奈良時代から栄えていた伏木港
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奈良時代から栄えていた伏木港

氷見線
マナブ:今日は富山県高岡市に来ています。
歴史先生:高岡は初めてですか?
マナブ:まったくの初めてです。何の印象も知識もありません。
歴史先生:高岡は知名度があまり高くないかもしれませんが、実は歴史深い町なんです。まずは氷見線の列車に乗って「伏木」まで行きましょう。
マナブ:はい、行ってみましょう。

ボックスシートと開く窓、扇風機など、なつかしさを感じられる車両

伏木駅

マナブ:JR氷見線に揺られて12分。伏木駅(地図 ❶)に着きました。
歴史先生:あそこに除雪車もいますよ。

除雪車
マナブ:さすが雪国ですね。ところで、駅看板のところどころにロシア語みたいなのが書かれていますが、これは何でしょう?
歴史先生:伏木港はロシアとの貿易が盛んです。よってロシアの人もここをよく訪れるので、ロシア語の表記があるのも当然なんです。
マナブ:へぇー、そうなんだ。なんだか遠くまで来たっていう感じがします。
歴史先生:伏木は古くからの港町で、遅くとも奈良時代には貿易港として栄えていました。大和政権はここに越中国府を置き、歌人として有名な大伴家持は越中国守としてここに赴任していたんです。
マナブ:えっ、そん な古くから栄えた場所なんですか。
歴史先生:はい。大伴家持は越中に5年間滞在し、万葉集に残る歌を含めて全部で223首の歌を残しました。

勝興寺の前にある大伴家持の像
マナブ:ずいぶんとたくさんの歌が残っているんですね。それらはどんな歌なんでしょう?
歴史先生:代表的なものを挙げておきますね。
「かけまくも あやにかしこき 射水川 清き瀬の音を 聞くがともしさ」
意味は、「口に出すことも 畏れ多い、射水川(現:小矢部川)の清らかな瀬の音を聞けなくなるのは寂しい」ということで、赴任を終えて都へ帰る際に詠んだ歌とされています。
マナブ:この地への愛着の深さが伺えますね。
歴史先生:そうですよね。さて、その後も伏木は港町として発展します。江戸時代には加賀藩の年貢米をここから船で運び出すため、大きな米蔵がありました。また、江戸時代の日本海の海運と言えば?
マナブ:えーっと、北前船?
歴史先生:そうです。伏木は北前船の主要な寄港地として栄え、廻船問屋が活躍します。
マナブ:廻船問屋って、時代劇とかでよく耳にしますが?
歴史先生:船を持っている船主さん、荷物を送りたい荷主さん、陸揚げした荷物を買って商売したい商人、船乗りたちなど、海運にはいろんな人が関わりますが、それらの間を取り次いで、税金の処理なども面倒を見てくれる港の総合サービス企業、みたいな感じでしょうか。
マナブ:なるほど、そういう会社は必要ですね。
歴史先生:伏木港は明治以降も特別輸出港・特別貿易港に指定され、ロシアや朝鮮との貿易拠点になっていたんです。
マナブ:今はどうなっているんですか?
歴史先生:今では東にある新湊、富山と合わせて「伏木富山港」として、国の国際拠点港湾(旧:特定重要港湾)に指定されています。ふ頭も整備拡張さ れ、貿易港としての位置づけの重要さは今も変わりません。
マナブ:国際拠点港湾っていうのは国内で何か所くらいあるんでしょう?
歴史先生:現在20か所が指定されています。北から:苫小牧、室蘭、仙台塩釜、千葉、新潟、伏木富山、京浜、清水、名古屋、四日市、堺泉北、阪神、和歌山下津、姫路、水島、広島、徳山下松、下関、北九州、博多、です。
マナブ:たしかに重要な工業港が並んでいますね。そこに肩を並べる港だということで、理解しました。
勝興寺:京都の西本願寺に匹敵する巨大建造物がなぜここにあるのか

順徳天皇勅願所という石碑が立つ

歴史先生:では伏木駅前の通りをまっすぐに進んでいきましょう。少し登り坂になっています。
マナブ:大きな石碑が立っていますね。「順徳天皇勅願所」と書かれています。
歴史先生:順徳天皇って、わかりますか?
マナブ:うーん、どっかで聞いたなぁ。誰でしたっけ?
歴史先生:後鳥羽上皇の皇子で、後鳥羽上皇の元で天皇をやっていました。
マナブ:あ、そうか。後鳥羽上皇が承久 の乱で敗れた際に、後鳥羽上皇は隠岐に流されて、この天皇もどこかへ流されたんでしたっけ。
歴史先生:はい。佐渡島へ流されました。1221年の承久の乱の後、佐渡島に流されてから21年間、一度も本土へ戻ることなく、島で亡くなった天皇です。都へ戻れないことに絶望して自ら命を絶ったとも言われています。
マナブ:そうでした、そうでした。さぞかしその怨霊は恐れられたんではないでしょうか?
歴史先生:それがですね、そうでもないんです。後鳥羽上皇の怨霊の祟り(たたり)は非常に有名なんですが、その息子さんの順徳天皇の祟りの話はほとんどありません。
マナブ:そうなんですか。ところで順徳天皇と、ここ伏木とは何の関係があるんでしょう?
歴史先生:順徳天皇は佐渡に流された際に、「殊勝誓願興行寺」というお寺を建て、勅願寺としました。しかしこのお寺も廃絶になってしまいます。そして約300年後の1517年になって、ここ伏木にあった寺が「殊勝誓願興行寺」の寺号を継承して、「勝」の字と「興」の字を取って「勝興寺」と名乗ることが許されました。そのため勝興寺は順徳天皇の勅願時を引き継いだ寺、という位置づけになっているんです。
マナブ:ふーん、そういうこともあるんですね。

旧伏木測候所
マナブ:坂の途中、左側にとっても変わった建物があります。あれは何でしょう?
歴史先生:旧伏木測候所、です。1909年に今の位置に移され、それ以降100年以上にわたってここで気象観測をしています。
マナブ:旧という字がついているけど現役なんだ。すごいですね。
歴史先生:富山県のローカルのテレビの天気予報をみていると、「富山」と並んで「高岡伏木」の天気が出てきます。「高岡」ではなくてわざわざ「高岡伏木」となっているのはここ伏木で観測をおこなっているからなんですよ。

勝興寺 総門(国指定重要文化財)

マナブ:さて、坂を上って勝興寺(地図 ❷)の前までやってきました。
歴史先生:最初の門は総門。江戸の終わりに近い1840年に建てられた、お寺や城郭でよくみられる高麗門という形式の門です。国指定重要文化財です。
勝興寺(地図 ❷)
〒933-0112 富山県高岡市伏木古国府17−1
拝観料(文化財協力金)500円(高校生以下、団体割引あり)
9:00~16:30(12~2月は16:00まで)
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

鼓堂(国指定重要文化財)
マナブ:総門を入ると左側が受付。ここで文化財協力金500円を支払います。で、正面にある変わった建物が気になってしょうがないのですが。
歴史先生:こちらは鼓堂。1733年に建てられたもので、国指定重要文化財です。2階に太鼓が置いてあって、時刻を知らせたり、法要の合図を知らせる役割を持っています。寺院としては珍しく、城郭のやぐらのような作りの建物になっています。

唐門(国指定重要文化財)
マナブ:続いては金ぴかの門。これは少し新しいのかな?
歴史先生:いえ いえ、1769年建立の国指定重要文化財です。元々はここではなく、京都の興正寺(こうしょうじ:浄土真宗興正派の本山)にあった勅使門でしたが、1893年(明治26年)にここへ移築されました。
マナブ:浄土真宗興正派っていうのは初めて聞きました。
歴史先生:浄土真宗の主な派といえば?
マナブ:西本願寺が本願寺派、東本願寺が大谷派、ですよね?
歴史先生:大正解。興正寺というのは西本願寺に隣接している末寺だったのですが、1876年(明治9年)に興正派の本山として独立し、現在486の末寺を持っています。そのため、作法や儀礼は本願寺派に似ているところが多いようです。
マナブ:こんな立派 な門を譲ってくれるなんて、興正寺も太っ腹ですね。勝興寺は興正寺の末寺の1つですか?
歴史先生:いいえ、そういう話ではなくて、これは勝興寺が興正寺から買い取ったものなんです。財政難に苦しむ興正寺と、伽藍を充実させるために由緒ある立派な門が欲しかった勝興寺のニーズが合致した結果でした。ちなみに勝興寺は本願寺派です。
マナブ:「こうしょうじ」の門が「しょうこうじ」の門になった、という話は少しややこしい(笑)。
歴史先生:そうですね(笑)。
マナブ:それにしてもさっきから国指定重要文化財だらけ、ですごいですね。
歴史先生:まだまだこれから、ですよ。

勝興寺 本堂(国宝)
マナブ:唐門をくぐると、いよいよ本堂が見えてきました。いやー、大きい!
歴史先生:あれが国宝の本堂です。

天から降った石?
マナブ:ん? 本堂の手前に「天から降った石」というのが置いてあります。これは隕石なのかな?
歴史先生:伝承では約200年前に国分の浜に天から降ってきた石で、夜になると鳴くような音がしていたとか。そこで勝興寺に持ってきて本堂前に置いたら鳴くこと がなくなったんだそうです。でも、調べてみるとよくある普通の安山岩で、隕石とは考えられないんだそうです。
マナブ:そうなんだ。

実ならずの銀杏
マナブ:そして次は「実ならずの銀杏」? これも不思議なのかな?
歴史先生:樹齢300年といわれる大木です。伝承では銀杏の実を取ろうとして子供が木に登り、落ちて大けがをしたり、実の取り合いでけんかをしたりするので、住職がお経をあげたところ、翌年からまったく実をつけなくなったんだとか。
マナブ:それは不思議だ。
歴史先生:でも銀杏って、雌木と雄木があって、オスの雄木には実はなりません。だから実ならずの銀杏は世の中にたくさん生えているんです。
マナブ:あら、そうなんだ。

勝興寺 本堂(国宝)
歴史先生:さて、いよいよ本堂です。1795年に建てられた国宝です。
マナブ:1795年というと、他の建物よりだいぶ新しいですね。それまでは本堂は?
歴史先生:もちろん本堂はありました。1584年にこの地に移転した際に本堂が建立されましたが、老朽化が激しくなり、1795年に再建されたのがこの本堂です。
マナブ:それにしても大きい、ですよね。
歴史先生:間口約39.3m、奥行約37.4m、棟高約23.5m、という超巨大サイズ。これは西本願寺阿弥陀堂(間口約42m、奥行約45m、棟高約25m)にも匹敵する、浄土真宗寺院の大型本堂の代表例です。
マナブ:あ、たしかに西本願寺に似てるかも。
歴史先生:はい。西本願寺阿弥陀堂を規範として、西本願寺から宮大工を呼んで作らせました。
マナブ:どうりで。でもほんの少しだけ、本山より小さく作っているところに気遣いを感じます(笑)。

本堂の柱と屋根
マナブ:内部は写真が撮れませんが、とても格式ある、広い空間になっていました。

本堂から見る経堂(国指定重要文化財)
歴史先生:本堂横にある経堂もまた、国指定重要文化財です。
マナブ:国指定重要文化財が当たり前になってきた。
歴史先生:こちらは1805年のもの。中を見ることはできませんが、極彩色を施した八角輪蔵が収められているそうです。建物は禅宗様式で建てられていて、浄土真宗の寺院としては大変珍しいものだとか。

式台門(国指定重要文化財)
歴史先生:こちらは式台門。
マナブ:これも重文?
歴史先生:そうです。1705年建立です。

大広間・式台(国宝)
歴史先生:そしてもう1つの国宝がこちら。大広間・式台です。
マナブ:これが国宝?
歴史先生:はい。1653年建立の大広間と、それに付設された1700年代末の式台、が国宝に指定されています。

大広間

式台
歴史先生:大広間は128畳あって、賓客の対面所として使われていました。式台は玄関や来客のお供の人たちが控えていた場所。
マナブ:あんまり古く感じないのは、現役で使われているからでしょうか? そしてこの建物、その広さに驚きます。
歴史先生:そうなんです。西本願寺にはもっとすごい対面所があり、飛雲閣というとんでもない贅沢な接待施設もありますが、ここの大広間・式台も本来は本山級の施設、と言えるでしょう。地方の末寺でこれほどの規模のものはあまり類を見ません。
マナブ:浄土真宗の中で、それだけここは重要拠点だったんでしょうか。そもそも勝興寺ってどういうお寺なんですか?
歴史先生:おっと、その話をしていませんでしたね。

大広間から奥に続く「奥書院」
歴史先生:室町時代の1471年、浄土真宗を広めた蓮如上人がここ越中での拠点として開いた土山御坊がその起源とされています。その後、何度か移転を繰り返し、先ほどお話ししたように1517年には順徳天皇勅願所を引き継いで勝興寺という名前になりました。
マナブ:室町時代か ら戦国時代にかけて、北陸というと一向一揆が強かったんですよね?
歴史先生:そのとおりです。勝興寺は越中の国における一向一揆勢力の拠点でした。大坂の石山本願寺と連携しながら北陸での戦力を拡大していました。
マナブ:となると、当然信長との抗争が起きる。
歴史先生:はい。実際に1581年には信長方による焼き討ちで寺院を焼失しています。
マナブ:やっぱり。
歴史先生:でも焼き討ちされた寺はここではなく、勝興寺がこの場所に移ったのは1584年のこと。
マナブ:本能寺の変(1582年)のあと、だ。
歴史先生:はい。本能寺の変の後、このあたりを治めていたのは佐々成政(さっさ なりまさ)です。彼がここ、かつて越中国府があった丘の上の土地に勝興寺が移転することを認めました。
マナブ:でも佐々成政もまたすぐに敗れる。
歴史先生:そうなんです。移転の翌年の1585年、佐々成政は秀吉に敗れてこの地は前田利家の子、前田利長が治めるようになりました。
マナブ:前田家の2代目ですね。
歴史先生:前田利長は勝興寺の既得権を安堵し、その保護に努めました。これによって、それまでは一向一揆を煽動 して戦国大名と対立していた勝興寺も、前田家の庇護のもと、その支配に甘んじるようになったんです。
マナブ:そして、それ以降は前田家とよい関係を築いて、江戸時代にも発展をつづけた。
歴史先生:そうなります。第3代利常の時代には、越中の寺の中でも「別格」という扱いになり、伽藍の建立が盛んになります。そのころ建てられたのが大広間です。同じころ、今の高岡駅に近い瑞龍寺でも大規模な建築ラッシュが同時に始まるのですが、その話はまた後で。
マナブ:建物を建てるにはお金が要りますよね。
歴史先生:はい。勝興寺は本山である西本願寺、そして加賀藩から多くの資金援助を得て、伽藍の造営に使うことができました。そして第6代前田吉徳(よしのり)の子である前田治脩(はるなが)が勝興寺の住職となりました。しかし兄たちが相次いで亡くなったため治脩は還俗して1769年に第11代当主となります。
マナブ:勝興寺と前田家はますます緊密な関係になったわけですね。
歴史先生:そうなんです。勝興寺と前田家が最高の良い関係にある中、本堂の建設が始まり、1795年に完成。西本願寺にも匹敵する巨大建造物を作り上げたわけです。
マナブ:でもそんな良い関係も、明治維新になると援助が期待できなくなりますよね。
歴史先生:明治維新によって前田家からの援助は少なくなりましたが、しかし何といっても越中富山は真宗王国。たくさんの熱心な門徒を抱え、その寄付によってこの大きなお寺の維持管理が今日に至るまで続けられています。
マナブ:なるほ ど、今もそれが続いているわけですか。すばらしい。

如意の渡の像
マナブ:さて、伏木の駅まで戻ってきました。
歴史先生:駅前にあるこの銅像、なんだかわかりますか?
マナブ:あ、これって、安宅関で弁慶が義経を叩いたという有名なシーンかな? でも安宅関ってここですか?
歴史先生:いえ、安宅関は石川県の小松市あたりで、ここからはかなり遠いです。でも、正解です。
マナブ:というと?
歴史先生:あのシーンは歌舞伎の勧進帳の名場面で、安宅関を通過するために芝居を打ったという話なんですが、義経記によるとあのシーンは安宅関ではなくて「如意の渡」での出来事とされています。で、その如意の渡はこのあたりにあったと考えられているんです。
マナブ:そうなんですか。えーっと、どういう話でしたっけ?
歴史先生:義経一行が如意の渡を通過する際に、役人から呼び止められます。当時義経は言わば指名手配の状態。人相書きなどもあったことでしょう。役人は義経らしき若者が交じっているのを見て、詰問します。一行は弁慶がリーダーを演じて義経は若手の下っ端のような感じで演技をしていたので、リーダーの弁慶は義経に対して「こいつが義経に似ているからこんな手間をかけさせやがる」と言って、杖で何度も殴打します。それを見た役人は「わかった、わかった。もうよい、通れ。」となりました。無事通過したのち、弁慶は主人にとんでもないことをしてしまったと号泣して詫びます。それを義経が優しく許す、という物語でした。
マナブ:そうでしたね。思い出しました。
歴史先生:では再び氷見線に乗って、高岡市内へ戻りましょう。
天守閣もない高岡城はなぜ富山県唯一の百名城に選ばれたのか?

越中中川駅

マナブ:伏木駅からJR氷川線に乗って高岡方面へ戻ること約10分。高岡駅の1つ手前にある越中中川駅(地図 ❶)で下車しました。かわいらしいペイントが施された駅です。

