滝山城での反省を基に北条氏照が新たに築いた険しい山城
秀吉によって「見せしめ」とされた八王子城の悲惨な最期
ふもとの居館エリアを歩いてみよう
滝山城での反省を基に北条氏照が新たに築いた険しい山城

御主殿の虎口(こぐち)

マナブ:武蔵陵墓地から車で10分ほど。八王子城に来ました。
歴史先生:ここは幹線道路から1㎞以上入ったところなので、バス停からもかなり遠いです。ここは車での来訪がお勧めです。

マナブ:ガイダンス施設を過ぎると右手に広い無料駐車場があります。ここに車を停めて歩き始めましょう。
歴史先生:まずはガイダンス施設で予習するのがお勧めです。

広い無料駐車場

ガイダンス施設
八王子城跡ガイダンス施設(地図 ❶)
〒193-0826 東京都八王子市元八王子町3丁目2664−2
入館無料
9:00~17:00、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
http://www.city.hachioji.tokyo.jp/kankobunka/003/005/p005205.html
歴史先生:この施設は2012年にできたまだ新しい建物。それほど広くはありませんが、八王子城の歴史をパネルやビデオで紹介したり、出土品などの展示があります。お手洗いもこちらを利用するとよいでしょう。
マナブ:きれいな施設ですね。

ガイダンス施設内部
歴史先生:さて、まず初めに後北条氏のおさらいをしておきましょう。先日滝山城に行ったときに「北条五代」のお話をしましたね。
マナブ:はい。初代の北条早雲から始まって、伊豆から小田原、そして関東一円を支配する、国内屈指の戦国大名になりました。
歴史先生:では北条氏の領地がどの範囲だったのか、こちらのマップを見てください。

北条五代の支配地の拡大(国土地理院地図を基に作成)
マナブ:なるほど。伊豆・小田原に始まって、そこから徐々に北へと勢力範囲を拡大していったんですね。最後は栃木県南部や群馬県まで勢力下になった。
歴史先生:はい、そうですね。
読んでおきたい本
火坂雅志・伊東潤
北条五代

北条五代、約100年に及ぶ壮大な歴史絵巻。信長のような飛びぬけたヒーローではなく、組織の力で関東一円を支配した一族の物語。NHK大河ドラマの原作にもなった「天地人」で知られる著者、火坂雅志氏が執筆途中で急逝されたため、伊東潤氏があとを継いで完成させた。上下2巻。
歴史先生:第3代の氏康はその子である氏照、氏邦の兄弟を先頭に、北関東を攻略します。そして氏照は滝山城に、氏邦は鉢形城に入ってさらなる侵攻の拠点としました。
マナブ:なるほど。
歴史先生:さて氏照の滝山城ですが、先日滝山城に行ったときに、武田信玄によって攻められた話をしましたね。
マナブ:そうでしたね。
歴史先生:城ができたのが1567年ですが、1569年には早くも武田信玄の2万の兵が襲来します。しかし氏照は防御の堅い二の丸に立て籠って抵抗。結局信玄軍は二の丸を落とせず、兵を引き上げました。氏照はかろうじて滝山城を守り切ったわけですが・・・。
マナブ:でもその結果から、滝山城では次に攻められたら危ないと考えて、あらたに八王子城を造った。
歴史先生:そういうことです。滝山城の欠点、覚えていますか?
マナブ:高さが足りない。

滝山城のジオラマ。比較的平坦な丘の上に造られている。
歴史先生:そうですね。高低差が実質60mくらいしかないので、簡単に山の上まで攻められてしまいます。そこで氏照が目を付けたのが標高446mの深沢山。この険しい山頂に本丸を置いて城を造ることを考えていました。
マナブ:今度は十分に高さがありそうですね。
歴史先生:はい、そうですね。ところで、そうこうしているうちに世の中の情勢はまめぐるしく変化します。1573年、脅威であった武田信玄が亡くなり、1582年には武田氏は滅亡します。そして同じ1582年には本能寺の変で信長が亡くなり、今度は秀吉が天下統一へ向かって動き出しました。
マナブ:今度は秀吉があらたな脅威になった。
歴史先生:そのとおりです。秀吉の関東襲来に備えて堅固な城が必要になり、1584年に築城、1587年に氏照は本拠を滝山城から八王子城へ移しました。

八王子城のジオラマ。急峻な山の上に本丸がある。
マナブ:ガイダンス施設にあるジオラマを見ていると、本丸への道はかなり厳しそうですが、山頂まで行けるんですか?
歴史先生:登山道が山頂まで続いていますので登ることは可能ですが、ちゃんと登山としての準備をしてから登った方がよさそうです。
マナブ:そんな感じですね。
歴 史先生:八王子城は山の上の本丸を中心とする「要害地区」と、普段から政務を取ったり生活をしたりする「居館地区」に分かれています。今日は居館地区を回りましょう。
秀吉によって「見せしめ」とされた八王子城の悲惨な最期

御主殿跡

歴史先生:氏照が八王子城に本拠を移して3年。運命の1590年がやってきます。
マナブ:秀吉がいよいよ関東に攻め込んできたんですね。
歴史先生:はい。なかなか秀吉に降伏しない北条氏を直接攻めるべく、1590年3月、20万を超す大軍にて小田原城を取り囲んだんです。北条氏は5万の軍勢で小田原城に籠城しました。
マナブ:北条氏は抵抗を続けたんですね。
歴史先生:はい、これだけの大軍に囲まれて勝ち目はないのに、それでもなかなか降伏しません。となると秀吉としては心理作戦に出ます。6月には小田原城から正面に見える山に一夜城を築いて、城兵たちの度肝を抜きました。また大茶会や宴会を城から見える場所で開き、城兵たちの士気をくじこうとします。
マナブ:それでもまだ降伏しない。
歴史先生:そうなんです。次に秀吉は小田原城以外の支城を見せしめにして、士気をくじくことを考えます。そのターゲットとなったのが、小田原城に次いで重要視されていた八王子城。前田利家、上杉景勝に命じて1万5000の兵を与え、攻撃させます。その際、見せしめとして皆殺しの指示をしたと伝わっています。
マナブ:悲惨な結果が見えますね。迎え撃つ八王子城はどんな体制だったんですか?
歴史先生:城主の氏照はこのとき小田原城に詰めていて不在。城内にいたのは留守部隊3,000人と言われていますが、それには領民や婦女子も多く含まれ、戦える兵士はわずかでした。
マナブ:あとは地形を頼りに守るしかない。
歴史先生:そうですね。あまりにも一方的な戦況のため、前田利家はひそかに降伏を勧めます。でも八王子城側はそれを拒否。最後まで戦うことを選びました。
マナブ:小田原城で殿様ががんばっているのに、私たちが降伏するわけにいかない。死ぬ覚悟ができていたんでしょうね。
歴史先生:そこで23日の未明から前田利家軍が表側から進軍。 多大な犠牲を出しながらもふもとの曲輪群を次々に落とし、御主殿(ごしゅでん)へたどり着きます。

御主殿の滝(この日は水量が少なく、中央奥にチョロチョロとした水の流れが見える)
歴史先生:なだれ込んでくる前田軍の兵士を前に、御主殿にいた侍女たちは滝のある谷へ逃げ、そこで行き場を失って次々に自害。氏照の妻、比左は子供を抱いて御主殿の滝に身を投げたそうです。
マナブ:悲しい話ですね。
歴史先生:1,000人を超える人たちが虐殺され、御主殿の滝の水は三日三晩、血で真っ赤に染まったとか。
マナブ:うーん。言葉になりません。
歴史先生:さて、谷の居館エリアを制圧した前田利家は今度は山に向かって攻め上ります。最初の難関、金子曲輪を激しい銃撃戦の上で制圧。尾根を伝って山頂へと迫りました。
マナブ:山頂近くにはたくさんの曲輪がありますよね。
歴史先生:はい。そこでは城代の横地監物吉信や、氏照の家臣の中でも勇猛で知られた中山勘解由左衛門家範や、狩野主膳入道一庵らが奮戦しました。前田利家の兵の中にも甚大な被害が出たそうです。
マナブ:あれ、前田利家ばかりが出てきますが、上杉景勝は何をしていたんでしょう?
歴史先生:実はこの時、上杉景勝の軍は山の反対側から間道を通って山頂に近づいていたんです。
マナブ:ひやー、それはキツイ。
歴史先生:そして突然背後から現れた上杉軍に城兵たちは大混乱。前面に前田軍との挟み撃ちになって、ついに6月23日の昼頃には本丸も制圧されてしまいました。わずは半日ほどの出来事です。
マナブ:これだけの高さのある堅城でもやはりだめだったんでしょうか?
歴史先生:何と言っても手勢が少なすぎました。八王子城はある程度の守備兵の数と鉄砲があれば、きっと守りきれたはずの堅城です。その少ない手勢でよく戦った中山勘解由左衛門家範や狩野主膳入道一庵の命を惜しんで、前田利家は中山・狩野の2人を救おうとしますが、時すでに遅く、2人は自害して果てていました。
マナブ:死ぬ覚悟ができていた人たちなので、生きていたとしても前田利家の家来になることはなかったでしょうね。
歴史先生:その武勇と忠義を惜しみ、のちに徳川家康は2人の子を家臣として召し抱えたそうです。
マナブ:2人のお家は続いたんですね。悲惨な末路の中に一筋の光明を見た気がします。

小田原城
歴史先生:さて、一方の小田原城。八王子城が落城して皆殺しになったという報せは小田原城に籠城している兵士たちにも伝わります。
マナブ:その知らせを聞いた氏照の心境を想像するととても辛い。
歴史先生:そのショックは大きかったのでしょう。北条氏はついに7月5日に降伏、7月9日に城の明け渡しに応じました。北条氏政、氏照 は切腹。第5代の氏直は高野山へ追放され、北条氏はここに滅亡します。
マナブ:関東の覇王となった北条氏の最後はそういう状況だったんですね。
歴史先生:さて、凄惨な殺戮の現場となったここ八王子城は、その後徳川家康によって「お止め山」、すなわち立ち入り禁止という処置がとられます。
マナブ:祟りを恐れたのでしょうか。
歴史先生:そこはわかりませんが、一般の人が立ち入るべき場所でなかったのは確かですね。そしてそのことが現代、八王子城跡がそのままの形で残されている理由になっているんです。
マナブ:あ、そうか、何も手が加えられていない、当時のままの姿なんですね。
ふもとの居館エリアを歩いてみよう

入口付近には巨大な北条氏の家紋の植え込みがある

マナブ:では実際に八王子城の中を歩いてみましょう。
歴史先生:入口の所に巨大な家紋の植え込みがありますね。北条氏の「三つ鱗(うろこ)」と呼ばれている家紋です。
マナブ:シンプルで幾何学的にもおもしろい形だと思います。
歴史先生:これは北条時政が江ノ島弁財天に参詣した時に大蛇の化身に遭遇し、3つの鱗がそこに残っていたという逸話から作られたものだと言われています。
マナブ:ん? 北条時政って、源頼朝を支援した鎌倉幕府の初代執権ですよね? ということは三つ鱗は後北条ではなくて、鎌倉の北条氏の家紋だった? それを後北条は家紋ごと使っているということですか?
歴史先生:そうですね。つながりは全くないはずですが、名前だけでなく家紋もそのまま継承して後北条家のブランド作りをしているんですね。

家紋の上にある広場には大型の「屋外模型」がある

管理棟
マナブ:管理棟のところまで来ました。
歴史先生:居館エリアへ行くには、ここから左の階段を下ります。

ここを下りる

川沿いの道を進むと見えてくる橋を渡る
マナブ:川沿いの道を進んできました。
歴史先生:この橋を渡りましょう。

大手門があった場所
歴史先生:実はですね、管理棟から歩いてきた道は江戸時代以降に作られた林道で、元々の八王子城への道はこちら側(川の南側)にあったんです。これを「古道」と呼びます。
マナブ:あ、そうなんですね。そしてここが大手門の場所。
歴史先生:今は埋め戻されていますが、この地面の下から礎石や敷石が発掘されました。ここからは昔の通り、古道を歩いていきます。

古道
マナブ:古道は少し高いところを通っているんですね。ここから見ると川のある谷底までは10~20mくらいの高さがありそうです。
歴史先生:そうですね、この谷と川がお堀の役割をしていたのでしょう。

曳橋(ひきはし)
マナブ:対岸へ渡る橋が見えてきました。
歴史先生:これは曳橋(ひきはし)。当時は簡素な橋でいつでも壊すことができた、あるいは引っ張って収納することができたと考えられます。
マナブ:これは滝山城の本丸にも同じようなものがありましたね。
歴史先生:想像してみてください、この橋がなかったら、対岸へ渡るのも一苦労ですよ。

曳橋を渡って御主殿へ

歴史先生:さぁ、曳橋を渡ったところが御主殿(ごしゅでん)(地図 ❷)です。

昔の石段・石垣が見事に復元されている
マナブ:立派な石組が残っていますね。
歴史先生:発掘調査の結果から、可能な限り当時の石垣や石畳をそのまま使って復元されたものです。
マナブ:石段を登っているんですが、一段が高いというか、足が疲れます。
歴史先生:これも防御装置の1つでしょう。現代の建築基準法では階段の1段の段差を23㎝以下にすることが定められています。しかしここの石段は平均で36㎝もあり、しかも段ごとに高さがばらばらなので、実に登りづらいですよね?
マナブ:そうか、ここは上からの弓矢や鉄砲の攻撃を避けながら進む場所。足元を見ないと登れないのでは厳しい。なるほど、そんな細かい工夫もされているんですね。

御主殿の入口にある冠木門(かぶきもん)

御主殿跡
マナブ:石段を上がると広い場所に出ました。ここが御主殿跡(ごしゅでんあと)ですね。
歴史先生:はい。ここには少なくとも2棟の大きな建物がありました。手前右側、礎石が並んでいるところが「主殿」。左奥の土台があるところが「会所」と呼ばれる建物です。

主殿跡には礎石が並ぶ
マナブ:主殿というのは何ですか?
歴史先生:主殿は政務を取った場所と考えられます。

会所は土台部分が復元されている
マナブ:会所は?
歴史先生:客の応接や宴会が開かれた場所と考えられます。会所の前には山を借景とした庭園の遺構が埋まっています。
マナブ:戦国時代真っただ中なんですが、宴会などもあったんですね?
歴史先生:実際、御主殿跡からの発掘品を見ると、明から輸入した陶器だとか、驚くことにベネチ アングラスなども出てきたんです。
マナブ:戦国時代は戦いばかりに集中していたのかと思っていましたが、そんなこともないいですね。
歴史先生:信長も秀吉も茶道の道具を大切にしたり、舶来品を重宝したり、なかなか文化的にも開けた時期だったんです。

ガイダンス施設に展示されている発掘品

御主殿跡から坂道を下る
歴史先生:御主殿跡の脇の谷へ下りていきましょう。雨の後は滑りやすいので気を付けて。
マナブ:川からかなりの高さがあることがわかります。

御主殿の滝
歴史先生:そしてここにあるのが御主殿の滝です。
マナブ:思わず手を合わせてしまうような場所ですね。合掌。

曳橋
歴史先生:帰りは曳橋の下をくぐって、川沿いの林道を通っていきましょう。八王子城、いかがでしたか?
マナブ:北条氏の一族にとって、とても悲惨な出来事があった場所だったんですね。それと同時に小田原開城につながる歴史的なターニングポイントでもあった場所。今まで知りませんでした。 また、お城の構造を考える上で、滝山城に続いてここに来て、実際に違いを感じられたのはとても有意義でした。
歴史先生:ところで「八王子」と言えばいまでは多摩地区を代表する都市ですが、地名の由来、ご存じですか?
マナブ:えーっと、待ってください、たしか八王子というのは神様だか仏様に関係する名前では?
歴史先生:はい、そうなんです。「牛頭天王(ごずてんのう)」ってご存じですか?
マナブ:どこかで見て「変わった名前だなぁ」と思ったことがあるくらいです。
歴史先生:元々はインドの神様で、中国を経て日本にもたらされた、強力なパワーを持つ厄除けの神様です。話は平安時代にさかのぼりますが、913年、のちに八王子城の本丸が造られる深沢山の山頂で妙行というお坊さんが修行をしていました。そこへ牛頭天王が現れ、彼の8人の王子を祀るようにお告げがあったんだそうです。
マナブ:8人の王子!
歴史先生:牛頭天王の8人の王子は眷属神(けんぞくしん)として厄除けや方位をつかさどります。
マナブ:で、8人の王子をお祀りすることになった?
歴史先生:はい。妙行は深沢山を「天王峰」、そしてその周囲の8つの峰を「八王峰」として 祭祀を行います。これが八王子信仰の始まりでした。そして時代は下がって北条氏照。彼はここに城を造る際に8人の王子すなわち「八王子権現」を山頂にお祀りし、神社を建てました。そして城の名前も「八王子城」としたんです。
マナブ:それが今の八王子市の名前の由来なんですね。
歴史先生:はい、そうなんです。八王子というのはとても歴史のある名前なんですよ。

