
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
「汽笛一声新橋を~♪」新橋駅からスタート
究極の大名庭園:徳川将軍家の御殿だった特別名勝 浜離宮
11代将軍家斉が夢中になった「鷹狩」ってどうやってするの?
浜離宮はまさに庭園の王様。絶景の広がる潮入の池周辺
もう1つの離宮、江戸初期の大名庭園の傑作:芝離宮
「汽笛一声新橋を~♪」新橋駅からスタート

新橋駅前(写真は西側の日比谷口SL広場)

マナブ:今日は新橋駅に来ています。
歴史先生:これから浜離宮、そして芝離宮を訪れます。マナブさんは行かれたことありますか?
マナブ:両方とも仕事で近くのビルのお客様へ何度も来ていたので、庭園を上からチラッとは見ているのですが、中に入ったことはありません。
歴史先生:いいですね。ところで新橋の歴史と言えば?
マナブ:えーっと、初めて鉄道が開設された場所。
歴史先生:そのとおり。浜離宮に行く途中で、昔の新橋駅に立ち寄りましょう。

旧新橋停車場
旧新橋停車場(地図 ❶)
〒105-0021 東京都港区東新橋1丁目5−3
入場無料
10:00~17:00(最終入場16:45)、月曜休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.ejrcf.or.jp/shinbashi/index.html
マナブ:旧新橋停車場の前に来ました。ここの前は何度が歩いて通りましたが、中に入るのは初めてです。
歴史先生:ここ新橋停車場は1872年、なんと明治4年という、本当に明治の初めにできたんです。当初の駅舎は関東大震災で焼失してしまいましたが、2003年、可能な限り当時の外観を復元した今の建物がオープン。今では鉄道資料の展示室として無料開放されています。
マナブ:明治維新からわ ずか4年目で鉄道開業だなんて、当時の日本のめまぐるしい発展と変化には驚きます。
歴史先生:日本で初めての鉄道はここ新橋から横浜間。どれくらいの時間で走ったかわかりますか?
マナブ:ちなみに今は?
歴史先生:今の東海道本線で新橋から横浜は22分。当時の横浜駅というのは今の桜木町ですから乗り換えが必要です。横浜駅から桜木町駅までプラス3分、というところで、もし現在直通電車があったとしたら合計25分くらい。
マナブ:当時の蒸気機関車の性能から考えると、その4倍として、100分(1時間40分)、とか。
歴史 先生:実は53分で走ったんです。
マナブ:おぉ、意外と速い。
歴史先生:運賃はいくらくらいだったと思います?
マナブ:相当高かったんでしょうね。上流階級だけが乗れたのでは?
歴史先生:客席は3クラスあって、上等が1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘。今のお金にして下等でも5~6000円くらいでしょうか。
マナブ:上等だと2万円くらいかな? 結構しますね。

地下の遺構がガラスを通して観察できる

鉄道開業当時の駅舎の模型が提示されている
歴史先生:旧新橋停車場だけでなく、汐留の歴史についても詳しくパネルやビデオで展示がされています。
マナブ:汐留といえば今でこそ高層ビル群のイメージですが、そうだ、昔ここは貨物の基地のような場所でしたよね。

現代の汐留駅周辺の様子
マナブ:展示室はこぢんまりとしていますが、内容の濃い展示物・パネルが多く、興味深いものでした。「汽笛一声新橋を~」と思わず口ずさんでしまいます。
歴史先生:鉄道唱歌、ですね。明治に作詞作曲されたもので、当時の鉄道風景を現代に伝えてくれます。その続きの歌詞、ご存じですか?
マナブ:いえ、実はそこまでで、そのあとは知りません(苦笑)。
歴史先生:鉄道唱歌は全部で何と334番まであるんですが・・・
マナブ:えっ、334番も?
歴史先生:はい。新橋の歌はその第1番。こんな歌詞になっています。
汽笛一声新橋を
はや我汽車は離れたり
愛宕の山に入り残る
月を旅路の友として
マナブ:ほぉー、こんな歌詞だったんだ。そうか、新橋を出てすぐ愛宕山が見えていたんですね。今ではビルでまったく見えませんが。
究極の大名庭園:徳川将軍家の御殿だった特別名勝 浜離宮

富士見山からの景色

マナブ:旧新橋停車場から歩いて3分ほど、浜離宮(地図 ❷)の入口に来ました。
歴史先生:ここ浜離宮は「特別名勝」に指定されている名園です。
マナブ:覚えていますよ。名勝の中でも特に優れた庭園に与えられる「特別名勝」というお墨付き。数ある庭園の中での国宝、みたいな位置づけですよね。
歴史先生:そうなんです。さらに浜離宮は「特別史跡」にもなっています。
マナブ:特別史跡?
歴史先生:はい。特別史跡とは歴史上きわめて重要な史跡が全国で63件指定されています。そのうち特別名勝と重複で指定されているのは以下のとおりです。
・浜離宮恩賜庭園(東京都)
・小石川後楽園(東京都)
・毛越寺(岩手県)
・一乗谷朝倉氏史跡(福井県)
・慈照寺(銀閣寺)(京都府)
・鹿苑寺(金閣寺)(京都府)
・醍醐寺(京都府)
・平城京跡(奈良県)
マナブ:ダブルで指定されているところというのは、やはり錚々(そうそう)たるメンバーですね。
歴史先生:ところで浜離宮には「大手門」と「中の御門」という2つの入口があります。今回は大手門から入って中の御門から抜け、芝離宮へ行くというコースをたどりましょう。
マナブ:いいですね。早速行ってみましょう。

大手門橋

大手門
マナブ:入口に立派な石の橋が架かっています。
歴史先生:こちらは大手門橋。江戸時代は木造の橋でしたが関東大震災で焼失。震災の翌年に現在の石橋が架けられました。
マナブ:震災後にすぐ復興するなんて、東京の人にとってここは大切な場所なんですね。ところで大手門なんて、まるでお城の入口みたいな名前ですが。
歴史先生:そうなんです。ここはかつては江戸城の出城のような位置づけでしたので、そういう名前になったんでしょう。大手門には大きな渡り櫓があり、それをくぐって入っていました。今も入口の両側にある石垣がその土台となっていたんです。また、大手門橋から大手門にかけては桝(ます)形になっていて、防御力も高い 構造です。
マナブ:なるほど。これはお城だ。
浜離宮恩賜庭園(地図 ❷)
〒104-0046 東京都中央区浜離宮庭園1−1
入場料300円(シニア割引あり。小学生と都内在住または在校の中学生は無料)(芝離宮とのセット券は400円(50円お得))
9:00~17:00(最終入場16:30)、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.tokyo-park.or.jp/park/hama-rikyu/
マナブ:さて、中に入ってきました。
歴史先生:入口で案内図の載ったパンフレットをもらえるので、これを頼りに歩きましょう。
マナブ:さて、そもそも浜離宮というのはどういう場所なんですか? 離宮というと天皇家の別宅のようなイメージでお城とは違和感があるのですが。
歴史先生:いいポイントですね。では浜離宮の変遷をお話ししますので、少し長くなりますが聞いてくださいね。
マナブ:はい。
歴史先生:まず、ここ海沿いの土地はかつては徳川将軍家の鷹狩の場所でした。葦が一面に生い茂るずぶずぶの湿地帯だったようです。ところで第4代将軍徳川家綱の弟で松平綱重という人がいるのですが、この人は甲府25万石の城主となりました。この家は甲府徳川家とか、甲府宰相家、と呼ばれました。
マナブ:将軍の弟。
歴史先生:はい。3代将軍徳川家光には4代将軍家綱、5代将軍綱吉、そしてこの松平綱重、といった男の子たちがいました。
マナブ:その3名は兄弟なんだ。
歴史先生:はい、そうです。そしてこの松平綱重はこの浜辺の湿地を大変気に入って、埋め立てをおこない、別邸を建てます。そのためここは「甲府浜屋敷」と呼ばれました。
マナブ:その時点で「浜」が付く名称が始まったんですね。
歴史先生:はい。ところで5代将軍綱吉の次の6代将軍家宣は綱吉の子ではなく、実は松平綱重の子なんです。
マナブ:ん? なんだか複雑な事情がありそう。
歴史先生:綱吉のところの男の子は早くして亡くなってしまったので、お兄さ んの息子である家宣を養子にもらっていたんです。その関係で綱吉から家宣へ、という将軍交代がなされました。
マナブ:なるほど。
歴史先生:さて、その6代将軍家宣は実のお父さん(松平綱重)の別宅であった甲府浜屋敷を大変気に入って、ここを自分の別邸とし、「浜御殿」と名付けました。ここから浜御殿は徳川将軍家の別邸として歴史を刻んでいきます。
マナブ:でもその後「浜離宮」という名前になった。
歴史先生:はいそうです。ご想像の通り、明治維新でこの場所は新政府に接収されます。新政府ではこの場所を天皇の別邸として整備し、名前を「浜御殿」から「浜離宮」へと変えました。
マナブ:現在は東京都が管理する公園ですか?
歴史先生:はい。1945年11月、終戦からわずか3か月の時ですが、天皇家から東京都に下賜され、公園として整備されることになりました。「恩賜公園」というのは天皇家から下賜された公園、という意味です。
マナブ:なるほど。名前の謎がクリアになりました。

マナブ:さて、入口でもらったパンフレットのマップをみているのですが、とても広そう。どこから歩きましょうか?
歴史先生:いろんな楽しみ方があると思いますが、今日は時計回りで歩いてみましょう。

三百年の松
マナブ:入口からはいってすぐ左、大きな松の木がありますね。
歴史先生:こちらは三百年の松(案内図 ❶)と呼ばれているもの。6代将軍家宣がここを浜御殿として改修した1709年に植えられたものです。
マナブ:ということは300年以上、ここにあるわけですね。
歴史先生:はい。浜離宮の変遷をずっと見てきた生き証人、と言えるでしょう。

お花畑

マナブ:お花畑(案内図 ❷)に来ました。菜の花が満開。背景の汐留の高層ビル群との景色がすばらしい。
歴史先生:2月上旬から3月下旬が見頃です。今日は4月の初めなので、ややピークを過ぎた感じですが、それでも見事ですよね。ゴールデンウイークごろにはとなりのボタン園が満開になりますよ。
マナブ:都心にこんな菜の花畑があるなんて、全く知りませんでした。

将軍お上り場
マナブ:静かな木々の間の道をしばらく歩くと、庭園の端っこ、海に突き当たります。ここに「将軍お上り場」(案内図 ❸)がありますね。
歴史先生:はい。名前の通り、徳川将軍が陸に上がる場所がここです。たとえば幕末、鳥羽伏見の戦いがありました。
マナブ:あのときは将軍徳川慶喜が大坂から船で江戸へ逃げ帰ったんでしたよね。
歴史先生:その時、江戸の上陸したのもまさにこの場所なんです。
マナブ:なるほど、そういった歴史を重ねた場所だったんだ。

新樋の口山

新樋の口山からの眺め
マナブ:将軍お上り場のすぐそば、小さな丘に登ります。
歴史先生:ここ、新樋の口山(案内図 ❹)からは海の眺めがきれいです。遠くにレインボーブリッジも見えていますね。


横堀水門
マナブ:さて、新樋の口山のすぐ隣にある、「横堀水門」(案内図 ❺)と書かれたところに来ました。
歴史先生:浜離宮の一つの特徴は、潮の干満を利用して園内の池に海水を取り込んでいることです。園内中央の大きな池は「潮入の池」と呼ばれています。そこへつながる水路を「横堀」と呼んでおり、ここは海から横堀へと海水を取り入れる堰になっているんです。
マナブ:なるほど、ここから海水を取り込むんですか。
歴史先生:それによって水位を変え、庭の表情 に変化を生んでいます。水門の開閉は今は電気仕掛けになっていますが、満潮時に水門を上げると勢いよく海水が園内の池に流れ込みます。
マナブ:ひょっとして魚とかも一緒に?
歴史先生:はい。園内の池をよく見ていると、海の魚(ボラ、ハゼ、クロダイなど)やカニ、貝なども見えることがあるんですよ。

汐見の御茶屋跡
マナブ:横堀に沿って進むと「汐見の御茶屋跡」(案内図 ❻)に来ました。
歴史先生:ここは海沿いにある休憩所。今は埋め立て地で遮られていますが、江戸時代は前面すべて海。房総半島までを見渡せる景色のいい場所だったはずです。将軍や訪問者はここで接待され、海の景色を楽しんだことでしょう。
マナブ:建物が残っていないのが残念ですね。
歴史先生:この建物も関東大震災で失われてしまいました。

海手お伝い橋
マナブ:「海手お伝い橋」で横堀を渡ります。
歴史先生:ここから先、鴨場、というところに入っていきます 。
11代将軍家斉が夢中になった「鷹狩」ってどうやってするの?

小覗

歴史先生:さぁ、ちょっと変わったものが見えてきました。これ、何だと思いますか?
マナブ:えーっと、何だろう? 弥生時代の住居跡? いや、海の防衛のための大砲の陣地?
歴史先生:これ、鷹狩のための施設なんです。「小覗」(案内図 ❼)と呼ばれています。
マナブ:というと?
歴史先生:中へ入ってみましょう。

ドアのように見えるが実際には開かない

ドアのように見える板には2か所、横長の細いスリットが入っている

スリットから覗くと溝のようなものが見える
歴史先生:見えましたか?
マナブ:はい、溝のようなものが見えます。両側が土手のようになっています。
歴史先生:はい。これは鷹狩のための施設。鷹狩ではこの細い水路(引堀という)にたくさんの鴨をおびき寄せるんです。そして土手の後ろに鷹匠が隠れていて、「今だ!」という時に一斉に鷹を放ち、びっくりして飛び立った鴨を仕留めます。その鷹狩の仕組みを説明したわかりやすい看板がここに出ていますので、見てください。

鷹狩の方法
マナブ:あれ、鷹狩って、勘違いしていました。武士たちが原野でウサギとかキジとかを追いかけて、弓矢で獲物を射て、疑似的な戦争の演習をするようなイメージだったんですが。
歴史先生:それは巻き狩り、と呼ばれているものだと思います。有名なのは源頼朝が富士の裾野で行ったものなどがありますよね。
マナブ:そうか。鷹狩はあくまでも鷹が獲物を取るから、弓矢の訓練ではないんだ。これは江戸時代になって流行ったんですか?
歴史先生:いえ。古い記録では仁徳天皇が百舌鳥野(大阪府)で鷹狩を行い、キジをたくさん取った話が日本書紀に出ています。
マナブ:それは相当古い。
歴史先生:鷹狩は庶民には禁止されていました。実際に行ったのは大名たちで、取った獲物を家来に分け与え、主従関係を確認しあいました。
マナブ:なるほど。会社のリクリエーション行事みたい。
歴史先生:現代に当てはめるとそんな感じかもしれませんね。さて、鴨をこの引堀に誘い込むためには、あらかじめアヒルを飼いならしておきます。小覗の木の板を打ち鳴らしてエサを与えることを繰り返していると、木の板の音がすればアヒルたちがこの水路に入ってくるようになります。鴨たちはアヒルにつられてこの水路に入ってくるというわけです。
マナブ:なるほど。ところで鴨はここで育てているんですか?
歴史先生:いいえ。ところで鴨って年中見ますか?
マナブ:えっ? 考えたこともなかった。お城のお堀とかにいつでもいるような気もするし、いないような気もするし。
歴史先生:鴨ってよく見ますが、実は渡り鳥。秋ごろに北方から飛んできて、春から初夏には帰っていきます。ということで真夏には見ないはずです。(ただしカルガモのように年中日本にいる種類もあります。)
マナブ:そうだったんですね。ということは秋になると新しい鴨たちがここ浜離宮にも飛んでくる。
歴史先生:はい。「おっ、とても素敵な池があるな」、と思ってここに降りるんだと思いますが、結果的に鷹狩の獲物になってしまいます。
マナブ:まさに「カモにされる」というのは、こういうことだったんですね。

大覗
歴史先生:では次に大覗(案内図 ❽)を見てみましょう。

大覗には丸い穴がいくつもあいている

丸い穴からみえる景色
歴史先生:穴からは何が見えますか?
マナブ:池が見えます。
歴史先生:ここは「元溜り」。アヒルや鴨たちが生息する池になります。
マナブ:ということは、ここからこっそりと池の様子を覗いて、「鴨がいっぱい来てるぞ」とか、「引堀のほうに動いているぞ」とか、を見るんでしょうね。
歴史先生:はい。そういうことになります。
マナブ:代々の徳川将軍たちはこれを楽しんだんで すか?
歴史先生:生類憐みの令を出した綱吉は当然やっていません。
マナブ:あはは、そりゃそうでしょうね(笑)。
歴史先生:鷹狩を復活させたのが8代将軍吉宗。でも一番熱心だったのは11代将軍家斉です。この人は在位50年(1787年~1837年)という長期政権でしたが、その間に鴨場を整備し、記録に残るだけで248回も浜御殿に来ているんです。
マナブ:ずいぶんと浜御殿を楽しんだんですね。それだけ来るということは将軍の休憩所とかも整備したのかな?
歴史先生:はい、まさにそうです。あとから行く中島の御茶屋を再建しただけでなく、燕の御茶屋、松の御茶屋、鷹の御茶屋、汐見の御茶屋が新しく建てられました。
マナブ:ふーん。家斉って、ぜいたくざんまいの人生だったのかな?
歴史先生:そうかもしれません。家斉は15歳で将軍になって、それまで権力を握っていた田沼意次を罷免。名君として誉れ高かった松平定信を老中にします。家斉はまだ子どもでしたから、彼が選んだというよりは、その父である一橋治済(はるさだ)が中心となって松平定信を担ぎ上げたんでしょう。
マナブ:松平定信というと、たしか寛政の改革?
歴史先生:そのとおり! 真面目な松平定信は幕府の財政立て直しのために強いリーダーシップのもとで倹約を奨励。院政のような形で権力をふるおうとしていた将軍の父、一橋治済と、まだ若い家斉は自らが推した松平定信の勢いに従うしかありませんでした。でもそれがちょっと厳しすぎた。6年後、ついに松平定信と家斉親子は松平定信を罷免してしまいます。
マナブ:あらあら。
歴史先生:その後も松平信明が跡を継ぎ、改革を進めましたが、ついに1818年、家斉は側用人だった水野忠成を老中に起用。寛政の改革のメンバーたちを排除します。そうなると今度はふたたび賄賂が横行するようになったんです。
マナブ:政治が乱れた?
歴史先生:はい。これまでの厳しかった寛政の改革の反動が出ます。家斉は豪奢な生活をするようになり、浜離宮も大幅にアップグレード。
マナブ:それが良かったような、悪かったような。
歴史先生:異国船打払令という非現実的な命令を出し、貨幣を改鋳して悪貨を流通させ、政治も経済も大混乱。庶民を犠牲にした腐敗政治に不満が高まり、大塩平八郎の乱が起きたりしました。
マナブ:ひどい。
歴史先生:そして1837年に退任。その後、老中水野忠邦が天保の改革をおこなって、再び幕府の立て直しを図ります。
マナブ:家斉って、あんまり評判の良かった将軍ではなさそうですね。
歴史先生:政治には向いてなかったようです。しか し遊びの天才だったかもしれません。
マナブ:その遊びの天才の跡を今私たちは見ているわけですか。
歴史先生:そうですよね。さて、鷹狩の仕組みと大覗、小覗、ご理解いただけましたか?
マナブ:とてもよくわかりました。
歴史先生:ここは「庚申堂鴨場」と呼ばれているのですが、浜離宮内にはもう1つ、「新銭座鴨場」(案内図 ⓮)もあります。こちらも鷹狩の施設の仕組みが非常にわかりやすいので、道からちょっと外れるのですが、忘れずに見ていただきたいですね。


新銭座鴨場へ続く道はうっそうと木が茂っている

新銭座鴨場の小覗(手前右)と大覗(左手奥)

大覗の丸い穴からは池の様子がうかがえる

池から小覗へとつながる引堀
浜離宮はまさに庭園の王様。絶景の広がる潮入の池周辺

潮入の池

マナブ:庚申堂鴨場から離れて、明るい開けた場所に出てきました。また小さな丘がありますね。
歴史先生:御亭山(案内図 ❾)、です。登りましょう。

御亭山

御亭山からの眺め
マナブ:あー、ここはいい眺めだ。東京タワーも見えています。
歴史先生:家斉のお気に入りの場所だったそうです。
マナブ:昔はどんな眺めだったんだろう?
歴史先生:北西には江戸城。西には富士山。東には海越しに房総半島が見えたことでしょう。そして今は潮入の池がよく見えますね。池泉回遊式庭園にはこういった小高い丘がいくつか作られて、眺めを楽しむようにできています。
マナブ:この池は大きいですね。他の大名庭園もいくつか見ましたが、こんなに大きな池は記憶にありません。

富士見山へ登る道

歴史先生:次に、庭園の南端にある富士見山(案内図 ❿)へ登りましょう。
マナブ:今はビルで富士山は見えないんでしょうけど。
歴史先生:でも富士山より、ここは庭園の中心部を見渡せる絶景ポイント。

富士見山からの眺め
マナブ:ほぉー。これはすばらしい眺め。
歴史先生:潮入の池、その真ん中に浮かぶ中島、そして背後の高層ビル群が独特の景観を生み出しています。
マナブ:石段をちょっと登りますが、ここは外せないスポットですね。

中島

汐留水門
歴史先生:中島へ渡る橋のたもとに、もう1つの水門があります。こちらは汐留水門(案内図 ⓫)。先ほどの横堀水門と連携して、水位を調整しています。
マナブ:なるほど。

観音堂跡
歴史先生:ここから中島へは渡らずに、森の中を歩いていきます。
マナブ:観音堂跡(案内図 ⓬)とい うところへ来ました。
歴史先生:江戸時代、ここには観音堂や鐘楼があったようです。


馬場跡
マナブ:観音堂を過ぎて左の脇道に入ると、なんだかまっすぐな広い道のようなところへ出ました。これは何ですか?
歴史先生:これは馬場の跡(案内図 ⓭)です。8代将軍吉宗が作らせました。彼はオランダ人のケイゼルを馬術の教官として迎え、ここに住まわせて武士たちに西洋式の馬術の教練を行ったそうです。
マナブ:明治維新まではまだだいぶ遠いのに、その時点で西洋馬術を取り入れるなんて、吉宗はとっても進歩的だったんですね。
歴史先生:はい。その他、織物を作ったり火薬の実験をしたり、あるいは400種類の薬草を栽培するなど、浜御殿を享保の改革における殖産興業の実験場として活用しました。
マナブ:遊びの場ではなくて、今でいう国立の研究所のような場所になったんですね。
歴史先生:でもそんな吉宗もただ1つ、自分の遊びにお金をかけたことがあります。
マナブ:それは何でしょう?
歴史先生:吉宗はどうしてもゾウを見たかった。
マナブ:動物のゾウ、ですか?
歴史先生:はい。そこで彼はゾウを取り寄せ、ここ浜御殿で飼育させたんです。
マナブ:なんと。
歴史先生:かつて紀元前に、カルタゴの将軍ハンニバルがゾウを戦車のように使ってローマを圧倒したように、実用的で進歩的な吉宗には彼なりに何か深い考えがあったのかもしれませんが、そこはわかりません。


中島の御茶屋

マナブ:潮入の池の真ん中に浮かぶ中島へ渡ります。
歴史先生:ここには「中島の御茶屋」(案内図 ⓯)があります。ここは1707年に家宣が建てた御茶屋で、潮入の池を見渡す眺めが自慢でした。一度火災で焼失しますが、家斉が再建します。
マナブ:贅沢好きな家斉ですから、ぜひともここの茶屋は建てたかった。
歴史先生:でしょうね。徳川将軍はここに賓客を招いて和歌の会を催したり、池に舟を浮かべて遊んだり、楽器を演奏したり、と優雅な時間が流れていました。
マナブ:まるで平安貴族。
歴史先生:そして明治維新後も天皇の離宮として使われ、さらに国賓をもてなす迎賓館的な役割も担いました。米国のグラント大統領が来日した時に明治天皇と面会したのもこの場所です。
マナブ:日本らしい、最高のロケーションですものね。
歴史先生:しかし、この茶屋の建物は惜しくも1945年(昭和20年)の東京大空襲で失われてしまいました。
