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登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
「門前仲町」はどこの門前町?
 
江戸で大人気だった「深川不動堂」が明治になって復活
 
相撲とも縁が深い「富岡八幡宮」を歩こう
 
幻の江戸の「三十三間堂」はなぜ消えた?
 
門前仲町から清澄白河までの歴史ウォーク
 
清澄庭園:岩崎弥太郎がリニューアルしたかつての大名の庭
 
江戸六地蔵と松平定信の墓がある「霊厳寺」
 
江戸の町を忠実に再現した「深川江戸資料館」
 
<おすすめレストラン>
深川釜匠

 

「門前仲町」はどこの門前町?

 

門前仲町

 

 

マナブ:今日は地下鉄東西線の「門前仲町駅」に来ています。このあたりはいわゆる下町、ですね。

 

歴史先生:はい、隅田川の東側の下町エリア。「深川」と呼ばれていた辺りを今日は歩きます。ところで「門前仲町」というのはどこの門前、なんでしょう?

 

マナブ:ん? 考えたことがなかった。地図を見ると・・・深川不動の門前、ということですか?

 

歴史先生:実は「永代寺(えいたいじ)の門前」というのが答えなんです。

 

マナブ:永代寺?

 

歴史先生:江戸時代の初め頃、このあたりは中州のような地形で、「永代島」と呼ばれていました。1624年、ここに永代寺が建てられます。1627年にはお隣に富岡八幡宮が建てられ、永代寺はその別当寺(神社を管理・運営する寺)となりました。永代寺は広大な敷地を持っていて、江戸を代表する寺院の一つになりました。

 

マナブ:そういえば東京駅のあたりから東へ延びている大通り、あれは「永代通り」ですね。

 

歴史先生:門前仲町駅や東西線は永代通りの下を通っています。そしてその通りが隅田川を越えるところが「永代橋」。

 

マナブ:あ、そうか。

 

歴史先生:当時は永代寺はそれほど有名な場所だったと言えるでしょう。

 

マナブ:今も地図中で永代寺というのが見えますが・・・。

 

現在の永代寺は深川不動堂の参道にある(右側の建物)

 

歴史先生:はい、深川不動堂の参道にあります。

 

マナブ:今はそれほど大きなお寺ではないんですね。

 

歴史先生:かつては東側の富岡八幡宮から、現在「深川公園」となっている西側までの広い範囲が永代寺の境内でした。江戸時代に繁栄を誇った永代寺ですが、1868年、明治維新の時の神仏分離、そして廃仏毀釈によって完全に廃寺になり、取り壊されてしまったんです。

 

マナブ:ひどい。

 

現在の永代寺

 

歴史先生:当時の永代寺にはたくさんの塔頭(たっちゅう)がありました。その中の一つの「吉祥院(きっしょういん)」という塔頭が永代寺の名前を継いで現在に至っています。

 

マナブ:なるほど。

 

深川公園

 

歴史先生:永代寺境内の西側は「深川公園」となっています。ここが公園になったのは1873年(明治6年)、日本で初めて公立の「公園」になった場所。その時、上野公園、芝公園、浅草公園、飛鳥山公園が公園に指定され、5つの公立公園が誕生したんです。

 

マナブ:他の4つは東京を代表する公園ですね。でも深川公園、というのは知りませんでした。

 

石造燈明台

 

マナブ:立派な石造りの塔のようなものがありますが。

 

歴史先生:こちらは「石造燈明台」。1898年(明治31年)、日清戦争(1894~1895年)の戦勝を記念して建てられたものです。以前は上に灯りを納める建屋があったのですが、関東大震災で崩壊。現在は土台だけが見られます。

 

江戸で大人気だった「深川不動堂」が明治になって復活

 

深川不動堂の入口

 

 

深川不動堂(地図 ❶)

〒135-0047 東京都江東区富岡1丁目17−13

8:00~18:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://fukagawafudou.gr.jp/ 


歴史先生:では有名な「深川不動堂」をお参りしましょう。

 

マナブ:ここは永代寺とはどういう関係なんですか?

 

歴史先生:成田山新勝寺、というのがありますね。

 

マナブ:はい、たしかお不動さんとして人気。

 

歴史先生:はい。江戸の人たちの間で成田山新勝寺のお不動さんは大変な人気でした。しかし実際にお参りするには、ちょっと遠い。

 

マナブ:そうですよね。

 

深川不動堂

 

歴史先生:そこで1703年、成田山新勝寺は「出開帳(でかいちょう)」、すなわち仏様が出張して江戸の人たちにお参りしていただくというイベントを行ったんです。その場所として選ばれたのが広い境内を持つ永代寺でした。

 

マナブ:江戸の人たちは大喜び。

 

歴史先生:はい、このイベントが大変な人気となり、その後も何度も永代寺で出開帳が行われました。

 

マナブ:でも明治になって永代寺がなくなったら、その人気のイベントもできなくなった?

 

歴史先生:そうなんです。そこで1878年(明治11年)、近隣の有志の人たちがかつての永代寺の境内に不動堂を建てて、成田山新勝寺の別院、としたんです。

 

マナブ:あ、それが現在の深川不動堂なんですね。

 

境内の案内図

 

歴史先生:境内の案内図を見てみましょう。正面にある古い建物が旧本堂。左には近代的な新しい本堂が建てられました。旧本堂の裏側には4階建ての内仏殿も新しくできています。

 

新しい本堂

 

マナブ:新しい本堂から中へ入ります。

 

歴史先生:新しい本堂にはご本尊の不動明王像と二童子、そして四大明王像などが移されて、毎日護摩修行が行われています。

 

マナブ:中に入ると新しいビルの感じで、とてもきれいです。

 

旧本堂

 

マナブ:さて、参拝ルートの最後は旧本堂へ。大きな不動明王像が鎮座しています。大迫力の仏像です。

 

歴史先生:大きいですよね。通常の大型仏像でよく用いられる1丈6尺よりも一回り大きい、1丈8尺のサイズで作られています。熊本県天草で自生していた樹齢700年の楠を使ったのだそうです。

 

旧本堂のみごとな装飾

 

マナブ:旧本堂は古い建物のようですね。

 

歴史先生:はい、そうなんですが、元々明治に建てられた最初の本堂は関東大震災、そして空襲で焼失してしまいました。現在の建物は1951年(昭和26年)に千葉県の印旛沼近くにあった龍腹寺の地蔵堂だった建物を移築したものです。

 

マナブ:それはいつできたものなんでしょう?

 

歴史先生:江戸時代の末期、1862年に建てられたものだと考えられています。これは八木紋次郎という、当時非常に名声の高かった宮大工の手による貴重な作品です。

 

マナブ:その人は他にも有名な建物を建てたんでしょうか?

 

歴史先生:一番有名なものとしては成田山新勝寺の釈迦堂でしょう。幕末の激動の時代の中で多くの建築物や彫刻を残した、千葉県流山を拠点にしていた宮大工です。

 

相撲とも縁が深い「富岡八幡宮」を歩こう

 

富岡八幡宮の大鳥居

 

 

富岡八幡宮(地図 ❷)

〒135-0047 東京都江東区富岡1丁目20−3

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.tomiokahachimangu.or.jp/


マナブ:では次に、深川不動堂のお隣にある富岡八幡宮に行きます。本殿の横から入ることもできるんですが、せっかくですので永代通りに面した大鳥居から入りましょう。ここも有名な神社ですね。

 

歴史先生:はい、江戸時代の初め、1627年に永代寺が開かれてから3年後に、八幡様を勧請して造られました。ところで八幡社というのは八幡太郎源義家の例でもわかるように、源氏にとってとても大切な神様です。

 

マナブ:たしか徳川家康も自分は源氏だ、と言っていたんですよね?

 

歴史先生:はい、ですので江戸における八幡社というのは幕府から大変大切にされました。

 

マナブ:江戸には他にも八幡社があったんですか?

 

歴史先生:たくさんありましたよ。その多くは今でも残っています。杉並区の大宮八幡宮、早稲田大学の前にある穴八幡宮、千駄ヶ谷にある鳩森八幡宮、市ヶ谷の丘の上にある亀岡八幡宮、渋谷にある金王八幡宮など、数えだしたらキリがありません。

 

マナブ:あ、たしかにそうですね。

 

歴史先生:富岡八幡宮はその中でも最大の八幡社でしたから、江戸幕府から手厚く保護されたことでしょう。

 

日本一の大神輿

 

歴史先生:大鳥居を入ってすぐ左に神輿庫があります。ここのお神輿、大きいでしょう?

 

マナブ:ほんとだ、これは大きい。

 

歴史先生:高さ4.39m、重さ4.5トン。日本一大きなお神輿、と言われています。

 

マナブ:こんなに大きいと担ぐのが大変ですね。

 

歴史先生:そうなんです。実際、担ぐのは無理なんだそうです。よってお祭りで担ぐのは隣にある一回り小さなお神輿です。

 

マナブ:なるほど。

 

歴史先生:ところで、日本一と言われるのは大きさだけではないんです。

 

マナブ:というと?

 

歴史先生:神輿に鳳凰や狛犬などの彫刻がありますが、それぞれの目玉が何とダイヤモンド。屋根の上の鳳凰の目玉は左右4カラットずつで、胸には7カラットのダイヤが埋め込まれています。

 

マナブ:すごい。

 

歴史先生:屋根は純金製で24㎏の金が使われていて、2,000個以上のルビーがちりばめられています。

 

マナブ:日本一豪華なお神輿・・・。

 

歴史先生:そうなんです。

 

マナブ:誰が奉納したんですか?

 

歴史先生:江戸の元禄時代に、当時の豪商であった紀伊国屋文左衛門が豪華なお神輿を3基、奉納しました。でもそれらは関東大震災で焼失してしまったんです。そして今のこの豪華なお神輿ですが、佐川急便の創業者の佐川清さんが1991年(平成3年)に奉納しました。

 

マナブ:バブルの時代だ。でもそんな黄金や宝石が使われてて、いくらくらいかかったんでしょうねぇ?

 

歴史先生:当時の価格で約10億円かかったんだそうですよ。

 

マナブ:うわぁ。すごすぎる。

 

正面参道

 

御本殿

 

マナブ:重厚で、立派な本殿ですね。

 

歴史先生:江戸時代に建てられた元々の本殿は関東大震災、そして東京大空襲で焼けてしまいました。現在の建物は1956年(昭和31年)に再建されたもの。災害に強くするため鉄筋コンクリート造になりました。

 

弁天池

 

歴史先生:本殿の東側には弁天池があります。

 

合末社(右)と永島五社稲荷神社(左)

 

歴史先生:弁天池のすぐそばには合末社(ごうまっしゃ)があります。これはいくつかの末社を合わせてお祀りした建物。1936年(昭和11年)に建てられ、東京大空襲にも耐えた建物です。

 

合末社の鳥居

 

マナブ:このあたりは空襲が激しかったんでしょうね。

 

歴史先生:はい、富岡八幡宮のほとんどの建物は焼け落ちました。さて、ここに2本の石柱が建っていますが、これは戦前は鳥居だったんです。

 

マナブ:空襲で上の部分が無くなった?

 

歴史先生:はい、焼夷弾が直撃して上の部分は壊されてしまったようです。

 

マナブ:戦争の記憶を静かに伝えていますね。

 

大関力士碑

 

横綱力士碑

 

歴史先生:境内を歩いていると、入口付近に「大関力士碑」、本殿の裏あたりに「横綱力士碑」があります。ここは相撲と縁の深い神社です。

 

マナブ:そういえば、誰から新横綱になったときに富岡八幡宮で土俵入りをしていたようなニュースを見た記憶があります。

 

歴史先生:はい、そのとおりで、新横綱が誕生すると、富岡八幡宮の「横綱力士碑」にその名前が刻まれ、「奉納土俵入り」が行われます。当日は新横綱を一目見ようと、多くの相撲ファンがここに詰めかけるそうです。

 

マナブ:でもなぜここなんでしょう?

 

歴史先生:富岡八幡宮は江戸時代に勧進相撲が始まった場所なんです。

 

マナブ:勧進相撲って?

 

歴史先生:寺社の造営や修復にはお金がかかります。そこでお寺や神社では境内で相撲の興行を行ってその費用を集めていました。それが「勧進相撲」。江戸時代になると相撲はスポーツとしての体系が整えられて、富岡八幡宮や両国の回向院で定期的に開催されるようになりました。それが現代の大相撲へとつながっています。

 

マナブ:なるほど、そういうことでしたか。

 

伊能忠敬像

 

歴史先生:ところで日本地図を作った伊能忠敬。この人も富岡八幡宮にゆかりがあります。

 

マナブ:というと?

 

歴史先生:伊能忠敬は江戸に出てきて、今の門前仲町あたりに住んでいました。そこから全国へ測量の旅に何度も出かけたのですが、旅立ちの前に必ず富岡八幡宮にて道中の安全を祈願したのだそうです。

 

マナブ:ご近所だったんですね。

 

歴史先生:はい。

 

マナブ:あ、そうだ。今、思い出しました。もう何年も前のことになりますが、富岡八幡宮さんでたしか殺人事件があったんではないかと。

 

歴史先生:そうですね。敢えてその話には触れなかったのですが、2017年(平成29年)に、宮司さんが日本刀で殺害されました。

 

マナブ:たしか犯人は身内だったような・・・。

 

歴史先生:はい、犯人は宮司さんの弟で、前の宮司でした。金銭や女性問題で宮司の職を解かれ、後を継いだお姉さんの宮司を恨んで殺害に至ったという事件でしたね。犯人とその共犯の妻はその後無理心中しました。

 

マナブ:そうでした・・・。信じられないような事件でした・・・。

 

幻の江戸の「三十三間堂」はなぜ消えた?

 

八幡橋(国指定重要文化財)

 


歴史先生:さて、富岡八幡宮の裏から出てみましょう。

 

マナブ:ん? ちょっと変わった橋がありますね。

 

歴史先生:これを「八幡橋」または「旧弾正橋」と言います。元々は1878年(明治11年)に架けられた鉄橋で、京橋のあたりにありました。関東大震災の後、橋としては廃止され、1929年(昭和4年)に現在地へ移設されました。ちょうど富岡八幡宮へ渡る橋なので八幡橋と呼ばれるようになったんです。

 

マナブ:鉄でできているんですね。

 

歴史先生:はい、当時の橋梁技術の発展をよく表す貴重な遺物として国指定重要文化財になっています。

 

三十三間堂跡

 

マナブ:ん? この石碑は? 三十三間堂跡、と書かれていますが。

 

歴史先生:江戸時代の初期である1642年、京都の三十三間堂を模した「江戸三十三間堂」がこの地に建てられました。

 

マナブ:なぜそのようなものが?

 

歴史先生:江戸で弓矢を作っていた職人で弓師備後、という人がいたのですが、この人が「武術・弓術をさらに興隆させるためにぜひ江戸にも三十三間堂を建てませんか?」と徳川幕府にお願いして実現したものです。当時は戦がなくなって、武士たちの間でいかに武芸を継承するかが難しくなってきていました。

 

マナブ:たしか京都の三十三間堂では、弓矢の競技が行われていたと言う記憶がありますが。

 

歴史先生:そのとおりです。「通し矢」というのですが、江戸でもこのイベントを派手に行って、武士の武芸の鍛錬に使おうということだったんです。そうなると、どうなりますか? 武士たちは少しでも遠くへ飛ばせる弓を、高いお金を出してでも争って買うようになる。となれば弓の職人は大儲け。

 

マナブ:あ、そういうことか。うまいことを考えましたね。ところで京都の三十三間堂は実に長い建物ですが、まさかそれと同じサイズ?

 

歴史先生:そうなんです。まったく同じサイズで作られました。ところで三十三間堂の長さは何mくらいでしょう?

 

マナブ:えーっと、1間って畳の長い辺の長さですよね。たしか1.8mくらいかな? だとすると1.8m×33だから60mくらい。

 

歴史先生:そこがよく誤解されるポイントなんです。実は答えは約120m。

 

マナブ:えっ、倍も違う?

 

歴史先生:三十三間堂の「間」というのは「1間」という長さの単位ではなくて、建物の柱の間の数のこと。34本の柱が約2間間隔で建てられていますから、120mということになるんですね。

 

京都の三十三間堂

 

マナブ:でも、それって相当長くありませんか?

 

歴史先生:そうですよね。でもその長い距離を弓矢で射抜く、という競技が実際におこなわれていたんです。簡単ではないですよ。上には庇があって、横には壁があるという狭いトンネルのような空間を、120m先まで矢を飛ばす。これを制限時間内に何本通せるかというゲーム。

 

マナブ:制限時間はどれくらい?

 

歴史先生:24時間です。

 

マナブ:えっ、24時間?!

 

歴史先生:はい。120mを無事通過した本数が勝負ですから、とにかく母数をたくさん射るようにしないといけません。でも弓を射るって力が要りますよね。1時間もすればもうヘトヘト。最後は腕も全く動かなくなるし、立つことさえ難しい。競技者からすれば命がけの、とんでもなく過酷な競技だったんです。

 

マナブ:もっと優雅な競技を想像していました。で、実際、何本くらい通せるものなんでしょう?

 

歴史先生:1686年、徳川御三家の紀州と尾張が通し矢で戦った際、紀州藩士の和佐大八郎という人が大記録を打ち立てました。放った矢の数は13,053本。そのうち見事成功したのは8,133本。

 

マナブ:うわぁー、桁違いだ。えーっと、ざっと計算してみると1分間に9本放ってる。7秒に1本。これを24時間やりつづける?? これは無茶だ。

 

歴史先生:でももし今、三十三間堂がここに残っていたら、観光名所になっていたでしょうね。

 

マナブ:関東大震災? それとも東京大空襲?

 

歴史先生:いえ。明治維新の廃仏毀釈で取り壊されてしまったんです。

 

マナブ:永代寺と同じだ。

 

歴史先生:はい、ここも永代寺の一部だったんです。

 

マナブ:そうかぁ、残念なことをしましたね。永代寺、今も残っていたら大変な名所だったに違いありません。

 

門前仲町から清澄白河までの歴史ウォーク


法乗院



法乗院(深川ゑんま堂)(地図 ❸)

〒135-0033 東京都江東区深川2丁目16−3

9:00~17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.enmado.org/ 


歴史先生:さて、次は門前仲町から北へ向かって歩いていきましょう。大江戸線の上を歩いていく感じです。

 

マナブ:お寺がたくさんありそうですね。

 

歴史先生:はい、一番有名なのが法乗院でしょう。でもここは「深川ゑんま堂」と言った方がわかりがいい。

 

マナブ:えんま様?

 

歴史先生:はい。この法乗院ですが、創建は江戸初期の1629年。「深川のえんまさん」として親しまれました。本堂の1階には江戸時代中期に書かれた極楽・地獄絵図(全16枚)が飾られています。そして2階には大きな閻魔様が。

 

日本最大の閻魔大王座像

 

マナブ:うわ、これは大きい。

 

歴史先生:閻魔大王座像としては日本最大なんだそうで、高さ3.5mもあります。

 

マナブ:これは比較的新しい仏像ですか?

 

歴史先生:はい、1989年(平成元年)に作られました。19種類の願い事を選んでお賽銭を入れると、ありがたい説法が聞けるというハイテクな閻魔様です。

 

マナブ:これだけ大きいと、説得力もありそう。

 

心行寺 本堂

 


心行寺

〒135-0033 東京都江東区深川2丁目16−7

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.shingyoji.or.jp/ 


歴史先生:法乗院のお隣は「心行寺」です。

 

マナブ:ここも大きいお寺ですね。

 

歴史先生:開基は江戸時代の初めごろ、1616年。山口県の岩国城の城主の奥さんが建てたお寺。

 

マナブ:このあたり、江戸時代の初期のお寺が並んでいますね。大きな本堂がありますが、これは再建?

 

歴史先生:はい。江戸時代の本堂は関東大震災で焼け、再建されるも今度は東京大空襲で焼けてしまいました。現在の本堂は1967年(昭和42年)に再建されたものです。

 

心行寺 六角堂

 

歴史先生:境内にある六角堂。ここは「深川七福神」の1つ、福禄寿が祀られています。

 

マナブ:深川七福神?

 

歴史先生:は、深川一帯にある七福神を巡るルートとして、明治時代から人気になりました。しかし関東大震災、そして東京大空襲によって甚大な被害を受け、戦後は1970年(昭和45年)になってようやく復活したという経緯があります。

 

 

マナブ:横断歩道を渡って、通りの左側を歩きます。

 

歴史先生:まもなく「仙台堀川」を渡ります。その手前にあるのが「採荼庵(さいとあん)跡」。


採荼庵跡

 

採荼庵跡

〒135-0033 東京都江東区深川1丁目11−11

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.koto.lg.jp/103020/bunkasports/bunka/bunkazaisiseki/shiseki/16022.html


マナブ:「採荼庵」というのは?

 

歴史先生:松尾芭蕉の門人に杉山杉風(すぎやまさんぷう)という人がいました。この人は裕福な魚問屋で、芭蕉のパトロンの一人でもありますが、蕉門十哲(しょうもんじってつ)の一人に数えられる俳人でもありました。

 

松尾芭蕉像

 

歴史先生:その杉山杉風の別邸の庵があったのがここ。松尾芭蕉は「奥の細道」の旅に出る前、ここでしばらく過ごし、その後隅田川を船で上って行ったそうです。

 

マナブ:それで芭蕉さんがここに腰かけているんですね。

 

仙台堀川

 

歴史先生:それでは仙台堀川を渡って先へ進みましょう。

 

マナブ:これは人工的なお堀?

 

歴史先生:はい、江戸時代に開削された人工的な運河です。このお堀沿いに仙台藩の蔵屋敷があって、先代から船で運ばれてきた大量の米が荷揚げされる場所でした。

 

清澄長屋

 

 

マナブ:さて、もうすぐ清澄白河ですね。

 

歴史先生:左側には清澄庭園の緑が見えてきていますが、そのへりにずらっと並ぶ長屋、面白いでしょ?

 

マナブ:たしかに。デザインはそれぞれ違っていますが高さが揃ってて統一感があります。

 

歴史先生:これは「清澄長屋」と呼ばれる建物です。このエリアは1923年(大正12年)の関東大震災で甚大な被害を受け、その復興プロジェクトの1つとして1928年(昭和3年)に建てられました。正式名称を「旧東京市営店舗向住宅群」と言います。

 

マナブ:ずいぶん長いけど、どこまで続いているんですか?

 

歴史先生:長さ250mもあります。建設当時の流行だった2階建て洋風建築。ダミーの柱がついていたりして、おしゃれに作られています。

 

清澄庭園:岩崎弥太郎がリニューアルしたかつての大名の庭

 

清澄庭園

 

 

清澄庭園(地図 ❹)

〒135-0024 東京都江東区清澄3丁目3−9

入園料150円

9:00~17:00(最終入園16:30)

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.tokyo-park.or.jp/park/kiyosumi/


マナブ:さて、有名な「清澄庭園」に来ました。ここはかつての大名庭園ですか?

 

歴史先生:豪商の紀伊国屋文左衛門がここに邸宅を建てた、という伝承があります。しかしはっきりしている記録としては、江戸時代中期に久世氏の下屋敷がここに建っていました。

 

マナブ:久世氏?

 

歴史先生:はい、千葉県に関宿というところがあるのですが、そこの城主だった譜代大名です。大きな池を作り、築山を作り、今の清澄庭園の基本形はこの時に出来上がりました。

 

マナブ:明治以降はどうなったんでしょう?

 

歴史先生:しばらくは荒れ果ててしまっていたようですが、1878年(明治11年)に三菱の創業者、岩崎弥太郎が目をつけて買い取ります。彼は三菱の社員の慰安やVIPの接待の場としてこの庭園を整備しました。全国から名石を集めて庭園に配置し、豪華な庭園としてリニューアルしたんです。

 

マナブ:三菱の会社の庭園、になったわけですね。

 

歴史先生:しかし1923年(大正12年)の関東大震災ではここに逃げ込んだ多くの人たちが助かりました。それを機に三菱財閥はこの公園を東京市に寄付。1932年(昭和7年)に公園として一般開放されました。

 

園内図

 

大泉水と大磯渡り

 

マナブ:さぁ、園内を歩きましょう。

 

歴史先生:まずは目に飛び込んでくるのが中央の大きな池。大泉水、と呼ばれています。江戸時代はこの池に海水を引き込んでいました。清澄庭園はこの池を中心とした池泉回遊式庭園です。

 

マナブ:飛び石が印象的。

 

歴史先生:はい、「磯渡り」と呼ばれていて、数か所に作られています。

 

涼亭

 

歴史先生:園内、入って正面に見えるのが「涼亭(りょうてい)」です。これは岩崎家がイギリスのVIP、キッチナー元帥をもてなすために、池に突き出すような形で建てられた数寄屋造りの建物です。

 

マナブ:いつ頃の話ですか?

 

歴史先生:1909年(明治42年)のことです。

 

マナブ:その頃というのはイギリスととても関係が良かったころ?

 

歴史先生:そのとおり。1902年(明治35年)に日英同盟が結ばれ、両国は非常に友好関係にありました。キッチナー元帥とはイギリス軍の英雄として知られる人で、当時インド軍総司令官。日本はこの人を国賓としてもてなします。その大役を授かったのが岩崎家。

 

マナブ:キッチナー元帥とはどんな人?

 

歴史先生:来日する4年前の1898年、キッチナー率いる軍はスーダンに侵攻してハルツームを奪還しました。ハルツームは1885年にイスラム教徒の軍によって陥落させられ、ゴードン将軍が亡くなるというイギリス国民にとって痛恨の場所でした。その屈辱を晴らしたキッチナーは、一躍イギリス人の英雄になったわけです。

 

マナブ:なるほど。

 

歴史先生:さて、明治時代を通して三菱財閥は石炭、造船などの分野で日本の近代化をリードしていました。その創業家が、世界最先端の技術を誇るイギリスの将軍との間で民間外交を繰り広げていたわけですね。

 

マナブ:でもこのあたりは関東大震災、東京大空襲がひどかった地域ですから、今見られるのは戦後の再建ですか?

 

歴史先生:いえ、涼亭は奇跡的に関東大震災、東京大空襲の難を逃れたんです。東京の下町では非常に珍しい、明治の建築がそのまま残っています。

 

マナブ:おぉ、それは素晴らしいですね。

 

涼亭は都内に残る貴重な明治建築

 

富士山

 

歴史先生:園内には「富士山」と呼ばれる眺めのいい築山もあります。池の周りを一周すると、さまざまな地方から取り寄せた石、変化に富んだ景色などを楽しむことができるでしょう。

 

江戸六地蔵と松平定信の墓がある「霊厳寺」

 

清澄白河駅周辺はお寺が多い。写真は1501年小田原で開基された本誓寺(ほんせいじ)。1682年に現在地へ移動した。

 

 

霊厳寺(地図 ❺)

〒135-0021 東京都江東区白河1丁目3−32

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://edofukagawa.tokyo/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%B7%B1%E5%B7%9D/fukagawa_meguri/reiganji/


マナブ:さて、地図を見ると、このあたりはお寺だらけですね。

 

歴史先生:いいところに気が付きましたね。実は江戸時代初期の1657年の明暦の大火と関係しているんです。

 

京都御所の建礼門に似せて作られたという総ヒノキ造りの山門

 

マナブ:たしか江戸時代でも最大の火事?

 

歴史先生:はい。市中の6~7割を焼失。死者は実に6~10万人。これは当時の江戸の人口の3~4割にも及んだとか。

 

マナブ:そんなにひどかったんですか。とんでもない大災害だ。

 

歴史先生:災害後、防災に強い街づくりが江戸幕府のリーダーシップの下に行われます。1つは大型木造建築で火災に弱かった寺院を都心から郊外へ移転させること。その候補地の1つが、当時は何もない湿地だった清澄白河あたりです。

 

マナブ:なるほど。

 

歴史先生:この辺りに移転したお寺で最大だったのが、ここ霊巌寺(れいがんじ)。

 

マナブ:広い境内を持っているお寺ですね。

 

1981年(昭和56年)に再建された本堂

 

歴史先生:現在の中央区新川。地図で見ると現在でも茅場町の東側の島のようになっていますが、あそこは江戸時代の埋め立ててできた島で、「霊厳島」と呼ばれていました。そこにあったのが霊巌寺です。1624年に創建されましたが、明暦の大火で焼失。この場所へと移転してきました。

 

江戸六地蔵の第五番

 

マナブ:本堂に向かって左側に大きな仏像があります。

 

歴史先生:これは江戸六地蔵の1つ。

 

マナブ:あ、それは巣鴨でも見ました。

 

歴史先生:おさらいしておきましょう。江戸六地蔵とは1700年代の初め頃、6つの街道(東海道、奥州街道、甲州街道、中山道、水戸街道、千葉街道)の江戸の入口に建てられた6つの地蔵像です。

 

・一番 東海道:品川寺(品川)

・二番 奥州街道:東禅寺(浅草)

・三番 甲州街道:太宗寺(新宿)

・四番 中山道:真性寺(巣鴨)

・五番 水戸街道:霊巌寺(清澄白河)

・六番 千葉街道:永代寺(深川)

 

マナブ:誰が建てたんでしたっけ?

 

歴史先生:深川に住んでいた地蔵坊正元というお坊さんが、病から快復した感謝の気持ちから、寄付を集めて建てました。どれも立派な鋳造の仏像ですが、これらは神田の鋳物師、太田駿河守藤原正儀という人の作品です。

 

マナブ:6つは現存しているんですか?

 

歴史先生:5つが現存しています。もう一度上のリストを見てください。失われた1つ、がわかるはずです。

 

マナブ:あ、永代寺!

 

歴史先生:そうなんです。廃仏毀釈で取り壊された永代寺。ここの地蔵像だけは残っていません。

 

江戸六地蔵はどれも丈六仏

 

マナブ:近くで見るとどっしりして、重量感がありますね。

 

歴史先生:江戸六地蔵はどれも丈六サイズ、で作られています。

 

マナブ:あ、たしか高幡不動尊に行ったときにその話がありました。

 

歴史先生:はい、おさらいになりますが、お釈迦様の身長が1丈6尺だったことから、それを「丈六」と言います。お釈迦様の実物大の大きさということで作られたのが丈六仏。座像の場合は高さ2.5~3mくらいになります。

 

マナブ:1丈=10尺で、1尺は30㎝ですから、お釈迦様はなんと身長4.8mの大きな方だったんですよね(笑)。

 

歴史先生:そうなんです(笑)、仏典にちゃんとそう記されています。

 

松平定信の墓所

 

歴史先生:さて、霊厳寺には松平定信の墓所があります。

 

マナブ:江戸時代に「寛政の改革」を実行した人ということで、教科書に必ず出てきますね。このお寺とはどういう関係なんでしょう?

 

歴史先生:まず、松平定信という人ですが、実は田安家の出身。

 

マナブ:田安家?

 

歴史先生:田安家、一橋家、清水家を合わせて御三卿と言います。徳川家の分家のような存在で、本家に世継ぎの男子ができなかったときに将軍を輩出する家でした。第15代将軍になった一橋慶喜などは有名ですね。

 

マナブ:松平定信も将軍候補になりうる人だった。

 

歴史先生:はい、彼は小さいころからとても優秀で、祖父である第8代将軍吉宗の再来と期待され、第11代将軍候補と噂されました。しかし当時、政治の実権を握っていた老中の田沼意次はこの優れた才能の少年を警戒。福島県の白河藩の藩主だった久松松平家に養子に出してしまいます。

 

マナブ:なんと・・・。

 

歴史先生:やがて白河藩を継いだ松平定信は領内で優れた政治手腕を発揮。特に天明の大飢饉で日本中で餓死者が溢れた時期、白河藩ではいち早く対策をとって米を備蓄し、領内で粥を配ったりしたことで、一人の餓死者も出しませんでした。「白河に名君あり」と評判になっていたようです。

 

マナブ:でも江戸幕府は田沼意次が実権を握っている。

 

歴史先生:そうだったんですが、第10代将軍の家治が亡くなると、彼は後ろ盾を失い、それまで恨みを買っていた反対派によって失脚させられました。そして反対派たちはその後任として松平定信を老中にします。

 

マナブ:たしか松平定信は質素な倹約生活を指導して幕府の財政を立て直した人、と記憶していますが。

 

歴史先生:それまでの田沼政治は経済成長が最優先。貿易で稼いで、商人たちのグループを作ってその利権を確保することを優先しました。でもそういう政治には政治家への賄賂がつきものです。

 

マナブ:現代でいうと安倍晋三さんがやっていたような政治ですね。

 

歴史先生:コメントは差し控えますが、似ていると言えば似ていますね。さて、松平定信のお墓がなぜここにあるかというと、霊厳寺は代々白河藩の藩主である久松松平家の菩提寺だから、です。

 

マナブ:なるほど、そういうことですか。

 

歴史先生:ところで、気が付きました?

 

マナブ:何でしょう?

 

歴史先生:なぜここが「清澄白河」と呼ばれるのか?

 

マナブ:あっ、白河藩の墓所があるから?

 

歴史先生:そうなんです。ちなみに「清澄」ですが、江戸時代の初め、まだこのあたりが干潟だったころ、8人の漁師が幕府に申請を出して、堤防を築いて海を埋め立てて集落を作りました。そのリーダーだったのが清住弥兵衛。ここは長らく清住町と呼ばれてきましたが、昭和になって町名を再編する際に白河と合う漢字として清澄という字に変えられました。

 

マナブ:地名の由来というのは面白いですね。

 

江戸の町を忠実に再現した「深川江戸資料館」

 

深川江戸資料館

 

 

深川江戸資料館(地図 ❻)

〒135-0021 東京都江東区白河1丁目3−28

入館料400円

9:00~17:00、第2・4月曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.kcf.or.jp/fukagawa/


歴史先生:霊厳寺のお隣には「深川江戸資料館」があります。

 

マナブ:中へ入って見ましょう。

 

深川江戸資料館の入口

 

マナブ:おぉ、中へ入ると地下から2階までの吹き抜けになっています。

 

歴史先生:これが常設展示室。江戸深川の街並みを忠実に再現しています。

 

常設展示室

 

マナブ:資料館という名前から、ガラスケースに書籍や発掘品が並んで、パネルがたくさん架かっているイメージを持っていましたが、全然違いました。

 

深川の街並み

 

歴史先生:ここは江戸時代の深川の庶民の暮らしを体感できる資料館。表通りにはお店、裏通りには長屋があって、「そこに住む人々の家族構成や職業、年齢までを細かく設定し、それぞれの暮らしぶりにあった生活用品を展示してあります。」ということらしいです。

 

江戸の古地図

 

マナブ:古い地図がありますね。えーっと、ここはどのあたりだろう?

 

歴史先生:今と一番違うのは海岸線でしょうか。灰色の部分は埋め立てによる今の海岸線。

 

深川は江戸時代のウォーターフロント

 

歴史先生:深川のあたりの詳しい地図もあります。これで今日歩いたところを復習してみましょう。

 

マナブ:なるほど、海が近い。

 

歴史先生:隅田川の河口に佃島の姿が見えます。いまはそれとつながっている月島は江戸時代はまだ海の中。当然、晴海も豊洲もありません。ところで、永代寺のあった永代島ですが、これは江戸時代初期にゴミ捨て場として指定され、埋め立てられたものです。

 

マナブ:埋め立て地の上に永代寺や富岡八幡宮が建てられたんですね。

 

歴史先生:はい、その後ゴミ捨て場は南へ拡大。越中島が埋め立てられます。その東側の洲崎、現在の木場とか東陽町のあたりは潮干狩りの場所として人気になります。

 

マナブ:楽しそう。

 

歴史先生:明治以降、埋め立ては加速され、倉庫や工場が建ち並ぶようになりました。木材置き場だった木場も埋め立てられ、その機能は新木場に移っています。

 

マナブ:ところで、潮干狩りではアサリが採れたんでしょうか?

 

歴史先生:はい、深川はアサリが名物でした。

 

マナブ:深川といえば、やっぱり「深川めし」ですよね?

 

歴史先生:そうですよね。では「深川めし」、これから食べに行きましょうか?

 

マナブ:いいですねー。

 

歴史先生:ということで、ここまで深川を歩いてきましたが、いかがでしたか?

 

マナブ:門前仲町から清澄白河まで。距離はさほどありませんが、次から次へと歴史スポットが現れて、大充実の散歩でした。幻の永代寺、美しい清澄庭園。あとは深川めし、で完璧です。

 

歴史先生:わかりました、さっそく行きましょう。

 

<おすすめレストラン>

深川釜匠

 

江戸深川資料館の近くには深川めしの名店として知られる店が多い。そのうちの1つ、深川釜匠を訪ねてみる。

 

 

深川釜匠

〒135-0021 東京都江東区白河2丁目1−13

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://a328700.gorp.jp/ 


・訪れたのは平日の12時台。店内はほぼ満席。2階に案内された。靴を脱いで階段を2階へ上がる。2階は座敷に長い座卓が置かれているようなスタイル。

・メニューは数種類あったが、一番基本の「深川めし」をオーダー。

・江戸時代まで、深川の海岸には砂浜が広がり、潮が引くとそこはアサリの好漁場であった。深川の漁師たちはここでの漁業権を幕府から与えられていて、アサリを売って商売していた。

・彼らが仕事の合間に食べていたのがアサリの「ぶっかけめし」。それが深川の屋台などでも提供されるようになり、庶民の間で手軽で美味しい食事として人気となった。

・しかし1962年(昭和37年)、埋め立てが進んだことでアサリ漁もできなくなり、漁業権を放棄することになる。その後は深川めしを出す店は見られなくなったが、近年観光地として再び脚光を浴び始めたことで深川めしが復活。現在に至る。


深川めし

 

・食べてみると、アサリの量の多さにびっくり。いったいどれだけアサリが入っているんだろう?

・うまい出汁がアサリとごはんに滲みて、いくらでも食べられそう。

・周囲には外国人観光客も多く来ていて、「よく知っているなぁ」と感心した。

 

​歴史好きのための観光ガイド
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