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登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
谷中の特殊な地形と、そこにお寺が多い理由
 
江戸時代の行楽地「道灌山」で楽しまれた「虫聴(むしきき)」とは?
 
「日暮里(にっぽり)」という変わった地名の由来は?
 
「諏方神社」はなぜ「諏訪神社」と表記しないの?
 
「延命院」が江戸城大奥の女性たちに人気があった理由
 
終戦直後のヤミ市から始まった「谷中銀座」
 
赤穂浪士が吉良邸討入りの密談を重ねた「観音寺」
 
幕末の三舟の一人、山岡鉄舟が建てた「全生庵」
 
家康の恩返しで建てられた巨大な日蓮宗の寺院「瑞輪寺」
 
まさか?の伝承が残る健脚の神様「日荷堂」
 
「愛染かつら」の小説・映画のモデルになった愛染堂
 
ノスタルジックな「上野桜木」を歩く
 
「谷中霊園」はいつどうやってできたのか?
 
「天王寺」がたどった数奇な運命とは

 

谷中の特殊な地形と、そこにお寺が多い理由

 

谷中の古い街並み

 

マナブ:今日は西日暮里の駅に来ています。今日はここから「谷中」を歩くということなんですが・・・。

 

歴史先生:はい、「谷中」というとどんなイメージですか?

 

マナブ:えーっと、「谷根千」ってよく言いますよね。谷中、根津、千駄木、ですか。少し懐かしいような古い街並みがあって、古民家カフェやオシャレな雑貨店が最近増えている、という感じでしょうか。

 

歴史先生:そうですね。でも谷中と、千駄木・根津はまったく違います。

 

マナブ:というと?

 

歴史先生:谷中は丘の上の地形。千駄木、根津は谷の地形になっています。地形図を見てみましょう。

 

 

マナブ:今日歩くところは丘の上、なんですね。丘の東側は崖になっていて、その下をJRが走っています。

 

歴史先生:はい、ここは武蔵野台地の端っこ。丘の上の地区が谷中。地図の左側(西側)は谷になっていてここが千駄木、根津なんです。

 

マナブ:地図で見ると「卍」マークばっかり。すごい数のお寺ですね。

 

歴史先生:なぜここにお寺が集まっているか、わかりますか?

 

マナブ:なぜだろう?

 

歴史先生:江戸時代の初め、1657年に明暦の大火が起こります。この火事で江戸市中の6~7割を焼失。死者は実に6~10万人。これは当時の江戸の人口の3~4割にも及んだとか。

 

マナブ:たしか清澄白河でその話がありましたね。火事のあと、幕府主導で防災に強いまちづくりがなされて、お寺が清澄白河に移転させられたとか。ひょっとして谷中も同じような経緯なんですか?

 

歴史先生:はい、当時は谷中は江戸のはずれ。丘の上の土地が空いていて、多くのお寺が移転してきました。

 

マナブ:ということは多くのお寺が1600年代後半にここに建てられたんですね。

 

歴史先生:はい。しかもこの丘の上は関東大震災の被害が少なかったんです。さらに東京大空襲でも被害が限定的でした。広大な上野公園が防火帯となり、また米軍の空襲目標がこの丘の下までの範囲だったんです。そのため、この地域は幸運にも古い建物が多く残りました。

 

マナブ:ほとんどの文化財が失われた東京ではとても珍しい、貴重なエリアなんですね。

 

歴史先生:谷中はたくさんのお寺が密集していて、そこにはたくさんの物語があります。今日は歩く距離以上に盛りだくさんですよ。

 

マナブ:楽しみです。

 

江戸時代の行楽地「道灌山」で楽しまれた「虫聴(むしきき)」とは?

 

西日暮里駅

 

 

マナブ:では西日暮里駅から歩き始めましょう。まずは駅のすぐ隣、線路に沿って急な坂を上ります。

 

歴史先生:坂を上ったところが「西日暮里公園」です。昔は「道灌山」と呼ばれていました。(地図 ❶)

 

マナブ:それは太田道灌ゆかりの地だから?

 

歴史先生:2つ説があって、1つは太田道灌がここに出城を築いたというもの。もう1つは鎌倉時代にこのあたりにいた豪族の関道閑の屋敷があったというもの。

 

西日暮里公園入口

 

マナブ:城を造るにしても、屋敷を建てるにしても、丘の上のいい場所ですよね。

 

歴史先生:はい、そうなんです。実際、この丘には道灌山遺跡というのがあって、縄文時代から人が暮らしていたことがわかっています。

 

西日暮里公園

 

歴史先生:ここ道灌山は江戸時代は行楽地として賑わいました。少し高台になっていて、その北東はずーっと平野が広がっている。そのため、天気が良ければ筑波山や日光連山などまで見わたせるんです。

 

安藤広重の「江戸百景」に見る「道灌山」

 

マナブ:ここに掲示されている安藤広重の絵でもそれがよくわかりますね。

 

道灌山虫聴の図

 

歴史先生:そしてここは「虫聴(むしきき)」の場所としても有名でした。

 

マナブ:むしきき?

 

歴史先生:平安時代に貴族の間で広まった初秋の楽しみ方です。夜になって「リーン、リーン」という虫の声を聴きながら、酒宴を開いていました。江戸時代になると庶民の間でも流行し、鈴虫、マツムシなどを籠に入れて売る、という商売も始まりました。

 

マナブ:ここの丘にはたくさん秋の虫がいたんですね。

 

歴史先生:そのようです。

 

マナブ:虫聴(むしきき)って初めて聞きましたが、実に日本らしい、風情のある季節の楽しみ方ですね。

 

「日暮里(にっぽり)」という変わった地名の由来は?

 

 

マナブ:ところで、このあたりは日暮里(にっぽり)という地名もありますね。駅名もそうだし。ちょっと変わった名前ですよね? 知らないと読めない。

 

歴史先生:そうですね。ところで、道灌山の西側には青雲寺、修性院といった古刹があります。先ほど道灌山からの展望や虫聴の話をしましたが、青雲寺、修性院などは「花見寺」として知られ、特に桜の時期は賑わいました。桜の時期には長唄、浄瑠璃、歌の会などが催され、その様子を正岡子規は以下のように詠んでいます。

 

踊るかな 春の夕日の 影法師

踊れ踊れ 花のちるまで 暮るるまで

 

マナブ:楽しそうな情景が浮かびます。

 

歴史先生:訪れた人たちは日が暮れるのも忘れて遊んだようです。そのためこのあたりは「日暮しの里」と呼ばれました。

 

マナブ:あ、なるほど、それで日暮里。

 

「諏方神社」はなぜ「諏訪神社」と表記しないの?

 

諏方神社の鳥居

 

 

諏方(すわ)神社(地図 ❷)

〒116-0013 東京都荒川区西日暮里3丁目4−8

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://suwajinja.r-cms.jp/ 

 

マナブ:では道灌山から南へ、丘の上の道をまっすぐ歩いてきましょう。

 

歴史先生:すぐ現れるのは諏方神社(すわじんじゃ)。日暮里・谷中の総鎮守と言われています。

 

広い境内

 

マナブ:よく見かける「諏訪神社」とは字が違いますが?

 

歴史先生:ここの本社は言うまでもなく信州にある諏訪大社です。本家の諏訪大社も昔は「諏方」と記されていたようで、その名前を引き継いでいます。諏訪という字は江戸時代に統一するよう寺社奉行からの指示があり、現在ではほとんどの神社が諏訪神社と名乗っています。

 

マナブ:でもここは昔のまま?

 

歴史先生:あえて昔の字を使い続けているようですね。

 

マナブ:こちらは明暦の大火と関係あるんでしょうか?

 

歴史先生:いいえ、ここに勧請されたのは1205年、鎌倉時代の初め頃です。この地域を治めていた大豪族の豊島氏が建てました。

 

マナブ:江戸時代の話が多かったので、鎌倉時代というととても古く感じられます。

 

歴史先生:元々は道灌山のふもとにありましたが、明暦の大火より前の江戸時代の初めに丘の上へ移転しました。

 

本殿

 

富士見坂

 

歴史先生:諏方神社の前に、富士見坂があります。

 

マナブ:坂から富士山が見えるのかな?

 

歴史先生:江戸時代は富士が見える名所して人気でした。しかし2013年にその方向に高層マンションが建ったことで、富士山は見えなくなりました。

 

「延命院」が江戸城大奥の女性たちに人気があった理由

 

 

歴史先生:さぁ、ここからたくさんのお寺を見ていきましょう。

 

マナブ:地図を見ても今日はお寺だらけ、ですね。

 

養福寺

 

養福寺

〒116-0013 東京都荒川区西日暮里3丁目3−8

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a022/shisetsuannai/jinja/nippori004.html 

 

マナブ:さっそく、左に赤い立派な門が出てきました。

 

歴史先生:こちらは養福寺。1620年の開山ですが、この仁王門が建てられたのは江戸時代の中頃、宝永年間(1704~1711年)です。

 

マナブ:関東大震災、東京大空襲を逃れた古い建物がこのあたりには残っているんですね。仁王門の中にある仁王像も立派です。

 

歴史先生:運慶作、なんて言われます。

 

マナブ:ん? でも運慶は鎌倉時代の人ですよね?

 

歴史先生:そうなんです。実は全国に運慶作と伝わる仁王像がたくさんあるのですが、それらのほとんどは江戸時代に古い仏像をブランド化してつけられたもので、いまだにそれが伝承として残っている、ということのようです。

 

啓運寺

 

啓運寺

〒116-0013 東京都荒川区西日暮里3丁目2−14

境内自由


マナブ:次は啓運寺。

 

歴史先生:このお寺は上野の山に1644年に開かれたお寺だったんですが、1868年、明治維新の時の上野戦争で焼けてしまいました。そのため1885年(明治18年)に現在地へ移転再建されたものです。

 

経王寺 山門

 

マナブ:次は経王寺(きょうおうじ)。

 

経王寺

〒116-0013 東京都荒川区西日暮里3丁目2−6

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.arakawa.tokyo.jp/a022/shisetsuannai/jinja/nippori003.html 

 

歴史先生:こちらは1655年に開かれました。日蓮宗のお寺で、日蓮上人作と伝わる大黒天が祀られています。

 

マナブ:立派な山門ですね。

 

歴史先生:この山門は1836年に建てられたもの。明治維新の時、上野戦争で敗れた彰義隊の隊士たちがここへ逃げ込んだそうで、新政府軍がここを銃撃。その時の弾痕が山門には残っています。

 

経王寺 本堂

 

延命院

 


 

延命院(地図 ❸)

〒116-0013 東京都荒川区西日暮里3丁目10−1

8:30~16:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://enmeiin.net/ 

 

マナブ:次は延命院。ここは広い境内がありますね。

 

歴史先生:ここは江戸城の大奥と強いつながりのあったお寺です。

 

マナブ:というと?

 

歴史先生:創建は1648年。徳川幕府第四代将軍・徳川家綱の乳母であった三沢局(みさわのつぼね)という人によって開かれました。

 

マナブ:大奥の人が建てた?

 

歴史先生:はい。三沢局という人は日蓮宗に深く帰依していて、「七面大明神」をお祀りする寺を建てたんです。

 

七面大明神を祀る七面堂

 

マナブ:七面大明神?

 

歴史先生:七面大明神は日蓮宗の女神で、法華経を信仰する人たちを守る守護神なんです。

 

延命院の境内

 

マナブ:乳母が熱心な信者だと、徳川家綱も日蓮宗に帰依したんでしょうか?

 

歴史先生:いえ、将軍としては菩提寺の増上寺(浄土宗)、寛永寺(天台宗)を大切にしなければなりませんから、日蓮宗に肩入れするわけにはいきません。

 

マナブ:なるほど。

 

歴史先生:しかし家綱が将軍になったのち、延命院は徳川家の永代祈願所になり、厚く保護されました。そういったこともあって、ここの七面大明神は江戸の名所となり、特に大奥の人たちからの参詣は後を絶たなかったようです。

 

マナブ:七面大明神は今もお参りできるんでしょうか?

 

歴史先生:いえ、こちらは秘仏になっています。毎年9月の例祭の時だけご開帳になるようです。

 

終戦直後のヤミ市から始まった「谷中銀座」

 

右が夕やけだんだん、左が七面坂へと続く下り坂

 

 

谷中銀座(地図 ❹)

〒110-0001 東京都台東区谷中3丁目13−1

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.yanakaginza.com/ 

 

マナブ:延命院の前の通りは日暮里駅から谷根千へ行く通りですね。

 

歴史先生:Y字路になっていて、右に行くと有名な「夕焼けだんだん」、左に行くと七面坂、です。延命院の七面大明神への坂、という意味でしょう。

 

「夕やけだんだん」から見る谷中銀座

 

マナブ:階段の上に来ました。ここから商店街を見下ろせます。

 

歴史先生:名前の通り、ここは西向きで夕やけの美しい階段。

 

マナブ:昭和の街並みと共に、夕暮れ時は郷愁を誘いそうですね。

 

「夕やけだんだん」は36段の階段

 

マナブ:ここはいつ頃からある商店街なんですか?

 

歴史先生:ここは終戦直後(1945~1946年)、多くの人が物資を持ち寄って販売した「ヤミ市」として始まりました。

 

マナブ:そこから今のような商店街に発展した。

 

歴史先生:しかしこの場所はJRの日暮里駅からも地下鉄の千駄木駅からも少し離れています。しかも大型スーパーがない昔ながらの商店街。ということで、一時期は閑散としてシャッター街になっていました。

 

マナブ:でも今はとてもにぎわっていますよね?

 

歴史先生:今の賑わいは平成になってから。昭和レトロな街並みということで話題になり、外国人観光客もたくさん訪れるようになって、町が再び活性化したんです。

 

170mほどの細い道の両側に60店舗が立ち並ぶ

 

歴史先生:では谷中銀座にあるお寺に行ってみましょう。こちらは長明寺(ちょうめいじ)。

 

長明寺 山門

 

長明寺

〒110-0001 東京都台東区谷中5丁目10−10

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://tesshow.jp/taito/temple_yanaka_chomei.html 

 

マナブ:広い境内のお寺ですね。

 

歴史先生:こちらは1609年の開基、と言いますから関ケ原の戦いの9年後。徳川家康の家臣に志村八兵衛という、後でいうと旗本にあたる人がいたのですが、関ヶ原の戦いで多くの部下を失いました。彼の奥さんは日照禅尼という人で、亡くなった部下たちを弔うために夫婦で一緒に建てたのがこのお寺です。

 

マナブ:部下想いの人だったんですね。

 

歴史先生:門の正面に見える枝垂(しだれ)桜。谷中の春の名所として人気です。

 

江戸時代の銅鐘が残る

 

歴史先生:境内には古い文化財も残っています。こちらの銅鐘は1682年の椎名伊予良寛の作品。

 

マナブ:有名な人なんですか?

 

歴史先生:椎名家というのは江戸時代の鋳物師の名家。初代は徳川家康に従って三河から江戸へ入りました。椎名伊予良寛は上野寛永寺の徳川家綱の宝塔の製作を請け負うなど、幕府からも信頼されていた当代一流の名工です。

 

七面坂

 

歴史先生:では七面坂を上って、再び丘の上の道を歩きましょう。

 

赤穂浪士が吉良邸討入りの密談を重ねた「観音寺」

 

丘の上の道沿いの風情ある街並み

 

 

歴史先生:丘の上の道に戻りました。まずは右側にある観音寺へ立ち寄りましょう。

 

観音寺

 

観音寺(地図 ❺)

〒110-0001 東京都台東区谷中5丁目8−28

9:00~16:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://yanaka-kannonji.jp/ 

 

マナブ:ここはどういうお寺なんですか?

 

歴史先生:観音寺は赤穂浪士ゆかりのお寺、として知られています。

 

マナブ:というと?

 

赤穂義士供養塔

 

歴史先生:四十七士の中に近松勘六行重、奥田貞右衛門という兄弟がいたのですが、もう一人の兄弟であった文良はここ観音寺(当時は長福寺という名だった)の住職でした。その縁から、吉良邸討入りの密談がここでしばしば開かれたそうです。

 

マナブ:なるほど。ここに赤穂義士供養塔、がありますね。

 

長安寺

 

歴史先生:次に右手にあるのが長安寺です。

 

長安寺

〒110-0001 東京都台東区谷中5丁目2−22

(※最新の情報はWebサイト等でご確認下さい。)

http://www.choanji.net/ 

 

歴史先生:1669年の開基。ここには徳川家康が奉納した寿老人の像があり、谷中七福神の1つになっています。また、近代日本画の父、と呼ばれる狩野芳崖(かのうほうがい)のお墓もここにあります。

 

マナブ:狩野芳崖?

 

歴史先生:幕末に長州で生まれ、江戸に出て狩野派に弟子入りし、狩野芳崖と名乗ります。ご存じの通り狩野派は伝統的な日本画を描いてきましたが、明治になって狩野芳崖はそこに西洋画の技術を取り入れ、新しい日本画の境地を開きました。その作品はフェノロサや岡倉天心に認められ、彼らと共に東京芸大の設立に尽力した人です。国指定重要文化財の「悲母観音(ひぼかんのん)」などの作品が残っています。

 

功徳林寺

 

歴史先生:続いて左側にあるのが功徳林寺。

 

功徳林寺

〒110-0001 東京都台東区谷中7丁目6−9

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://kudokurinji.jp/ 

 

歴史先生:このお寺の歴史時代は少し新しくて、開基は1885年(明治18年)。明治維新での上野戦争がたくさんの人がこの辺りで亡くなりましたので、その人たちの菩提を弔うための施設として明治になってから作られたものです。

 

マナブ:江戸時代には無かったんですね。

 

歴史先生:江戸時代、ここには鍵屋という茶屋がありました。そこに看板娘の「お仙」という人がいたのですが、この人が大変な美人だということで評判になります。「江戸三大美人」として浮世絵にも多数描かれて、その絵は飛ぶように売れたとか。

 

マナブ:単なる「推し店員」の枠を超えて、トップアイドルになった。

 

歴史先生:そうですね、平和が続いた江戸というのはそんな文化が芽生えた時代でもありました。

 

幕末の三舟の一人、山岡鉄舟が建てた「全生庵」

 

全生庵

 



全生庵(地図 ❻)

〒110-0001 東京都台東区谷中5丁目4−7

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://zenshoan.com/ 


マナブ:丘の上に続いていた道が大きな道路に突き当たって、そこを右折します。

 

歴史先生:少し歩いた先、右側のあるのが全生庵(ぜんしょうあん)です。ところで、「幕末の三舟(さんしゅう)」ってご存じですか?

 

マナブ:いいえ。

 

歴史先生:幕末のころ、幕臣の中には多くの英傑、秀才がいました。中でも江戸の町を救った3人、勝海舟、高橋泥舟、山岡鉄舟はいずれも名前に「舟」がつきますので、彼らを「幕末の三舟」と呼びます。

 

マナブ:勝海舟についてはこれまで何度も出てきたので知っていますが、他の2人はどういう人だったんですか?

 

全生庵 本堂

 

歴史先生:時は1868年。この年の正月に鳥羽・伏見の戦いが起き、幕府軍は敗退します。江戸へ逃げ帰った徳川慶喜は謹慎して恭順の意を示すのですが、薩長を中心とする新政府軍はそれを許さず、東海道を下って江戸総攻撃の構えを取っていました。

 

マナブ:江戸は緊迫した雰囲気だったでしょうね。

 

歴史先生:はい。高橋泥舟は徳川慶喜の側近中の側近で、護衛を務めていました。彼は自分の妹の夫、すなわち義弟の山岡鉄舟を勝海舟に紹介します。山岡鉄舟を一目で気に入った勝海舟は、山岡鉄舟を使者として、新政府軍の西郷隆盛へ会いに行かせます。

 

マナブ:危険な任務ですね。

 

歴史先生:東海道をさかのぼって敵中を進み、総大将に直談判しようというのですから、相当な度胸と胆力を必要とします。結局、駿府(静岡)にて西郷隆盛に面会することができました。

 

マナブ:どうやって交渉したんでしょう?

 

歴史先生:新政府軍の要求の一つで、幕府側がどうしても受け入れ難かった条件は、徳川慶喜を備前藩に預けるというものでした。西郷隆盛も「これは朝命である!」と断固とした態度であったようですが、勝海舟の意思を十分に汲んでいた山岡鉄舟は「では島津のお殿様が同じ立場になったら、あなたはそれを受け入れますか? それができないなら私が命を懸けて拒むのもおわかりでしょう。」と説得。その深い忠誠心を理解した西郷隆盛は「私が何とか調整しよう」と答えたそうです。その後の新政府軍の中での調整は簡単ではなかったはずですが。

 

マナブ:そうでしょうね。容易に想像できます。

 

歴史先生:結果、徳川慶喜を差し出すという条件が撤回され、それによって幕府軍が降伏を受け入れやすい条件が整いました。その後、新政府軍が江戸に到着。西郷と勝の対談によって、江戸城無血開城が実現したわけです。

 

マナブ:山岡鉄舟の活躍がなければ、幕府軍は命を捨ててで抵抗し、江戸は火の海になっていたかもしれませんね。

 

歴史先生:そして明治維新後、なんと西郷隆盛の推薦によって山岡鉄舟は明治天皇の教育係となり、10年間、若い明治天皇に君主としての心得を伝えました。

 

マナブ:すごい。西郷さんはよほど山岡鉄舟を気に入ったんでしょうね。

 

歴史先生:勝海舟、西郷隆盛の2英傑からここまで気に入られるというのはすごいことです。ところで1883年(明治16年)になり、山岡鉄舟はここに「全生庵」を建て、戊辰戦争等で国のために命を落としたたくさんの人々を弔う場所としました。1888年(明治21年)に彼は亡くなり、全生庵にお墓が建てられました。

 

全生庵の境内にある谷中大仏。高さ6mの聖観世音菩薩像。

 

天龍院

 

天龍院

〒110-0001 東京都台東区谷中4丁目4−33

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://tenryuin.or.jp/ 

 

マナブ:お向かいも古そうなお寺ですね。

 

歴史先生:全生庵のお向かいにある天龍院は1630年の開基。見えている本堂・庫裡は1897年(明治30年)に建てられたもの。ここには山岡鉄舟の筆による山号額(海雲山)がかかっています。

 

マナブ:すごい、震災、戦災でも残った貴重な建物なんですね。

 

西光寺

 

西光寺

〒110-0001 東京都台東区谷中6丁目2−20

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.saikoujiyanaka.com/ 

 

マナブ:では再び谷中の丘の上をぶらぶらしましょう。

 

歴史先生:次のお寺は西光寺。ここは1603年に開かれた古いお寺。山門を入って右に、石像が並んでいます。

 

韋駄天像(左)と十一面観音像(中央)

 

歴史先生:この中で特に重要なのは一番左の石像。これは藤堂高虎が彼の江戸下屋敷で大切にしていたという韋駄天像です。

 

マナブ:韋駄天は足が速い神様。

 

歴史先生:はい。伝承ではお釈迦様が亡くなった際に鬼が来て、その仏舎利(歯の一部)を持って行ってしまいました。韋駄天はその鬼を追いかけ、仏舎利を取り戻しました。その駆け足があまりに速かったので、韋駄天イコール足の速い人、というイメージになったようです。

 

長久院

 

長久院

〒110-0001 東京都台東区谷中6丁目2−16

 

マナブ:西光寺のお隣は長久院。

 

歴史先生:こちらも1611年創建の古いお寺です。「あじさい寺」としても知られていて、6月になると山門から本堂までの境内にたくさんのあじさいが咲きます。

 

マナブ:今の時期でも花が咲き乱れていて、東京都心にいるという感じがしませんね。

 

家康の恩返しで建てられた巨大な日蓮宗の寺院「瑞輪寺」

 

正面突き当りに見えるのが瑞輪寺。参道の両側に塔頭が並ぶ堂々たる境内。

 

 

瑞輪寺(地図 ❼)

〒110-0001 東京都台東区谷中4丁目2−5

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://jiunzan.zuirinji.nichiren-shu.jp/ 

 

歴史先生:次はこの辺りでは最大規模を誇る瑞輪寺です。

 

マナブ:私たちはお寺の正面となる南側からアプローチしていますが、あの突き当りがお寺ですよね。その参道の両側に塔頭が並んでいます。先ほどまで見てきたお寺と比べても相当に敷地が広い。

 

歴史先生:はい、大変広い敷地が与えられたのには理由があります。

 

マナブ:というと?

 

歴史先生:このお寺を建てたのは徳川家康。しかもその時期は江戸時代が始まる前の1591年です。

 

マナブ:それって、増上寺に似てる?

 

歴史先生:えーっと、増上寺の場合は創建はもっと古くて室町時代初期の1393年です。しかし徳川家康が江戸に入った1590年、浄土宗の増上寺に帰依し、徳川家の菩提寺になりました。

 

マナブ:じゃあ、瑞輪寺が建てられた時期としては徳川家康が江戸に入ってすぐ。

 

歴史先生:そうですね。ただし瑞輪寺は日蓮宗のお寺です。

 

マナブ:えっ? だとしたらなぜ家康は日蓮宗のお寺を建てたんでしょう?

 

瑞輪寺 山門

 

歴史先生:話は家康がまだ今川義元の元で人質として暮らしていた幼少期までさかのぼります。日蓮宗の僧侶であった日新上人が、幼い家康に読み書きを教えていました。1550~1560年頃のお話です。

 

マナブ:ふむふむ。

 

歴史先生:そして時は流れ、織田信長と同盟関係にあった家康は次々に領土を拡大。甲斐の国を領土に加えます。一方そのころ、日新上人も出世し、身延山の(日蓮宗の総本山)の貫首にまで上り詰めていたんです。1581年、二人は感動的な再会を果たします。

 

マナブ:「いやー、なつかしい」「それにしてもお互い偉くなったなぁ」という感じでしょうかね。

 

歴史先生:そこで家康は幼少期に学問を教えてくれた恩返しとして「将来、江戸に大きなお寺を寄進する」と約束しました。そしてその10年後、1591年にその約束を果たしたのが瑞輪寺、というわけです。

 

マナブ:なるほど、それなら家康公のメンツが立つような広い敷地の寺でなければいけませんね。

 

瑞輪寺 本堂

 

歴史先生:江戸時代には大伽藍を誇ったお寺でしたが、明治維新の際、上野戦争の戦火を受けてすべてを焼失してしまいます。

 

マナブ:えっ、ここはそうだったんですか。

 

歴史先生:現在、立派な本堂が建っていますが、こちらは1876年(明治9年)から1904年(明治37年)までの長い年月をかけて再建されたものです。

 

マナブ:ずいぶんと時間がかかりましたね。

 

歴史先生:考えてもみてください、ここは家康の寺。徳川家がすべての力を失った明治初期、再建しようにも新政府にはそのモチベーションがありません。さらに世の中は廃仏毀釈の嵐。大きなお寺を再建するには最悪の時期でした。

 

マナブ:なるほど、たしかに。

 

まさか?の伝承が残る健脚の神様「日荷堂」

 

日荷堂(延寿寺)

 

 

日荷堂(延寿寺)

〒110-0001 東京都台東区谷中1丁目7−36

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://nichika-do.jp/ 

 

歴史先生:次に、瑞輪寺近くの日荷堂(にちかどう)へ行きましょう。

 

マナブ:ここはどういうお寺ですか?

 

歴史先生:延寿寺というお寺ですが、日荷上人を祀った日荷堂があることで有名です。日荷上人は健脚の神様と言われています。

 

マナブ:さきほどは足の速い韋駄天でしたが、今度は健脚?

 

歴史先生:それも並外れた健脚です。日荷上人というのは鎌倉時代末から南北朝時代に生きた人。元々は現在の横浜市金沢区の豊かな商人だったのですが、ある夜、夢枕に称名寺(金沢区にある大きなお寺)の仁王様が現れて、こう言うのです。「私は身延山の守護神になりたい。お前の力で身延山へ運んでくれ。」

 

マナブ:いやいや、かなり無茶ぶりですね。

 

歴史先生:でもそれを信じた日荷上人。早速称名寺へ行ってその話をします。「ということでおたくの仁王像を身延山へ運びますよ」と。

 

マナブ:称名寺もびっくりでしょうけど、「はい、どうぞ」というはずがないですね。

 

歴史先生:そうなんです。そこで日荷上人は自分が所有する広大な土地と称名寺の仁王像をお互いに賭けた囲碁の勝負をして、それに勝ちます。それでも称名寺は仁王像を持っていけるはずないと本気にしませんでした。というのも、仁王像は一体で150㎏もあって、とても持ち上げられるものではありませんでしたから。

 

マナブ:で、どうしたんでしょう?

 

歴史先生:それでも日荷上人は150㎏の仁王像一対(すなわち2体)をひもで縛って背中に担ぎ、身延山へ向かって歩き出しました。そして三日三晩歩き続け、ついに身延山へ奉納することができたんです。

 

マナブ:まさか、そんなこと。

 

歴史先生:今でも身延山の巨大な山門に、その時に奉納された仁王像一対が立っています。

 

マナブ:突然、仁王像を持ち込まれた身延山側もびっくりしたでしょうね。

 

歴史先生:感激した身延山はこの商人の偉業を称え、日蓮上人の「日」、そして重い荷物を持った来た「荷」の字を取って「日荷(にちか)」という尊称を与えて、それ以降この商人は「日荷上人」と呼ばれるようになりました。

 

マナブ:ここで大きな疑問が一つ。日荷上人が横浜市金沢の人で、身延山まで行ったことはわかりましたが、なぜ谷中にお堂があるんですか?

 

歴史先生:ここの延寿寺ですが、1656年創建の日蓮宗のお寺。ここは身延山久遠寺の直末、すなわち直轄の末寺でした。そういった深い関係もあって、江戸時代中期の1755年に、身延山に祀られていた日荷上人像が、ここの延寿寺に譲渡されました。「あこがれの、でもなかなか行けない身延山から、健脚の神様が江戸にやってきた!」ということで、江戸の人たちは大喜び。さっそく谷中の延寿寺にお参りしよう、ということになります。

 

マナブ:身延山、実際に行きましたが、車で行ってもかなり遠いイメージでした。江戸の人が歩いていくにはなかなか大変な場所ですね。

 

歴史先生:現在でも健脚の神様ということで陸上選手などから厚い信仰を集めています。

 

「愛染かつら」の小説・映画のモデルになった愛染堂

 

自性院 愛染堂

 

 

自性院

〒110-0001 東京都台東区谷中6丁目2−8

 

歴史先生:日荷堂の近くにある「自性院(じしょういん)」に立ち寄りましょう。ここは「愛染かつら」ゆかりの地。

 

マナブ:「愛染かつら」って、よく耳にしますが、小説か何かでしたっけ?

 

歴史先生:戦前の1937年(昭和12年)から雑誌に連載されて評判となった川口松太郎による小説で、翌年には上原謙、田中絹代の主演で映画化もされました。

 

マナブ:恋愛ストーリー?

 

歴史先生:そうですね。上原謙演じる大病院の御曹司であるエリート医師と、田中絹代演じる美しい子持ち未亡人の看護師。この2人が恋に落ち、病院の敷地の中にあった愛染堂の前にある大きな「かつらの木」の前で愛を誓いました。

 

マナブ:ふむふむ。

 

歴史先生:それを知った医師の父である病院長は激怒。看護師を病院から追い出します。医師は「それなら2人で京都へ駆け落ちしよう」と約束して東京駅で彼女待つのですが、ちょうどその時、看護師の幼い娘が急病になってしまい、娘を置いて東京駅に行くわけにいかなくなりました。

 

マナブ:電話なり、LINEなりすればいいのに、と現代だと思いますよね。

 

歴史先生:でもそんな連絡手段のない時代、医師は裏切られたと思い、失意に沈んだまま一人で京都へ行きました。東京に残った看護師はその後美人歌手としてスターに。2人はお互いのことを忘れられずに過ごします。その後何度か運命のいたずらで「会えそうで会えない」すれ違いが続き、読者をハラハラさせます。

 

マナブ:それってその後のドラマでもよく使われる脚本ですよね?

 

歴史先生:はい、愛染かつらに影響を受けた作品(小説・ドラマ)は多いものと思われます。そして小説の最後で2人はようやく再会し、愛染堂での誓いを成就させるのでした。

 

マナブ:で、作者の川口松太郎がそのストーリーのインスピレーションを得たのがここ?

 

歴史先生:はい、そうなんです。ここの愛染堂、そしてその前に生えていた大きなかつらの木を見て、この構想を思いついたそうです。

 

ノスタルジックな「上野桜木」を歩く

 

上野桜木あたり

 

 

歴史先生:では引き続き上野桜木のエリアを歩きましょう。

 

マナブ:地名からして昔は桜の木がたくさんあった?

 

歴史先生:はい、そうです。

 

上野桜木あたり

〒110-0002 東京都台東区上野桜木2丁目15−6 あたり

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.uenosakuragiatari.jp/ 

 

1938年(昭和13年)築の古民家をリノベーション

 

歴史先生:最初に立ち寄りたいのは「上野桜木あたり」という商業施設。ここは1938年(昭和13年)に建てられた3軒の住宅。

 

マナブ:この地域は東京大空襲で無事だった、というお話でしたよね。

 

歴史先生:はい、そのため古民家、商店、銭湯など古い建物がたくさんあったのですが、老朽化した建物は使い勝手も悪いし維持費用もかかる、ということで、次々に取り壊されていったんです。この3軒の住宅も取り壊されて駐車場または新しいアパートになる予定でした。

 

マナブ:でもそれに誰かがストップをかけたんですね?

 

歴史先生:はい、「NPO法人 たいとう歴史都市研究会(通称:たい歴)」というグループが、この家の所有者であった塚越さん(塚越商事の創業家)に提案し、創業者が育った家の雰囲気を残しながらリノベによる再開発がされることになりました。

 

マナブ:いつオープンしたんでしょう?

 

歴史先生:2015年にリノベが終了し、ビアホール、パン屋、食料品店などが入居してオープンしました。

 

マナブ:とてもノスタルジックな風情があっていいですね。

 

大雄寺

 

歴史先生:次は大雄寺(だいおうじ)に行ってみましょう。

 

マナブ:ここはどういうお寺ですか?

 

歴史先生:江戸時代の初め、1605年に創建された日蓮宗のお寺です。

 

大雄寺

〒110-0001 東京都台東区谷中6丁目1−26

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.daioji.jp/ja/ 

 

高橋泥舟の墓

 

歴史先生:ここには江戸の三舟の一人、高橋泥舟の墓があります。

 

マナブ:徳川慶喜の側近の護衛隊長のような人でしたね。彼は日蓮宗?

 

歴史先生:いえ、そうではなくてここ大雄寺は高橋家代々の菩提寺、ということで彼のお墓があります。ところで少しややこしいのですが、高橋泥舟は旗本の山岡家の次男でした。高橋家というのはお母さんの実家。そちらの跡継ぎがいないということで養子に入ったんです。

 

マナブ:山岡家? 山岡鉄舟はたしか義弟、ということでしたが?

 

歴史先生:山岡家では山岡静山という人が跡継ぎだったんですが、26歳の若さで亡くなりました。しかし他の弟たち(高橋泥舟など)は養子に出ていて、今度は山岡家の跡継ぎがいなくなりました。そこで泥舟の妹に婿入りし、山岡家を継いだのが山岡鉄舟、というわけです。

 

マナブ:なるほど。

 

カヤバ珈琲

 

 

歴史先生:上野桜木の交差点にの角に、「カヤバ珈琲」というレトロな喫茶店があります。

 

マナブ:これは魅力的なお店ですね。

 

歴史先生:建物は1916年(大正5年)といいますから関東大震災より前。1938年(昭和13年)に喫茶店として開業しました。たまごサンドなどが名物になっています。

 

マナブ:それからずーっと続いているお店なんですか?

 

歴史先生:いえ、2006年に先代の店主が亡くなり、廃業していました。交差点の角でもあり、取り壊して再開発される話もあったのですが、町のシンボルでもあったこの店を残そうと先ほどの「NPO法人 たいとう歴史都市研究会」が中心となって保存に努め、再度開業に至りました。

 

マナブ:すばらしい取組みですね。

 

旧吉田屋酒店

 

歴史先生:同じく上野桜木の交差点には「旧吉田屋酒店」があります。

 

マナブ:ここは?

 

歴史先生:こちらは江戸時代からあった吉田屋という酒屋さん。建物は1910年(明治43年)のもので、近くの谷中6丁目にあったものをここに移築保存しています。

  

浄名院 本堂

 

浄名院

〒110-0002 東京都台東区上野桜木2丁目6−4

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://uenosakura-joen.jp/jyomyoin/ 

 

歴史先生:では次に、近くの浄名院に行きましょう。

 

マナブ:近代的なよく整備された境内ですね。

 

歴史先生:ここは1666年創建の古いお寺。近くにある寛永寺の塔頭の1つでした。

 

八万四千体地蔵

 

マナブ:お地蔵さんがいっぱい。

 

歴史先生:1879年(明治12年)に当時の住職の発願で始まり、「八万四千体地蔵」と呼ばれています。

 

マナブ:84,000体もあるんですか?

 

歴史先生:いえ、今のところ約3万体ほど。でも、まだまだ増え続けているんだそうです。

 

江戸六番地蔵

 

歴史先生:そしてこちらが江戸六地蔵の第6番。

 

マナブ:ん? いえいえ、待ってください、たしかそれは深川でも学びましたが、江戸六地蔵はここではないですよね?

 

歴史先生:はい、江戸六地蔵の内、第6番は深川の永代寺にありました。しかし明治維新の時の廃仏毀釈で永代寺ごと、壊されてしまったんです。

 

マナブ:そうでしたね。

 

歴史先生:その後、1906年(明治39年)になって、日清戦争・日露戦争の戦没者慰霊のために「新・第6番」として建てられたのがこの江戸六番地蔵なんです。

 

マナブ:あぁ、そういうことでしたか。

 

「谷中霊園」はいつどうやってできたのか?

 

谷中霊園

 

マナブ:谷中霊園にやってきました。都内にはいくつかこういった霊園がありますね。

 

歴史先生:そうですね。主なところでは青山霊園、雑司ヶ谷霊園、染井霊園などがあります。

 

マナブ:それらはいつ、どうやってできたんですか?

 

歴史先生:これらの都内の霊園は1874年(明治7年)に一斉にできました。これには明治維新のときの複雑な政策変更が影響しています。

 

マナブ:というと?

 

歴史先生:江戸時代は寺請け制度というのがあって、すべての人は檀家として近くのお寺の檀家になっていました。葬儀はそのお寺で行い、お墓はそのお寺に設けるのが当たり前でした。ところが、明治維新で神仏分離、ということが起きます。廃仏毀釈でお寺が機能を失い、それにともなって神社の神職の人たちが葬儀をすることが許可されました。そのため、一時的に神社での葬儀がブームのようになったんです。

 

マナブ:お墓はどうしたんでしょう?

 

歴史先生:そう、そこなんです。江戸時代まではお寺の墓地にお墓を立てていたのが、宗教に関わらない霊園が大量に必要になりました。そこで東京府がいくつかの土地を取得して、大規模な霊園を開きました。

 

マナブ:でも神社でお葬式って、あまり見ませんね。

 

歴史先生:はい。死イコール穢れ、と見る考え方が神道では強かったので、しばらくすると神社側もあまり積極的に葬儀をおこなわなくなりました。一方で明治新政府は神道を国家の宗教として位置づけたことから、一般の葬儀に神職たちが関わることを原則禁止するようになりました。そのため、現在では葬儀は仏教で行うもの、というのが一般的になっています。

 

さくら通り

 

歴史先生:谷中霊園の中央をカーブしながら南北に貫いているのが「さくら通り」です。名前の通り、両側の桜並木がとてもきれいなところです。このさくら通りですが、江戸時代にはあとから行く天王寺の参道でした。谷中霊園は天王寺の境内の一部を東京府が取得して造ったものなんです。

 

五重塔の跡には礎石だけが残る

 

歴史先生:霊園の中央部にはかつて天王寺の五重塔が立っていました。

 

マナブ:今は礎石だけしかありませんね。

 

歴史先生:ここにあった五重塔は江戸時代初期の1644年に建てれらました。1772年の大火で一度は焼失しましたが、1791年に再建されます。高さ34m、江戸一、関東一の高い塔でした。

 

マナブ:他の有名な五重塔はどれくらいの高さですか?

 

歴史先生:日本で一番高いのは東寺(京都)の五重塔で、高さ54.8m。続いて興福寺(奈良)が50m、善通寺(香川)が43mで第3位です。ところで江戸には「江戸四塔」というのがあって、浅草寺、増上寺、寛永寺、そしてこの天王寺の塔が浮世絵の題材として多く描かれました。また1892年(明治25年)に発表された幸田露伴の「五重塔」がヒットし、全国的にも有名になりました。

 

マナブ:これは関東大震災? それとも東京大空襲で失われたんですか?

 

歴史先生:いいえ、この五重塔は戦後まで奇跡的に残ったんです。でも、1957年(昭和32年)にショッキングな事件が起こります。こちらの案内板を見てください。

 

在りし日の五重塔の姿と被災の様子を示す看板

 

マナブ:えっ、放火?

 

歴史先生:なんと、不倫関係に悩んだ男女が五重塔に火をつけて無理心中してしまったんです。

 

マナブ:そんな・・・。

 

「天王寺」がたどった数奇な運命とは

 

山門をくぐるとすぐ目の前に「天王寺大仏」が鎮座する

 

 

天王寺(地図 ❽)

〒110-0001 東京都台東区谷中7丁目14−8

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.tendaitokyo.jp/jiinmei/tennoji/

 

マナブ:さて、旧参道のさくら通りの突き当りが天王寺です。

 

歴史先生:ここは大変数奇な運命をたどったお寺。ジェットコースターのようなアップダウンを経験しました。

 

マナブ:何があったんでしょう?

 

歴史先生:開基は鎌倉時代の1274年にまでさかのぼります。日蓮上人が谷中を訪れ、地元の土豪であった関長耀(せき ながてる)の家に滞在していました。日蓮上人は自分の像を彫って関長耀に与え、彼はそれを大切に安置するお堂を建てました。このお堂はその後「感応寺」という日蓮宗のお寺になります。

 

マナブ:歴史はかなり古いんですね。

 

歴史先生:感応寺は日蓮宗の「不受不施派」に属していました。これは日蓮宗の信者以外からは一切何も受け取らないし、一切何も施しをしない、という排他的な一派です。ところが江戸幕府の将軍家は日蓮宗に帰依しているわけではありません。幕府はこの一派を危険思想として弾圧するようになります。

 

マナブ:そうでしょうね。

 

歴史先生:1698年、徳川綱吉の時代についに不受不施派を正式に禁止します。信者の人たちはまるで潜伏キリシタンのように潜伏して信仰を続けました。明治になって信教の自由が保証されて初めて表立って不受不施派としての活動を再開します。

 

マナブ:潜伏キリシタンみたいな話が他にもあったんですね。

 

歴史先生:さて、感応寺ですが、幕府によって強制的に日蓮宗から天台宗に改宗させられ、1833年からは天王寺と名称も変わりました。それに反対した住職たちは八丈島へ遠島となり、寺宝は近くの日蓮宗寺院瑞輪寺に移されました。さて、改宗によって信者がいなくなった天王寺は存続に危機に直面します。そこでそれを救おうと、「富くじ」の興行が許可されました。

 

マナブ:どこかで「富くじ」の話を聞いた覚えがあります。

 

歴史先生:たぶん、湯島天神に行ったときですね。目黒不動、湯島天神、そして谷中の天王寺。これが「江戸の三富」として大変な賑わいとなりました。しかし明治維新では上野戦争でこのあたりは戦場になります。彰義隊の兵士がここに立て籠り、新政府軍によって境内のほとんどの建物が焼き払われてしまいました。

 

マナブ:そして昭和になると今度は放火事件で五重塔を失った。うーん、すごいことが起き続けますね。

 

天王寺大仏

 

歴史先生:山門を入るとすぐ、大仏が見えます。像の高さは3.3m。台座を含めて4.8mもあります。1690年に制作され、その後の震災、戦災もくぐりぬけてきました。

 

マナブ:大仏様はすべてを見てこられた、というわけですね。

 

境内の様子

 

歴史先生:さて、ということで今日は谷中を歩きました。いかがでしたか?

 

マナブ:いやぁ、いったいお寺を何軒回ったんだろう? 太田道灌に始まり、徳川家康、日蓮、江戸の三舟、たくさんの歴史的有名人の話が出てきましたね。狭いエリアなのに江戸の歴史がぎゅっと詰め込まれた特別な地域なんだな、ということがよくわかりました。

 

​歴史好きのための観光ガイド
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