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登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
まずは三軒茶屋からスタート

五色不動の1つ「目青」不動と源義家ゆかりの太子堂八幡

吉田松陰を祀る松陰神社はなぜ世田谷にあるの?

松陰神社が引き寄せた元首相の墓所と大学

中世の世田谷を治めた吉良氏ゆかりの寺院群

世田谷の歴史が感じられる世田谷代官屋敷とボロ市通り

200年にわたって吉良氏が君臨した世田谷城

代々の井伊家当主が眠る大伽藍:豪徳寺

豪徳寺の招き猫とあの“ゆるキャラ”の関係は?

源義家が豪雨に足止めされた場所に建てた世田谷八幡

世田谷線の「招き猫電車」に乗ろう



まずは三軒茶屋からスタート


三軒茶屋の駅前にある三叉路



マナブ:今日は三軒茶屋(地図 ❶)に来ています。ここから世田谷線の旅をする、ということなんですが。


歴史先生:はい。世田谷線沿いの地域というのは実は歴史の宝庫。ゆっくりと見ながら歩きましょう。ところでここ三軒茶屋はブラタモリでも取り上げられた場所です。ちょっとだけ街も見ていきましょうか。


三軒あった茶屋のうちの1つ、田中屋は三叉路の近くに今もある


歴史先生:ブラタモリでもあったように、ここにはかつて三軒の茶屋がありました。


マナブ:金沢に行ったとき、「茶屋街」があって、そこには独特の文化がありましたが、ここも同じようなものでしょうか?


歴史先生:いえ、ここの茶屋はどちらかといえば街道の通行人や旅人に飲食を提供する場所の意味の方が強いと思われます。


マナブ:そうなんですね。街道といえば、ブラタモリではたしか大山街道の話が出ていましたよね。


歴史先生:そうですね。ここは大山街道。江戸時代に流行した「大山詣で」の人たちがたくさん通った場所です。


三角地帯


歴史先生:そして現代の三軒茶屋で有名なものと言えば、三叉路の間に広がる「三角地帯」。


マナブ:昭和レトロな飲み屋街ですよね?

 


三角地帯の細い通り


歴史先生:このあたりは戦後にヤミ市ができた場所。その名残となる街が今も残っています。ここは交通の要衝で、物資が集まりやすかったこともヤミ市が発達した一因と思われます。


マナブ:なるほど。雰囲気のある細い路地が続きます。


歴史先生:ヤミ市はその後飲食店、飲み屋街になり、現在でも昭和レトロな通りとして残っていますので、夜来るとまた違った姿が見られるでしょう。


三軒茶屋のシンボル、キャロットタワーを見ながら西へ進もう


世田谷線の東の起点、三軒茶屋駅


歴史先生:キャロットタワーの下には世田谷線の起点、三軒茶屋駅があります。


マナブ:ここから電車に乗るんですか?


歴史先生:いえ、しばらくは沿線を歩きます。電車にはあとで乗りましょうね。



歴史先生:では歩き始める前に、今日の行程の地形図を見てみましょう。


マナブ:いいですね、待ってました。


歴史先生:世田谷は全体的にはとても平たいように思われがちですが、実は微妙に台地と谷の入り組んだ地形になっています。地形図の凡例を見てください。この地図では5mごとに細かく色を変えています。何か気が付くことはありますか?


マナブ:曲がりくねった谷が東西に2本走っていますね。そして今日行くところはすべて台地の端っこ。寺や神社など大切な建物は台地の端っこに造られることが多いんですよね?


歴史先生:そうなんです。これがなぜここにあるの?と考えたときに、地形がその理由であることがとても多いんですよね。


五色不動の1つ「目青」不動と源義家ゆかりの太子堂八幡


教学院(目青不動)入口



教学院(目青不動)(地図 ❷)

〒154-0004 東京都世田谷区太子堂4丁目15−1

6:00~17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://kyogakuin.or.jp/ 


マナブ:三軒茶屋駅の前の踏切を渡ってすぐのところにある、教学院というお寺に来ました。


歴史先生:ここは「目青不動」として知られています。


マナブ:あ、それ、目白に行ったときに話を聞きました。たしか江戸には5つの色のお不動さんが置かれたんですよね。


歴史先生:はい、古代中国の五行説(ごぎょうせつ)によると、「万物は火・水・木・金・土から成っている」ということで、この5つにはそれぞれ色があり、火(赤)・水(黒)・木(青)・金(白)・土(黄)なんです。


マナブ:ふむふむ。


歴史先生:その思想に基づいて天海僧正が3代将軍徳川家光にもちかけ、江戸の不動尊から5つを選んでそれぞれ色を付けます。それらを五色不動と呼び、天下泰平を祈願したのだとか。


マナブ:思い出しました。そんなお話でしたね。で、そのうちの1つの「青」がここ教学院。人々はここにもお参りに来たんですね。ちょうど大山詣でのついでに立ち寄るのもよさそうですね。


歴史先生:いえ、目青の経緯はちょっと複雑です。


マナブ:というと?


教学院 本堂


歴史先生:教学院の歴史は古く、鎌倉時代末期の1311年(応長元年)創建とも、江戸時代初期の1604年(慶長9年)創建とも言われています。


マナブ:だいぶ差がありますね。


歴史先生:いずれにせよ、ここは天台宗のお寺で、阿弥陀如来がご本尊として本堂に祀られています。元々は江戸城内にあったお寺でしたが、麹町、赤坂、青山と移転を繰り返して、1909~1911年(明治42~44年)ごろ、現在地に移転したものと思われます。


マナブ:あ、ここに移ったのは明治の末で、割と新しい話なんだ。


歴史先生:ご本尊の阿弥陀如来像は寺伝によると恵心僧都(えしんそうづ)の作とも言われています。


マナブ:たしか比叡山に行ったときに名前が出てきた高僧ですね。


歴史先生:比叡山の横川で修業した源信というお坊さん。平安時代中期の人で、元三大師のお弟子さんでもあります。琵琶湖の浮御堂を建てたのも恵心僧都でしたね。


目青不動を祀る不動堂


歴史先生:ところで、目青不動なんですが、それとはまったく違う流れなんです。


マナブ:違う流れ?


歴史先生:目青不動と呼ばれた不動明王像ですが、元々は現在の六本木一丁目あたりの正善寺というお寺にありました。しかし1882年(明治15年)に正善寺は廃寺となり、その時に近くにあった教学院に移されたんです。そして教学院がここに移転してきた。


マナブ:そうなんですね。江戸時代の人々は六本木あたりにお参りしたわけですか。ところでその仏像、見ることはできますか?


歴史先生:いえ、目青不動は秘仏なんです。ご開帳が時々行われますのでその時に見に来るとよいですね。


マナブ:目が青いのかな?


歴史先生:いえ、仏像の目が青いわけではないんだそうで、正善寺があったあたりは青山の一部だったので、「青」になったという説もあるようです。


住宅街にある太子堂八幡



マナブ:目青不動から西太子堂駅の前を通って、駅前の通りを進むと神社が見えてきました。


歴史先生:少し小高くなっているのがわかりますか?


マナブ:あ、ほんとだ。あそこが台地の端っこですね。


太子堂八幡神社(地図 ❸)

〒154-0004 東京都世田谷区太子堂5丁目23−4

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.taishido-hachiman.or.jp/


太子堂八幡


マナブ:鳥居の奥に行くと石段があって、その一段高い場所に本殿があるようです。


歴史先生:こちらの太子堂八幡ですが、平安時代の前九年の役の際に、源頼義・義家親子が立ち寄って戦勝祈願したと伝わります。


マナブ:東京中にたくさんの八幡宮がありますが、その多くで同じような話が伝わっていますね。全部祈願して回るのにどれだけ時間がかかることやら。戦争に行く軍隊を率いているわけですから、兵糧の心配もあるはず。これらの話はとても信じがたい。


歴史先生:その多くは後から創作されたものじゃないかと私も思いますが、この太子堂八幡については、その横を鎌倉道が走っているので、実際にここを通った可能性は十分あります。


マナブ:あ、そうなんですか。


歴史先生:このあたりには源義家が酒宴を張って、その土器を埋めた土器塚というのもあるそうです。ただし、別当寺に残る史料によると開基は戦国時代の1592~1596年ごろとされているので、こちらが正しいのかもしれません。


マナブ:神社がいつできたのかを特定するのって、なかなか難しそうですね。


歴史先生:ところで豊臣秀吉による北条氏の小田原攻めは1590年。降伏した北条氏の家臣団の一部が世田谷に移ってきて、荒れていた太子堂八幡をあらためて整備したのがその時期ではないか、という考え方もあります。


太子堂八幡神社 本殿


太子堂八幡神社 神楽殿


歴史先生:その後、太子堂八幡は室町時代に世田谷の地を与えられた吉良氏によって保護され、発展します。このあたり一帯は江戸時代は天領あるいは彦根藩の領地になり、江戸の町に野菜を供給する地としても栄えました。


マナブ:冷蔵技術がない当時は野菜を遠くから運べないので、都市近郊の農業が盛んだったんですね。


歴史先生:はい、世田谷や板橋あたりにその名残が多く見られます。ところで、このあたりは戦時中、空襲を免れました。現在の太子堂八幡の本殿や神楽殿ですが、これらは1937年(昭和12年)に建てられたもの。戦前からある建物なんですね。


マナブ:ところでこのあたりの地名の「太子堂」というのは、どういう由来なんでしょう?


歴史先生:今回のルートから少し外れますが、ここから三宿方面に行くと円泉寺というお寺があって、そこに聖徳太子を祀ったお堂、「太子堂」があります。それがこのあたり一帯の地名になったんですね。いずれ機会があったら行ってみましょう。


烏山川緑道


マナブ:太子堂八幡からすぐの緑道に出ました。


歴史先生:ここは烏山(からすやま)川緑道と呼ばれていて、烏山川が暗渠になっています。地形図で見たときに曲がりくねった谷が形成されていましたが、その谷を作ったのがこの川です。


烏山川緑道 案内図


住宅街の奥に神社が見える


マナブ:緑道を歩いていると、右の奥に何やら素敵な神社が見えます。


歴史先生:若林稲荷神社という神社ですね。創建年不明で詳しいことはよくわかっていません。


マナブ:ここも台地の端っこ、丘の上に造られたんだな、ということだけはよくわかります。近づいてよく見ると、けっこう立派な神社です。


若林稲荷神社


マナブ:さて、大きな通りに出てきました。これは環七、かな?


歴史先生:はい、そうです。環七は言うまでもなく大変な交通量の幹線道路ですが、ここでは世田谷線と環七がどう交差しているのか、見てみましょう。


若林踏切


マナブ:あれ、環七ですから当然線路とは立体交差だと思ったんですが、なんと踏切なんですね。


歴史先生:1966年(昭和41年)まではここに遮断機があって、大きな踏切があったそうです。しかし環七の交通量がどんどん増え、踏切では渋滞になることから、信号制御方式に変更されました。


マナブ:というと、普通の車同士の交差点と同じように、電車側にも信号機がある?


歴史先生:そうなんです。普通の踏切は電車がくれば遮断機を下ろして必ず優先的に通しますが、ここは電車が来ても信号機が青になるまで、電車の方が待つという仕組みです。電車の運転手さんは車の運転と同じように、交差点に入るときに左右の安全を確認して、道路を横切ります。


マナブ:おもしろい。


歴史先生:ブラタモリの世田谷線の回でもタモリさんが実際に電車に乗って、運転席の後ろで踏切通過を見て驚いていました。


吉田松陰を祀る松陰神社はなぜ世田谷にあるの?


松陰神社



松陰神社(地図 ❹)

〒154-0023 東京都世田谷区若林4丁目35−1

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.shoinjinja.org/ 


マナブ:若林駅から5分ほど歩いて、松陰神社に来ました。ここは有名ですね。


歴史先生:はい。名前の通り、吉田松陰を祭神として祀る神社です。


マナブ:ということは比較的新しい。


歴史先生:そうですね。吉田松陰が江戸伝馬町の牢獄で亡くなったのが1859年。安政の大獄の真っただ中でした。そのお墓は幕末の1863年にこの地に改葬されて、1882年(明治15年)になってそのお墓の隣に建てられたのが松陰神社です。伊藤博文、山縣有朋、井上馨、乃木希典といった人たちが関わりました。


マナブ:その当時の建物は今もあるんですか?


歴史先生:いえ。現在の社殿は1927年(昭和2年)に建てられたもの。空襲のなかったこの地域では貴重な昭和初期の建築が残っています。


1927年(昭和2年)に建てられた神楽殿(左)と御社殿(奥)


御社殿


マナブ:吉田松陰と言えば、萩の松下村塾で高杉晋作とか、伊藤博文とか、その後の明治維新で活躍する長州の志士たちの思想に大きな影響を与えた教育者。


歴史先生:はい。そのほか有名なところでは山県有朋、久坂玄瑞なども門下生でした。


マナブ:で、安政の大獄で捉えられて、処刑されたんでしたっけ。


歴史先生:そうなんです。その経緯がちょっと変わっていて、彼の容疑は梅田雲浜(うめだ うんぴん)という、福井県の小浜藩出身の遊説家と、萩で面会したというもの。単に会っただけで、一緒に何かテロでも計画したわけでもないんです。


マナブ:梅田雲浜という人は知らなかったんですけど、その人と会っただけで捕まるなんて、よほどの危険人物と思われていたんでしょうか?


歴史先生:梅田雲浜は、井伊直弼を追い落とすために京都の朝廷から「戊午(ぼご)の密勅」というものを出させるための調整をした人でした。井伊直弼個人からすれば許しがたい人物だったわけです。安政の大獄で最初にとらえられ、獄中で病死しています。


マナブ:でも、松陰は会っただけで処刑されるなんて、行き過ぎですよね?


歴史先生:取り調べの結果、証拠不十分ということで吉田松陰は無罪になるところでした。でも、幕府の役人が「水戸や薩摩の輩が井伊大老の暗殺計画を立てているが、お前も一味ではないのか?」と聞くと「そんなのは知らん。俺だったら老中の間部詮勝(まなべ あきかつ)を斬る。そのつもりで松下村塾に弟子を集めていたんだ。」などと言ってしまいました。


マナブ:え、なぜそんなことを?


歴史先生:真相はわかりませんが、よほど取り調べの役人たちに腹を立てて、強気に出てしまったのでしょうか? 役人たちは「これは見逃せない」として、無罪が一変、死罪になってしまいました。その時彼はまだ29歳。


マナブ:若さゆえに、暴言を吐いてしまったのかも。


境内にある吉田松陰像


マナブ:境内には吉田松陰先生の像、があります。


歴史先生:これは1890年(明治23年)に大熊氏廣という彫刻家が製作した石膏像を基に、2012年(平成24年)に造られたブロンズ像です。当時、生前の吉田松陰を知っている親族などに意見を聞きながら作られたものなので、本人の感じを比較的正確に表しているものと思われます。


石灯籠


マナブ:境内にはたくさんの石灯籠があるのが印象的ですね。


歴史先生:これらの石灯籠は毛利公を始め、伊藤博文、山県有朋、井上薫、桂太郎、乃木希典など、錚々たる名前の人たちから1908年(明治41年)に寄進されたものです。


マナブ:ん? 伊藤博文ってまだその時生きていたんでしたっけ?


歴史先生:彼がハルビン駅で暗殺されたのは1909年ですから、その前年に寄進したことになります。


御社殿前を右へ行くと松下村塾がある


松下村塾


マナブ:境内には「松下村塾」、があります。でも本物は萩にありましたから、これはレプリカですよね?


歴史先生:はい、そのとおりです。1938年(昭和13年)に、資材や職人を萩から呼び寄せて、本物そっくりに作られました。には行かれたことがありますか?


マナブ:はい、でも小学生の時です。またゆっくりと行ってみたいです。


歴史先生:幕末の歴史がギュッと詰まった場所ですから、ぜひ今度行ってみましょう。


御社殿前を左に行くと松陰の墓所がある


墓所入口の鳥居


マナブ:さて、今度は吉田松陰のお墓に行きます。境内の中でも一段と木々が茂って深い森のようになっている場所です。


歴史先生:先ほど言ったように、先にこの墓所があって、その隣に神社ができたんです。


吉田松陰の墓所(奥)の周囲にはゆかりの烈士たちの墓がある


マナブ:ここにお墓ができるまではどこにあったんですか?


歴史先生:小塚原刑場にある回向院(千住小塚原回向院)です。


マナブ:それは?


歴史先生:現在の南千住駅のすぐ前の場所なんですが、1651年から幕末まで多くの処刑が行われたところです。品川区の鈴ヶ森刑場と並ぶ、江戸の2大刑場でした。


マナブ:吉田松陰はそこで処刑された?


歴史先生:いえ。伝馬町の牢獄の中で処刑されたようです。その後、小塚原の回向院に簡素な形で埋葬されました。それに納得できない門下生たちによって、この地に改葬されたんです。


吉田松陰の墓


マナブ:ではなぜこの場所になったんですか?


歴史先生:ここの丘の上は、毛利藩藩主毛利大膳大夫の別邸があったところです。そのため「大夫山」と呼ばれていました。


マナブ:なるほど、ここは毛利藩が持っていた土地、だったんですね。でも待ってください、世田谷といえば彦根藩が大きな領地を持っていたはず。吉田松陰の仇ともいえる井伊直弼の地盤ですよね?


歴史先生:そうなんです。


マナブ:少しピリピリとした空気を感じます。


松陰神社が引き寄せた元首相の墓所と大学


桂太郎墓所


歴史先生:では松陰神社を出て、西側へ少し歩きましょう。右側にすぐに見えてくるのが桂太郎の墓所です。桂太郎って、ご存じですか?


マナブ:木戸孝允の別名でしたっけ?


歴史先生:それは桂小五郎。よく似ていますけど、別の人です。


マナブ:ん? だとしたら誰だろう? 聞いたことがあるような気がするのですが。


歴史先生:桂太郎も長州藩士で、戊辰戦争に従軍。その後政治家としても頭角を現し、日清戦争で日本の領土となった台湾の総督を務めたほか、第11代、第13代、第15代と3度にわたって内閣総理大臣を務めました。


マナブ:3回も、ですか。


歴史先生:はい。日英同盟を締結し、それを背景に日露戦争に勝利した、というあたりが主な実績でしょうか。それから桂太郎は拓殖大学の創始者でもあります。


マナブ:拓殖大学ですか。


歴史先生:1900年(明治33年)に台湾を統治するために現地の言語や文化を理解した人材育成の場として、「台湾協会学校」という名称で設立されました。「豪傑を造るにあらず」という教育方針で、国際的な人材を育成してきました。


マナブ:台湾を統治する人材育成の場、ですね。


歴史先生:今でも国際交流や留学生支援に熱心なようです。大学のWebサイトを見ると、教育方針として「世界のあらゆる民族・人種との共存、ならびに相互信頼を実現する柔軟な理解力、豊かな受容力を備えた人材の育成」と書かれています。


マナブ:拓殖大学というのはそういう大学だったんですね。知りませんでした。で、その人のお墓がここにあるということは、やはり松陰先生を慕っていた?


歴史先生:そうなんです。彼は松下村塾の門下生ではないのですが、生涯吉田松陰を敬愛し、「自分が死んだら松陰先生の傍らで眠りたい」と言っていたことから、墓所がここに造られました。


マナブ:なるほど。でも境内の中の松陰先生の墓域ではなくて、ちょっと外にあるということは、自分は直接の門下生ではないので遠慮されたんでしょうかね?


歴史先生:そうだったのかもしれませんね。


国士舘大学


マナブ:さて、松陰神社のすぐお隣には国士舘大学があります。


歴史先生:ここも実は松陰神社と関係があります。


マナブ:というと?


歴史先生:国士舘大学は、1917年(大正6年)に柴田徳次郎という人が今の港区南青山に開いた「国士館」という私塾が始まりです。彼は福岡の出身で明治の生まれ。長州藩士ではありませんが、吉田松陰の思想を敬愛し、それを基に私塾を始めました。1919年(大正8年)には塾を松陰神社の隣に移転させます。こここそが教育の場にふさわしいと考えたのでしょう。


マナブ:わざわざこの場所に移転するなんて、吉田松陰への強い思い入れがあったんですね。


歴史先生:そういえば先ほどみていただいた松下村塾のレプリカ、あれは国士舘大学が学内に造ったものなんです。その後松陰神社に寄進されたんです。


マナブ:へぇー、そうだったんですか。


歴史先生:まさに吉田松陰の思想を引き継いだ学校、と言えそうです。


マナブ:国士舘大学というと、かなり保守的な右寄りのイメージがありますが。


歴史先生:「国士」を育てる学校、ということなんですね。この国士というのは何かというと、現在の国士舘大学のWebサイトにはこのように書かれています。


国を思い、世のため、人のために尽くせる人材『国士』の養成を目指す


(国士とは)深く日本の将来を考え、国の常識に基づいて、世のため、人のために尽力する紳士・淑女、即ち「誠意・勤労・見識・気魄」の四徳目の涵養に努め、如何なる威武にあっても、如何なる誘惑にあっても、智力と胆力を持って、私心を棄て公のために資する、見識ある平衡を得た常識人・人格者を言う。


マナブ:なるほど。国のため、という意識が強そうですね。先ほどの国際人材を育てる拓殖大学とはまた違った考え方ですから、同じ吉田松陰の思想を敬愛する大学でも、かなり幅がありますね。


歴史先生:それだけ明治・大正期において、吉田松陰の思想の幅の広さや、影響の範囲が大きかったということが言えるでしょう。


中世の世田谷を治めた吉良氏ゆかりの寺院群


勝国寺



勝国寺

〒154-0017 東京都世田谷区世田谷4丁目27−4

境内自由

9:00~17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://seiryuzan.jp/ 


マナブ:国士舘大学を過ぎると、右側に赤い門が見えてきました。お寺で赤い門って、珍しくないですか?


歴史先生:こちらは勝国寺です。朱塗りの山門、というのは、実はそのお寺の「由緒・格式」の高さを表しています。江戸時代などは江戸幕府の特別許可がないと、朱塗りの山門を建立することはできませんでした。


マナブ:そうなんですか。で、このお寺はどういうご由緒なんでしょう?


歴史先生:創建は戦国時代の1553年。世田谷城主の吉良氏によって建てられました。


マナブ:世田谷にお城があったんですか?


歴史先生:はい。あとからそこにも行きますが、このあたりは吉良氏が治める土地でした。勝国寺があるこのあたりは世田谷城から見て東北方向の鬼門に当たる場所。鬼門除けとして勝国寺は建立されたんです。


本堂


マナブ:建物は比較的新しそうに見えます。


歴史先生:そうなんです。ここは戦時中の空襲で焼けてしまい、貴重な堂宇を失いました。ご本尊の不動明王は無事でしたが、今の建物は戦後に建てられたものです。


薬師堂


歴史先生:このお寺で有名なのは、薬師堂に安置されている薬師如来像。小田原の北条家から吉良氏に嫁いだお姫様が大切にしていた持仏で、鎌倉~室町時代の作。目の病に霊験あらたかとされ、信仰を集めてきました。


円光院



マナブ:勝国寺から南へ5分ほど。世田谷線の世田谷駅に来ました。


歴史先生:ここの駅前には2つのお寺があります。まずは「円光院」に立ち寄りましょう。


円光院

〒154-0017 東京都世田谷区世田谷4丁目7−12

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://enkoin.otera-info.com/ 


円光院 本堂


マナブ:立派な本堂ですね。ここはどういうお寺なんですか?


歴史先生:室町時代末期の天正年間(1573~1591年)に創建された古いお寺です。このあたりを治めていた吉良氏の祈願所として建てられ、その当時は山門、本堂、閻魔十王堂、庫裡などがあったそうです。そして山門は朱塗りだったとか。


マナブ:朱塗りが許された格式高い寺、ということだったんですね。


歴史先生:しかし吉良氏が滅亡することでお寺の存続も厳しくなり、明治の廃仏毀釈・神仏分離という流れの中で廃寺も検討されたそうです。しかし吉良氏の祈願所としての歴史、そして世田谷代官の大場氏が信仰する寺として、なんとか存続させることができました。


マナブ:世田谷代官?


歴史先生:このあと、代官屋敷に行きますが、ここ世田谷で大きな役割を果たしたのが世田谷代官です。


大吉寺


マナブ:円光院のお隣も立派なお寺です。


歴史先生:こちらは大吉寺。円光院と同じく室町時代の創建で、ここも吉良氏の祈願所になりました。


大吉寺(だいきちじ)

〒154-0017 東京都世田谷区世田谷4丁目7−9

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.facebook.com/people/%E5%A4%A7%E5%90%89%E5%AF%BA/100064651481042/#


歴史先生:ところで、寺内大吉さんって、ご存じですか?


マナブ:えーっと、聞いたことがある名前。たしかテレビのスポーツ中継かなにかで解説者をしていたような・・・。


歴史先生:キックボクシング中継の解説をされていました。


マナブ:あ、思い出した。ベレー帽をかぶったおじさん。私は小学校の頃かなぁ。当時は真空飛び膝蹴りの沢村忠とか、キックボクサーが大変な人気でしたね。


歴史先生:そうです、そうです。そのベレー帽の寺内大吉さんのご実家がこちらの大吉寺。


マナブ:あっ、そうなんですね。ということは「大吉」というのはお寺の名前からとったペンネーム?


歴史先生:そうでしょうね。本名は成田有恒さん、というそうです。


マナブ:大吉の寺の内にいる人、という意味かな?


歴史先生:寺内大吉さんですが、大吉寺の住職を務める傍ら小説家としても活躍。スポーツ中継にも解説者として登場するというマルチな才能の方でした。本職のお坊さんの方では増上寺の第87代法主を務められるなど、この分野でもトップを極められました。


マナブ:すごい人だったんですね。


世田谷の歴史が感じられる世田谷代官屋敷とボロ市通り


ボロ市通り



歴史先生:世田谷駅から少し南に行くと、「ボロ市通り」があります。「世田谷代官お膝元」という表示も出ています。マナブさんはボロ市は行かれたことはありますか?


マナブ:行ったことはありませんが、すごい人出になるんですよね。テレビで見たことがあります。冬の時期でしたっけ?


歴史先生:はい、12月の15,16日。そして年が明けて1月の15,16日に開催されます。楽市が始まったころは毎月1,6,11,16,21,26日に開催されていましたが、江戸時代には年に1度、12月15日だけに開かれていました。


マナブ:年にたった1日だけですか。


歴史先生:明治になって太陽暦が採用されると、旧暦・新暦で12月と1月の2回開催されるようになり、その後毎回2日間に延長されたんです。


マナブ:ところで、なんで「ボロ市」って言うんですか? 名前のインパクトが強いですよね。自虐的な名前というか、これは謙遜してるのかな?


歴史先生:ボロというのは品質が悪いという意味ではなくて、古着の意味なんです。よって「古着市」、という感じでしょうか。古道具なども一緒に売られていたようです。ところでこのボロ市、いつごろ始まったかご存じですか?


マナブ:終戦後まもなく、とか?


歴史先生:いえいえ、なんと1578年、小田原城主の北条氏政が始めた「楽市」が今でも続いているんです。


マナブ:へぇー、戦国時代から続いてるんだ。まったく予想外の答えでした。


歴史先生:今でも骨とう品や古着などがたくさん売られています。700店以上が出店して、4日間合計で60~80万人が訪れるんだとか。世田谷線もこの日ばかりは臨時ダイヤでフル回転です。


マナブ:ものすごいことになりそうですね。


歴史先生:この楽市から続くボロ市の運営・監督には世田谷代官があたりました。


ボロ市通りにある世田谷代官屋敷


歴史先生:そうこう言っているうちに、代官屋敷が見えてきました。


マナブ:古そうな門、そして立派な母家の屋根が見えていますね。



世田谷代官屋敷(地図 ❺)

〒154-0017 東京都世田谷区世田谷1丁目29−18

入場無料

9:00~16:30、月曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.setagaya.lg.jp/02423/9013.html


表門(国指定重要文化財)


歴史先生:ボロ市通りに面した茅葺きの「表門」。江戸時代の半ば、1753年に建てられたもので、国指定重要文化財です。


マナブ:世田谷代官、というのはどういう位置づけの人なんですか?


歴史先生:江戸時代、このあたりは彦根藩の飛び地の領地だったというお話をしましたが、世田谷代官はその彦根藩の領地20カ村を統治する役目で、年貢を集めたり、治安維持、行政などをおこないました。


マナブ:なるほど。


歴史先生:ここは江戸から近かったので、江戸の彦根藩邸から物資や労働力の提供をたびたび命じられて、その手配に大忙しだった様子が当時の代官の記録に残っています。


マナブ:いつの世も中間管理職は辛いな。


主屋(国指定重要文化財)


歴史先生:中へ入って見ましょう。中央にあるのが主屋。1737年に建てられたもので、こちらも国指定重要文化財になっています。


マナブ:大きい建物ですね。屋根が立派。


歴史先生:大名領の代官屋敷としては都内で唯一残っている史跡です。ここの代官を代々務めたのが大場家。ブラタモリでもその末裔の方が出演されていました。


マナブ:世田谷をずっと治めてきたお代官様の家系ですね。


歴史先生:はい。先ほどお話ししたボロ市がずっと続いているのも、世田谷代官の大場家の人たちの貢献が大きいそうです。ところで大場家は元々は大庭景親の一族。


マナブ:あ、大庭景親というと、源頼朝が挙兵した時、石橋山で頼朝をさんざんに破った平家方の武将。


歴史先生:そうです、そのとおり。その大場氏は室町時代には足利氏の一族である名門の吉良氏の家臣となり、吉良四天王の筆頭とも言われました。


マナブ:なるほど。


歴史先生:その吉良氏ですが、1400年頃に世田谷の今の豪徳寺あたりに居を構え、それから200年余りにわたって世田谷を支配してきました。しかし戦国時代になり、小田原の北条氏が関東全域に勢力を伸ばしてくると、北条氏綱、氏康の娘を吉良氏の当主に嫁がせ、強力な婚姻関係にて北条の傘下に引き込んだんです。


マナブ:北条氏からするとそこまでして味方にしたい、有力な一族だったんですね。しかし豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏は滅亡しますよね。吉良氏はどうなったんですか?


歴史先生:吉良氏は世田谷城を捨て、千葉県へ落ち延びます。その後関東へは家康が進出。吉良氏は家康の幕臣となり、高家という高い地位と家格を与えられました。


マナブ:吉良氏というと吉良上野介が有名ですが、世田谷の吉良氏と関係があるんですか?


歴史先生:かなり遠い親戚ではあります。もともと吉良氏は足利一族から分かれた名門で、三河系や武蔵系などに分かれています。吉良上野介は三河系の吉良氏。世田谷吉良氏は武蔵系です。


主屋の内部


歴史先生:一方、吉良家が世田谷から去ったのち、その家臣であった大場家は武士から農民に身分を落としてひっそりと暮らしていました。その後、吉良家の領地だったところは江戸幕府より彦根藩の井伊家に与えられたのですが、この世田谷の地を治める代官として彦根藩から大場家に白羽の矢が立ったんです。


マナブ:なるほど。


歴史先生:さて、世田谷代官に取り立てられた大場家はその後も世襲で代官を務めます。7代目の代官が建てたのがこの代官屋敷。明治維新ごろまで、実際にこの建物が行政の中心として機能していたようです。


代官屋敷の敷地内には世田谷区立郷土資料館がある


歴史先生:代官屋敷の敷地内には世田谷区立郷土資料館があります。ここには世田谷の地形、古墳、古代の発掘品、そして中世の吉良氏、大場氏といった歴史の資料がたくさんありますので、ゆっくり見ていかれることをお勧めします。


マナブ:たしかに。気が付いたら1時間以上も滞在していました。とても充実した展示の、大満足の資料館ですね。ここはお勧めです。


代官屋敷前にある上町天祖神社はボロ市の中心的な会場になる


200年にわたって吉良氏が君臨した世田谷城


上町駅のところで世田谷線の線路は急カーブしている



マナブ:世田谷代官屋敷から今度は北へ。世田谷線のところへ戻ってきました。


歴史先生:ここは上町(かみまち)の駅。世田谷の中心的な役割を担ってきた場所です。


マナブ:先ほど見たボロ市通りとか代官屋敷とか、ありますものね。そしてここで線路が急カーブしていますね。


歴史先生:はい。三軒茶屋から下高井戸を結ぶならもっと直線的に結べばよいのですが、ここ上町を通すためにかなり大回りしています。


城山通り


歴史先生:上町駅からまっすぐ北に延びる通りが「城山通り」。


マナブ:突き当りに山が見えますね。


歴史先生:はい、あそこが世田谷城、です。


マナブ:世田谷にお城があるなんて思っていなかったので、「世田谷城」っていう響きがなんか変な感じです。


世田谷城址公園入口


歴史先生:さて、世田谷城址公園の角まで来ました。


マナブ:こんもりとした小さな丘、ですね。


歴史先生:ではここがどんな地形なのか、再び地形図を見てみましょう。



マナブ:ここは川が蛇行していて、北側の台地が舌のように南側に張り出しているところですね。


歴史先生:ということは三方を川に囲まれた小高い土地、ということになります。


マナブ:お城を作るには最適な場所。


歴史先生:そういうことになります。


マナブ:いつごろできたお城でしょう?


歴史先生:室町時代の初め頃、まだ南北朝時代と言ってもいい1366年に、吉良治家(きら はるいえ)によって築かれました。足利氏の一族である吉良治家は、初代の鎌倉公方になった足利基氏に仕え、この世田谷の地を与えられました。彼が世田谷吉良家の祖、と言われています。


マナブ:足利基氏というと?


歴史先生:足利尊氏の子、です。2代将軍足利義詮の弟、になります。


マナブ:戦国時代にたくさんお城は造られましたが、ここは南北朝時代ということで、かなり古い形態のお城、ですね?


歴史先生:はい、その通りです。


土塁や空堀が残る


歴史先生:その後、世田谷の地は200年以上にわたって吉良氏によって代々統治されました。


マナブ:先ほどの話では豊臣秀吉の小田原攻めで北条が滅びた際に、吉良氏は千葉へ落ち延びた、と。


歴史先生:そうですね。1590年の小田原攻めの後、世田谷城は廃城となり、その一生を終えています。


かつての世田谷城の範囲を示す説明看板


マナブ:この城址公園は小さな丘にすぎないのですが、お城はもう少し大きかったんでしょうか?


歴史先生:はい、こちらの看板に、当時はこれくらいの範囲だったのではないかという推定の地図があります。


マナブ:これを見ると、私たちがいる城址公園は一番南の端っこの部分。


歴史先生:そうですね。お城としては現在集合住宅になっている部分、そしてその奥にある豪徳寺の敷地もお城だったようです。豪徳寺のあたりが吉良家の屋敷で、その前の部分が防御施設かと思われます。


マナブ:そうだったんですか。かなり広い敷地ですね。


歴史先生:次はその豪徳寺に行きましょう。


代々の井伊家当主が眠る大伽藍:豪徳寺


豪徳寺参道入口



豪徳寺(地図 ❼)

〒154-0021 東京都世田谷区豪徳寺2丁目24−7

入場無料

6:00~17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://gotokuji.jp/ 


マナブ:世田谷城址公園のすぐお隣に豪徳寺があります。


歴史先生:ここ、豪徳寺の境内もさきほどの世田谷城の縄張りの一部だったとされていますが、1480年に当時の吉良家の当主であった吉良政忠によって開かれた弘徳院というお寺がその始まりです。


マナブ:1480年というと、先ほどの話では世田谷城ができたのが1366年ということでしたから、お城ができて100年ちょっと経ったころですね。


歴史先生:そうですね。吉良政忠の時代には小田原の北条家との縁組が進み、北条家臣団の一部に組み込まれていったころです。


松の木が見事な参道


マナブ:そして1590年でしたっけ、秀吉の小田原攻めで北条が滅び、吉良は千葉へのがれた。そのあと、江戸幕府ができてのち、世田谷の地は井伊家に与えられたんでしたよね。


歴史先生:そのとおりです。1633年に世田谷は井伊家2代目藩主、井伊直孝に与えられました。


マナブ:井伊直孝というと、初代の井伊直政の子。


歴史先生:はい、次男にあたります。長男が亡くなった後、井伊直政の跡を継いで2代目藩主となりました。1615年の大坂夏の陣で武功を挙げ、その後も幕府の中核にあって秀忠、家光、家綱政権を支えました。


マナブ:井伊家ですので、本領は彦根ですよね?


歴史先生:はい。井伊家に与えられた領地は彦根の28万石に加えて、知行地(飛び地)として世田谷(約2万石)、下野国佐野などがありました。井伊直孝は江戸幕府を支える役目を果たすため、特に晩年はほとんど彦根には帰らず、江戸で過ごしました。


山門


歴史先生:さて、1633年にこの地を与えられた井伊直孝は、ここにあった弘徳院を井伊家の菩提寺として整備します。


マナブ:新しい土地に来たら、まずは菩提寺を整備するんですね。


歴史先生:はい。そして豪徳寺という名前ですが、1659年に井伊直孝が亡くなった後、その法名である「久昌院殿豪徳天英大居士」にちなんで変えられました。


仏殿


歴史先生:境内の中心にあるのが「仏殿」。1677年に建立された古い建物です。中に入ることはできませんが、阿弥陀如来、釈迦如来、弥勒菩薩像などが安置されています。


マナブ:井伊直孝が亡くなった少しあとの頃ですね。


歴史先生:はい。このころ豪徳寺では大規模な伽藍整備が行われ、その中心的な建物として仏殿が建てられました。建築のデザインには当時、日本に入ってきた黄檗宗の影響を受けています。


マナブ:黄檗宗といえば隠元さん。インゲン豆を持ち込んだ中国のえらいお坊さんでしたね。


歴史先生:よく覚えていますね。私たちが長崎に行った時、中国人たちが懇願して隠元を長崎へ呼び寄せた話をしました。隠元が長崎に来たのが1654年のことでした。


マナブ:この仏殿ができたのがその20数年後。黄檗宗が日本でも流行していた時期ですね。


井伊家の江戸上屋敷にあった赤門


法堂


三重塔


歴史先生:境内には井伊家の上屋敷から移築された赤門や、昭和に建てられた法堂、平成に建てられた三重塔などがあります。


マナブ:現在でも大伽藍になっているんですね。


井伊家墓所入口にある六地蔵


歴史先生:では国史跡になっている井伊家の墓所へ行きましょう。


マナブ:ん? ここは江戸にある飛び地、ですよね? そこに歴代藩主の墓地があるんですか?


歴史先生:井伊家の本来の菩提寺は彦根市の清涼寺です。井伊直政の墓もそちらにありますが、2代目井伊直孝を始め、江戸で過ごすことの多かった一部の藩主や側室の墓が世田谷にあります。


神聖な雰囲気の広い墓域


井伊直孝の墓所


井伊直弼の墓所


マナブ:なるほど、井伊直孝、そして江戸で幕末の動乱期に大老として歴史に名を残す井伊直弼のお墓もこちらにありましたか。


豪徳寺の招き猫とあの“ゆるキャラ”の関係は?


豪徳寺の招き猫


マナブ:さて、豪徳寺といえば招き猫が有名ですね。


歴史先生:「招福殿」という建物がありますので、行ってみましょう。


招福殿



招福殿の横は奉納された招き猫でいっぱい


マナブ:うわー、すごい数の招き猫。いったいいくつあるんだろう?


歴史先生:1万体は超えているそうです。そして日々、奉納されて増えています。


マナブ:そしてここはたくさんの外国人観光客でいっぱいですね。ところで、そもそも、なんで招き猫、なんですか?


歴史先生:こんな話があります。ある日、井伊直孝が鷹狩りの帰り道、寺の前にたたずむ猫から手招きをされました。それに誘われて寺に入ると、すぐに外は雷雨に。寺の和尚とも楽しい話ができた井伊直孝はその幸運を与えてくれた猫に感謝したそうです。


マナブ:駒込の妙義神社でも招き猫の話があって、あの時は太田道灌が猫に招かれて命からがら戦場から脱出できた話でした。それに比べると、平和な感じですね。


歴史先生:そうですね、ちょっとのどかなお話でした。その後豪徳寺では幸運をもたらしてくれた猫を「招福猫児(まねきねこ)」と呼んで、お祀りするようになったんです。それがこの招福殿。中には招福観音菩薩像が置かれています。


庫裡にある受付で招き猫を販売している


販売されている招き猫


マナブ:外国人観光客が行列を作っている場所があります。あれは何だろう?


歴史先生:あそこで招き猫を売っているんです。


マナブ:あ、なるほど。見てると記念に1つ欲しくなりますね。


歴史先生:あまりの売れ行きで生産が追い付かないのでしょうか、「おひとり様1体限り」というような張り紙がされています。


彦根城とひこにゃん


歴史先生:ところで、彦根城に行ったときのこと、覚えていますか?


マナブ:もちろん、よーく覚えていますよ。


歴史先生:あそこで見たゆるキャラと言えば?


マナブ:ひこにゃん、です。


歴史先生:ではなぜ彦根城で猫なんでしょう?


マナブ:えっ、まさか?


歴史先生:そうなんです。井伊家ゆかりの豪徳寺に伝わる招き猫のお話。これがひこにゃんのルーツなんですよ。


マナブ:へぇーっ、それは知らなかった。意外なところでつながっているんですね。彦根では井伊家の話をいっぱい聞きましたが、まさか世田谷で井伊家の話をこんなに聞くとは予想していませんでした。


源義家が豪雨に足止めされた場所に建てた世田谷八幡


勝光院



歴史先生:豪徳寺を出て、次は世田谷八幡宮に行くのですが、その前に少し寄り道しましょう。


マナブ:どこへ行くのですか?


歴史先生:勝光院、というお寺です。ここは吉良家の菩提寺。


マナブ:あ、豪徳寺は井伊家の江戸の菩提寺でしたから、今度は吉良家のですか。


勝光院の山門


勝光院

〒156-0053 東京都世田谷区桜1丁目26−35


歴史先生:1335年に建てられた古刹です。吉良家がこの地に移り住む少し前からあるお寺で、吉良家はここを菩提寺にしました。


マナブ:吉良氏が千葉へ去ってから長いですが、今でも立派なお寺です。江戸幕府からも厚遇されたんでしょうか?


歴史先生:はい、そのとおりで、三十石の朱子地を幕府から与えられていました。これは旧吉良氏領地の中で最も高い格式の寺として認められたことになります。


勝光院の境内


吉良氏の墓所


歴史先生:参道の途中から左の墓地の中へ入っていくと、吉良家の墓所があります。こちらをお参りしていきましょう。


マナブ:今回の街歩きで吉良氏という存在を初めて知りました。勉強になります。


世田谷八幡宮



世田谷八幡宮(地図 ❽)

〒156-0051 東京都世田谷区宮坂1丁目26−3

境内自由

9:30~16:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://80000.or.jp/ 


マナブ:世田谷八幡宮まで歩いてきました。大きな鳥居が迎えてくれます。


歴史先生:ここも源義家ゆかりの神社です。


マナブ:ほんと、義家はあちこちに伝承を残していますね。


歴史先生:後三年の役(1083~1087年)に勝利した源義家は、その帰途、このあたりの地で大雨に会います。源義家一行は天気の回復を待ってこの地にとどまりましたが、大雨は十数日たっても収まりません。


マナブ:そんなに天気が悪いなんて、梅雨だったのかな?


歴史先生:後三年の役の最終決戦地、金沢柵が落ちたのが1087年の11月ですから、そこから戻ってくるとしても、ここを通ったのは冬だったと思われます。


マナブ:うーん、少し話の信ぴょう性が疑わしいですね。


歴史先生:それはさておき、止まない雨を見て義家は「これも日頃より崇敬する八幡大神様の思し召しであろう」として、この地に八幡宮を勧請することにしました。


マナブ:それで八幡宮がここに建てられた。


歴史先生:はい。勧請に当たっては盛大なお祭りをおこなって、相撲もとらせて奉納したそうです。その故事にちなんで今でも奉納相撲が神事として行われています。


マナブ:立派な土俵と、観客席のようなものがありますね。


土俵


本殿


歴史先生:その後はこの地に吉良氏が入ってきますが、吉良氏はここを祈願所として崇敬。社殿を建てたり、現在も社宝として残っている太刀を奉納したりしました。神職は大場氏の分家の一族が務め、祭祀が実行されてきました。


マナブ:あ、ここにもまた大場さんが登場するのですね。ところで、今でも広い境内を持つ立派な神社ですから、その後も江戸幕府に庇護されたんでしょうね。


歴史先生:はい。徳川家康は源氏系。源義家を敬いましたから、八幡宮を大切にしました。11石を朱印地として与えたそうです。


境内には厳島神社をはじめとする摂社が多く点在する


鷺草


マナブ:ここの一角で鷺草(さぎそう)が大切に育てられているようです。きれいですね。


歴史先生:鷺草は世田谷区の花に制定されているんですが、この地には「鷺草伝説」というのがあります。


マナブ:どんなお話ですか?


歴史先生:ちょっと怖いお話です。世田谷城主の吉良頼康がある日狩りをして一羽の白鷺(しらさぎ)を射止めました。しかしその足には短冊が結ばれていて、「狩人の けふはゆるさん しら鷺の しらじらし夜の 雪のあけぼの」と書かれていました。この歌に感激した吉良頼康は領内をくまなく探して、ようやくこれが奥沢城主の娘である常盤姫のものだったことを突き止めます。


マナブ:ここまでは美しいお話です。


歴史先生:それが縁で吉良頼康の側室となった常盤姫ですが、その美貌とやさしさで吉良頼康の寵愛を独占してしまいます。


マナブ:そうなると他の側室たちが嫉妬する。


歴史先生:そのとおりです。 常盤姫はその後妊娠するのですが、側室たちは常盤姫が吉良頼康のお気に入りの内海掃部(うつみ かもん)という近習と不義をはたらいたとうわさを流します。はじめは意に介していなかった吉良頼康も、あまりにも噂が消えないことでついにはそれを信じてしまいます。


マナブ:ひどいことが起きそうです。


歴史先生:吉良頼康は内海掃部の屋敷を襲って、一族を皆殺しにしてしまいます。そしてさらに常盤姫を捕縛し、殺してしまいました。


マナブ:最悪の結果だ。


歴史先生:ところが常盤姫のお腹の胎児を見ると、その胎盤に吉良家の紋章である五七の桐の模様が現れ、この子が吉良の子であることが証明されました。


マナブ:ちょっと不思議すぎる話です。


歴史先生:常盤姫も内海掃部も無実だったと知った吉良頼康は激しく後悔しますが、すでに手遅れ。世田谷城のまわりにはたくさんの白鷺が群がって鳴き、草木も血の色に染まりました。吉良頼康が祈祷をさせると、その最中にそこにいた女の体を借りてご神託があり、13人の側室たちの悪だくみをすべて明かしてしまいました。


マナブ:どうなったんでしょう?


歴史先生:13人は全員、若林にて処刑され、そこに十三塚が建てられました。そして常盤姫も懇ろに神社に祀られたそうです。


マナブ:これは本当のお話なんでしょうか?


歴史先生:話自体は江戸中期以降に書かれたものではないかと推定されていまして、おそらくは後世の作り話かと。


マナブ:だとしたら、実際に名前を使われた吉良頼康は怒っているでしょうね。


世田谷線の「招き猫電車」に乗ろう


江ノ電601号


マナブ:世田谷八幡宮からすぐの宮の坂駅に来ました。駅前に電車が飾ってあります。


歴史先生:江ノ電601号という車体ですね。


マナブ:ん? 江ノ電の車両がなぜここにあるんですか?


歴史先生:この車両は1925年(大正14年)に製造されて、玉川線や世田谷線を運行したのち、1970年(昭和45年)に江ノ電に譲渡されたものです。1990年(平成2年)に退役し、ここに飾られました。


マナブ:ところで、今回は「世田谷線」というテーマでここまで歩いてきていますが、肝心の世田谷線にまだ乗っていませんよ。


歴史先生:そうでしたね。ここから次の目的地まで、世田谷線に乗りましょう。


マナブ:いいですねー!


宮の坂駅


マナブ:あ、電車が来ました。


歴史先生:「招き猫電車」ですね!


マナブ:豪徳寺の招き猫!


歴史先生:わずか1編成しか走っていませんので、出会えたらラッキーです。


招き猫電車の吊皮


歴史先生:招き猫電車は2017年から1年だけ期間限定で運行しましたが、世田谷線50周年の記念事業として2019年に復活。現在も運行が続いています。


マナブ:楽しいのでぜひ続けてほしいですね。


招き猫電車


赤堤六所神社



マナブ:宮の坂駅から2駅目の松原駅で下車して、2分ほど歩いたところにある赤堤六所神社に来ました。


赤堤六所神社(地図 ❾)

〒156-0044 東京都世田谷区赤堤2丁目25−2 六所神社

境内自由

9:00~17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/setagaya/2950


歴史先生:ここは1584年に創建された神社です。


マナブ:戦国時代まっさかり?


歴史先生:小牧・長久手の戦いがあった年ですね。平家の末裔である服部貞胤という人が府中の大國魂神社から御分霊してもらってこちらに勧請したものです。祭神は大國魂神。


本殿


マナブ:敷地は広くないのですが、深い森に囲まれた静かな場所。神聖さを感じられました。


歴史先生:今日はここで終わりです。最後にまた世田谷線に乗って、今度は下高井戸から帰りましょう。世田谷線の旅、いかがでしたか?


マナブ:いやー、知らないことだらけ、でしたね。世田谷って高級住宅地くらいの認識でしたが、吉良家、井伊家の歴史が重なり合って、そこに吉田松陰まで加わって、複雑な歴史が地層のようになっていました。豪徳寺、松陰神社だけでなく、世田谷城とか代官屋敷とか、意外な史跡も残っている。実に歴史を楽しめる沿線でした。

​歴史好きのための観光ガイド
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