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登場人物:
・マナブ: IT業界ビジネスマン。最近、歴史に興味を持つようになり、ただいま勉強中。
・歴史先生:歴史に詳しい街歩きの達人。マナブと一緒に旅をする。
まずは浅草文化観光センターの展望テラスに登ってみよう
 
「雷門」はなぜそう呼ばれるのか? この門が果たしている役割とは?
 
昔はレンガ造りの洋風だった? 仲見世の歴史
 
飛鳥時代から始まる浅草寺の1,400年の歴史をおさらい
 
巨大な宝蔵門を再建・寄進したのは誰?
 
浅草寺の中心に鎮座して絶対秘仏を守っている巨大な本堂
 
空襲で残った貴重な建物群と、三社祭で有名な浅草神社
 
浅草寺の西側のエリア:かつての奥山の賑わいを感じて歩こう
 
本願寺はなぜ東西に分かれたのか:東本願寺
 
飲食に特化した道具屋街「かっぱ橋」はなぜできた?

 

 

まずは浅草文化観光センターの展望テラスに登ってみよう

 

雷門通り


マナブ:今日は浅草に来ています。


歴史先生:浅草には何度か来られたことがありますか?


マナブ:はい、何度か来ていますね。はじめは自分たちの観光で来ていましたが、その後は地方や外国から来た人を連れて来るのがほとんどでした。特に外国の人には喜んでもらいました。


歴史先生:外国の人にはどのあたりが喜ばれたんでしょう?


マナブ:まずは雷門から仲見世を通って、お店を見て歩くだけで楽しい。2つ目は浅草寺。大きくて立派な門や本堂、五重塔などは見ごたえがあります。3つ目はグルメかな? すき焼き、寿司、天丼などの名店がたくさんありますよね。


歴史先生:その通りですね。ところで、今日は浅草の歴史について考えながら歩いてみませんか?


マナブ:そういえば浅草の歴史というのは今まであまり気にしていませんでした。


歴史先生:では今日は雷門から道を隔てた向かい側にある、浅草文化観光センターから始めましょう。


浅草文化観光センター



浅草文化観光センター(地図 ❶)

〒111-0034 東京都台東区雷門2丁目18−9

9:00~20:00(8階展望テラスは22:00まで)、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.city.taito.lg.jp/bunka_kanko/kankoinfo/info/oyakudachi/kankocenter/index.html


マナブ:こんな建物があるのは知りませんでした。


歴史先生:2012年に隈研吾さんの設計でリニューアルオープンした施設です。浅草のビジターセンター的な役割を持っていて、1階では日英中韓の4か国語での観光案内がされているほか、パンフレットなども豊富に置かれています。


浅草文化観光センター1階


歴史先生:奥にエレベーターがあります。8階の展望テラスに行ってみましょう。


マナブ:行きましょう。


8階展望テラスからみた眺め


マナブ:エレベーターで8階に上がりました。風が気持ちいい。あ、こんな角度で見えるんだ。


歴史先生:雷門から続く仲見世。その奥の浅草寺が良く見えています。


浅草寺


マナブ:こんな上から見たのは初めてです。


東京スカイツリー


歴史先生:そして東側に移動すると今度はスカイツリーが見えます。


マナブ:こちらの側もいいですね。8階の展望テラス、とてもよかったです。でもせっかくの施設なので、浅草や浅草寺の歴史をここで予習できるような資料展示があったらもっといいのにな、と思いました。


歴史先生:たしかにそうですね。浅草に来る人の99%以上は歴史を見ずに、ただ何となく楽しい場所だった、という感想で終わってしまうのは、もったいない気がします。


「雷門」はなぜそう呼ばれるのか? この門が果たしている役割とは?


雷門



マナブ:浅草文化観光センターの前の横断歩道を渡って雷門の前に来ました。


歴史先生:ところで「雷門」って、変わった名前だと思いませんか?


マナブ:そういえばそうですね。普通、大きなお寺だと山門とか総門とか、そんな名前が多いように思います。


歴史先生:ではその謎をみてみましょう。この雷門ですが、元々は平公雅(たいらのきんまさ)によって建てられました。


マナブ:いつごろの話ですか?


歴史先生:942年といいますから平安時代の中ごろですね。


マナブ:そんなに古いんだ。


歴史先生:両側にある仏像、見てください。


マナブ:仁王像ですよね?


風神


雷神


マナブ:あれ、ちょっと違うな。あ、これは風神・雷神?


歴史先生:正解です。この門は正式には「風雷神門」というのですが、通称で「雷門」という呼び方が定着しています。


マナブ:お寺の門に風神・雷神がいるというのは珍しいですよね?


歴史先生:そうですね。通常は金剛力士像(仁王像)が一般的です。風神・雷神を配した門というのは全国ではいくつか例があるようですが、やはり珍しいと思います。


マナブ:風神・雷神というのはその名前の通りで、自然現象をつかさどる神様?


歴史先生:はい。本来は風水害などの災いを招く恐ろしい神様ですが、その像を祀ることによって「風雨順時」、すなわち極端な大雨や日照り、台風などがないことを祈っています。ここ浅草寺では入口に配することによって、外界からの災いを防いで境内を守ることを意図しているものと考えられています。


雷門


マナブ:なるほど。ところで、現在の雷門はいつ建てられたのでしょう? まさか平安時代のものではないですよね?


歴史先生:雷門はこれまで何度も焼失しています。最後の焼失は幕末の1865年、田原町大火で焼失してしまいました。今の門が再建されたのは1960年(昭和35年)のこと。


マナブ:割と新しい。ということは幕末から明治・大正、そして昭和の戦後まで100年近く、雷門はなかったんですね。


歴史先生:そうなんです。戦後になって、松下幸之助さんの寄進によって建てられました。


マナブ:あ、それでか。


歴史先生:ん?


マナブ:門に吊り下げられている「雷門」と書かれた大きな提灯がありますね。くぐるときに見ると、あの一番下に「松下電器」って書いてあるので、あの提灯は昔のパナソニックが寄進したのか、あるいはあそこの広告スペースを買ったんだと思っていました。


歴史先生:なるほど。提灯だけではなくて、門全体を寄進した、ということでした。


金龍


天龍


歴史先生:さて、今度は雷門の裏側を見てみましょう。両側、何が祀られていますか?


マナブ:うーん、ちょっとエキゾチックな感じ。変わった仏像ですね。


歴史先生:これは金龍・天龍という龍神様の像です。龍神を男女に擬人化した作品で、1978年(昭和53年)に松下グループ有志の人たちによって奉納されました。


マナブ:龍神というと?


歴史先生:古来、日本では蛇を水の神様として祀る風習がありました。これと中国から入ってきた龍の思想が結びついて、水の神として「龍神」が各地で祀られるようになります。


マナブ:金龍・天龍の2種類がある?


歴史先生:金龍は大地の水をつかさどり、五穀豊穣をもたらします。天龍は天の水、すなわち雲・風・雨などをつかさどります。いずれも宇宙の「気」を整える神様で、浅草寺の境内において、天と地の気を整えています。


マナブ:そうか、風神・雷神で外から来る災いを防いで、金龍・天龍で内側の気を整える、という仕掛けですね。


歴史先生:はい、雷門にはそういう役割があるんです。


昔はレンガ造りの洋風だった? 仲見世の歴史


いつ行っても人でいっぱいの仲見世



マナブ:仲見世に入ってきました。今日も人でいっぱいです。


歴史先生:半分以上は外国の方でしょうか。さすが東京一の観光地です。ところで、この仲見世はいつできたと思いますか?


マナブ:えーっと、昔はもっとお寺の境内というのは聖域で、こんな風に変わったのは明治時代とか?


歴史先生:実はもっと古くて、江戸時代前期なんです。


マナブ:けっこう古くから、なんですね。


仲見世と交差する新仲見世はレトロな雰囲気の残るアーケード商店街


新仲見世にあるすき焼きの老舗有名店「今半本店」


歴史先生:元々はマナブさんが言うように、雷門の内側には塔頭が並んでいて、清浄な雰囲気をもつ場所でした。でも江戸時代になってから参拝客が激増。浅草寺は付近の住民に清掃をお願いする代わりに、「店をする小屋を出してもいいよ」という許可を与えました。1685年のことです。


マナブ:基本的なことですが、江戸幕府がここに開かれて浅草寺ができたのではなくて、元々浅草寺があった場所に家康が幕府をあとから開いた、ということですものね。それで人口もどっと増えた。


歴史先生:はい、そうなんです。仲見世は江戸時代前期から続く、日本最古の商店街の1つです。江戸後期の1817年には雷門から本堂までを石で敷き詰め、とても歩きやすい参道に変わりました。


マナブ:江戸時代にはどんなものが売られていたんでしょう?


歴史先生:雷門から伝法院通りまで、これを「平店」と言って、ここでは縁起物や玩具、そしてお菓子が売られていました。


マナブ:お菓子というと?


歴史先生:今でいう人形焼のようなものや雷おこし、が売られていたそうです。


マナブ:ということは今とほとんど変わっていませんね。


伝法院通り


歴史先生:はい。そして伝法院通りから宝蔵門までは「役店」と呼ばれ、20軒ほどの水茶屋、今でいうカフェのようなものがありました。それぞれの店の美人看板娘が人気で、それ目当てで朝から晩まで入り浸る男もいたとか。


マナブ:推し店員、ですか。昔からあったんですね。


歴史先生:ところが明治になると、明治維新によって寺領は没収され、東京府の管轄になります。そして1885年(明治18年)に、仲見世はレンガ造りの洋風の建物として復活します。文明開化の香りがする139店舗の商店街に生まれ変わったんです。


マナブ:えー? ここは洋風の商店街だった?


歴史先生:そうなんです。1923年(大正12年)の関東大震災がなければ今でもそうだったかもしれません。しかしレンガ造りの建物は震災で倒壊してしまいました。そこで今度は1925年(大正14年)に鉄筋コンクリート造で再建されます。その時に朱塗り、桃山風のデザインになりました。それが現在の仲見世。


仲見世の建物の裏側


マナブ:空襲の時はどうだったんでしょう?


歴史先生:外構えを残して焼け落ちるという被害を受けましたが、速やかに修復されて、現在に至ります。今では約250mの距離に90ほどのお店が並んでいます。


飛鳥時代から始まる浅草寺の1,400年の歴史をおさらい


浅草寺 宝蔵門と五重塔


マナブ:ところで、浅草寺はいつごろからあるお寺なんでしょう? 先ほど雷門は平安時代ということでしたが。


歴史先生:伝法院通りを過ぎるとお店は右側だけになりますので、みんな右側をみて歩いているのですが、じつは左側に浅草寺の縁起が並んで書かれているんです。


マナブ:あ、今まで見過ごしていました。


1.浅草のあけぼの


歴史先生:では並んでいる9枚の絵を見ていきましょう。まず最初は「浅草のあけぼの」。浅草の地は利根川、荒川、入間川といった大きな河川が今の東京湾に注ぐところ。川が運んだ土砂が堆積して造られた土地です。ここは静かな漁村・農村でした。


2.ご本尊の示現


歴史先生:飛鳥時代の628年、この時は推古天皇の御代でしたが、檜前浜成・竹成(ひのくまの はまなり・たけなり)という漁師の兄弟が、川の中にあった仏像を引き上げました。


マナブ:うわー、聖徳太子のころですか。相当古い話だ。ところで水の中から仏像を引き上げるという話、各地でありますね。これまでに何度か聞きました。


3.浅草寺の草創


歴史先生:兄弟が川から引き揚げた仏像を土師中知(はじのなかとも)という土地の郷司(ごうじ)に見せたところ・・・


マナブ:ごうじ?


歴史先生:郷司というのは国司の下で郷と呼ばれた地域を治めていた役人なのですが、その人が「これは聖観世音菩薩像だ」と言うのです。兄弟は感激して仏道に深く帰依することになり、土師中知は自ら出家して自宅を寺にして、この仏像を祀ったそうです。


マナブ:絵の中で下半分にそれが書かれていますね。家に金の仏像が飾ってあって、みんなお参りに来てる。絵の上半分は?


歴史先生:その伝承とは別に、10人の子供がアカザという草で御堂を建てて祀った、という話もあるんだそうです。


4.慈覚大師中興の開山となる


歴史先生:それから17年後の645年、勝海上人という僧侶がここを訪れて、観音堂を建立しました。


マナブ:645年というと大化の改新、いや乙巳の変の年。


歴史先生:そうです。ある時、勝海上人の夢に観音様が現れ、「みだりに拝するなかれ」と告げられました。それ以来、観音像は厨子に納められ、絶対秘仏となっています。


マナブ:絶対秘仏?


歴史先生:ご開帳の予定がなく、幾重にもなった厨子の中に厳重に保管されています。浅草寺の住職さんも見たことがないそうです。


マナブ:お姿も大きさもわからないんだ。


歴史先生:さて、それから約200年の後の857年、平安時代になって、ここに慈覚大師円仁が来られます。


マナブ:えーっと、そのお名前はどこかで聞きましたよ。


歴史先生:比叡山に行ったとき、横川を開いた人、として登場しました。それから調布の深大寺に行ったとき、秋田県の象潟港で発見された石に仏様が彫られていたのは慈覚大師の作だ、というお話をしました。


マナブ:あ、そういう話がありましたね。たしか唐に渡った人?


歴史先生:そうです。遣唐使船で唐へ行き、9年半にわたって唐の各地を回り、その旅行記である「入唐求法巡礼行記」を残した人です。「大唐西域記」(玄奘)や「東方見聞録」(マルコポーロ)と並び「東アジア三大旅行記」の一つに数えられています。


マナブ:そうでした、思い出しました。


歴史先生:慈覚大師は第3代の天台宗座主。天台宗の高僧として東北地方を回って教えを広め、中尊寺・毛越寺(平泉)、立石寺(山形)、瑞巌寺(松島)などの開基となっています。そして浅草寺にも立ち寄って中興の祖になっています。


マナブ:スーパーマンですね。


歴史先生:慈覚大師は浅草寺の現在ご本尊の前立となっている代わりのご本尊を彫り、また絶対秘仏のご本尊の御影版木を彫って、版画でご本尊を拝めるようにしました。平安時代にはそれだけ参拝者も増えて、ご本尊を拝むニーズが高まっていたと言えるでしょう。


5. 平公雅 堂塔伽藍を建立


歴史先生:平安時代の中頃、942年に安房の国守であった平公雅(たいらのきんまさ)が京都へ向かう途中、浅草寺で「武蔵の国守になれますように」と願をかけました。すると、その後願いが叶い武蔵国守となり、御礼として堂塔伽藍を建立して数百町の田んぼを寄進したそうです。


マナブ:雷門のところで出てきた人ですね。太っ腹。


歴史先生:平公雅がせっかく建てた堂宇でしたが、1041年の地震でほぼすべて倒壊。寂円上人という修行僧が1051年に再建を果たしますが、1079年には火災で焼失。このときご本尊は寺の西にあった榎の木に自力で飛び移って避難されたと伝わります。その後、源義朝(頼朝のお父さん)がその榎の木で観音像を彫って奉納し、「榎観音」として今に伝わっています。


マナブ:災難が続きますね。


歴史先生:1169年には用舜上人が再建に取組み、聖観音の秘法によって大雨を降らせ、山で伐採した材木を隅田川に流して浅草に集めさせ、スピーディに再建ができたという話も残っています。


6.源頼朝の参詣


歴史先生:平安末期。源頼朝が関東で挙兵。これから西へ上がって平家を討つ、というときに彼は浅草寺で戦勝を祈願しました。


マナブ:お父さんが榎観音を奉納したご縁もありますよね。


歴史先生:はい。源頼朝はその後も浅草寺を崇敬し、鎌倉に鶴岡八幡宮を建立する際には浅草から宮大工を連れて行ったそうです。


7.徳川将軍の篤い保護


歴史先生:室町時代には足利尊氏が1352年に参詣した記録があります。1413年には鎌倉公方の足利持氏が経蔵を再建して寄進。小田原を起点とする後北条氏では2代氏綱が浅草寺を祈願所に指定し、堂宇の修復・再建をおこないました。


マナブ:そういえば東京ではどこへ行っても太田道灌の伝承が出てきます。浅草寺のすぐに江戸城を造った太田道灌ですから、何かエピソードはないんでしょうか?


歴史先生:いかにもありそうに思われるのですが、太田道灌と浅草寺の関わりについてはどうも史料がないようなんです。


マナブ:そうでしたか。


歴史先生:次は徳川家康。秀吉によって関東へ追いやられた家康でしたが、天海の進言によって浅草寺を祈願所とします。江戸城の鬼門にあたり、家康が尊敬する源頼朝にゆかりのある寺であったことからこれを保護し、関ケ原の戦いの前には戦勝祈願の祈祷をさせています。


マナブ:結果的に勝利となったので、その後も保護が続いたのでしょうね。


歴史先生:はい。徳川家はその後も浅草寺を厚く崇敬し、大火で観音堂を焼失した時もすみやかに家光がその再建を行っています。


8.江戸時代 境内と奥山の賑わい


歴史先生:安定が続いた江戸時代には参詣者も増え、浅草は江戸随一の繁華街となります。奥山というのは今の浅草寺の西北の一帯を指すのですが、ここではさまざまな大道芸が繰り広げられ、文化の華を咲かせました。


マナブ:楽しそう。


歴史先生:明治になると寺領は東京府に没収され、一区から七区に分かれて管理されるようになりました。奥山の興行師たちは六区にまとめて移されました。


マナブ:あ、浅草六区と言えば今でも劇場の多いところ。


歴史先生:そうなんです。その後、浅草六区は演劇場、映画館、歓楽街として発展していきます。


9.浅草寺の寺舞(じまい)


マナブ:ところで、江戸の下町と言えば何度も大火にあっています。そして関東大震災。東京大空襲。浅草寺もそのたびに焼失してしまったのでしょうか?


歴史先生:いえ、それがですね、徳川家光が1649年に再建をして以来、なぜかここだけは燃えなかったんです。火災が近づくと雨が降ったり風向きが変わったりして浅草寺の観音堂(本堂)は奇跡的に守られていたんです。


マナブ:関東大震災で仲見世は倒壊したということでしたが。


歴史先生:浅草寺の建物は震災にも耐えました。


マナブ:でも今の建物は違いますよね?


歴史先生:はい。とても残念なことに、その後の東京大空襲だけは逃れることができませんでした。堂宇をことごとく焼失。ご本尊だけはその時地中3mに埋められていて、難を逃れたそうです。そして戦後、人々の復興の願いを託して、金龍の舞、福聚宝の舞、白鷺の舞などが奉納されるようになりました。


マナブ:それにしても、東京大空襲で失ったものは大きすぎる・・・。


巨大な宝蔵門を再建・寄進したのは誰?


宝蔵門



浅草寺(地図 ❸)

〒111-0032 東京都台東区浅草2丁目3−1

入場無料

6:00~17:00(4月~9月)、6:30~17:00(10月~3月)、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.senso-ji.jp/ 


マナブ:仲見世を抜けると宝蔵門です。堂々たる、立派な門です。


歴史先生:さっきの雷門とは違って、今度こそ仁王像です。


宝蔵門の仁王像


歴史先生:この門は元々は平公雅が建てた仁王門。徳川家光が1649年に再建したものがありましたが、これを空襲で失いました。


マナブ:上の階も広そうですね。


歴史先生:江戸時代には年に数回、上に登れる日があって、参拝者はそこからの眺望を楽しんだんだそうです。現在、ここには国指定重要文化財の「元版一切経(げんぱんいっさいきょう)」などの宝物が収められていて、そのため宝蔵門、と呼ばれています。


マナブ:お経、ですか?


歴史先生:元版一切経とは中国の元で印刷された一切経の経典で、浅草寺には5,428帖が残っています。これは世界で残っているものの中で最大級。しかも良好な保存状態だそうです。


マナブ:「元版」というのはそういう意味でしたか。


歴史先生:もともとは鶴岡八幡宮にあったものですが、明治の廃仏毀釈で捨てられようとしていたところを、貞運尼という人が買い取り、浅草寺に寄進したんです。これまであまり調査が進んでいなかったので、実は重要文化財以上の大変な価値のあるものではないかと期待されています。


宝蔵門と五重塔


歴史先生:さて、この宝蔵門ですが、空襲で失われたのち、1964年(昭和39年)に再建されました。


マナブ:大きい建物ですから、再建はお金がかかったでしょうね。


歴史先生:再建・寄進したのは大谷米太郎夫妻。


マナブ:その人は確かホテルニューオータニの。


歴史先生:そうです、そうです。元は富山の貧しい農家の出で、東京に来て相撲の力士などをした後、事業で大成功。大谷重工業の社長で、ホテル業にも進出しました。


マナブ:素晴らしいものを後世に残してくれましたね。それにしても宝蔵門・五重塔は絵になります。たくさんの人がここで写真を撮っていますね。


歴史先生:五重塔は1973年(昭和48年)の再建。平公雅の時代には本堂の左右に三重塔が2つ建立されていたようです。その後の家光の再建では本堂の東に五重塔、西に三重塔が建てられました。


マナブ:塔は2つあったんですか。


歴史先生:そうなんです。江戸には他にも五重塔があって、「江戸四塔」と言われていました。浅草寺、寛永寺、増上寺、そして谷中の天王寺の五重塔が江戸のランドマークだったんです。


宝蔵門には「小舟町」と書かれた提灯が吊り下げられている


マナブ:ところで先ほどの雷門には「雷門」と書かれた提灯が吊り下げられていましたが、この宝蔵門では「小舟町」というのが下がっていますね。


歴史先生:これには歴史があって、江戸時代の初期、1659年ごろに日本橋小舟町の鮮魚・鰹節の商人たちが初代の提灯を奉納して以来、300数十年ずっと続いている伝統なんです。


マナブ:それは古い。


歴史先生:江戸の町人の粋と心意気をよく表していますね。


浅草寺の中心に鎮座して絶対秘仏を守っている巨大な本堂


本堂(観音堂)



マナブ:宝蔵門をくぐると正面にドーンと本堂が見えます。


歴史先生:本堂にはご本尊の観音像がありますから、観音堂とも呼ばれます。


マナブ:どれくらいの大きさなんでしょう? 東京ではたしか増上寺が最大級だということでしたが。


歴史先生:浅草寺本堂は間口34.5m、奥行き32.7m、高さ29.4m、です。東京で最大級と言われる増上寺の大殿は間口48m、奥行き45m、高さ23mですから、高さでは浅草寺が少し高いですが、床面積では増上寺の方が大きいようです。


マナブ:なるほど。


歴史先生:この本堂(観音堂)ですが、ご本尊を安置するお堂として、当初土師中知が自宅を寺に改造したものから始まっています。その後、何度となく焼失、再建を繰り返してきましたが、徳川家光の再建した観音堂が長く残り、人々から親しまれてきました。しかしそれは1945年(昭和20年)の東京大空襲で失われます。


マナブ:残念過ぎる。で、今の建物はいつ再建されたんでしょう?


歴史先生:1958年(昭和33年)になってようやく再建されました。全国から浄財が集まったそうです。耐震性・耐火性を強化した鉄筋コンクリート造で、さらに安全のため2010年(平成22年)には軽量のチタン瓦に葺き替えられました。


本堂(観音堂)


マナブ:さっきは「小舟町」でしたが、ここは何て書いてあるんだろう? なんとか橋・・・。


歴史先生:「志ん橋」、と書いてあります。これは新橋の料亭・茶屋組合が奉納したもので、1958年の本堂の再建以来、続いているものです。では中に入って見ましょう。ここからは写真NGです。


マナブ:天井絵がみごと。


歴史先生:10mという高い天井に龍之図、天人之図、散華之図などが描かれています。さて、一般参拝の所から内陣の中まではよく見えませんが、ご本尊の代わりとなっている「御前立ご本尊」や、家康・家光の護持仏であった観音像などが納められています。


空襲で残った貴重な建物群と、三社祭で有名な浅草神社


二天門(国指定重要文化財)



歴史先生:先ほどから浅草寺の古い建物はほぼすべて空襲で失われたとお話してきましたが、家光の時代に再建された建物もいくつか残っています。


マナブ:お、それはいいですね。


歴史先生:まずは本堂から見て右(東)へ行ってみましょう。 本堂東側にある「二天門」(国指定重要文化財)。浅草寺の東門であり江戸時代は「随神門」と呼ばれていました。しかし明治の神仏分離によって、そこに祀られていた2体の随神像は浅草神社に移され、代わりに寛永寺にあった持国天・増長天の像が納められました。


マナブ:それで門の名前も二天門、に変わった。


歴史先生:はい、そのとおりです。


二天門の持国天像


浅草神社


浅草神社

〒111-0032 東京都台東区浅草2丁目3−1

境内自由

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://asakusajinja.jp/ 


歴史先生:二天門のすぐそばには浅草神社があります。


マナブ:すこしややこしいのですが、浅草寺と浅草神社がある?


歴史先生:はい。浅草寺を開いた土師中知という人と、仏像を引き上げた兄弟がいましたよね?


マナブ:はい。


歴史先生:創建の時代ははっきりしませんが、平安から鎌倉にかけて、その子孫が先祖の功績をたたえてその3名を祭神として祀ったのが浅草神社です。


マナブ:へぇー、わりと一般の人が祭神になったという意味で面白いですね。昔、中国の西安に行ったとき、兵馬俑を発見した農夫の方がそこに座っていて、その人が大変な英雄として扱われていて、一緒に写真を撮れるというのがありました。そんな感じかな?


歴史先生:ちょっと似ているような、似ていないような(苦笑)。浅草神社は浅草の総鎮守として、三社様と親しまれています。


マナブ:それって「三社祭」の?


歴史先生:はい、そうです。毎年5月に行われる三社祭は浅草神社のお祭りです。100数十万人が訪れるという、大変な活気あるお祭りです。


三社祭の時はすごい人出になる


マナブ:ずいぶん前に見に行きました。すごい人出でしたね、ところで、ここの建物も古いんですか?


歴史先生:はい、浅草神社の社殿は家光が再建したもの。これも国指定重要文化財になっています。


マナブ:よく残りましたね。ありがたい。


東京都内最古と言われる石橋


歴史先生:さて次は本堂から見て左側、西へ行ってみましょう。まずはこちらの石橋。かつて浅草寺の境内には家康を祀った東照宮があったのですが、その東照宮の神橋として築かれたのがこの橋です。現存する都内最古の橋、と言われています。


薬師堂


歴史先生:こちらは薬師堂。これも家光が再建したものです。


六角堂


歴史先生:こちらは六角堂。1618年建立と言われ、家光の再建よりもさらに古い時代の建物です。


淡島堂


歴史先生:こちらは淡島堂(あわしまどう)。江戸時代の元禄年間(1688~1704年)に紀伊の国加太の淡島明神から勧請して建てられたもの。空襲の後、本堂が失われてご本尊を安置する建物がなくなった時、今の本堂の位置に「仮本堂」として移されて、本堂が再建されるまでの間ご本尊を安置していた建物です。


マナブ:なるほど。地味ながら、よく見ていくと古いものも残っているんですね。


浅草寺の西側のエリア:かつての奥山の賑わいを感じて歩こう


浅草花やしきの夕景



浅草花やしき

〒111-0032 東京都台東区浅草2丁目28−1

季節により営業時間や定休日が異なるので「営業カレンダー」を参照ください

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.hanayashiki.net/ 


マナブ:浅草寺から西側へ出てきました。すぐに見えてくるのが「浅草花やしき」。


歴史先生:ここは日本最古の遊園地。


マナブ:いつからあるんですか?


歴史先生:いつだと思います?


マナブ:まさか家光が作ったわけないので(笑)、昭和の初めかなぁ、いや、大正時代?


歴史先生:実は江戸時代です。


マナブ:えーっ!


歴史先生:といっても幕末ですが、1853年のこと。造園師の森田六三郎という人が、ボタンや菊を見せる「花屋敷」を開園しました。その後、1872年(明治5年)ごろから遊戯施設、珍獣などが加わります。


マナブ:1853年ってたしか、ペリーの黒船来航の年。江戸幕府が大騒ぎになっている時にのんきな人もいたもんですね。


歴史先生:その後震災、空襲で大変な被害を受けますがそのたびに再建。1953年(昭和28年)には現存する日本最古のジェットコースターが開業。今ではレトロな遊園地として人気です。


西参道


歴史先生:さて、花やしきに寄り道しましたが、浅草寺を西側に出ると正面にまっすぐ続くのが西参道。1954年(昭和29年)に整備されました。「お祭り商店街」として浅草寺と浅草六区を結ぶ楽しい商店街になっています。


浅草西参道商店街

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.asakusaomatsuri.com/ 


浅草六区ブロードウェイ



マナブ:六区ブロードウェイと呼ばれる広い通りに来ました。


歴史先生:ここにはかつて瓢箪池がありました。


マナブ:池?


歴史先生:このあたりは奥山の中心地。大きな池を作り、中の島を作って憩いの場とすると同時に、その掘り起こした土で六区のあたりを造成し、見世物小屋などを移転させました。夜は興行街の灯りが水面に映ってきれいだったそうです。


マナブ:雰囲気あったんでしょうね。今ではここに池があったなんて想像できません。


演劇場が集まっていた浅草六区


歴史先生:そしてさらにここには凌雲閣(浅草十二階)がそびえていたんです。


マナブ:あ、それ聞いたことがあります。


浅草凌雲閣 記念碑


歴史先生:1890年(明治23年)に建てられたもので、当時日本で一番高い建物でした。12階建て。高さ52m。日本で初めての電動エレベーターが設置され、展望フロアからは関東一円が見渡せたそうです。


マナブ:すごい建物だったんですね。世界的に見るとどうだったんでしょう?


歴史先生:世界ではパリのエッフェル塔が1889年にできています。高さは300m。


マナブ:えっ! それはすごい。そのころ日本はまだまだ世界に後れを取っていましたね。


歴史先生:この凌雲閣ですが、徐々に客足が遠のきます。付近は治安が悪くなり、下の階は娼婦たちの巣になりました。そんな中、1932年(大正12年)に発生した関東大震災では建物が真っ二つに折れて上半分が崩落。その後爆破処理され、取り壊されました。


本願寺はなぜ東西に分かれたのか:東本願寺


東門から見た東本願寺



東本願寺(地図 ❹)

〒111-0035 東京都台東区西浅草1丁目5−5

7:00~16:00、無休

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.honganji.or.jp/ 


マナブ:浅草六区からさらに西へ行くと、東本願寺があります。これは京都の東本願寺の東京別院、ですね?


歴史先生:ちょっとそのあたりは複雑でして、以前はそうだったんですが、今は違うんです。


マナブ:というと?


歴史先生:京都の東本願寺は「真宗大谷派」で、東京の東本願寺はその別院だったのですが、1981年(昭和56年)に大谷派から独立して、「浄土真宗東本願寺派」をあらたに作り、ここがその本山となりました。


マナブ:何があったんですか?


歴史先生:「お東騒動」などとも言われている一連の混乱なのですが、法主を中心に伝統的権威を執行すべきという保守派と、もっと民主的な運営を目指す改革派が争い、保守派は東京別院を中心として大谷派から独立。新しい宗教法人を立ち上げました。


マナブ:なるほど、巨大な教団なだけに、内部でいろいろな政治的な争いがあるんですね。


東本願寺 本堂


歴史先生:ところで、もう少し古い時代の歴史を見てみましょう。教如上人をご存じですか?


マナブ:いえ、知りません。


歴史先生:では顕如上人は?


マナブ:あ、たしか石山本願寺で信長と対抗した人。


歴史先生:その通り。教如上人は顕如上人の子で、石山本願寺では父と一緒に信長と対抗しました。その後、顕如上人は信長と和睦。紀伊国に下がって隠遁生活を送ります。そのあとの本願寺を継いだのが教如上人。


マナブ:その時代の浄土真宗のトップですね。


歴史先生:はい。真宗の第12代の法主です。しかし今度は秀吉の世になり、秀吉からの圧力によって法主の座を弟に譲り、自身は本願寺(今の西本願寺)の北の御堂にて隠遁生活を送ることになりました。


マナブ:でもそれで終わらなかった。


歴史先生:そのとおりで、隠遁生活と見せかけて、水面下でさまざまな活動を続けていました。そうこうしているうちに今度は秀吉が死んで、家康と三成の対立が激化します。そんな中、三成の秘密情報を持って教如上人は江戸へ行き、家康に取り入ります。その貢献があって、家康の支援を受けて1602年、京都に教如上人のための寺、東本願寺を開山しました。


マナブ:それが現代まで続く西本願寺と東本願寺の分裂になったのですね。


歴史先生:そうなんです。一方で家康としては、力のある浄土真宗を東西に分けて対立させ、その力を半減させて削ぐという意味があったのだろうと思われます。


マナブ:なるほど。家康らしい見事な戦略だ。


歴史先生:話を東京の東本願寺に戻しましょう。年代ははっきりしないのですが1591年または1603年に教如上人が江戸の神田に光瑞寺を開山します。1614年にはそこが東本願寺の江戸における別院となりました。ちなみに西本願寺が東日本橋に別院を開いたのは少し遅れて1621年です。


マナブ:最初は神田にあったんですね。


歴史先生:しかし1657年の明暦の大火で町は焼け野原になりました。そのとき代わりの土地として幕府から示されたのが「浅草」または「築地」でした。東本願寺は「浅草」を選び、西本願寺は「築地」を選びました。それらが今に続く東京東本願寺と築地本願寺です。


マナブ:そういう流れでしたか。よくわかりました。


歴史先生:その後関東大震災で倒壊はしなかったものの、火災に巻き込まれて焼失。1936年(昭和11年)に鉄筋コンクリート造にてようやく再建されますが、今後は1945年(昭和20年)の東京大空襲で外壁を残して焼失。さまざまな災害を乗り越えて今日に至っています。


飲食に特化した道具屋街「かっぱ橋」はなぜできた?


かっぱ橋 道具街の南の入口にある街のシンボル


かっぱ橋道具街

(※最新の情報はWebサイト等でご確認ください。)

https://www.kappabashi.or.jp/ 


マナブ:東本願寺のすぐ西を南北に貫く、かっぱ橋道具街に来ました。


歴史先生:ここは南北800mほどの区間に170軒の店があって、その多くが飲食に関係する道具を扱っています。日本一の道具街と言ってもいいでしょう。


かっぱ橋道具街


マナブ:東京ではこういった問屋街というのがいくつかありますね。


歴史先生:おもちゃや人形の蔵前、衣類の馬喰町などが有名ですね。ここかっぱ橋の場所には以前は新堀川が流れていて、上野と浅草を結ぶ水運の要所でした。そこに古物商が集まり始めたのがきっかけ。


マナブ:でもなぜ飲食の道具に特化したんでしょう?


歴史先生:関東大震災、そして東京大空襲を経て、それらの復興のために多くの問屋がここに集まりましたが、中でも飲食道具の問屋が多かったようです。


マナブ:外国人の姿が目立ちますね。


歴史先生:最近は掘り出しものをここで探したり、自分の調理道具を買ったり、あるいは食品サンプル製作体験などの人も多いようです。


マナブ:なるほど。それから問屋さんというとプロ向けな気がしますが、この通りは個人向けに小売りしてくれるので入りやすいですね。


歴史先生:そうですね、それがかっぱ橋の1つの特徴になっているようです。


マナブ:このあと、いくつかお店を見ていきましょう。


歴史先生:さて、今日は浅草を歩きました。いかがでしたか?


マナブ:いやー、面白かった。今まで何度も来ている場所ですが、歴史のことを考えたのは今日が初めてです。何と飛鳥時代から続いているんですか? 比較的新しいものが多い東京の中では唯一無二の存在ですね。浅草に対する見方が今日でがらりと変わりました。


​歴史好きのための観光ガイド
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