宇佐から京都へ勧請する途中でできた古い歴史を持つ八幡社
日清戦争講和の地と下関のふく料理のお話
壇ノ浦の戦いで海に沈んだ安徳天皇を祀る悲しき宮:赤間神宮
源平合戦、幕末下関戦争の舞台:壇ノ浦
関門トンネルを歩いて九州へ渡ろう
宇佐から京都へ勧請する途中でできた古い歴史を持つ八幡社

亀山八幡宮

亀山八幡宮(地図 ❾)
〒750-0004 山口県下関市中之町1−1
境内自由
6:00-18:00、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
歴史先生:おなかが満足したところで、歴史さんぽ、続けましょう。まずはカモンワーフの裏手にある、亀山八幡宮です。
マナブ:大きな鳥居があります。
歴史先生:御影石でできた鳥居としては日本一大きいものなんだそうですよ。

亀山八幡宮はカモンワーフのすぐ裏手の丘の上に鎮座する
マナブ:八幡宮、ということは、祭神は応神天皇ですね。
歴史先生:そのとおり。ここ亀山八幡宮の歴史は古く、859年の開基とされています。宇佐神宮ができたのが奈良時代の725年。そして平安時代になって都(平安京)に近いところに八幡様を勧請したいということで、860年に石清水八幡宮ができました。
マナブ:その1年前にここができた。
歴史先生:はい。宇佐八幡宮から石清水八幡宮に勧請をする途中、ここ下関に立ち寄ったところご神託があり、亀のような形をしたこの島に社殿を建てよ、ということであったので、ここに先に八幡宮が建てられたんです。
マナブ:なるほど、それで亀山、という名前で創建が1年前なんですね。

本殿

境内からは海峡が見渡せる
歴史先生:その後、戦国時代には大内氏、そして毛利氏が寄進をおこない、歴代藩主からも深く崇敬されています。豊臣秀吉も朝鮮出兵の際に立ち寄って、ここで戦勝祈願をしています。
マナブ:ここは丘の上で眺めのいい場所ですね。
歴史先生:昔は石段の下の鳥居のところから海につながっていました。由緒正しい八幡宮で あると同時に景勝の地としても有名で、多くの人たちの参拝があったようです。

ふくの像
マナブ:大きな「ふく」の像がありますね。少し和みます。
歴史先生:元々は1934年(昭和9年)に建てられたのですが、太平洋戦争で金属を供出しなければならなくなり、撤去されました。1990年に地元の有志によって再建されたのがこの像です。
マナブ:うーん、こんなユーモラスな像にも、つらい歴史が絡んでいるなんて。
日清戦争講和の地と下関のふく料理のお話

唐戸市場の前の海沿いの散歩道を歩く
歴史先生:では次の目的地、春帆楼へ向かいます。海沿いの遊歩道を通るのが気持ちいいので、そちらを通って行きましょう。
マナブ:唐戸市場でテイクアウトした人たちがたくさん。関門橋の眺めも最高です。

春帆楼(左奥)と日清講和記念館(右手前)

春帆楼・日清講和記念館(地図 ❿)
〒750-0003 山口県下関市阿弥陀寺町4−2
日清講和記念館 入場無料
9:00~17:00、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
春帆楼 https://www.shunpanro.com/
日清講和記念館 https://www.shimohaku.jp/page0106.html
<あこがれの春帆楼に宿泊>
歴史の重みと絶品ふく料理を堪能できる贅沢なホテルステイ。全7室の行き届いた環境で全室関門海峡ビュー。関門国道トンネル開通の時、ならびに山口国体の際には昭和天皇もご宿泊された。一度は止まってみたい憧れの宿。
春帆楼宿泊予約 (一休のサイト)
https://www.ikyu.com/00001009/
東京 永田町にある下関春帆楼(レストラン)(一休のサイト)
https://restaurant.ikyu.com/102480
歴史先生:さて、春帆楼(しゅんぱんろう)に来ました。
マナブ:ここはどういう場所なんでしょう?
歴史先生:春帆楼といえばふく料理の元祖。東京の永田町にも支店があって私も記念日に食事をしたことがあります。
マナブ:どうでした?
歴史先生:もう、料理は最高。雰囲気も最高。とっても思い出に残る一日でした。
マナブ:いいなぁ。今度行ってみよう。
歴史先生:そして下関の春帆楼には泊まることもできます。下関の迎賓館ともいうべきあこがれの宿で、宿泊してふく料理を堪能することもできます。
マナブ:それ、すごくいいですね。
歴史先生:ぜひぜひ。ところで、ふくといえば毒があって、豊臣秀吉が禁令を出して以来、明治の初めごろまでは食べるのが禁止されていました。それを解禁したのは誰だかご存じですか?
マナブ:いえ、知りません。
歴史先生:伊藤博文、なんです。
マナブ:どういう経緯だったんでしょう?
歴史先生:ここ春帆楼は、藤野みち、という人が開いた割烹旅館が元になっています。藤野みちの夫、藤野玄洋はこの地で開業していた医師でした。彼は軍医として長州の軍隊に同行し、そこでの彼の人柄に惹かれて坂本龍馬、高杉晋作、山縣有朋、そして伊藤博文らが出入りしていたようです。
マナブ:そうそうたる顔ぶれ。
歴史先生:春帆楼という名前は伊藤博文が名付けました。幕末から時がたち、1887年(明治20年)のこと、内閣総理大臣になっていた伊藤博文がここに宿泊します。しかし当日は大変な時化(しけ)で魚が上がっておらず、食材に困った藤野みちは打ち首覚悟で伊藤博文にふく料理を出します。
マナブ:どうなったんですか?
歴史先生:伊藤博文は下関にも長く滞在していましたから、実はこれまでにも隠れてふくを食べていたことがあり、下関の庶民が隠れてふくを食べていることも知っていました。そこで彼は初めて食べるようなふりをして「これはうまい」とほめたんだ そうです。その後彼は山口県知事に指示してふくを解禁。春帆楼は公許第1号の店となりました。
マナブ:そうだったんですか。今の私たちがふぐ料理を楽しめるのは伊藤博文のおかげ、なんですね。

日清講和記念館
歴史先生:さて、次は春帆楼の敷地内にある日清講和記念館です。
マナブ:日本史の教科書で「下関条約」っていうのがあったのを思い出しました。
歴史先生:そう、それです。日清戦争で戦況が有利であった日本に対して、清国は講和を求めてきます。1895年(明治28年)に亀山八幡宮の沖に使節団が来着して講和のための会議が始まります。日本側の代表は伊藤博文と陸奥宗光。清国側の代表は李鴻章でした。
マナブ:その名前も記憶にあります。
歴史先生:講和会議は約1か月弱ほど続き、ようやく決着しました。下関はその会議を有利に進めるため最適な場所だったんです。
マナブ:というと?
歴史先生:会議の間、日本の軍艦が関門海峡を行き来して、日本の海軍力を清国使節団に見せつけました。
マナブ:なる ほど、これはかなわない、と思わせた。
歴史先生:はい、そうですね。この講和会議ですが、当時の春帆楼の2階の部屋で行われていました。日清講和記念館ではその部屋の様子を再現しています。

講和会議が行われた部屋の再現
マナブ:源平合戦と明治維新だけかと思っていたら、明治になってからも下関で歴史が大きく動いたんですね。
歴史先生:はい、それだけこの関門海峡という場所が地理的に特別だということがお分かりいただけるかと思います。
壇ノ浦の戦いで海に沈んだ安徳天皇を祀る悲しき宮:赤間神宮

赤間神宮

赤間神宮(地図 ⓫)
〒750-0003 山口県下関市阿弥陀寺町4−1
境内自由
9:00~17:00、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
マナブ:さて、春帆楼のとなりには、赤間神宮があります。まるで竜宮城のようですね。
歴史先生:はい、竜宮城みたいという表現は当たっています。ここは世界でただ1つの「龍宮造り」の神社です。
マナブ:えっ、それってどういうこと ?
歴史先生:では神社の由緒からおさらいしましょう。この神社は安徳天皇を祀っている、と言うのはご存じですか?
マナブ:はい。壇ノ浦の戦いで、水の中に沈んだ子供の天皇、ですよね。
歴史先生:はい。第81代安徳天皇はその時まだ8歳。平家一門と共に、ここ壇ノ浦の海の下へと沈んでいかれました。天皇は平家方に匿われていましたが、敗色濃厚となって平家一門は次々と海に飛び込んでいきます。平清盛の奥さんで、そのとき安徳天皇の世話をしていた平時子(二位尼(にいのあま)時子とも呼ばれる)は、「波の下にも都はありますよ」と言って、幼い安徳天皇を安心させたというのが有名な話です。
マナブ:怖かったでしょうけど、そのような優しい声をかけて、一緒に飛び込んだんですね。
歴史先生:安徳天皇は平家の血筋が入った天皇でした。平清盛・平時子夫妻の子には、平家の跡継ぎであった平宗盛、武勇に優れた平知盛、女子では建礼門院徳子などがありました。建礼門院徳子は高倉天皇の后となり、そこで生まれたのが安徳天皇です。
マナブ:ということは安徳天皇は平清盛のかわいいお孫さん。
歴史先生:そうなりますね。安徳天皇のお母さんの建礼門院徳子は壇ノ浦の戦いの際、同じ舟に乗っていました。しかし平時子から「あなたは生きて平家一門の菩提を弔うように」と命じられ、その後も生き延びて京都の大原(寂光院)で余生を送ります。
マナブ:家族を失った後、一人生き延びて、つらかったでしょうね。
歴史先生:そのあたりのお話は平家物語の最終章に出てきます。壇ノ浦の戦いからしばらくたって、寂光院に突然、後白河法皇が訪ねてきます。
マナブ:後白河法皇というと、平清盛と対峙し、今度は源頼朝と対峙して、源平合戦の中で朝廷を守り続けた人。
歴史先生:はい。その法皇が建礼門院徳子を訪ね、2人は久しぶりの再会を果たします。そして後白河法皇は徳子から平家の最後について話を聞くというシーンです。大原御幸(おおはらごこう)と呼ばれ、これによって長く壮大なスケールの平家物語は締めくくられます。
マナブ:うわぁ、ドラマチックな終わりかた、ですね。何年か経って年を取った関係者が再会して、その時に話に涙する、というのは現代の映画やドラマでもよく使われる手法かと。

赤間神宮にある平家一門の墓。平知盛、平徳子らの墓がある。
歴史先生:では赤間神宮について少しお話ししましょう。壇ノ浦の戦いがおきたのは1185年3月24日。それから6年、鎌倉幕府が形を整えつつあった1191年に朝廷は安徳天皇を祀る御影堂をここに建て、勅願寺としました。この寺はその後、阿弥陀寺と呼ばれるようになります。
マナブ:そういえばこのあたりの地名は阿弥陀寺町。
歴史先生:はい、そうなんです。今では地名だけが残っています。明治になって神仏分離の政策がとられて阿弥陀寺は廃寺となり、御影堂を中心とした赤間宮が造られます。そして1940年(昭和15年)、社格を昇格させて赤間神宮となりました。
マナブ:社格が高くて天皇家に深いかかわりのある神社だけに許される「神宮」、という名称になったわけですね。
歴史先生:そのとおりです。
マナブ:1940年というと太平洋戦争開戦の前の年。日本が戦争に向かってまっしぐら、という中で、過去の天皇を祀るプロジェクトいくつも動いていましたね。そのうちの1つかな。
歴史先生:時代背景からすると、そういった流れに乗った可能性もありますね。その赤間神宮ですが、戦時中の空襲で焼失してしまい、ほとんどの建物は戦後の再建なんです。

水天門
歴史先生:最初の見どころは何といってもこの水天門。
マナブ:先ほど「龍宮造り」、と言われていましたね。
歴史先生:はい。「波の下にも都があります」、という平徳子の言葉にちなんで、戦後の復興の際にこのようなデザインとなりました。

水天門を通して関門海峡が見える
マナブ:前を走る大通りからもよく見えて目立っています。まさに下関のシンボルですね。
歴史先生:海峡を通る船からも、そして対岸の門司港からもよく見えています。復興にあたって最初に作られたのがこの水天門。1958年(昭和33年)にできあがり、その時は昭和天皇皇后両陛下が参拝されて、この門の「通り初め」をされたんだそうです。
マナブ:地元の方々の喜ばれる姿が想像できます。

拝殿
歴史先生:その後、1965年(昭和40年)に拝殿、回廊、宝物殿などが整備され、現在の形の基本ができました。
マナブ:そういえば、安徳天 皇は入水されるときに、三種の神器を持たれていたと聞いたことがあります。
歴史先生:はい、それは壇ノ浦の戦いのあとで大事件となりました。三種の神器ですが、何と何と何か、ご存じですか?
マナブ:たしか鏡と剣、もう1つは何だったかな?
歴史先生:勾玉、です。八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、そして草薙剣(くさなぎのつるぎ)、で三種の神器。これらは天皇の正統性を担保するもの、すなわちこの3つを持っている人が正統な天皇だ、ということになります。
マナブ:平家方はそれらを持ち去っていた?
歴史先生:そうなんです。安徳天皇と共に、三種の神器は平家方の手の中にありました。よって、源平合戦では平家方に戦争で勝つだけではだめで、三種の神器を取り返すことが義経に与えられたミッションだったんです。
マナブ:安徳天皇が入水される際に、それらも一緒に海に沈んだんですよね?
歴史先生:そうなんです。幸いなことに、八咫鏡と八尺瓊勾玉はおよそ一か月後に海岸に打ち上げられているのが見つかりました。でも草薙剣だけはどうしても見つかりません。
マナブ:困ったことになりましたね。
歴史先生:次の天皇はそれがないと即位できません。
マナブ:でもたしか、草薙剣は名古屋の熱田神宮にあるはずでは?
歴史先生:ヤマトタケルが亡くなった後、草薙剣は熱田神宮に奉納されました。その後、それが熱田神宮にずっとあったのか、あるいは朝廷によって京都に持ち出されたのか、はっきりしません。現在は熱田神宮に納められている剣が三種の神器として使われています。

耳なし芳一堂
歴史先生:ところでもう1つ。赤間神宮にまつわるお話として、「耳なし芳一」のお話があります。内容、ご存じですか?
マナブ:名前は聞いたことがありますが、内容は知りません 。名前からして怖そう。
歴史先生:元々は江戸時代に発行された怪談本にあった話ですが、それを明治になって小泉八雲が脚色・出版したことで有名になりました。物語の内容はこんな感じです。
「阿弥陀寺に芳一という名前の盲目の琵琶法師がいた。彼の平家物語演奏の腕前は素晴らしく、特に壇ノ浦の場面が得意であった。ある晩、武者が現れ、「高貴なお方の御殿」へと連れていかれる。盲目の芳一にはそれがどこなのかわからない。そして壇ノ浦のくだりを語ると、一同はすすり泣き、とても感動しているようだった。あくる日も、あくる日も、演奏を頼まれた芳一。しかし毎晩こっそりと寺を抜け出すようになった芳一を怪しんだ寺の者たちが後をつけてみると、なんと芳一は安徳天皇陵の前でたくさんの鬼火に囲まれて演奏をしていた。住職は芳一が毎晩武者の幽霊に誘われて出かけていたことを知る。そこで住職は、芳一を平家一門の邪悪な怨霊から守るため、全身に般若心経を書かせた。なぜなら、お経が書かれているところは怨霊には透明に見えて、視認できなくなるからだった。ところが芳一の耳にお経を書くのを忘れてしまった。その晩、また武者が来てみると芳一がいない。ただ耳だけがそ こに浮いている。武者は仕方なく耳だけを引きちぎって持ち帰った。その後武者は二度と姿を現さなくなったという。」
マナブ:ゾクッとしますね。怖い話だ。
<読んでおきたい本>
新・平家物語
吉川英治

吉川英治氏が晩年、7年の歳月をかけて書き上げた超大作、全16巻。平家の隆盛から衰退・滅亡まで、まさに「おごれるものは久しからず」「諸行無常の響きあり」の世界を壮大なスケールで描く。日本人なら一生のうち一度は読んでおきたい作品だ。
源平合戦、幕末下関戦争の舞台:壇ノ浦

朝鮮通信使上陸淹留之地

歴史先生:赤間神宮から壇ノ浦へと歩きましょう。まずは赤間神宮の目の前にある、「朝鮮通信使上陸淹留之地」に立ち寄ります。
マナブ:長い名前ですね?
歴史先生:朝鮮通信使がこの場所に船を乗り付けて上陸して、淹留(えんりゅう)すなわち長く滞在した場所、という意味です。
マナブ:朝鮮通信使というのは?
歴史先生:元々は室町時代に足利義満が朝鮮国王に使者を派遣し、その答礼としてやってきた使者が始ま りとされていますが、一般には江戸時代になって朝鮮から徳川将軍あてに派遣された使節団のことを指します。
マナブ:江戸時代というと、朝鮮とはどういう関係だったんですか?
歴史先生:秀吉の時代に文禄・慶長の役、という朝鮮出兵がありましたね。それによって日朝の国交は断絶。現代の日韓関係にまで爪痕を残す深い恨みを生んでしまいました。それに対して徳川家康は各国との和解を推進し、当時の李氏朝鮮に対しても融和的な態度を取ります。それによって実現したのが朝鮮通信使。
マナブ:でもその後鎖国になりましたよね。
歴史先生:鎖国によって海外との貿易はオランダのみで長崎出島に限られた、ということが言われますが、琉球王国と李氏朝鮮は「通信国」という扱いで、正式な国交を継続 していたんです。それで定期的に使節団は行き来をしていました。
マナブ:そうだったんだ。知らなかった。
歴史先生:朝鮮からの使節団はここ関門海峡を目指してやってきます。そこでここにまずは滞在して、そこから瀬戸内海へあらためて漕ぎ出すということだったのでしょう。

極楽寺
歴史先生:赤間神宮とはほぼ隣になりますが、極楽寺の大きな本堂が見えています。ここも古いお寺で、安徳天皇50回忌に参列した粟屋道正という人が1256年に開いたお寺です。
マナブ:ここも歴史がありそうですね。
歴史先生:江戸時代にシーボルトが江戸へ行く途中、「極楽寺すなわち極楽浄土の寺」と記した大伽藍を誇っていましたが太平洋戦争の空襲で焼失。その後一部が復元されたものです。

胡子神社

対岸の門司港がよく見える
歴史先生:小さな船溜まりがあって、胡子神社があります。
マナブ:このあたり、海の風景とマッチしていて風情がありますね。
歴史先生:対岸に見えるのは門司港。高いタワーが見えています。

道を進むと関門橋が見え隠れする

関門橋と烏帽子岩
マナブ:関門橋がどんどん近づいてきました。あれ、海の中にしめ縄のかかった石がありますね。
歴史先 生:あれは烏帽子岩と呼ばれていて、立石稲荷神社のご神体なんです。道の反対側を見てください。

立石稲荷神社
マナブ:あ、鳥居がたくさん、急斜面に沿って建っています。
歴史先生:ここは壇ノ浦の戦いの時に平家方が京都の伏見稲荷大社から勧請したものとされている、由緒あるお稲荷さんなんですよ。
マナブ:普通ご神体って、一番奥深くに隠されていてなかなかみることができないもののようなイメージでしたが、ここでは一番手前で覆いもなく、しかも波にさらされているって、なんだか不思議です。

みもすそ川公園

みもすそ川公園(地図 ⓬)
〒751-0813 山口県下関市みもすそ川町1−1
入場自由
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
https://yamaguchi-tourism.jp/spot/detail_15266.html
歴史先生:関門橋をくぐったところは「みもすそ川公園」として整備されています。ここは海峡がひときわ狭くなっている場所。約6000年前に本州と九州が分離した時に水が流れ込んで海峡になった場所です。

速い潮流を間近に見ることができる
マナブ:流れが速いですね。川みたい。
歴史先生:別名早鞆の瀬戸とも言われています。この流れが壇ノ浦の戦いの明暗を分けたと言われています。
マナブ:というと?
歴史先生:源氏方は瀬戸内方面から1000艘の船で攻め込みます。一方の平家方は彦島に3000艘の船で待ち構えていました。午前中は彦島側から瀬戸内側へ強い流れがあり、それに乗った平家方が攻め込み、一時は壇ノ浦からずっと瀬戸内側へいった満珠、干珠という島のあたりまで平家方が押し込みました。
マナブ:平家のほうが数も多いし、最初は流れに乗って勝っていたんですね。
歴史先生:追い込まれた源義経は、戦闘員ではない舟のこぎ手を狙って弓を射るように指令します。当時の戦争は名誉を重んじる武士と武士の戦いであり、舟のこぎ手を狙うことはタブーでした。
マナブ:平家方からすると、義経はなんと卑怯な手を使ってくるのかと憤ったことでしょうね。
歴史先生:しかしそれによって源氏方はなんとか持ち直し、そして今度は流れが変わり、瀬戸内側から強い流れが壇ノ浦へと起きます。今度は源氏方が押し込む番。この流れに乗って一気に平家方は退却し、壇ノ浦にて全滅に至ったわけです。
マナブ:自然の潮流が歴史をも変えたわけですね。

碇をかつぐ平知盛の像
歴史先生:平家 の最後、平知盛は鎧を二重に着込み、あるいは碇をかついで入水したと伝えられています。それは遺体が浮いて源氏方に拾われ、その後に辱めを受けないよう、海の底に沈めるためでした。
マナブ:そういうことでしたか。

壇ノ浦砲台跡
マナブ:大砲が並んだ場所に来ました。
歴史先生:さて、次は幕末のお話。
マナブ:お、気持ちを切り替えましょう。今度は下関戦争、ですね?
歴史先生:そうです、そうです。1863年、といいますから明治維新の5年前、長州藩は尊王攘夷派が勢いを得て、ここ関門海峡を通過する外国船を見たら砲撃するという暴挙に出ます。そのためにここ壇ノ浦や、もう少し瀬戸内側に行ったところにある前田や長府、逆に西側では彦島などに砲台を築きます。
マナブ:ちょうど海の幅も狭い。
歴史先生:そうです。ここなら通過する船に砲弾が届きます。当時、先進国の軍艦に搭載されていた大砲はライフル砲と呼ばれていました。
マナブ:ライフルというと、スコープをのぞき込んで狙いを定めて撃つ手持ちの銃のイメージですが。
歴史先生:ライフルというのは砲身の内部にらせん状の溝を彫って、どんぐり型の弾に回転をつけて遠くまで正確に飛ばすテクノロジーのこと。対する日本の大砲はただ丸い砲弾をどーんと飛ばすだけでしたので、射程距離も数倍違い、命中率も比較になりませんでした。
マナブ:でもここなら近いので届くし、当たりやすい。砲台を作るには最適の場所ですね。
歴史先生:そういうことです。さて、1863年の6月、アメリカ商船ペンブローク号がここを通りかかると長州の砲台と2隻の軍艦がこれを一斉に砲撃。ペンブローク号はなんとか周防灘に逃走します。これによって長州藩では「攘夷をやったぞ」ということで大盛り上がり。
マナブ:でしょうね、でも相手は商船。
歴史先生:そうなんで す、まだ本当に強い相手とはやっていない。ペンブローク号はそのまま上海に行ったため、この事件をアメリカ艦隊もしばらく知りませんでした。その約2週間後、今度はフランス軍の通信艦(連絡用の小型の軍用船)キャンシャン号が瀬戸内側から海峡に入って来ます。長州藩はこれに砲撃。おどろいたキャンシャン号は話し合いのためにボートを陸へ向かわせましたがそれにも攻撃を加え、水兵4人が死亡。キャンシャン号はなんとか急いで海峡を通過して、長崎へたどり着きました。
マナブ:今度はちゃんと報告があがりそうですね。
歴史先生:はい。その3日後、今度はオランダの軍艦メデューサ号が海峡を通過します。彼らはキャンシャン号の事件のことは知っていましたが、この軍艦は長崎奉行の許可証も持っており、長年の友好国として無事通過できると思いきや、長州はこれにも砲撃を加えます。メデューサ号は応戦するも17発も被弾し、命からがら瀬戸内側へ逃げました。
マナブ:各国に喧嘩を売って、これはまずいことになりそうですね。
歴史先生:そのころ、各国の艦隊は横浜に停泊し、幕府との交渉と重ねていました。この事件を各国が耳にし、幕府に長州の暴挙をやめさせるよう強く求めます。しかしこの時期、長州は幕府の言うことなど聞くはずもありません。
マナブ:各国の艦隊からすれば、幕府に頼れないなら、自分たちでやるか、となりますね。
歴史先生:はい。関門海峡を安全に通れないとなると、貿易に多大な損失となりますので、一刻も早く解決しなければいけない問題でした。そこで砲撃の翌月、まずはアメリカ海軍のワイオミング号が横浜から下関へ向かい、砲台の射程距離の外から攻撃を始めます。長州藩は3隻の軍艦を向かわせますが、大砲の性能がまったく違いました。結果は2隻撃沈、1隻は大破。
マナブ:戦いにならない。
歴史先生:その4日後、今度はフランス海軍のタンクレード号がやってきて、前田と壇ノ浦の砲台を集中的に攻撃。さらに水兵を上陸させて、2つの砲台を完全に破壊しました。
マナブ:これが下関戦争ですか。長州藩も各国の海軍の力を目の当たりにして、攘夷をあきらめたでしょうね。
歴史先生:いえ、実は違うんです。
マナブ:違うんですか?

壇ノ浦砲台跡
歴史先生:長州藩は、戦争のやり方が変わったことを悟ります。これまでのプライドの高い藩士たちではあてにならず、それよりも気持ちのある庶民たちを鍛えて戦力にしていこうという、奇兵隊が組織されました。
マナブ:高杉晋作、ですね?
歴史先生:そうです。長州藩はますます過激になっていき、砲台も再建します。幕府は軍艦朝陽丸を派遣して長州に暴挙を止めるよう説得に行きますが、逆に朝陽丸を奪われてしまうというありさま。
マナブ:もう誰も長州を止められない。
歴史先生:そうなんです。そうなると、各国の艦隊はどう考えますか?
マナブ:今度はもう少しきついお灸をすえて、二度と歯向かえないようにしようと。
歴史先生:そうなりますよね。そこで翌年1864年、イギリス、フランス、オランダ、アメリカの4か国の連合艦隊が下関に再びやって来ます。今度は全体で17隻、5,000人の兵力でした。
マナブ:軍艦1隻でもやられたのに、今後はとてつもない大艦隊。まったく勝ち目がないどころか、完膚なきまでに叩きのめされそう。
歴史先生:連合艦隊は大分県の姫島に立ち寄り、そこから関門海峡を目指します。まず初日は長府、前田の砲台を砲撃し、水兵を上陸させてこれらを徹底破壊。翌日は壇ノ浦砲台を集中攻撃します。さらにその翌日は彦島の砲台を攻撃してこれらを壊滅させました。陸上の戦いでも両者の武器の違いは 歴然。まったく戦いになりませんでした。
マナブ:長州藩もようやくわかった。
歴史先生:長州藩は単独での攘夷は不可能だと悟ります。そこで今度はイギリスを組んで、倒幕へと大きく舵を切っていくんですね。
マナブ:すごい変わり身!
歴史先生:ところで、この下関戦争は講和によって終結します。連合艦隊の旗艦、イギリスの軍艦ユーライアス号の船上にて話し合いが持たれました。長州代表は誰だったか、ご存じですか?
マナブ:いえ、知りません。
歴史先生:長州代表は高杉晋作。通訳として伊藤博文が付き添いました。でもそのころ高杉晋作は謹慎の身でしたが、家老の息子とうそをついて、交渉役に起用されたんです。
マナブ:こんな難しい交渉ですから、普通のまじめな役人には無理。はちゃめちゃな人間でないと務まらない。
歴史先生:そういうことなんです。一方的に負けた戦争の話し合いなのに、高杉晋作は実に傲然として、上から目線で話をします。イギリス側の通訳、アーネスト・サトウは「魔王のようだった」と記録しています。
マナブ:さすが高杉晋作ですね。
歴史先生:イギリスは彦島を長期にわ たって租借することを目的としていたんです。アヘン戦争で香港を租借したのと同じパターン。でも高杉の演技と度胸によって、彦島については合意に至りませんでした。
マナブ:もし高杉でなかったら、きっと彦島のことは譲歩していたでしょうね。だとしたら、彦島は香港のようになっていたのかなぁ。
歴史先生:歴史に「IF」はない、とよく言われますが、もしここで彦島をイギリスに渡していたら、日本は果たして植民地にならずにちゃんと独立していたのかどうか、わかりませんよ。
マナブ:ということは、私たちは高杉晋作に感謝しなければならないかもしれませんね。
歴史先生:でも連合軍は下関戦争の講和に多額の賠償金を要求します。高杉晋作は「長州藩は幕府の命令に従っただけ。賠償金の交渉は幕府とやれ」という姿勢であったため、結局は幕府がその賠償責任を負い、それを明治新政府が引き継いで明治7年まで分割で払い続けるということになりました。
マナブ:なるほど。長州の暴発はそんな負担を日本中に負わせた、という結果にもなったわけですね。
関門トンネルを歩いて九州へ渡ろう

関門トンネル人道入口

関門トンネル人道(地図 ⓭)
〒751-0813 山口県下関市みもすそ川町22−34
歩行者無料、自転車・原付20円
6:00~22:00、無休
(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)
歴史先生:さて、みもすそ川公園の下には関門トンネルが通っています。自動車のトンネルに沿って、人が通れる道もあるので、行ってみましょう。
マナブ:海の下をくぐるトンネルを歩いて渡るなんて、なかなかおもしろいですね。

まずはエレベーターで下りる
歴史先生:さて、関門トンネルは2つあります。1つは彦島のあたりにある鉄道トンネル。ここ壇ノ浦にあるのは国道トンネルです。
マナブ:どちらも古くからありましたよね。
歴史先生:鉄道トンネルの方が先でした。1936年(昭和11年)に着工して1944年(昭和19年)に開通しています。
マナブ:工事の後半は戦争の真っただ中、ですよね?
歴史先生:はい。だから攻撃を受けにくい、海底トンネルになったんです。資材も人も不足している中で、大変な苦労をして開通させました。一方こちらの国道トンネル。1939年(昭和14年)に着工しましたが、1945年(昭和20年)、敗戦の色が濃くなる中で工事は中断。1958年(昭和33年)にようやく開通しました。
マナブ:そのころから高度経済成長が始まった。
歴史先生:はい。まさにその流れの中で、自動車の普 及が進む中での物流の大動脈ができたわけです。全長3.461m、人道は780mあります。

壁の絵が海の底にいることを感じさせてくれる
マナブ:歩き始めました。長くて、先が見えません。
歴史先生:ゆるやかに下って、ゆるやかに上りますので、出口はまだまだ見えません。
マナブ:私たちは海の底にいるんですよね。壁の絵がそれを思い出させてくれます。
歴史先生:波の下にも都がありますよ、と言われて入水した安徳天 皇。平家一門が眠る海の底のさらに下を私たちは通っています。

人道トンネルのほぼ中間点にある県境
マナブ:あ、県境だ。
歴史先生:このあたりからゆるやかに上っていきます。そして出口を出たらそこは九州!
マナブ:なかなかできない体験ですね。
歴史先生:トンネルを出たら門司港を歩きます。さてマナブさん、下関はいかがでしたか?
マナブ:いやー、おもしろかった。源平合戦、幕末、さらには日清戦争まで。時代を行き来しながら歴史のスターたちの足跡を感じることができました。特にこの海峡という場所は、やっぱり特別な雰囲気がありますね。下関の歴史は海峡という地形が作ったんだなぁということを、肌で感じることができました。

