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登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
「横浜」という地名の由来は? まずは横浜の地形図を見てみよう。

石川町駅から山手の西洋館めぐりをスタート

山手西洋館めぐり(1):山手イタリア山庭園のおしゃれな洋館に驚く

山手西洋館めぐり(2):日本最古の山手公園はどうやってできた?

山手西洋館めぐり(3):元町公園に残るスペイン風の大邸宅

山手西洋館めぐり(4):外人墓地はどうやってできた?

山手西洋館めぐり(5):港の見える丘公園にもある西洋館

「横浜」という地名の由来は? まずは横浜の地形図を見てみよう。


マナブ:今日は横浜に来ています。


歴史先生:横浜の旅行ガイドはいくらでもあると思うのですが、横浜の歴史、ならびにそれを生んだ地形にフォーカスしたガイドはあまりないと思いますので、今日はそれを意識しながら街歩きを進めていきましょう。マナブさんは横浜は何度か来たことがありますか?


マナブ:はい、何度となく来ています。でも今までは中華街での食事がメインだったり、ホテルに泊まったり、山下公園で海を見たり。仕事でもみなとみらいに何度か来ました。


歴史先生:横浜といえば非常に歴史的に重要な街ですが、そういう意識で歩いたことはありましたか?


マナブ:いえ、ないですね。あくまでも現代の港町として、新しい横浜を楽しむばかりでした。


歴史先生:では今日は横浜の歴史をしっかりと学びながら、歩いていきましょう。


マナブ:いいですね。


歴史先生:ところで突然ですが、「横浜」という地名はどういう由来だか知っていますか?


マナブ:いいえ。考えたこともありません。


歴史先生:では江戸時代の初めごろの地形を現代と比較して見てみましょう。



マナブ:あれ、横浜の市街地がない。ここは海だったんだ。


歴史先生:はい。現在横浜の市街地になっているところは深い入り江だったんです。そして入り江の入口には長い砂洲が伸びていて、波穏やかな湾になっていたんですね。


マナブ:天橋立みたいな地形ですね。


歴史先生:まさにそのとおり。そしてこの砂洲の上にあった小さな村を「横浜」と呼んでいたんです。


マナブ:なるほど。横浜というのはそういう意味でしたか。そういえば長崎に行ったとき、地名の由来はひょろっとした長細い岬でしたね。その後埋め立てで長崎市街地ができた。あれに似ていませんか?


歴史先生:はい、よく似ていると思います。


マナブ:長崎と横浜、共通点が多いなぁ。造船所、山手の洋館、中華街、などなど。


歴史先生:今日はいろいろと長崎と比較しながら歩くのも面白いかもしれません。さて、この深い入り江ですが、1656年から11年かけて、江戸の商人である吉田勘兵衛という人が、新田開発事業として埋め立てを行いました。この地区は「吉田新田」と呼ばれていました。


マナブ:今でも何となく地図上でその跡がわかりますね。この事業ですが、新田を開発して石高を伸ばして幕府の財政を改善した、という享保の改革の一環ですか?


歴史先生:いえ、享保は1716~1736年ですから、吉田新田はそれより60~70年前のことです。


マナブ:そうか。当時はとても先進的な取組みだったんですね。


歴史先生:その後、横浜新田、太田屋新田などの埋め立てが進み、今の横浜市街地の原型が出来上がりました。



歴史先生:では次に横浜市街地と山手の地形図をみましょう。何が言えますか?


マナブ:埋め立ててできた市街地の南に、険しい崖があって、山手の丘が続いています。


歴史先生:はい、そうですね。山の上が「山手」。山の麓の平地が「山下」です。


マナブ:あ、山下公園はそういう意味でしたか。


歴史先生:そうなんです。


石川町駅から山手の西洋館めぐりをスタート


JR石川町駅の上には洋館が見えている



マナブ:ということで、私たちはJR石川町駅(地図 ❶)にやって来ました。今日の街歩きはここからスタートですね。


歴史先生:はい。石川町駅の向こうはすぐにトンネルになっています。これが山手の丘ですね。丘の上には早くも洋館が顔をのぞかせていますよ。


マナブ:あ、ほんとだ。


石川町駅前の案内板


マナブ:案内板があります。西洋館がいくつかありますが、全部入館無料、なんですね。


歴史先生:はい、ありがたいですよね。


大丸谷坂


歴史先生:駅を出てすぐのローソンの角を曲がって、大丸谷坂(おおまるだにざか、地図 ❷)を上ります。ここで山手の地形図をみておきましょう。


マナブ:この大丸谷坂は右にカーブしながら一気に山手の丘の上まで登るんですね。


歴史先生:はい。そのあとは尾根づたいに平坦な道になります。これが山手本通り。最後、港の見える丘公園からは下りになっていきます。


大丸谷坂の脇に祠が見える


大丸谷震災地蔵尊


マナブ:坂の途中に、何か祠(ほこら)のようなものがありますよ。


歴史先生:これはお地蔵さんなんですが、実はこの場所、多くの人が犠牲になった坂なんです。


マナブ:というと?


歴史先生:1923年(大正12年)9月1日、関東大震災によって、町は火に包まれました。この坂には火災から逃れようと300名もの人が集中。しかし坂の下からの火の勢いが強く、その中の27名の方がここで亡くなりました。この地蔵尊はその犠牲者の冥福を祈って建てられたものです。


マナブ:関東大震災というと東京の被害を思い浮かべますが、横浜も被害があったんですね。


歴史先生:関東大震災の震源地はどこだったか、覚えていますか?


マナブ:あ、たしか相模湾。


歴史先生:そうです。正確には今の松田町の陸地の下だろうと言われています。関東大震災は相模トラフが動いて起きた地震です。


マナブ:なんとなく東京の真下で起きた首都直下型の地震と思っていましたが。


歴史先生:東京は震度6。湘南地域は震度7。これは相模湾・湘南で起きた地震なんです。


マナブ:そうか。だとすると、東京よりも震源に近い横浜の被害も非常に大きかった。


歴史先生:全壊した建物の数は横浜市が14,000、東京市が12,000。死者は横浜市が23,000人、東京市が58,000人ほど。その当時の人口は横浜市が44万人、東京市が220万人でしたから、割合からいうと横浜のほうが大きな被害が出たと言えるでしょう。実際、横浜の市街地のほとんどが焼失しています。


マナブ:そうだったんですか。江戸時代の技術による埋め立て地だから地盤が緩くて揺れもひどかったのかもしれませんね。横浜における関東大震災の被害というのは、今まで考えたことがありませんでした。


歴史先生:東京もそうでしたが、横浜でも死者のほとんどは火災によるものでした。


マナブ:その悲劇の1つがここ大丸谷坂で起きたんですね。


山手西洋館めぐり(1):山手イタリア山庭園のおしゃれな洋館に驚く


大丸谷坂にある山手イタリア山庭園の裏口


山手イタリア山庭園の案内図


歴史先生:大丸谷坂の途中に、山手イタリア山庭園の裏からの入口がありますが、せっかくなので坂を上り切って、正面から入りましょう。


山手イタリア山庭園の正面入口


山手イタリア山庭園(地図 ❸)

〒231-0862 神奈川県横浜市中区山手町16

入園無料

9:30~17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/park/italia/


マナブ:すてきな入口ですね。ところでここはなぜイタリア山、と呼ばれているんですか?


歴史先生:この丘に1880年(明治13年)から1886年(明治19年)までイタリア領事館が置かれていたので、そう呼ばれるようになりました。


メタセコイアの並木道


マナブ:入るとすぐに、まっすぐ並木道が続きます。きれいですね。


歴史先生:メタセコイア、ですね。秋の紅葉も見事です。


展望所


展望所からはマリンタワーやベイブリッジなどが見える


JR石川町駅も真下に見える


マナブ:展望所からはマリンタワー、ベイブリッジなどが見えています。


歴史先生:こちらの下をみると、さっき降りた石川町駅が見えますよ。


マナブ:あ、ほんとだ。ここはちょうどJRのトンネルの上なんですね。


ブラフ18番館


ブラフ18番館(山手イタリア山庭園内)

入館無料

9:30~17:00、第2水曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/yamate-seiyoukan/bluff18/


歴史先生:イタリア山庭園には2つの洋館があります。まずはじめに、「ブラフ18番館」に入りましょう。


マナブ:かわいらしい家ですね。


歴史先生:白い壁にフランス瓦の屋根を持った木造2階建て。緑のよろい戸と上げ下げ窓、などが特徴です。


マナブ:ここはブラフさんの邸宅?


歴史先生:いいえ。「ブラフ」というのは英語のBluff。


マナブ:えーっと、「はったり」とか、の意味でしたっけ?


歴史先生:そうなんですが、そのほかに「崖」「急斜面」という意味もあります。


マナブ:ということは?


歴史先生:この山手地区全体が急な崖に囲まれていますから、この丘の上を外国人たちは「ブラフ」と呼びました。この家はブラフ18番地の館、という意味です。


サロン


マナブ:元々は誰が住んでいた家なんでしょう?


歴史先生:オーストラリアの貿易商バウデンの邸宅です。関東大震災では、丘の上の山手も大変な被害に遭い、多くの家が倒壊しました。そのため震災後、外国人たちが洋館を再建します。この家は震災直後(大正末期から昭和初期)に建てられた、山手(すなわちブラフ)45番地にあったものです。


マナブ:45番地にあった、ということは移築されたんですか?


歴史先生:はい。その後カトリック山手教会の司教館となり、1991年に横浜市に寄贈され、ここイタリア山庭園に移築・保存されています。現在のここの番地は18番地。だから今はブラフ18番館と言われます。


サンルーム


マナブ:1階のサロン、そしてそれにつながるサンルーム。どこも明るくて気持ちの良い部屋です。緑の窓枠と白い壁が印象的ですね。


寝室


マナブ:2階の寝室もまたすばらしい。窓の外には庭の木が見えて、自然な光と緑に囲まれた素敵な家です。


広場から外交官の家を見る


歴史先生:ではお隣の「外交官の家」に行きましょう。ここは洋式の庭園も見事ですよ。


マナブ:2軒の間にある広場。ここは絵になりますねぇ。


整形花壇と外交官の家


マナブ:うわぁ、ここもすばらしい。外交官の家のとんがり屋根。石川町駅のホームから、ちらっと見えていた洋館はこれだったんだ。


季節の花が美しい整形花壇


歴史先生:この整形花壇は、ここにイタリア領事館が置かれていたことにちなんで、公園として整備されたものです。


マナブ:とてもよく手入れが行き届いて、すばらしいです。


夏は涼しさを演出する噴水


庭園側から見た外交官の家


歴史先生:では「外交官の家」に入って見ましょう。入口は庭園側ではなくて、反対側になります。


外交官の家の入口は裏側にある


外交官の家(山手イタリア山庭園内)

入館無料

9:30~17:00、第4水曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/yamate-seiyoukan/gaikoukan/


マナブ:どこからみても、すてきな外観の家です。


歴史先生:スレート葺きの屋根と下見板張りの外壁。とんがり屋根の塔屋。アメリカン・ヴィクトリアンの様式を受け継いだ洋館です。1910年(明治43年)築の国指定重要文化財、です。


マナブ:おぉ、これは重文に指定されているんですね。でも待ってください。明治末期の建築ということは、ここは関東大震災でも無事だった?


歴史先生:実はこの「外交官の家」。横浜にあったものじゃないんです。


マナブ:え? どこにあったんですか?


歴史先生:東京・渋谷の道玄坂にあったお屋敷を、1997年にここに移築したものです。


マナブ:へぇー。明治時代の道玄坂にこの家があったなんて、モダンでおしゃれだったでしょうね。


食堂


マナブ:中へ入ってきました。ここはさっきのブラフ18番館とは対照的。重厚で暗めのインテリア。


暖炉


マナブ:この暖炉なんかも素敵ですね。


歴史先生:まわりにはまっているのはおそらくマジョリカタイルでしょう。


マナブ:マジョリカタイル?


歴史先生:スペインのマヨルカ島からイタリアに伝わったもので、色彩豊かな陶器タイルです。


サンルーム


マナブ:こちらはサンルーム。ここはさすがに明るい。


歴史先生:私が面白いと思うのは、室内にあるよろい戸。


マナブ:あ、ほんとだ。


歴史先生:これを見ると、サンルームは屋外、の扱いであることがわかります。


マナブ:なるほど、たしかにそうですね。


窓が階段に沿って段違いになっている


明るい浴室


主寝室


歴史先生:こちらが主人夫妻が寝ていた寝室。


マナブ:ところで「外交官の家」ということですが、オーナーの外交官というのは誰のことでしょう?


歴史先生:内田定槌さんという、ニューヨーク総領事やトルコ特命全権大使などを務めた明治時代の外交官です。


マナブ:アメリカンな要素の多い家のようですが、設計したのは誰ですか?


歴史先生:設計者はJ.M.ガーディナー。


マナブ:その人は?


歴史先生:彼はアメリカ人宣教師で、1880年(明治13年)に23歳の若さで立教学校の講師として招かれ、来日しました。


マナブ:立教学校というのは今の立教大学ですね?


歴史先生:はい、そうです。立教学校はアメリカ人宣教師によって1874年(明治7年)に築地に開かれた私塾なんですが、その後1918年(大正7年)に現在の池袋に移転し、大学として発展しました。


マナブ:宣教師が建物の設計もしたんですか?


歴史先生:J.M.ガーディナーは立教学校の校長を務めたのち、1891年(明治24年)から1894年(明治27年)にかけてアメリカに戻ってハーバード大学に通って建築を学びました。そして再び来日して建築に関わることになります。


マナブ:すごい人ですね。


歴史先生:彼は日本で教会や学校、邸宅などの設計を行いますが、「外交官の家」は彼の代表作として知られています。そういえば滋賀県の近江八幡でW.M.ヴォーリズの話をしたのを覚えていますか?


マナブ:覚えていますよ。たくさんの建築を残した人で、メンソレータムの会社も作った。


歴史先生:そうそう。彼もアメリカ人宣教師として来日して、多くの建築に携わりました。W.M.ヴォーリズが来日したのは1905年(明治38年)なので、J.M.ガーディナーの一世代後に活躍した建築家と言えるでしょう。


マナブ:そういえば旧古河邸や旧岩崎邸を設計したジョサイア・コンドルはいつ頃の人でしたっけ?


歴史先生:ジョサイア・コンドルが日本政府の招聘で来日したのは1877年(明治10年)。彼はイギリス人。J.M.ガーディナーとはほぼ同時期の来日ですが、彼は初めから工部大学校(現在の東京大学工学部)の建築学の教授ですので、生粋の建築家。日本の建築をリードした外国人としてはJ.M.ガーディナーよりも先駆者と言えるでしょう。


外交官の家の玄関


歴史先生:山手イタリア山庭園、いかがでした?


マナブ:初めて来ましたが、素晴らしいの一言。まず庭園がとてもきれいに整備・管理されてる。そして2軒の洋館。まったく違う個性ですが、それぞれ外観も室内もとっても素敵。こんな家に住みたいなと思わせてくれるような家でした。


山手西洋館めぐり(2):日本最古の山手公園はどうやってできた?


景観に配慮した洋風な家が並ぶ山手本通り


マナブ:山手イタリア山庭園を出て、山手本通りを歩いています。このあたり、高い建物がなくて、道路の両側も洋風の家が並びますね。


歴史先生:昔、外国人居留地だったころをほうふつとさせる景観ですね。これは1972年(昭和47年)に制定された「山手地区景観風致保全要綱」のガイドラインに基づいて、建物の高さや意匠などが制限されているからなんです。


マナブ:行政がそうした方向性をリードしているんですね。


歴史先生:実は行政だけでなく、地元住民が中心となって「山手まちづくり協定」ができるなど、この景観を守っていこうとする山手の人たちの努力が感じられます。


山手公園北側入口の信号を右折


マナブ:「山手公園北側入口」に来ました。


歴史先生:ここを右折しましょう。


カトリック山手教会


歴史先生:さて、ちょうどこの交差点に「カトリック山手教会」があります。


マナブ:大きな教会ですね。


歴史先生:はい。実はこの教会は、近代日本における日本最古の教会、とも言われています。


マナブ:「近代」日本における、という意味は・・・・、あ、そうか、戦国時代にザビエルをはじめとする宣教師たちが来て、その時に教会をたくさん建てていましたよね。


歴史先生:そうです。その後禁教令によってすべて取り壊され、江戸時代には幕末まで教会というものは存在しませんでした。


マナブ:でも幕末の開国によって、日本に来ている外国人のために教会が建てられた。長崎の大浦天主堂でその話を聞きました。あれ、待ってください。大浦天主堂の方が最古、なんじゃないですか?


歴史先生:いえ。大浦天主堂が建ったのが1864年。横浜に教会が建ったのが1862年、ですので、横浜の教会の方が古いんです。


マナブ:知らなかった。


カトリック山手教会


歴史先生:でも当初は、今でいう中華街の入口あたり、山下町80番地にあり、「横浜天主堂」と呼ばれていました。1906年(明治39年)に、ここ山手に移転し、「カトリック山手教会」となったんです。


マナブ:なるほど。そういった背景から、ここは近代日本最古の教会、と言えるわけですね。でも建物は鉄筋コンクリートで新しそうに見えます。


歴史先生:はい。以前の教会は双塔を持ったゴシック建築で、その壮麗な姿で山手に君臨していました。しかし1923年の関東大震災で崩壊。


マナブ:あぁ、また地震で大切なものが失われた。


歴史先生:10年ほどの募金活動を経て、1933年(昭和8年)に今の建物ができました。


マナブ:ということは、今私たちが見えているこの建物も結構古いんですね。


歴史先生:はい、横浜市が認定している歴史建造物の1つです。


山手公園の入口にあるヒマラヤ杉の巨木


山手公園(地図 ❹)

〒231-0862 神奈川県横浜市中区山手町230

入園自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.hama-midorinokyokai.or.jp/park/yamate/

マナブ:山手公園の入口に来ました。大木があって、「ヒマラヤ杉」と看板が立っています。


歴史先生:ここ山手公園は日本のヒマラヤ杉発祥の地。今では公園や街路樹で当たり前に生えているヒマラヤ杉ですが、もともとは外来種。1879年(明治12年)にインドのカルカッタから種子を取り寄せて山手公園に初めて植えられました。日本のヒマラヤ杉はここから始まったんです。


マナブ:へぇー。知りませんでした。


山手公園は国の名勝


歴史先生:さて、山手公園ですが、ここは日本最古の公園と言われています。


マナブ:最古、が続きますね。


歴史先生:はい。開国後、山手は外国人居留地になりましたが、そこに住む外国人たちから、母国にあるような西洋式の公園が欲しいという要望が江戸幕府に対して繰り返し上がってきました。


マナブ:公園なんてちょっと贅沢な気もしますが。


歴史先生:そうでもないんです。幕末には生麦事件(1862年)をはじめ、外国人殺傷事件が多発していました。日本に来ている外国人は普通に街を歩くことも危険だったんです。


マナブ:ということは、安全に外出できる場所が欲しかっただけ。


歴史先生:そうなんです。その要望は明治新政府になってから、1870年(明治3年)にようやく叶えられました。現在ある山手の土地約6,000坪が貸与され、居留民たち自らが公園造りに励みました。こうしてできたのが、日本最古の公園、山手公園です。


マナブ:国指定名勝になっているんですね。名勝になっている日本庭園はたくさんありますが、西洋式庭園で名勝になっているのは他にありますか?


歴史先生:たしかに西洋式庭園で名勝、というのはとても珍しいです。ちょっと山手公園とは位置づけが違うかもしれませんが、東京の旧岩崎邸庭園、旧古河庭園、などは邸内にある西洋式庭園も含めた形で名勝として指定されています。


マナブ:あ、なるほど。


山手公園のテニスコート


日本庭球発祥の地の碑


マナブ:テニスコートですね。


歴史先生:はい。ここ山手公園では日本で初めてテニスが行われました。


マナブ:また最古、だ。


歴史先生:テニス発祥の記念館がありますので、入ってみましょう。


横浜山手テニス発祥記念館


横浜山手テニス発祥記念館(山手公園内)

〒231-0862 神奈川県横浜市中区山手町230

入館無料

9:30~17:00、第3月曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.welcome.city.yokohama.jp/ja/tourism/spot/details.php?bbid=74


記念館からはテニスコートが良く見える


歴史先生:さて、テニスの歴史ですが、発祥の国はどこでしょう?


マナブ:えーっと、イギリス、かな?


歴史先生:正解です。1873年にイギリスの軍人が考案したスポーツだと言われています。ウインブルドンは1877年にテニスの最初のトーナメントが行われた場所、なんです。


マナブ:なるほど。


歴史先生:そしてここ山手公園に2面のテニスコートが作られたのが1876年(明治9年)。


マナブ:早い。イギリスで始まってからわずか3年後?


歴史先生:はい、そうなんです。1878年(明治11年)にはレディーズ・ローンテニス&クロッケー・クラブが設立されました。公園の維持管理には大変なお金がかかりますが、テニスクラブの売上でそれをまかなうことができるようになったんです。


マナブ:当時、何か月もかかって船で日本へやってくるスピードから考えると、ものすごく早い伝わり方ですね。


記念館内部(ラケット等テニス用具の展示)


マナブ:記念館内部はそれほど広くありませんが、ラケットをはじめとする道具の変遷が展示されています。ラケット、というのはアラビア語で「手のひら」を表す言葉が語源なのだとか。最初は手のひらでボールを打っていたんですね。


記念館内部(女性の服装の展示)


マナブ:そして驚くのは当時の女性の格好。これはスポーツするにはとても不向きな、動きづらそうな服装です。


歴史先生:当時の男性中心の社会から見た、女性に関する制約がよくうかがえる事象ですね。でも1900年代になってウインブルドンでも肌を露出したような服装で出場する勇気ある選手たちが現れ、徐々に服装革命が進んでいきました。


マナブ:ところで、山手にはどれくらいの外国人が住んでいたんですか?


歴史先生:1878年(明治11年)の資料によると、横浜居留地の外国人は約1,370人。イギリス人が515名、アメリカ人が300名、ドイツ人が175名、フランス人が120名といった内訳です。


マナブ:イギリス人が一番多かったんだ。


歴史先生:テニスを一番楽しんでいたのはイギリス人でした。ここでテニスして、午後のお茶の時間を楽しむ。そういった奥様方の優雅な暮らしが想像できます。


マナブ:あ、それでか。


歴史先生:何です?


マナブ:さっきの話でとても違和感があったんです。最初に出来たテニスクラブが「レディース~」っている名前だったこと。たとえばゴルフなんかを考えても、普通は男性向けが最初にあって、ずいぶん後になってようやく女性にも開放される、ということが普通だと思うんですが、ここのテニスクラブは女性向けが最初にできたんですよね。


歴史先生:そうなんです。テニスは男女関係なく楽しめるスポーツとして始まりましたが、中でも女性人気が高かった。昼間、男性たちが仕事に出ている間、異国で暇を持て余している居留地の奥様方にテニスが流行ったのは当然のことかと思います。


旧山手68番館


旧山手68番館の内部はテニスコートのクラブハウスになっている


旧山手68番館(山手公園内)

入館無料

9:00~17:00(夏季(5/16~8/15)は9:00~19:00)、第3月曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.hama-midorinokyokai.or.jp/park/yamate/sports.php


マナブ:道を進むとまた洋館があります。


歴史先生:こちらは旧山手68番館。1933年(昭和8年)築。かつては山手68番地にあった洋館で、外国人向けの賃貸住宅だったそうです。それが山手公園内に移築され、現在では公園の管理センターとして機能しています。


山手西洋館めぐり(3):元町公園に残るスペイン風の大邸宅


フェリス女学院 中学校・高等学校


マナブ:再び山手本通りに戻って、先へ進みます。左側に煉瓦建ての立派な建物が見えてきました。


歴史先生:あれはフェリス女学院 中学校・高等学校ですね。近くには大学もあります。ところで、フェリス女学院は、日本最古の女子教育の学校と言われています。


マナブ:また「最古」が出てきましたね。


歴史先生:ヘボン夫妻ってご存じですか?


マナブ:いいえ。


歴史先生:ヘボン夫妻はアメリカの宣教師で、幕末の1859年に来日。夫のジェームズ・カーティス・ヘボンは医師でもあり、西洋医学を日本に広めた人です。彼はさらに言語学者でもあり、世界初の和英辞典を作って、日本にローマ字を広めました。


マナブ:あ、「ヘボン式」の人だ。


歴史先生:そのとおり。


マナブ:ヘボン式と、もう1つは何でしたっけ?


歴史先生:訓令式、と言われています。


マナブ:ん? そんな名前でしたっけ。で、その違いは?


歴史先生:ヘボン式は例えば「し」を「Shi」、「つ」を「Tsu」、「ち」を「Chi」と表すように、英語の発音に近い表記をします。訓令式は機械的に五十音に当てはめていくもので、「し」は「Si」、「つ」は「Tu」、「ち」は「Ti」になります。


マナブ:そうでしたか。で、奥さんの方は?


歴史先生:妻のクララ・メリー・リート・ヘボンは教育者でした。1863年、居留地で「ヘボン塾」を開きます。まだ幕末のころですが、ここで英語教育を行ったんです。


マナブ:えーっと、この話はフェリス女学院のお話でしたよね?


歴史先生:前置きが長くなりましたね。そのヘボン夫人の塾を引き継いだのがメアリー・E・キダーという人。明治維新後の1870年(明治3年)に居留地内で英語授業を始め、これがフェリス女学院の始まりとされています。


マナブ:関東大震災はどうだったんでしょう?


歴史先生:震災で校舎が倒壊。その当時の校長も亡くなりました。震災後、関係者の皆さんが学校の復興に努められましたが、今度は太平洋戦争。英語教育が禁止され、校名も「横浜山手女学院」と変えさせられました。


マナブ:震災、戦争と大変な思いをした学校なんですね。


歴史先生:そして戦後になって校名を元に戻し、今は創立150年を超える女子教育の学校として生き続けています。


山手本通りを進む


マナブ:日本郵船の保養施設や教会等を見ながら、山手本通りを東へ進みます。


べーリック・ホールの入口


歴史先生:さて、べーリック・ホールに着きました。この洋館は素敵ですから、期待してくださいね。ちなみにここからが「元町公園」になります。


マナブ:期待しましょう。


元町公園(地図 ❺)

〒231-0861 神奈川県横浜市中区元町1丁目77−4

入園自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/park/motomachi/

べーリック・ホール


べーリック・ホール(元町公園内)

〒231-0862 神奈川県横浜市中区山手町72

入館無料

9:30~17:00、第2水曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/yamate-seiyoukan/Berrick-Hall/


高級感あるスタッコ仕上げの外壁、瓦屋根の付いた煙突が印象的


マナブ:これは実に素敵な外観です。


歴史先生:スパニッシュ・スタイルですね。屋根はスペイン瓦。アーチを多用したデザイン。


マナブ:邸宅前の庭から見る姿が美しい。そして広さもある立派な邸宅です。これはべーリックさんの家ですか?


歴史先生:はい。イギリス人の貿易商、B.R.べーリック(べリック)の邸宅です。1930年(昭和5年)の建物です。


マナブ:やはりこれも関東大震災からの復興時期のものですね。


歴史先生:そうです。では中に入ってみましょう。


47畳のリビングルーム


マナブ:うわぁ、すごい。


歴史先生:こちらはリビングルーム。47畳の広さがあって、4mの天井高がより一層空間を広く見せています。


マナブ:3方向から光が入って明るいですね。あまりに広いのでダンスホールかと思いました。


パームルーム


歴史先生:こちらはパームルーム。リビングの隣にあって、明るい空間を作っています。


マナブ:まさに絵になる部屋ですね。ここ、好きだなぁ。


市松模様のタイルが印象的


マナブ:パームルームや玄関・廊下は白黒の市松模様のタイルになっていますね。これがおしゃれだなぁと思います。


歴史先生:スペインでもこれはチェッカーボード模様としてよく使われるパターンですね。


子供部屋


歴史先生:2階へ上がってきました。2階にはベッドルームが4つ。それぞれに専用の浴室がついているぜいたくな造りです。


マナブ:最初は子供部屋。これは素敵だ。壁の色が何とも言えず、おしゃれです。


客用寝室


マナブ:客用寝室も壁の色が素敵。そして小窓の形が好きです。


主人寝室(書斎)


マナブ:ここは主人寝室と夫人寝室が別なんですね。主人寝室は書斎として復元されています。


婦人寝室


マナブ:夫人寝室は実に豪華。サンルーム付きで、ウォークインクローゼットもある。いやー、実に素敵な邸宅です。誰の設計ですか?


歴史先生:J.H.モーガンというアメリカ人の建築家です。彼は1920年に来日し、丸の内ビルディングや日本郵船ビルディングなどの設計に携わりました。


マナブ:1920年というと、関東大震災は1923年でしたから、その直前ですね。


歴史先生:そうなんです。そして震災後、J.H.モーガンは横浜山手の復興の中で多くの洋館を設計しました。このべーリック・ホールはその時の彼の代表作の1つです。


玄関へのアプローチ


マナブ:もう1つ疑問があります。ベーリックさんの家なら「ベーリック邸」でいいと思うのですが、なぜ「べーリック・ホール」という名前なんですか?


歴史先生:いい質問ですね。べーリックさんの没後、この家はカトリック・マリア会に寄付され、学生寮として使われるようになりました。その時に「ホール」という名称になったんですね。


マナブ:ホールという名前から、先ほどの広いリビングは演奏会か何かがある会場のような誤解をしていたんですが。


歴史先生:ホールという英語は元々広い公共空間を表す言葉で、この家が非常に大きく、寄宿舎として公共性があることからそう呼ばれるようになったものと考えられます。


マナブ:なるほど。


エリスマン邸


エリスマン邸(元町公園内)

〒231-0861 神奈川県横浜市中区元町1丁目77−4

入館無料

9:30~17:00、第2水曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/yamate-seiyoukan/ehrismann/


歴史先生:べーリック・ホールの隣には「エリスマン邸」があります。


マナブ:エリスマンさんの家。


歴史先生:はい。フリッツ・エリスマンはスイス人。1888年(明治21年)に来日して横浜の商社に勤めます。その後シーベルヘグナー商会の横浜総支配人になり、震災後の1926年(大正15年)にこの家を建てました。


エリスマン邸の玄関


マナブ:べーリック・ホールの隣にありますが、建築のテイストは全然違いますね。


歴史先生:はい。こちらの設計者はアントニン・レーモンドというチェコ人です。


マナブ:その人は?


歴史先生:レーモンドはフランク・ロイド・ライトの助手として1919年(大正8年)に来日。


マナブ:フランク・ロイド・ライトは知っていますよ。帝国ホテルを建てた人。


歴史先生:はい。まさに帝国ホテルの建設にあたって、その助手として雇われたんです。


庭側からみた外観


歴史先生:スレート葺きの屋根、板張りの外壁。水平線を強調したモダニズム。そのデザインにはフランク・ロイド・ライトの影響が見られると言われています。


マナブ:なるほど。


歴史先生:この建物は元々山手127番地に建てられましたが、1990年(平成2年)に元町公園内に移築復元されました。


食堂とサンルーム


応接間


マナブ:内部はシンプルな感じがしますね。


歴史先生:レーモンドが好んだデザインはシンプルでモダンなもの。機能美の追求が随所にみられる建築です。


2階にある大型のジオラマ


マナブ:2階に上がってきました。ここは元は寝室がいくつかあったんですね。


歴史先生:はい、今は資料展示室のようになっています。


マナブ:あ、この大型のジオラマ、いいですね。山手全体が作られていて、私たちがどこをどう歩いてきたのか、立体的に俯瞰できます。


歴史先生:石川町駅からここまでの道のり、そしてここから港の見える丘公園に続く道のりを見ておきましょう。


山手234番館


山手234番館(元町公園内)

横浜市中区山手町234-1

入館無料

9:30~17:00、第4水曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/yamate-seiyoukan/yamate234/


マナブ:エリスマン邸から見て道路の反対側に、また素敵な感じの洋館があります。


歴史先生:こちらは「山手234番館」。1927年(昭和2年)ごろに建てられた共同住宅です。


マナブ:共同住宅、ということはアパート?


歴史先生:はい。アパートメントハウス、です。まずは入口を見てください。


入口には4つの扉がある


マナブ:扉が4つあります。


歴史先生:これらがそれぞれ別の家になります。右端と左端のドアを開けるとそれぞれ1階の右半分、左半分の住居。真ん中2つのドアの向こうは階段になっていて、2階へ上がり、それぞれ2階の右半分、左半分を占める家になっています。


マナブ:なるほど。おもしろい造りですね。


歴史先生:これらの共同住宅は関東大震災で横浜を離れた外国人たちを呼び戻すために、震災復興事業として建てられたものです。


マナブ:これは誰の作品ですか?


歴史先生:この家を設計したのは日本人建築家の朝香吉蔵(あさか よしぞう)。


マナブ:初めて日本人建築家の名前が出てきました。


リビング


歴史先生:朝香吉蔵の建築はシンプルで室内装飾が少ない。その一方で部屋の仕切りがアーチ型になっているのが特徴です。


光庭


マナブ:おっ、これは?


歴史先生:ここは「光庭」と呼ばれています。建物の中心にあって、各部屋の採光を担うだけでなく、風呂場からの湿気を逃がす役割も持っていたようです。


マナブ:ここは絵になりますね。


えの木てい


えの木てい

〒231-0862 神奈川県横浜市中区山手町89−6

平日12:00~17:30、休日11:30~18:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.enokitei.co.jp/ 


マナブ:山手234番館の隣にある家も素敵ですね。


歴史先生:こちらは「えの木てい」というカフェ。山手の歴史ある西洋館の1つなんです。これもまた朝香吉蔵の作品。


マナブ:ということは他の西洋館と同じくらい古い?


歴史先生:1927年(昭和2年)ですから、これも震災からの復興時期に建てられた住宅です。アメリカ人の家でしたが、現在はカフェとして営業しています。内部のアンティーク家具もみどころです。


山手西洋館めぐり(4):外人墓地はどうやってできた?


山手本通り


マナブ:山手234番館の前の山手本通りをさらに北東へ進みます。


電話ボックス


マナブ:ん? これは何だ? 電話ボックス?


歴史先生:はい、そうです。当時は「自働電話」と呼ばれていました。ところで日本で一番最初に電話が通じたのはどことどこの間かご存じですか?


マナブ:いえ、考えたこともありませんでした。


歴史先生:答えは東京(現在の千代田区)と横浜の居留地の間、だったんです。1890年(明治23年)のことでした。


マナブ:また「最古」が出てきましたね。横浜が初めてのものって、本当に多い。


歴史先生:この電話ボックスは1990年に電話100周年を記念して建てられたもの。1900年(明治33年)に初めて東京の京橋に設置された電話ボックスの形を模しています。


横浜山手聖公会


横浜山手聖公会

https://yamate-anglican.jpn.org/ 


マナブ:右側に立派な教会があります。


歴史先生:こちらは「横浜山手聖公会」。大谷石を使った重厚な外壁、イギリスのノルマン建築とゴシック様式が合わさった城塞のような造り。これもJ.H.モーガンの作品です。


マナブ:ということは震災の後に建てられたもの。


歴史先生:はい、そうですね。聖公会というのはキリスト教の会派の1つですが、横浜居留地に住む外国人信徒のために1863年、聖堂が建てられました。


マナブ:えーっと、さっきのカトリック山手教会は何年でしたっけ?


歴史先生:1862年です。


マナブ:では1年違いだ。


歴史先生:はい、聖公会の聖堂はこれも今の中華街に隣接する山下街105番地に建てられました。そして1901年(明治34年)に現在の場所に移転しました。その時の設計者はジョサイア・コンドル。


マナブ:えー、そうなんですか。


歴史先生:彼が設計した聖堂は煉瓦造りのヴィクトリア様式による、見事な教会だったようです。


マナブ:それは関東大震災で失われたんでしょうか?


歴史先生:はい、残念ながら1923年の関東大震災で倒壊してしまいました。その後、1931年(昭和6年)にJ.H.モーガンの設計で再建されたのが今の聖堂です。


山手資料館


山手資料館 (地図 ❻)

〒231-0862 神奈川県横浜市中区山手町247−4

入館無料

11:00~16:00、月曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.welcome.city.yokohama.jp/ja/tourism/spot/details.php?bbid=66


マナブ:道を進むと右側にかわいい洋館があります。


歴史先生:こちらは横浜市が運営している山手資料館。


マナブ:カーブしたアプローチと、庭がとてもきれいです。


1階展示室


歴史先生:この建物は1909年(明治42年)に本牧本郷町(山手からみて南側の地区)に建てられた、中澤兼吉(なかざわ かねきち)の邸宅の中の洋館部分を移築したものです。


マナブ:明治建築ですか。


歴史先生:関東大震災を経験した横浜では貴重な文化財です。


マナブ:中に入ると受付の方から、「ドアノブはていねいに回す」「階段の昇降は一度に1人ずつ」などといった注意事項の説明を受けます。それだけ大切に保存したい建物なんですね。室内は1部屋のみ。こじんまりとしていて展示品がぎっしりと並んでいる感じです。


歴史先生:オーナーの中澤兼吉ですが、今の横浜冷凍(株)の創業者。居留地で需要が高まっていた食肉、牛乳、バターなどの製造や輸入販売で事業を拡大しました。外国人が経営する商社が多かった中で、大きな成功を収めた日本人実業家の一人です。


2階の窓から庭を見下ろす


マナブ:きしむ音がする古い階段を一人ずつ上って、2階へ行きます。


外人墓地のジオラマ


外人墓地に関する展示が多い


マナブ:2階は外人墓地に関する展示が多いですね。


歴史先生:このあと、外人墓地に行きますので、ここで予習しておきましょう。


山手本通りから見える外人墓地


マナブ:山手資料館の前、山手本通りを歩いています。左側に外人墓地が続きます。十字架の形の墓石など、あきらかに日本の墓地とは趣が異なります。


横浜外国人墓地(外人墓地)(地図 ❼)

〒231-0862 神奈川県横浜市中区山手町96

入場無料

9:00~17:00、月火休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.yfgc-japan.com/message.html


外人墓地の入口


歴史先生:では外人墓地の入口から入りましょう。


マナブ:先ほどの山手資料館で予習しました。ペリー提督の黒船来航の時に死亡した船員のお墓が最初、なんですよね。


歴史先生:はい。ところでペリーは2度来航しています。一度目は1853年。浦賀沖に突然の黒船来航、ということで、日本中が大騒ぎになりました。そこで開国の要求を突きつけ、来年また戻ってくる、と約束しました。


マナブ:そして約束通り、翌年また戻ってきた。


歴史先生:はい。翌年の1854年に東京湾に入ってきて、交渉の場として横浜に上陸。日米和親条約を締結しました。


マナブ:ペリーは横浜に来ていたんですね。


歴史先生:はい、その場所へはあとで行きましょう。その後ペリーは下田に移動し約70日間滞在。「日米下田条約(和親条約の付則)」が了仙寺で締結されました。さて、その2度目の来航の際にロバート・ウイリアムスという陸戦隊員が亡くなりました。ペリーはそのお墓を横浜の港から見えるところに作るよう要望。山手の麓の増徳院というお寺に埋葬されました。これが最初の外人墓地です。


マナブ:そのお寺はまだあるんですか?


歴史先生:増徳院は元町1丁目13番地にあったお寺ですが、関東大震災の後、山手の平楽というところへ移転して現存しています。増徳院のあった場所は今は元町通りの入口にある元町プラザという商業ビルになっています。


マナブ:たしかにそこであれば港からも見えそうですね。


歴史先生:今の外人墓地はそこから山に向かって上に広がっています。


入口付近の墓石群


歴史先生:その後、横浜は開港し、次々に外国人がやってきて居留地に住むようになります。


マナブ:でもまだ若くてバリバリに働いている人たちでしょうから、そんなにお墓のニーズはないのでは?


歴史先生:それがそうでもないんです。1859年、横浜を訪問していたロシア使節の随行員2名が殺害されます。ロシア使節は幕府に厳重に抗議。幕府は石塔を作って丁重に埋葬。彼らの墓地が現存する最古の外人墓地です。


マナブ:そうか、生麦事件とか、外国人に対するテロのようなことが頻繁に起きていた。


歴史先生:そうなんです。その後も殺害される外国人が後を絶たず、墓地のニーズがありました。1861年に外人専用の墓域が定められ、その後明治にかけて拡張され、現在の墓域になりました。


横浜外国人墓地資料館


歴史先生:外人墓地の入口横に資料館がありますので入ってみましょう。


横浜外国人墓地資料館(外人墓地内)

〒231-0862 神奈川県横浜市中区山手町96

入場無料

10:00~17:00、月・火曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

http://www.yfgc-japan.com/message.html


資料館内部の様子


マナブ:内部はシンプルで1部屋のみ。たくさんの写真付きパネルが掛けられています。


歴史先生:外人墓地に眠る人たちの情報がぎっしり詰まっている、内容の濃い資料です。


マナブ:「外国人による横浜もののはじめ」というパネルもあります。日本で初めての、というものがたくさんありそうですね。


歴史先生:まずはキリスト教会。お話ししたように1862年に横浜天主堂ができました。銀行は1863年に西インド中央銀行が開業。ホテルは1860年にオランダ人の元船長が開業した横浜ホテル。写真館は1860年にアメリカ人フリーマンが肖像写真館を開業。洋服屋は1863年にドレスメーカーとテイラーが開業。パンはフランス軍艦のコックから習った日本人が1860年に焼き始める。


マナブ:いろいろありますね。


歴史先生:まだまだありますよ。サーカスは1864年にアメリカ人のリズリーが来日して公演。彼は日本に滞在して日本初の西洋劇場を造りました。競馬は1860年に元町で初開催。新聞は1861年にジャパン・ヘラルドが創刊。その他、牛乳、食肉、西洋野菜なども横浜発祥。


マナブ:山手公園ではテニスの発祥の地を見ましたね。


歴史先生:はい。実は野球も横浜発祥。


マナブ:それは知りませんでした。


歴史先生:1871年(明治4年)、居留地に住む人たちのチームと、横浜港に停泊していた米海軍のコロラド号の水兵のチームが行ったのが日本最初の野球の試合と言われています。


1888年(明治21年)末の横浜市内の地図


歴史先生:最後に、1988年の横浜の地図が展示されています。昔の地図上で今日歩いたところを見ると、よく歴史が理解できると思いますよ。


ブラフ99ガーデンにあるブラフ積み


歴史先生:外人墓地のすぐ隣、ブラフ99ガーデンには「ブラフ積み」と呼ばれる石積みが残っています。


マナブ:先ほどから見てきましたが、家の周りに石積みがされていることが多いですね。


歴史先生:やはり坂の街ですから、斜面を強化するために石積みが多用されているんですね。


マナブ:たしかに、この形の石積みをよく見かけました。


歴史先生:ブラフ積みは房州石を直方体に切って重ねていくもの。長い方の面とその断面を交互に外に向けて並べていく特徴的な積み方です。


岩崎博物館


マナブ:道の右側に素敵な建物が。


歴史先生:こちらは岩崎博物館。かつてここには「ゲーテ座」という西洋劇場があって、シェークスピアなど西洋の演劇がここで上演されました。現在は岩崎学園 横浜洋裁学院の施設として、服飾関係の資料などが収蔵・展示されています。


山手西洋館めぐり(5):港の見える丘公園にもある西洋館


港の見える丘公園入口


港の見える丘公園(地図 ❽)

〒231-0862 神奈川県横浜市中区山手町114

入園自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.yokohama.lg.jp/kurashi/machizukuri-kankyo/midori-koen/koen/koen/daihyoteki/kouen007.html


マナブ:さぁ、港の見える丘公園の入口に来ました。


歴史先生:ここにも西洋館があるの、知ってました?


マナブ:いえ。記憶にないですね。


港の見える丘公園 案内図


歴史先生:こちらの案内図を見てください。ここから南側にも庭園が広がっていて、その中に2軒の西洋館があります。


イングリッシュ・ローズの庭


マナブ:バラがたくさん植えられています。


歴史先生:向こうに見えるのがイギリス館(旧英国総領事公邸)。それにちなんでイギリス国花のバラを言えた庭園です。


イギリス館(旧英国総領事公邸)


イギリス館(港の見える丘公園内)

〒231-0862 神奈川県横浜市中区山手町115−3

入館無料

9:30~17:00、第4水曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/yamate-seiyoukan/british-house/


歴史先生:さて、イギリス館に来ました。


マナブ:他の西洋館より少し新しめ?


歴史先生:そうです。1937年(昭和12年)の建築です。


1階リビング


階段踊り場の窓


2階寝室


歴史先生:少し時代が新しいこともあって、鉄筋コンクリート造。イギリス風の質実剛健なデザインで、広々とした造り、そして地下にはワインセラーもあります。


山手111番館


山手111番館(港の見える丘公園内)

〒231-0862 神奈川県横浜市中区山手町111

入館無料

9:30~17:00、第2水曜休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.hama-midorinokyokai.or.jp/yamate-seiyoukan/yamate111/


マナブ:さて、イギリス館の南側、山手111番館に来ました。


歴史先生:ここは現在改修工事中なんです。外観だけ見ていきましょう。


マナブ:これはどういう家なんでしょう?


歴史先生:1926年(大正15年)に建てられたアメリカ人のラフィンという人の家。設計はJ.H.モーガンです。


マナブ:同じJ.H.モーガンでもべーリック・ホールとはまた少し趣が違いますね。


歴史先生:赤い瓦屋根に白壁、ということで印象がかなり違いますが、スパニッシュ・スタイル、3連アーチの玄関など、モーガンらしさも見かけられます。


斜面を生かした「バラとカスケードの庭」

 

花がいっぱいの庭園


香りの庭(沈香花壇)


マナブ:花がいっぱいで景色の美しい庭園が続きます。


港の見える丘公園 展望台


マナブ:さて、展望台に来ましたよ。


ベイブリッジの眺め


港の眺め


歴史先生:展望台からは正面にベイブリッジ、左に横浜港を見渡すことができます。


マナブ:やっぱりここからの眺めは横浜らしいですね。


展望広場からフランス山へ


マナブ:では緑豊かな橋を渡ってフランス山地区へと下りていきましょう。


フランス山の風車の復元


マナブ:これは風車?


歴史先生:はい。1896年(明治29年)にここにフランス領事館が建てられました。ここに井戸があり、井戸水をくみ上げるために風車が設置されたんです。


マナブ:今ある風車は新しい物?


歴史先生:はい。オリジナルの風車は失われてしまいましたが、同じ場所に復元として設置されました。


フランス領事館跡


歴史先生:風車の横にはフランス領事館の跡があります。当初の建物は関東大震災で倒壊しましたが、その後スイス人建築家のマックス・ヒンデルの設計で1930年(昭和5年)に再建されました。


急な下りの階段


歴史先生:ではフランス山から下りていきましょう。階段がしばらく続きます。


マナブ:がんばります。


歴史先生:山手はいかがでしたか?


マナブ:初めて行くところも多かったんですが、横浜の歴史がいっぱい詰まった地域でしたね。日本最古の・・・といったものもたくさん出会えました。


歴史先生:お気に入りの洋館、ありましたか?


マナブ:どれも素敵だったんですが、私としてはべーリック・ホール、あれは大好きでしたね。あんな家に住みたいなぁ、と思いました。


階段はまだまだ続く


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