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登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
板橋は江戸時代の交通の要衝だった

新選組局長 近藤勇の最期はどうなった?

今もにぎわう「仲宿」

「板橋区」の地名になった橋と、不思議な「縁切榎」


板橋は江戸時代の交通の要衝だった



右が中山道、左が川越街道



マナブ:今日は板橋に来ています。


歴史先生:板橋、というと何を連想しますか?


マナブ:うーん、何も出てこない。池袋よりちょっと北の地域、っていうくらいかな。


歴史先生:実は江戸時代の歴史を色濃く残している舞台なんです。今日はそんな歴史を感じながら歩いてみましょう。


マナブ:お、いいですね。


歴史先生:では早速ですが、私たちが今立っているところ、ここは平尾追分(地図 ❶)、と言います。


マナブ:「追分」っていう地名、よく聞きますが。


歴史先生:追分とは、二股になっている分かれ道のことです。ここ平尾追分は江戸の方から歩いてきて、右に行くと中山道、左に行くと川越街道、という場所なんです。ここはさらに高田道という南方向への街道も分かれる交通の要衝でした。


マナブ:なるほど。


歴史先生:川越街道はこの先、大山駅を通って大山ハッピーロードという、都内有数のアーケード商店街に続きます。ここは昨今、再開発の問題で揺れていますが。


マナブ:そっちの道が楽しそう。


歴史先生:そうなのですが(苦笑)、今日は右へ行って中山道をたどりましょう。ところで、中山道はどこからどこまでかご存じですか?


マナブ:えーっと、江戸から始まって、長野県とか山の中を通るんですよね・・・。どこまでですか?


歴史先生:江戸の日本橋から京都の三条大橋までを結んでいます。「東海道」が海沿いを通る一方、「中山道」は山の中を通る道です。「東海道五十三次」と言われますが、中山道は六十七次、です。


マナブ:中山道の方が宿場の数が多いんですね。


歴史先生:はい。その宿場なんですが、江戸から見て、中山道の最初の宿場町が「板橋宿」、なんです。ここは「江戸四宿」の1つで、茶屋、酒楼、旅籠などが立ち並んでいたようです。


マナブ:江戸四宿?


歴史先生:中山道の板橋宿、東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、そして日光街道の千住宿、です。


マナブ:どれも今は郊外につながる大きな駅になっていますね。


新選組局長 近藤勇の最期はどうなった?


板橋宿の入口


歴史先生:では、中山道に入っていきましょう。ここからが板橋宿です。


マナブ:なんとなく昔の街道の雰囲気がある道ですね。


歴史先生:板橋宿は北から上宿、仲宿、平尾宿という3つの地域に分かれていて、なんと全長1.7㎞もあるんですよ。


マナブ:えっ、それはかなり長い。


歴史先生:今日はそれを歩きながら、歴史の跡を探してみましょう。まず私たちが入ってきているのが平尾宿。別名、下宿、とも言います。


マナブ:北のほうが上? 南のほうが下?


歴史先生:これは南北で上下になっているわけではなくて、京都に近いほうが上宿、なんです。


マナブ:あ、そうか。江戸時代まではすべては京都が上、なんだ。


歴史先生:今でも京都・大阪のほうを「上方(かみがた)」って言いますよね。


観明寺の庚申塔


歴史先生:まず右に見えてきたのが観明寺(地図 ❷)です。室町時代が始まったばかりの1338年創建、と伝わる古刹です。江戸時代になってここが板橋宿として栄えたことから、多くの人々の信仰を集めました。入口にある庚申塔は1661年に作られたものです。


マナブ:都会の中なのに、敷地が広いですね。当時の繫栄をしのばせるような感じです。


歴史先生:ところで、この平尾宿の北側一帯はかつて加賀藩の下屋敷でした。その広さは何と22万坪。


マナブ:えーっと、桁が大きすぎて想像できない。22万坪に3.3をかけると72.6万平方メートル。これのルート(平方根)を計算すると852m。仮に正方形の土地だとすると、一辺は852mもあるんだ。さすが加賀百万石。


歴史先生:その広大な敷地は明治維新で政府が取得し、その後陸軍の火薬製造所となりました。


マナブ:江戸の宿場町だったのに、それでずいぶんと雰囲気が変わりそうですね。


歴史先生:ところで、明治維新といえば、ここ観明寺の隣にはかつて平尾宿の脇本陣がありました。突然ですが、新選組局長、近藤勇は最後どうなったか、ご存じですか?


マナブ:突然ですね(笑)。えーっと、たしかどこかで官軍に捕えられて、処刑されたんでしたっけ。


歴史先生:はい、そうです。甲州勝沼で敗れて敗走し、土方歳三らと共に今の千葉県流山で陣を張っていましたが、勝ち目が薄いと自発的に投降し、この板橋の平尾宿に連れてこられて、脇本陣に幽閉されていました。


マナブ:近藤勇が捕えられて来たということで、この街は大騒ぎだったのでは?


歴史先生:いえ、それがですね、彼が捕えられたとき「大久保大和」と名乗っていたため、誰もこの人を近藤勇とは思っていなかったようなんです。でも官軍側に元新撰組の隊士がいて、近藤勇であることがばれてしまったようです。(諸説あり)


マナブ:そうだったんですか。で、官軍の人は近藤勇をどう扱ったのですか?


歴史先生:官軍の中でも意見が割れたようです。敵将として手厚く扱うのか、同志をたくさん殺された許しがたい相手なのか。結局土佐藩を中心とした強硬な意見が通り、近藤勇は板橋宿の少し江戸寄りにある刑場で斬首されました。


マナブ:斬首?


歴史先生:こういった場合、普通は武士には「切腹」が命じられるのですが、近藤勇は武士としてさえ扱ってもらえなかったようです。35歳、という短い生涯でした。


マナブ: 35歳ですか。もう少し年上のような気がしていました。


歴史先生:そしてその首級だけが京都へ送られ、胴体は板橋で埋葬されました。その埋葬された場所が、今のJR板橋駅の東口駅前すぐのところにあり、供養塔が立っています。あとで行ってみましょう。


マナブ:うわー。悲惨な終わり方だったんですね。


いたばし観光センター


いたばし観光センター(地図 ❸)

〒173-0004 東京都板橋区板橋3丁目14−15

9:00-17:00、火曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bunka/kanko/1006728.html


歴史先生:中山道を少し進んで右側の路地を入ったところに「いたばし観光センター」(地図 ❸)があります。中山道の模型、板橋宿のジオラマ、板橋区内の観光パンフレットなどがありますので、立ち寄ってみましょう。


マナブ:いいですね。


歴史先生:また、14日前までに申し込むとここから無料のボランティア観光ガイドをお願いすることもできるそうですよ。


マナブ:あ、さっき観明寺でそれらしい人にガイドされている観光客を見ました。知らなかったけど、ここは観光で来るべき歴史スポットなんですね。


歴史先生:はい、実はそうなんです。


今もにぎわう「仲宿」


仲宿の入口



マナブ:「旧中山道仲宿」という交差点まで来ました。


歴史先生:ここから仲宿になります。渓斎英泉(けいさい えいせん)という江戸時代後期の浮世絵師による「第二 木曾街道 板橋之驛」という作品はここを描いているようです。


マナブ:当時からにぎわっていたんでしょうね。


歴史先生:いえ、実は板橋宿は江戸から近いため、当初は中山道を旅する人たちから素通りされて人気がなかったんです。


マナブ:えっ、そうだったんですか。


歴史先生:でもその後次第に江戸の市民が多く遊びに訪れる場所になっていき、大変な賑わいを見せていました。


マナブ:本来の宿場町としての機能よりも、郊外の遊び場として栄えたんですね。


遍照寺の石像群


歴史先生:仲宿に入ってすぐのところに遍照寺(地図 ❹)があります。ここは板橋宿の「馬つなぎ場」となっていました。


マナブ:馬つなぎ場?


歴史先生:江戸時代、馬は情報伝達のための最も早い手段でした。ここにつながれて、次の区間を駆け抜ける準備がされていたんですね。


かつての宿場町らしい風情のあるお店が並ぶ


マナブ:先ほどの平尾宿は通行人もまばらでしたが、ここ仲宿はとても人通りが多いですね。


歴史先生:今では食品スーパーなど、生活に密着したお店が多く立ち並ぶ商店街として賑わっています。見ていると地元の人が多い感じですね。


文殊院


マナブ:今度は立派な門構えのお寺です。


歴史先生:文殊院という、江戸初期からあるお寺です。名前からわかるように、ご本尊は文殊菩薩です。板橋宿を代表するお寺ですね。


「板橋区」の地名になった橋と、不思議な「縁切榎」


板橋



マナブ:風情のある橋がありますね。


歴史先生:石神井川にかかる、これが「板橋」(地図 ❻)です。


マナブ:えっ。ということは、板橋という地名はここから取られた?


歴史先生:はい、そうなんです。橋自体は古くからあったようで、鎌倉から室町にかけて書かれた書物にも登場します。今でこそコンクリートですが、江戸時代は木製の太鼓橋だったようです。


マナブ:板橋って、そういう地名だったんだ。


橋を渡るとそこからは上宿


マナブ:橋を渡ります。道は緩やかな上り坂。


歴史先生:ここからは上宿になります。


縁切榎はマンションの脇のせまいスペースにある


マナブ:先ほどまでの仲宿と比べると、上宿にはお店がなく、住宅街になっています。


歴史先生:上宿で一番の見どころは「縁切榎」。


マナブ:あ、そこの交差点脇の小さなスペースですね。


歴史先生:ここは近藤家という旗本のお屋敷の一部だったのですが、なぜかここを通る女性が不幸になるということで、縁起の悪い縁切りの木という評判が立ってしまったそうなんです。


マナブ:迷信深い江戸の人たちですから、いろんなことを言いますね。


歴史先生:ところで、「皇女和宮」ってご存じですか?


マナブ:えーっと、たしか薩摩から徳川将軍家に輿入れした人、だったかな?


歴史先生:それはきっと「篤姫」のことですね。13代将軍家定に輿入れした人で、大河ドラマにもなりました。


マナブ:そうそう。でもそれではない?


歴史先生:皇女、というのは天皇の娘。和宮のお父さんは仁孝天皇、お兄さんは孝明天皇です。


マナブ:そんな高貴な人でしたか。


縁切榎


歴史先生:江戸末期、黒船来航、尊王攘夷の嵐が吹き荒れる中、日米修好通商条約が朝廷に無断で締結されるなど、幕府と朝廷の間で難問が山積していました。それらに幕府と朝廷が1つになって対応できるよう、「公武合体」政策がとられ、当時16歳だった皇女和宮が14代将軍家茂に嫁ぐことになりました。


マナブ:天皇家の娘さんが徳川将軍に嫁ぐなんて、その当時としても簡単なことではなかったのでは?


歴史先生:そうなんです。元々は日米修好通商条約を強引に進めた井伊直弼が朝廷側の反対を抑えるために考えたアイディア。井伊直弼が暗殺されると、今度は岩倉具視という怪物公家が京都に現れます。


マナブ:昔、500円札の顔でした。


歴史先生:岩倉具視は孝明天皇に「幕府に言うことを聞かせるチャンス」としてこのアイディアを売り込みます。さらには反対する公家たちを説得あるいは買収して、この縁談をまとめてしまったんです。


マナブ:本人の和宮の意思はどうだったんでしょう?


歴史先生:和宮には有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王という許嫁(いいなずけ)がありましたし、京都から見て遠い田舎の関東へ行くなんて「絶対いや!」とかなり抵抗したそうです。でも国家のために必要な犠牲として岩倉具視はそんなことはお構いなしでした。


マナブ:和宮は不安で心細かったでしょうね。


歴史先生:それを慰める意味もあったかどうかわかりませんが、和宮嫁入りの行列は何と8,000人、馬300頭という大人数。和宮は中山道を通って京都から江戸へと下向します。


マナブ:近道の東海道じゃなくて、あえて遠回りになる中山道を通ったということは、海や川を大人数で渡るのが大変だったからかなぁ?


歴史先生:恐らくそれも理由だったのでしょう。しかし中山道を通った理由として伝えられていることがあるのですが、静岡に「薩埵峠(さったとうげ)」という風光明媚な名所があります。歌川広重の東海道五十三次「由比」でも有名です。


東海道五十三次「由比」はここから見られます。

https://chisoku.jp/tokaido/16_yui/


マナブ:あ、それ見たことがあります。海岸沿いの崖の上を通る道で、富士山が美しい。


歴史先生:はい。東海道だとそこを必ず通るのですが、「薩埵」というのが「去った」に通じるということで縁起が悪いと。


マナブ:えー? そんなことまで気にするんですか? あ、だとしたら、中山道で板橋まで来た時に、この「縁切榎」の前を通るなんて、絶対ありえない。


歴史先生:はい。そういうことでわざわざバイパスを作って、和宮の行列はここを迂回することになったんです。その話が江戸の庶民の間で一気に広まり、「縁切榎」は一躍超有名パワースポットとなりました。以来、男女間や悪癖(酒など)との悪縁を絶ちたいと願う庶民が多く訪れ、とてもにぎわったそうです。


マナブ:この木になぜそんなパワーがあるのかわかりませんが、人のうわさというのはすごい力を持っていますね。


歴史先生:板橋宿の街歩き、いかがでした?


マナブ:いやー、まったく今までここ板橋宿のことを何も知りませんでした。ゆるやかにカーブする長くて狭い道を歩いていると、ぽつぽつと史跡も残っていて、中山道の宿場町としての雰囲気が感じられました。板橋の地名の由来もわかりましたし、近場なのに面白い歴史スポットですね。


JR板橋駅東口にある近藤勇の墓


近藤勇と新選組隊士供養塔

〒114-0023 東京都北区滝野川7丁目8−10

入場自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.kanko.city.kita.tokyo.jp/spot/428-2/


歴史先生:では最後に、地下鉄で板橋本町駅から新板橋駅へ戻って、近藤勇のお墓に行きましょう。


マナブ:ここに近藤勇の胴体が埋葬されているんですね。


歴史先生:横に立つ供養塔は1876年(明治8年)に新選組の生き残りである永倉新八が発起人となって立てたものです。碑面には近藤勇の名前と並んで土方歳三の名前も刻まれています。永倉新八は一度は近藤とたもとを分かちますが、明治維新後は新選組の同志の菩提を弔って暮らしていたそうです。


マナブ:それにしても、JR板橋駅の駅前すぐ、とは後世の人がお参りに来やすい場所に作ったものですね(笑)。


歴史先生:はい(笑)。もちろん当時はJRの駅ができるなんて想像もしなかったでしょうけど。


マナブ:ところで先生、板橋駅は何区にあるかご存じですか?


歴史先生:おっと。これは知らないけど、問題にするということは板橋区ではない、ということですか?


マナブ: えへへ。改札からホームに上がるあたりまでは板橋区、その先のホームの大部分は豊島区なんです。そして駅から西口に出れば板橋区、東口に出れば北区、なんですよ。


歴史先生: へぇー、それは知りませんでした。港区にある品川駅、みたいですね。


マナブ:えっ、そうなの?


歴史先生:今度品川宿にも行きましょう。



​歴史好きのための観光ガイド
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