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長崎市_2.jpg
登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
「信徒発見」の奇跡の舞台、大浦天主堂を訪ねる

コラム:信徒発見って何?

グラバー園へは裏口から入るのがおススメ??

旧グラバー住宅だけじゃない。グラバー園は歴史の魅力がいっぱい。

コラム: オペラ「蝶々夫人」ってどんなお話?

長崎ちゃんぽん「リンガーハット」の名前はここから付けられた?

日本で最も古い木造洋風建築:旧グラバー邸

コラム:トーマス・ブレーク・グラバーってどんな人?


「信徒発見」の奇跡の舞台、大浦天主堂を訪ねる


お土産店の並ぶグラバー坂




マナブ:路面電車に乗って、「大浦天主堂」の電停まで来ました(地図 ❶)。


歴史先生:さぁ、早速ですが、本日の目玉、「大浦天主堂」に行きましょう。ここは長崎でも一番の観光地、と言えそうです。その証拠に、みてください、このグラバー坂(地図 ❷)。お土産店がずらりと並んで、観光客や修学旅行生でいっぱいです。外国の方も多く見受けられますね。


歴史先生:そして坂を登って緩やかな右カーブの先に・・・いよいよ大浦天主堂が見えてきました。


グラバー坂から見える大浦天主堂


マナブ: おー! 美しい!


歴史先生:大浦天主堂・・・世界遺産であり、そして国宝です。ところでマナブさん、「信徒発見」ってご存じですか?


マナブ: いえ。なんですかそれ?


歴史先生:大浦天主堂を訪れるにあたって、これを知っているか知らないかで感動が2倍違うと思います。こちらを読んでください。


コラム:「信徒発見」って何?


時は幕末。ペリー来航がきっかけとなって250年にわたって鎖国を続けてきた日本がついに開国。まず初めに函館、横浜、長崎が開港した。長崎では大浦海岸・南山手に外国人居留地が作られ、トーマス・グラバーら外国人の商人が住むようになった。坂本龍馬もそのころ長崎に移り、亀山社中を起業してグラバーらと取引を行い、薩摩藩名義で長州藩に軍艦を調達するなどして薩長連合の実現に奔走していた。


一方、ローマ教皇庁は日本でキリスト教を再び布教できる日が近いとみて、宣教師を送り込む。長崎へはフューレ神父を派遣。その後続いてプチジャン神父も来日し、大浦の地(南山手)に天主堂の建設が始まる。そして1864年(明治維新の2年前)に大浦天主堂は完成した。モダンな和洋折衷の外観に長崎の人々は目を見張り、「フランス寺」と呼んで見物に押し寄せた。


しかしその当時は1614年に発布された厳しい禁教令がまだ変わらずに続いていた時代。大浦天主堂はあくまでも外国人のための教会であり、日本人がキリスト教を信仰することは固く禁じられていたのである。かつてフランシスコ・ザビエルらが布教に努め、織田信長がそれを保護していた遠い昔、多くの長崎の民はキリシタンとなったが、その後の迫害によって多くは棄教し、キリシタンの信者はもう誰もいなくなったと考えられていた。しかし実はその陰で、浦上、外海(そとめ)、五島といった地区には隠れて信仰を続ける人々がいたのであった。


運命の1864年3月17日、世界の宗教史に残る奇跡として、ヨーロッパ中を驚かせた事件が起きた。この日の昼下がり、プチジャン神父が大浦天主堂の前に12~15名ほどの男女子供が来ているのに気づく。中を案内すると、その中の婦人の一人が「私共は、全部あなた様と同じ心でございます。」とささやき、キリシタンの信徒であることを告白したのである。そして「マリア様はどこ?」と聞くので聖母像を案内すると「あぁ、本当にサンタ・マリア様だ。御子イエズス様を抱いていらっしゃる」と皆感動した。(※このマリア像は現在でも見ることができる。)遠い昔に途絶えたと思われていた日本でのキリスト教信仰が、250年にも及ぶ潜伏ののち、まだ続いていたことが発見されたのであった。


しかし、時は禁教令下の時代。その後、彼ら浦上の信徒たちに大変な悲劇が訪れる。(詳しくは「平和公園周辺」のページ、コラム「浦上四番崩れ」をご覧ください。)



<読んでおきたい本>

遠藤周作「女の一生 一部・キクの場合」




信徒発見の時代、潜伏キリシタンの青年に恋した少女の人生を描く。大浦天主堂のプチジャン神父の布教への葛藤、浦上のキリシタン信者たちの苦悩。そして「浦上四番崩れ」という大きな悲劇が彼らに襲い掛かる。この本では幕末から明治にかけての長崎市内の様子が主人公の少女キクやプチジャン神父の目を通して生き生きと描かれており、その時代に浸ることができた。長崎、特に大浦天主堂を訪問する前にはぜひ読みたい一冊である。



マナブ:勉強になりました。


歴史先生:それからもう1つだけ。大浦天主堂は正式には「日本二十六聖殉教者聖堂」というのが正しい名称です。戦国時代の末期、関ケ原の戦いの3年前になる1597年、現在の長崎駅にほど近い西坂という場所で、26人の修道士や信者らが殉教しました。(このことは西坂に行ったときに詳しくお話ししましょう。)この天主堂はその殉教に捧げるために建てられたんです。そのため、天主堂はちょうど西坂の方角を向いていて、お堂の中には殉教の時の様子を描いた絵が掲げられています。さぁ、それでは大浦天主堂へ入場しましょう。(地図 ❸)


大浦天主堂の外観


大浦天主堂(地図 ❸)

〒850-0931 長崎県長崎市南山手町5−3

・拝観1,000円

・営業時間8:30~18:00 (11月から2月までは17:30まで)。無休。

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://nagasaki-oura-church.jp/


歴史先生:天主堂へ上る階段の途中で、左側に広場があります。まずはここに立ち寄りましょう。


大浦天主堂前にある信徒発見のレリーフ


マナブ:あ、これは信徒発見の瞬間ですね。


歴史先生:そうです。プチジャン神父がマリア像を案内して人々が感動している場面です。


大浦天主堂前にあるプチジャン神父の像


マナブ:そしてこちらはプチジャン神父。


歴史先生:はい。「女の一生」の本に出てくる人ですね。


大浦天主堂の入口に立つ日本の聖母像


マナブ:天主堂に向かって最後の階段を上りました。


歴史先生:入口にあるのは「日本の聖母像」。信徒発見を祝って、フランスから送られたものです。1867年(明治維新の前年)に安置されました。


マナブ:これも結構古い像なんですね。さぁ、いよいよ堂内に入ります。ここからは撮影禁止なので、しっかりとこの目に焼き付けたいと思います。


歴史先生:堂内ではこんなポイントに注目してみてください。


・美しい天井と柱の建築デザイン:「リブ・ヴォールト」天井と呼ばれる教会でよくみられるデザイン。少ない柱で大きな空間が取れる。通常は石積みで作られるが、大浦天主堂ではこれを木材と竹という日本古来の技術で実現した、とても価値の高い建築。

・ステンドグラス:主祭壇にある美しいステンドグラス。以前のものは原爆で破壊されたが、戦後フランスの援助で復元された。

・日本二十六聖人殉教図:主祭壇の向かって右側にかけられている。26人が十字架にかけられた場面を描いた油絵。

・プチジャン神父墓碑:日本二十六聖人殉教図の下にプチジャン神父は眠っている。

・聖マリア像:向かって右側の小祭壇。信徒発見の場面で登場した、あのマリア像の実物を今でも見ることができる。


マナブ:天主堂から外に出てきました。


歴史先生:いかがでしたか?


マナブ:感動しました。特にマリア像。これが、信徒発見の瞬間に潜伏キリシタンの人たちが初めて見た、マリア様だったのですね。その時彼らがどんなにうれしかったことか。


歴史先生:本当にそうですね。私たちもその歴史を知っているかどうかで、同じマリア像をみても感動が違ってくるでしょ?


マナブ;はい、2倍どころか10倍感動しました(笑)。


歴史先生:よかった(笑)。


マナブ:ところで、天主堂内部のリブ・ヴォールト天井の空間って、どこかで見たことがあるような・・・。


歴史先生:それってきっと、山梨県甲州市の勝沼で行った「レストランテ風」じゃないですか?


マナブ:あ、それそれ!


歴史先生:あのレストランの内装は大浦天主堂を模して造られたんでしたよね。


マナブ:あそこのローストビーフ、特別においしかった。また行きたいです。


勝沼(山梨県)にあるワイナリーが経営する「レストランテ風」


大浦天主堂の裏にある旧羅典神学校


大浦天主堂の横にある旧長崎大司教館


歴史先生:さて、大浦天主堂の脇にある旧羅典神学校と旧長崎大司教館は今では資料館になっています。潜伏キリシタンの資料など豊富に展示されていますので、観ていきましょう。


グラバー園へは裏口から入るのがおススメ??


グラバー園入口



歴史先生:さて、次はグラバー園に行きます。入口は大浦天主堂に向かって右に進んだところ(地図 ❹)なんですが、今日はあえてグラバー園の裏口から行ってみませんか?


マナブ:なんだか面白そうですね。


歴史先生:それではあえて反対方向、すなわち大浦天主堂に向かって左側の細い道に入っていきましょう。まずは「祈りの三角ゾーン」と呼ばれる一角(地図 ❺)。右にお寺の門、左に神社の鳥居、そして奥に教会の尖塔がみえる、という長崎らしい風景です。そこから「祈念坂」という坂を上っていきます。


祈念坂を下から見る


祈念坂を上から見る。左の建物は大浦天主堂。


マナブ:あ、大浦天主堂のすぐ横を登っていくんですね。


歴史先生:はい、そうです。窓が開いているときは中を覗けたりもしますよ。


南山手レストハウス前にある展望所

 

美しい庭に囲まれた南山手レストハウス


南山手レストハウスのテラスからは港が見える


マナブ:祈念坂を上ってきました。あ、景色が開けていますね。すごい絶景!


歴史先生:はい、ここが「南山手レストハウス」(地図 ❻)です。幕末の1865~1867年ごろに建てられた外国人向けの住宅ですが、誰が建てたのかは不明です。今は長崎市が所有して観光客の休憩所として無料開放しています。


マナブ:テラスからの港の眺めも素敵ですね。


南山手レストハウス(地図 ❻)

〒850-0931 長崎県長崎市南山手町7−5

・入場無料

・営業時間9:00~17:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.at-nagasaki.jp/spot/61036


南山手レストハウスのそばにある垂直エレベーター


マナブ:あ、この塔のようなものは何ですか?


歴史先生:これは「垂直エレベーター」と呼ばれています。このあたり坂がきついので、上まで一気に運んでくれます。


マナブ:それは助かる。有料の施設なんですか?


歴史先生:いいえ。これは長崎市が設置したもので、坂の上の住民向けの無料でのサービスです。もちろん観光客も利用できます。あともう1つ、この下にある斜行エレベーターにも乗ってみましょう。長崎市内にはほかにもゴンドラ式の無料エレベーターが3基設置されているようです。


垂直エレベーターを上ったところからの展望


マナブ:垂直エレベーターの上に出ました。わぁ、さっきの所よりさらに絶景ですね!ここからは港が良く見えます。


垂直エレベーターを上ったところから港が見える


垂直エレベーターを上ったところから見た東山手の住宅群


歴史先生:そして山の方を見ると、上まで家がぎっしり詰まっているのが見えますね。まさに坂の町、長崎らしい景色です。


グラバー園の裏口


歴史先生:さて、ここがグラバー園の裏口になります。裏口への道のり、どうでした?


マナブ:坂道あり、洋館あり、絶景あり、で楽しかったです。


歴史先生:ではいよいよグラバー園に入りましょう。


旧グラバー住宅だけじゃない。グラバー園は歴史の魅力がいっぱい。


旧三菱第2ドックハウス



グラバー園(地図 ❼)

〒850-0931 長崎県長崎市南山手町8−1

・入園 620円 (中高生、団体割引等あり)

・営業時間8:00~18:00  無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://glover-garden.jp/


マナブ:グラバー園の裏口から中へ入りました。


歴史先生:入場してすぐの建物。こちらは「旧三菱第2ドックハウス」です。長崎に入港した船を修理している間、船員たちが宿泊した建物。もともとは長崎造船所の第2ドックのところに建てられていたものを移築しました。素敵な建物ですが、明治29年(1895年)にできた、グラバー園の他の建物に比べればやや新しいものです。


マナブ:そうか、そのせいか少しモダンな感じがしました。


歴史先生:今はグラバー園の一番高台にあるので、2階テラスからの眺めが最高です。


高島流和砲


歴史先生:こちらは高島流の大砲です。ところでマナブさん、高島秋帆(たかしま しゅうはん)、ってご存じですか?


マナブ:いいえ。


歴史先生:高島秋帆は幕末の長崎の人で、日本における砲術の父、と呼ばれる人です。東京に高島平、っていうところがありますよね。


マナブ:はい、大きな団地になっていますよね。


歴史先生:あのあたりは以前は徳丸原と呼ばれていたのですが、高島秋帆が砲術演習をおこなったことから高島平、と呼ばれるようになったんです。


マナブ:そうだったんですか。高島さんについてもう少し詳しく知りたいです。


歴史先生:では今度、東京で板橋区赤塚を訪問した時に詳しくお話ししましょうね。それでは、私たちはグラバー園の一番上から入りましたので、ここから坂を下りながら、園内を見て回りましょう。


三浦環の像


歴史先生:これは三浦環(みうら たまき)の像。


マナブ:名前、聞いたことがあります。どなたでしたっけ?


歴史先生:明治から昭和にかけて国際的に活躍されたオペラ歌手です。プッチーニのオペラ、「蝶々夫人」はご存じですよね?


マナブ:はい、名前だけは(笑)。


歴史先生:そのオペラで蝶々夫人を演じたのが三浦環です。オペラ「蝶々夫人」は欧米を中心に大変な高い評価を得た作品で、三浦環も通算2,000回以上の出演を果たしました。そのため「三浦環 = 蝶々夫人」というイメージが付き、海外でもマダム・バタフライとして有名になった歌手です。


マナブ:2,000回って、すごい出演数ですね。


歴史先生:ちなみにオペラ蝶々夫人のお話について、簡単にまとめておきますね。


コラム: オペラ「蝶々夫人」ってどんなお話?


(あらすじ)

時は1890年代、明治維新から20年以上がたったころの長崎が舞台。港が見下ろせる洋館で物語は繰り広げられる。蝶々さんは武士の家に生まれながら、家が没落し、芸者となっていた。そのころ、長崎に赴任していたアメリカ海軍士官のピンカートンは、現地妻を斡旋(あっせん)するゴローの紹介で、まだ15歳の蝶々さんと結婚をする。


しかし幸せな結婚生活はすぐに終わってしまう。ピンカートンがアメリカに帰ってしまったのだった。そして3年が過ぎる。蝶々さんにはピンカートンとの間にできた3歳の子がいた。ある日、ピンカートンの所属する軍艦が長崎に入港するのを蝶々さんは見た。「彼にまた会える」と胸を躍らせ、家で待つ蝶々さん。しかし彼はその晩は帰ってこなかった。


翌朝早くにピンカートンはアメリカ人の妻、ケートを伴って家を訪ねてきた。蝶々さんはまだ寝ていたため女中のスズキが代わりに応対し、蝶々さんが彼のことをどれほど想っていたのかを伝えたところ、ピンカートンは耐えられずその場を立ち去り、ケートだけが残った。その直後、蝶々さんが起きてきた。玄関にアメリカ人女性が立っているのを見て、蝶々さんはすべてを悟った。ケートは「子供を渡してほしい」と申し入れ、蝶々さんは「ピンカートンが迎えに来るなら」と了承する。しかしピンカートンが迎えに来た時、蝶々さんはすでに自刃していたのであった。


(作品概要)

作曲:ジャコモ・プッチーニ

構成:3部構成、約2時間20分


(有名な曲)

第2幕「ある晴れた日に」: 蝶々さんがピンカートンのことを想って「ある晴れた日に彼の乗った船が戻ってくる」と歌う、明るくもせつないアリア。



長崎ちゃんぽん「リンガーハット」の名前はここから付けられた?


旧リンガー住宅


歴史先生:次は旧リンガー住宅です。国指定重要文化財です。


マナブ:リンガーさんの家、ですね?


歴史先生:フレデリック・リンガーはイギリス人で、幕末の長崎で最初はグラバーさんのグラバー商会に勤務して、その後独立して同僚のエドワード・ホームと共同で「ホーム・リンガー商会」を設立しました。グラバーさんとは同い年。茶の取引から初めて、のちには日本からの主な輸出品(海藻、ふかひれ、蝋(ろう))などを幅広く扱うようになったほか、イギリスの保険会社ロイズの代理店をしたり、銀行、保険、海運といった業者の仲介業などを営むなど、長崎における外国人の中で指導的な立場を得ていたようです。


マナブ:リンガーさんって、長崎ちゃんぽんの「リンガーハット」と関係があるんですか?


歴史先生:私も気になって調べてみました(笑)。リンガーハットのWebサイトには以下のように書かれていました。


「リンガーハット(RingerHut)のリンガーは、長崎で広く貿易商を営んでいたフレデリックリンガーという英国商人の名前にあやかったものです。 長崎にグラバー園という有名な公園がありますが、ここにはグラバー邸とともにこのリンガーさんの邸宅「リンガー邸」が建っています。「長崎ちゃんぽん」という長崎の郷土料理を販売するにあたり、郷土にちなんだこの大商人の名前をつけさせていただきました。ハットは小屋とか小さな家という意味で、通して訳すと「リンガーの小さな家」となりますね。」

https://www.ringerhut.jp/customer_support/faq/#05


マナブ:やっぱりそうでしたか(笑)。リンガーさんはちゃんぽん、食べてたのかなぁ?


歴史先生:さぁ、それはどうでしょう? リンガーさんは1906年まで長崎にいました。一方、ちゃんぽん発祥の店である四海樓は1890年創業ですから、時期的に重なってはいます。でもちゃんぽんは中国からの貧しい留学生に安くて栄養価のあるものを、ということで考案された料理。一方リンガーさんは西洋人の富豪、ですから、食べたことはないんじゃないかな?


マナブ:なさそうですね(笑)。本人も自分の名前がちゃんぽんのブランドになって、ちょっとびっくり、かもしれませんね。


歴史先生:さて、次のみどころは「旧オルト住宅」なんですが、2025年11月まで修復工事の予定です。ということで今日はここはスキップするとして、次は旧グラバー邸です。でもその前に、お茶でもしていきましょうか?


© Nagasaki Prefecture Tourism Association

自由亭 喫茶室の内部


© Nagasaki Prefecture Tourism Association

自由亭 喫茶室 外観


歴史先生:グラバー園のほぼ中央にある「自由亭 喫茶室」です。自由亭というのは長崎の風頭公園近くにあった西洋料理店で、日本人最初の西洋料理のシェフと言われる草野丈吉(くさの じょうきち)が幕末の1863年、24歳の時に開業したものです。


マナブ:日本最初のシェフ、ですか。


歴史先生:はい。草野丈吉は21歳で出島のオランダ総領事の下で料理人として働き、西洋料理を学んだ人です。草野が開業したこのレストランは長崎奉行が外国人の接待に使ったりしたようです。


マナブ:その建物がここグラバー園に移築・保存されているわけですね。


歴史先生:はい、そのとおりです。今では喫茶室としてお茶をするには最高の場所になっています。


日本で最も古い木造洋風建築:旧グラバー邸


旧グラバー邸


旧グラバー邸


歴史先生:自由亭の脇の坂を下りたところが本日の目玉、「旧グラバー邸」です。国指定重要文化財であり、これもまた世界遺産になっています。先ほどの大浦天主堂は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産(2018年)」の構成遺産としての登録でしたが、ここ旧グラバー邸は「明治日本の産業革命遺産(2015年)」としての登録です。


マナブ:そうか、長崎には2種類の世界遺産が混在しているんですよね。


歴史先生:はい、ほぼ同じ時代、同じ都市の中でそれぞれが互いに影響しながら違う物語を紡いでいますから、それが長崎の歴史に深みを与えていると言えるでしょう。


マナブ: グラバーさんの家はひときわ大きくて、デザインもおしゃれですね。


 

旧グラバー邸の内部


旧グラバー邸の内部


歴史先生:この家は幕末の1863年に建てられたもの。ベランダはコロニアル風で屋根は日本の瓦ぶき、という和洋折衷。上から見るとクローバーのような形になっています。現存する日本で一番古い木造洋風建築です。


マナブ:グラバーさんってお金持ちなんだろうと思いますが、何をしていた人なんですか?


歴史先生:長崎の歴史を語る上での重要人物なので、ここにまとめておきましょう。


コラム:トーマス・ブレーク・グラバーってどんな人?


スコットランド人。1859年、開港間もない長崎に渡り、同じスコットランド出身のK・R・マッケンジーが経営する貿易商社に勤務。2年後にマッケンジーが長崎を去ると彼の事業を引き継いで「グラバー商会」を設立した。


当初は生糸や茶の輸出、という平和的なビジネスだったが、幕末の動乱が始まると、武器・弾薬を倒幕・佐幕どちらの側の藩にも販売し、巨万の富を得た。このころ坂本龍馬の亀山社中とも取引をおこなっている。


1865年には大浦海岸において、日本で初めて蒸気機関車「アイアン・デューク号」を試験運行。初めて見る蒸気機関車に人々は驚いた。1868年には高島炭鉱を肥前藩と共同で開発したり、小菅に船工場(現:世界遺産)を作るなど、日本の近代化に寄与した。

 

大浦海岸に建つ鉄道発祥の地の碑


看板に描かれている蒸気機関車の絵


しかし明治維新後、武器ビジネスが途絶えたことで資金難となりグラバー商会は破産。晩年は東京で過ごした。



マナブ:昨日乗ったタクシーの運転手さんが面白いことを言っていましたね。


歴史先生:そうでしたね。「みんな龍馬さんをすごいって言うけど、私はあんまり評価しとらんとです。」と。


マナブ:「龍馬さんは結局グラバーさんにあやつられて、うまく使われただけじゃないかと思うとです。」ということでしたね。


歴史先生:そうそう。龍馬ファンの方からは叱られそうですが、そんな説を唱える人たちもいます。実際のところは諸説あって坂本龍馬の評価は大変難しいのですが、それだけ幕末の動乱期においてグラバーさんの影響力というのは大きかった、ということだけは言えるかと思います。


歴史先生:グラバー園の一番下からは動く歩道2基を乗り継いで、また一番上まで戻りましょう。


グラバー園にある動く歩道で山の上へ



​歴史好きのための観光ガイド
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