
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
「汽笛一声新橋を~♪」新橋駅からスタート
究極の大名庭園:徳川将軍家の御殿だった特別名勝 浜離宮
11代将軍家斉が夢中になった「鷹狩」ってどうやってするの?
浜離宮はまさに庭園の王様。絶景の広がる潮入の池周辺
もう1つの離宮、江戸初期の大名庭園の傑作:芝離宮
「汽笛一声新橋を~♪」新橋駅からスタート

新橋駅前(写真は西側の日比谷口SL広場)

マナブ:今日は新橋駅に来ています。
歴史先生:これから浜離宮、そして芝離宮を訪れます。マナブさんは行かれたことありますか?
マナブ:両方とも仕事で近くのビルのお客様へ何度も来ていたので、庭園を上からチラッとは見ているのですが、中に入ったことはありません。
歴史先生:いいですね。ところで新橋の歴史と言えば?
マナブ:えーっと、初めて鉄道が開設された場所。
歴史先生:そのとおり。浜離宮に行く途中で、昔の新橋駅に立ち寄りましょう。

旧新橋停車場
旧新橋停車場(地図 ❶)
〒105-0021 東京都港区東新橋1丁目5−3
入場無料
10:00~17:00(最終入場16:45)、月曜休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.ejrcf.or.jp/shinbashi/index.html
マナブ:旧新橋停車場の前に来ました。ここの前は何度が歩いて通りましたが、中に入るのは初めてです。
歴史先生:ここ新橋停車場は1872年、なんと明治4年という、本当に明治の初めにできたんです。当初の駅舎は関東大震災で焼失してしまいましたが、2003年、可能な限り当時の外観を復元した今の建物がオープン。今では鉄道資料の展示室として無料開放されています。
マナブ:明治維新からわずか4年目で鉄道開業だなんて、当時 の日本のめまぐるしい発展と変化には驚きます。
歴史先生:日本で初めての鉄道はここ新橋から横浜間。どれくらいの時間で走ったかわかりますか?
マナブ:ちなみに今は?
歴史先生:今の東海道本線で新橋から横浜は22分。当時の横浜駅というのは今の桜木町ですから乗り換えが必要です。横浜駅から桜木町駅までプラス3分、というところで、もし現在直通電車があったとしたら合計25分くらい。
マナブ:当時の蒸気機関車の性能から考えると、その4倍として、100分(1時間40分)、とか。
歴史先生:実は53分で走ったんです。
マナブ:おぉ、意外と速い。
歴史先生:運賃はいくらくらいだったと思います?
マナブ:相当高かったんでしょうね。上流階級だけが乗れたのでは?
歴史先生:客席は3クラスあって、上等が1円12銭5厘、中等が75銭、下等が37銭5厘。今のお金にして下等でも5~6000円くらいでしょうか。
マナブ:上等だと2万円くらいかな? 結構しますね。

地下の遺構がガラスを通して観察できる

鉄道開業当時の駅舎の模型が提示されている
歴史先生:旧新橋停車場だけでなく、汐留の歴史についても詳しくパネルやビデオで展示がされています。
マナブ:汐留といえば今でこそ高層ビル群のイメージですが、そうだ、昔ここは貨物の基地のような場所でしたよね。

現代の汐留駅周辺の様子
マナブ:展示室はこぢんまりとしていますが、内容の濃い展示物・パネルが多く、興味深いものでした。「汽笛一声新橋を~」と思わず口ずさんでしまいます。
歴史先生:鉄道唱歌、ですね。明治に作詞作曲されたもので、当時の鉄道風景を現代に伝えてくれます。その続きの歌詞、ご存じですか?
マナブ:いえ、実はそこまでで、そのあとは知りません(苦笑)。
歴史先生:鉄道唱歌は全部で何と334番まであるんですが・・・
マナブ:えっ、334番も?
歴史先生:はい。新橋の歌はその第1番。こんな歌詞になっています。
汽笛一声新橋を
はや我汽車は離れたり
愛宕の山に入り残る
月を旅路の友として
マナブ:ほぉー、こんな歌詞だったんだ。そうか、新橋を出てすぐ愛宕山が見えていたんですね。今ではビルでまったく見えませんが。
究極の大名庭園:徳川将軍家の御殿だった特別名勝 浜離宮

富士見山からの景色

マナブ:旧新橋停車場から歩いて3分ほど、浜離宮(地図 ❷)の入口に来ました。
歴史先生:ここ浜離宮は「特別名勝」に指定されている名園です。
マナブ:覚えていますよ。名勝の中でも特に優れた庭園に与えられる「特別名勝」というお墨付き。数ある庭園の中での国宝、みたいな位置づけですよね。
歴史先生:そうなんです。さらに浜離宮は「特別史跡」にもなっています。
マナブ:特別史跡?
歴史先生:はい。特別史跡とは歴史上きわめて重要な史跡が全国で63件指定されています。そのうち特別名勝と重複で指定されているのは以下のとおりです。
・浜離宮恩賜庭園(東京都)
・小石川後楽園(東京都)
・毛越寺(岩手県)
・一乗谷朝倉氏史跡(福井県)
・慈照寺(銀閣寺)(京都府)
・鹿苑寺(金閣寺)(京都府)
・醍醐寺(京都府)
・平城京跡(奈良県)
マナブ:ダブルで指定されているところというのは、やはり錚々(そうそう)たるメンバーですね。
歴史先生:ところで浜離宮には「大手門」と「中の御門」という2つの入口があります。今回は大手門から入って中の御門から抜け、芝離宮へ行くというコースをたどりましょう。
マナブ:いいですね。早速行ってみましょう。

大手門橋

大手門
マナブ:入口に立派な石の橋が架かっています。
歴史先生:こちらは大手門橋。江戸時代は木造の橋でしたが関東大震災で焼失。震災の翌年に現在の石橋が架けられました。
マナブ:震災後にすぐ復興するなんて、東京の人にとってここは大切な場所なんですね。ところで大手門なんて、まるでお城の入口みたいな名前ですが。
歴史先生:そうなんです。ここはかつては江戸城の出城のような位置づけでしたので、そういう名前になったんでしょう。大手門には大きな渡り櫓があり、それをくぐって入っていました。今も入口の両側にある石垣がその土台となっていたんです。また、大手門橋から大手門にかけては桝(ます)形になっていて、防御力も高い構造です。
マナブ:なるほど。これはお城だ。
浜離宮恩賜庭園(地図 ❷)
〒104-0046 東京都中央区浜離宮庭園1−1
入場料300円(シニア割引あり。小学生と都内在住または在校の中学生は無料)(芝離宮とのセット券は400円(50円お得))
9:00~17:00(最終入場16:30)、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.tokyo-park.or.jp/park/hama-rikyu/
マナブ:さて、中に入ってきました。
歴史先生:入口で案内図の載ったパンフレットをもらえるので、これを頼りに歩きましょう。
マナブ:さて、そもそも浜離宮というのはどういう場所なんですか? 離宮というと天皇家の別宅のようなイメージでお城とは違和感があるのですが。
歴史先生:いいポイントですね。では浜離宮の変遷 をお話ししますので、少し長くなりますが聞いてくださいね。
マナブ:はい。
歴史先生:まず、ここ海沿いの土地はかつては徳川将軍家の鷹狩の場所でした。葦が一面に生い茂るずぶずぶの湿地帯だったようです。ところで第4代将軍徳川家綱の弟で松平綱重という人がいるのですが、この人は甲府25万石の城主となりました。この家は甲府徳川家とか、甲府宰相家、と呼ばれました。
マナブ:将軍の弟。
歴史先生:はい。3代将軍徳川家光には4代将軍家綱、5代将軍綱吉、そしてこの松平綱重、といった男の子たちがいました。
マナブ :その3名は兄弟なんだ。
歴史先生:はい、そうです。そしてこの松平綱重はこの浜辺の湿地を大変気に入って、埋め立てをおこない、別邸を建てます。そのためここは「甲府浜屋敷」と呼ばれました。
マナブ:その時点で「浜」が付く名称が始まったんですね。
歴史先生:はい。ところで5代将軍綱吉の次の6代将軍家宣は綱吉の子ではなく、実は松平綱重の子なんです。
マナブ:ん? なんだか複雑な事情がありそう。
歴史先生:綱吉のところの男の子は早くして亡くなってしまったので、お兄さんの息子である家宣を養子にもらっていたんです。その関係で綱吉から家宣へ、という将軍交代がなされました。
マナブ:なるほど。
歴史先生:さて、その6代将軍家宣は実のお父さん(松平綱重)の別宅であった甲府浜屋敷を大変気に入って、ここを自分の別邸とし、「浜御殿」と名付けました。ここから浜御殿は徳川将軍家の別邸として歴史を刻んでいきます。
マナブ:でもその後「浜離宮」という名前になった。
歴史先生:はいそうです。ご想像の通り、明治維新でこの場所は新政府に接収されます。新政府ではこの場所を天皇の別邸として整備し、名前を「浜御殿」から「浜離宮」へと変えました。
マナブ:現在は東京都が管理する公園ですか?
歴史先生:はい。1945年11月、終戦からわずか3か月の時ですが、天皇家から東京都に下賜され、公園として整備されることになりました。「恩賜公園」というのは天皇家から下賜された公園、という意味です。
マナブ:なるほど。名前の謎がクリアになりました。

マナブ:さて、入口でもらったパンフレットのマップをみているのですが、とても広そう。どこから歩きましょうか?
歴史先生:いろんな楽しみ方があると思いますが、今日は時計回りで歩いてみましょう。

三百年の松
マナブ:入口からはいってすぐ左、大きな松の木がありますね。
歴史先生:こちらは三百年の松(案内図 ❶)と呼ばれているもの。6代将軍家宣がここを浜御殿として改修した1709年に植えられたものです。
マナブ:ということは300年以上、ここにあるわけですね。
歴史先生:はい。浜離宮の変遷をずっと見てきた生き証人、と言えるでしょう。

お花畑

マナブ:お花畑(案内図 ❷)に来ました。菜の花が満開。背景の汐留の高層ビル群との景色がすばらしい。
歴史先生:2月上旬から3月下旬が見頃です。今日は4月の初めなので、ややピークを過ぎた感じですが、それでも見事ですよね。ゴールデンウイークごろにはとなりのボタン園が満開になりますよ。
マナブ:都心にこんな菜の花畑があるなんて、全く知りませんでした。

将軍お上り場
マナブ:静かな木々の間の道をしばらく歩くと、庭園の端っこ、海に突き当たります。ここに「将軍お上り場」(案内図 ❸)がありますね。
歴史先生:はい。名前の通り、徳川将軍が陸に上がる場所がここです。たとえば幕末、鳥羽伏見の戦いがありました。
マナブ:あのときは将軍徳川慶喜が大坂から船で江戸へ逃げ帰ったんでしたよね。
歴史先生:その時、江戸の上陸したのもまさにこの場所なんです。
マナブ:なるほど、そういった歴史を重ねた場所だったんだ。

新樋の口山

新樋の口山からの眺め
マナブ:将軍お上り場のすぐそば、小さな丘に登ります。
歴史先生:ここ、新樋の口山(案内図 ❹)からは海の眺めがきれいです。遠くにレインボーブリッジも見えていますね。


横堀水門
マナブ:さて、新樋の口山のすぐ隣にある、「横堀水門」(案内図 ❺)と書かれたところに来ました。
歴史先生:浜離宮の一つの特徴は、潮の干満を利用して園内の池に海水を取り込んでいることです。園内中央の大きな池は「潮入の池」と呼ばれています。そこへつながる水路を「横堀」と呼んでおり、ここは海から横堀へと海水を取り入れる堰になっているんです。
マナブ:なるほど、ここから海水を取り込むんですか。
歴史先生:それによって水位を変え、庭の表情に変化を生んでいます。水門の開閉は 今は電気仕掛けになっていますが、満潮時に水門を上げると勢いよく海水が園内の池に流れ込みます。
マナブ:ひょっとして魚とかも一緒に?
歴史先生:はい。園内の池をよく見ていると、海の魚(ボラ、ハゼ、クロダイなど)やカニ、貝なども見えることがあるんですよ。

汐見の御茶屋跡
マナブ:横堀に沿って進むと「汐見の御茶屋跡」(案内図 ❻)に来ました。
歴史先生:ここは海沿いにある休憩所。今は埋め立て地で遮られていますが、江戸時代は前面すべて海。房総半島までを見渡せる景色のいい場所だったはずです。将軍や訪問者はここで接待され、海の景色を楽しんだことでしょう。
マナブ:建物が残っていないのが残念ですね。
歴史先生:この建物も関東大震災で失われてしまいました。

海手お伝い橋
マナブ:「海手お伝い橋」で横堀を渡ります。
歴史先生:ここから先、鴨場、というところに入っていきます。
11代将軍家斉が夢中になった「鷹狩」ってどうやってするの?

小覗

歴史先生:さぁ、ちょっと変わったものが見えてきました。これ、何だと思いますか?
マナブ:えーっと、何だろう? 弥生時代の住居跡? いや、海の防衛のための大砲の陣地?
歴史先生:これ、鷹狩のための施設なんです。「小覗」(案内図 ❼)と呼ばれています。
マナブ:というと?
歴史先生:中へ入ってみましょう。

ドアのように見えるが実際には開かない

ドアのように見える板には2か所、横長の細いスリットが入っている

スリットから覗くと溝のようなものが見える
歴史先生:見えましたか?
マナブ:はい、溝のようなものが見えます。両側が土手のようになっています。
歴史先生:はい。これは鷹狩のための施設。鷹狩ではこの細い水路(引堀という)にたくさんの鴨をおびき寄せるんです。そして土手の後ろに鷹匠が隠れていて、「今だ!」という時に一斉に鷹を放ち、びっくりして飛び立った鴨を仕留めます。その鷹狩の仕組みを説明したわかりやすい看板がここに出ていますので、見てください。

鷹狩の方法
マナブ:あれ、鷹狩って、勘違いしていました。武士たちが原野でウサギとかキジとかを追いかけて、弓矢で獲物を射て、疑似的な戦争の演習をするようなイメージだったんですが。
歴史先生:それは巻き狩り、と呼ばれているものだと思います。有名なのは源頼朝が富士の裾野で行ったものなどがありますよね。
マナブ:そうか。鷹狩はあくまでも鷹が獲物を取るから、弓矢の訓練ではないんだ。これは江戸時代になって流行ったんですか?
歴史先生:いえ。古い記録では仁徳天皇が百舌鳥野(大阪府)で鷹狩を行い、キジをたくさん取った話が日本書紀に出ています。
マナブ:それは相当古い。
歴史先生:鷹狩は庶民には禁止されていました。実際に行ったのは大名たちで、取った獲物を家来に分け与え、主従関係を確認しあいました。
マナブ:なるほど。会社のリクリエーション行事みたい。
歴史先生:現代に当てはめるとそんな感じかもしれませんね。さて、鴨をこの引堀に誘い込むためには、あらかじめアヒルを飼いならしておきます。小覗の木の板を打ち鳴らしてエサを与えることを繰り返していると、木の板の音がすればアヒルたちがこの水路に入ってくるようになります。鴨たちはアヒルにつられてこの水路に入ってくるというわけです。
マナブ:なるほど。ところで鴨はここで育てているんですか?
歴史先生:いいえ。ところで鴨って年中見ますか?
マナブ:えっ? 考えたこともなかった。お城のお堀とかにいつでもいるような気もするし、いないような気もするし。
歴史先生:鴨ってよく見ますが、実は渡り鳥。秋ごろに北方から飛んできて、春から初夏には帰っていきます。ということで真夏には見ないはずです。(ただしカルガモのように年中日本にいる種類もあります。)
マナブ:そうだったんですね。ということは秋になると新しい鴨たちがここ浜離宮にも飛んでくる。
歴史先生:はい。「おっ、とても素敵な池があるな」、と思ってここに降りるんだと思いますが、結果的に鷹狩の獲物になってしまいます。
マナブ:まさに「カモにされる」というのは、こういうことだったんですね。

大覗
歴史先生:では次に大覗(案内図 ❽)を見てみましょう。

大覗には丸い穴がいくつもあいている

丸い穴からみえる景色
歴史先生:穴からは何が見えますか?
マナブ:池が見えます。
歴史先生:ここは「元溜り」。アヒルや鴨たちが生息する池になります。
マナブ:ということは、ここからこっそりと池の様子を覗いて、「鴨がいっぱい来てるぞ」とか、「引堀のほうに動いているぞ」とか、を見るんでしょうね。
歴史先生:はい。そういうことになります。
マナブ:代々の徳川将軍たちはこれを楽しんだんですか?
歴史先生:生類憐みの令を出した綱吉は当然やっていません。
マナブ:あはは、そりゃそうでしょうね(笑)。
歴史先生:鷹狩を復活させたのが8代将軍吉宗。でも一番熱心だったのは11代将軍家斉です。この人は在位50年(1787年~1837年)という長期政権でしたが、その間に鴨場を整備し、記録に残るだけで248回も浜御殿に来ているんです。
マナブ:ずいぶんと浜御殿を楽しんだんですね。それだけ来るということは将軍の休憩所とかも整備したのかな?
歴史先生:はい、まさにそうです。あとから行く中島の御茶屋を再建しただけでなく、燕の御茶屋、松の御茶屋 、鷹の御茶屋、汐見の御茶屋が新しく建てられました。
マナブ:ふーん。家斉って、ぜいたくざんまいの人生だったのかな?
歴史先生:そうかもしれません。家斉は15歳で将軍になって、それまで権力を握っていた田沼意次を罷免。名君として誉れ高かった松平定信を老中にします。家斉はまだ子どもでしたから、彼が選んだというよりは、その父である一橋治済(はるさだ)が中心となって松平定信を担ぎ上げたんでしょう。
マナブ:松平定信というと、たしか寛政の改革?
歴史先生:そのとおり! 真面目な松平定信は幕府の財政立て直しのために強いリーダーシップのもとで倹約を奨励。院政のような形で権力をふるおうとしていた将軍の父、一橋治済と、まだ若い家斉は自らが推した松平定信の勢いに従うしかありませんでした。でもそれがちょっと厳しすぎた。6年後、ついに松平定信と家斉親子は松平定信を罷免してしまいます。
マナブ:あらあら。
歴史先生:その後も松平信明が跡を継ぎ、改革を進めましたが、ついに1818年、家斉は側用人だった水野忠成を老中に起用。寛政の改革のメンバーたちを排除します。そうなると今度はふたたび賄賂が横行するようになったんです。
マナブ:政治が乱れた?
歴史先生:はい。これまでの厳しかった寛政の改革の反動が出ます。家斉は豪奢な生活をするようになり、浜離宮も大幅にアップグレード。
マナブ :それが良かったような、悪かったような。
歴史先生:異国船打払令という非現実的な命令を出し、貨幣を改鋳して悪貨を流通させ、政治も経済も大混乱。庶民を犠牲にした腐敗政治に不満が高まり、大塩平八郎の乱が起きたりしました。
マナブ:ひどい。
歴史先生:そして1837年に退任。その後、老中水野忠邦が天保の改革をおこなって、再び幕府の立て直しを図ります。
マナブ:家斉って、あんまり評判の良かった将軍ではなさそうですね。
歴史先生:政治には向いてなかったようです。しかし遊びの天才だったかもしれません。
マナブ:その遊びの天才の跡を今私たちは見ているわけですか。
歴史先生:そうですよね。さて、鷹狩の仕組みと大覗、小覗、ご理解いただけましたか?
マナブ:とてもよくわかりました。
歴史先生:ここは「庚申堂鴨場」と呼ばれているのですが、浜離宮内にはもう1つ、「新銭座鴨場」(案内図 ⓮)もあります。こちらも鷹狩の施設の仕組みが非常にわかりやすいので、道からちょっと外れるのですが、忘れずに見ていただきたいですね。


新銭座鴨場へ続く道はうっそうと木が茂っている

新銭座鴨場の小覗(手前右)と大覗(左手奥)

大覗の丸い穴からは池の様子がうかがえる

池から小覗へとつながる引堀
浜離宮はまさに庭園 の王様。絶景の広がる潮入の池周辺

潮入の池

マナブ:庚申堂鴨場から離れて、明るい開けた場所に出てきました。また小さな丘がありますね。
歴史先生:御亭山(案内図 ❾)、です。登りましょう。

御亭山

御亭山からの眺め
マナブ:あー、ここはいい眺めだ。東京タワーも見えています。
歴史先生:家斉のお気に入りの場所だったそうです。
マナブ:昔はどんな眺めだったんだろう?
歴史先生:北西には江戸城。西には富士山。東には海越しに房総半島が見えたことでしょう。そして今は潮入の池がよく見えますね。池泉回遊式庭園にはこういった小高い丘がいくつか作られて、眺めを楽しむようにできています。
マナブ:この池は大きいですね。他の大名庭園もいくつか見ましたが、こんなに大きな池は記憶にありません。

富士見山へ登る道

歴史先生:次に、庭園の南端にある富士見山(案内図 ❿)へ登りましょう。
マナブ:今はビルで富士山は見えないんでしょうけど。
歴史先生:でも富士山より、ここは庭園の中心部を見渡せる絶景ポイント。

富士見山からの眺め
マナブ:ほぉー。これはすばらしい眺め。
歴史先生:潮入の池、その真ん中に浮かぶ中島、そして背後の高層ビル群が独特の景観を生み出しています。
マナブ:石段をちょっと登りますが、ここは外せないスポットですね。

中島

汐留水門
歴史先生:中島へ渡る橋のたもとに、もう1つの水門があります。こちらは汐留水門(案内図 ⓫)。先ほどの横堀水門と連携して、水位を調整しています。
マナブ:なるほど。

観音堂跡
歴史先生:ここから中島へは渡らずに、森の中を歩いていきます。
マナブ:観音堂跡(案内図 ⓬)というところへ来ました。
歴史先生:江戸時代、ここには観音堂や鐘楼があったようです。


馬場跡
マナブ:観音堂を過ぎて左の脇道に入ると、なんだかまっすぐな広い道のようなところへ出ました。これは何ですか?
歴史先生:これは馬場の跡(案内図 ⓭)です。8代将軍吉宗が作らせました。彼はオランダ人のケイゼルを馬術の教官として迎え、ここに住まわせて武士たちに西洋式の馬術の教練を行ったそうです。
マナブ:明治維新まではまだだいぶ遠いのに、その時点で西洋馬術を取り入れるなんて、吉宗はとっても進歩的だったんですね。
歴史先生:はい。その他、織物を作ったり火薬の実験をしたり、あるいは400種類の薬草を栽培するなど、浜御殿を享保の改革における殖産興業の実験場として活用しました。
マナブ:遊びの場ではなくて、今でいう国立の研究所のような場所になったんですね。
歴史先生:でもそんな吉宗もただ1つ、自分の遊びにお金をかけたことがあります。
マナブ:それは何でしょう?
歴史先生:吉宗はどうしてもゾウを見たかった。
マナブ:動物のゾウ、ですか?
歴史先生:はい。そこで彼はゾウを取り寄せ、ここ浜御殿で飼育させたんです。
マナブ:なんと。
歴史先生:かつて紀元前に、カルタゴの将軍ハンニバルがゾウを戦車のように使ってローマを圧倒したように、実用的で進歩的な吉宗には彼なりに何か深い考えがあったのかもしれませんが、そこはわかりません。


中島の御茶屋

マナブ:潮入の池の真ん中に浮かぶ中島へ渡ります。
歴史先生:ここには「中島の御茶屋」(案内図 ⓯)があります。ここは1707年に家宣が建てた御茶屋で、潮入の池を見渡す眺めが自慢でした。一度火災で焼失しますが、家斉が再建します。
マナブ:贅沢好きな家斉ですから、ぜひともここの茶屋は建てたかった。
歴史先生:でしょうね。徳川将軍はここに 賓客を招いて和歌の会を催したり、池に舟を浮かべて遊んだり、楽器を演奏したり、と優雅な時間が流れていました。
マナブ:まるで平安貴族。
歴史先生:そして明治維新後も天皇の離宮として使われ、さらに国賓をもてなす迎賓館的な役割も担いました。米国のグラント大統領が来日した時に明治天皇と面会したのもこの場所です。
マナブ:日本らしい、最高のロケーションですものね。
歴史先生:しかし、この茶屋の建物は惜しくも1945年(昭和20年)の東京大空襲で失われてしまいました。
マナブ:残念。
歴史先生:今の建物は1983年(昭和58年)に再建されたもの。いまでは誰でも入れて、抹茶とお菓子のセットなども頂くことができます。

お伝い橋
マナブ:中島は3方向から橋でつながっているのがおしゃれです。
歴史先生:お伝い橋、と呼ばれています。途中に藤棚があったりして、総ヒノキ造りのとてもぜいたくな橋なんですよ。

鷹の御茶屋

歴史先生:お伝い橋を渡ったところに3軒の茶屋があります(案内図 ⓰)。これらは2010~2018年の間に再建されました。まず、正面にあるのが「鷹の御茶屋」。
マナブ:元々、これらの茶屋は家斉が建てたんでしたよね。
歴史先生:はい、3軒とも家斉が建てました。
マナブ:何に使っていたんでしょう?
歴史先生:まず鷹の御茶屋ですが、これは鷹狩の際の将軍の休憩所だったところ。家斉が鷹狩の時の装束のまま休めるように、内部は土間になっています。

叉手網
マナブ:これは何?
歴史先生:「叉手網(さであみ)」と呼ばれているものです。明治になっても鷹狩は続きましたが、その際には実際の鷹ではなく、人がこの網で鴨を捕獲したんだそうです。

鷹部屋
マナブ:鷹の御茶屋を出ると、裏に 回るように看板が出ています。鷹の部屋がある、ということなんですが。
歴史先生:はい。出番を待つ鷹が待機する小さな部屋が鷹の御茶屋の裏側にあるんです。

中には鷹のはく製がある
マナブ:あ、鷹がいますね。
歴史先生:鷹を刺激しないように、出入りする人たちが見えないように茶屋の裏側に作って中を暗くしていたんだそうです。

燕の御茶屋
歴史先生:そしてすぐ隣にあるのが燕の御茶屋です。
マナブ:池のすぐそばに建っていますね。
歴史先生:はい、ここの座敷からの眺めも抜群です。中を覗いてみましょう。

燕の御茶屋
マナブ:うぁー、これは素敵なお座敷ですね。
歴史先生:一段高くなったところがありますが、上段の間と呼ばれていて、あそこに将軍が座るわけです。畳の縁(へり)も違っていて、下の畳は綿ですが上の畳は麻。
マナブ:そんな細かな違いもあるんですね。ところでさっきの建物は鷹狩りに関係していたので「鷹」の御茶屋という名前でしたが、ここは「燕」に関係あるんですか?
歴史先生:部屋の中で、燕を探してみてください。
マナブ:えっ、部屋の中で探す? あ、あれだ。

燕の釘隠し
歴史先生:そうです。あれは釘隠し、なんですが、どれも燕の形をしています。この部屋のデザインのアクセントになっていますよね。
マナブ:よく見るとたくさんいますね。
歴史先生:24か所もあるそうです。

松の御茶屋
歴史先生:3つ目は「松の御茶屋」です。
マナブ:ここはまさにウォーターフロント。
歴史先生:はい。広い座敷を持ち、開放的な広縁から池を眺める絶好の場所に建てられています。

松の御茶屋内部
マナブ:ここもいい休憩所ですよね。燕の御茶屋よりも少し広いので、人数が多めのお食事などにも適しているのでは?
歴史先生:はい。実際に、1869年(明治2年)には英国公使パークスとの会食場としても使われたようです。室内の装飾も一見質素に見えますが、実は贅を尽くしたもの。
マナブ:というと?
歴史先生:例えば窓の上の欄間。ここに浜千鳥の透かしが彫られています。池に反射した光が浜千鳥の形になって映ります。そして部屋の欄間にも繊細な浜千鳥が彫られています。
マナブ:ほほう。
歴史先生:そしてここの釘隠しはセミ。
マナブ:あ、ほんとだ。遊び心も満載ですね。

花木園

マナブ:御茶屋から森の中を抜けると広場に出ました。
歴史先生:ここは花木園(案内図 ⓱)。春は桜や梅などが咲き誇ります。
マナブ:きれいですね。
歴史先生:そしてもう少し言った広い場所、今は芝生の広場になっていますが、1869年(明治2年)にここに延遼館(えんりょうかん)という日本で初めての石造りの西洋建築があったんです。しかし1889年(明治22年)に老朽化の理由で取り壊されました。
マナブ:石造りのはずなのに、ずいぶんと短命ですね?
歴史先生:1883年(明治16年)に鹿鳴館ができて、外国要人の接待はそちらに移ってしまい、延遼館の使い道がなくなったことも影響しているようです。
マナブ:そういえば鹿鳴館って、どこにあったんですか?
歴史先生:今の帝国ホテルのあたりにありました。碑だけが残っています。
マナブ:そうでしたか。
歴史先生:ではここから中の御門(案内図 ⓲)へ行き、そこから退出いたしましょう。

中の御門
歴史先生:さて、浜離宮はいかがでしたか?
マナブ:いやー、期待以上でした。日本三名園(兼六園、後楽園、偕楽園)にはわざわざ遠くから行くわけですが、それのさらに上に立つようなすごい庭園が東京のしかも都心にあるなんて。今日も外国人観光客でにぎわっていましたが、東京の人たちがもっと知っておいていいんじゃないでしょうか? まさに東京を代表する見どころ、だと思いますよ。
もう1つの離宮、江戸初期の大名庭園の傑作:芝離宮

大山からの眺め

マナブ:さて、次は芝離宮に向かいます。まずは浜離宮の「中の御門」を出て、高速道路づたいに歩いていきます。

芝離宮へは浜離宮の脇の道を歩いていく
マナブ:そして右折。浜松町駅に向かって歩いていきます。
歴史先生:東京タワーもきれいに見えますね。

浜松町駅に向かって歩く

芝離宮入口
マナブ:さて、芝離宮の入口に来ました。ここは浜松町駅の出口のすぐ隣ですね。
歴史先生:そうなんです。
マナブ:ここは何度も通ったし、とっても便利な場所なのに、今まで来たことなかったなぁ。
歴史先生:そんな人、多いんじゃないですかね。では早速、入ってみましょう。
旧芝離宮恩賜庭園(地図 ❸)
〒105-0022 東京都港区海岸1丁目4−1
入場料150円(シニア、団体割引あり。)(浜離宮とのセット券は400円(50円お得))
9:00~17:00(最終入場16:30)、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.tokyo-park.or.jp/park/kyu-shiba-rikyu/

芝離宮入口

歴史先生:では入口(案内図 ❶)でチケットを買って入ります。ここでも案内図をもらいましょう。
マナブ:さっきの浜離宮に比べるとすこし小さめ?
歴史先生:面積としては1/5くらいかと思いますが、浜離宮の中心部、潮入の池あたりだけを切り取ったようなイメージ。ここもかなりの広さがあります。

入口付近から見る庭園の眺め
マナブ:入ってきました。おー、これはすごい。結構広いですね。
歴史先生:中央に大きな池(=大泉水)があって、その周りを巡る、典型的な池泉回遊式庭園です。では、時計回りに進みましょう。

大泉水の中に浮かぶ浮島。風景のアクセントになっている。
マナブ:ところで、先ほどの浜離宮は徳川将軍家の別邸でした。で、ここ芝離宮はどういう庭園なんですか?
歴史先生:ここは1678年に作られた江戸初期の大名庭園。最も古い大名庭園は小石川後楽園で1629年に水戸家の屋敷として造られたものがありますが、それに次ぐ初期の大名庭園の姿を今に伝えてくれる場所です。
マナブ:誰が作ったんでしょう?
歴史先生:4代家綱や5代綱吉に仕えた老中の大久保忠朝(おおくぼ ただとも)です。
マナブ:うーん、知らない。
歴史先生:大久保忠朝のおじいさんは大久保忠隣(おおくぼ ただちか)ですが、聞いたことはありますか?
マナブ:それも知らない。
歴史先生:大久保忠隣は家康の配下の武将。姉川の戦い、三方ヶ原の戦い、小牧・長久手の戦い、小田原征伐などで活躍しました。中でも家康が大敗を喫した三方ヶ原の戦いでは家康を守って浜松城まで無事送り届けた功績があります。
マナブ:家康の元には強い三河武士団がいましたが、その1人ですね。
歴史先生:そうなります。本能寺の変では家康の伊賀越えを成功させた功績もありました。そういったこともあり大久保忠隣は小田原藩6万5000石の初代藩主となりました。その後も秀忠を補佐する老中として権勢をふるいます。
マナブ:それがおじいさん。
歴史先生:はい。しかしその後、幕府に無断で親族の婚姻をさせたなどの罪を問われて改易されてしまい、小田原城も本丸を残して破却されてしまいます。大久保忠隣は彦根に移され、井伊家預かりとなりました。急な没落でしたが、ライバルの本多正信・正純親子の陰謀だったという説もあります。
マナブ:では家が無くなってしまった?
歴史先生:そうなるところでしたが、家康時代の武功が非常に大きい人であったので、孫の大久保忠職が家を継ぎ、その弟の忠朝は小田原藩主に復帰することが許されました。
マナブ:いろいろと苦労した人なんですね。
歴史先生:大久保忠朝は家が再興されたのち、再び老中となって権勢をふるい始めます。彼は江戸屋敷を作る上でこの海だった場所を埋め立て、小田原から作庭師を呼び、このような立派な庭園を造りました。
マナブ:すごい。

海水取入口跡

歴史先生:ここは浜離宮と同じく、海水を取り入れていました。海水取入口跡(案内図 ❷)には石垣や鉄の水門などが残っていて、重要な遺構となっています。ただし現在では埋め立てで海から遠くなってしまい、今では海水の取入れは行われていません。
マナブ:なるほど。ところで「離宮」という名前になっているということは、ここも天皇家の所有になったんですね?
歴史先生:はい。明治維新の際にここも新政府に接収されました。ここは天皇家ではなく、有栖川宮家の所有となりました。
マナブ:有栖川宮家の話、福島の天鏡閣のところで学びました。この庭園も持っていたなんて、さすがですね。
歴史先生:先ほど浜離宮で延遼館が1889年(明治22年)に取り壊された話をしましたが、その翌年、芝離宮に西洋館という木造の西洋建築が建てられました。そして1924年(大正13年)、昭和天皇御成婚記念として東京市に下賜されました。ということでここもかつての離宮であり、恩賜庭園であるわけです。
マナブ:その西洋館も取り壊されたんですか?
歴史先生:いえ。この芝離宮は関東大震災で大変な被害を受け、建物や樹木を焼失してしまったんです。
マナブ:そうだったんですね、残念。

九尺台

九尺台からの眺め
歴史先生:庭園の 東側、かつては海に面していたところにある九尺台(案内図 ❸)に登りましょう。
マナブ:池泉回遊式庭園によくある、小高い丘の1つ、ですね。
歴史先生:ここは以前は庭園風景と共に海の景色を楽しめる場所でした。明治天皇もここから海をご覧になったという記録があります。いまでは埋め立てが進み、海側には高層ビルが建っています。そしてその向こうには竹芝桟橋があります。

九尺台の背後には真新しい高層ビルが建つ

根府川山
マナブ:立派な石がごろごろしている山がありますね。
歴史先生:根府川山(案内図 ❹)、という名前がついています。
マナブ:根府川というと、小田原から熱海にドライブするときに通るところ?
歴史先生:そうです。大久保忠朝は小田原藩主ですから、そこから石を運んできたと思われます。
マナブ:ぜいたくにお金をかけたお庭ですねぇ。

春には桜が美しい

歴史先生:ここ芝離宮は桜の名所でもあるんです。(案内図 ❺)
マナブ:今の時期、訪れるには最高ですね。

西湖の堤
歴史先生:さて次ですが、西湖の堤(案内図 ❻)が見えてきました。
マナブ:西湖の堤 ?
歴史先生:中国の杭州にある西湖は風光明媚な場所として有名。西湖にまっすぐ伸びる堤を模したミニチュア版が作られています。江戸時代の人たちはまだ見ぬ西湖の風景に憧れたことでしょう。小石川後楽園、広島の縮景園などにも同じようなものがあります。

まずは大山の手前の低い山に登ろう
歴史先生:では園内を一望できる大山(案内図 ❼)に登りましょう。でもその前に手前にある低い築山に登ってみます。

築山から見た西湖の堤
マナブ:ここからは西湖の堤がまっすぐに池を分けているのがよく見えます。

2つの山の間には岩の峡谷がある
歴史先生:では次に高いほうの大山へ行きます。
マナブ:おっと危ない。大山へ行こうとしたら突然谷がありました。
歴史先生:ここには昔、臥龍橋という橋があったのですが、今は無くなっています。なので突然地面が落ち込んでいて危ないですね。橋があったころは、谷の上を渡る、ちょっとスリリングなアトラクションだったのかもしれません。

大山からは園内を一望できる
歴史先生:園内で一番高い場所、大山へ来ました。
マナブ:あー、ここは園内がよく見渡せますね。絶景です。しばらくここでボーっとしていたい。

枯滝
歴史先生:2つの山の間の峡谷、これを「枯滝」(案内図 ❽)と呼んでいます。
マナブ:枯山水のようなイメージ?
歴史先生:まさにそうです。水は流れていないのですが、荒々しい峡谷美が楽しめます。この川床に見立てたところを通れるのもおもしろいですね。

中島

歴史先生:西湖の堤を渡って中島(案内図 ❾)へ来ました。
マナブ:ここは岩がごつごつしていますね。
歴史先生:この島は蓬莱山を表しています。
マナブ:蓬莱山?
歴史先生:中国の伝説で、東の海の中に蓬莱山があり、そこには仙人が住んでいて、不老不死の薬があるとされる場所です。
マナブ:それって徐福が目指した場所?
歴史先生:そうです、そうです。

中島にはたくさんの亀が
マナブ:カメがいますね。あ、あっちにも。こっちにも。すごい数いますよ。
歴史先生:ほんとだ、すごい数ですね。長寿の象徴として蓬莱山に住んでいるということなのかもしれません。

雪見灯篭

歴史先生:芝離宮もそろそろ終わりに近づいてきました。ここ、雪見灯篭(案内図 ❿)から見る景色もいいですよね。
マナブ:たしかに。この角度から見るお庭もいいですね。回遊式なので、いろんな角度からいろんな景色を楽しめました。
歴史先生:さてマナブさん、芝離宮はいかがでしたか?
マナブ:芝離宮、すばらしい大名庭園でした。複雑な池と島、そして山の構成。大きな岩がたくさんあって、面白い景観を作っていました。浜離宮と芝離宮の2か所は一度に回れますし、ぜひぜひ週末のお出かけにでもお薦めしたい。都心で自然を感じられる場所ですし、特に歴史好きの人にはたくさん楽しんでいただける場所だと思います。
