吉はこの思い出の場所を深く信仰して、諸堂を再建しました。それだけでなく、自ら観音様を描いて奉納したんだそうです。江戸時代には井伊家から多くの寄進を受けていたようで、この本堂は江戸時代の1715年ごろに再建されたものです。


マナブ:まったく観光地化されていないお寺ですが、有名なエピソードの舞台でもあり、お寺自体もとても由緒あるお寺だったんですね。


歴史先生:さて、長浜の街とその郊外を回ってきましたが、いかがでしたか?


マナブ:秀吉、浅井、信長、三成ら、戦国時代のスターたちの足跡をたくさん見ました。まさに地理的に重要な場所だったんでしょうね。


歴史先生:そうですね。ここは東国と上方を結ぶ、重要な地理的位置を占めています。さて、ここから東へ行くと関ケ原。天下分け目の合戦が2度も行われた場所です。次は関ケ原へ行ってみましょう。


マナブ:いいですね。行きましょう。

​歴史好きのための観光ガイド
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