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登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
両国駅からスタート。まずは国技館へ。

都心の名園「旧安田庭園」と刀剣博物館

3万8000人が亡くなった現場:横網町公園

葛飾北斎、勝海舟、そして吉良邸討入り

大相撲興行発祥の地。江戸の大火の犠牲者を弔う回向院

鼠小僧 次郎吉は果たして義賊だったのか?

ランチでも一人でも大丈夫。お手軽にちゃんこを楽しめる有名店

両国駅からスタート。まずは国技館へ。


両国駅


マナブ:今日は両国駅に来ています。


歴史先生:ここは来られたことはありますか?


マナブ:相撲を見に来たことがありますね。でもそれくらいかな。


歴史先生:今日はここ、両国で歴史さんぽ、しましょう。


マナブ:駅の隣に国技館が見えていますね。そしてその向こうにはスカイツリー。


歴史先生:はい、それではまずは国技館へ行きましょうか。



両国国技館


相撲博物館の入口


両国国技館 相撲博物館 (地図 ❶)

〒130-0015 東京都墨田区横網1丁目3−28

入場無料

開館日、開館時間はWebサイトで随時更新

https://www.sumo.or.jp/KokugikanSumoMuseum/schedule/

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.sumo.or.jp/KokugikanSumoMuseum/


マナブ:相撲博物館、というのが今日は開館しているようですね。


歴史先生:はい、相撲関連の資料を展示した、無料の博物館です。開館日、開館時間は複雑ですので、事前にWebサイトで確認されることをお勧めします。


この日の展示は過去100年の優勝力士について


広くない館内はインバウンドの観光客でにぎわっていた


マナブ:平日午前なのに賑わっていますね。


歴史先生:ほとんど海外からの観光客のようです。今は本場所中ではないので、相撲を見たいと言えばここの博物館になるんでしょうね。


都心の名園「旧安田庭園」と刀剣博物館


旧安田庭園 西門



歴史先生:さて、国技館のすぐ北隣にあるのが旧安田庭園です。


マナブ:安田・・・ということは旧財閥の?


歴史先生:そうです。今日は剪定作業のため西門が閉鎖されているようなので、北門から入りましょう。


旧安田庭園 北門


墨田区立 旧安田庭園(地図 ❷)

〒130-0015 東京都墨田区横網1丁目12−1

入場無料

9:00~19:30(4~9月)、9:00~18:00(10~3月)、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/kouen/kunai_park_annai/sumida_park/park08.html


旧安田庭園 心字池


マナブ:わぁ、池が大きい。池の周囲が庭園になっているんですね。


歴史先生:そうです。「心」の字をかたどった心字池を中心とした、池泉廻遊式庭園ですね。ここの水は隅田川から引き入れているんですよ。


マナブ:一周してみましょう。


見る角度によっては逆さスカイツリーも楽しめる。左側の建物は刀剣博物館。


歴史先生:ここは元々は大名屋敷。日立笠間藩5万石の本庄宗資の下屋敷の庭園だったところです。


マナブ:それを安田財閥が購入した。


歴史先生:はい、1891年(明治24年)に安田財閥の創始者、安田善次郎が買い上げて、その後1922年(大正11年)に東京市に寄付されました。


マナブ:えーっと、大正11年というと、関東大震災のころですよね?


歴史先生:関東大震災はその翌年、1923年(大正12年)です。震災で壊滅的な被害を受けたのですが、その後復元されたのが、今私たちがみている庭園です。


マナブ:それにしても立派な庭園ですよね。


歴史先生:はい、名勝に指定されているんですよ。


マナブ:あ、それ、滋賀県の旅のときに出てきました。名勝庭園というのは、庭園における重要文化財みたいなものでしたよね。


歴史先生:そのとおりです。で、国宝に当たるのが特別名勝、でしたよね。


マナブ:あ、あそこの建物の上から写真を撮っている人たちがいますね。


歴史先生:あれは刀剣博物館。次はあそこに行ってみましょう。


刀剣博物館


刀剣博物館 (地図 ❸)

〒130-0015 東京都墨田区横網1丁目12−9

入場料1,000円 (学割あり、中学生以下無料)

9:30~17:00(最終入場16:30)、月曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.touken.or.jp/museum/ 


マナブ:刀剣だけの博物館、ですか。珍しいですね。


歴史先生:ここは日本美術刀剣保存協会が運営している博物館なんです。刀はもちろん戦うための武器なのですが、日本刀というのはそれ以上に美術工芸品としての価値が認められていますよね。


マナブ:ということは美術館といってもいい。


歴史先生:いいこと言いますね。まさにそんな感じで、鑑賞していただければと思います。


館内の様子(展示室の中は撮影禁止)


歴史先生:展示室内は暗い照明の中、時代ごとに優れた名刀がガラスケースに入って飾られています。


マナブ:美しくて、うっとりします。


歴史先生:各時代によって長さ、幅、反りなどが変わってきているのも興味深いところです。


マナブ:最近は刀剣ブームですから、好きな人も多いでしょうね。


歴史先生:テラスにも出られますよ。先ほど、ここから庭園を見ている人がいましたね。旧安田庭園を上から鑑賞しましょう。


刀剣博物館のテラス


刀剣博物館のテラスから見下ろす旧安田庭園


3万8000人が亡くなった現場:横網町公園


横網町公園



マナブ:さて、旧安田庭園・刀剣博物館の隣も公園になっています。横綱町公園って書いてあります。「よこづな」が町名になってるなんて、さすが両国、ですね。


歴史先生:いいえ、よく漢字を見てください。


マナブ:ん? あれ、横綱じゃなくて、横網(よこあみ)? これは紛らわしすぎる(笑)。


歴史先生:そうですよね。ところで、ここ横網町公園なんですが、実は悲しい大惨事が起きた場所。


マナブ:というと?


歴史先生:まずは公園内を回りましょう。


東京都慰霊堂


東京都慰霊堂 (地図 ❹)

〒130-0015 東京都墨田区横網2丁目3−25

入場無料

9:30~16:30、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://tokyoireikyoukai.or.jp/index.html


マナブ:とても立派な建物があります。「東京都慰霊堂」と書かれていますね。


歴史先生:1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、関東大震災が起きました。この場所は以前陸軍被服廠があった場所で、それが移転したため、空き地になっていました。


マナブ:ふむふむ。


歴史先生:そして大地震が発生。地震で家屋が損壊したりしましたので、避難する人たちがこの空き地へ続々と集まってきます。中には大八車に燃えやすい家財道具を満載してきた人たちもいたようです。


マナブ:地震の時はこういった広域避難場所に今でも避難するよう、言われていますよね。


歴史先生:ですから、その人たちの避難行動もあながち間違いではなかったのです。しかし震災で発生した火の手は午後になっても収まる気配がなく、午後4時ごろ、ついにここにも東西南北から火の手が迫ってきて、人々は逃げ場を失いました。


マナブ:大規模な火災だと、竜巻のような感じで火が襲ってくる、というのを見たことがありますが。


歴史先生:まさにそれです。「火災旋風」がいくつも発生して、ここ被服廠跡地を襲いました。避難していた人の95%は焼死。その数は実に3万8000人にも及びました。


マナブ:うわぁー。あまりにも悲惨な状況ですね。ほぼ満員の野球のスタジアムが燃えて全員が亡くなったくらいの規模。ここがそんな悲劇の場所だったなんて、全く知りませんでした。


歴史先生:亡くなった多数の方の菩提を弔うべく、震災の7年後、1930年(昭和5年)にこの慰霊堂が完成したんです。


慰霊堂の内部


慰霊堂に飾られている絵の一つ


歴史先生:不幸な出来事はさらに続きます。慰霊堂が完成してから15年後の1945年(昭和20年)、東京大空襲がありました。慰霊堂にはそこで亡くなった方も含めて、ここには16万3000体のご遺骨が納められているんだそうです。


マナブ:まだそう遠くない過去に東京を襲った2つの大きな悲劇、ですね。


東京空襲の犠牲者を追悼し平和を祈念する碑


復興記念館


復興記念館 (地図 ❹)

〒130-0015 東京都墨田区横網2丁目3−25

入場無料

9:30~16:30、月曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://tokyoireikyoukai.or.jp/index.html


歴史先生:では公園内にある復興記念館で、この2つの災害について詳しく学びましょう。2階建てになっていて、1階は関東大震災、2階は東京大空襲の展示になっています。


マナブ:重厚感ある建物ですね。中に入るとひんやりします。


歴史先生:こちらも古くて、慰霊堂の翌年、1931年(昭和6年)の建物です。


展示室内の様子


マナブ:関東大震災、というけれど、被害は旧東京市と横浜市に集中していますね。全体で10万5000人の死者が出ているけど、両市だけで合わせて9万5000人もが亡くなっている。


歴史先生:建物の被害も甚大で、37万戸が被害に遭っています。そのうち焼失が21万戸。中でも東京市はそのほとんどが焼失です。


マナブ:そして震度は隅田川より東側の下町がひどい。軒並み震度6とか7とか。そして東京市はほとんどが焼失してしまったんですね。しかも当日だけでなく翌日に大きく広がった。


歴史先生:地震被害の多くが火災被害、となったのが関東大震災でした。しかし火災以外の二次被害も出ました。有名なのが流言飛語、すなわち「デマ」。


マナブ:たしか韓国の人たちがそれで被害に遭ったとか。


歴史先生:「鮮人襲来」などというデマが流れ、それを信じた市民の中で自警団が結成され、朝鮮人が殺害されるなどといったとんでもないことが起きたんです。


マナブ:現代でもSNSでとんでもないデマを流す人がいます。そしてそれを信じて行動してしまう人がたくさんいます。


歴史先生:技術は目覚ましく発展しますが、人の心というのは昔も今もあまり変わりません。


マナブ:だから私たちは歴史を知って、そこから同じ過ちを繰り返さないように、学ばないといけないんですよね。


歴史先生:はい、ほんとにその通りだと思います。



<読んでおきたい本>

関東大震災

吉村 昭




関東大震災。一体その時何が起きたのかの克明な記録。被服廠跡地での悲惨な火災。そして流言飛語による殺人。その時に生きた人たちが地震に対してどう行動したのか、いつかこれから起きるであろう首都直下型地震での教訓として学んでおきたい。



マナブ:2階へ上がってきました。こちらは東京大空襲の資料が展示されています。


歴史先生:日本の敗戦が濃厚となった1944年(昭和19年)秋ごろから本土への空襲が始まりました。そこから翌年8月の終戦まで、実に全国で50万人以上が空襲によって亡くなったんです。


マナブ:うーん、実にとんでもない数の犠牲者です。


歴史先生:そして東京。首都である東京には繰り返し空襲が行われましたが、中でも1945年(昭和20年)3月10日の大空襲は、8万人を超える犠牲者が出た大規模なものでした。


マナブ:それって長崎の原爆よりも犠牲者が多い。


歴史先生:その後も繰り返し繰り返し、B29による爆撃が行われたんです。


焼夷弾


マナブ:焼夷弾ってよく聞きますが、実物は初めて見ました。


歴史先生:通常の爆弾は爆発した時の衝撃で物を壊すのですが、焼夷弾には可燃性の薬品が中に入っていて、 火災を起こすんです。これで日本の木造家屋はことごとく焼き尽くされてしまいました。


マナブ:いやー、東京に住んでいて、東京大空襲のことは知ってはいましたが、こうやって詳しく学ぶのは初めてです。関東大震災もしかり。ここ、無料の資料館ですが、大変な見ごたえと学びがいがありましたよ。ぜひ皆さんにもお勧めしたいスポットですね。


葛飾北斎、勝海舟、そして吉良邸討入り


浮世絵が描かれたマンホール


歴史先生:ではここからは江戸時代の歴史を旅しましょう。まずはここ生まれの有名人から。


マナブ:両国と言えば、江戸の下町ですよね。誰だろう?


歴史先生:ヒントはこのマンホール。


マナブ:あ。もうこれはヒントじゃなくて答え、ですよ(笑)。葛飾北斎。


歴史先生:はい、正解です(笑)。北斎はここ、墨田区亀沢の生まれ。当時このあたりは武蔵国葛飾郡であったことから、ペンネームを葛飾としたようです。その後も引っ越しを繰り返しましたが、ほとんどは墨田区内だったそうです。


すみだ北斎美術館


すみだ北斎美術館 (地図 ❺)

〒130-0014 東京都墨田区亀沢2丁目7−2

入館料(常設展示室 AURORA)400円、学生、シニア割引あり、中学生以下無料

その他企画展は別料金

9:30~17:30(最終入場17:00)、月曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://hokusai-museum.jp/ 



マナブ:葛飾北斎は江戸時代のいつ頃の人ですか?


歴史先生:1760年生まれ、1849年没ですから、活躍したのは江戸後期と言えるでしょう。約70年にわたって絵を描き続け、人物、風景、生物などあらゆるものを描き、またその画風も若いころから随分と変化をしていったようです。生涯で3万4000点もの作品を残しました。


マナブ:3万4000点って、すごい数。70年で割ると1年で500弱。毎日1つ以上描いたことになりますね。


歴史先生:でもやっぱりその代表作と言えば「富嶽三十六景」でしょうね。


富嶽三十六景 凱風快晴


富嶽三十六景 神奈川沖浪裏


マナブ:はい、やっぱり北斎といえばこれ、ですね。


歴史先生:ここ、すみだ北斎美術館の常設展ではこれらの絵画の高精細レプリカが常時飾られており、本物は展示される期間が限定されます。それでも若いころから晩年までの北斎の画風の変化を楽しみに見る価値はありそうです。


北斎のアトリエの再現


マナブ:アトリエ、ってあるけど、その言葉のイメージと違う(笑)。


歴史先生:でも江戸時代の絵描きさんたちは、こんな風に畳にしゃがんで描いていたんでしょうね。



<読んでおきたい本>

もっと知りたい葛飾北斎 改訂版 生涯と作品 (アート・ビギナーズ・コレクション)

永田 生慈



冨嶽三十六景をはじめとする北斎の代表的な作品集。絵の中の部分的なアップや、描画テクニックの解説など、北斎作品の楽しみ方がよくわかる。北斎という天才画家の魅力的な生涯とその作品を堪能できる1冊だ。



勝海舟生誕の地


両国公園(勝海舟生誕の地)(地図 ❻)

〒130-0026 東京都墨田区両国4丁目25−3

https://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/kouen/kunai_park_annai/sumida_park/park02.html



歴史先生:では次の有名人ゆかりの地へ。今度は幕末のヒーローです。


マナブ:墨田区立 両国公園という、比較的小さな公園に来ましたが。


歴史先生:こちらの一角に展示がありますよ。


マナブ:お、勝海舟生誕の地と書かれてる。


歴史先生:はい、勝海舟は1823年、ここにあった父の実家の屋敷で生まれ、7歳までここで過ごしました。その後剣術や禅を学んで優秀な成績を上げ、その後蘭学者の永井青崖に師事して西洋のことを学び、1850年には赤坂に私塾(氷解塾)を開きました。


両国公園の展示看板の一部:長崎海軍伝習所


マナブ:たしか長崎にもいたんですよね。


歴史先生:はい、その後長崎海軍伝習所に派遣され、そこで操船技術を身に付けました。


マナブ:長崎でここの場所、行きましたね。この絵もそこで見ました。埋め立てられる前の岬の先端、出島の隣。


歴史先生:はい、そうでしたよね。長崎では勝海舟が住んでいたお寺にも行きましたね。


両国公園の展示看板の一部:咸臨丸


歴史先生:そしてそこで学んだ操船技術を基に、咸臨丸の艦長としてアメリカへ使節団と共に渡りました。その後勝海舟は幕府の要職を歴任しますが、時は幕末。追い詰められた徳川慶喜は大政奉還に応じ、さらに鳥羽・伏見の戦いで戊辰戦争が始まってしまいます。


両国公園の展示看板の一部:江戸城開城


マナブ:勝海舟といえば、江戸城無血開城の交渉をした人でしたっけ。


歴史先生:そうです。官軍の参謀、西郷隆盛と2日間に及ぶ会談で、官軍が江戸を総攻撃するのを止めさせ、平和裏に江戸城を明け渡すことになったのです。


マナブ:この絵は有名ですよね。教科書で見た覚えがあります。


歴史先生:でもこの絵って、すごく変じゃないですか?


マナブ:え? どこがですか?


歴史先生:二人の立場を考えてみてください。西郷隆盛は攻めてきた官軍のリーダー。勝海舟は攻められた幕府の1人の役人に過ぎません。


マナブ:はい。


歴史先生:しかも勝海舟のほうは負けていて、「降参します。だから江戸の町を焼き払ったりしないでください。」とお願いに来ている。


マナブ:そうですよね。


歴史先生:なのに、見てください。座敷の上座には誰が座っていますか?


マナブ:あれ? 床の間を背にした方が上座だとすると、勝海舟のほうが上座に座っている??


歴史先生:そうなんです。ここまで立場の違い状況にありながら、西郷隆盛は勝海舟を先生として扱って、上座に迎えているんですね。


マナブ:いやー、気が付きませんでした。言われてみれば確かに、これはすごいことだ。


歴史先生:西郷を始め、長州や薩摩の志士たちからも尊敬されていた勝海舟だからこそ、江戸の町を戦火から救えたんだと思います。その功績は極めて大、です。



<読んでおきたい本>

勝海舟 私に帰せず

津本 陽




上下2巻。幕末、瓦解していく幕府の中で一人気を吐く論客だった勝海舟。世界情勢を理解し、日本の将来を見据えたゆるぎない思想は薩摩や長州人の心にも響いた。彼の弁舌の歯切れよさが気持ちいい読後感をもたらす。幕末の動乱の真っただ中で生き抜いた彼の一生を、彼の目を通して丁寧に追いかけていく、幕末歴史ファンにはたまらない歴史小説だ。



吉良邸跡


吉良邸跡 (地図 ❼)

〒130-0026 東京都墨田区両国3丁目13−9

https://www.city.sumida.lg.jp/sisetu_info/kouen/kunai_park_annai/sumida_park/park01.html


歴史先生:さて次は、江戸を揺るがした大事件の現場です。


マナブ:ここですか?


歴史先生:ここが吉良邸跡。


マナブ:おー、それは大事件。ここに吉良邸があって、ここに討ち入りした。


歴史先生:そうなんです。今はそのお屋敷はありませんが、その一部が公園として保存されています。


吉良邸の一部が公園として保存されている


吉良上野介像


みしるし洗いの井戸


歴史先生:狭い場所ですが、吉良上野介像やみしるし洗いの井戸があります。


マナブ:みしるし?


歴史先生:取った首を洗ったとされる井戸、です。


マナブ:うっ。ちょっとゾクッとしました。



<読んでおきたい本>

新編忠臣蔵

吉川英治



上下2巻。よく知られた忠臣蔵のストーリー。単なる勧善懲悪ではなく、吉良側の見方も含んだバランス感覚に優れた歴史小説。吉川英治氏の格調高い文章でもう一度、この物語を読み直してみてはいかがだろうか。



大相撲興行発祥の地。江戸の大火の犠牲者を弔う回向院


回向院 正門


回向院 (地図 ❽)

〒130-0026 東京都墨田区両国2丁目8−10

拝観無料

9:00~16:30、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://ekoin.or.jp/ 



マナブ:JR両国駅の前の大通りの突き当りにある、回向院(えこういん)に来ました。


歴史先生:回向院に入る前に、その正門の隣の場所を見てみましょう。ここはかつて初代の両国国技館があったところ。


旧国技館跡


歴史先生:江戸中期、1768年から回向院で勧進相撲の興行が行われ、1833年から春秋2回の興行が定着。これが今日の年6場所の大相撲興行につながっています。そういったこともあって回向院の境内の中に初代の国技館が建てられたのだとか。国技館が建つ前の相撲興行は「回向院相撲」と呼ばれます。


マナブ:回向院って、相撲とは縁が深いんですね。ところでこの国技館、すごいじゃないですか。現代のドーム球場みたいな建物ですが、できたのが何と1909年(明治42年)! それで鉄のドーム屋根がついていて収容1万3000人!


歴史先生:その当時としては極めて画期的な建物だったんでしょうね。その後蔵前に新しい国技館ができて、これは1983年(昭和58年)に解体されるまで、日大講堂と呼ばれるようになりました。


マナブ:あ、その名前も記憶にあります。


歴史先生:では正門をくぐって、回向院の中へ進みましょう。


物故力士や年寄を祀る力塚


歴史先生:相撲との縁もあって、ここに力塚、が建てられました。


マナブ:これは大きい。この石は何メートルあるんだろう。まさに力士、という感じですね。


本堂内部


マナブ:本堂の建物に入ってきました。はいってすぐ、「鳴き龍」がありました。その龍の絵の下でポンと手を叩くと、コロコロコローと音が響きましたので、みなさんも試してみてください。本堂はビルみたいな現代の建物ですが、本堂内部はおごそかな雰囲気です。


歴史先生:正面中央の阿弥陀如来坐像は1705年に安置された江戸時代初期の銅製の仏像。背後には千体地蔵が金色に輝いています。


マナブ:ところで、ここ回向院はどういうお寺なんですか?


歴史先生:回向院は1657年、江戸の初期に江戸の町を襲った明暦の大火で亡くなった10万人を超える犠牲者の菩提を弔うために建立されました。


マナブ:10万人とはものすごい。江戸と言えば火事が有名ですよね。


歴史先生:江戸時代には明暦、明和、文化と3回の大火が起きますが、その中でも明暦の大火が最も被害が大きいものでした。江戸の町の大半が失われ、江戸城の天守もこのとき焼失しています。


マナブ:江戸城内まで火がまわるなんて、大変な火災だったんですね。先ほど関東大震災、東京大空襲と災害を見てきましたが、明暦の大火もそれに匹敵する大災害だったんだ。


歴史先生:ところで、この大火は別名「振袖火事」とも呼ばれています。


マナブ:その呼び方、聞いたことがありますが、どういう意味なんでしょう?


歴史先生:これはある振袖に関する怖―いお話。ある娘が道ですれ違った青年に一目ぼれ。その彼が忘れられず苦しんでいるのを見た両親が、彼が来ていた着物と同じ柄の振袖を作って娘に与え、娘はそれを抱いて暮らしていました。しかし娘はやがて体調を崩して亡くなります。その遺品は転売されて他の娘に渡りますが、その娘もやがて亡くなり、さらに他の娘の手に渡るとその娘も亡くなったそうです。


マナブ:江戸時代にありそうな怪談話ですね。


歴史先生:そして巣鴨にあったお寺(本妙寺)でそれを焼いて供養しようとしたところ、火のついた振袖は風にあおられて屋根に落ち、そこから火災が発生。この火災が江戸中に広がったというもの。


マナブ:それで振袖火事。


歴史先生:実際にはこの話は出来すぎていて、後世の創作と言われていますけどね。


回向院の供養塔群


歴史先生:そんな背景もあって、ここには多くの供養塔があります。


マナブ:右から見ていきましょう。まずは明暦の大火の供養塔。これがこのお寺の始まりですね。


歴史先生:2番目、3番目は安政の大震災の供養塔。


マナブ:4番目は信州上州震災と奥羽飢饉の供養塔。


歴史先生:そして一番左が関東大震災の供養塔。


マナブ:東京の、そしてその近郊の災害の歴史を見るようです。東京大空襲の供養塔はないんですね。でも、とにかくこの左側に供養塔がこれからも並ばないことを祈りたい。


鼠小僧 次郎吉は果たして義賊だったのか?


鼠小僧の墓


歴史先生:回向院を有名にしているものの1つが、ここにある鼠小僧 次郎吉の墓、です。


マナブ:鼠小僧と言えば、江戸時代のヒーローですよね。


歴史先生:義賊、と呼ばれていました。悪徳商人の店とか大名屋敷にたった1人で忍び込んで、不正に蓄財されたお金を盗み、それを貧しい人たちに分け与えた、そして生涯誰一人傷つけることなかった、とされていますよね。でも、どうやら実際はそうでもないらしいんです。


マナブ:というと?


歴史先生:鼠小僧は最後に浜町の武家屋敷に忍び込んだ際に捕縛されました。捕まったのは大変小さな男だったそうです。その取り調べの記録を見ると、盗みに入ったのは95か所、839回。盗んだ金3000両あまり。それなのに手持ちのお金はほとんどなし。


マナブ:それは庶民に分けてやったから?


歴史先生:でも、庶民に分け与えたという記録はまったくないんです。それどころか、盗んだ金の使い道は酒、遊興、ばくち、が主だったようです。


マナブ:あらあら。


歴史先生:そして武家屋敷に侵入したのも権力への抵抗ではなく、武家屋敷の奥向き、すなわち女性ばかりがいるあたりに入り込んでいました。それはもしも見つかった時も男たちが駆けつけるまでの間に逃げやすい場所だったから、ということらしいです。


マナブ:えーっ、そうだったんですか。


歴史先生:でも、当時の江戸庶民の間では鼠小僧は義賊だといううわさが広まり、大変な人気になったそうです。


マナブ:捕まって、どういう処罰になったんでしょう?


歴史先生:市中引き回しの上、獄門。


マナブ:うわ。時代劇で見る、一番厳しいやつだ。


歴史先生:牢屋のある伝馬町から日本橋、京橋あたりまで引き回しされたそうですが、鼠小僧を一目見ようと沿道は野次馬でいっぱいになったそうです。


鼠小僧の墓とお前立ちの石


マナブ:で、処刑されて今はここに眠っている。


歴史先生:そういうことです。ところでこのお墓ですが、鼠小僧がなかなか捕まらなかったということでそのご利益を求めて墓石を削って持ち帰ることが盛んになったそうです。


マナブ:おやおや。でもそれだといつか墓石が無くなってしまう。


歴史先生:ということで、今はお前立ちの石が置かれていて、こちらはご自由に削ってお持ち帰りください、ということになっています。


マナブ:あ、たしかに削った跡がたくさんありますね。


両国橋から見た隅田川


両国橋を渡るとスカイツリーも見えてくる



歴史先生:最後に、近くの両国橋(地図 ❾)へ行きましょう。


マナブ:ここから見る隅田川、いいですね。スカイツリーも見えてる。


歴史先生:ところで、かつて隅田川には橋が架かっていませんでした。このあたりは江戸の防衛の観点から、橋がなかったんですね。


マナブ:でも戦乱が落ち着いたので、架けられたとか?


歴史先生:それもあったと思いますが、直接の理由は先ほど回向院でも見た明暦の大火。あの時に江戸の市民は逃げ場を失って多くの方が亡くなりました。次に大火があった時に対岸へ容易に避難できるよう、この両国橋が架けられたんです。


マナブ:あ、この橋も大火と関連していたんですね。ところでさっきからずっと考えていた疑問があって。


歴史先生:何でしょう?


マナブ:今まで気が付かなかったんですが、川の名前は「隅田川」、そして区の名前は「墨田区」。なぜ漢字が違っているんでしょう?


歴史先生:実はあまり深い歴史背景のない話なんですが、1947年(昭和22年)、本所区と向島区が合併した時の新区名を決める時、「隅田区」が有力となりましたが、当時の当用漢字表に「隅」の字がなかったため、「墨」の字があてられたんだそうです。


マナブ:そんな理由でしたか。


歴史先生:ところで今更なんですが。


マナブ:何でしょう?


歴史先生:「両国」という地名の由来、ご存じですか?


マナブ:あれ、今日の最後のお題だ。何だろう、わかりません。


歴史先生:江戸時代の初期まで、この隅田川が武蔵と下総の国境だったんです。この橋は「大橋」というのが正式な名前でしたが、一般には「両国橋」と呼ばれていました。これがのちに正式名称になります。


マナブ:なるほど、2つの国をつなぐので両国橋。とすると、両国という町の名前はこの橋から来た?


歴史先生:そういうことです。さて、両国の街歩きはこれで終わりです。両国、いかがでしたか?


マナブ:両国イコール相撲、と思っていたんですが、まったく違っていました。江戸や東京が受けた大災害の記憶、そして江戸時代のヒーローたち。歴史がいっぱい詰まった街歩きでしたよ。


歴史先生:よかったです。


マナブ:でも、まだ1つ、両国で欠かせないものに行けてません。


歴史先生:わかってます。「江戸東京博物館」ですよね。実は長い間リニューアル中でして、再開されるのは2026年春ごろと言われています。


マナブ:いえいえ、そこじゃなくて。


歴史先生:え? まだどこかありましたっけ?


マナブ:ここに来たら「ちゃんこ」を食べなきゃ。


歴史先生:(笑)そうでしたね。ランチでも予約なしに気軽にちゃんこを食べられるお店がありますので、今から行きましょう。


マナブ:やったー。


<おすすめのお店>

ランチでも一人でも大丈夫。お手軽にちゃんこを楽しめる有名店「ちゃんこ霧島 両国江戸NOREN店」



ちゃんこ霧島 両国江戸NOREN店

〒130-0015 東京都墨田区横網1丁目3−20 両国江戸NOREN

ランチ  11:00~15:00(L.O.14:00)

ディナー 17:00~22:00(L.O.21:00)、水曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://c-kirishima.com/shop.html 


元大関霧島のお店。両国駅前に昔からのお店があるが、今回JR両国駅にできた新しい観光施設の中にも出店している。


実際に行ってみた


両国江戸NOREN


JR両国駅の古い駅舎の中を改装して、両国江戸NORENが開業。江戸情緒のある飲食店や土産店が並ぶ、新しい観光スポットとなっている。


両国江戸NORENの中央には土俵も作られている


ちゃんこ霧島はその一番奥にある。白木をベースとした真新しく明るい店内。テーブルのサイズが大きく、1組あたりのスペースが実にゆったりとしている。


リーズナブルなランチメニュー


通常、ちゃんこを食べに行くといえば、いわゆる鍋の宴会コースのようになっていて、複数人以上で予約するのが普通。価格も最低数千円からという値段設定だが、ここではちゃんこを観光客用に気軽なランチで提供。なんと1,650円からちゃんこを食べられるというので、今回はこの一番低価格の御膳を頼んでみた。(メニュー、価格は取材当時のものです。)


昼御膳 西


提供と同時に鍋の下の固形燃料に火をつけてくれる。沸騰して肉の色が変わるのを待つように言われた。その間に手前の刺身3点、きんぴらと卵焼き、香の物でごはんをいただく。ごはんはおかわり自由なのがうれしい。鍋ができる前に、ごはん1膳目を食べてしまった。鍋ができる頃合いを見て、おかわりをいただく。


紙鍋ちゃんこ


いよいよちゃんこ。鶏だんご、豚肉、海老、ホタテ、そして各種野菜がたくさん入っている。だしがうまい。この出汁なら、何を入れてもうまいだろう。どんどん箸が進む。


鍋の底が深く、食べても食べても次々と中から具材が出てくる感じ。見た目よりもずっとボリュームがある。さすがは力士さんたちの料理だ。


食べ終わって大満足。この最高のロケーションで、ぜいたくな店内スペースを使わせていただいて、それで1,650円とは破格ではないだろうか。両国観光でランチといえば、ここは外せない選択肢の1つになることは間違いない。


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