
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
表参道にある大きなお寺は信州善光寺の別院だった
岡本太郎の自宅兼アトリエで彼の人生を知る
あまり知られていない日本最大級の木像仏:長谷寺の大観音
「常盤松」の由来と立派な神殿のある國學院大學
ヘレン・ケラーが手本にした日本人:塙保己一
創建は1世紀? 古くからある渋谷氷川神社
渋谷城はここにあった。渋谷金王丸の忠節を今に伝える金王八幡宮
表参道にある大きなお寺は信州善光寺の別院だった

表参道の交差点

マナブ:表参道に来ています。今日は渋谷と南青山を歩く、ということですが、歴史スポットなんてあるんでしょうか?
歴史先生:はい、あまり知られていないかもしれませんが、いろいろな歴史のある場所なんです。では早速、表参道交差点からすぐの善光寺へ行きましょう。

善光寺 山門
善光寺(地図 ❶)
〒107-0061 東京都港区北青山3丁目5−17
境内自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://visit-minato-city.tokyo/ja-jp/places/384
マナブ:あ、ここは青山通り(国道246号線)からちらっと見えますね。通るたびに「大きなお寺があるな」と思っていました。
歴史先生:青山通りはかつての大山道。江戸城から相模の大山まで続く、大山詣ででにぎわった街道です。江戸時代、このあたりは「青山百人町」と言って徳川家の親衛隊のような位置づけだった百人組同心の家が通りの両側に並んでいたところです。そして善光寺の前には門前町ができていました。
マナブ:善光寺という名前ですが、長野の善光 寺とは関係があるんでしょうか?
歴史先生:はい、善光寺の東京別院という位置づけのお寺です。

山門にある仁王像

本堂
マナブ:山門をくぐると本堂が見えます。都会のど真ん中としては広い敷地ですね。。
歴史先生:東京の善光寺は1601年の創建と言われています。
マナブ:関ケ原の翌年だ。
歴史先生:信州善光寺の第109代の住職である大蓮社光忍円誉智慶(だいれんしゃ こうにん えんよ ちけい)という人が・・・
マナブ:名前が長くて覚えられない(苦笑)。
歴史先生:(笑)徳川家康に請願して、谷中に土地をもらって建立したのが最初です。しかし1703年の大火で焼失してしまい、代わりにここ、青山の土地をもらって1705年に移転しました。
マナブ:今の建物は比較的新しそうですね。
歴史先生:幕末の1862年に焼失、1920年(大正9年)にようやく再建されましたが1945年(昭和20年)に東京大空襲で焼失しました。今の建物は1974年(昭和49年)に再建されたものです。
マナブ:災難が続きましたね。

鐘楼
歴史先生:本堂の中には信州善光寺と同じく、真っ暗な須弥壇の下をぐるっと歩く戒壇巡りがあるそうです。ところで、ここのご本尊は阿弥陀如来像なのですが、これは奈良時代、767年に奈良県の當麻寺で修業中の尼が見た信州善光寺の阿弥陀如来の姿を彫ったものだそうです。信州の善光寺と同様、絶対秘仏になっています。
マナブ:本来であれば国宝か、重文になりそうなものですね。
歴史先生:そうかもしれません。

高野長英 記念碑
歴史先生:さて、境内には高野長英(たかの ちょうえい)の記念碑があります。
マナブ:名前は聞いたことがある人なんですが、何をした人でしたっけ?
歴史先生:高野長英は幕末の蘭学者。長崎でシーボルトに弟子入りし、優れた医学や科学を身に付けます。しかしシーボルト事件であやうく捕縛されそうになり、逃亡しました。
マナブ:たしかシーボルトが帰国する際にご禁制の日本地図を持ち帰ろうとしたという事件でしたっけ? 長崎に行ったときに聞きました。
歴史先生:はい、そうです。その後、江戸で町医者をするかたわら、蘭学塾を開いていました。1837年、異国船打払い令に基づいてアメリカのモリソン号を砲撃したことについて幕府を強く批判。1839年の蛮社の獄で逮捕され、終身刑が言い渡されます。
マナブ:蛮社の獄、というのがあったんですね。安政の大獄よりまだ前かな?
歴史先生:安政の大獄は1858~1859年ですから、蛮社の獄はその約20年前です。しかも蛮社の獄は「攘夷に反対する人を捕えた」もの、安政の大獄は「開国に反対する人を捕えた」もので、正反対の性格を帯びています。
マナブ:1853年の黒船来航で、ずいぶん幕府の姿勢も変わりましたね。
歴史先生:そのとおりです。さて、高野長英ですが、終身刑を受けて伝馬町の牢屋敷に入っていました。しかしそこが火事になり、一時的に放免されましたが二度と戻って来ませんでした。噂では高野長英が牢で働いていた人をそそのかして放火させたとか。
マナブ:なるほど、江戸時代はそうやって脱獄ができたんですか。
歴史先生:逃亡したのちも、彼は江戸で町医者をしていました。しかし江戸市中に人相書きが出回っていましたから、彼は硝酸で焼いて顔をわからなくしていたようです。
マナブ:うわ、そこまでしていたんだ。
歴史先生:そしてこのあたり、青山百人町に住んでいたのですが、最後は密告されて役人が押しかけ、追い詰められて自害しました。
マナブ:開明的な人だったのに、惜しいことをしました。
歴史先生:彼の死後、勝海舟が高野長英を惜しんで残したのがこの記念碑、なんです。
マナブ:そうでしたか。
岡本太郎の自宅兼アトリエで彼の人生を知る

表参道交差点から根津美術館方面へ

マナブ:表参道交差点に戻り、今度は東側へ進みます。表参道の延長のような通りで、左右に高級ブランド店やおしゃれな建物が並ぶ通りです。
歴史先生:ここをまっすぐ行くと根津美術館です。そこを右折しましょう。

根津美術館

ブルーノート東京
歴史先生:有名なジャズクラブ、「ブルーノート 東京」が左に見えてきたら、路地を右折します。

岡本太郎 記念館
岡本太郎 記念館(地図 ❷)
〒107-0062 東京都港区南青山6丁目1−19
入館料650円
10:00~18:00、火曜休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
マナブ:静かな住宅地の中に岡本太郎記念館があります。入って見ましょう。

エントランスホールには岡本太郎の歩みが書かれている
マナブ:ここは岡本太郎とどういう関係の場所なんですか?
歴史先生:1954年(昭和29年)に彼はここにアトリエを開き、住居を兼ね ました。1911年(明治44年)の生まれですから40歳くらいの時ですね。
マナブ:子供のころ、よくテレビに出てました。「芸術は爆発だー!」っていう変わったおじさん、というイメージだったんですが、実際にはどういう人だったんでしょう?


館内には岡本太郎の作品がたくさん並ぶ
歴史先生:お父さんは岡本一平という、朝日新聞に漫画を描いていた超有名人でした。お母さんは岡本かの子という歌人で、愛人を一緒に住まわせるなど奔放な暮らしぶりだったようです。
マナブ:そのあたりからして普通の家庭環境とは違いそうですね。
歴史先生:絵が上手だった太郎は東京美術学校(今の東京芸大の前身)に進学しますが、「何のために絵を描くのか?」ということでずっと悩んでいました。
マナブ:絵が好きだから描く、ではないんですね。そこに「何のために・・・」と考えるのが、普通の人とは違うんだと思います。

彼の作品をモチーフにしたお土産が買えるミュージアムショップも楽しい
歴史先生:そして1929年(昭和4年)、お父さんが朝日新聞の特派員として欧州に取材に行く時、学校を休学して一緒に渡欧しました。その後約10年間、パリに滞在し、語学や哲学、民俗学などを学びます。そして運命の出会いが訪れます。
マナブ:ん? 何でしょう?
歴史先生:1932年、たまたま立ち寄った画廊でパブロ・ピカソの抽象画作品を目にして衝撃を受けます。そして彼は「ピカソを超える」という目標を立てて、絵に打ち込むようになったんです。岡本太郎はのちに「この様式こそ伝統や民族、国境の障壁を突破できる真に世界的な二十世紀の芸術様式だったのだ」と述べています。
マナブ:絵の世界もなんとか派、というようなグループがあってそれぞれに伝統がありますよね。彼はそういったものすべてを越える、新しい芸術としてピカソを見たのかもしれませんね。
歴史先生:しかしパリにも戦争が影を落とします。1940年(昭和15年)、ドイツ軍がパリへ侵攻し、彼は日本へ帰国しました。そして帰国すると徴兵され、中国戦線へ送られます。戦後半年ほど中国で捕虜になり、苦労の末、ようやく帰国することができました。
マナブ:戦争の数年間、彼もまたつらい時期をすごした一人なんですね。

なつかしい近鉄バッファローズのマークも彼の作品
歴史先生:さて、帰国後、さっそく彼がやりたかった新しい絵画に打ち込み始めます。そんな中、1951年(昭和26年)に東京国立博物館で見た縄文火焔土器に衝撃を受け、彼が発表した論文は縄文土器こそ日本美術の始まりとして注目を集めます。
マナブ:あ、たしかに彼の作品と通じるものがありますね。
歴史先生:1964年(昭和39年)の東京オリンピックではメダルの表側のデザインを担当する等、日本を代表する現代芸術家としての地 位を確立していきました。

太陽の塔
歴史先生:そして1970年(昭和45年)、彼の名前を一躍全国区にしたのが万博での太陽の塔。
マナブ:これはとても印象深い、インパクトある作品でしたね。

渋谷駅に飾られている「明日の神話」
歴史先生:ほぼ同時期に作られた「明日の神話」は、今では渋谷駅のマークシティ入口あたりに飾られています。
マナブ:あそこはよく通ります。有名な作品が無料で、あんな場所で見られるなんてすごいな、と思いました。

庭にも彼の作品が所狭しと置かれている

犬の植木鉢がかわいい
歴史先生:その後はテレビのバラエティ番組などに出演し、人気者となります。1996年(平成8年)、84歳で亡くなりました。
マナブ:そうでしたか。
歴史先生:亡くなった時に彼は作品の多くを生まれ故郷(彼は川崎市高津区二子の出身)の川崎市に寄付したことから、川崎市の生田緑地には岡本太郎美術館が開館しています。
マナブ:知りませんでした。そちらもいつか行ってみたいです。
あまり知られていない日本最大級の木像仏:長谷寺の大観音

高樹町交差点

マナブ: 岡本太郎記念館を出て、骨董通りを東へ行くと、高速が上を走る六本木通りに交わります。
歴史先生:ここが高樹町交差点。
マナブ:あ、ここは富士フイルムの西麻布本社のところだ。商談で何度か来たことがあります。
歴史先生:たしか富士フィルムは六本木の東京ミッドタウンとここの2つのビルに本社が分かれているんですよね。
マナブ:はい。ところで余談ですが、富士フイルムさんとお仕事上お付き合いするときに気を付けたほうがいいのが社名表記。「フィルム」じゃなくて「フイルム」なんです。
歴史先生:あ、気が付きませんでした。
マナブ:よく似ている話がキヤノンさんとキユーピーさんで、「キャノン」じゃなくて「キヤノン」、「キューピー」じゃなくて「キユーピー」なんです。
歴史先生:そうだったんですか。なぜなんでしょう?
マナブ:文字の美観とも言われますが、一部の銀行ではその昔、口座名にカタカナの小文字が使えなかったというのがどうやら本当の理由じゃないかと思います。

長谷寺 山門
マナブ:高樹町交差点を左折すると、大きなお寺が見えてきました。長谷寺(はせでら)と書かれていますね?
歴史先生:ここは長谷寺(ちょうこくじ)、と読みます。
マナブ:永平寺の東京別院、と書かれていますので、ここはここは曹洞宗のお寺。
歴史先生:そのとおりです。
長谷寺(地図 ❸)
〒106-0031 東京都港区西麻布2丁目21−34
6:00~18:00(観音堂は17:00まで)、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

山門をくぐるとすぐ右側に観音堂、正面奥に法堂がある
歴史先生:ところで、このお寺が長谷寺と呼ばれるのは、奈良の長谷寺とも関係があります。
マナブ:ん? 永平寺の別院なのに?
歴史先生:はい。実はここには元々、創建がいつだかわからない古い観音堂があって、奈良の長谷寺の観音様と同じ木から彫られたという観音像が祀られていたんです。徳川家康入府ののち、この観音堂を基に開かれたのが長谷寺です。
マナブ:そういう歴史でしたか。
歴史先生:そして江戸時代の半ば、1716年には高さ8mほどの大観音像が製作され、奈良、鎌倉の長谷寺と共に、日本三大長谷観音として信仰を集めました。
マナブ:長谷寺と言えば、大観音像ですものね。それは見れるんですか?
歴史先生:いえ、1945年(昭和20年)の東京大空襲で失われました。
マナブ:あぁ、まただ。本当にいろんなものが失われています。
歴史先生:でも1977年(昭和52年)、永平寺からの支援によってそれは再び製作され、今日それを見ることができます。
マナブ:えっ、そうなんですか?

観音堂
歴史先生:右側の観音堂に入って見ましょう。ドアが閉まっていますが、ここは開けて入って大丈夫です。外から見ると2階建て。でも内部は吹き抜けになっていますから、相当な天井高だと思ってください。

麻布大観音
マナブ:あぁ、これはすごい・・・・。しばし言葉が出ません。

麻布大観音
歴史先生:よく見ていただくと、右手には数珠をかけた錫杖、左手には蓮華の瓶を持ち、右足を半歩踏み出しているのは長谷寺の観音様の特徴です。
マナブ:相当に大きいですが、高さどれくらいあるんでしょう?
歴史先生:高さは約10mです。
マナブ:奈良の長谷寺は?
歴史先生:10m強くらい。
マナブ:同じくらいなんですね。そういえば鎌倉の長谷寺の観音様も大きかった。あれは?
歴史先生:9mちょっとです。
マナブ:いずれも同じくらいなんだ。

御顔は香淳皇后がモデル
マナブ:おだやかないいお顔をされていますね。
歴史先生:こちらのモデルは香淳皇后なんだそうです。
マナブ:香淳皇后、というと・・・
歴史先生:昭和天皇のお后、ですね。
マナブ:そう言われてみればそんな気もします。ところで、これだけの大きな仏像の場合、普通は周りにたくさんの観光客がいて、にぎやかです。でも今、観音堂の中にいるのは私たちだけ。静寂の中で、心を落ち着けて観音様と向き合えています。
歴史先生:たしかに、それは大きな違いですね。
マナブ:観音様を独占している贅沢。そんな感じでしょうか。

法堂
歴史先生:では観音堂を出て、境内を歩いてみましょう。奥にあるのが法堂(はっとう)。
マナブ:はっとう?
歴史先生:曹洞宗では本尊を安置する「仏殿」、住職が説法をおこなったり法要を行う「法堂」が、伽藍の中心です。

僧堂
歴史先生:法堂に向かって左となりにあるのが僧堂。
マナブ:山門に「専門僧堂」と書かれていましたが?
歴史先生:はい、ここは曹洞宗から認められている修行僧の教育機関なんです。約30名の修行僧と約10名の指導役がここに住んで、日々修行をおこなっています。
マナブ:そういうところって数少ないんでしょうか?
歴史先生:全国で曹洞宗の専門僧堂は永平寺、総持寺の両本山のほか、27カ所 あるそうです。
マナブ:あ、意外とたくさんあるんですね。
「常盤松」の由来と立派な神殿のある國學院大學

南青山7丁目から恵比寿へ向かう道

マナブ:六本木通りに戻り、南青山7丁目の交差点で横断歩道を渡り、南へと歩いています。このあたり、下り坂ですがまたすぐ上り坂になります。
歴史先生:一番下ったところを右斜めに曲がって進みます。
マナブ:右側にとてつもなく大きなお屋敷がありますね。表札が出ていないけど、大富豪かな? あれ、「皇宮警察」って書いてある。
歴史先生:はい、ここは常盤松御用邸です。
マナブ:聞いたことがない御用邸ですが、どなたのおうちですか?
歴史先生:常陸宮家のお住まいです。
マナブ:ということは・・・
歴 史先生:昭和天皇の次男。上皇様の弟にあたる方です。
マナブ:こんな広い土地ですから、元々はここも大名屋敷?
歴史先生:薩摩藩の下屋敷でした。将軍家に輿入れする前に天璋院篤姫もここにしばらく滞在したとか。

常盤松の碑
歴史先生:ところで、常盤松という名前ですが、薩摩藩下屋敷にあったみごとな松の木のことで、「千両の価値がある」と言われていました。
マナブ:樹齢の古い木だったんですか?
歴史先生:一説には樹齢400年、源義朝の妾の常盤が手植えしたと伝わりますが、世田谷城主の吉良頼康の妾の常盤のことだという説もあり、はっきりとはわかっていません。
マナブ:今はちっちゃな松が碑のとなりに植わっていますが、これではないですよね?
歴史先生:はい。常盤松はとても大切にされてきましたが明治時代に枯れてしまい、その後空襲で焼けてしまいました。

白松
歴史先生:常盤松の碑のお向かいに「白松(シロマツ または ハクショウ)」があります。
マナブ:あまり見かけない松ですね。
歴史先生:中国原産の松で、樹皮が剥がれ落ちて白くなるのが特徴。日本ではほとんど売られていないようですよ。

歴史先生:さて、このあたりは國學院大學を中心とする文教地区。
マナブ:このあたりは初めてきました。
歴史先生:國學院大學にちらっとだけ立ち寄りましょう。

國學院大學

キャンパス内にある神殿
マナブ:あれ、神社がある。
歴史先生:國學院大學の中には「神殿」と呼ばれる施設があります。
マナブ:キリスト教系の大学内に教会があるのと同じですね。たしか國學院というと、神道の大学だったかと。
歴史先生:1890年(明治22年)に神職を育成する教育機関として始まった大学です。国学、すなわち伝 統的な日本のよりどころを研究する場、として設けられました。
マナブ:「國學院」という古い字体を使うんですね。
歴史先生:大学側としては技術的に可能な限り旧字体で表記をしているようです。ですので私たちもそれに倣うことにしましょう。
ヘレン・ケラーが手本にした日本人:塙保己一

塙保己一 史料館

塙保己一 史料館(地図 ❹)
〒150-0011 東京都渋谷区東2丁目9−1
入館料 100円、中学生以下無料
9:00~17:00(月~金)、土日祝は要問合せ
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
歴史先生:國學院大學のすぐそばに塙保己一(はなわ ほきいち)史料館があります。
マナブ:古い建物のように見えますが・・・
歴史先生:1927年(昭和2年)にできた建物です。当時は珍しい鉄筋コンクリート造で、現在は登録有形文化財になっています。ところでマナブさん、塙保己一をご存じですか?
マナブ:いえ、恥ずかしながら、名前を聞いた記憶すらありません。

史料館前にある塙保己一像(1938年(昭和13年)寄贈)
歴史先生:これだけすごい人なのに、とても知名度が低い。そのギャップのもっとも激しい歴史上の人物の一人ではないかと私は思っています。
マナブ:何をした人なんでしょう?
歴史先生:江戸時代中頃の1746年、今の埼玉県に生まれた人です。7歳の時に病気にかかり、目が見えなくなってしまいました。当時、盲目の人ができることといえば按摩、楽器などでしたが、いずれも上手にならず、死にたいとも思ったそうですが、その一方でそれらの教科書を全て暗記するという才能を見せ、学問を志すことにしました。
マナブ:記憶力がずば抜けてよかったんですか?
歴史先生:保己一の記憶力は超人的でした。生涯で6万冊の本を門人から読んでもらい、そ れらを全て記憶していたのだとか。当時、いろいろな学者が「あの件はどの本に書いてありましたか?」などと保己一の元を訪ねることもしばしばあったんだそうです。
マナブ:今でいえばGoogle検索エンジンみたいな人ですね。
歴史先生:そうかもしれません(笑)。そしてその6万冊の中から本当に後世に残したい価値のある本1,300冊を厳選。それらをいつでも印刷できるよう、版木を制作したんです。
マナブ:なるほど。
歴史先生:その版木は「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」と呼ばれます。版木自体は国指定重要文化財になっているんですよ。
マナブ:国としてもその 価値を認めたわけですね。
歴史先生:昔からの貴重な書物がそこに残っている。中には原書が失われたものもあって、群書類従によってのみ、その内容がわかるものもたくさんあるそうです。
マナブ:でも江戸時代ですよね。版木を作ると言っても機械ではできないから、手彫り、ですか?
歴史先生:そうなんです。あとで実物を見てください。
マナブ:ということで私たちは史料館の中へ入りました。担当の方が出てこられて、丁寧に説明をしていただきました。

群書類従の版木 (国指定重要文化財)
歴史先生:そして国指定重要文化財の版木を見せていただきました。その数1万7000枚。両面に彫られているので印刷物は3万4000ページにもなります。
マナブ:すごい量でしたね。しかもよく見ると実に丁寧な手彫り。これは大変な作業だったでしょう。
歴史先生:まずは6万冊の本を集めるところから。大富豪でもなく、さらに盲目というハンデをもった保己一がそれを成し遂げるには、多くの人の支援が必要でした。
マナブ:そして厳選した本から版木を起こすのに40年もかかったとか。
歴史先生:彼が34歳の時から版木の制作が始まって、完成したのが74歳の時。彼はその2年後に亡くなっています。
マナブ:まさにライフワーク。
歴史先生:費用も相当なもので、今の価値で4~5億円はかかったようです。その借金は次の代でなんとか返せたらしいですが。そして幕末から明治にかけて版木は一時期行方不明になっていましたが明治になって発見され、その保管庫を建てる場所として、渋沢栄一の勧めもあり、渋谷の地が選ばれました。
マナブ:それにしてもよく今まで残っていたものです。東京大空襲では大丈夫だったんでしょうか?
歴史先生:付近は焼け野原になりましたが、この建物は必死の消火活動もあって、建物も、群書類従も無事だったそうです。

1932年(昭和7年)に寄贈された塙保己一像
歴史先生:ところで、ヘレン・ケラーをご存じですか?
マナブ:はい、もちろん。視覚、聴覚、そして話すことも難しかった三重苦を乗り越えて活躍された方ですよね?
歴史先生:そのヘレン・ケラーが小さいころ母親から「日本に塙保己一という立派な方がいます。あなたはその人を手本にしなさい。」と言われていたそうです。
マナブ:うっ、外国の人が知っているのに、自分が知らなかったことが恥ずかしい。
歴史先生:ヘレン:ケラーはアメリカ人。1880年の生まれですから、塙保己一から100年以上後の人です。その彼女が1937年(昭和12年)にこの場所を訪れました。
マナブ:この場所に来たんですか。
歴史先生:はい。そして群書類従の説明を受け、ここにある塙保己一像に触れたんです。
マナブ:おー、これがそうですか。
歴史先生:彼女は少し首を傾けている塙保己一像の敬虔な姿を手で感じ、日本に来て一番感動したと語ったそうです。
マナブ:塙保己一さん。覚えました。いや、これはすごいことを成し遂げた記憶力の天才であり、また人並外れた努力家ですね。日本の代表的な偉人として多くの人が知るべきです。今日は勉強になりました。
創建は1世紀? 古くからある渋谷氷川神社

渋谷氷川神社 参道

渋谷氷川神社(地図 ❺)
〒150-0011 東京都渋谷区東2丁目5−6
境内自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
http://www.tokyo-jinjacho.or.jp/shibuya/3272
マナブ:塙保己一史料館から少し戻ると、渋谷氷川神社があります。東京には氷川神社が多いですね。
歴史先生:はい、大宮の氷川神社に行ったときにそういう話をしましたよね。ところでここ渋谷氷川神社はいつごろできたか想像できますか?
マナブ:うーん、難しいな。それを聞かれるということはとても古いんでしょうね。たとえば飛鳥時代、とか?
歴史先生:社伝によると、景行天皇の御代。
マナブ:というと?
歴史先生:1世紀、です。
マナブ:いやいや、それはさすがに古すぎる。
歴史先生:この人はヤマトタケルのお父さんとして有名ですが、ヤマトタケルが東征する際にここに立ち寄り、スサノオを勧請したのが神社の始まりだということです。
マナブ:そうだとしたら本当に古いですね。

参道は渋谷川の流れる谷から丘を登る
歴史先生:この場所は渋谷川の谷から丘を登ったところ。神社を建てるにはいい場所です。

金王相撲の土俵
マナブ:子供たちが遊んでいる公園がありますが、柵で囲われているのは土俵かな?
歴史先生:はい、ここは江戸郊外三大相撲の1つ、金王相撲が行われていた場所なんです。
マナブ:はは、江戸時代は渋谷は「郊外」の扱いだったんですね。
歴史先生:三大相撲はここと、大井町あたりにある大井鹿島神社、そしてもう1つは覚えていますか?
マナブ:えーっと、どこかに行った時にその話がありましたね。どこだったかな?
歴史先生:世田谷八幡宮です。世田谷線の旅をした時に立ち寄りました。
マナブ:あ、そうでした。あそこの境内に登る坂の途中に土俵がありましたね。ここと似た感じです。

渋谷氷川神社
渋谷城はここにあった。渋谷金王丸の忠節を今に伝える金王八幡宮

明治通りから並木橋の交差点を曲がり、八幡通りの坂を上る

金王八幡宮(地図 ❻)
〒150-0002 東京都渋谷区渋谷3丁目5−12
9:00~17:00、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.konno-hachimangu.jp/index.html
マナブ:さて、だいぶ渋谷駅の近くまで戻ってきました。
歴史先生:八幡通りの坂を上ると、金王( こんのう)八幡宮があります。

坂の上の左側に金王八幡宮がある

金王八幡宮
マナブ:思っていたより立派な神社です。渋谷駅の近くにこんな神社があったんですね。知りませんでした。
歴史先生:入る前に地形を見ておいてほしいのですが、こちら側は小さな谷になっていて、やや坂を上るような感じになっていますね。
