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富山 高岡_1.jpg
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
奈良時代から栄えていた伏木港

勝興寺:京都の西本願寺に匹敵する巨大建造物がなぜここにあるのか

天守閣もない高岡城はなぜ富山県唯一の百名城に選ばれたのか?

日本一ハンサムな大仏様に会いに行こう:高岡大仏

国宝だらけ。日本のお寺らしくない整った大伽藍:瑞龍寺


奈良時代から栄えていた伏木港


氷見線


マナブ:今日は富山県高岡市に来ています。


歴史先生:高岡は初めてですか?


マナブ:まったくの初めてです。何の印象も知識もありません。


歴史先生:高岡は知名度があまり高くないかもしれませんが、実は歴史深い町なんです。まずは氷見線の列車に乗って「伏木」まで行きましょう。


マナブ:はい、行ってみましょう。


ボックスシートと開く窓、扇風機など、なつかしさを感じられる車両


伏木駅



マナブ:JR氷見線に揺られて12分。伏木駅(地図 ❶)に着きました。


歴史先生:あそこに除雪車もいますよ。


除雪車


マナブ:さすが雪国ですね。ところで、駅看板のところどころにロシア語みたいなのが書かれていますが、これは何でしょう?


歴史先生:伏木港はロシアとの貿易が盛んです。よってロシアの人もここをよく訪れるので、ロシア語の表記があるのも当然なんです。


マナブ:へぇー、そうなんだ。なんだか遠くまで来たっていう感じがします。


歴史先生:伏木は古くからの港町で、遅くとも奈良時代には貿易港として栄えていました。大和政権はここに越中国府を置き、歌人として有名な大伴家持は越中国守としてここに赴任していたんです。


マナブ:えっ、そんな古くから栄えた場所なんですか。


歴史先生:はい。大伴家持は越中に5年間滞在し、万葉集に残る歌を含めて全部で223首の歌を残しました。


勝興寺の前にある大伴家持の像


マナブ:ずいぶんとたくさんの歌が残っているんですね。それらはどんな歌なんでしょう?


歴史先生:代表的なものを挙げておきますね。


「かけまくも あやにかしこき 射水川 清き瀬の音を 聞くがともしさ」


意味は、「口に出すことも畏れ多い、射水川(現:小矢部川)の清らかな瀬の音を聞けなくなるのは寂しい」ということで、赴任を終えて都へ帰る際に詠んだ歌とされています。


マナブ:この地への愛着の深さが伺えますね。


歴史先生:そうですよね。さて、その後も伏木は港町として発展します。江戸時代には加賀藩の年貢米をここから船で運び出すため、大きな米蔵がありました。また、江戸時代の日本海の海運と言えば?


マナブ:えーっと、北前船?


歴史先生:そうです。伏木は北前船の主要な寄港地として栄え、廻船問屋が活躍します。


マナブ:廻船問屋って、時代劇とかでよく耳にしますが?


歴史先生:船を持っている船主さん、荷物を送りたい荷主さん、陸揚げした荷物を買って商売したい商人、船乗りたちなど、海運にはいろんな人が関わりますが、それらの間を取り次いで、税金の処理なども面倒を見てくれる港の総合サービス企業、みたいな感じでしょうか。


マナブ:なるほど、そういう会社は必要ですね。


歴史先生:伏木港は明治以降も特別輸出港・特別貿易港に指定され、ロシアや朝鮮との貿易拠点になっていたんです。


マナブ:今はどうなっているんですか?


歴史先生:今では東にある新湊、富山と合わせて「伏木富山港」として、国の国際拠点港湾(旧:特定重要港湾)に指定されています。ふ頭も整備拡張され、貿易港としての位置づけの重要さは今も変わりません。


マナブ:国際拠点港湾っていうのは国内で何か所くらいあるんでしょう?


歴史先生:現在20か所が指定されています。北から:苫小牧、室蘭、仙台塩釜、千葉、新潟、伏木富山、京浜、清水、名古屋、四日市、堺泉北、阪神、和歌山下津、姫路、水島、広島、徳山下松、下関、北九州、博多、です。


マナブ:たしかに重要な工業港が並んでいますね。そこに肩を並べる港だということで、理解しました。


勝興寺:京都の西本願寺に匹敵する巨大建造物がなぜここにあるのか


順徳天皇勅願所という石碑が立つ



歴史先生:では伏木駅前の通りをまっすぐに進んでいきましょう。少し登り坂になっています。


マナブ:大きな石碑が立っていますね。「順徳天皇勅願所」と書かれています。


歴史先生:順徳天皇って、わかりますか?


マナブ:うーん、どっかで聞いたなぁ。誰でしたっけ?


歴史先生:後鳥羽上皇の皇子で、後鳥羽上皇の元で天皇をやっていました。


マナブ:あ、そうか。後鳥羽上皇が承久の乱で敗れた際に、後鳥羽上皇は隠岐に流されて、この天皇もどこかへ流されたんでしたっけ。


歴史先生:はい。佐渡島へ流されました。1221年の承久の乱の後、佐渡島に流されてから21年間、一度も本土へ戻ることなく、島で亡くなった天皇です。都へ戻れないことに絶望して自ら命を絶ったとも言われています。


マナブ:そうでした、そうでした。さぞかしその怨霊は恐れられたんではないでしょうか?


歴史先生:それがですね、そうでもないんです。後鳥羽上皇の怨霊の祟り(たたり)は非常に有名なんですが、その息子さんの順徳天皇の祟りの話はほとんどありません。


マナブ:そうなんですか。ところで順徳天皇と、ここ伏木とは何の関係があるんでしょう?


歴史先生:順徳天皇は佐渡に流された際に、「殊勝誓願興行寺」というお寺を建て、勅願寺としました。しかしこのお寺も廃絶になってしまいます。そして約300年後の1517年になって、ここ伏木にあった寺が「殊勝誓願興行寺」の寺号を継承して、「勝」の字と「興」の字を取って「勝興寺」と名乗ることが許されました。そのため勝興寺は順徳天皇の勅願時を引き継いだ寺、という位置づけになっているんです。


マナブ:ふーん、そういうこともあるんですね。


旧伏木測候所


マナブ:坂の途中、左側にとっても変わった建物があります。あれは何でしょう?


歴史先生:旧伏木測候所、です。1909年に今の位置に移され、それ以降100年以上にわたってここで気象観測をしています。


マナブ:旧という字がついているけど現役なんだ。すごいですね。


歴史先生:富山県のローカルのテレビの天気予報をみていると、「富山」と並んで「高岡伏木」の天気が出てきます。「高岡」ではなくてわざわざ「高岡伏木」となっているのはここ伏木で観測をおこなっているからなんですよ。


勝興寺 総門(国指定重要文化財)



マナブ:さて、坂を上って勝興寺(地図 ❷)の前までやってきました。


歴史先生:最初の門は総門。江戸の終わりに近い1840年に建てられた、お寺や城郭でよくみられる高麗門という形式の門です。国指定重要文化財です。


勝興寺(地図 ❷)

〒933-0112 富山県高岡市伏木古国府17−1

拝観料(文化財協力金)500円(高校生以下、団体割引あり)

9:00~16:30(12~2月は16:00まで)

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.shoukouji.jp/ 


鼓堂(国指定重要文化財)


マナブ:総門を入ると左側が受付。ここで文化財協力金500円を支払います。で、正面にある変わった建物が気になってしょうがないのですが。


歴史先生:こちらは鼓堂。1733年に建てられたもので、国指定重要文化財です。2階に太鼓が置いてあって、時刻を知らせたり、法要の合図を知らせる役割を持っています。寺院としては珍しく、城郭のやぐらのような作りの建物になっています。


唐門(国指定重要文化財)


マナブ:続いては金ぴかの門。これは少し新しいのかな?


歴史先生:いえいえ、1769年建立の国指定重要文化財です。元々はここではなく、京都の興正寺(こうしょうじ:浄土真宗興正派の本山)にあった勅使門でしたが、1893年(明治26年)にここへ移築されました。


マナブ:浄土真宗興正派っていうのは初めて聞きました。


歴史先生:浄土真宗の主な派といえば?


マナブ:西本願寺が本願寺派、東本願寺が大谷派、ですよね?


歴史先生:大正解。興正寺というのは西本願寺に隣接している末寺だったのですが、1876年(明治9年)に興正派の本山として独立し、現在486の末寺を持っています。そのため、作法や儀礼は本願寺派に似ているところが多いようです。


マナブ:こんな立派な門を譲ってくれるなんて、興正寺も太っ腹ですね。勝興寺は興正寺の末寺の1つですか?


歴史先生:いいえ、そういう話ではなくて、これは勝興寺が興正寺から買い取ったものなんです。財政難に苦しむ興正寺と、伽藍を充実させるために由緒ある立派な門が欲しかった勝興寺のニーズが合致した結果でした。ちなみに勝興寺は本願寺派です。


マナブ:「こうしょうじ」の門が「しょうこうじ」の門になった、という話は少しややこしい(笑)。


歴史先生:そうですね(笑)。


マナブ:それにしてもさっきから国指定重要文化財だらけ、ですごいですね。


歴史先生:まだまだこれから、ですよ。


勝興寺 本堂(国宝)


マナブ:唐門をくぐると、いよいよ本堂が見えてきました。いやー、大きい!


歴史先生:あれが国宝の本堂です。


天から降った石?


マナブ:ん? 本堂の手前に「天から降った石」というのが置いてあります。これは隕石なのかな?


歴史先生:伝承では約200年前に国分の浜に天から降ってきた石で、夜になると鳴くような音がしていたとか。そこで勝興寺に持ってきて本堂前に置いたら鳴くことがなくなったんだそうです。でも、調べてみるとよくある普通の安山岩で、隕石とは考えられないんだそうです。


マナブ:そうなんだ。


実ならずの銀杏


マナブ:そして次は「実ならずの銀杏」? これも不思議なのかな?


歴史先生:樹齢300年といわれる大木です。伝承では銀杏の実を取ろうとして子供が木に登り、落ちて大けがをしたり、実の取り合いでけんかをしたりするので、住職がお経をあげたところ、翌年からまったく実をつけなくなったんだとか。


マナブ:それは不思議だ。


歴史先生:でも銀杏って、雌木と雄木があって、オスの雄木には実はなりません。だから実ならずの銀杏は世の中にたくさん生えているんです。


マナブ:あら、そうなんだ。


勝興寺 本堂(国宝)


歴史先生:さて、いよいよ本堂です。1795年に建てられた国宝です。


マナブ:1795年というと、他の建物よりだいぶ新しいですね。それまでは本堂は?


歴史先生:もちろん本堂はありました。1584年にこの地に移転した際に本堂が建立されましたが、老朽化が激しくなり、1795年に再建されたのがこの本堂です。


マナブ:それにしても大きい、ですよね。


歴史先生:間口約39.3m、奥行約37.4m、棟高約23.5m、という超巨大サイズ。これは西本願寺阿弥陀堂(間口約42m、奥行約45m、棟高約25m)にも匹敵する、浄土真宗寺院の大型本堂の代表例です。


マナブ:あ、たしかに西本願寺に似てるかも。


歴史先生:はい。西本願寺阿弥陀堂を規範として、西本願寺から宮大工を呼んで作らせました。


マナブ:どうりで。でもほんの少しだけ、本山より小さく作っているところに気遣いを感じます(笑)。


本堂の柱と屋根


マナブ:内部は写真が撮れませんが、とても格式ある、広い空間になっていました。


本堂から見る経堂(国指定重要文化財)


歴史先生:本堂横にある経堂もまた、国指定重要文化財です。


マナブ:国指定重要文化財が当たり前になってきた。


歴史先生:こちらは1805年のもの。中を見ることはできませんが、極彩色を施した八角輪蔵が収められているそうです。建物は禅宗様式で建てられていて、浄土真宗の寺院としては大変珍しいものだとか。


式台門(国指定重要文化財)


歴史先生:こちらは式台門。


マナブ:これも重文?


歴史先生:そうです。1705年建立です。


大広間・式台(国宝)


歴史先生:そしてもう1つの国宝がこちら。大広間・式台です。


マナブ:これが国宝?


歴史先生:はい。1653年建立の大広間と、それに付設された1700年代末の式台、が国宝に指定されています。


大広間


式台


歴史先生:大広間は128畳あって、賓客の対面所として使われていました。式台は玄関や来客のお供の人たちが控えていた場所。


マナブ:あんまり古く感じないのは、現役で使われているからでしょうか? そしてこの建物、その広さに驚きます。


歴史先生:そうなんです。西本願寺にはもっとすごい対面所があり、飛雲閣というとんでもない贅沢な接待施設もありますが、ここの大広間・式台も本来は本山級の施設、と言えるでしょう。地方の末寺でこれほどの規模のものはあまり類を見ません。


マナブ:浄土真宗の中で、それだけここは重要拠点だったんでしょうか。そもそも勝興寺ってどういうお寺なんですか?


歴史先生:おっと、その話をしていませんでしたね。


大広間から奥に続く「奥書院」


歴史先生:室町時代の1471年、浄土真宗を広めた蓮如上人がここ越中での拠点として開いた土山御坊がその起源とされています。その後、何度か移転を繰り返し、先ほどお話ししたように1517年には順徳天皇勅願所を引き継いで勝興寺という名前になりました。


マナブ:室町時代から戦国時代にかけて、北陸というと一向一揆が強かったんですよね?


歴史先生:そのとおりです。勝興寺は越中の国における一向一揆勢力の拠点でした。大坂の石山本願寺と連携しながら北陸での戦力を拡大していました。


マナブ:となると、当然信長との抗争が起きる。


歴史先生:はい。実際に1581年には信長方による焼き討ちで寺院を焼失しています。


マナブ:やっぱり。


歴史先生:でも焼き討ちされた寺はここではなく、勝興寺がこの場所に移ったのは1584年のこと。


マナブ:本能寺の変(1582年)のあと、だ。


歴史先生:はい。本能寺の変の後、このあたりを治めていたのは佐々成政(さっさ なりまさ)です。彼がここ、かつて越中国府があった丘の上の土地に勝興寺が移転することを認めました。


マナブ:でも佐々成政もまたすぐに敗れる。


歴史先生:そうなんです。移転の翌年の1585年、佐々成政は秀吉に敗れてこの地は前田利家の子、前田利長が治めるようになりました。


マナブ:前田家の2代目ですね。


歴史先生:前田利長は勝興寺の既得権を安堵し、その保護に努めました。これによって、それまでは一向一揆を煽動して戦国大名と対立していた勝興寺も、前田家の庇護のもと、その支配に甘んじるようになったんです。


マナブ:そして、それ以降は前田家とよい関係を築いて、江戸時代にも発展をつづけた。


歴史先生:そうなります。第3代利常の時代には、越中の寺の中でも「別格」という扱いになり、伽藍の建立が盛んになります。そのころ建てられたのが大広間です。同じころ、今の高岡駅に近い瑞龍寺でも大規模な建築ラッシュが同時に始まるのですが、その話はまた後で。


マナブ:建物を建てるにはお金が要りますよね。


歴史先生:はい。勝興寺は本山である西本願寺、そして加賀藩から多くの資金援助を得て、伽藍の造営に使うことができました。そして第6代前田吉徳(よしのり)の子である前田治脩(はるなが)が勝興寺の住職となりました。しかし兄たちが相次いで亡くなったため治脩は還俗して1769年に第11代当主となります。


マナブ:勝興寺と前田家はますます緊密な関係になったわけですね。


歴史先生:そうなんです。勝興寺と前田家が最高の良い関係にある中、本堂の建設が始まり、1795年に完成。西本願寺にも匹敵する巨大建造物を作り上げたわけです。


マナブ:でもそんな良い関係も、明治維新になると援助が期待できなくなりますよね。


歴史先生:明治維新によって前田家からの援助は少なくなりましたが、しかし何といっても越中富山は真宗王国。たくさんの熱心な門徒を抱え、その寄付によってこの大きなお寺の維持管理が今日に至るまで続けられています。


マナブ:なるほど、今もそれが続いているわけですか。すばらしい。


如意の渡の像


マナブ:さて、伏木の駅まで戻ってきました。


歴史先生:駅前にあるこの銅像、なんだかわかりますか?


マナブ:あ、これって、安宅関で弁慶が義経を叩いたという有名なシーンかな? でも安宅関ってここですか?


歴史先生:いえ、安宅関は石川県の小松市あたりで、ここからはかなり遠いです。でも、正解です。


マナブ:というと?


歴史先生:あのシーンは歌舞伎の勧進帳の名場面で、安宅関を通過するために芝居を打ったという話なんですが、義経記によるとあのシーンは安宅関ではなくて「如意の渡」での出来事とされています。で、その如意の渡はこのあたりにあったと考えられているんです。


マナブ:そうなんですか。えーっと、どういう話でしたっけ?


歴史先生:義経一行が如意の渡を通過する際に、役人から呼び止められます。当時義経は言わば指名手配の状態。人相書きなどもあったことでしょう。役人は義経らしき若者が交じっているのを見て、詰問します。一行は弁慶がリーダーを演じて義経は若手の下っ端のような感じで演技をしていたので、リーダーの弁慶は義経に対して「こいつが義経に似ているからこんな手間をかけさせやがる」と言って、杖で何度も殴打します。それを見た役人は「わかった、わかった。もうよい、通れ。」となりました。無事通過したのち、弁慶は主人にとんでもないことをしてしまったと号泣して詫びます。それを義経が優しく許す、という物語でした。


マナブ:そうでしたね。思い出しました。


歴史先生:では再び氷見線に乗って、高岡市内へ戻りましょう。


天守閣もない高岡城はなぜ富山県唯一の百名城に選ばれたのか?


越中中川駅



マナブ:伏木駅からJR氷川線に乗って高岡方面へ戻ること約10分。高岡駅の1つ手前にある越中中川駅(地図 ❶)で下車しました。かわいらしいペイントが施された駅です。


歴史先生:これから高岡城へ行きます。越中中川駅からは歩いて5分くらいです。


高岡古城公園の入口


歴史先生:高岡古城公園の東南側にある入口から入りましょう。


マナブ:ここはたしか百名城の1つですよね?


歴史先生:よくご存じで。


マナブ:家内のお父さんが百名城のスタンプを集めていまして、家内がここにもお父さんを連れてきたはずです。それで覚えていました。


歴史先生:ではここがなぜ百名城に選ばれたのか。その理由を考えながら歩いてみましょう。


高岡古城公園(地図 ❷)

〒933-0044 富山県高岡市古城1−1−9

入場自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.kojyo.sakura.ne.jp/ 


高岡古城公園の案内図


歴史先生:ここに案内図があります。このお城の形をみて、どう思われますか?


マナブ:むずかしい質問ですね。えーっと、第一印象としてはお堀が多い。


歴史先生:そうですよね。面積の約1/3がお堀になっています。ではお堀ではなくて逆に地面の形に注目すると、どうなりますか?


マナブ:中央の大きな島、ここが本丸かな? その周りに衛星のような島がならんで、それぞれがつながっています。


歴史先生:そう、そこが特徴なんです。この形は当時の最先端の防御形態とされた「馬出し」が6つも連続しているというもので、こんなお城は日本各地にある何百というお城の中でもここ高岡城と名古屋城くらい。


マナブ:そうなんですか。


歴史先生:これほどシンプルで論理的に馬出しを構成している縄張りは他に類を見ない、という専門家もいます。


マナブ:ところで先ほどから言われている馬出し、というのは何ですか?


歴史先生:お城の入口、ここを「虎口(こぐち)」というのですが、城を攻める時、敵はこの虎口を突破して城内へ入ろうとします。ということでお城の防御力というのはこの虎口をどう守るかにかかっています。


マナブ:よくお城の入口の門のところは「枡形」、になっていたりしますね。


歴史先生:そのとおり。枡形は敵を四角の狭いエリアに誘い込んで、2方向たまは3方向から矢や鉄砲で撃つものでしたよね。一方で馬出しは虎口の前に作られた、半円形または四角形の曲輪です。土塁または堀で囲まれていますが、ここではどうなっていますか?


マナブ:堀で囲まれています。


歴史先生:そうですね。本丸を攻める側は、本丸に続く虎口へ入るためにまずはこの馬出しに入ろうとします。しかし堀に囲まれた馬出しの入口は狭く、中から撃たれるのでなかなか進めません。そしてたくさんの犠牲を出してようやく1つ目の馬出しの中に入ってもまた次の馬出しがあり、なかなか本丸の虎口へたどり着けないんです。また複数の馬出しがつながっていることで、どこかが危うくなると隣の馬出しから兵を動かして援軍を送るのも実に簡単です。


マナブ:そうか。攻める側からすると実にやっかいな造りになっていますね。


歴史先生:でもそれだけではありません。馬出しの中には騎馬兵もいました。相手が攻めあぐねて退却を始めると騎馬兵が馬出しから外へ出て追撃するという、守りだけではなく反撃力も持つことができる構造なんです。


マナブ:あ、だから「馬出し」という名前になったんですね。


歴史先生:馬出しは主に東日本のお城で見ることができます。それは東国は比較的平地が多く、しかも馬の産地だったこともあって、騎馬兵の活用が進んでいたことが理由として挙げられると思います。中でも武田信玄は馬出しを多用し、当時日本最強と言われた勢力にのし上がりました。


マナブ:なるほど。


歴史先生:戦国の諸大名は武田軍の戦術を研究し、自らも馬出しを活用するようになります。大坂城の陣で、弱点であったお城の南側に作った「真田丸」は有名ですね。


マナブ:NHK大河ドラマのタイトルにもなりましたね。


歴史先生:あれも馬出しの典型例といえるでしょう。そして前田家2代目の利長も馬出しを研究し、富山城、高岡城でそれを大いに活用していきます。中でも最後に作った高岡城は馬出しの究極の形を実現しているんです。この高岡城の縄張りは、築城名人と言われた高山右近によるもの、とされています。


1609年築城当時の姿を今も残す


マナブ:ん? 待ってください。高山右近といえば、摂津の国の戦国大名ですよね? たしかキリシタン大名としても有名な。


歴史先生:はい、そうです。


マナブ:それがなぜ高岡城の築城に関わっているんですか?


歴史先生:おっしゃるように高山右近は摂津の国の大名で、自身も洗礼を受け、領内でのキリスト教の布教を後押ししていました。しかし1587年、秀吉が伴天連追放令を発布し、それに反対して大名の地位を捨てます。


マナブ:信仰を捨てるくらいなら大名を辞めた方がまし、ということですか。


歴史先生:はい、それほど彼の信仰心は堅固なものでした。高山右近はそれだけでなく茶道や築城の知識も深かったので、その才能を愛した前田利家が金沢へ招きます。そしてその子の前田利長は高山右近のことを重要な相談役として重用しました。


マナブ:利長と高山右近というのはそういう関係だったんですね。


歴史先生:しかし1614年、今度は家康がキリシタン国外追放令を出します。高山右近は国外追放処分となり、長崎からマニラへと渡り、翌年現地にて亡くなりました。


マナブ:あぁ。最後まで信仰を貫いた人だったんですね。すごい。


歴史先生:さて、この高岡城ですが、前田利長が自身の隠居のための場所として1609年に築城しました。しかし1615年に江戸幕府は「一国一城令」を発行し、藩主の居城以外のお城は取り壊すことになりました。全国におよそ3,000もあったお城はこの時一気に170ほどに減ったようです。高岡城も造られてからわずか6年で廃城となります。ちなみに利長はその前の年の1614年に亡くなっています。


マナブ:利長が亡くなって使い道がなくなったのかもしれませんが、それにしてもせっかく造ったのに、実に短命なお城だったんですね。


本丸と二の丸をつなぐ土橋から見たお堀


歴史先生:一国一城令で残ったお城は藩主の指示の下で江戸時代を通していろいろと改修され、形が変わっていきます。一方で通常、廃城となったお城は堀が埋められ田畑となったり、石垣の石が石材として持ち去られたりします。しかし高岡城の場合は跡を継いだ第3代前田利常がここを引き続き管理し、米蔵や塩蔵を設置し、土塁や堀をそのまま活用したことで、築城当時の姿を留めているんです。


マナブ:ほぉー、なるほど。


歴史先生:さらに明治になってこの場所が民間に払い下げになる予定だったところ、高岡市長や市民による反対運動によって、ここは古城公園として残されることになりました。そういった経緯によって高岡城は昔のままの姿で今に伝わっています。日本のお城の中でも最高レベルの保存状態のまま残っている中世の城郭遺構として高く評価されているんです。


マナブ:ということは、連続馬出しの最先端の縄張りとか、当時の姿がそのまま保存されていることが、百名城になった理由と考えていいわけですね。


歴史先生:はい、そのとりです。


秋は紅葉が美しい朝陽橋


朝陽橋を渡ると本丸に通じている


歴史先生:では朝陽橋を渡って本丸へ行きましょう。


マナブ:お、朝陽滝というのが脇にあるみたい。滝好きの私としては見逃せない。


朝陽滝には水が流れていなかった


歴史先生:ということで朝陽滝に来てみましたが、水が流れていません。


マナブ:今日は節電中、ということなんでしょうか。ここに滝があったことを想像するしかありませんでした。


本丸広場


マナブ:朝陽橋から坂を上ると本丸広場に出てきました。そこそこの広さがあります。


歴史先生:戦後まもなくはここは野球場だったそうです。


マナブ:今でも何となくそんな雰囲気がありますね。


前田利長像


歴史先生:そして本丸広場を見下ろす場所に、前田利長の像があります。


マナブ:えっ? あれは兜ですか? 長い!


歴史先生:利長の兜は、なんと約1.3mもあったそうなんです。銀箔で覆われていて、ピカピカと光っていました。


マナブ:戦場では目立ってしょうがない。これでは狙われませんか?


歴史先生:自分を大きく見せて相手を威嚇する効果があっただろうとも言われていますし、配下の武将からは「殿があそこにいる。あそこから見ている。」ということがわかって、一層いいところを見せようと頑張ったという効果もあったのでしょう。


マナブ:それにしても長いですね。ずっとこれをかぶっている利長も首が疲れたことでしょうね。


歴史先生:ところで高岡という地名ですが、これは前田利長が付けたものです。それまではこの地域は関野、あるいは志貴野などと呼ばれていましたが、ここにお城を築くにあたって、中国の古典「詩経」の一節である「鳳凰鳴矣于彼高岡(鳳凰鳴けり彼の高き岡に)」から名前を取りました。


マナブ:おめでたい感じのフレーズですね。


歴史先生:はい。お城を築いて街びらきをするにあたって、利長がつけた瑞祥地名です。


マナブ:そういえば「岐阜」と名付けたのは信長でしたっけ?


歴史先生:はい。それに似たようなエピソードですね。


射水神社



射水神社(地図 ❸)

〒933-0044 富山県高岡市古城1−1

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.imizujinjya.or.jp/


マナブ:さて、本丸の中には射水(いみず)神社という神社があります。


歴史先生:ここは元は二上山という伏木の西側にある山にあった神社なんですが、明治の神仏分離によって高岡城址へ移転をしてきました。


射水神社 外拝殿


歴史先生:明治時代の大火で一度は焼失しますが、1902年(明治35年)に再建されたのが現在の社殿になります。


マナブ:射水神社という大きな額が印象的です。


歴史先生:あの扁額は第12代前田斉泰の筆によるもの、だそうです。


マナブ:ところで、街のど真ん中に明治の建物が残っているということは、高岡は空襲がなかった?


歴史先生:大事なポイントですね。はい、太平洋戦争中、高岡市街地への空襲はありませんでした。お隣の富山市は大空襲を受けて都市機能が壊滅しましたし、伏木は重要な港湾ということで、港湾に対する攻撃がなされました。幸い勝興寺は少し山手だったので、焼失を免れましたが。


マナブ:今日、私たちが歴史を感じられる街というのは、例外的に空襲を受けなかった街なんですね。本当はもっともっと、たくさんの文化財が日本にはあったはず。アメリカとの戦争で失ったものはあまりにも大きすぎます。


日本一ハンサムな大仏様に会いに行こう:高岡大仏


大仏前通り


マナブ:射水神社の前の道をまっすぐ進んでお城の外に出ると、そこは「大仏前通り」という通りになりました。いよいよ大仏様とご対面です。


歴史先生:古い建物がいくつか見られる通りです。


角久(かどきゅう)旅館


マナブ:古そうな旅館もありますね。


歴史先生:こちらの角久旅館は1686年(明治元年)の建物です。大仏の正面にある老舗旅館です。そしてここの信号機のところ、左側に高岡大仏があります。


マナブ:え? ということは大仏は明治元年にはもうあった?


歴史先生:もちろんです。


高岡大仏


マナブ:あ、突然左側に大仏様が見えました。大きいですね。



高岡大仏(地図 ❹)

〒933-0039 富山県高岡市大手町11−29

境内自由。台座への入場は9:00~17:00(無休)、金額に指定はないが志納を入れる箱がある。

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.takaokadaibutsu.xyz/ 


高岡大仏


歴史先生:こちらの高岡大仏ですが、元々は源義勝(みなもとのよしかつ)という鎌倉時代の武士が承久の乱(1221年)を避けて仏門に入り、越中の国に来たことに始まります。彼は二上山麓で高さ4.8mの木造大仏を作りました。そしてその大仏は前田利長による高岡城築城の際にここへ移されました。利長の庇護のもと、高岡の城下町の守護として崇拝されるようになったんです。


マナブ:元々は鎌倉時代の大仏。そして1609年からここにあった。


歴史先生:そうなんです。その初代大仏がどうなったのかよくわかりませんが、その後江戸時代中頃の1745年にまた木造大仏が作られました。でも惜しいことに1821年の大火で焼失。その後再建されますが、1900年の大火でまたもや焼失。


マナブ:高岡の人たちがとても落胆して悲しんだことが容易に想像できますね。


歴史先生:そして1933年(昭和8年)に、今後は焼失しないように青銅製で建立したのが今の大仏像です。奈良、鎌倉、と並んで日本三大仏と言われています。


マナブ:わりと最近できた大仏かと勘違いしてました。実は長い歴史があるんですね。


高岡大仏の像の高さは7.43mと意外と小さい


マナブ:ところで、この大仏は奈良や鎌倉と比べて大きさは同じくらい?


歴史先生:高岡大仏の高さは15m、奈良は18m、鎌倉は13mということで同じくらいなのですが、高岡大仏の場合は台座がその半分くらいを占めているので、像高としては7mとなります。像高は奈良は15m、鎌倉は11mなので、大仏様自体はだいぶ小さめです。


マナブ:重さで比べるとどうでしょう?


歴史先生:いい質問ですね。重さで比べるとよくわかります。高岡は65t、奈良は250t、鎌倉は121t、ということです。奈良の大仏は巨大。中がほぼ空洞の鎌倉はその半分。高岡はさらにその半分。


マナブ:それを聞くと奈良の大仏がいかに桁外れなのか、よくわかります。


歴史先生:しかも古い。


マナブ:そうですね。


近くから見上げる高岡大仏


歴史先生:でも高岡大仏が日本一、という人もいます。


マナブ:それはなぜでしょう?


歴史先生:日本一ハンサムな大仏様、と言われています(笑)。


マナブ:好みもあるかもしれませんが(笑)、そう言われればそうかもしれません。


台座の内部には焼け残った二代目の御尊顔がある


歴史先生:では中に入って見ましょう。


マナブ:志納を入れる箱に、気持ちだけのお金を入れました。


歴史先生:飾られている仏画を見ながら裏に回ると、大仏のお顔だけがお祀りされています。


マナブ:これは?


歴史先生:1900年の大火で焼けた二代目の高岡大仏です。お顔のところだけが焼け残って、今は三代目の大仏の中で眠っています。


マナブ:よく残りましたね。焼けた割にはきれいなご尊顔です。ここもお参りしていきましょう。


大仏寺の寺務所


歴史先生:では次の目的地へ行きましょう。高岡市の中心部を通っていきます。


マナブ:大仏前通りを進むと「御旅屋通り」(地図 ❺)というアーケードが見えてきました。何と読むんだろう?



御旅屋通りアーケードの入口


歴史先生:「御旅屋(おたや)」通りと読みます。御旅屋とは江戸時代の初め頃、加賀藩主が参勤交代や鷹狩、領内の視察などに訪れる時に宿泊した場所で、現在は残っていません。その場所は今はこのようなアーケード商店街になっています。


マナブ:商店街好きなので、わくわくします。


御旅屋通りアーケードの中


マナブ:あれ、誰もいない。お店も多くはシャッターを閉めてる。残念。


旧大和百貨店


歴史先生:アーケードの入口には元の大和百貨店があります。


マナブ:金沢の香林坊でそのお話がありましたね。高岡店を閉業したとか。ビル内には新しくお店が入っているようですが、それにしても誰も歩いていません。


駅前の電車通りも人通りがない


歴史先生:末広町の電停のところから、電車通りを駅に向かって歩きます。


マナブ:ここも本来は賑わうはずの場所だと思いますが、誰も歩いていません。平日午後とはいえ、ちょっと寂しすぎます。駅に歩くまでの間、誰ともすれ違わず、通学途中の自転車の高校生3人に抜かれただけでした。


高岡市は藤子・F・不二雄の出身地


歴史先生:高岡市出身の有名人といえば藤子・F・不二雄さん。相棒の藤子・A・不二雄さんは同じく富山県の氷見市の出身です。


マナブ:それで駅周辺にはドラえもんがたくさんあるんですね。


近代的に整備された高岡駅


高岡駅構内



マナブ:高岡駅(地図 ❻)の中を通っています。駅自体は素晴らしい建物なんですが、ほとんど人がいません。どうしちゃったんでしょう?


歴史先生:高岡市は1990年代以降、急速な人口減少に悩まされています。特に若い世代が富山市などへ流出してしまい、町から活気が失われました。さらには新幹線の新高岡駅の前にイオンモールが開業し、そちらは買い物客でにぎわっています。


マナブ:昨今の地方都市では、どこも同じような問題を抱えていますよね。郊外のモールだけがはやって、市街地中心部がさびれてしまう。どうしたらいいんでしょう?


歴史先生:その解決法として「コンパクトシティ」が話題になっています。おとなりの富山市はその成功例としても全国で注目されていますから、富山市に行ったときに比べてみてみましょう。


マナブ:今日はここまで伏木の勝興寺、そして高岡城、大仏と見てきましたが、金沢でたくさん見たような外国人観光客はほぼ皆無でした。彼らを引っ張ってこれるような魅力があればいいのですが。


歴史先生:2つの国宝寺院のほか、漁港で知られる氷見も近いですし、ドラえもんは海外でも有名。大仏は外国の人にもわかりやすいし、金沢から新幹線ですぐ。観光資源としてのポテンシャルはすごくあると思います。さて次はもう1つの国宝寺院、瑞龍寺を見に行きましょう。ここも本当にすごいんです。


マナブ:お、それは楽しみだ。


国宝だらけ。日本のお寺らしくない整った大伽藍:瑞龍寺


八丁道



マナブ:高岡駅を通り過ぎて、駅の南側に来ています。


歴史先生:ここから瑞龍寺までは徒歩で12分ほどです。駅前の通りから八丁道へ右折します。


マナブ:歴史のありそうな道ですね。


歴史先生:この道は瑞龍寺と前田利長の墓所を結ぶ、長さ八丁(およそ870m)ほどの通りです。第2代前田利長の三十三回忌に当たる1646年に第3代前田利常があらたに墓所を造り、瑞龍寺から墓所に向かう道として整備しました。


前田利長像が見えたら瑞龍寺はもうすぐ


マナブ:あ、前田利長公。


歴史先生:ここでも例の長い兜を被っていますね。


マナブ:利長の像を作るときには、あの兜がシンボルなんですね。


総門(国指定重要文化財)


マナブ:さぁ、瑞龍寺に着きました。チケットを買って、総門から入ります。


瑞龍寺(地図 ❽)

〒933-0863 富山県高岡市関本町35

拝観料500円(高校生以下、団体割引あり)

9:00~16:30(12/10~1/31の間は16:00まで)、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.zuiryuji.jp/ 


マナブ:ここはどういうお寺なんですか?


歴史先生:瑞龍寺は第2代前田利長を弔うために、第3代利常が1614年に建立しました。寺の名前は利長の戒名である「瑞龍院殿聖山英賢大居士」から取られています。


マナブ:なるほど。


歴史先生:今のような本格的な大伽藍の造営は1645年~1663年にかけて行われたものです。伏木で見た勝興寺の国宝大広間ができたのが1653年ですから、ちょうど同じころ、瑞龍寺でも大工事が行われていたんです。


山門(国宝)と禅堂(左:国指定重要文化財)、大庫裡(右:国指定重要文化財)


マナブ:江戸時代後期(正保年間)の建築と伝わる国指定重要文化財の総門をくぐると、左右対称の広い空間に出ました。この眺めはすごいですね。何だか日本のお寺らしからぬ、中国の宮殿か、あるいはヨーロッパ的なものを感じます。


歴史先生:おそらくは左右対称で広場を多く設けているのがその理由でしょう。さて、正面にあるのが国宝の山門です。


マナブ:カラフルな仁王さんが見えますよ。


山門(国宝)


山門(国宝)の奥には仏殿(国宝)が見える


歴史先生:この山門ですが、1746年に一度火災で焼失しました。1820年になってようやく山門が再建され、仁王像もその時に再度彫られたものです。像高3.4mの大きな仁王像(金剛力士像)で、鮮やかな彩色は近年になって塗り直されたものです。


マナブ:それから「高岡山」って書かれた青い文字の額も目立っていて、おしゃれです。


歴史先生:これは隠元が揮毫したものなんだそうですよ。


マナブ:え? 隠元というと黄檗宗の? 長崎に行ったときに勉強しました。


歴史先生:はい、その隠元です。瑞龍寺は曹洞宗の寺院なんですが、建立当時、中国から来た高僧の隠元は曹洞宗にも影響を与えていました。隠元がもたらした黄檗宗とその文化は当時の流行と言ってもいいかもしれません。


仏殿(国宝)と回廊(国指定重要文化財)


マナブ:山門をくぐるとまた違った空間に出ました。今度はぐるりと回廊に囲まれた場所です。えーっと、それから何だろう、普通のお寺じゃない気がするのは?


歴史先生:この芝生じゃないですか?


マナブ:あ、そうです。お寺や神社の境内は普通は砂利とかだと思いますが、ここは芝生になってる。


歴史先生:この芝生にしたのは1985年からの昭和・平成大修理の時で、江戸時代にはこれはありませんでした。しかし芝生にしたことで瑞龍寺の左右対称で一直線の伽藍配置を引き立てているように思うのですが、いかがでしょう?


マナブ:さっき、どこかしらヨーロッパ的と言いましたが、たしかにこの伽藍配置には芝生は似合っていますね。


瑞龍寺 仏殿の前は芝生が印象的


仏殿(国宝)


歴史先生:瑞龍寺の中心である国宝の仏殿の前に来ました。この建物は1659年にできています。


マナブ:これは創建当時のもので、再建ではないんですね。


歴史先生:はい、そうです。ではまずはこの建物をよく見てください。何か特徴に気づきますか?


マナブ:よく見るととても細かい、精密な細工がされていますね。少し赤い色が残っているのも、特徴かな。


仏殿(国宝)


歴史先生:樹齢600年の能登のケヤキを使った、総欅(けやき)造りの建物です。屋根はどうです?


マナブ:あ、思い出した! 金沢城でこの話がありましたね。金沢城で使われていた鉛瓦。金沢城以外では瑞龍寺でも使われていると。日本ではこの2か所だけ。


歴史先生:大正解です。この仏殿の屋根は鉛瓦。47tの鉛が使われていて、鉄砲の玉に加工すれば250万発分にもなるのだとか。そのため前田家の隠された弾薬庫ともいえるものだったのではないかという説もあります。


仏殿の内部


マナブ:仏殿の中に入って見ましょう。


歴史先生:ご本尊の釈迦如来像と文殊・普賢が須弥壇の上に安置されています。天井から吊り下げられている絹織りの大きな天蓋も印象的。


マナブ:巨大な寺院ですが、ご本尊は意外と小ぶりなんですね。


歴史先生:「しーっ、そんなこと言っちゃだめ!」 と言いたいところなんですが、実はその感想はいいところを突いています。


マナブ:え、そうなんですか? 自分でも失礼なことを口走って「しまった」と後悔したんですが。


歴史先生:禅宗の寺院では、仏殿自体が祈りの空間です。よって、建築自体には荘厳さが求められ、この仏殿も大きさだけでなくその精緻な装飾など、実に荘厳な造りになっています。逆に仏像は建物の荘厳さを引き立たせるために、あえて小さめに作るのが禅宗流。


マナブ:へぇー、そうだったんですか。知らなかった。


歴史先生:ちなみにこの釈迦如来像ですが、第3代前田利常が中国人仏師に掘らせた唐様の仏像です。もちろん創建当時のものなんですよ。


マナブ:いやー、それを聞いてありがたみが100倍増しました。


法堂(国宝)


マナブ:続いては法堂です。


歴史先生:これは「はっとう」と読みます。1655年に建てられた、創建当時のもので、こちらは総ヒノキ造り。方丈建築に書院建築を加味した様式で、これもまた国宝です。ここは説法や法要が行われる場所です。


マナブ:国宝3つが一直線に並んでる。


歴史先生:そしてそれを取り囲むようになっている建物群のほとんどが国指定重要文化財。


マナブ:すごいですね。それにしても法堂は大きいですね。


歴史先生:間口・奥行が11間×9間ということですから、1間は1.8mとして、およそ20m×16mくらいでしょうか。江戸時代の禅宗寺院としては非常に大きな法堂であることは間違いありません。


大庫裡の内部


歴史先生:さぁ、瑞龍寺を見ていただきました。どうでしたか?


マナブ:いやー、びっくりです。すごいお寺ですね。これは一生、印象に残るお寺の1つになるでしょう。個性的な国宝の3つの建物が一直線に並んで、左右対称になっている大伽藍。実に見ごたえがありました。


歴史先生:よろこんでいただいて、よかったです。


マナブ:というよりも、これだけのお寺なのに、なぜ今まで知らなかったんだろう? 「一度は瑞龍寺に行ってみたい」なんていう話、今まで聞いたことがありません。


歴史先生:ですよね。来る前は「高岡の印象は一切ない」と言われていましたが、高岡が実はとても歴史深い町で、すごい文化財がたくさんあるということ、納得していただけましたか?


マナブ:はい、大納得です。高岡は歴史の街。もっともっと知られてないとおかしいですよね。皆さんにも是非一度、訪れていただきたい街です。

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