「新宮」という名前の由来と神々が降臨した「ゴトビキ岩」
神武天皇の最大の危機を救った世界遺産:神倉神社の刀
熊野三山の中で実は最も格上だった? 世界遺産:熊野速玉大社
徐福がたどり着いた蓬莱山はここにあった! 世界遺産:阿須賀神社
徐福のお墓にお参りしよう:徐福公園
「新宮」という名前の由来と神々が降臨した「ゴトビキ岩」

神倉神社から見た新宮市街

マナブ:那智から海岸を北へドライブ。南紀最大の都市である新宮市へやってきました。
歴史先生:新宮は熊野速玉大社で有名。
マナブ:新宮という名前もそこから?
歴史先生:はい。でもその話をする上で、市内の西の山の中腹にある世界遺産・神倉神社についてお話ししましょう。

歴史先生:現在、神倉神社が建っている場所には、「ゴトビキ岩」という巨岩・奇岩が露出しています。これは新宮市内からも眺めることができます。
マナブ:例の熊野カルデラの火山活動による痕跡、ですね?
歴史先生:そのとおりです。

神倉神社とご神体「ゴトビキ岩」
歴史先生:熊野の神々は、神代の頃、まず初めにゴトビキ岩に降臨されました。
マナブ:えっ、そうなんですか。ではそこが始まりの場所。ところで「ゴトビキ」ってどういう意味なんでしょう?
歴史先生:この地方の方言で「ヒキガエル」のことです。形がヒキガエルに似ているからそう呼ばれます。
マナブ:あ、もっと深い神話か伝承を期待してました(苦笑)。
歴史先生:その後、第12代景行天皇の時代といいますから4世紀前半でしょうか、そのころに現在の熊野速玉大社の社地に新しい宮を造営されて、そこに遷ったとされています。
マナブ:それで「新宮」。
歴史先生:そのとおりです。
マナブ:たしか熊野那智大社が那智の滝の前から今の場所に遷ったのもその頃でしたね。
歴史先生:そうなんです。ということで、なにしろ史料の乏しい時代のことなので諸説あるかとは思いますが、もし両者の時期が重なるのだとしたら、その間には何らかの意味があるものと思われます。
マナブ:熊野那智大社は那智の滝、熊野速玉大社はゴトビキ岩、という自然の創造物を祀っていたのですが、4世紀前半になって、それぞれ新しい宮を建てた。そこで神様としての体系を整えていったのでしょうか。
歴史先生:そうかもしれませんね。神倉神社は今の熊野速玉大社の元宮、という位置づけで考えられています。それに対して「新宮」である熊野速玉大社、となります。
マナブ:「新宮」という名前ですが、それが4世紀前半ということになると、もう新しくはないですね。
歴史先生:ほんと、そうですね(笑)。
神武天皇の最大の危機を救った世界遺産:神倉神社の刀

神倉神社の石段
歴史先生:ところで、神倉神社には神武天皇の伝承も残っています。
マナブ:どんな話でしょう?
歴史先生:神武天皇、ここに来た頃はまだ天皇ではなく、「カムヤマト イハレビコノミコト」ですが、彼は4人兄弟の末っ子でした。大坂から奈良へ入ろうとした時のナガスネヒコ戦いの最中、1番上の兄(イツセ)を失います。そして熊野灘に回り込んだ際、荒波によって2番目、3番目の兄を失いました。(ただしそれは日本書紀の記述で、古事記では2番目、3番目の兄は東征出発前に亡くなっています。)
マナブ:大変な苦労の旅だったんですね。ということは、このあたりに上陸したころはかなり失意のどん底。
歴史先生:それに近い状態だったと思います。那智に行ったとき、そのあたり一帯を治めていた豪族の丹敷戸畔(にしきとべ)を神武天皇が武力で平定した、とお話ししましたが、日本書紀によるとその後、神武天皇の一行は「大きな熊の姿をした神々が現れて、その毒によって神武天皇も、その家来たちも、意識を失ってしまった」とあります。
マナブ:大変。大ピンチ。
歴史先生:その様子を遠く高天原から見ていたアマテラ スは、タケミカヅチに「横刀」を持たせて、救援に行かせます。ここで物部氏の祖先とも言われる高倉下(タカクラジ)という人が現れるのですが、この人が例のゴトビキ岩のところでこの刀を受け取り、急いで石段を下りて神武天皇の所へ駆けつけます。
マナブ:ふむふむ。
歴史先生:その刀を持っていくと、あら不思議、神武天皇は目覚め、一気に力が出るようになり、その刀を振り回して熊野の荒ぶる神々をことごとく倒してしまいました。
マナブ:何となく、子供の時に見たウルトラマンのような展開だ。
歴史先生:たしかに(笑)。
マナブ:ところで、刀を持って行ったという「タケミカヅチ」でしたっけ。どこかで聞いたことがある名前なんですが。
歴史先生:出雲の国譲りのシーンが有名です。高天原からやってきたタケミカヅチが、剣を逆さまにして、その上に空中であぐらをかいた姿勢で、大国主命に国譲りを迫りました。
マナブ:あ、あの人か。
歴史先生:そしてその時の剣が、神武天皇をすくった横刀。
マナブ:そういうつながりだったんですね。
歴史先生:そしてその剣は、今では奈良県天理市の石上神宮にあり、布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)として、その剣自体がご祭神となっています。
マナブ:今度 はウルトラマンではなくて、何とかの聖なる剣・・・みたいなSF冒険物語によくあるパターンとして、「この剣を使えたものが次の王になるのだ」みたいなストーリーがよくありますが、神武天皇の話でも似たようなことがありましたか?
歴史先生:いいポイントを出してくれました。日本書紀を注意深く読んでいくと、この剣の話より前は彼のことをイハレビコなどと呼んでいるのですが、剣で熊野の神々を倒した後からは「天つ神の御子」とか、さらには「天皇」と記されるようになるんです。
マナブ:あ、ということは、この剣を使えたということで、神武天皇は地上の統治者として天から正式に認められた、ということでしょうか。
歴史先生:はい、そういう解釈なのだろうと思われます。

高倉下が横刀をもって駆け下りたという石段
歴史先生:高倉下のお話は今ではお祭りとして残っています。毎年2月6日の夜、横刀に見立てた松明(たいまつ)を持って、なんと2,000人もの人たちが白装束に荒縄を締めて、神倉神社の538段の急な石段を駆け下ります。
マナブ:ひやー、それは危ない。真っ暗な中を下りるんですか。でも見ている方からすると壮観でしょうね。
歴史先生:「御燈祭り(おとうまつり)」といわれるこの例大祭は国の重要無形民俗文化財に指定されています。
熊野三山の中で実は最も格上だった? 世界遺産:熊野速玉大社

正面の鳥居

熊野速玉大社(地図 ❶)
〒647-0081 和歌山県新宮市新宮1番地
境内自由
8:00~17:00、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
マナブ:さて、その新しく作られたお宮、熊野速玉大社へやって来ました。
歴史先生:ここの主祭神は熊野速玉大神(くまのはやたまおおかみ)、そしてそれは薬師如来の仮の姿であり、イザナギでもあります。
マナブ:熊野神社、というのはあちこちにありますね。
歴史先生:ここ熊野速玉大社は全国に3,000以上あると言われる熊野神社の総本宮と称しています。
マナブ:熊野三山には3つのお宮がありますが、ここが熊野神社の総本宮?
歴史先生:現在、熊野三山の中心的存在とされる熊野本宮大社も同様に称していますから、どちらが本当なのかわかりません。延喜式、というのを覚えていますか?
マナブ:はい、たしか平安時代ごろに書かれた全国の神社のリストみたいなもの。
歴史先生:そのとおり。927年に発行された延喜式では熊野本宮大社は「熊野坐(くまのにいます)神社」、熊野速玉大社は「熊野速玉神社」と記されていて、熊野速玉大社の方が格上に位置付けられていました。その証拠に、神社として正一位が授けられたのは熊野速玉大社の方が先ですし、孝謙天皇(在位749~758年)からは「日本第一霊験所」という勅額が贈られています。
マナブ:熊野那智大社は?
歴史先生:熊野那智大社は延喜式に載っていないのです。
マナブ:えっ? そうなんですか。

鳥居を入るとすぐ右にある八咫烏神社と手力男神社

神門
マナブ:鳥居からまっすぐ奥に進むと神門があります。
歴史先生:これより内側の神域へ入ってみましょう。

塀の向こうに5つの建物が並ぶ
マナブ:あぁ、何か違う空気感、です。正面に塀が続いていて、その囲いの向こうに建物が並んでいますね。
歴史先生:ここには合計5つの建物があって、一番左が結宮(いざなみ)、左から2番目が速玉宮(いざなぎ)、その他3つの建物から構成されています。一番右、5番目の建物は神倉宮。高倉下が祭神です。
マナブ:あ、刀を持って神倉神社から駆け下りた人。
歴史先生:そうです、そうです。
マナブ:ここの建物は古いものなんですか?
歴史先生:旧社殿は江戸時代に建てられたものでしたが、1883年(明治16年)に意外なことから焼失してしまうんです。
マナブ:意外なこと?
歴史先生:ここは河原のそばですよね? 1883年、お盆の花火が河原で打ち上げられました。そしてその火の粉が社殿の屋根に落ち、そこから出火して神社全体を焼失してしまったんです。
マナブ:なんと・・・
歴史先生:その後、仮の社殿が建てられていましたが、1953年(昭和28年)、今の社殿がようやく再建されました。

拝殿
歴史先生:速玉宮の前には拝殿がありますので、ここで拝んでいきましょう。
マナブ:これだけの神社ですから、たくさんの文化財を持っているんでしょうね。
歴史先生:はい、いわゆる古神宝、というものがたくさんあります。中でも室町時代の3代将軍、足利義満が奉納した約1,000点の古神宝は国宝に指定されているんですよ。
マナブ:さすが、です。

平安時代に作られた国宝の三神像(熊野本宮館の展示パネルより)

熊野御幸の天皇別回数一覧
歴史先生:さて、こちらの屏風の形の石碑を見てください。
マナブ:えーっと、「熊野御幸」?
歴史先生:熊野御幸(くまのごこう)とは、平安時代から鎌倉時代にかけて、上皇や法皇が熊野三山へお参りしたことを指しています。その話が庶民に広まって、一般の人たちの間で熊野詣でが盛んになりました。
マナブ:ここに書かれている内容を見ているのですが、宇多上皇が最初。
歴史先生:はい、そうです。
マナブ:次に来たのが花山法皇。
歴史先生:「一度」と書かれていますが、彼の場合は熊野那智大社のあたりに3年も滞在していました。
マナブ:鳥羽上皇はすごいですね。33度。あ、後白河上皇も33度。後鳥羽上皇が29度。この3人がトップスリー、ですか。
歴史先生:当時はもちろん電車も車もないので、大勢で行列してきたわけです。上皇・法皇が行幸されるとなると、それ相応のスタッフや警備も必要ですから、相当な費用もかかったことでしょう。
マナブ:それを33回もするなんて、よほど好きだったのかな?
歴史先生:浄土へ行きたいという個人的な思いの他に、上皇の権力を示す政治的なデモンストレーションんでもあったと思われます。特に世の中が乱れたときに多く行幸されているようにも見えます。
マナブ:ところで、上皇と法皇って、何が違うんでしたっけ?
歴史先生:上皇は前の天皇で、譲位をした状態。法王は譲位し、さらに出家をした状態、です。
マナブ:それから、ここは上皇、法皇ばかりで、天皇が一人も名前がありません。どうしてなんでしょう?
歴史先生:天皇はやはりいろんな公務があります。長い間都を離れて、危険な旅をするということはやはりできなかったんでしょうね。
徐福がたどり着いた蓬莱山はここにあった! 世界遺産:阿須賀神社

阿須賀神社と蓬莱山

阿須賀神社(地図 ❷)
〒647-0022 和歌山県新宮市阿須賀1丁目2−25
境内自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.shinguu.jp/spots/detail/A0003
マナブ:熊野速玉大社から車で5分ほど。阿須賀神社というところに来ました。神社の前に数台停められる駐車場があります。あまり観光地化されていませんが、ここも世界遺産、と書かれています。ところで「あすか」神社という名前ですが、奈良の飛鳥とは関係がありますか?
歴史先生:同じ音の地名ですので、ここ阿須賀神社の信仰や文化が奈良盆地まで入っていったという説もありますが、はっきりした確証はまだないようです。

阿須賀神社の鳥居と参道
マナブ:ここはそれほど大きな神社ではなさそうですが、世界遺産になっているということは、どういうことなんでしょう?
歴史先生:かつては今より大規模な神社でした。たとえば平家物語の中で平維盛がここを参拝した等、平安時代からずっと、熊野三山にお参りするなら必ず阿須賀神社もお参りするというのが一般的だったようです。
マナブ:今は私たち以外、誰も観光客がいませんね。熊野三山のツアーでも名前を見かけることはありません。でもそれだけ重要な神社だったんですか?
歴史先生:熊野の神々は神倉神社のところにあるゴトビキ岩にまず降臨したという話をしましたね。その後、神々はここ阿須賀に移ったんだそうです。神社の背後にある小高い山。あの森では弥生時代の祭祀遺跡などが多数発見されていて、古くからの禁足地になっている聖なる場所です。
マナブ:実は熊野信仰にとって重要な聖地なんですね。
歴史先生:熊野速玉大社で足利義満が奉納した古神宝の話をしましたが、ここ阿須賀神社にも足利義満が社殿の造営をおこない、そのとき奉納した古神宝が70点ほどあり、国宝となっています。
マナブ:足利義満からも大切にされていたんだ。
歴史先生:あ、それから東京の飛鳥山に行ったときにこの話をしたのですが、飛鳥山という名前の由来はこの阿須賀神社からあの場所に勧請をおこなったことで付けられた名前です。
マナブ:たしかあの土地は紀州に関係する名前ばかりが付けられていましたね。でもあの飛鳥山の元がこの阿須賀神社だなんて、面白いです。

蓬莱山
マナブ:ところで、ご神体はあの山?
歴史先生:はい、そのとおり。で、あの山の名前、ご存じですか?
マナブ:いいえ。
歴史先生:蓬莱山、と言います。
マナブ:それってよく聞きますね。えーっと何でしたっけ? 仏教で世界の中心にある山?
歴史先生:それは須弥山(しゅみせん)ですね。蓬莱山というのは、秦の始皇帝の時代、徐福という人がいて、始皇帝に「東の海の彼方の蓬莱山にある不老不死の薬を取ってきます」と言って、3,000人の若い男女と大勢の技術者を連れ、財宝や五穀のタネを持って船をこぎ出したというお話に出てくる山の名前です。
マナブ:あ、そうか。徐福の話、ですね。
歴史先生:そして、その徐福が流れ着いたのがここ、新宮。ついにここで蓬莱山を見つけます。
マナブ:ん? ここが?
歴史先生:熊野川の河口に神秘的な姿を見せる山。これこそ蓬莱山に違いないと思ったのでしょうか。徐福はここに上陸し、ここで生涯を終えます。
マナブ:その時に連れてきた3,000人はどうなったのでしょう? 今の新宮市民はその子孫かも?
歴史先生:さすがに3,000人は誇張かと思いますが、農耕、捕鯨、造船、製紙などの技術をいち早く伝えたという伝承が残ります。
マナブ:始皇帝のころ、ですよね。日本ではまだ弥生時代?
歴史先生:はい、紀元前200年ごろ。ようやく稲作が普及し始め、小さなクニができ始めた頃です。
マナブ:でもそれって本当の話?
歴史先生:実は日本各地に徐福伝説はあって、ここ新宮が徐福上陸の地だという決定的な証拠はありません。そもそも徐福が中国から船をこぎ出したのかどうかさえも怪しいんです。でも今日は歴史ロマンということで、徐福がもしここに上陸したら、という前提で旅を続けましょう。

拝殿(中央)と徐福の宮(右)
歴史先生:拝殿の右側には徐福の宮があり、徐福が祀られています。

新宮市立 歴史民俗資料館
新宮市立 歴史民俗資料館
〒647-0022 和歌山県新宮市阿須賀1丁目2−28(阿須賀神社境内となり)
入館料220円
9:00~17:00、月曜休み
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://www.city.shingu.lg.jp/info/918
マナブ:拝殿のとなりに資料館がありますよ。
歴史先生:ここでは御正体(みしょうたい)という珍しいものがたくさん展示されているんです。
マナブ:みしょうたい?
歴史先生:御正体とは、直径数センチの小さな鏡に、神の本地(本来の姿)である仏を立体的に彫ったもの。懸仏(かけぼとけ)とも言われます。
マナブ:それらがここで発掘された?
歴史先生:はい、阿須賀神社、蓬莱山から多数発掘され、懸仏193点と銅鏡2点が国指定重要文化財になっています。
マナブ:おもしろそう。早速見学に入りましょう。
徐福のお墓にお参りしよう:徐福公園

楼門

徐福公園(地図 ❸)
〒647-0020 和歌山県新宮市徐福1丁目4−24
8:30~17:00、無休(売店は月・火曜休)
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
マナブ:阿須賀神社から車で3分ほど。新宮駅前にある徐福公園に来ました。公園から道路を挟んだ向かい側(南側)に観光用の無料駐車場があります。
歴史先生:ここは地名も徐福1丁目。
マナブ:急に派手な中国風の門があります。

楼門
歴史先生:台湾で焼かれた瓦を使った、本格的な中国建築です。
マナブ:さっそく中へ入って見ましょう。

徐福像
歴史先生:迎えてくれるのは徐福像。高さ1.9mの御影石でできた像です。
マナブ:といっても肖像画などが残っているわけではないので、あくまでも想像ですよね?
歴史先生:はい、そうなります。像自体は1997年(平成9年)のものです。

徐福の墓
歴史先生:そしてこちらが徐福のお墓。
マナブ:これも平成にできたもの?
歴史先生:いえいえ、これは紀州藩祖の徳川頼宜が企画したもので、実際に建てられたのはその約100年後、1736年でした。ということで、これは江戸時代半ばからあるんです。
マナブ:それはすごい。でも徐福が来た時代から考えると、これもやはり最近、と言えるのかも。
歴史先生:ところで、中国では徐福こそ神武天皇ではないか、という説も知られています。3,000人もの移住集団を従えて新しい技術を持って日本へ行き、行く先々で歓迎され、でも近畿では歓迎されず、南紀から攻め入ってついに日本の王になった、と。
マナブ:うーん、荒唐無稽な話のようでもありますが、もしそうだったらいろいろと辻褄が合う話もありそうです。なぜ神武天皇のグループだけが最新の技術を持っていたのか。高天原に降臨、とあるが、いったいどこから来たのか。なぜ彼らの軍隊は強かったのか。たしかに興味深いですね。

徐福公園内の売店
歴史先生:公園内には売店もあります。ここで有名なのは「天台烏薬(てんだい うやく)」。それを含んだお茶などが売られています。
マナブ:それは何ですか?
歴史先生:木の名前なんですが、その根っこは「烏薬」という生薬になります。 腹痛や消化不良などに効くのだとか。そしてこれこそが、始皇帝が探し求めていた不老不死の薬だ、と言われています。
マナブ:へぇー、そんなことまで言われているんですね。やっぱり徐福は本当にここに来たのかも、という気になります。
歴史先生:ということで新宮市内を回ってきましたが、いかがでした?
マナブ:熊野速玉大社って、失礼ながら熊野三山の中で一番イメージのない場所でした。でも神倉神社、阿須賀神社と組み合わせてみて、ここはすごい聖地なんだなということが感じられる場所でしたね。ここは神武天皇が覚醒した舞台でもあった。それから徐福 伝説。それぞれ本当だったらここは日本の古代史の上ですごい場所だと思います。世界遺産だらけの、たっぷりと歴史ロマンを感じられる街でした。

