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登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
干珠・満珠が見える「日本一の初日の出」の神社

幕末に大変な思いをした長府藩家老の屋敷跡:長府庭園

長府といえばここ。武家屋敷の風情が残る古江小路

毛利のお殿様が暮らした明治の名建築

高杉晋作の挙兵だけじゃない。歴史と国宝の寺:功山寺

古代、仲哀天皇・神功皇后の宮がここにあった:忌宮神社


干珠・満珠が見える「日本一の初日の出」の神社


下関駅前のバスターミナル


マナブ:下関の駅前にいます。今日は長府、へ行きます。


歴史先生:下関駅前のバスターミナルから、バスに乗って行きましょう。


マナブ:長府、というのはどういうところなんですか?


歴史先生:名前からわかる通り、古代、長門の国の国府が置かれた場所です。それ以前から長府は神功皇后の伝承の地でもあります。壇ノ浦の戦いでは源氏方が形成逆転した海戦の場。江戸時代には長州藩の支藩として長府藩が置かれました。そして高杉晋作が挙兵した地でもあり、明治維新発祥の地とも言われています。


マナブ:いろんな時代の歴史が重なっていそうですね。ところで「長府ボイラー」っていう看板をよく見かけますが、関係ありますか?


歴史先生:はい、長府製作所は長府にあるボイラー等の機械メーカーです。


マナブ:バスは唐戸を通って関門橋をくぐり、そのまま海沿いの景色のいい道を走ります。先ほど前田、というところを通りました。砲台があったところですよね?


歴史先生:はい、そうなんです。では次のバス停「市立美術館・関門医療センター前」で下車しましょう。


櫛崎城跡


櫛崎城跡(地図 ❶)

〒752-0985 山口県下関市長府宮崎町6−2

入場自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://shimonoseki-kgb.jp/spot/%E4%B8%B2%E5%B4%8E%E5%9F%8E%E8%B7%A1/


マナブ:下関駅からバスに乗って18分。バス停から海側にある丘を登ってきました。立派な石垣のある城跡があります。


歴史先生:ここは櫛崎城跡、と言います。


櫛崎城(串崎城とも書く)復元鳥瞰図


歴史先生:ここに復元鳥瞰図がありますよ。


マナブ:海に突き出た島のような場所。断崖に囲まれて、鉄壁の守りのように見える、立派なお城です。


歴史先生:元は厚東氏という豪族が建てた城で、その後大内氏のものになります。大内氏滅亡後は毛利氏が入り、長府藩の藩主の居城となりますが、江戸時代の一国一城令で破却されました。


マナブ:そこに住んでいた藩主はどうなったんですか?


歴史先生:お城に住むことができなくなったので、すぐ近くに藩主の屋敷を作ってそこに住むようになりました。今の豊浦(とよら)高校のあたりとされています。


マナブ:「とようら」ではなく「とよら」と読むんですね。


歴史先生:はい、古代から続く由緒ある地名です。


天守台からは海が良く見える


マナブ:ここからは海が良く見えますね。


歴史先生:そのため幕末には奇兵隊がここで外国船が来ないか見張っていたそうです。


マナブ:ところであのクジラみたいなのは?


歴史先生:ここには以前、下関水族館がありました。その水族館の「鯨館」として造られたもので、今でもここに保存されています。


城の断崖の下にはきれいな三軒家海岸がある


歴史先生:では次に日の出の名所として知られる神社に行きましょう。


マナブ:このあたりの道は風情がありますね。


櫛崎城跡から豊功神社への道


古くからの家が多い


豊功神社の入口


マナブ:着きました。「豊功神社」って書かれていますが、何と読むんですか?


歴史先生:これは読めませんよね。「とよとこじんじゃ」と読みます。


マナブ:「日本一の初日の出」と書かれていますね。


歴史先生:はい、その景色、さっそく見に行きましょう。


豊功神社


豊功神社(地図 ❷)

〒752-0984 山口県下関市長府宮崎町4−1

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://jinja-net.jp/jinjacho-yamaguti/jsearch3yamaguti.php?jinjya=6974


マナブ:ここはどういう神社なんですか?


歴史先生:創建ははっきりしませんが、古くからこの丘には八幡宮がありました。その後、忌宮神社の中にあった豊功社がここに移されて、八幡宮と一緒になりました。江戸時代、長府藩となってからはそこに代々の毛利家の長府藩当主を加えて祀るようになりました。建物は1969年(昭和44年)に火災で失われてしまい、その後も台風や土砂崩れで社殿がたびたび失われました。今の本殿は2001年(平成13年)に再建されたものです。


日の出位置を表した説明板


干珠(手前)と満珠(奥)。実は反対だという説もあり、どちらがどちらなのかはっきりしない。


マナブ:あぁ、なるほど、ちょうど2つの島の向こうから日が昇るんだ。あれが干珠と満珠。和布刈神社(=「門司港」の回で訪問)で説明してもらった、神功皇后が手に入れたお宝が眠る島ですよね?


歴史先生:そうです。2つの島ですが、神功皇后を祀る忌宮神社の飛び地になっていて、一般の人は上陸が禁止されています。そのため手つかずの原生林が残っていて、国の天然記念物になっています。


マナブ:そういった意味でも貴重な島なんですね。


幕末に大変な思いをした長府藩家老の屋敷跡:長府庭園



長府庭園(地図 ❸)

〒752-0986 山口県下関市長府黒門東町8−11

入園料210円(小人割引あり)

9:00~17:00(最終入場16:30)、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://s-kanrikousha.com/teientop.html


マナブ:豊功神社から歩いて5分ほど。「長府庭園」の入口に来ています。


歴史先生:ここは長府藩の家老格であった西家の邸宅跡。さっそく入ってみましょう。


背後の丘をうまく借景にしている


母家、池、橋、灯篭、蔵などが巧みに配置されている


マナブ:広いですね。


歴史先生:1万坪弱もあるとても広い庭園です。背後にある丘をうまく借景に使って、池泉回遊式庭園が造られました。


マナブ:西さんでしたっけ、長府藩の家老ということでしたが。


歴史先生:元々は奈良時代の藤原氏を祖とする関東の武士でしたが、源平合戦で戦功をあげて、岡山に領地を与えられます。戦国時代になると毛利家の家臣となり、その後、長府藩の家老となりました。


マナブ:古い歴史のある家柄なんですね。


歴史先生:この庭園を造ったのは西運長(ゆきなが)という幕末の時代の西家の当主。


マナブ:あら、それはまた、大変な時代に生まれましたね。


歴史先生:長州藩の一部として長府藩は激動の流れに揉まれました。禁門の変の後処理やら長州藩の内部調整やらに走り回った人だったようです。


長府庭園


マナブ:地図を見ると、長府の町からは少し離れた場所に邸宅を構えたように見えますが。


歴史先生:いえ。先ほど話したように、櫛崎城が破却されたあと、長府藩主はそのすぐ下に邸宅を構えました。その邸宅からするとここは目と鼻の先。


マナブ:あ、なるほど。


長府といえばここ。武家屋敷の風情が残る古江小路


長府藩侍屋敷長屋と壇具川(だんぐがわ)


マナブ:長府庭園から5分ほど歩いてきました。長府の町の中をきれいな小川が流れています。


歴史先生:この川は壇具川(だんぐがわ)という名前です。太古の昔、神功皇后が三韓征伐の時にこのあたりで祭壇を設けて祈りをささげた際、それに用いた道具を流した川、なんだそうです。


マナブ:川の脇には古い屋敷もありますね。


歴史先生:江戸時代の建物で、家老の西家の分家にあったものをここに移築した、と書かれています。


古江小路


マナブ:うわぁ、ここはいい。


歴史先生:ここは古江小路(ふるえ しょうじ)(地図 ❹)と呼ばれています。ここを通っていきましょう。


マナブ:「こうじ」ではなくて「しょうじ」と読むんですね。実に風情のある道です。これは絵になるなぁ。


菅家長屋門・練塀


マナブ:これは立派な門構えですね。


歴史先生:ここは古江小路にある菅家(かんけ)の長屋門。1903年(明治36年)に建てられたものです。菅家は長府藩主毛利家に京都から招かれて侍医(じい)・侍講(じこう)を務めた家柄。


マナブ:じい・じこう?


歴史先生:侍医とはお殿様専属のお医者さん。侍講とはお殿様に学問を教える家庭教師。


マナブ:なるほど。ということでお殿様の屋敷のすぐ前あたりに住んだ。


歴史先生:そういうことです。毛利家の屋敷はすぐそこ、です。


長府毛利邸前から振り返る古江小路


歴史先生:古江小路も素敵ですが、もう1か所、「横枕小路」も素敵ですので、あとで通りましょう。


横枕小路


毛利のお殿様が暮らした明治の名建築


長府毛利邸入口


長府毛利邸(地図 ❺)

〒752-0970 山口県下関市長府惣社町4−10

入園料210円(小人割引あり)

9:00~17:00(最終入場16:40)、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://s-kanrikousha.com/mouriteitop.html


マナブ:さて、いよいよ長府毛利邸の前に来ました。


歴史先生:誤解されやすいんですが、江戸時代や幕末、ここはまだなかったんです。この邸宅ができたのは1903年(明治36年)のこと。さきほどの菅家長屋門もこの邸宅の一部でした。


マナブ:え? そうなんですか。ここが江戸時代、長府の中心かと思っていました。そうか、櫛崎城の下に藩主邸宅があったということでしたものね。ということは、ここは明治になってからの元の毛利のお殿様だった人のご自宅。


歴史先生:そういうことです。中へ入ってみましょう。


武家屋敷造りの母家


心が落ち着くような廊下と庭園の眺め


マナブ:なるほど、ここはなんだか落ち着きますね。


歴史先生:明治天皇が熊本へ行かれる際、行き・帰りと2度ここを仮の御所として宿泊された、由緒ある明治建築です。


明治天皇がお泊りになられた部屋が今も残る


下関市立歴史博物館


下関市立歴史博物館

〒752-0979 山口県下関市長府川端2丁目2−27

入館料210円(大学生以下、シニア割引あり)

9:30~17:00(最終入場16:30)、月曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.shimohaku.jp/ 


歴史先生:次に功山寺へ行きますが、その前に下関市立歴史博物館へ立ち寄っていきましょう。長府毛利家や幕末に関する資料などがたくさん展示されていて、見ごたえがあります。


高杉晋作の挙兵だけじゃない。歴史と国宝の寺:功山寺


功山寺 総門


功山寺 (地図 ❻)

〒752-0979 山口県下関市長府川端1丁目2−3

境内自由

9:00~17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://kouzanji.org/ 


マナブ:下関市立歴史博物館のすぐ前にある、功山寺の前に来ています。


歴史先生:ここは長府観光のハイライト。では総門から入りましょう。この門は室町時代のものです。


マナブ:ここ功山寺は高杉晋作が挙兵した場所として有名ですよね?


歴史先生:はい。でもそれ以前から歴史に名を残す場所だったんですよ。


マナブ:というと?


歴史先生:開基は1327年といいますから、1333年の鎌倉幕府滅亡の数年前。当初は長福寺という名前でした。開基後すぐに鎌倉幕府が倒れて建武の新政が始まりますが、今度は足利尊氏が失脚。九州へ落ち延びた際に長福寺へ立ち寄ったとされています。その後捲土重来、尊氏は九州で兵を整えて京都へ攻め上り、湊川の戦で楠木正成を破るわけですが、その時もここ長府から出港しています。


マナブ:なるほど。


歴史先生:その後室町幕府ができるとこのあたりは長門国の守護となった厚東氏が治めます。


マナブ:さっき櫛崎城のところで出てきた名前ですね。


歴史先生:しかし厚東氏は、お隣周防の国の守護であった大内氏と対立。大内氏によって滅ぼされてしまいます。


マナブ:で、大内氏はたしか、家臣の謀反で滅びたんでしたっけ?


歴史先生:はい、そうです。当主であった大内義隆に仕えていた陶晴賢(すえ はるかた)の謀反によるものでした。その当時、大内氏の中で武断派であった陶晴賢は、文治派と対立を深めていました。文治派の讒言で謀反の疑いをかけられた陶晴賢は兵を挙げ、とうとう主君の大内義隆を山口のお寺で自害に追い込みます。


マナブ:まさに下克上の時代ですね。


功山寺 山門


歴史先生:そして陶晴賢は大内氏の後継として豊後の大友義鎮(のちの大友宗麟)の異母弟を山口に迎え、大内義長と改名させました。


マナブ:ということは、自分がトップになって大内氏の領地を自分のものにしたわけではなかった。


歴史先生:そういうことになります。しかし今度はその周防のお隣、安芸の国から毛利元就が領土拡大を狙って攻め入ってきました。そして厳島の戦いで毛利氏に敗れ、陶晴賢は自害。毛利元就はその勢いで山口に攻め込みます。


マナブ:山口に来ていた大内義長はどうなったんでしょう?


歴史先生:大内義長は敗走してここ長福寺(功山寺)に逃げ込みますが、毛利の軍勢に囲まれてしまいます。そしてここで自害し、大内氏は滅亡しました。


マナブ:ということはここ功山寺は大内氏滅亡の地。


歴史先生:そういうことです。毛利氏は中国地方を統一し、約120万石の巨大な大名になりました。


マナブ:その毛利氏も関ケ原で敗れる。


歴史先生:はい。それによって周防・長門の約36万石に減封。交通の便の悪い萩に押し込められます。


マナブ:まさに栄枯盛衰、ですね。


歴史先生:江戸時代になるとここ長府は5万石の小さな支藩となります。初代は毛利元就の孫にあたる毛利秀元。のちになって毛利秀元の法号をとって、お寺の名前が長福寺から功山寺と変わりました。1650年のことです。


マナブ:で、関ケ原で徳川に負けた毛利が、それから260年もたった幕末になって今度は徳川を倒す方になった。


歴史先生:歴史の因果というのは面白いものですね。そうなんです、高杉晋作の挙兵が明治維新を一気に進めたとも言われています。


功山寺の高杉晋作像


マナブ:高杉晋作の挙兵はどんな背景だったんですか?


歴史先生:幕末の長州藩の内部というのは、常に2つの勢力が争っていました。


マナブ:というと?


歴史先生:尊王攘夷を実行して幕府を倒し、新しい世の中を作ろうというグループ。もう1つは幕府に謝罪して恭順しようというグループ。


マナブ:高杉晋作は当然、前者ですね。


歴史先生:はい。幕末において前者が優勢な時期があり、蛤御門の変ですとか、外国船への砲撃など過激な行動がなされたわけですが、それにことごとく敗れてしまいます。となると、藩の中ではむしろ幕府に謝罪して恭順しようというグループが優勢になってきます。


マナブ:トップの考えは?


歴史先生:こういうときは当然トップがどちらの考えで動くかが大事なわけですが、毛利氏のトップ、毛利敬親(たかちか)は「そうせい侯」というあだ名で知られた人。


マナブ:その意味は?


歴史先生:家臣の提言になんでも「そうせい」と答えていたから、なんだそうです。


マナブ:うーん、部下から見るとやりやすい上司だったのかもしれませんが、この場合はリーダーに「どちらか決めてよ」と言いたくなりますよね?


歴史先生:でもこの時の長州藩の場合、どちらの派閥も過激になっていて、血を見ることが多かった。毛利敬親もどちらかに加担すれば命の危険がありました。


マナブ:そういえば薩摩の島津斉彬も毒殺のうわさがありますね。


歴史先生:そうですね。で、ここで高杉晋作の出番。幕府に恭順を誓うほうのグループが優勢な中、高杉晋作は80名ほどの同志を集め、長州藩の内部のパワーバランスを力ずくで変えさせるために命がけで挙兵します。その動きに思いを同じくする人たちが次々に加わり、正規軍である武士団を破り、クーデターを成功させるんです。


マナブ:それによって長州は倒幕へと進むわけですね。


五卿の間


公卿たちはこの庭を見つつどのような思いで過ごしたのであろうか


マナブ:ところで高杉晋作の挙兵はなぜこの場所だったんでしょう?


歴史先生:1863年に薩摩藩と会津藩が手を握り、京都から尊王攘夷派の公卿とその背後にいた長州藩の勢力を一掃した「8月18日の政変」というのがありました。その時、三条実美ら7人の公卿が都を追放され、俗に「七卿落ち」と言われています。


マナブ:ふむふむ。


歴史先生:その7人のうち5人はここ功山寺に匿われました。彼らが暮らしていた書院は「五卿の間」として現存しています。高杉晋作は挙兵に当たり、三条実美らに会い、その許しを得て挙兵しているのです。


マナブ:錦の御旗、ではないけれど、それに近いような効果があった?


歴史先生:少なくとも高杉の私兵ではない、ということが言えたでしょうね。高杉が決起した日は大雪。でも夜には晴れて月が美しかったとか。月の光に照らし出された銀世界を馬に乗って駆け出していく高杉。


マナブ:いやー、映画のシーンとしては最高にかっこいいですね。


長府の町には「維新発祥の地」の石碑が建つ


山門をくぐると仏殿が見えてくる


功山寺 仏殿(国宝)


マナブ:山門をくぐると、実に立派な本堂が見えてきました。


歴史先生:はい。「仏殿」と呼ばれていて、国宝に指定されているんです。


マナブ:大きさもすごいですが、古いものなんでしょうね。


歴史先生:開基当初からある建物です。


マナブ:ということは鎌倉時代の末。


歴史先生:そうですね。禅宗寺院に用いられる唐様という建築様式では日本で最も古い物です。


マナブ:なんとなく鎌倉のお寺にありそうな感じですが。


歴史先生:いいところに気が付きました。唐様というのは鎌倉時代になって盛んになった寺院の建築様式で、鎌倉を代表する建長寺(本堂)とか円覚寺舎利殿とかも唐様です。ただしそれらは室町時代や江戸時代に再建されたものなので、功山寺の仏殿は最古のものとして知られています。


マナブ:なるほど。それは貴重なものですね。


書院の庭園


韋駄天 立像


歴史先生:庫裡から中に上がって、書院(五卿の間)や庭園を拝観できます。


マナブ:入ってすぐに、仏像の安置された部屋がありますね。


歴史先生:これは韋駄天の立像で、開基当初からあったものだろうと推定されている、とても古いものです。


マナブ:足の速かった人。


歴史先生:そう、それで有名ですが、本来は鎮火の神様。厨房を守っています。


マナブ:足の速い人が厨房担当なんて、なんだかイメージが違いました(笑)。


<読んでおきたい本>

高杉晋作

山岡荘八



全3巻。師と仰ぐ吉田松陰の刑死に遭い、長州藩内に吹き荒れる尊王攘夷の嵐の中で、稀代の英雄と言われたこの男はその短い生涯をどう生きたのか? 歴史好きの中でもファンの多い高杉晋作の生涯を山岡荘八の目で描いた大作。




古代、仲哀天皇・神功皇后の宮がここにあった:忌宮神社


忌宮神社


忌宮神社(地図 ❼)

〒752-0967 山口県下関市長

府宮の内町1−18

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://iminomiya-jinjya.com/ 


マナブ:功山寺から歩いて3分ほどのところにある「忌宮神社」に来ました。何て読むんですか?


歴史先生:「いみのみや じんじゃ」と読みます。


マナブ:「忌」という字は「忌中」とかに使う字だから、あんまり縁起のいい字ではないのでは? たとえば「けがれ」のようなイメージを持っているのですが。


歴史先生:「忌」という字は「けがれ」自体を指すのではなくて、それらを「避ける」という意味があります。すなわちこの字は不浄なものを避けて清浄でいること、を意味しますので、結果的によい、きれいな意味を持っているんですよ。


マナブ:そうか、「忌避(きひ)する」なんて言いますものね。


歴史先生:さてこの場所ですが、歴史はとっても古いんです。第14代仲哀天皇、この人は神功皇后の旦那さんですが、南九州の熊襲を平定するためにここ長門の国に豊浦宮(とよらのみや)を置いて政務を取りました。西暦193年のことです。


マナブ:たしか豊浦高校の話の時に、豊浦という地名は古いって言われてましたが、とんでもなく古い地名だったんですね。


歴史先生:そして筑紫国(福岡県)まで進軍したとき、奥さんである神功皇后が神がかりの状態になります。神様が言われるには「熊襲を攻めるよりも海を渡って攻めれば新羅が手に入るだろう」と。しかし仲哀天皇は「そんなばかな」ということで、その神託を無視して熊襲を攻めました。結果は惨敗。


マナブ:ふむふむ。


歴史先生:それどころか、神の怒りに触れて、香椎宮(福岡市)で急死してしまいます。


マナブ:そういう話でしたね。


歴史先生:神功皇后は妊娠していましたが、それにも関わらず朝鮮半島にわたって新羅、百済、高句麗までも平定。これが三韓征伐。そして帰国して応神天皇を生みました。


マナブ:まさに超人的。


歴史先生:さて、亡くなった仲哀天皇の亡骸はここ豊浦宮に移され、殯(もがり)が行われました。


マナブ:殯ってよく聞きますが、何ですか。


歴史先生:古代、人が亡くなってからしばらくはどこかに仮安置をしていました。それが殯、です。その間に別れを惜しみ、死者の魂をなぐさめます。そして腐敗などが進んで完全に死んだことが確認されたのちに、土中に埋葬が行われました。


マナブ:なるほど。


歴史先生:そして神功皇后は夫である仲哀天皇の霊を豊浦宮に祀りました。


マナブ:ということは仲哀天皇のお墓はここ?


歴史先生:いえ、その後大坂へ運ばれて、今の古市古墳群の中にある巨大な前方後円墳、「岡ミサンザイ古墳」がそれ、と言われています。


マナブ:そうでしたか。


歴史先生:さて、その後香椎宮から神功皇后の霊を勧請してできたのが「忌宮」、応神天皇を祀ったのが「豊明宮」、ということで、仲哀天皇を祀る「豊浦宮」と合わせて3つの重要な神社がここ長府には存在していたのですが、豊浦宮も豊明宮も中世の間に焼失してしまい、忌宮にまとめて合祀されたのが、今に続いています。したがって忌宮神社の祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、となっています。


神功皇后が手植えされたと伝わる「さか松」


歴史先生:神功皇后が残したものの1つに「さか松」があります。


マナブ:これは何でしょう?


歴史先生:神功皇后が新羅征伐の前にお手植えになった松。わざと逆さまに植え、7日7夜、神々に祈りをささげたそうです。そして逆さまなのになぜかこの木は大きく育ち、その後明治4年に火災に遭うまで生き続けたのだとか。今はその若木が隣で芽を吹いています。


マナブ:にわかに信じがたい、不思議なお話ですね。


歴史先生:さて、ということで、長府の歴史さんぽはこれでおしまい。帰りは「城下町長府」のバス停から下関駅へと帰ります。長府、いかがでしたか?


マナブ:ここに来るまでほとんど何も知りませんでした。高杉晋作の話だけかと思いきや、大内氏、毛利氏、そして遠い古代の神功皇后の話まで含まれていて、重層的な歴史を感じられた場所でしたね。あまり観光地化されておらず、静かに城下町の風情の残る古い小路を歩ける。とってもいい町でした。



​歴史好きのための観光ガイド
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