
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
表参道にある大きなお寺は信州善光寺の別院だった
岡本太郎の自宅兼アトリエで彼の人生を知る
あまり知られていない日本最大級の木像仏:長谷寺の大観音
「常盤松」の由来と立派な神殿のある國學院大學
ヘレン・ケラーが手本にした日本人:塙保己一
創建は1世紀? 古くからある渋谷氷川神社
渋谷城はここにあった。渋谷金王丸の忠節を今に伝える金王八幡宮
表参道にある大きなお寺は信州善光寺の別院だった

表参道の交差点

マナブ:表参道に来ています。今日は渋谷と南青山を歩く、ということですが、歴史スポットなんてあるんでしょうか?
歴史先生:はい、あまり知られていないかもしれませんが、いろいろな歴史のある場所なんです。では早速、表参道交差点からすぐの善光寺へ行きましょう。

善光寺 山門
善光寺(地図 ❶)
〒107-0061 東京都港区北青山3丁目5−17
境内自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://visit-minato-city.tokyo/ja-jp/places/384
マナブ:あ、ここは青山通り(国道246号線)からちらっと見えますね。通るたびに「大きなお寺があるな」と思っていました。
歴史先生:青山通りはかつての大山道。江戸城から相模の大山まで続く、大山詣ででにぎわった街道です。江戸時代、このあたりは「青山百人町」と言って徳川家の親衛隊のような位置づけだった百人組同心の家が通りの両側に並んでいたところです。そして善光寺の前には門前町ができていました。
マナブ:善光寺という名前ですが、長野の善光寺とは関係があるんでしょうか?
歴史先生:はい、善光寺の東京別院という位置づけのお寺です。

山門にある仁王像

本堂
マナブ:山門をくぐると本堂が見えます。都会のど真ん中としては広い敷地ですね。。
歴史先生:東京の善光寺は1601年の創建と言われています。
マナブ:関ケ原の翌年だ。
歴史先生:信州善光寺の第109代の住職である大蓮社光忍円誉智慶(だいれんしゃ こうにん えんよ ちけい)という人が・・・
マナブ:名前が長くて覚えられない(苦笑)。
歴史先生:(笑)徳川家康に請願して、谷中に土地をもらって建立したのが最初です。しかし1703年の大火で焼失してしまい、代わりにここ、青山の土地をもらって1705年に移転しました。
マナブ:今の建物は比較的新しそうですね。
歴史先生:幕末の1862年に焼失、1920年(大正9年)にようやく再建されましたが1945年(昭和20年)に東京大空襲で焼失しました。今の建物は1974年(昭和49年)に再建されたものです。
マナブ:災難が続きましたね。

鐘楼
歴史先生:本堂の中には信州善光寺と同じく、真っ暗な須弥壇の下をぐるっと歩く戒壇巡りがあるそうです。ところで、ここのご本尊は阿弥陀如来像なのですが、これは奈良時代、767年に奈良県の當麻寺で修業中の尼が見た信州善光寺の阿弥陀如来の姿を彫ったものだそうです。信州の善光寺と同様、絶対秘仏になっています。
マナブ:本来であれば国宝か、重文になりそうなものですね。
歴史先生:そうかもしれません。

高野長英 記念碑
歴史先生:さて、境内には高野長英(たかの ちょうえい)の記念碑があります。
マナブ:名前は聞いたことがある人なんですが、何をした人でしたっけ?
歴史先生:高野長英は幕末の蘭学者。長崎でシーボルトに弟子入りし、優れた医学や科学を身に付けます。しかしシーボルト事件であやうく捕縛されそうになり、逃亡しました。
マナブ:たしかシーボルトが帰国する際にご禁制の日本地図を持ち帰ろうとしたという事件でしたっけ? 長崎に行ったときに聞きました。
歴史先生:はい、そうです。その後、江戸で町医者をするかたわら、蘭学塾を開いていました。1837年、異国船打払い令に基づいてアメリカのモリソン号を砲撃したことについて幕府を強く批判。1839年の蛮社の獄で逮捕され、終身刑が言い渡されます。
マナブ:蛮社の獄、というのがあったんですね。安政の大獄よりまだ前かな?
歴史先生:安政の大獄は1858~1859年ですから、蛮社の獄はその約20年前です。しかも蛮社の獄は「攘夷に反対する人を捕えた」もの、安政の大獄は「開国に反対する人を捕えた」もので、正反対の性格を帯びています。
マナブ:1853年の黒船来航で、ずいぶん幕府の姿勢も変わりましたね。
歴史先生:そのとおりです。さて、高野長英ですが、終身刑を受けて伝馬町の牢屋敷に入っていました。しかしそこが火事になり、一時的に放免されましたが二度と戻って来ませんでした。噂では高野長英が牢で働いていた人をそそのかして放火させたとか。
マナブ:なるほど、江戸時代はそうやって脱獄ができたんですか。
歴史先生:逃亡したのちも、彼は江戸で町医者をしていました。しかし江戸市中に人相書きが出回っていましたから、彼は硝酸で焼いて顔をわからなくしていたようです。
マナブ:うわ、そこまでしていたんだ。
歴史先生:そしてこのあたり、青山百人町に住んでいたのですが、最後は密告されて役人が押し かけ、追い詰められて自害しました。
マナブ:開明的な人だったのに、惜しいことをしました。
歴史先生:彼の死後、勝海舟が高野長英を惜しんで残したのがこの記念碑、なんです。
マナブ:そうでしたか。
岡本太郎の自宅兼アトリエで彼の人生を知る

表参道交差点から根津美術館方面へ

マナブ:表参道交差点に戻り、今度は東側へ進みます。表参道の延長のような通りで、左右に高級ブランド店やおしゃれな建物が並ぶ通りです。
歴史先生:ここをまっすぐ行くと根津美術館です。そこを右折しましょう。

根津美術館

ブルーノート東京
歴史先生:有名なジャズクラブ、「ブルーノート東京」が左に見えてきたら、路地を 右折します。

岡本太郎 記念館
岡本太郎 記念館(地図 ❷)
〒107-0062 東京都港区南青山6丁目1−19
入館料650円
10:00~18:00、火曜休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
マナブ:静かな住宅地の中に岡本太郎記念館があります。入って見ましょう。

エントランスホールには岡本太郎の歩みが書かれている
マナブ:ここは岡本太郎とどういう関係の場所なんですか?
歴史先生:1954年(昭和29年)に彼はここにアトリエを開き、住居を兼ねました。1911年(明治44年)の生まれ ですから40歳くらいの時ですね。
マナブ:子供のころ、よくテレビに出てました。「芸術は爆発だー!」っていう変わったおじさん、というイメージだったんですが、実際にはどういう人だったんでしょう?


館内には岡本太郎の作品がたくさん並ぶ
歴史先生:お父さんは岡本一平という、朝日新聞に漫画を描いていた超有名人でした。お母さんは岡本かの子という歌人で、愛人を一緒に住まわせるなど奔放な暮らしぶりだったようです。
マナブ:そのあたりからして普通の家庭環境とは違いそうですね。
歴史先生:絵が上手だった太郎は東京美術学校(今の東京芸大の前身)に進学しますが、「何のために絵を描くのか?」ということでずっと悩んでいました。
マナブ:絵が好きだから描く、ではないんですね。そこに「何のために・・・」と考えるのが、普通の人とは違うんだと思います。

彼の作品をモチーフにしたお土産が買えるミュージアムショップも楽しい
歴史先生:そして1929年(昭和4年)、お父さんが朝日新聞の特派員として欧州に取材に行く時、学校を休学して一緒に渡欧しました。その後約10年間、パリに滞在し、語学や哲学、民俗学などを学びます。そして運命の出会いが訪れます。
マナブ:ん? 何でしょう?
歴史先生:1932年、たまたま立ち寄った画廊でパブロ・ピカソの抽象画作品を目にして衝撃を受けます。そして彼は「ピカソを超える」という目標を立てて、絵に打ち込むようになったんです。岡本太郎はのちに「この様式こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だったのだ」と述べています。
マナブ:絵の世界もなんとか派、というようなグループがあってそれぞれに伝統がありますよね。彼はそういったものすべてを越える、新しい芸術としてピカソを見たのかもしれませんね。
歴史先生:しかしパリにも戦争が影を落とします。1940年(昭和15年)、ドイツ軍がパリへ侵攻し、彼は日本へ帰国しました。そして帰国すると徴兵され、中国戦線へ送られます。戦後半年ほど中国で捕虜になり、苦労の末、ようやく帰国することができました。
マナブ:戦争の数年間、彼もまたつらい時期をすごした一人なんですね。

なつかしい近鉄バッファローズのマークも彼の作品
歴史先生:さて、帰国後、さっそく彼がやりたかった新しい絵画に打ち込み始めます。そんな中、1951年(昭和26年)に東京国立博物館で見た縄文火焔土器に衝撃を受け、彼が発表した論文は縄文土器こそ日本美術の始まりとして注目を集めます。
マナブ:あ、たしかに彼の作品と通じるものがありますね。
歴史先生:1964年(昭和39年)の東京オリンピックではメダルの表側のデザインを担当する等、日本を代表する現代芸術家としての地位を確立していきました。

太陽の塔
歴史先生:そして1970年(昭和45年)、彼の名前を一躍全国区にしたのが万博での太陽の塔。
マナブ:これはとても印象深い、インパクトある作品でしたね。

渋谷駅に飾られている「明日の神話」
歴史先生:ほぼ同時期に作られた「明日の神話」は、今では渋谷駅のマークシティ入口あたりに飾られています。
マナブ:あそこはよく通ります。有名な作品が無料で、あんな場所で見られるなんてすごいな、と思いました。

庭にも彼の作品が所狭しと置かれている

犬の植木鉢がかわいい
歴史先生:その後はテレビのバラエティ番組などに出演し、人気者となります。1996年(平成8年)、84歳で亡くなりました。
マナブ:そうでしたか。
歴史先生:亡くなった時に彼は作品の多くを生まれ故郷(彼は川崎市高津区二子の出身)の川崎市に寄付したことから、川崎市の生田緑地には岡本太郎美術館が開館しています。
マナブ:知りませんでした。そちらもいつか行ってみたいです。
あまり知られていない日本最大級の木像仏:長谷寺の大観音

高樹町交差点

マナブ:岡本太郎記念館を出て、骨董通りを東へ行くと、高速が上を走る六本木通りに交わります。
歴史先生:ここが高樹町交差点。
マナブ:あ、ここは富士フイルムの西麻布本社のところだ。商談で何度か来たことがあります。
歴史先生:たしか富士フィルムは六本木の東京ミッドタウンとここの2つのビルに本社が分かれているんですよね。
マナブ:はい。ところで余談ですが、富士フイルムさんとお仕事上お付き合いするときに気を付けたほうがいいのが社名表記。「フィルム」じゃなくて「フイルム」なんです。
歴史先生:あ、気が付きませんでした。
マナブ:よく似ている話がキヤノンさんとキユーピーさんで、「キャノン」じゃなくて「キヤノン」、「キューピー」じゃなくて「キユーピー」なんです。
歴史先生:そうだったんですか。なぜなんでしょう?
マナブ:文字の美観とも言われますが、一部の銀行ではその昔、口座名にカタカナの小文字が使えなかったというのがどうやら本当の理由じゃないかと思います。

長谷寺 山門
マナブ:高樹町交差点を左折すると、大きなお寺が見えてきました。長谷寺(はせでら)と書かれていますね?
歴史先生:ここは長谷寺(ちょうこくじ)、と読みます。
マナブ:永平寺の東京別院、と書かれていますので、ここはここは曹洞宗のお寺。
歴史先生:そのとおりです。
長谷寺(地図 ❸)
〒106-0031 東京都港区西麻布2丁目21−34
6:00~18:00(観音堂は17:00まで)、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

山門をくぐるとすぐ右側に観音堂、正面奥に法堂がある
歴史先生:ところで、このお寺が長谷寺と呼ばれるのは、奈良の長谷寺とも関係があります。
マナブ:ん? 永平寺の別院なのに?
歴史先生:はい。実はここには元々、創建がいつだかわからない古い観音堂があって、奈良の長谷寺の観音様と同じ木から彫られたという観音像が祀られていたんです。徳川家康入府ののち、この観音堂を基に開かれたのが長谷寺です。
マナブ:そういう歴史でしたか。
歴史先生:そして江戸時代の半ば、1716年には高さ8mほどの大観音像が製作され、奈良、鎌倉の長谷寺と共に、日本三大長谷観音として信仰を集めました。
マナブ:長谷寺と言えば、大観音像ですものね。それは見れるんですか?
歴史先生:いえ、1945年(昭和20年)の東京大空襲で失われました。
マナブ:あぁ、まただ。本当にいろんなものが失われています。
歴史先生:でも1977年(昭和52年)、永平寺からの支援によってそれは再び製作され、今日それを見ることができます。
マナブ:えっ、そうなんですか?

観音堂
歴史先生:右側の観音堂に入って見ましょう。ドアが閉まっていますが、ここは開けて入って大丈夫です。外から見ると2階建て。でも内部は吹き抜けになっていますから、相当な天井高だと思ってください。

麻布大観音
マナブ:あぁ、これはすごい・・・・。しばし言葉が出ません。

麻布大観音
歴史先生:よく見ていただくと、右手には数珠をかけた錫杖、左手には蓮華の瓶を持ち、右足を半歩踏み出しているのは長谷寺の観音様の特徴です。
マナブ:相当に大きいですが、高さどれくらいあるんでしょう?
