top of page
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。

知られざる歴史の宝庫:赤塚

長くてまっすぐな参道が魅力:氷川神社

充実の資料館に驚く:赤塚城址

奈良・鎌倉に遠慮した? 高さ13mの東京大仏

高島秋帆も滞在した名刹、松月院

知られざる歴史の宝庫:赤塚


成増駅 北口



マナブ:今日は板橋の「赤塚」に行きます、と言われたのですが、赤塚って聞いたことがないです。


歴史先生:そうかもしれませんね。東京大仏はご存じですか?


マナブ:あ、それは聞いたことがあります。どこにあるかまでは知らないのですが、それが赤塚なんですか?


歴史先生:はい、そうなんです。でも赤塚の魅力は東京大仏だけではありません。深い歴史がそこには隠れていますので、早速行ってみましょう。


マナブ:全く知らないところを歩くのって、ワクワクしますね。


乳房榎(氷川乳房大神)


マナブ:成増駅北口を出て10分ほど歩いてきました。古そうな木がありますね。


歴史先生:これは乳房榎、あるいは氷川乳房大神と呼ばれています。(地図 ❶)


マナブ:変わった名前ですね。


歴史先生:幕末から明治にかけて、三遊亭円朝(さんゆうてい えんちょう)という有名な落語家がいました。彼が書いた落語の1つに「怪談乳房榎」というのがあります。そのモデルになったと言われるのがこの木。


マナブ:ということは江戸または明治からここにあった木なのでしょうけど、どんなお話なんですか?


歴史先生:はい。江戸の町に菱川重信という絵師がいて、その妻の名前を「おきせ」と言いました。おきせには赤ん坊がいました。しかしその妻に一目惚れしてしまった浪人の磯貝浪江は、その絵師の弟子になって家に入り込みます。そしてある時、重信の留守中におきせを脅迫し、関係を持ってしまいました。


マナブ:まだまだ悲劇が続きそうですね。


歴史先生:はい。そして今度は重信が邪魔になり、とうとう重信を殺してしまいます。


マナブ:ひどい話だ。


歴史先生:そのショックからおきせはお乳が出なくなりました。しかしある晩、死んだ重信が枕元に現れ、赤塚の松月院に乳の出る榎があると教えます。おきせはそこに行って榎の乳を子供に飲ませ、子供はなんとか育ちました。やがてその子も大きくなり、今度は父の仇として磯貝浪江を討ち果たす、という物語です。


マナブ:なるほど。そういうお話のモデルの木でしたか。たしかにこぶがいくつかあって、乳が出るといっても信じてしまいそう。


長くてまっすぐな参道が魅力:氷川神社


氷川神社の参道入口



歴史先生:さて、次は氷川神社です。


マナブ:氷川神社というと、大宮で行きましたね。


歴史先生:はい、その武蔵国一の宮である、大宮の氷川神社から勧請されてきたのがここ赤塚の氷川神社。400mにも及ぶ長い参道がみどころです。この並木は天然記念物に指定されています。


マナブ:ほお。周りは住宅街になっていますが、このまっすぐな長い参道は見ごたえがありますね。なんとなく本家大宮の氷川神社に似てる。


歴史先生:ここは室町時代に、ここからすぐの赤塚城主の千葉自胤(ちば よりたね)が勧請して創建した神社です。


マナブ:千葉氏?


歴史先生:はい。源頼朝が鎌倉幕府を開いた時に大活躍して、鎌倉の有力な御家人であった千葉氏です。下総を拠点としていて、今の千葉県の名前の元になったわけですが、享徳の乱のときに下総を追われ、武蔵の国に逃げてきました。そして山内上杉氏の庇護を受け、この赤塚城に入ったわけです。武蔵に来たからには武蔵の一の宮にすがりたい、と考えたのかもしれませんね。


マナブ:享徳の乱というと、室町時代に関東地方が真っ二つに割れて戦った大乱でしたっけ。


歴史先生:そうです。1455年から1483年にかけての29年間というとても長い戦い。主には鎌倉公方の足利氏と、関東管領の上杉氏の間での関東での主導権争いですが、多くの登場人物、多くの事件が起き、実に複雑な乱になっています。


マナブ:西では応仁の乱があった時代かな?


歴史先生:まさにそうです。応仁の乱は1467年から1477年。これも不毛な長い戦いでしたが、関東ではその約3倍もの長い間、戦いが続いていたんです。


マナブ:室町幕府ももはや幕府の体をなさない、という感じだったんでしょうね。


歴史先生:はい。関東の享徳の乱はまた機会のある時にじっくりお話ししましょう。



<読んでおきたい本>

享徳の乱

黒田基樹



ソフトカバー単行本。29年間にわたる複雑な紛争の歴史を、カラフルな図版や豊富な写真で丁寧に追いかけている解説本。膨大な情報量があるため、読者も頭を整理しながら読む必要あり。関東に住む人の間でもあまり知られていないこの紛争について学ぶには最適な本の1つ。



氷川神社。左に見えるのは富士塚。


マナブ:長い参道を歩いて氷川神社に来ました。(地図 ❷)


歴史先生:境内に入る前に、左の富士塚へ寄っていきましょう。


富士塚


マナブ:富士塚って、神社によくありますね。


歴史先生:富士塚は江戸時代にあちこちで作られました。そのころ「富士講」というのが流行していて、これはグループで富士登山に行ってお参りをしてくることだったのですが、なかなか全員が行くことはできない。


マナブ:体力要りますし、お金も要りますものね。


歴史先生:そこでミニチュアの富士山を作って、そこに登れば富士登山と同様のご利益(ごりやく)がある、ということにしたんです。本物の富士山だぞ、というために、富士山の溶岩を使って作るのが一般的でした。


マナブ:トラックとかない時代ですから、溶岩を運んでくるだけでも大変なことですね。だから当時の人にとっては、この富士塚はとてもありがたいと感じられたのでしょう。都内でもいくつか見たことがありますが、大切にしたい文化財ですね。


本殿


マナブ:さて、本殿に来ました。


歴史先生:こちらは1858年、幕末に造営されたご本殿です。お参りしていきましょう。


充実の資料館に驚く:赤塚城址


氷川神社から急な坂を下る



マナブ:氷川神社を出て、急な坂を下っています。


歴史先生:向こう側にみえるこんもりとした丘が赤塚城です。地形図を見てください。



歴史先生:ここは武蔵野台地の北の端っこ。この北側には高島平の低地が広がっていて、その向こうに荒川が流れています。台地からは多くの川が荒川へ向かって流れ、いくつもの谷を作っているんです。


マナブ:だから複雑な地形になっているんですね。


歴史先生:台地から下の低地のあたりでは、昔から荒川の氾濫がたびたび起きていました。そのため肥沃な土壌があってコメ作りには適していたそうで、今の高島平あたりは「赤塚田んぼ、徳丸田んぼ」と呼ばれ、江戸を支える稲作地帯でした。また、志村のあたりでは大根がたくさん収穫されました。取れた大根はたくあんに加工されて1年中食べられたとか。


マナブ:たしか巣鴨に行ったとき、あのあたりから板橋宿にかけて野菜の栽培が盛んで、その種も売られていたとかいう記憶があります。


歴史先生:そうなんです。板橋は江戸を支える近郊農業地帯だったんです。


板橋区立 郷土資料館


新藤楼 玄関


板橋区立 郷土資料館 (地図 ❸)

〒175-0092 東京都板橋区赤塚5丁目35−25

9:30~17:00、月曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/kyodoshiryokan/


マナブ:何か立派な建物があります。郷土資料館、と書かれています。


歴史先生:入ってみましょう。入るとすぐに、屋外展示として「新藤楼の玄関」が置かれています。ところで以前、中山道の板橋宿に行きましたよね。


マナブ:はい、古い街道の名残を探して歩きました。


歴史先生:明治になり、鉄道が引かれたことで中山道を歩く人は少なくなり、板橋宿も寂れていきました。そこで旅籠の経営者たちは、遊郭に転身し、起死回生を図ります。そのことが成功し、板橋は江戸の北西の遊郭として再び栄えました。ここに飾られているのは、その中でも最大の遊郭であった新藤楼の玄関部分。優雅な唐破風がその繁栄を今に伝えています。


マナブ:そうでしたか。板橋にもその後の歴史があったんですね。


展示室の一部


歴史先生:ここは板橋区に関する歴史史料の宝庫。


マナブ:ここは郷土資料館、という名前ですが、歴史博物館と言っていいほどの充実ぶりですね。


歴史先生:はい。中世の歴史の部分を見てみると、ここ板橋には平安時代から豊島氏が開発を行い、平安期末には源頼朝にしたがって活躍をしています。


マナブ:今の豊島区の名前はそこから?


歴史先生:いえ。豊島という地名は飛鳥時代から文献に登場し、豊島氏はその地名を名字にしたものと思われます。ところで、平安時代から続いた豊島氏も1478年、長尾景春の反乱に加わったことから太田道灌に征伐され、滅亡してしまいました。


マナブ:太田道灌、強かったんですよね。


歴史先生:はい、彼の兵は強く、当時関東を席巻しました。



<読んでおきたい本>

騎虎の将

幡大介



太田道灌の幼年時代から暗殺されるまでの一生を描いた歴史小説、上下2巻。一般に広く名前は知られているけれど江戸城を作った人くらいにしか知られていない彼が、享徳の乱という関東における出口の見えない未曽有の大乱の中、それにどう立ち振る舞い、どう悩んでいったのか。彼の波乱の一生をぜひ知っていただきたい。



旧田中家住宅


マナブ:郷土資料館では古民家も展示されています。


歴史先生:建てられた年代ははっきりしていないのですが、江戸時代の中期から後期くらい。その後のさまざまな改変の跡も残る貴重な建築物です。


マナブ:大きな樽のようなものが2つありますね。


歴史先生:あれらは漬物樽でしょう。このあたりの名産は大根ですから、それらを漬けたのではないでしょうか。


マナブ:漬物かぁ。すごい量ですね。


赤塚溜池公園。向こうに見えるのは首都高。首都高の向こうには高島平が広がる。


この階段を上ると赤塚城址がある


歴史先生:では赤塚城址(地図 ❹)へ行ってみましょう。この階段を上っていきますよ。


マナブ:何の看板も立っていませんが、大丈夫ですか?


歴史先生:表示がないのが不思議です。でも大丈夫です。



赤塚城址


赤坂城址の案内地図


マナブ:広い場所に出てきました。ここが本丸かな?


歴史先生:資料がほとんどなく、縄張りはよくわかりませんが、おそらくそうでしょう。さて、そのころここ赤塚は京都の鹿王院の領地だったのですが、時は戦乱の世、その支配は実行力を失い、先ほど述べたように千葉氏が武蔵に逃げてきた1456年、ここの土地が彼らに勝手に与えられてしまいました。


マナブ:中央の力が関東まで及ばなくなっていた。


歴史先生:そうなんです。ここは荒川を一望し、鎌倉街道を抑える重要拠点。ここを拠点とした千葉氏は太田道灌に従って関東各地を転戦。戦功をあげていきました。


マナブ:そして時代は室町から戦国へ。


歴史先生:はい。戦国時代には千葉氏は関東をほぼ押さえていた小田原の北条氏に仕えて、引き続きこの一帯を治めてきました。しかし豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏は滅亡。その結果、赤塚城は廃城とされてしまいました。


マナブ:あぁ、そういう歴史があったんですね。


奈良・鎌倉に遠慮した? 高さ13mの東京大仏


東京大仏通り



マナブ:東京大仏通りに戻ってきました。


歴史先生:大仏様へ行く途中に「赤塚不動の滝」がありますので寄っていきましょう。


マナブ:おっ、いいですね。滝、大好きです。


赤塚不動の滝


歴史先生:はい、こちらが赤塚不動の滝(地図 ❺)。このあたりの地形は岩の間から湧き水が豊富に出ていて、ここもそのうちの1つ。


マナブ:えっ、これですか? あのちょろちょろとした流れのこと? 失礼ながら、水道の蛇口をひねったよりも水量が少ない。


歴史先生:たしかに少ないですよね(苦笑)。でもここは信仰の場所。江戸時代の富士講や大山講に出かける人たちが身を清めるためにみそぎを行った場所なんです。とても小さいですが、滝の上にある石の不動明王像は1799年作のもの。


マナブ:そうでしたか。神聖な場所だったんですね。失礼しました。


乗蓮寺 山門


乗蓮寺 (地図 ❻)

〒175-0092 東京都板橋区赤塚5丁目28−3

9:00~16:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.tokyo-daibutsu.com


歴史先生:では、いよいよ東京大仏へ行きましょう。


マナブ:すごく立派なお寺が見えてきました。門には「赤塚山」と書かれていますね。


歴史先生:ここは乗蓮寺。元々は板橋宿の仲宿にあったんです。徳川吉宗が鷹狩の途中で雨宿りをしたり、縁結びの寺として人気があったりと、江戸時代には栄えたお寺でした。


マナブ:それがなぜここへ?


歴史先生:第二次大戦から戦後にかけて国道17号線が拡張され、その上に首都高速を建設するということで、板橋宿での寺域が半減してしまったのだそうです。そこで1971年(昭和46年)から7年かけて、お寺ごと赤塚に移転をし、「赤塚山 乗蓮寺」となりました。ここの丘は赤塚城の二の丸ではないかと言われている場所です。


山門からみた本堂


マナブ:では、山門をくぐって中へ入ります。うわぁ、紅葉がきれい。


歴史先生:そうですね。今は11月末。ちょうどいいときに来ることができました。


本堂と弁天堂(池の中)


東京大仏


歴史先生:正面にみえる本堂も大きくて立派ですが、やはりここで一番目立っているのは、右側にある東京大仏ですね。


マナブ:あ、あれですね。すごい。近くへ行ってみましょう。


東京大仏


マナブ:大きいですね。ちょうどイチョウが見ごろで、まるで後背みたいになってる。


歴史先生:ほんとですね。


マナブ:この大仏様は高さはどれくらいあるんですか?


歴史先生:高さ13mです。奈良の大仏が15m、鎌倉の大仏が14m。


マナブ:ほんの少しだけ小さく作ったのは、それらの国宝級の大仏に遠慮したのかな?


歴史先生:それはどうかわかりませんが、関東大震災、東京大空襲の犠牲者を供養するとともにそれらの災害が二度と起きないよう祈念して造られた大仏です。1977年(昭和52年)の開眼ですので、まだ歴史は浅いですが。


マナブ:たしか、牛久大仏って、もっと大きいんじゃなかったでしたっけ?


歴史先生:あれは高さ120mあります。


マナブ:ひぇー。それは桁違いに大きい。


境内にはその他にも鐘楼や福寿観音など見どころも多い


高島秋帆も滞在した名刹、松月院


板橋区立 赤塚植物園



歴史先生:さて、次の目的地、松月院に行く前に、植物園に立ち寄っていきましょう。


マナブ:植物園があるんですか。


歴史先生:はい。赤塚植物園。このあたりの丘陵地の傾斜をうまく利用した美しい植物園ですよ。


板橋区立 赤塚植物園 (地図 ❼)

〒175-0092 東京都板橋区赤塚5丁目17−14

9:00~16:30(12月は16:00まで)、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bousai/kouen/kouen/akatsuka/index.html


園内の案内図


赤塚植物園の内部


木々がうっそうと茂る


歴史先生:ここは植物たちが身近に感じられるよう、自然に近い形で植えられた森のような場所。


マナブ:周囲はみな住宅地なのに、それを忘れさせてくれるような場所ですね。このあたりの山道なんて、本当に山を歩いているみたい。


松月院の入口


歴史先生:ではミニ森林浴をしたところで、今度は松月院(しょうげついん)に行きましょう。


マナブ:ここはどういうお寺なんですか?


歴史先生:1492年に千葉自胤が寺領を寄進して中興したとされるお寺です。


宝持寺松月院


宝持寺松月院 (地図 ❽)

〒175-0092 東京都板橋区赤塚8丁目4−9

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.itabashi.tokyo.jp/bunka/bunkazi/bunkazai/shozaichi/1004867.html


マナブ:千葉さん、お城の周りに神社だけでなくお寺も整備していたんですね。


歴史先生:その縁もあって、千葉氏のお墓はここにあります。またここは江戸幕府の朱印寺になっていました。


マナブ:朱印寺?


歴史先生:朱印寺とは、将軍から朱印状をもらっているお寺のこと。これがあると年貢が免除されました。


マナブ:どうやったらもらえるんですか?


歴史先生:由緒正しく格式の高いお寺であること。そして徳川家とつながりが深いこと、などが条件だったようです。


マナブ:政府に近い寺は税金免除、そうでない寺からは税金を取る、だとしたら今の世の中だと問題ですね。


歴史先生:年貢を取るどころか、寺領40石も与えていたそうです。


マナブ:ますます問題だ。


高島秋帆 紀功碑


歴史先生:そして見ていただきたいのがこちら。


マナブ:これは何だろう? 大砲のような?


歴史先生:はい、大砲の形をしているこれは高島秋帆(たかしましゅうはん)の功績を顕彰する碑。


マナブ:思い出した。たしか長崎でグラバー園にいったとき、その話がありましたね。


歴史先生:そうです、そうです。


マナブ:グラバー園にも大砲が飾ってありました。高島秋帆が砲術の演習をやって、その功績からその野原は高島平と呼ばれるようになったとか。


歴史先生:はい、大正解です。高島秋帆は幕末の長崎の人。アヘン戦争で清がイギリスに負けたのは大砲の差が大きかった。日本も他人事ではない。彼は西洋に比べて日本の大砲の技術が大きく遅れていることを懸念して西洋から砲術を学び、それを基に日本に最新の西洋砲術を伝えました。


マナブ:彼がいなかったら日本は西洋の植民地になっていたかも?


歴史先生:そこまでかどうかはわかりませんが、日本の近代化が遅れたことは事実でしょう。


マナブ:で、彼とこのお寺の関係は?


歴史先生:高島秋帆が今の高島平、当時の徳丸ヶ原で砲術の洋式調練を披露します。その際に彼のチームが本陣としていたのがここ松月院だったんです。


マナブ:ここから高島平は近いんですか?


歴史先生:はい。地形図で見ると、ほら。高島平の南側の丘のすぐ上に松月院は建っています。



松月院の見事なイチョウ


松月院 大堂(たいどう)


歴史先生:松月院から交差点を隔てた向かい側に松月院 大堂(地図 ❾)という場所があります。ここは南北朝時代には七堂伽藍を備えた大寺院だった跡。


マナブ:今ではお堂がポツンと立っているだけですね。


歴史先生:1561年、越後から上杉謙信が降りてきて北条氏康を小田原に攻めた際、ここを通過するときに堂宇を焼き尽くしたのだとか。


マナブ:どういういきさつだったのかわかりませんが、戦争はやはりいけませんね。


歴史先生:ほんと、そうですよね。


赤塚諏訪神社


境内の夫婦イチョウは実に立派


歴史先生:さて、道を少し戻ってもう1か所、立ち寄ります。赤塚城の東にある丘へ登ると、諏訪神社(地図 ❿)があります。


マナブ:これも千葉氏が作った?


歴史先生:はい、そうです。西には武蔵国一の宮の氷川神社、そして赤塚城鬼門には諏訪神社。信州の諏訪大社から勧請しました。


マナブ:千葉氏の町作りの骨格が伺えますね。


歴史先生:地形図をもう一度確認しておきましょう。


マナブ:なるほど。ここは武蔵野台地の端っこで、川が複雑に流れて小さな谷を作っている。真ん中に赤塚城。西側の丘に氷川神社、東側の丘に諏訪神社を勧請して、それぞれ城の守りとした。


歴史先生:はい、そういうことです。




諏訪神社の横にある「竹の子公園」では美しい竹林が見られる


歴史先生:さて、赤塚の旅はここで終了です。帰りは新高島平駅へ行きましょう。さて今日の街歩き、いかがでした?


マナブ:いやー、赤塚という地名自体を知らないところからのスタートでした。今まで地名さえ聞いたことがない町というのはなかったんじゃないかな?


歴史先生:たしかに。


マナブ:神社に始まり、城跡、そして寺と千葉氏の中世の街づくりを見てきました。さらに幕末の高島秋帆、そして最近では東京大仏と、見どころ多い街歩きでした。どうもありがとうございました。

​歴史好きのための観光ガイド
記事の内容は取材当時のものであり、最新の情報についてはWebサイト等で必ずご確認ください。

なお、本サイトは個人が運営しています。筆者の勉強不足による歴史認識の誤りや情報のアップデートの必要性など多々あろうかと存じますが、何卒温かくお見守りください。

なお、本サイトの内容について無断転載はご遠慮ください​。

© rekishizuki 
bottom of page