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登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
崖と滝のある江戸で人気の景勝地:目白不動と大洗堰

 

椿山荘として今も残る山縣有朋の名園とその特殊な地形

地形を見事に生かした都心の大名庭園:肥後細川庭園

圧倒的な建築美を誇る東京カテドラル 聖マリア大聖堂

目白はまるで「坂」のコンテスト。一番好きな坂はどれ?

歴史ある古刹南蔵院と、目白不動を受け継いだ金乗院

安産・子育ての神様「鬼子母神」のルーツは実は怖かった

皇族・公家の教育機関であった学習院と近衛家の大邸宅跡

落合崖線を彩る将軍家ゆかりの公園と古社・古刹



崖と滝のある江戸で人気の景勝地:目白不動と大洗堰


江戸川橋



マナブ:さて今日は「目白に行く」と聞いていたんですが、目白駅ではなく、江戸川橋の駅で電車を降りました。目白からは遠くないですか?


歴史先生:目白という地名は文京区目白台と豊島区目白の2つがあるんですが、東は文京区関口、西は新宿区下落合までの広い範囲が一般的に目白として認識されています。ブラタモリではマンション名を調査したらかなり広い範囲で目白という名前が使われていた、ということを言っていました。


マナブ:なるほど。目白と言うと高級住宅地のブランドのようなイメージあるし、周辺の地域も広く目白、と呼ばれたいわけですね。


歴史先生:ここ江戸川橋は目白エリアの東の端にあたります。今日はここからスタートしましょう。さて今日のコースですが、「崖」地形が特徴です。


マナブ:崖、ということは坂もある?


歴史先生:マナブさんは「坂」好きですものね。今日はいい坂、たくさんありますよ。


マナブ:おぉ、いいですね。


歴史先生:ということで、今日は地形図を見ながら歩きましょう。これが今日の全体の地形図。



マナブ:ずっと崖が続いていますね。


歴史先生:はい。この地形は「目白崖線」と呼ばれていて、東京でも屈指の崖地形です。この崖の地形がこの場所を一等地にしたんです。


マナブ:というと?


歴史先生:今日はそれを見に行きましょう。


目白坂



マナブ:さぁ、さっそくいい感じの上り坂です。


歴史先生:ここは「目白坂」(地図 ❶)。江戸川橋で神田川を渡って、目白崖線の崖の上へと続く上り坂です。坂の右側にはお寺や神社が建ち並び、それらは今でも残っています。


目白坂にある正八幡神社


歴史先生:ところでマナブさん、「目白」という地名の由来、ご存じですか?


マナブ:いえ、知りません。


歴史先生:目白と似たような地名、他に思いつきますか?


マナブ:「目黒」というのがありますね。


歴史先生:はい、それらは関係しているんです。古代中国の五行説(ごぎょうせつ)というのがあるんですが、「万物は火・水・木・金・土から成っている」というもの。


マナブ:それに太陽(日)と月を加えたら1週間が完成しますね。


歴史先生:はい、それが世界であり、宇宙であるわけです。そしてこの5つにはそれぞれ色があり、火(赤)・水(黒)・木(青)・金(白)・土(黄)なんですね。


マナブ:中にはちょっとピンとこない色もありますが、良しとしましょう。


歴史先生:その思想に基づいて天海僧正が3代将軍徳川家光にもちかけ、江戸の不動尊から5つを選んでそれぞれ色を付けます。それらを五色不動と呼び、天下泰平を祈願したのだとか。


マナブ:そこで「白」に選ばれたのがここ目白にあった不動尊。


歴史先生:そういうわけです。


マナブ:たしか目黒不動っていうのは有名ですよね? 他もあるんですか?


歴史先生:はい。目赤は本駒込、目青は三軒茶屋、目黄は三ノ輪と平井の2か所に今でも存在しています。


目白不動があったと思われる場所


歴史先生:さて、坂の左側に素敵なマンションがありますが、目白不動はかつてここにあったとされています。新長谷寺(しんちょうこくじ)、という名前のお寺でした。


マナブ:でも説明板や石碑とか、何も立っていないですね。それは目白不動がはるか遠い昔に失われたから、とか?


歴史先生:いえ、そうでもないんです。目白不動は太平洋戦争の空襲で焼失しました。


マナブ:あれ、けっこう最近まであったんだ。


歴史先生:今ではかつての姿を想像しながら歩くしかありません。寺や神社の続く目白坂を上っていくと、左側に目白不動。そこには堂宇が建ち並んでいて、地形は崖の上。崖の縁からは下に神田川の流れを見下ろして、対岸の早稲田の田園風景が広がる。そんな感じでしょうか。


マナブ:そうか、ここが本当の目白、なんですね。


神田川沿いの遊歩道


マナブ:目白坂を下りて江戸川橋まで戻って、今度は神田川沿いを歩きます。緑がまぶしい。


歴史先生:ここは江戸川公園と呼ばれています。


マナブ:「神田川公園」ではなくて?


歴史先生:このあたりは神田川の中流域にあたるのですが、昔は神田川の中流を「江戸川」と呼んでいました。でも今は神田川と呼ぶのが一般的。ブラタモリでもタモリさんが思わず「神田川」を歌っていました。


マナブ:「かぐや姫」の名曲。私たちの世代はどうしても口ずさんでしまいますね。


「♪ あなたはもう忘れたかしら 赤い手ぬぐいマフラーにして」


歴史先生:ところで神田川の源流って、ご存じですか?


マナブ:えっ? 考えたこともなかったけど。


歴史先生:井の頭公園に大きな池がありますよね。あそこが源流。


マナブ:そうだったんですか。意外と近いところなんですね。


花壇やベンチなどが整備されている


マナブ:しばらく歩くと大滝橋という橋のところにきました。大滝、ということはこの近くに滝があったのかな?


歴史先生:ここは「大洗堰」(地図 ❷)の跡なんです。案内看板を見てみましょう。


大洗堰の案内看板


マナブ:どれどれ。ほう、ここで川をせき止めて、滝のように水が落ちていますね。


歴史先生:何のために作ったものかわかりますか?


マナブ:川をせき止めるということは、ここで分水をしていた?


歴史先生:大正解です。ここで川をせき止めて水位を上げ、上水路を通して神田、日本橋方面の江戸の町にきれいな水を提供していたんです。途中にある小石川後楽園の庭園の池を調整池として使っていたそうです。


上水路に実際に使われていた石材を用いた取水口のイメージ復元


大洗堰のすぐ横は険しい崖が続く


マナブ:江戸の人たちの暮らしに欠かせない施設だったんですね。


歴史先生:そしてさらに江戸市中でありながら崖があって滝があり、そして崖の上には目白不動。対岸には早稲田の田園風景があって、富士山も見えていました。


マナブ:間違いなく江戸の庶民に人気のスポットになりますね。


歴史先生:そのとおりです。大洗堰は神田川の河川改修のために惜しくも失われてしまいましたが、今はこうして子供たちが遊ぶ素敵な公園になっています。


今は大洗堰を感じられるものは何も残っていない


椿山荘として今も残る山縣有朋の名園とその特殊な地形


椿山荘入口



マナブ:神田川沿いをさらに歩いていきます。


歴史先生:ここ目白は数々の大名屋敷が並んだ場所なんですよ。古地図を見ると上総久留里藩、駿河小島藩、そして肥後熊本藩の細川さんの下屋敷。さらに播磨安志藩、志摩鳥羽藩、武蔵岩槻藩、備後福山藩、播磨明石藩、といった屋敷がずらりと並んでいます。


マナブ:ここはそれだけいい土地だったんですね。


歴史先生:その中で上総久留里藩の屋敷を明治になって買い取った人がいます。山縣有朋。


マナブ:長州の人ですよね。たしか陸軍のトップにもなった。


歴史先生:はい。内務大臣を経て、総理大臣まで上り詰めた明治の超大物です。上総久留里藩の屋敷のところはちょうど目白崖線に谷が深く切り込んだ複雑な地形になっています。


マナブ:目白崖線の中でも最高の地形をもった場所ですね。


歴史先生:そこからは湧き水も出て、池を作るには最適。これが気に入ったんでしょうね。山縣有朋はこの地形を生かして1897年(明治30年)ごろに上下2段の池を中心とした大庭園を作り上げ、要人との接待・会談に大いに利用します。


マナブ:そこは今はどうなっているんですか?


歴史先生:この丘には以前から椿が自生していて、「椿山」とも呼ばれていました。そこで、山縣有朋はこの庭園を「椿山荘」と名付けました。


マナブ:あ、そういうことでしたか。今は高級ホテル。庭園が有名ですよね。以前はフォーシーズンズ、だった。


歴史先生:そうなんです。ただし庭園を散策できるのは宿泊客やレストラン、宴会のお客様に限られます。


マナブ:では、今日は無理か。


歴史先生:そう思って、今日のランチを予約しておきました。


マナブ:わぁ、すごい。


ホテル椿山荘東京

〒112-8680 東京都文京区関口2丁目10−8

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/ 


幽翠池(ゆうすいち)


マナブ:ホテルのフロントでレストラン予約をしている旨を告げ、庭園を見たいと伝えると、庭園の入口を丁寧にご案内いただき、マップをいただきました。


歴史先生:マップにはみどころが書かれていますので、それを見ながら散策しましょう。


マナブ:大きな池がありますね。


歴史先生:これは幽翠池(ゆうすいち)という名前の瓢箪型をした池で、山縣有朋が築かせたもの。当時の庭園の姿を今に伝えています。山縣有朋は庭園造りにものすごくこだわった人で、本邸とした椿山荘の他に、京都の南禅寺近くには無鄰菴(むりんあん)、小田原には古稀庵、という別邸を設けて、「山縣三名園」と呼ばれています。


マナブ:地形を見ると、この池は谷の一番奥まったところですね。


歴史先生:この奥から湧き水があったのでしょう。今では滝になっています。五丈滝と名付けられたこの滝は1965年(昭和40年)に作られた比較的新しいもので、幽翠池に注いでいます。


五丈滝


マナブ:あ、雲海が出てきましたよ。椿山荘は最近、これで有名になったんですよね?


歴史先生:はい、「東京雲海」と名付けられ、およそ30分ごとに出現します。スケジュールはホテルのWebサイトを確認してください。


東京雲海


マナブ:うわぁー、幻想的ですね。ところで、やはり椿山荘のシンボルと言えば、丘の上に立っている三重塔、でしょう。あれは山縣有朋が建てたんでしょうか?


歴史先生:いえ、これは大正時代末(1925年、大正14年)に移築されたものなので、1922年(大正11年)に亡くなった山縣有朋はこれを見ていません。


マナブ:どこから移築されたんですか?


歴史先生:広島県東広島市にある、竹林寺というお寺です。


マナブ:えっ、たまたま大学がそばだったので、名前だけは知っています。


歴史先生:篁山という形の良い山で、お寺はその頂上に建っています。そこには小野篁(おののたかむら)の出生の地、という言い伝えが残っています。


マナブ:小野篁って名前をよく聞きますが、何をした人でしょう?


三重塔(圓通閣)


歴史先生:小野篁は平安時代初期(802年~853年)の人。小野妹子の子孫と言われ、日本で初めての勅撰和歌集を編纂した小野岑守(おののみねもり)の長男として生まれました。


マナブ:ということは、文化的なエリートのおうち。


歴史先生:はい。でも本人は体を動かすことの方が好きだったようで、弓や馬に夢中だったとか。身長も188㎝もあったようです。


マナブ:まさに体育系アスリート。


歴史先生:でも勉強をしなかったことを嵯峨天皇から叱られて、一念発起、学問に打ち込みます。


マナブ:勉強もできるようになった?


歴史先生:そうなんです。その結果、類まれな文才を発揮します。しかし反骨真も人一倍強かったようで、嵯峨天皇にも反発するようになりました。


マナブ:今でもそういう人、会社に一人くらいいますね。


歴史先生:ある日、宮中で「無悪良」という落書きが見つかり、嵯峨天皇が小野篁に「これを読めるか?」と尋ねました。すると小野篁は「わるさがなければよい」(悪い嵯峨(天皇)がいなければ良いのに)とすぐに読み下しました。


マナブ:うわ、怖い。


歴史先生:嵯峨天皇はもちろん激怒。「お前が書いたんだな!」と詰め寄ります。


マナブ:当然、そうなりますね。


歴史先生:そこで小野篁は「いえ、私は何でも読めるんです」と答えたことから、嵯峨天皇は、「何でも読めるんだな? じゃあ、これを読んでみろ」と次のように書きました。


「子子子子子子子子子子子子」


マナブ:「ここここ・・・」、これは読めませんね。


歴史先生:でも小野篁は「猫の子仔猫、獅子の子仔獅子」と読んだんです。


マナブ:わぁ、それはすごい。


ホテル棟から正面に三重塔が見える


歴史先生:他にも逸話が残っています。嵯峨天皇が小野篁を試すために、まだ知られていなかった白居易の詩「登楼遥望往来船」(楼に登りて遥かに望む往来の船)を見せました。その際、原文の「空」をわざと「遥」に変えてみせるといういたずらをしたのですが、それを見た小野篁は「遥を空に変えたほうが良いと思います」という感想を述べたのだとか。


マナブ:出来すぎな話のようにも思いますが、そんな話が出るほど優れた文才の持ち主だったんでしょうね。


歴史先生:そんな小野篁でしたが、遣唐使の政策を批判する詩を発表して、ついには嵯峨天皇から隠岐の島への流罪を申し渡されました。


マナブ:やはり反骨心は抑えられなかったんですね。


歴史先生:その後、後を継いだ仁明天皇から赦免されて京都へ戻り、その皇太子の家庭教師などを務めました。もう1つ有名なエピソードとしては、小野篁は毎晩井戸を抜けて地獄へ行き、閻魔大王の審判の補佐をしていた、という話。


マナブ:どこからそんな話になったのか、それだけ異能の人だったんでしょうね。


歴史先生:その後、紫式部が亡くなった時、彼女は恋愛小説を書いていたことで地獄に落ちるかもしれないと周囲が心配し、小野篁のお墓の隣に彼女を葬ったんだそうです。お隣のよしみで、地獄に落ちるのを助けてもらえれば、ということで。


三重塔(圓通閣)


歴史先生:さて、話を元に戻しますと、そんな小野篁の伝説が残る篁山 竹林寺には、室町時代の1420年頃にこの三重塔が建立されたものと考えられています。一説には平清盛が修復を行ったとされますので、だとすれば平安時代から存在していたことになります。


マナブ:いずれにしてもかなり古いものなんですね。


篁山の頂上付近に三重塔が見える(紙本著色竹林寺縁起絵巻より)


マナブ:大正末期に移築されたということでしたが、その時、椿山荘は誰が持っていたんですか?


歴史先生:藤田財閥、というのを聞いたことがありますか?


マナブ:いいえ。


歴史先生:長州藩で奇兵隊に所属していた藤田伝三郎が作った財閥です。


マナブ:奇兵隊にいたということは山縣有朋とも知り合い?


歴史先生:そういうことになります。長州藩での人脈を基に、明治になってから武器の払い下げや軍用の靴の製造、その後は西南戦争での軍需物資の調達などで富を築きました。岡山の児島湾の干拓、さらには全国の鉱山を買収して同和鉱業、現在のDOWAホールディングスを設立しました。藤田観光、も藤田財閥から独立した会社です。


マナブ:あ、そうだったんですね。ということはホテル椿山荘東京は、ワシントンホテルなどの運営をする藤田観光のホテルの1つ。


歴史先生:はい、そうです。


マナブ:で、その同和鉱業と椿山荘はどう関係してくるんですか?


歴史先生:藤田伝三郎の跡を継いだ2代目の藤田平太郎は美術品への造詣が深く、山縣有朋から椿山荘を買い取って自宅とし、政財界の重鎮の接待の場としました。そんな藤田伝三郎が探していたのが、庭園に飾る塔。全国で物件を探します。


マナブ:あ、それで竹林寺の三重塔が候補になった。でも、そんな大事な文化財を寺が手放しますか?


歴史先生:そのころ竹林寺は台風の被害を受け、三重塔は2層、3層が大破。とても自費で修理できないような状態でした。そこを藤田平太郎が古物商を通じて買取り、修理をして椿山荘に移築したんです。


マナブ:そう言うことだったんですか。よく見ると中には仏像が。


歴史先生:これはまだ新しくて、2010年(平成22年)に大修理を行った際に本尊として安置したもの、です。


聖観世音菩薩像が祀られている


趣のある椿山荘の散歩道


歴史先生:さて、今日のランチはホテル椿山荘東京のイタリアン・レストラン「イル・テアトロ」(https://hotel-chinzanso-tokyo.jp/restaurant/ilteatro/ )です。


マナブ:わーい、待ってました。


イル・テアトロ


ウニのクリームパスタは絶品


マナブ:椿山荘をあとにします。素晴らしい庭園、そして素晴らしい食事でした。


歴史先生:明治の元勲、山縣有朋の庭園を見たわけですが、「目白」で思い浮かぶ昭和の政治家といえば誰でしょう?


マナブ:あ、忘れてた。そうか、田中角栄。目白御殿、などと言われていましたね。


歴史先生:田中邸も目白崖線の崖の上にあります。当時は新潟から支援者が大挙してバスで訪れたりして、ずいぶんにぎわった場所でしたよね。近年、火災でかなり被害を受けたようで、心配ですが。あとで前を通ってみましょう。


マナブ:なるほど。江戸、明治、そして昭和と、ここは権力者たちに愛された土地なんですね。


地形を見事に生かした都心の大名庭園:肥後細川庭園


芭蕉庵


マナブ:再び神田川沿いを歩いています。


歴史先生:右手に見えてきたのは「芭蕉庵」。あれ、今日は閉まってる? 曜日・時間では開いているはずなのですが。Webサイトにもお休みのお知らせがありません。


マナブ:おやおや。残念。


歴史先生:松尾芭蕉は先ほど見た大洗堰の工事に携わっていて、この屋敷に3年間ほど住んでいたそうです。


水神社の鳥居


マナブ:芭蕉庵のとなりに神社がありますね。


歴史先生:ここは「水神社(すいじんじゃ)」。神田上水の守り神と言われています。特に水の恵みを受けている神田、日本橋あたりからの参詣者が多かったとか。


マナブ:階段の上、左右にあるイチョウの木、とても立派です。


立派な夫婦イチョウの間から参拝する


下から見上げた胸突坂


歴史先生:さて、芭蕉庵と水神社の間にあるのが「胸突坂(むなつきざか)」。


マナブ:おぉー、これは急な坂ですね。


歴史先生:自分の胸を突き出すようにしてしか登れないことから、江戸の人が急坂によくつけた名前の1つです。


胸突坂を上から振り返って見る


マナブ:いやー、一気に登ったら息が上がりました。結構な角度でしたね。


永青文庫への入口


永青文庫


歴史先生:さて、坂を上ったところにあるのが「永青文庫(えいせいぶんこ)」。ここには細川家のコレクションが展示されています。ここから庭園に入っていきましょう。


肥後細川庭園(地図 ❸)

〒112-0015 東京都文京区目白台1丁目1−22

入園無料

9:00~17:00(最終入場16:30)、11~1月は閉園が30分早まる

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.bunkyo.lg.jp/b036/p004891.html


この石の輪をくぐって庭園へ下りていく


緑豊かな斜面を下りていく


歴史先生:ここの地形ですが、先ほど胸突坂を上りました。今は崖の上にいるのですが、お屋敷は崖の下。ここの斜面全体が立体的な庭園になっているんです。


マナブ:なるほど。ここから階段を下りていく道になっています。ところで細川家といえば、熊本ですよね?


歴史先生:はい。でも室町時代は三管領の1つとして栄えた家柄。


マナブ:あ、そういえば室町時代のゴタゴタの中で、細川家というのはよく出てきますね。


歴史先生:戦国時代に生きたのは細川忠興。細川ガラシャの旦那さん。


マナブ:二人とも名前を聞いたことがあります。


歴史先生:細川忠興は丹後18万石の大名でした。信長の勧めもあって、明智光秀の三女、のちの細川ガラシャと結婚します。しかし本能寺の変が発生。謀反人でかつ敗者となった光秀の娘である細川ガラシャは丹後の家に幽閉されます。


マナブ:肩身の狭い思いをしたでしょうね。


歴史先生:その彼女を救ったのがキリスト教の教え。夫の留守の間に洗礼を受け、ガラシャという洗礼名をもらいます。


マナブ:細川忠興はそれをどう思っていたのですか?


歴史先生:時代は秀吉の天下に移り、バテレン追放令が出されていました。細川忠興はガラシャに棄教を迫りますが、彼女の意志は固く、まったくいうことを聞きません。そうこうしているうちに、今度は家康の命令で東北の上杉征伐に駆り出されます。


マナブ:そのまま東軍として関ケ原の戦いに突入するわけですよね。


歴史先生:はい。このとき石田三成は京都や大阪に残された東軍の武将たちの家族を人質に取る作戦に出ました。細川家もその1つ。ある日突然、細川家の屋敷を石田三成の軍勢が取り囲みます。


マナブ:で、どうなったんですか?


歴史先生:細川ガラシャは信仰上自殺ができないので、家臣に自分を切らせ、その遺体を屋敷ごと爆薬で吹き飛ばしてしまいました。


マナブ:壮絶な最期だったんですね。


坂を下りるとお屋敷が見えてくる


歴史先生:さてその後、関ケ原の戦いで東軍として戦功を挙げた細川忠興は丹後18万石から小倉39万石の大名へと加増されます。そして細川忠興とガラシャの間に生まれた子である細川忠利がその跡を継ぎます。彼の時代に今度は小倉から熊本54万石に移封されました。これが肥後熊本での細川家の始まり。


マナブ:そんなドラマがあったんですね。


中門


中門の前にある庭園案内図


歴史先生:一旦、中門を出て、案内図を見てみましょう。


マナブ:今、お隣にいたご婦人のグループから「入場券はどこで買うんですか?」と聞かれました。ここ、無料開放されてるみたいですと伝えると、びっくりされていました。


歴史先生:これだけ広くて由緒ある庭園ですから、入場料を取ってもおかしくないと思います。さて、案内図を見ていただくと、これは見慣れた庭園の形ですよね。


マナブ:池泉回遊式庭園。最近よく大名庭園に連れて行ってもらってるので、覚えました。


歴史先生:大正解です。池を中心にその周りを回って季節ごとの景色を楽しむようにできています。


大池


歴史先生:庭園の中心にある大池。左側は目白崖線の崖が続き、右側には雪見灯篭、その裏手には築山が造られ、閉じられた世界観を表しています。


土橋


歴史先生:大池の奥には土橋が架けられ、その奥に中池が続いています。


松聲閣


マナブ:立派な建物がありますね。


歴史先生:「松聲閣(しょうせいかく)」と呼ばれていた建物の復元で、元々は学問所として使われていました。大正時代には細川家の住宅にもなっていたそうです。中に入れますので行ってみましょう。


松聲閣の2階


2階から庭園を見る


歴史先生:ここは2階がおススメ。庭園を一望できます。


マナブ:いやー、いいですね。これだけの庭園が都心にあるのに、今までまったく知りませんでした。しかもこれが無料だなんて。穴場、ですね。


目白通りに面した和敬塾の入口


歴史先生:崖の上の部分には昭和の初めに建てられた旧細川侯爵邸が残っていて、今では和敬塾の施設として使われています。


マナブ:和敬塾?


歴史先生:実業家の前川喜作氏が造った学生寮で、各種講座やイベント、そして仲間作りを通して、次の日本を担う世代の育成を目指しています。


マナブ:いまではそんな大学寮って珍しくなりましたよね。


圧倒的な建築美を誇る東京カテドラル 聖マリア大聖堂


東京カテドラル 聖マリア大聖堂



東京カテドラル 聖マリア大聖堂(カトリック関口教会)

〒112-0014 東京都文京区関口3丁目16−15

入場無料

9:00~17:00

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://catholic-sekiguchi.jp/


マナブ:椿山荘の入口の向かい側、インパクトの強い銀色の建物があります。


歴史先生:東京カテドラル 聖マリア大聖堂です。元々ここには1899年(明治32年)に建てられた木造の聖堂がありました。しかし1945年(昭和20年)の空襲によって焼失してしまいます。


マナブ:あぁ、ほんとに空襲でほとんどの東京の文化財が無くなってしまったんですね。


歴史先生:その後、1964年(昭和39年)に再建されたのが今の大聖堂。設計は丹下健三氏。


マナブ:東京オリンピックの年ですね。かなり昔ではありますが、建物のデザインは斬新で、最近建てられたと言われてもわからないくらい。


歴史先生:8枚の壁を立てて並べ、上部には十字架の形になるようなすき間を作っています。


マナブ:神様のいらっしゃる天から見ると十字架の形をしている。


歴史先生:はい、そうです。そしてその横にはシャープなフォルムをした鐘楼が建っています。では、中に入ってみましょうか。


東京カテドラル 聖マリア大聖堂と鐘楼


マナブ:内部は撮影できないので写真は載せられませんが、うーん、これは広い。大聖堂の内部は高さもあってとてもスケールの大きい空間が広がっています。壁はコンクリート打ちっぱなしで、余計な雑念の入らない、シンプルなデザイン。


歴史先生: そして天井を見てください。


マナブ:おぉ。十字架の形にトップライトの窓があって、そこから柔らかい光が注いでいます。


歴史先生:正面の祭壇には高さ16mの大きな十字架。そして背後には日本最大と言われるパイプオルガンがあります。


マナブ:何か心を動かされる、そんな空間です。


歴史先生:そして右奥にはバチカンのサン・ピエトロ大聖堂にあるミケランジェロ作のピエタ像の、精巧な複製が飾られています。


ルルドの洞窟


マナブ:外へ出てきました。いやー、何とも言えない、不思議な空間に身を置いていた気がします。


歴史先生:さて、駐車場の脇にもう1つ、見どころがあるんです。あそこに洞窟のようなものが見えますよね。近くへ行ってみましょう。


マナブ:これは何ですか?


歴史先生:「ルルドの洞窟」と言われています。ルルドというのはフランスのピレネー山脈のふもとの町の名前。1858年、羊飼いの少女、ベルナデッタが洞窟の前に来た時、マリア様が現れて世界の人々の改心と平和を祈るように言われました。その証としてそこから霊泉が湧き出て、その水を飲むことで不治の病が治るという奇跡が起きました。


マナブ:洞窟の右上のところにマリア像が飾られていますね。


歴史先生:白いベールに青い帯、というのが定番のスタイルです。この奇跡の洞窟はキリスト教の有名な聖地となり、毎年たくさんの人々が巡礼に訪れます。そしてルルドまで行けない人々のために、ルルドの洞窟のレプリカが世界中で作られるようになったんです。


マナブ:そういえば、教会の裏手にこんな感じの岩場とマリア像があるのをどこかで見たことがある気がする。


歴史先生:ここにあるルルドの洞窟は1911年(明治44年)の作品。ヤン・レッツェルの設計によるものです。


マナブ:聞いたことがない人ですが。


歴史先生:彼は明治の日本に来て、いろんな建築作品を残しています。上智大学、聖心女子大学。でも何といっても一番有名なのは「広島県物産陳列館」。


マナブ:ん? それって有名なんですか?


歴史先生:今では「原爆ドーム」と言われている建物です。


マナブ:あっ! そうか。


歴史先生:ルルドの洞窟は国内にもたくさんありますが、ここのルルドの洞窟は著名な建築家による、しかも明治時代の歴史ある作品として貴重なものです。そしてこれは本物のルルドの洞窟とそっくりに作られているんだそうです。


マナブ:そんな価値のあるものだったんですね。


目白はまるで「坂」のコンテスト。一番好きな坂はどれ?


のぞき坂



マナブ:目白通りを西へ向かって歩いています。


歴史先生:左側は先ほど話に出た田中邸。門からは中をうかがい知ることはできません。


田中邸


歴史先生:右側には日本女子大があります。


日本女子大


歴史先生:さて、このあたりから崖を下りていきたいのですが、どの坂を下りて、どの坂を上るか、気に入った坂を2つ選んでください。今から6つの坂をお見せします。


マナブ:坂の街、目白。いいですね。


豊坂


歴史先生:まずは「豊坂」。


マナブ:ゆるやかな坂がまっすぐに続いていますが、あそこで左に曲がるのかな?


歴史先生:一度クランクのように曲がって、さらに下りていきます。


小布施坂


歴史先生:2番目は「小布施坂」。


マナブ:お、いい感じですね。一部は階段になっていて車は通れない。ゆるやかに左カーブしているのも魅力です。


富士見坂


歴史先生:3番目は「富士見坂」。


マナブ:おー、これはいいじゃないですか。すごい急坂でまっすぐに一番下まで見えています。それにここはY字路になっていて、左の坂もとっても味がある。それに景色も抜群。


歴史先生:左の坂は「日無坂」と呼ばれていて、昔は木が生い茂って日の光も届かなかったとか。


稲荷坂


歴史先生:4番目は「稲荷坂」。


マナブ:ここも景色がいい。坂が急なので、道の先が見えるかどうかギリギリですね。この坂もいいなぁ。


宿坂


歴史先生:5番目は宿坂。ここはかつての鎌倉街道であったようで、古い歴史ある坂道。坂の途中には関があったようです。また坂を下りたところにはあとで訪れる金乗院があります。


マナブ:古い街道も魅力的ですね。


のぞき坂


歴史先生:最後6番目はここ。「のぞき坂」。


マナブ:うわー、ここはすごい。すごい急坂で、眺めも最高。


歴史先生:新海誠監督のアニメ作品「天気の子」の名シーンがこの坂、らしいです。


マナブ:たしかにここは映画で使いたくなりますね。


歴史先生:さて、この6つの坂なんですが、どの坂が気に入りましたか?


マナブ:最後ののぞき坂と、3番目の富士見坂が気に入りました。


歴史先生:では「富士見坂」を下りていって、あとで「のぞき坂」を上りましょう。


富士見坂を下りていく


富士見坂を下から見上げるとこんな感じ


歴史先生:富士見坂、どうですか?


マナブ:眺めがよくて気持ちのいい坂ですね。おかげで楽しく目白崖線の崖を下りられました。


のぞき坂が近づいてきた


歴史先生:さぁ、次はのぞき坂。


マナブ:えっ、あれですか? なんだかすごい。


傾斜22度という標識が立っている


マナブ:車がおっかなびっくり、おそるおそる下りてきている感じ。


歴史先生:傾斜は22度と書かれていますから、普通なら車で通る道ではないですね。


いざ登り始めてみるとその傾斜がいかにキツイかよくわかる


家の水平線と比べてみる


マナブ:いやー、息が上がります。途中でちょっと小休止。足が進みません。


歴史先生:これだけの坂、なかなかないでしょ?


のぞき坂の頂上


マナブ:頂上に来ました。ここから振り返って見ると、まるでスキーのジャンプ台にのぞむような、前が見えない恐怖感。


歴史先生:車でここを下りようとしたら、一瞬躊躇してしまいますよね。


マナブ:いやー、ここはすごかった。今日は坂を堪能しました。でも1つだけ疑問が。のぞき坂を上る前に、この道と並行して走る大通りがチラッと見えたのですが、車がバンバン走ってました。あの通りはどうなってるんだろう?


千登世橋から見る明治通りと都電(左側)。両側が切通しになっている。


歴史先生:はい、この道と並行して明治通りが走っています。さらには都電も走っています。それらがのぞき坂のような急勾配を上れるはずがありませんよね。


マナブ:はい。


歴史先生:明治通りと都電の部分の崖は切通しになっていて緩やかな傾斜になっています。それと交差するはずの目白通りは千登世橋という橋で上を通過するようになっています。ここは東京で初めて作られた立体交差、なんですよ。


マナブ:へぇー、そうだったんですか。


歴史ある古刹南蔵院と、目白不動を受け継いだ金乗院


南蔵院



南蔵院(地図 ❺)

〒171-0033 東京都豊島区高田1丁目19−16

境内自由


マナブ:富士見坂を下りて住宅街を歩いています。


歴史先生:目白崖線の下、このあたりは「高田」と呼ばれています。


マナブ:聞いたことのない地名です。


歴史先生:高田馬場、はあるでしょ?


マナブ:あ、その高田か。


歴史先生:さて、左手に見えてきた大きな敷地が南蔵院、です。


マナブ:花がいっぱいのお寺ですね。


歴史先生:ここはかなり昔からある古刹です。開基は室町時代の初めに生きた円成比丘(えんじょうびく)という人。ご本尊の薬師如来は源頼朝によって滅ぼされた奥州藤原氏の藤原秀衡の持仏、と言われていますので、少なくとも平安時代のもの。


マナブ:歴史がありそうですね。お参りできるんでしょうか?


歴史先生:いえ、これは秘仏のようです。その代わりに境内には六地蔵をはじめとする古い石造物がたくさん置かれています。またここには江戸時代、徳川家光が何度も参詣したようですよ。


六地蔵


彰義隊の石碑


歴史先生:ところでマナブさん、怪談乳房榎って覚えていますか?


マナブ:覚えていますよ。板橋赤塚に行ったときにその木を見ました。


歴史先生:ここもゆかりのお寺なんです。あのお話の中で、夫である絵師の菱川重信が留守の間に、奥さんを脅して悪役の磯貝浪江が無理やり関係を持った、という場面がありましたが、あの時菱川重信はここ南蔵院の天井画を描きにきていたんです。


マナブ:なるほど、それでここは乳房榎ゆかりの寺。


乳房榎ゆかりの地。奥に見える鳥居は高田氷川神社。


高田氷川神社


マナブ:南蔵院の斜め前には高田氷川神社があります。


歴史先生:ここは平安時代の貞観年間(859~877年)の創建と伝わる古社です。鎌倉、室町、江戸を通して武家によって崇拝されてきました。


マナブ:こじんまりとしていますけど、古い歴史のある神社なんですね。


金乗院と宿坂


金乗院(地図 ❻)

〒171-0033 東京都豊島区高田2丁目12−39

境内自由


マナブ:南蔵院から歩いて1分ほど。今度は金乗院というお寺に来ました。


歴史先生:ここは戦国時代の創建と推定されるお寺。聖観音菩薩が本尊です。


山門の前の不動明王の石像


歴史先生:でも、この石像を見てください。この仏様は何でしょう?


マナブ:これは不動明王ですか?


歴史先生:はい。そして下の石には何て書かれてます?


マナブ:「目白」。あっ、目白不動、ですか?


歴史先生:はい。この石像はかつて目白坂にあった目白不動(新長谷寺)から持ってきたものなんです。でも持ってきたのはこれだけではありませんよ。ご本尊の不動明王は、実は戦災を免れて、今はここに安置されているんです。


マナブ:そうなんですか。良かった。ご本尊も失われてしまったのかと思ってました。


本堂


本堂の隣、一段高いところに不動堂がある


歴史先生:では目白不動、お参りしましょう。


マナブ:やっとご対面できます。


ガラス越しに中を見ることができる


マナブ:あ、あれかな。不動明王。


歴史先生:実はあれは前立なんです。本物の不動明王像は秘仏とされていて、空海が出羽(山形県)の湯殿山で彫ったと言われる貴重なもの。なんと自分の左腕を自ら断ち切って、そこから火焔が噴き出しているという異様なもの。それだけ特別な力のある仏像とされています。


マナブ:それは見てみたかった・・・・。


歴史先生:以前は50年に一度の御開帳だったのですが、近年は1年に3回、法要の際に本堂へ移してお披露目されるそうですよ。


境内には江戸時代のものと思われる古い庚申塔などがいくつも並ぶ


マナブ:境内に「丸橋忠弥の墓」という標識がありますが、それって誰ですか?


歴史先生:由井正雪(ゆい しょうせつ)はご存じですよね?


マナブ:はい、幕府の転覆を企てた人。


歴史先生:その時の由井正雪の片腕ともいえる人物が丸橋忠弥(まるばし ちゅうや)です。


丸橋忠弥の墓は斜面を上った墓地の一番奥にある


マナブ:どんな人だったんですか?


歴史先生:長曾我部盛親の子、という説もあります。ご存じの通り長曾我部盛親は豊臣方の有力大名で、大坂の陣で敗れ処刑されました。戦国時代を通じて四国の覇者だった長曾我部氏は事実上、これで滅亡します。丸橋忠弥は長曾我部の子として浪人の身となり、憎き徳川に復讐するために幕府転覆を仕掛けるというストーリーですが、この説はちょっと出来すぎかもしれません。


マナブ:そうではないとしたら?


歴史先生:上野国の出身とか、出羽国の出身とか、諸説あるようです。この人は槍の名人で、由井正雪が企んだクーデターでは江戸の市中に火を放って、混乱に乗じて将軍を連れ去って人質にする江戸チームのリーダーでした。ちょうど徳川家光が亡くなって、そのあとを11歳の家綱が継いだばかりでした。


マナブ:将軍が幼くて、まだリーダーシップを発揮できない時期ですね。江戸以外に他にもチームがあったんですか?


歴史先生:由井正雪率いるチームは京都へ行き、後光明天皇を拉致します。また、別の大坂チームは大坂市中を焼き討ちし、混乱に乗じて大坂城を占拠する手はずでした。


マナブ:でもうまくはいかなかったんですよね。


歴史先生:はい、この計画は実行直前に密告があり、幕府の手によって首謀者たちは捕縛されてしまいます。でも、もしも丸橋忠弥が槍を持って抵抗するとなかなかそれを捕縛できる人はいません。そこで幕府の役人たちは一計を案じ「火事だ」と叫び、丸橋忠弥が丸腰で家から出てきたところを捕まえたのだとか。


マナブ:なるほど、考えましたね。


歴史先生:そして丸橋忠弥は鈴ヶ森刑場(品川)に連れていかれ、処刑されます。


マナブ:お墓自体は小さくて質素ですね。


歴史先生:やはりクーデターの首謀者として、最低限の送られ方しかできなかったのでしょう。


安産・子育ての神様「鬼子母神」のルーツは実は怖かった


鬼子母神 表参道入口



歴史先生:目白通りから北側へちょっと寄り道しましょう。鬼子母神(きしもじん)表参道を通っていきますね。参道は古い商店街になっています。


マナブ:「きしもじん」と言われましたか? 「きしぼじん」と読むのではなくて?


歴史先生:正式には「きしもじん」というのが正しいです。でも一般的には「きしぼじん」と言う人も多く、例えば参道途中にある都電の電停は「きしぼじんまえ」という読み方を採用しています。


マナブ:どちらでも良さそうですが、「きしもじん」と読んだ方が「お、わかってるねぇ」となりそうですね。


都電 鬼子母神前(きしぼじんまえ)


鬼子母神参道のケヤキ並木


マナブ:都電の踏切を渡ると、参道の雰囲気が変わりました。


歴史先生:樹齢400年と言われるケヤキ並木です。今は若木に少しずつ植え替えられていますが。このあたり、江戸時代にはたくさんの茶店や土産物店が並んでにぎわった場所なんです。


鬼子母神 参道


マナブ:ケヤキ並木の突き当りを左に折れると、鬼子母神が見えてきました。


歴史先生:今日はたくさんの参拝者が訪れていますね。


鬼子母神(地図 ❼)

〒171-0032 東京都豊島区雑司が谷3丁目15−20

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.kishimojin.jp


石造の仁王像と鬼子母神堂


武芳稲荷


マナブ:ここはどういう由緒の場所なんですか?


歴史先生:ここは元々武芳稲荷が鎮座していた場所で、「稲荷の森」と呼ばれる丘でした。1561年、戦国時代に目白台のあたりで鬼子母神の像が土中から掘り出されて、この近くのお寺に納められます。それが霊験あらたか、だということで、村の人たちがここにお堂を建てたのが始まり。


マナブ:ということはそれよりもっと古い時代の仏像、ということですね。


歴史先生:そうなりますね。その後、江戸時代になって1664年に加賀藩主の娘で広島浅野藩に嫁いだ自昌院殿英心日妙大姉という人の寄進によって、今のお堂は建てられました。


鬼子母神堂


マナブ:とても大きくて、立派なお堂です。


歴史先生:このお堂は国指定重要文化財になっています。


マナブ:都内では震災や戦災を免れた、貴重な江戸建築なんですよね。


歴史先生:はい、そのとおりです。


鬼子母神堂


マナブ:ところで、「鬼子母神」って変わった名前ですが、これは神様?


歴史先生:鬼子母神のルーツにはちょっと怖いお話があります。


マナブ:いいですね、教えてください。


歴史先生:鬼子母神は安産・子育ての神様。インドの神様で女性です。お父さんは夜叉神。


マナブ:お父さんもまた怖そうな名前です。


歴史先生:夜叉神は暴虐で、人を食らう鬼神でした。その娘の鬼子母神もまた性格が暴虐。近所の子供をさらっては食べていたそうで、とても恐れられていました。


マナブ:すごい話ですね。


歴史先生:彼女自身たくさんの子を産みましたが、自分の子供たちのことはとても愛していたそうです。ある時、お釈迦様が鬼子母神がかわいがっていた末っ子を隠してしまいます。鬼子母神は嘆き悲しみました。


マナブ:そこは母親、なんですね。


歴史先生:お釈迦様は嘆き悲しむ鬼子母神に「自分の子がいなくなるだけでこんなに悲しいんだよ。子供を食べられた親がどんな気持ちでいるのか、考えてごらん。」と諭し、鬼子母神はこれまでの自分の過ちを後悔します。


マナブ:そりゃそうだ。


歴史先生:それから鬼子母神はお釈迦様に帰依し、安産・子育ての神様になったのだとか。


マナブ:鬼子母神、という変わった名前も、なんだかその意味がわかったような気がします。


鬼子母神堂


マナブ:ところでここはお寺、なんですか?


歴史先生:近くにある法明寺の「境外堂宇(けいがいどうう)」、すなわち境内の外で独立して建っているお堂、という形になっています。その法明寺にも立ち寄ってみましょう。


法明寺 参道


法明寺(地図 ❽)

〒171-0022 東京都豊島区南池袋3丁目18−18

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.homyoji.or.jp/ 


マナブ:鬼子母神堂から歩いて1分ほど。そこから長い参道があります。


歴史先生:ここは江戸時代から桜の名所と言われた参道。左右にはいくつか塔頭があり、弁財天などが祀られているようです。


山門


マナブ:さっきの鬼子母神と違って、ここは人がおらず、とても静かです。都心とは思えない、静寂な空間が広がっていますね。


歴史先生:そうですね。この法明寺ですが、実は平安時代の初め頃、810年創建とされるとても古いお寺。


マナブ:それは古いですね。ところで東京で一番古いお寺って、どこなんだろう?


歴史先生:浅草の浅草寺だと言われています。創建は飛鳥時代の628年。


マナブ:あ、それはものすごく古いですね。


歴史先生:浅草寺は別格として、武蔵国分寺や調布の深大寺などは700年代にできました。でも810年というのは都心ではめずらしい古さです。


本堂


マナブ:でもあまり有名ではないですね。


歴史先生:関東大震災で本堂が倒壊し、今度は空襲で全山焼失してしまったんです。本来であれば文化財の宝庫だったはずですが、戦後に復興した分、名前が知られていないのでしょう。


マナブ:そう考えると、近くの鬼子母神堂が残っているのは奇跡、ですね。


歴史先生:はい、そう思います。


大鳥神社


大鳥神社(地図 ❾)

〒171-0032 東京都豊島区雑司が谷3丁目20番14号

境内自由


歴史先生:目白通りに戻る途中で、大鳥神社に立ち寄りましょう。


マナブ:大鳥神社、ということは、酉の市が行われるんですか?


歴史先生:はい、11月の酉の日には酉の市が開催されます。ここは元々、鬼子母神の境内に祀られていたんですが、明治の神仏分離でそこから独立して、この地に鎮座するようになりました。


鳥居と都電


歴史先生:この神社で面白いのは、目の前を都電が走っていること。


マナブ:おっ、鳥居の内側から都電を見る、という写真が撮れる場所なんですね。


皇族・公家の教育機関であった学習院と近衛家の大邸宅跡


緑豊かな目白通り



マナブ:目白通りを西に向かって歩いています。このあたり、緑が豊かですね。


歴史先生:そうですね。左側にずっと続くのは学習院の森です。


マナブ:地形図を見ると、ここも目白崖線の上の一等地ですね。


歴史先生:目白台のところからずっと大名屋敷が続いていましたが、ここ学習院の手前で終わっていて、ここは畑になっていた場所です。


マナブ:ちょうどいい場所、しかも広い場所が空いていたんですね。


学習院大学 正門


マナブ:ところで学習院と言えば、皇族が通う学校、というイメージがありますが。


歴史先生:元々は江戸時代の末、京都御所のとなりに作られた公家の学問所でした。明治維新のあと、1877年(明治10年)に東京の神田錦町に華族の教育機関が設立され、学習院という名前を継ぎます。


マナブ:華族のための学校。


歴史先生:そうなんです。学校と言えば文部省の管轄ですが、この学習院だけは宮内省の管轄でした。


マナブ:それだけ特別な学校だったんですね。


歴史先生:その後学習院は虎ノ門、四谷、へと移転しましたが、1908年(明治41年)に今の場所、当時の高田村に移転しました。都心では誘惑が多いので、勉学に集中できる環境を作るため、この地が選ばれたようです。


マナブ:都心からは少し距離がありますから、通学が大変になったのでは?


歴史先生:いえ。当時の学習院は全寮制、でした。この広い森の中に学生寮があって、学生たちはそこに住んでいました。


マナブ:勉強に集中できそうですね。


学習院大学 西門


歴史先生:しかしこの学習院も、空襲で焼失してしまいました。戦後になっていろんな改革が進む中、1949年(昭和24年)に学習院は私立学校として再スタートします。開かれた学校として、皇族・華族以外の一般の学生も受け入れるようになりました。


マナブ:なるほど、それで今の学習院大学につながっていくわけですね。


歴史先生:そうなると目白駅から通う学生が増えますから、駅のそばに「西門」ができました。それまでは「正門」だけだったんです。


マナブ:今はほとんどの人が西門を使っているようにも見えますね。


歴史先生:キャンパス内を散歩したいですけど、普段の日は関係者以外入れないので、門の外から見るだけにしておきましょう。


目白駅


マナブ:目白駅の前を通っています。ここは何というか、上品な駅ですよね。


歴史先生:駅前がすっきりしていて、山手線の中でも最も上品な駅じゃないかなと思います。


マナブ:さて、駅を通り過ぎてさらに西に歩いていますが、駅の西側には何があるんですか?


目白通りから左折して進む


マナブ:目白通りから左に折れて、進んでいます。


歴史先生:もう少し進んでいくと面白いものが残っています。


道の真ん中に大木がある


マナブ:おや、道の真ん中に木が立っていますね。今、車が通過しましたが、道が狭くなっていてすごく通りづらそう。最徐行していました。通行の邪魔になっていますけど。


歴史先生:ここ、小さなロータリーのように見えませんか?


マナブ:そういえばそうですね。


歴史先生:ここ、かつては近衛家の車寄せだったんです。


マナブ:「近衛さん」というと、公家の中でも筆頭になるような名門?


歴史先生:その通りです。近衛家と言えば、藤原氏の本家、と言えるでしょう。奈良時代、藤原不比等の4人の子が興した藤原四家の1つ、藤原北家の末裔にあたります。藤原四家の中では北家が最も繫栄し、藤原道長・頼通もその一族です。


マナブ:うわ、古い歴史のある家柄ですね。


歴史先生:公家の中で「五摂家」というのがあるのですが、摂政・関白になれる資格のある家が5つあって、近衛家、一条家、九条家、鷹司家、二条家、でした。近衛家はその中でも筆頭とされていました。


マナブ:その近衛さんがここに邸宅を建てたんですね。


歴史先生:はい。目白通りからこのロータリーまでが、邸宅のアプローチでした。


マナブ:へぇー、これは相当長いアプローチですよ。


歴史先生:ざっと見て、300m以上はありそうです。


マナブ:すごい。近衛さんというと、近衛文麿(ふみまろ)、ですかね?


歴史先生:一番有名な近衛さんは近衛文麿でしょうね。近衛家の第30代当主。明治生まれで昭和10年代に3回にわたって内閣総理大臣を務めました。ちょうど日中戦争から太平洋戦争へと突入していく難しい時期で、戦争の早期終結や終戦工作などに奔走した人ですが、戦後、A級戦犯にされ、服毒自殺しています。あ、この邸宅を建てたのは近衛文麿ではなくて、第26代当主の近衛篤麿(あつまろ)です。


近衛篤麿旧居跡の碑は住宅地の中にある


マナブ:近衛篤麿さんというのはどういう方なんですか?


歴史先生:幕末の生まれで明治を生きた人です。貴族院議長や学習院院長を務めていました。アジア人が団結して白人と戦う思想の持ち主で、清国との提携を深める一方、南下を進めるロシアに対抗する主張を繰り広げていました。


マナブ:その人が学習院の院長を務めたことで、その近くに家を構えたんですね。


歴史先生:学習院のキャンパスにも匹敵する広大な邸宅でした。


マナブ:それにしても広すぎる。


歴史先生:のちになってこの土地が高価に分譲されたことで、目白は高級住宅街としてのブランドが出来上がっていきました。


近衛篤麿旧居跡の碑


歴史先生:もう1つ、面白いものを見に行きましょう。


マナブ:ん? あの突き当りに変わった建物がありますね。


旧学習院昭和寮(現 日立目白クラブ)


マナブ:「日立目白クラブ」、と書かれていますね。日立製作所の社員のための福利厚生施設?


歴史先生:はい、そうです。立派でしょ? でもこれ、かつては学習院の学生寮だったんです。


マナブ:へぇー、こんな立派な建物が?


歴史先生:50人ほどの寮生がここに住んでいたそうです。


マナブ:さすが学習院。寮もハイソな感じですね。


歴史先生:ここも崖の上の一等地。地形的にも素晴らしい場所です。


落合崖線を彩る将軍家ゆかりの公園と古社・古刹


道が突然・・・?



マナブ:日立目白クラブの前の道を歩いています。おや、あそこで道が切れている?


歴史先生:近くまで行ってみましょう。


道は急に階段に変わる


マナブ:あ、階段になってるんだ。


歴史先生:地形図を見てください。この地図にある崖の部分は落合崖線と呼ばれていますが、このあたり、崖地形にするどく切り込みが入っています。


マナブ:ちょうど椿山荘の所のような地形ですね。


歴史先生:まさにそうです。


おとめ山公園 案内図


おとめ山公園(地図 ❿)

〒161-0033 東京都新宿区下落合2丁目10

入場自由

7:00~19:00(4~9月)、7:00~17:00(10~3月)

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.city.shinjuku.lg.jp/seikatsu/midori02_001013.html


マナブ:椿山荘は山縣有朋が立派な庭園にしました。ここの谷はどうなってるんだろう?


歴史先生:ここは「おとめ山公園」になっています。


マナブ:「乙女」、ということで若い女性に関係あるのかな?


歴史先生:いえ。「御留山」という字なのですが、何らかの理由でお上から「入ってはいけない」とされた山のことを指します。


マナブ:何で入ってはいけなかったんですか?


おとめ山公園 下の池


歴史先生:ここは江戸時代、将軍家の鷹狩りの場所でした。よって庶民が勝手に立ち入ることはできませんでした。


マナブ:なるほど。やはりこういった谷の切込みは池も作りやすいし、将軍家が目をつけるようないい場所だったんですね。


おとめ山公園 上の池


歴史先生:ここおとめ山は江戸のホタルの名所として有名でした。今でもホタルの飼育がされていて、ホタル狩りはここの地区の風物詩として続いています。


下落合氷川神社


下落合氷川神社(地図 ⓫)

〒161-0033 東京都新宿区下落合2丁目7−12

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.shinjyuku-hikawa.jp/ 


マナブ:おとめ山公園からさらに西へ。通りの突き当りに鳥居が見えてきました。


歴史先生:ここは下落合氷川神社。


マナブ:さきほども高田氷川神社、というのがありましたね。


歴史先生:高田氷川神社と下落合氷川神社は夫婦の社と言われているんだそうです。


マナブ:ふーん、神社にも夫婦があるんですね。


歴史先生:共通点としては神田川の近くであること。やはり水に関係した神社と言うことが言えるかと思います。


下落合氷川神社


マナブ:ここも古い神社なんですか?


歴史先生:創建はいつだったのか、はっきりしません。江戸のホタルの名所として知られた下落合地区の総鎮守として広い境内を持っていたようです。ここも空襲で焼失してしまい、今の建物は戦後の再建です。


下落合野鳥の森公園


歴史先生:氷川神社の近くには、崖地形を生かした「下落合野鳥の森公園」もあります。それほどひろくはありませんが、静かな森がありますので、ちょっとだけ立ち寄っていきましょう。


マナブ:次は大きなお寺が見えてきました。


東長谷寺 薬王院 山門


東長谷寺 薬王院(地図 ⓬)

〒161-0033 東京都新宿区下落合4丁目8−2

拝観無料

9:00~17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.yakuouin.or.jp/ 


斜面の上に立つ本堂


歴史先生:ここは源頼朝に仕えていた願行上人によって開かれたお寺です。願行上人は鎌倉時代初期に、真言宗の教えを関東で広めた人として知られています。


マナブ:東長谷寺、ということですが、奈良の長谷寺のような舞台がありますね。


歴史先生:はい。落合崖線の地形をうまく使って、崖の上に本堂を建て、舞台を作って遠くまで眺められるような作りになっています。


東長谷寺 薬王院の舞台


崖を上ると観音堂がある


歴史先生:さて、今日の目白の街歩きはこれで終了です。いかがでしたか?


マナブ:東京都心の地図を見る時、普通は地形は表示されていないので、まったく気にせずに見ていました。でもこの目白というのは、目白崖線の地形が生んだ一等地だったんですね。自分の足で何度も崖を上がったり下りたりしながら歩くことで、地形と歴史との関係がとてもよくわかりました。

​歴史好きのための観光ガイド
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