比叡山延暦寺に7回も焼き討ちされた三井寺
かつての近江大津京のあとに建つ「近江神宮」
全国の日枝神社の総本社、壮大なスケールの「日吉大社」
天台宗3本山の1つ。明智光秀ゆかりの寺:西教寺
戦国武将たちの戦略に翻弄された短命の坂本城・大津城
堅田の沖に浮かぶ絵になる景勝地「浮御堂」。近くには勾当内侍の墓も。
比叡山延暦寺に7回も焼き討ちされた三井寺

三井寺(園城寺)の大門

三井寺(園城寺)(地図 ❹)
〒520-0036 滋賀県大津市園城寺町246
入山料 600円(中高生以下、団体割引あり)
9:00~16:30(最終入場16:00)、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
マナブ:今度は大津市街地の西に広大な敷地を持つ、三井寺(みいでら)にやって来ました。
歴史先生:このお寺は、天智天皇の夢の寺です。
マナブ:というと?
歴史先生:天智天皇は、身近に置いて日常的に拝んでいた(=念持仏、という)弥勒菩薩像を本尊とする寺を建てようとしていたのですが、生前に果たせず。その子の大友皇子はご存じのように壬申の乱で敗れてしまい、父の夢を果たせませんでした。
マナブ:ふむふむ。だいぶ、古い話になってきましたね。
歴史先生:しかし、大友皇子の子である大友与多王は、祖父である天智天皇の念願を果たすべく、ここに寺を建てようとします。時の権力者は壬申の乱の勝者、天武天皇でしたが、686年、大友与多王に寺の建立を許可し、「園城寺(おんじょうじ)」という名を与えました。
マナブ:敗者への寛大な処置、ということだったんでしょうか?
歴史先生:壬申の乱は672年のことですから、戦後すでに14年が経過しています。そのころには旧大友皇子の勢力はすでに脅威ではなくなっていたのでしょう。

本堂の脇にある霊泉を覆う1,600年建立の閼伽井屋(あかいや)(国指定重要文化財)

天智、天武、持統天皇3代の産湯に使われた霊泉

閼伽井屋の上にある龍の彫刻は左甚五郎によるもの。夜になると琵琶湖へ出て悪さをしたので左甚五郎が五寸釘を目に打って鎮めたとの伝承がある。
マナブ:ところで、園城寺という名前よりも三井寺、という名前のほうが知られていますよね?
歴史先生:境内に湧き水があるのですが、これが天智天皇、天武天皇、持統天皇の産湯に使われたという伝承から、三つの井戸、ということで一般的には三井寺と呼ばれるようになったようです。
マナブ:なるほど。
歴史先生:さて、その後三井寺は比叡山の第5代天台座主、智証大師が天台別院として発展をさせます。そのため三井寺にとって智証大師は中興の祖と呼ばれ、以来1,200年の栄華の歴史を誇ります。
マナブ:いわば比叡山延暦寺のふもとの支店、という感じでしょうか。
歴史先生:えーっと、そこが実は微妙なところでして、比叡山延暦寺の人たちはそう思っているのですが、三井寺の人たちはむしろこちらのほうが古いのだから、三井寺が本山で、延暦寺はその傘下に位置すると考えていました。
マナブ:どっちが本店でどっちが支店かわからない・・・
歴史先生:そういうことです。不幸なことに両者は事あるごとに対立し、延暦寺は「山門」、三井寺は「寺門」と呼ばれ、いわゆる「山門寺門の抗争」が続きました。1081年から1319年までの間に延暦寺によって三井寺は実に7回も焼き討ちされ、その都度全焼してしまいます。
マナブ:7回も! 延暦寺もけっこうひどいことをしますね。
歴史先生:それだけではなく、三井寺は平安時代末の1180年には以仁王の挙兵を支持しましたが、それに敗れて焼かれ、続く鎌倉時代にはここで僧侶として育てられた公暁(2代将軍源頼家の子)が3代将軍源実朝を暗殺するという大事件を起こして鎌倉幕府から冷遇されます。
マナブ:不幸が続きますね。
歴史先生:南北朝時代には北朝を支持しますが、1336年、東北から京都へ向かって攻め上ってきた北畠顕家にまたもや焼かれてしまいます。そして時代は戦国へ。今度は信長が登場します。
マナブ:うわっ、今度は信長に焼き討ちされた?
歴史先生:いいえ。今度は三井寺は信長を支持しました。そして信長はここを本陣として比叡山を焼き討ちしたんです。
マナブ:おぉ。過去の痛い経験から学んだのかな。いや、それよりも比叡山への憎しみが重なって、信長を使って比叡山に復讐したのかもしれませんね。
歴史先生:はい、そういうことも大いにあったと思います。

三井寺の境内案内図

大門(仁王門)(国指定重要文化財)
マナブ:ではさっそく入ってみましょう。まずはここ、大門(仁王門)から。
歴史先生:この門も古いですよ。1452年に建てられたもので、元は滋賀県湖南市にある湖南三山の1つ、常楽寺の門でした。これを秀吉が伏見城に移し、1601年、関ケ原の戦勝を記念して家康が三井寺に寄進しました。
マナブ:建物って、ずっと昔からそこにあるように思っていましたけど、けっこう移築されたりしてるんですね。
歴史先生:はい、どこそこの城の遺構がどこそこのお寺に移築されたとか、そんな話は非常に多いんです。

金堂(国宝)
マナブ:さて、正面の階段を上ると大きなお堂が見えてきました。これが金堂、ですね?
歴史先生:はい、国宝の金堂です。桃山文化の代表的な優雅な建築と言えるでしょう。こちらは1599年に北政所(きたのまんどころ)によって再建されました。
マナブ:北政所、というと秀吉の奥さん?
歴史先生:そうです。関ケ原の前年ですからすでに秀吉は亡くなった後ですね。
マナブ:ここが三井寺の本堂、になるんですか?
歴史先生:はい、そうです。ここには天智天皇の弥勒菩薩が「絶対秘仏」として納められているんですよ。この仏像、百済から渡来して天智天皇が身近に置き、大切にしていたものなんです。
マナブ:絶対秘仏?
歴史先生:秘仏、と言われるものの多くは何年ごとにご開帳、とかがされますが、絶対秘仏は一切開帳されません。
マナブ:ということは誰も見ていない?
歴史先生:ということになりますね。写真すらありません。他に有名な絶対秘仏としては長野の善光寺の阿弥陀三尊立像。その代わりとして前立ち像というのがあって、それが6年に一度開帳されます。
マナブ:代わりになるものさえ、6年に一度・・・。
歴史先生:それから浅草の浅草寺の観音様。見たことないでしょ?
マナブ:たしかに、本堂へ何度もおまいりしましたが、これがご本尊、というのは見た記憶がないです。
歴史先生:浅草寺の聖観音像も絶対秘仏なんです。
マナブ:そうだったんですか。
歴史先生:さて、三井寺の弥勒菩薩像についてです。天智天皇よりさらに100年ほど前の時代、中国に天台宗の祖の一人で「慧思(えし)」という人がいたのですが、その方が修行をされている時に弥勒菩薩が降臨され、自らの分身として像を残されました。この像は常に光を放ち、さわると温かかったそうで、まるで「生けるがごとし」と言われていました。
マナブ:まさに弥勒菩薩様そのもの・・・。
歴史先生:はい。その像は日本へ伝わり、天智天皇が身近に置かれて崇拝されたとか。
マナブ:そんな貴重なものなんですね。ますます見てみたい。国宝ですか?
歴史先生:いえ。誰も見たことがないので、国宝に認定するかどうかの調査もできません。
マナブ:あ、そうか。でも、きっと大きいんでしょうね。高さ何メートル、とか。
歴史先生:いえ、意外なんですが、お寺に伝わる話では、大きさはわずか9.7cm。手のひらサイズ、なんだそうです。
マナブ:え、それは意外。
歴史先生:逗子に納められていて、その逗子自体も堅く塗り固められているので、開けることはできないそうです。
マナブ:そうだったんですね。
歴史先生:三井寺は何度も焼き討ちにあっています。にもかかわらず、今ご本尊が残っているのは、いざという時に持ち出せるサイズだったことが幸いしているんでしょう。災難にあうたびに、必死の思いでこのご本尊を守った人たちがいることを忘れてはなりませんね。

鐘楼(国指定重要文化財)

三井の晩鐘
マナブ:金堂のとなりに鐘楼があります。「三井の晩鐘」って書かれています。
歴史先生:はい、また出ました、近江八景。三井の晩鐘(みいのばんしょう)として知られている鐘です。平等院、神護寺とならぶ日本三名鐘の1つ、とされます。音の良さでも知られているんですよ。
三井の晩鐘(みいのばんしょう)
https://da.shiga-pref-library.jp/item/detail/?id=0500022
マナブ:昔からある鐘なんですか?
歴史先生:この鐘自体は1602年の作、ですのでそれほど古くない。それ以前にも8世紀に造られたとされる大きな鐘があったのですが、それはどうなったと思います?
マナブ:え? まったくわかりません。
歴史先生:さっき、比叡山が何度も焼き討ちした、という話がありましたね。
マナブ:あ、それでは焼き討ちされた時に鐘も焼けてしまった?
歴史先生:いえ、焼けはしませんでしたが、比叡山に持っていかれたんです。
マナブ:(笑)いやいや、比叡山に鐘を持って帰るなんて、さすがに重すぎでしょう?
歴史先生:でも比叡山には力持ちがいました。
マナブ:あ、弁慶だ。
歴史先生:そうです。で、その鐘なんですが、「弁慶の引きずり鐘」としてこの寺にあるんです。偽物ではなくて、ちゃんと国指定重要文化財、なんですよ。
マナブ:ということは、あとで返してもらったとか?
歴史先生:いいえ。弁慶がこの鐘を引きずって比叡山を上っていると、鐘が「帰りたい、帰りたい」と泣いたんだそうです。怒った弁慶は「そんなに帰りたいなら帰れ」といって乱暴に谷底へ投げ捨てました。その時のヒビや傷が今でも残っています。高さ約2m、直径約1.2m、重さ2.25トンという大きな鐘なんです。
マナブ:いやいや、どこまでが本当の話かよくわからなくなってきました。

弁慶の引きずり鐘(国指定重要文化財)

毛利輝元が1602年に山口県のお寺から移築寄進した一切経蔵(国指定重要文化財)

三井寺で最も清浄な場所とされる「唐院」にある灌頂堂(国指定重要文化財)と三重塔(国指定重要文化財)

彩色のあざやかな毘沙門堂(国指定重要文化財)
マナブ:境内を歩いていますが、立派な建物ばかり。どれも古い時代のもので、重要文化財だらけですね。
歴史先生:今日は行きませんが、光浄院客殿、勧学院客殿という2つの国宝建築もあり、事前の申し込みで見学が可能です。

観音堂(国指定重要文化財)

観月舞台(国指定重要文化財)

観月舞台のそばから見た琵琶湖
マナブ:石段を登って、観音堂の前に来ました。
歴史先生:ここも三井寺の中では重要なエリアです。観音堂ですが、智証大師作と言われる如意輪観世音菩薩像(国指定重要文化財)が御本尊の秘仏で、33年に一度、ご開帳されます。
マナブ:ん? それって石山寺で聞いたのと同じ話ですね。
歴史先生:さらにそのすぐ前には観月舞台があって、琵琶湖が見えるんです。
マナブ:石山寺では瀬田川が見えていました。なんだかよく似ていますね。
かつての近江大津京のあとに建つ「近江神宮」

森の中に建つ近江神宮

近江神宮 (地図 ❺)
〒520-0015 滋賀県大津市神宮町1−1
入場無料
9:00~16:30、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
マナブ:三井寺から車で5分ほどの近江神宮に来ています。
歴史先生:今回の旅で唯一の「神宮」です。ところでここは昔、近江大津宮(おうみおおつのみや)があった場所と推定されています。
マナブ:近江大津宮?
歴史先生:飛鳥時代に、都が一時期ここ大津に移ったのをご存じですか?
マナブ:いいえ、聞いたことがあるような、ないような・・・。
歴史先生:ではそこからお話ししますね。登場人物は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)。この人は後の・・・
マナブ:天智天皇。
歴史先生:はい、そうですね。645年の乙巳の変(いっしのへん)で蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子ですが、その後大変な事態に巻き込まれます。
マナブ:というと?
歴史先生:友好国であった百済が唐と新羅の連合軍によって滅ぼされ、日本に救援を求めてきました。そこで日本は水軍を派遣するのですが・・・
マナブ:あ、それは白村江(はくすきのえ)の戦い!
歴史先生:そうです、そうです。朝鮮半島西岸の白村江で、日本水軍は大敗を喫してしまいました。663年のことです。
マナブ:困ったことになりました。
歴史先生:となると、次なる心配は、唐・新羅の連合軍が日本に攻めて来るのでは、ということになりますね。そのため中大兄皇子は今の福岡県から瀬戸内沿岸にかけて、多数の山城を築き、防衛体制を急激に整備します。
マナブ:うーん、でもそれにはお金もかかりますし、強いリーダーシップが必要ですね。
歴史先生:いいポイントです。そこで中大兄皇子は667年、都を飛鳥から近江大津へ移しました。翌668年にはそこで天智天皇として即位しています。抵抗勢力を排除して、全く新しい中央集権的な政治体制を作ろうとしたのではないか、というのが理由の1つとして考えられます。
マナブ:でも増税とか使役とか、人々は苦しんだのでは?
歴史先生:どうもそのようですね、日本書紀によると人々が天智天皇の体制に不満を抱き、大津宮では放火が相次いだとか。
マナブ:で、どうなったんですか?
歴史先生:671年、まだ46歳でしたが天智天皇は崩御します。そしてその後継者として息子の大友皇子、弟の大海人皇子が争ったのが壬申の乱。これに勝利した大海人皇子は天武天皇となって、都を飛鳥に戻しました。
マナブ:ということは、近江大津宮はわずか4~5年?
歴史先生:そうなんです。
マナブ:今は何か残っているんですか?
歴史先生:周囲の発掘から柱穴などは見つかっていますが、都の範囲や主要な建物の様子などは詳しくはわかっていません。
マナブ:さて、それを踏まえて・・・この近江神宮は何でしょう?
歴史先生:実はこの神社はかなり新しいんです。1938年(昭和13年)、昭和天皇の勅旨によって建設が始まり、1940年(昭和15年)に完成しました。かつて都があった土地に何かを残そう、という市民運動が盛んにおこなわれた結果でした。
マナブ:東京の明治神宮や奈良の橿原神宮も同じころ?
歴史先生:明治神宮は1920年(大正9年)、橿原神宮は1890年(明治23年)創建ですから、これらはもう少し古いです。しかし、これらの新しい神宮は天皇家の権威の象徴として、人々を戦争に駆り立てていったという役割をすくなからず担ったことでしょう。

朱色が美しい楼門

雄大な広がりを感じさせる外拝殿

神聖なる中拝殿
マナブ:境内に入ってきました。きれいに整った、清々しい場所ですね。
歴史先生:天智天皇は日本で初めて時計を設置して人々に時刻を知らせたことから、近江神宮には時計にまつわる資料を集めた時計館があります。
マナブ:初めての時計ってどんなものだったんだろう?
歴史先生:「漏刻(ろうこく)」というのですが、容器に水を少しずつ入れていっぱいになる時間を測る水時計だったようです。
マナブ:なるほど。
歴史先生:それから近江神宮は百人一首の競技かるたの選手権が行われる場所としても知られています。なぜここだか、わかりますか?
マナブ:えーっと、なぜだろう?
歴史先生:百人一首の第1首目、これが天智天皇なんです。
マナブ:あ、そうか。
歴史先生:「秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ」、ですね。
全国の日枝神社の総本社、壮大なスケールの「日吉大社」

日吉大社 赤鳥居

日吉大社 (地図 ❻)
〒520-0113 滋賀県大津市坂本5丁目1−1
入場500円
9:00~16:30、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
マナブ:近江神宮から車で10分ほどのところにある日吉大社に来ました。ここは「大社」ですね。
歴史先生:はい、名前からして重要な神社であることがわかりますが、ここは全国に3,800もあると言われる日吉神社、日枝神社、山王神社の総本宮なんです。
マナブ:おぉ、それらの名前の神社、たくさんありますよね。でも、名前がいろいろとあってややこしい。
歴史先生:そもそも、なんですが、日枝神社の「ひえ」というのは比叡山から来ています。ここは比叡山の守護神。古事記では比叡山のことを日枝山、と書かれています。
マナブ:ふむふむ。
歴史先生:「日枝」という漢字を好字(こうじ:良い意味を持った漢字のこと)で表すと「日吉」となり、それを「ひよし」と読んだのが日吉神社の始まり。
マナブ:ほぅ。
歴史先生:「山王」というのはまたあとで説明しますね。
マナブ:なるほど。ここまででわかったこととして、比叡も日枝も日吉も同じことなんですね。
歴史先生:そうなんです。さぁ、境内に入っていきましょう。神社としてはめずらしく、中に入るときに1人500円を納めます。
マナブ:たしかに。神社ではあまり見ないかも。

日吉大社の山王鳥居。日吉大社独特の形をしている。
歴史先生:私たちはレンタカーで来たので、山王鳥居の近くの駐車場からのスタートです。
マナブ:これが山王鳥居、ですね。これってどこかでこの形を見たような・・・。
歴史先生:マナブさんは東京の赤坂で働いていたことがありましたよね。おそらく赤坂の日枝神社の大鳥居ではないですか?

東京赤坂にある日枝神社の山王鳥居
マナブ:あ、そうだそうだ。外堀通りにあって、そこからエスカレーターで参拝するんです。
歴史先生:あれって裏口って、知ってました?
マナブ:え? あれが表の参道かと思ってましたけど・・・。
歴史先生:それはまた現地・赤坂に行ったときに確かめましょう。今日はその総本宮に来ていますので、たっぷり楽しみましょうね。

神馬と神猿
マナブ:あれ、神社によくある神馬の建物がありますが、その隣に「神猿」、って書いてある。あ、本物の猿がいる。
歴史先生:神猿、と書いて「まさる」と読むのですが、「魔が去る」に通じることから、日吉大社では猿を神のお使いとして大事にしているんですよ。


西本宮楼門(国指定重要文化財)
マナブ:立派な門が見えてきました。
歴史先生:日吉大社は「西本宮」と「東本宮」に分かれています。ここは西本宮。天智天皇が即位した668年に奈良県の大神神社から大己貴神(おおなむちのかみ)を勧請して、建てられました。
マナブ:あ、それって建部大社に似ていますね。
歴史先生:そうなんです。元々ここは大山咋神(おおやまくいのかみ)という神様が祀られていて、それは今の東本宮です。
マナブ:大山咋神って、あまりなじみがないのですが。
歴史先生:大きな山に、くい(杭)を打つ神様、つまり山を所有している神様で、別名を「山王」と言います。鳥居の上に三角がついているのも、あれは山の神を表しているんですね。
マナブ:あ、山王って、そういう意味なんですね。これで神社の名前の謎が解けました。
歴史先生:大山咋神を祀った東本宮の歴史は古く、西暦184年の創建と伝わります。
マナブ:いやいや、ちょっとそれは古すぎるような・・・。
歴史先生:古事記によれば、天孫降臨の前からここ近江の国の日枝山に鎮座していたらしいです。琵琶湖側から見ると、比叡山は三角形の秀麗な山容で、古くから山岳信仰の対象でした。
マナブ:へぇー。それだったら古すぎ、ではないのかもしれないな。
歴史先生:よって日吉神社は大山咋神を祀る神社だったんですが、鎮座から約500年後の668年に奈良から大己貴神を招くと、今度はこちらの方が格上の神様、ということになって、その後は西本宮のほうが東本宮よりも大切にされたようです。
マナブ:えぇっ。大山咋神から見れば、「ここは俺の神社だ」と長い間思っていたでしょうに。なんだか神様の世界にも理不尽さを感じます。
歴史先生:そうですね(笑)。さて、この地で栄え始めた日吉神社ですが、788年、山の上に延暦寺ができます。延暦寺は比叡山にある山のお寺ということで、比叡山を守る山の神を尊敬するようになり、山王権現として神仏習合の動きが出てきます。
マナブ:日吉大社と比叡山延暦寺が仲良くなるわけですね。
歴史先生:その後、比叡山延暦寺と日吉大社は関係を深め、一体化が進みました。日吉神社のある坂本は比叡山延暦寺の門前町として栄えます。
マナブ:なんだかちょっと嫌な予感がしてきましたよ・・・。
歴史先生:そうなんです。その後、日吉神社は大変な災難にあいます。1571年に信長が比叡山を焼き討ちした際、山の上だけでなく、山のふもとの坂本地区も焼き尽くされました。
マナブ:やっぱり・・・。比叡山延暦寺と一体化したような神社ですものね。
歴史先生:日吉大社はその際に全焼しました。しばらくは復興できなかったのですが、西本宮は最も大切な場所ということで、この西本宮楼門、それから中にある本殿・拝殿が一番に再建されました。1586年ごろ、と言われますから、それでも信長の焼き討ちから15年が経過しています。
マナブ:それにしても悲惨な話ですね。

西本宮楼門の猿
歴史先生:悲惨な話の後はここでちょっと、ほっこりしてもらいたいので、楼門のあそこ、何かいるのが見えますか?
マナブ:あ、猿だ。
歴史先生:そうなんです、楼門の屋根を猿が支えているんですね。かわいい遊び心のある建築でしょ?
マナブ:そうですよね。ほっこりしたところで、では、楼門をくぐって中へ入ってみます。

西本宮拝殿(国指定重要文化財)
マナブ:美しい・・・。
歴史先生:まず見えるのが拝殿。とても手の込んだ造りになっています。

西本宮 本殿(国宝)
歴史先生:そしてその奥にあるのが、国宝の本殿です。日吉造りという、日吉大社独特の作りになっています。
マナブ:さすが国宝。なんだか威厳のようなものを感じます。

東本宮 楼門(国指定重要文化財)
マナブ:少し歩いて東本宮へ来ました。西本宮と同様、立派な楼門が見えます。

東本宮 本殿(国宝)
歴史先生:東本宮の本殿です。さすがに国宝だけのことはあります。みごとな建築ですね。これは1595年再建、と伝わりますから西本宮からは9年遅れたんですね。
マナブ:うーん、こっちが元々の本家なのにな・・・。
歴史先生:ところで、このあたりの地区は坂本、と言いますが、お隣の地区は穴太(あのう)と言います。聞いたことありませんか?
マナブ:穴太、ですか?
歴史先生:お城の石垣を積む技術者集団で、築城に大活躍した人たち。ここ穴太出身に人たちは穴太衆(あのうしゅう)は安土城の石垣造りで名をあげ、その後は全国の築城にひっぱりだこ。
マナブ:滋賀県にはそういった歴史もあるんですね。
歴史先生:では次に車で5分ほど大津方面に戻ります。琵琶湖湖畔にある小さな神社に行きましょう。

唐崎神社

唐崎神社 (地図 ❼)
〒520-0106 滋賀県大津市唐崎1丁目7−1
境内自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://hiyoshitaisha.jp/karasaki/
マナブ:「唐崎神社」というところに来ました。
歴史先生:ここは日吉大社の摂社の1つ。日吉大社で代々別当を務めた家の祖先である琴御館宇志丸(ことのみたちうしまる)という人がここに住んでいて、松を植えたそうです。668年、奈良から大己貴神を招いたとき、琵琶湖を渡ってここに上陸されました。
マナブ:ここはちょうど琵琶湖に面していて、日吉大社への入口になるようなところですよね。
歴史先生:はい。そしてこの神社自体はその後の697年、持統天皇によって創建されたと伝わります。琴御館宇志丸さんの奥さんが祭神になっていて「女別当社」と呼ばれ、婦人病に霊験があるとして広く信仰を集めました。
マナブ:女性天皇による女性のための神社、ですね。

唐崎神社の松の木
歴史先生:神社の裏手にある松の木が有名で、近江八景の「唐崎の夜雨」(からさきのやう)。
マナブ:また出ましたね、近江八景。
唐崎の夜雨(からさきのやう)
https://da.shiga-pref-library.jp/item/detail/?id=0500024
歴史先生:黒い雲から激しい雨が唐崎神社の松の木に降り注いでいる絵、というユニークな景色です。
天台宗3本山の1つ。明智光秀ゆかりの寺:西教寺

坂本城から移築された西教寺総門。

西教寺 (地図 ❽)
〒520-0113 滋賀県大津市坂本5丁目13−1
入山料 500円
9:00~17:00(最終入場16:00)、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
マナブ:日吉大社から車で5分もかからないところにある「西教寺」に来ています。
歴史先生:ここは聖徳太子創建、と伝わりますが、創建年代ははっきりとした記録が残っていません。一説には聖徳太子の時代の618年の創建で、669年に天智天皇から西教寺という号を下賜された、ともされています。
マナブ:でも相当古い、ということだけは言えそうですね。
歴史先生:寺が栄えるのは室町時代、1486年の比叡山で修業していた真盛(しんせい)が山から下りてこの寺に入り、中興の祖となってから。真盛はここで天台真盛宗を開き、今では天台真盛宗の全国の総本山として400余りの末寺を持つようになりました。
マナブ:ここも総本山・・・。
歴史先生:はい。比叡山延暦寺、三井寺と並んで、天台宗の3つの総本山の1つとして君臨しています。
マナブ:このあたり、すごいお寺がたくさんありますね。
歴史先生:ところでこのお寺でも猿が大切にされているんです。
マナブ:日吉大社でも神猿、として大切にされていましたね。
歴史先生:西教寺では真盛が猿に命を助けられました。
マナブ:というと?
歴史先生:1493年、徳政一揆が起きました。徳政一揆というのは室町時代、民衆が借金に苦しみ、政府に対して「徳政令」を出せ、と要求して立ち上がった事件です。徳政令というのはこれまでの借金をなかったことにする、という政府の通達ですね。
マナブ:それだけ民の暮らしは苦しかった・・・。
歴史先生:はい、そうです。そこで一揆が起きたわけですが、比叡山の僧兵たちが一揆を鎮圧しようと山から下りて来たんです。彼らは西教寺の真盛が一揆を先導したのではないかと疑っていました。西教寺の本堂から鉦の音が絶え間なく聞こえていたので、僧兵たちが踏み込んでみると、なんと本堂には猿がいて、鉦を叩いて念仏を唱えていました。それを見た僧兵は、「坂本では猿までが教化されているのか」と驚き、感心して引き上げていったんだそうです。
マナブ:へー、そういう話があったんですね。
歴史先生:日吉大社では神猿(まさる)と呼ばれていたのに対し、西教寺では護猿(ござる)、と呼ばれています。
マナブ:なるほど。ではさっそく中に入りましょう。

境内案内図

西教寺の総門を入ったところの参道
マナブ:すがすがしい参道ですね。
歴史先生:そうですね。よく整備されていて気持ちのいい境内です。

勅使門(左)と通用門(右)
歴史先生:参道の正面は勅使門。ここは通れないので、右側の通用門から入っていきます。

本堂のエリアへは槻坂を登る
マナブ:石段を登って広い場所に出てきました。右側の大本坊から入って、中を拝観いたしましょう。

大方丈から本堂 (国指定重要文化財)、客殿(国指定重要文化財)へと続く回廊

安土桃山から江戸初期にかけて大名庭園を多数手がけた小堀遠州作による「客殿庭園」

1739年(江戸中期)に再建された本堂
マナブ:いや、立派な江戸建築、桃山建築、を堪能しました。大きいお寺ですね。
歴史先生:では今度はこちらを見てください。明智一族のお墓はここにあります。
マナブ:あ、ほんとだ。

明智一族の墓
歴史先生:ここ西教寺は明智光秀ゆかりのお寺。
マナブ:でも、待ってください。明智光秀は信長の家来。坂本や比叡山を焼き討ちした側ですよね?
歴史先生:はい。比叡山焼き討ちの際、ここ西教寺も焼かれました。明智光秀は信長から比叡山の戦後処理を任されます。またその功績から、信長から坂本一帯を領地として与えられ、坂本城に入ることになりました。
マナブ:ふむふむ。
歴史先生:ここ坂本を治めるにあたり、明智光秀は西教寺の復興に努め、寄進をした記録も残っています。信長の意向がどうであったのかわかりませんが、比叡山焼き討ちに後ろ向きであった光秀は西教寺にできるだけの支援をしたものと思われます。

とび太 光秀バージョン
歴史先生:ところで、これ、ご存じですか?
マナブ:滋賀県に入ってからずっと気になっていたんです。道路わきのあらゆるところにこの飛び出し坊やみたいのが置かれていて、ちょっと数が多すぎではないかと。
歴史先生:そうですよね。「とび太」って呼ばれていて、滋賀県内ではとってもたくさん設置されているんです。しかもご当地バージョンがいろいろあって、ここは光秀バージョンが置かれていますね。
マナブ:ここ、車の来ないお寺の境内ですよ。もはや飛び出しの注意喚起じゃなくなってますね(笑)。

唐門

外から見た唐門

唐門には左右に麒麟の彫刻が。

唐門から見える琵琶湖、正面は三上山
歴史先生:真盛を祀る宗祖大師堂の入口に、唐門があります。
マナブ:立派な唐門ですね。
歴史先生:門を通して見える琵琶湖、どうですか?
マナブ:わー、これはきれいですね。
歴史先生:唐門でもう1つ見てほしいものがあります。外側に来てください。
マナブ:はい。
歴史先生:ほら、門の上に麒麟の彫刻がありますよ。
マナブ:たしかに。
歴史先生:何か気が付きませんか?
マナブ:というと?
歴史先生:明智光秀が主人公のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」。
マナブ:あ、そうか。麒麟がくる、のタイトルはここから?
歴史先生:かもしれませんね。
戦国武将たちの戦略に翻弄された短命の坂本城・大津城

坂本城址公園にある明智光秀像

坂本城址公園にある看板

坂本城址公園 (地図 ❾)
〒520-0105 滋賀県大津市下阪本3丁目1
入場自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://otsu.or.jp/sengoku/sakamoto.html
マナブ:さて、比叡山の入口である坂本の琵琶湖湖岸にある、坂本城址公園に来ました。
歴史先生:坂本城、というのは非常に立派なお城だったようなのですが、今では湖岸に石垣の一部を残すのみ、となっています。この公園も実際の城跡の中ではなく、その南側にあります。
マナブ:さっそく明智光秀像がありますね。ここはどういうお城だったんですか?
歴史先生:比叡山焼き討ち後、信長はそこでの功績に対する恩賞として明智光秀に志賀郡5万石と与えます。1571年の築城、と言いますから、比叡山焼き討ちをしたその年にできているんですね。
マナブ:仕事、早いな。

坂本城址公園にあるCG復元図
歴史先生:ここ坂本城は日本で最初の天守を持った城であり、しかも大天守と小天守を持つ連立式天守だったことがわかっています。
マナブ:日本の城の建築を考えるうえで、画期的な城だったんですね。
歴史先生:そうなんです。しかしその11年後、1582年に本能寺の変が起きます。明智光秀は山崎の合戦で敗れ、亡くなります。その時、安土城を守っていた甥の明智秀満はその知らせを聞いて坂本城へ帰還。天守に放火して自刃し、この時、坂本城も燃え尽きてしまいました。
マナブ:とっても短命な城だったんだ。
歴史先生:その後、再建の話もありましたが、大津城を新たに築城する、ということになり、資材は大津城へと移されたようです。では次に大津城へ行ってみましょう。

大津城跡の石碑

大津城址 (地図 ❿)
〒520-0047 滋賀県大津市浜大津5丁目2−29
入場自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/875/
マナブ:さて、大津市の中心部に戻ってきました。現在、浜大津駅や遊覧船の乗り場のあるところ、ここが大津城だったんですね?
歴史先生:はい、まさにここでした。ここ大津は戦略的要地。豊臣秀吉はここに目をつけて、ここ大津を中心に近江の支配を組み立て直そうとしました。
マナブ:というと?
歴史先生:まず、これまでの近江から京都へのルートは、坂本から山中越えを通って京都へ達するルートでした。
マナブ:あ、そこは比叡山へ車で登るときに通った道ですね。
歴史先生:そうです。秀吉はこれを大津から「逢坂の関」を越える、今の新幹線や国道1号線のルートに変えます。そうなるとここ大津は非常に重要な場所になり、ここに新たに築城をしました。1587年頃、と推測されます。
マナブ:1587年というと・・・
歴史先生:本能寺の変が1582年ですから、その5年後。1583年には賤ヶ岳の戦いでライバルの柴田勝家を破っていますから、まさに秀吉が天下をまとめようとしていた時期です。
マナブ:なるほど。
歴史先生:この大津城は初代城主の浅野長吉(1587年)、2代目増田長盛(1589年)、3代目新庄直頼(1591年)と続き、4代目には近江八幡城の城主だった京極高次(1595年)が城主になります。
マナブ:ずいぶんコロコロと城主が代わっていませんか?
歴史先生:そうですよね。さて、そして運命の1600年がやってきます。
マナブ:関ケ原の戦いだ。
歴史先生:はい。ここ大津城を守っていた京極高次はこの時東軍(徳川方)についています。そして西軍の中で、最もその知勇が恐れられた九州の柳川を拠点とする戦国大名、立花宗茂がここ大津城を攻めます。
マナブ:関ケ原の本隊同士の戦いとは別に、ということですね。
歴史先生:そうなんです。この立花宗茂というのは連戦連勝の名将で、敵よりも早く撃てる鉄砲隊を整備して戦場では無類の強さを誇りました。
マナブ:そんな強い戦国大名が大津城を攻めてきた・・・
歴史先生:大津城を攻めるにあたり、立花宗茂は大砲を大津城から約1㎞離れた長等山(三井寺の裏手の山)の上に設置。そこから大砲を打ち込むという、当時では常識で考えられなかった新戦法を繰り出します。
マナブ:そんなに遠くから撃たれたのでは、籠城している兵はどうしようもないですね。
歴史先生:これによって京極高次は降伏。西軍は大津城を手に入れるわけですが・・・
マナブ:本隊が関ケ原で負けてしまった・・・
歴史先生:そうなんです。よって立花宗茂の戦いもここまで。徳川家康によって改易させられてしまいます。

大津城の跡地では再開発が進む
マナブ:で、大津城はどうなったんですか?
歴史先生:1600年の教訓から、ここ大津城は守るのが難しいと判断され、新たに瀬田川沿いに膳所城が築かれます。大津城の建築部材は膳所城や彦根城に使われたそうです。大津は徳川幕府の直轄領となって、蔵が建ち並ぶ流通の拠点として栄えていきました。
マナブ:今は城址らしいあとはあまり見られませんね。
歴史先生:この地区は大津市の中でも中心部。埋め立てや市街化で、城跡はほとんど破壊されてしまいました。近年の発掘によって本丸の建物の礎石の一部などが見つかっていますが、実物も資料も非常に少ない、悲運の短命のお城、と言えるでしょう。

本丸があったと推定される場所は今では浜大津駅になって賑わっている。
堅田の沖に浮かぶ絵になる景勝地「浮御堂」。近くには勾当内侍の墓も。

満月寺 浮御堂

満月寺 浮御堂 (地図 ⓫)
〒520-0242 滋賀県大津市本堅田1丁目16−18
拝観料 300円
8:00~17:00、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/91/

浮御堂へ行くには無料の「堅田観光駐車場」(滋賀県大津市本堅田1丁目15−7)が便利。場所がわかりづらいので住所をカーナビに入れるとよい。トイレあり。浮御堂のすぐ手前にも7台分の駐車場があるがすぐにいっぱいになる。こちらにはトイレはない。

浮御堂の入口
マナブ:琵琶湖の西岸を北上して、満月寺 浮御堂までやって来ました。ここの景色、有名ですよね。
歴史先生:はい。実に美しい。渡っていきましょうか?
マナブ:えっ、渡っていくことができるんですか?

浮御堂へは橋を渡っていくことができる

浮御堂から見た北側の景色。琵琶湖大橋が見えている。
マナブ:間近でみる浮御堂もいいですね。そしてここに来ると琵琶湖の水の感じとか、風を感じる・・・。
歴史先生:浮御堂をぐるっと一周できます。
マナブ:ここは何のための建物なんですか?
歴史先生:ここを建てたのは源信というお坊さん。恵心僧都(えしんそうず)とか横川僧都(よかわそうず)とも呼ばれます。
マナブ:横川、ということは比叡山にいた人?
歴史先生:はい。比叡山の横川で修業した人で、元三大師の弟子です。
マナブ:あ、あの疫病退散の角大師の人。
歴史先生:そうです、そうです。彼を有名にした著作が「往生要集(おうじょうようしゅう)」。死後、極楽浄土に行くには生前から仏に帰依して一心に念仏を唱えるしか道はない、などと説きました。
マナブ:いつ頃の人ですか?
歴史先生:ちょうど藤原道長や紫式部の時代。道長は彼に帰依していますし、紫式部は源氏物語の中で「横川の僧都」という、彼をモデルにしたのではないかと思われる人物を登場させています。
マナブ:で、彼がこのお堂を建てた・・・。
歴史先生:はい。源信が琵琶湖の湖上交通安全と人々の救済を願って建立したお寺です。
マナブ:それにしても、見とれるような景色ですね。これってひょっとして・・・
歴史先生:はい、近江八景ですよ(笑)。
マナブ:やっぱり(笑)。
堅田の落雁(かたたのらくがん)
https://da.shiga-pref-library.jp/item/detail/?id=0500026

野神神社
野神神社 (地図 ⓬)
〒520-0241 滋賀県大津市今堅田2丁目32−3
境内自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/150/
マナブ:さて、浮御堂から琵琶湖大橋へ行く途中、小さな神社に立ち寄りました。ここには何があるんですか?
歴史先生:ここは野神神社というのですが、ここには勾当内侍(こうとうのないし)のお墓があります。
マナブ:どこかで聞いたような・・・
歴史先生:「太平記」の時代。新田義貞の奥さんです。
マナブ:あ、たしか熱愛で有名なカップルだったような・・・
歴史先生:そう言われています。新田義貞といえば、1333年に鎌倉に攻め込んで鎌倉幕府を滅ぼし、後醍醐天皇が建武の新政を始めることができた大功労者の一人。後醍醐天皇からの信任も厚い武人でした。
マナブ:ふむふむ。

勾当内侍の墓
歴史先生:勾当内侍は公家の娘で当時後醍醐天皇の後宮に入っていたのですが、新田義貞がそれに一目ぼれ。後醍醐天皇の許しを得て、妻にしたんだそうです。二人はとても仲睦まじかったようです。
マナブ:でも、その幸せは長くは続かなかった・・・・
歴史先生:あ、先に言われてしまいました(笑)。その後、足利尊氏が後醍醐天皇と対立しましたが、一度は新田義貞率いる天皇側の勢力が勝って、尊氏は九州へ落ち延びます。この時、深く追撃をしなかったのは、新田義貞が勾当内侍と一緒に過ごしたいと京都に残ることを決めたから、と太平記は言います。
マナブ:えー、そんな天下分け目の決戦の最中に、いくら好きでも奥さんと一緒にいたいから、なんていうかなぁ?
歴史先生:そうですね。ちょっとこの説には疑問が残りますが、その後足利尊氏は捲土重来。九州から大軍団を率いて京へ攻め上りました。
マナブ:で、新田義貞は?
歴史先生:尊氏の大軍にはとてもかなわず、ここ琵琶湖西岸を北陸へ向かって敗走することになります。勾当内侍はここまでついてきたのですが、これ以上は足手まといということで、ここ堅田で新田義貞と別れました。
マナブ:それがこのあたり。
歴史先生:はい。そして勾当内侍は京都で再会を夢見て待っているのですが、そこへ新田義貞戦死の知らせが入ります。そして新田義貞の首は京都で晒されることに。
マナブ:残酷な話ですね。
歴史先生:勾当内侍は新田義貞の菩提を弔って京都で余生を過ごしたという話もありますが、一方でここ堅田に来て、琵琶湖に身を投げたという話もあります。後者の説をとっているのがここのお墓、ということになりますね。

道の駅 琵琶湖大橋 米プラザ

道の駅から見た琵琶湖大橋

道の駅 琵琶湖大橋 米プラザ (地図 ⓭)
〒520-0241 滋賀県大津市今堅田3丁目1−1
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
歴史先生:では、これから琵琶湖大橋を渡って琵琶湖の東側へ行きましょう。その前に道の駅で小休憩。ここは琵琶湖大橋のビューポイントでもあるんですよ。

